SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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ヨッフェの2種のスケルツォ

2009年11月24日 23時30分00秒 | ピアノ関連
★2つのスケルツォ、マズルカ、夜想曲集
                  (演奏:ディーナ・ヨッフェ)
1.夜想曲第4番ヘ長調 作品15-1
2.スケルツォ第1番ロ短調 作品20
3.夜想曲第15番へ短調 作品55-1
4.マズルカ第46番ハ長調 作品67-3
5.マズルカ第13番イ短調 作品17-4
6.マズルカ第44番ト長調 作品67-1
7.夜想曲第6番ト短調 作品15-3
8.ポロネーズ第2番変ホ短調 作品26-2
9.マズルカ第47番イ短調 作品67-4
10.マズルカ第45番ト短調 作品67-2
11.マズルカ第5番変ロ長調 作品7-1
12.夜想曲第5番嬰ヘ長調 作品15-2
13.夜想曲第18番ホ長調 作品62-2
14.スケルツォ第4番ホ長調 作品54
                  (2008年8月録音)

ディーナ・ヨッフェ・・・。
これまで昔々に発表されたショパンのワルツ集のCDを1枚手にしていただけのピアニスト。
印象としてはまったく奇を衒ったところのない素直な演奏で・・・そうであればこそ・・・まったくそれ以上には私の記憶に刻まれていないという感じだった。

詳しくは知るよしもないが、1975年のショパンコンクールでかのクリスティアン・ツィメルマンがいなければ間違いなく優勝していたといわれているとの記事をどこかで読んだことがあるような気がする。
そこではツィメルマンはまだまだ若く、歌心に溢れてはいるもののポーランドの聴衆の圧倒的な声援を味方につけた優勝のように評されていたものだった。。。
要するに“あの時点”での実力だったら、このヨッフェが優勝すべきだったという論旨だったのである。

今をときめく稀代のカリスマピアニストの筆頭と目されるツィメルマンだから、そのときのショパンコンクールの審査員の先見性、見る目は確かだと称賛されてよいのかもしれないが、コンクールのカウンターパートにしてみれば「将来性」なんてものを織り込んで評価されてしまってはたまったものではあるまい。

マラソンで5位だった選手が、それよりも上位の選手よりも将来いい記録を出すだろうから優勝とか、フィギュアスケートでいつか5回転を跳べる器だから優勝なんてことはありえない。

現在の進境や活躍ぶりを知りツィメルマンの優勝は至当であると思いつつも、そんな記事を目にしたときの違和感は今でも覚えていたりする。

そこでヨッフェが言っていたと記憶していることばも振るっていて、ツィメルマンがいまや素晴らしいピアニストに成長しているからまったく文句がない・・・ようなセリフだったと思うのだが、これはなかなか言えるものではないと思った。

長々と記憶に基づいて書いてみたのだが、ここでの演奏振りを聴くにつけて2つのことを思ったから・・・である。

ひとつにはヨッフェは、言葉通りまったく素直にそう思っていたのだろうなということ。
先のワルツ集でも思ったことだが、演奏の巧拙なんてものは彼女あたりのレベルに達すればそれほど大した問題ではなくて、むしろいかにその演奏の世界の中に一体化して充足できているのかが唯一気にかけていることなのではないだろうか?
何の奇を衒わなくとも、どうしたら楽しめ満足できるのか?

この人間味が持ち味の彼女であればこそ、神がかり的な何かを持ち合わせたツィメルマンと鉢合わせたのは、ある意味アンラッキーだったのかもしれない。


いまひとつは、そんなヨッフェのようなピアニストでもショパンの時代のピアノを弾くと、かなりやりたいことを自由に表現すると思ったし、そうしないとこのピアノによる演奏はおもしろくない・・・そして果たしてヨッフェの奏でるこのショパンの味わい深いことといったら想定外だったということ。

おとなしいように思われている彼女のバックグラウンドにも、夥しい演奏経験に裏打ちされた引き出しが無尽蔵にあってどのように弾いたら、どのように聴かせたらもっとも効果的なのか、浸りきれるのかを、ご自身でも味わいつくしながら弾き進めている光景が思い浮かび、こちらまで引き込まれてしまう。。。
彼女の演奏からはこれまで感じなかったことだし、スケルツォ第1番の鬼気迫る迫力などは爽快ですらあった。

録音も秀逸なこのシリーズにあって、低音が効果的に感じられることも味わいにひとつアクセントを加えている・・・。

まこと、このシリーズにはハズレがないと改めて思った次第。

現代ピアノだと響をセーブしてコントロールしなければという意識が感じられるところを、この時代のピアノの場合、能動的にやりたいことはこうだという感じで弾き進めないと聴けたものじゃなくなるからかもしれない。

オレイニチェクのピアノ・ソナタ第2番、ポロネーズ集の2作など意識的にフレーズを作っている気もするけれど、先の理由によるものなのか、ぜんぜん趣味悪く聞こえないし、カ・リン・コリーン・リー嬢による幻想曲へ短調、幻想ポロネーズなども何度聴いてもおもしろい。
タチアナ・シェバノワによる舟歌は、フォルテ・ピアノの演奏では勿論、数ある現代ピアノによる演奏の中にあっても指折りの演奏に数えられると思う。

そういえば以前の記事で、ケヴィン・ケナーの演奏が楽しみだと書いた。
もちろんケナーの演奏もよかったのだが、それ以外にも聴き所満載のシリーズだと思う。

どこまでこのシリーズが続くのかわからないが、注目していきたいと思わずにはいられない。


★ショパン:4つのスケルツォ&シューマン:ピアノ・ソナタ第1番
                  (演奏:ディーナ・ヨッフェ)

1.ショパン:4つのスケルツォ
2.シューマン:ピアノ・ソナタ第1番嬰へ短調 作品11
                  (2008年11月録音)

今月の記事を書くに当たり、実はNIFCによるこのシリーズのどれを題材にしてもいいと思っていた・・・もっと言えばSuperflyの“ボックス・エモーションズ”にしようかとも思ったのだが・・・ヨッフェのそれを採り上げたのは、実は2曲スケルツォの演奏がダブっているこの盤と併せて聴いたからである。
それも8月にフォルテピアノで演奏し、11月に現代ピアノでの演奏をしているという・・・
こんな聞き比べはなかなかできるものではないと思う。

(ジャン=イヴ・ティボーデが一枚のアルバムの中で同じ曲を現代ピアノとフォルテピアノで演奏していたケースなどもあるけれど・・・)


ここでのヨッフェはかねてからの印象どおりの、それでいてやはり私の記憶するところからははるかに進化もし、こなれた演奏を聞かせてくれていると思った。

スケルツォ第1番の冒頭の不協和音の抜け方ひとつとっても、ただものではないと思わせられるし、その後極めて流麗かつ立体的に展開されていく演奏も、奇を衒ったものではないけれどそれでいて退屈に陥ることはない、確かに音色もフレージングもピアノが暴れすぎないようにコントロールされているけれど、だから表現の幅が狭まっているとはあまり感じない・・・というもの。

この行きかたを選択したピアニストで、ヨッフェの境地まで達している人はたしかに見当たらないように思う。

でも・・・
フォルテピアノの演奏の方が、今の私にはどうしても魅力的だと感じられちゃうんだよな。。。


160年あまり前に・・・
ショパンは確かにこの音をイメージしながら作曲していたんだろうから、その意味では楽譜に合った楽器による演奏というわけだ。
当たり前といえば当たり前のような気もするが・・・はてさて。(^^;)