SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

ショパンを素朴に、地に足が付いたように演奏すると・・・

2009年09月13日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★プレイエル・ピアノで弾くショパン2 ~四つのバラード・四つの夜想曲・・・
                  (演奏:アルテュール・スホーンデルヴルド)
1.前奏曲第25番 嬰ハ短調 作品45
2.バラード第1番 ト短調 作品23
3.夜想曲第3番 ロ長調 作品9-3
4.バラード第3番 変イ長調 作品47
5.夜想曲第1番 変ロ長調 作品9-1
6.バラード第2番 ヘ長調 作品38
7.夜想曲第2番 変ホ長調 作品9-2
8.バラード第4番 ヘ短調 作品52
9.夜想曲 嬰ハ短調 (遺作)
                  (2008年録音)

ショパン生誕200年は来年のはずなのに・・・
メンデルスゾーンのそれよりも、既に瞠目すべき新譜事情はショパンの方がはるかに勝っているように思えるのは私だけであろうか?
ショパンの新譜が夥しくリリースされることは、なにも特別な年に限ったことではないから、別にそのことをどうこう言う必要はないのかもしれないが・・・それにしてもいろいろ出てくるなぁ~。


このアルトゥール・スポーデンヴルトによるバラード集もそのひとつなのだろうか?
数年前にショパンの音楽のダンス・ミュージック的側面に着目したコンセプトによる、他に類例を見ない興味深いディスクをリリースしていた。
選曲も独特なら、演奏・・・特に、リズムのつかみ方がダンスを意識しているというだけあって本当に独特だったことを覚えている。
街中のショップでこのディスクを不意に見つけたときに、思わず思い返されててしまうほどのインパクトだったのだが、正直に言えば、この第2集がバラード集でなければ購入しなかっただろう。

そしてこのバラード・ノクターン集でも唯一無二のテイストを楽しむことができた。(^^;)


ところで・・・
店頭にてこのジャケットをパッと見た瞬間に“あの絵だ”と閃いたものだ。
民衆を率いる自由の女神・・・ドラクロアの代表作の一部。。。
平野啓一郎さんが長編「葬送」で精彩に描き出しているとおり、ショパンとドラクロアは親交があった、要するに、同じ時代、サロンなどで同じ空気を吸っていた芸術家による作品だと知れば、誠にジャケットを飾るに相応しい作品ではないか?

しかし、こと私に関しては・・・この作品はいけない。
笑っちゃうのだ。

ピンクリボンのポスターで、この鉄砲を持った男性は“自由の女神”とこんな会話をしている。
女神)ちょっと私、乳がん検診に行ってくる!
男性)い、いまですか?

このノリは私がまったく愛する類のものである、が、そうであるがゆえにこのような芸術性を問われる作品のジャケットにあると、笑っちゃっていけない。。。
ご丁寧に、この絵の全体はインナージャケットに美麗に収められている。

いつものことだが、アルファ・レーベルの丁寧な装丁作りにはいつも敬意を評さずにはいられない。
パッケージも含めてCDは作品なのだ・・・
デジパックの装丁よりケースのほうが取り回しもいいので好きなのだが、ここまでの手の込みようであれば嗜好品らしくてよいと納得もできる。

それだけに、この紳士の顔を見た刹那に「い、いまですか?」という言葉が脳裏を駆け巡ってしまうのは残念だ・・・。
製作者側の責任はまったくないわけだが。。。

しかし・・・
この絵のみならず、レンブラントなどの作品にも豊胸の女性が忠実に描かれている場合に、乳がんが疑われるケースがあるらしい。
何もそこまでキチンと描くことないのに・・・
とも思うのだが、なぜ女性のバストにしこりがあるのかが判っていなかったのだろうか?

しかし、件のポスターは傑作である。


装丁に同時代人の絵画作品を使っているのと同じく、ここでピアニストが使用しているピアノも1836年のプレイエルと同時代のもの。
今の時代のファツィオーリ、ベーゼンドルファー、スタインウェイ・・・がそれぞれ独自の音を奏でるように、当時のフォルテピアノもメーカーによる音色の特徴はもちろん、個々の楽器の音色の特徴もそれぞれに独自のものがあっただろう。
今回のピアノにせよ、これまた丁寧な録音で生々しい音を聴かせてくれる・・・きっと当時も同じ音色で響いていたことだろう。


しかし・・・
この盤のリサイタル盤のプログラム立てを見ても痛切に感じることがある。
バラードなどの4曲セットで遺されている曲間にノクターンなどの別の曲主を挟む構成・・・は、いまや流行となった感がある、というのがそれだ。

ゲルネルのショパン協会によるバラード盤がそうであった、先だって紹介したレオンスカヤの盤もスケルツォを挟んで・・・という構成。
ショパン協会といえばケヴィン・ケナーによる即興曲集も間に各種作品を挟んでいるという点では似たようなものといえるだろうか?

バラードとスケルツォを全曲アンソロジーで順番どおりそろえたものには比較的お目にかかるのだが、思えば、スティーヴン・ハフがこれらを交互に配してディスクを発表したのが、プログラムへの工夫の始まりだったろうか?
いずれにせよ好ましい効果が認められることは疑いないし、ここにも奏者のこだわりというかセンスが垣間見れることは楽しい。

ともあれここにはバラード4曲と、夜想曲作品9の3曲が独自の工夫を凝らした並び順で披露されているのである。



肝心の演奏だが、これまた非常に濃い演奏、灰汁の強い演奏だといって良いのかもしれない。
個人的に同じフォルテピアノであれば、ゲルネルの演奏を採るけれど・・・これはこれでとても興味深く聴くことができる。

奏者じゃないんで詳しいことはわからないし、正しくないかもしれないが、フォルテピアノは鍵盤に指を叩きつける弾き方をすることも表現の一種として有効に機能する・・・のではないか?
現代ピアノだと腕や肘、もちろん指などの使い方で脱力して弾かないとスコーンと抜けたクリアな音は望めないと聴くのだが、フォルテピアノなので歪に混ざった音でもそれを音楽的な音だと聴かせることができるというメリットがあるように思えてならない。
スタインウェイだったら、音響が濁っちゃって聞き苦しくなるだろうなという表現が、意図的になされているような気もする。

そして、演奏のバスの音を強調するのは舞曲ではないバラード・ノクターンにおいても同じであった。
確かにこれにより曲のリズム、流れは担保されるし、ところによってはビリー・ジョエルの曲ごとき伴奏のリズムパターンがあることも発見できたりした。

ショパンの生きた時代は、ドラクロアの絵に象徴されるように民主化・自由化の真っ只中だったのだろうか・・・
先に述べた激しい打鍵がそれを感じさせ、さらに独特のリズム感覚に乗って思わず引き込まれる思いがする。
そして強調されたバスの音は決して重くないのだが、全力でジャンプするべく踏み切るのだが脚が地面から何故か離れない・・・そんなイメージの演奏でもある。
地に足が付いているといえば、まさにそのとおりなのだが・・・。
そういえば・・・素朴・・・という言葉が思い浮かぶ。
現代基準の洗練度からすれば田舎っぽいのかもしれないが、だからこその聞き甲斐もあろうというもの。。。
先だってのピリスによる後期作品集もそうだったが、大地に根ざした境地のショパンも昨今の流行なのかもしれない。

ただ、いささか異形のショパンである故にハマったらたまらないだろうけれど、素直に聴こうと思った場合には、もっと他にも採るべき演奏があるのだろうと思う。

私はたまに聴くのであれば、こんなショパンもあってよいと感じた。


フォルテピアノのショパン・・・
エラート・レーベルが健在なころにアレクセイ・リュピモフがバラード集をこしらえていたはずである。
あのとき何故入手しなかったのか・・・?
いま、ゲルネルやスホーデンヴルトの奏楽と並べて聞けたなら・・・と思うと残念でならない。