SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

ここはオアシスだから

2007年10月22日 03時16分29秒 | ROCK・POPS
★オアシス
                  (演奏:ロバータ・フラック)
1.オアシス
2.オール・コウト・アップ
3.ルック・アウト
4.ショック・トゥ・マイ・システム
5.フー・ユー・ブロウト・ミ・ラヴ
6.サムシング・マジック
7.アンド・ソー・イット・ゴーズ
8.ユー・ノウ・ホワット・イッツ・ライク
9.アンド・ソー・イット・ゴーズ(リプライズ)
10.マイ・サムワン・トゥ・ラヴ
11.ブラジル
                  (1988年)

昨年の10月23日にこのブログを開始しました。
思うところあって、1年(ホントは一定期間ということで時期を1年と決めたのは半年ぐらい前であります)は絶対継続するという誓いを立てて、アヤシイところはあるもののなんとかかんとかその日付の記事は書き込み続けることができました。

もちろんこのブログはやめませんよ。(^^;)

でも、毎日投稿するのは流石にしんどいものがあります。
メインステージの仕事が忙しくなったとかそういうことでもないんですが、アウトプットすることは結構この一年で書き込んだんじゃないかなという充足感はかなりあります。

インプットするための時間もほしいし、記事のためのディスクの視聴というのもなかったわけではないし・・・本当は、全部の所有ディスクにリスペクトの意味を込めて記事をつけようと想っていた時期もあるのですが、とてもそれは難しいなということで折り合いをつけることにしたしだいです。

今後はトピックがあったり、本当にこれはと思うディスクがあったときに記事を書いていきたいと思います。

もちろん、書きたいと想うディスクはまだまだいっぱい手許にありますが・・・これは書くべき内容をしっかり吟味して納得できる記事にしてから提示していきたい・・・そんな風に思っています。


ことしの正月には「きりぎりす宣言」で行くという誓願を立てたのですが、概ね実現されています。
唯一このブログの運営だけは「ギリギリす状態」でありましたが・・・。(^^;)

あと、何が変わったかというと体重が15キロ近く落とせていることでしょうか。
私個人としては、過去1年の記事が残ったことでしょうかね。
このとき、何があって、どのように感じていたのかはよく判ります。日記をつけてらっしゃるみなさんは、この感覚をずっと持ち続けてらっしゃるんだということがよくわかりました。

過去の自分の垂れ流し状態から、とりあえず網にかけてすくいあげて後から見ることができるようになっていることは、かくも違うことであるというのは大発見でしたね。

それと、本を読むようになったかな。(^^;)

本当に充実した1年だったと振り返ることが出来ます。勝手に始めたといいながら、やはりアクセスいただいている皆さんの存在が励みになっていて、続けさせていただいていたという側面はおおいにあります。

改めて御礼申し上げます。

ありがとうございました。(^^)/

今日から比較的長期の出張なので、しばらくここでクールダウンしたいと思います。
次回からといっても、新装もなにもしませんし、字数制限を基本的に2000字以上という制約もかけてきたんですが、これも取っ払って好きなように書き綴って生きたいと想いますので、よければまたお越しくださいね。(^^;)


ロバータ・フラックのアルバムを選んだのは、もちろん『オアシス』という単語を意識してというだけの意味合いです。

大歌手でありながら、とても伸びやかな歌声でありながら、どことなく硬く初々しさが漂う彼女のフィーリングを2年目のこのバックステージの運営にも取り入れていきたいと思います。

でもしばらくは書けませんのであしからず・・・。


★ピュア・シューア
                  (演奏:ダイアン・シューア)

1.ノウバディ・ダズ・ミー
2.オール・コート・アップ・イン・ラヴ
3.ディード・アイ・ドゥ
4.縁は異なもの
5.タッチ
6.ベイビー・ユー・ゴット・ホワット・イット・テイクス
7.アンフォゲッタブル
8.アイ・クッド・ゲット・ユースト・トゥ・ディス
9.ユー・ドント・リメンバー・ミー
10.ホールド・アウト
11.ウィ・キャン・オンリー・トライ
                  (1990年)

さて、素晴らしい歌唱力を誇るダイアン・シューアのこのアルバムもあわせてご紹介します。
理由は、収録曲の“オール・コート・アップ・イン・ラヴ”(邦題は違いますが双方とも2曲目に収められています)が共通で、そのききくらべが興味深いからです。

ともすれば歌唱力の豊かな人はそれをひけらかすような歌い方に堕することがあるところ、シューアはすごいと思わせながら誠実さがあるのでそのような危惧はありません。

いまほど久しぶりに堪能して、とてもリラックスした楽しみを味わいました。

やはりここは私にとってのオアシスなのです。(^^)v

この人は別格(^^;)

2007年10月21日 20時16分57秒 | ROCK・POPS
★GREATEST HITS LIVE
                  (演奏:ボズ・スキャッグス)
1.ロウダウン
2.スロー・ダンサー
3.ハート・オブ・マイン
4.イット・オール・ウェント・ダウン・ザ・トレイン
5.ハーバー・ライツ(街の灯)
6.ジョジョ
7.アスク・ミー・バウト・ナッシン・バット・ザ・ブルース
8.ブレイクダウン・デッド・アヘッド
9.燃えつきて
10.アイ・ジャスト・ゴー
11.ジョージア
12.ミス・サン
13.リド・シャッフル
14.ランニン・ブルー
15.ローン・ミー・ア・ダイム
16.ウィアー・オール・アローン(二人だけ)
《ボーナス・トラック》
17.ハーバー・ライツ(街の灯)
                  (2004年録音)

私には結婚式友達がたくさんいます。
正直言ってあまり親しくないのに、結婚式の披露宴だけ呼ばれた輩です。
ボズの一曲といえばもちろん“ウィ・アー・オール・アローン”でしょうが、私は何度もこれをピアノで弾き語りさせていただきました・・・。(^^;)
あんまり披露宴で食べられないし、ましてや出番が終わるまで飲めないし・・・終盤にとって置かれるといやな役回りでしたねぇ~。

もちろん、かみさんを篭絡する目的で演ったこともあります・・・が「効果はいまひとつのようだ」という感じだったかな。
(^^;)


さて、このディスクは私にとっては別格扱いのアーティストであるボズ・スキャッグスによる2004年のショウのライヴ映像が満喫できるDVDです。
どれくらい別格であるかというと、「ピアニストに高橋多佳子さんがいるように、すべてのポピュラー音楽界を代表する存在としてボズ・スキャッグスがいる」というレベルで別格なのです。
このバックステージに何度かおいでいただいている方であれば、これがどれほどの評価であるかはよく判っていただけることと思います。(^^;)

ロケーションはボズの地元サンフランシスコ、演目は35年、13アルバムにわたるキャリアからのハイライトを集大成したというつくりの贅沢きわまりないものであります。

ボズを語る1枚をあげるのであればこれでいいんじゃないかなぁ~。
私にとっては、涙ナミダのディスクですね。
通算のキャリアを一望のものにできることだけでなく、ボズの場合最初はホーボーソングみたいなアーシーな曲から始まって、泣く子も黙る“シルク・ディグリーズ”や“ミドル・マン”というAORの絶頂のアルバムの時期があります。
そういえば、“ミドル・マン”の後にもう一枚デヴィッド・フォスターと組んでアルバム制作する予定だったのが離婚のダメージでパーになって、フォスターが空いたスケジュールでプロデュースしたのがシカゴの“素直になれなくて”の収められた18枚目のアルバムだった・・・なんて話もありましたね。
そりゃ、スティーヴ・ルカサーだって押さえられちゃうわけですよね。(^^;)シカゴはとてもラッキーだったわけです。

そして、長いブランクを置かないと作品を発表しなくなってそのたびに新機軸を出してきているので、いい意味新鮮ですけど、言葉を換えるとベスト盤にした場合に音作りの面で一貫性を保てないんですよね。

だから、“HITS”ではある程度時期が圧縮されているからいいんですが、2枚組のベストの場合には、さすがに「名曲を集めましたっ!(^^)/」っていう感じが否めませんでした。

ましてや、バラード・ベストを自分で入れなおして出した場合には、悪いけどフヌケになっちゃったようにも想われて、残念な想いをしていた挙句に・・・最高の結果が待っておりました。


渋い、渋すぎる存在感に、楽曲ごとにギターを持ち替えてギタリストとしても『味わい深い』プレイを披露してくれています。
また、バックも秀逸で、ウォール・ナットのES-335をメインにプレイしているギタリストさんもツボを心得たプレイで最高ですし、2名のバック・ヴォーカルの女性も雰囲気出しているし・・・。

何よりも全曲統一した雰囲気で進んでいくところがいいですね。(^^)/

私は“スロー・ダンサー”の歌唱にメロメロであります。


ボズは大学、社会人の最初のころに何度もコンサートに行きました。
ポピュラー音楽の外タレでコンサートにいったのは、ボズが4回とネッド・ドヒニーだけですから・・・。
まぁナゴヤ球場でのイベントは、ボズのほかにマイケル・マクドナルドとジョー・ウォルシュが一緒でしたから、ドゥービー・ブラザーズの曲や、イーグルスの曲も聴けちゃいましたけどね。(^^;)

あのころの声は生ライヴということもあって、ずっとキンキン声だったように記憶していますが、このDVDの演奏でも髣髴させるものがあって懐かしい思いをしました。

曲ごとには語りませんが、私の音楽史の中には不動の地位を占めたアーティスト、一生を通じて彼の音楽は私の糧のなっていくでしょう。

今いまの現象だけが・・・

2007年10月20日 15時34分46秒 | ピアノ関連
★ショパン:ピアノ・ソナタ第2番・第3番
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
1.ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35 《葬送行進曲》
2.ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 作品58
                  (1984年録音)

昨晩久しぶりにオンタイムで投稿しようと思って、このディスクの記事を書き送信ボタンを押したら消えた・・・。





ワードで下書き推敲してコピペするといういつもの手順を怠るとこれだ。。。
ショックの余り不貞寝して・・・ショックでなくても寝る時間ではあったが・・・気を取り直してなんとかもう一度打ち込気力を奮い起こしました。

しかし、あの打ち込んだ記事はどこへ消えてしまったのだろう・・・ともういちど言ってみる。(^^;)

まさしく諸行無常ですな。
ならいいけど、徹底的に一部大乗仏教的虚無主義に陥った記事になりそうでやだな。


行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず・・・


さて、このディスクはほぼ新譜としてオンタイムで手に入れました。
当時はまだクラシックを聴き始めたばかりで、それまでに耳にしていたショパンのピアノ・ソナタといえば、変ロ短調ソナタがアルゲリッチとポゴレリチ、ロ短調ソナタがアルゲリッチのみという状況でありました。

1987年版だったかのクラシック・ディスク一覧の特選記事をみて、チェックしていた中にあったこの盤も「聴きたいな」という感じで手に入れたと思うのですが、当代最高のピアニストはアシュケナージとポリーニでそれぞれの持ち味を遺憾なく発揮したディスクを活発に発表している・・・という雰囲気だったと思います。
ちょうどシンディ・ローパー派とマドンナ派に分かれてたように・・・というと語弊がありますでしょうか?(^^;)

そして私のポリーニ初体験は、数ある特選盤の中からシューベルトの後期ピアノ・ソナタ集とこのショパンのピアノ・ソナタ集を選んで手に入れて聴いたのがはじめですね。


ことショパンの変ロ短調ソナタに関して言えば、それまでに聴いていたのが霊感をダダ漏れのように垂れ流すアルゲリッチと、インスピレーションをそのままオトにしたようなポゴレリチだったので、「なんと地味な音楽なんだろう」と感じましたですね。
かっちりまとまっているんだけど、どこが面白い聴かせどころなんだろうかわからない・・・って。(^^;)

そのころはガイドの文献の評が頼りで、アシュケナージは穏健で万人向きの演奏であり、ポリーニはそれに対して硬派の本物志向の聴き手にこそ良さがわかるピアニストというイメージができあがっていました。
当時から第一人者との呼び声高かったふたりでありますが、ご本人同志の関係にかかわらずそれぞれの陣営からすると正と邪、他方の音楽をいいと認めることは踏み絵を踏むことにほかなりませんでしたね。

それこそこれまでの経験を経て、私は今なら両方いいとはっきり言えるんですけどね。
もちろん、いずれにも首をかしげたくなるところもありますが・・・。

で、「本物志向」を志向していた私は、ポリーニ派にならなきゃいけないような気がしたんで、アシュケナージを聴くことが大幅に遅れました。(^^;)
アシュケナージを認められるようになるまではエラく時間がかかったんですが、考えてみればポリーニのよさに気づくまでも結構時間がかかったような・・・。(^^;)

たしかに喧伝されていたポリーニの美質、「完璧な打鍵による磨き抜かれた音」というのは当時の私にもわかったんですが、クラシック音楽というより“変ロ短調ソナタ”そのものを聴き慣れていなかったことからアルゲリッチの奔放な演奏や、ポゴレリチの悪魔のいたずらのような演奏のほうがピンと来ていたのは間違いありません。

今回ポリーニによるこの2曲のソナタを聴いて、ピアニストは曲の構造を明らかにしつつ完全な音の世界を再構築することにこそ主眼を持っているのであって、曲の感傷にあるいは雰囲気に耽溺することを徹底的に忌避しているんだなということを感じました。
テクニックも音色も彼の持っている技術のすべてはまさにその目的に適ったモノであるとも感得しました。

その際に、近年の演奏で気になったアクセントやシンコペーションのキツさ、唐突さはありませんし、それがポリーニだと感じていればこそ近年の演奏の変化に驚いた・・・そういうことであるようです。


でも、以前感づかなかったことを気づく私がいる・・・。
ポリーニも変化していますが、私自身も変化している。
ディスクの中の音は変化していないはずなのに、それを感じる私の感覚は変化しているということです。


諸行無常だの、行く川の流れ・・・だの、同じことをしているようでいて感じ方はその時々に違う、20年という年月を経れば事ほど左様にこれほど違う。
1年でもこれの20分の1、もっと細かく切っても・・・今日と明日でもいくばくかは違うことになるはずです。

では、以前聴いたことから得た「知識」というのは何なんだろう・・・感覚からきているこれらの経験知は、もしかしたら「邪念」以外の何者でもないかもしれません。
先に述べたアシュケナージを聞くのが大幅に遅れたなどという件も、予断であり邪見の極みであるといわざるをえませんよね。
それを「ご縁」などと言ったりすることもあるようですが、結果的には誤った判断をしていたと思います。

話が大きくなってしまいましたが、結局は「いい音楽」にめぐり合うのかどうかではなく、今いま聴いている音楽をどのように聴き、そこで音の現象をどのように認識するかという問題だけ、昨日わたしが「捌きかた」といったことにも通じるのだと思いますが、そこにいかに集中するか・・・それしかないと思うようになりました。

ポリーニのショパンは全部、他にも多くのディスクを持ち、聴いて思うのは、これほどまでにテクニックばかりが喧伝され精神がたたえられているために、期待感が高まりすぎているんじゃないかということです。
何を聴くのかをハッキリさせて臨まないと、その「現象」の認識レベルでの捉えられ方の差が大きくなってしまう典型タイプのピアニストだと思います。
ある意味では、やはり玄人受けするピアニストという評価が正しいということになるのでしょうか?

このころのポリーニが「めちゃくちゃうまいけど、よさがわからない」という方、ポリーニだと思わずに聴かれることをお勧めしたいです。

「(あれだけすごいと騒がれている)ポリーニの、この演奏のどこがいいんだろう?」と思っている人もポリーニじゃないと思えば、「なんて凄い演奏なんだ」と思われると思いますよ。

今いま、目の前で鳴っている音響だけで音楽を味わえば・・・ね。(^^;)

捌きかたの問題

2007年10月19日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ショパン:夜想曲集
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
《DISC1》
1.3つの夜想曲 作品9
2.3つの夜想曲 作品15
3.2つの夜想曲 作品27
4.2つの夜想曲 作品32
《DISC2》
5.2つの夜想曲 作品37
6.2つの夜想曲 作品48
7.2つの夜想曲 作品55
8.2つの夜想曲 作品62
9.夜想曲 作品72-1
                  (2005年録音)

前記事に引き続きポリーニのショパンです。
近年のポリーニのパフォーマンスにかつての輝きを見出せないと思っていたが、虚心に聴いたらよかったというようなことを昨日書きました。
そして、別のポリーニ作品も聴きなおさなければならないというようなことも・・・。

はたして、このノクターン集に関しても昨今のポリーニ観を改めないといけないと思わせられる結果でしたね。
(それなりに)素晴らしい。ちょっと、引っかかっているのは確かですが・・・。(^^;)

最初に聴いたときには、統一感のない地味なアルバムというイメージと、作品37の1などで見られるハイドンのびっくり交響曲のような大音響とか、作品9の1ではゆとりのない急き込んだようなテンポとやはり不意を突かれるアクセントなど、パーツ・パーツの解釈が自分が考えているものと相違することがフラストレーションの素になっていたんだということがよくわかりました。
・・・そうそう、作品9の2のトリルの音の選択も特異ですよね。「なんで、そんなところでおかしなことするんだよ!?」って思いましたもん。

でも、ポリーニならではの統一した美点もいっぱい認識してはいました。
例えば作品55の2の歌の強靭さはこの人以外に弾き表せるもんじゃないような「張り」と湛えているし、イタリア人ポリーニならではの深~いベル・カントを感じさせます。
この曲のみならず、毎度毎度ポリーニのバスの音の存在感はしなやかで屈強。
これが生きる曲であれば、このピアニストならではの味わいが楽しめるというものです。(^^)/


このアルバムの感想をざっくばらんに記していくと、朴訥としている、不器用に思えるところがある、自分の思うところに誠実に真剣に拠って立っている、その意味で潔くすがすがしい、音響の強靭さに似合わず突き抜けて透明に思えるところがある・・・こんなところでしょうか。

最初に聴いたときの、「統一感のなさ」はきっと曲ごとの対比を明確にすることを狙っているためではなかろうかと思います。
やたらうら悲しいノクターンがあったり、作品62の1なんて私のイメージではもっとあの世に近く、他で発揮している透明感がある表現を駆使して演奏したらさぞかし素晴らしいのに、案外生気のあるお肌の色を呈しているような感じで、その辺も私の感覚とのミスマッチなんでしょうね。

ミスマッチといえば作品27の2曲はいずれもそう・・・。
作品27の1は、もっと微熱を深奥に湛えて、そんなマグマがあるのは判っているんだけど絶対に表に出さずに“じれった~く”進行するべき曲というのが私の曲の捉え方です。
一方ポリーニは、底光りしてて欲しいのに光沢を湛えているような感じ・・・。

作品27の2でのギャップをひとことでいうと、さばさばしすぎということになりましょうか。
味付けで言えば、私は関東風を求めているのに、ポリーニは関西風を提供してくれているという感じ・・・。(^^;)
よくよく聴けば確かに味わい深いのはわかったんですが・・・それも渾身の旨味を込めているのはわかるんですが・・・なかなか聴き取れない。
なにより、ゆったり感がもっと欲しいかな・・・。


さて、まとめてみましょう。
ポリーニはこのアルバムでノクターンそれぞれのキャラクターを描き分けたいと思っていた・・・と、実はライナーに書いてありました。
統一感のなさはそんな点から感じたのかもしれません。
なにぶん彼はムードとか雰囲気ではなくて、現実の音響でもってそれらを表現するアーティストですからなおのこと・・・であったかもしれません。

さて、もっとも大きな問題はきっと私側にあったんだと思います。
つまり、私はポリーニのディスクを聴いていながら、ポリーニの演奏を聴いていなかった。

自分の頭の中にあるノクターンを聴いていて、ポリーニの実際に奏する表面ツラをそれと照らし合わせ、やれ速いだ、音の使い方が違うだ、アクセントが唐突だ、うらぶれてる、生気にあふれすぎてる・・・この違いをあげつらっていただけだったのではないか?

何かと対比するんじゃなくて、ポリーニの演奏を楽しみに聴いているんだからポリーニの演奏をただ聴けばよかったんでしょうが、そうではなかった・・・。

あろうことか、この天下の1・2を争うといわれる大ピアニストが世に問うた渾身の演奏と対比したものがなにかといえば、さしてこの世界のことがわかっているわけでもない私の頭の中にもやぁ~んと存在するかしないかのそれぞれの曲の印象であります。

先般、タワレコ渋谷でご尊顔を拝し奉ったときに非礼を詫びておけばよかった。

そう、演奏の善し悪しを演奏で判定していない・・・これは私の「捌きかたの問題」だったのです。

とにかく「こうだったらいいのに」とポリーニの演奏に注文をつけるばっかりだったんですね。
こんな聴き手の要請に応えられている演奏なんて、どこにもないでしょうね。(^^;)
なまじポリーニがショパンのノクターンを弾くというのが、私にとってはサブライズだったのでどんな演奏かの見当付かなかったから、余計に出てきた音を懐疑的にみてしまったのかもしれません。

ポリーニのノクターンが聴きたかったんだから、ポリーニ以上にポリーニらしくノクターンを弾ける人はいないしイメージできる人もいないんだから・・・。
ディスクから出てくる音をすべからく受け入れて、是非や善し悪しでなくそれを味わいつくすように聴いていれば・・・ディスクの印象、そして聴後の認識も大きく変わっていただろうなぁ~と思います。

「こうだったらいいのにな・・・」などとはポリーニ様にむかって不遜極まりなかったと反省することしきり。。。

聴きなおしてみて、すこし引っかかるところは残るといいながら、ポリーニのアーティスティックな面に感服しました。
旨味と効能がこれからじんわり現れることを期待したいと思います。(^^)/

あたりを払う存在感

2007年10月18日 00時14分59秒 | ピアノ関連
★ショパン:4つのバラード、前奏曲第25番、幻想曲作品49
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)
1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード 第3番 変イ長調 作品47
4.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
5.前奏曲 第25番 嬰ハ短調 作品45
6.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (1999年録音)

ショパン忌の昨日は、高橋多佳子さんの“ショパンの旅路”全6集7枚の連続演奏会を堪能して・・・といっても途中Ⅳの後に寝て、会社から帰ってきてⅤ以降を聴いたんですが・・・すでに自分の血肉となりつつあるだろう音楽をさらに刷り込んだかなという感じであります。(^^)v

ただ、彼女の演奏はよっぽどパワーがあるときに聴かないと、こっちが負けちゃう演奏だとも思いました。
それほどの一途な想いが、ディスクに込められているということなんだろうと理解しています。
間違いなくその演奏家の、少なくともその演奏に対してどのような想いをもっているかという心の奥底は、12cmのぺらぺらの盤を通してすら感じ取れるものであることを信じています。

そして多佳子さんはあらゆる点でストレート一本槍、聴き手の私はたまたまでしょうがそれがツボにドンピシャでハマルので、心地よいキリキリ舞いを楽しむことができるというわけです。


そうはいっても、この記事も書かなきゃいけないんで「多佳子さんの後を引き継いで聴いても負けない人は誰じゃいな?」という観点から選んだのがこれ・・・。(^^;)
連日のDGのディスクって、このバックステージでは珍しいかもしれませんね。
別にメジャーのディスクを避けてるわけじゃないし、いっぱい持ってますけど・・・聴き始めたころは当然国内盤メジャー・レーベルの演奏家のものばかりだったわけですから。。。


実はこのアルバム、発売日に期待満々で購入したもののあまりしっくり来ていませんでした。
ポリーニのショパンのディスクであれば、世評の高い(全部高いけど)スケルツォ集とか、ピアノ・ソナタ2曲とかは諸手を挙げてブラヴォーと騒いでいましたが、ここ最近のディスクには名状しがたい微妙な食い違いというか「違和感」を感じることが多かったのです。

ポリーニが屈指のピアニストであることには、私はまったく異論がありません。
シューベルトの変ロ長調ソナタを初めて聴いたのもポリーニだし、1980年代から90年代初頭にかけてのポリーニは無敵だったんじゃないかと思います。

でも、最近は・・・?
ぎこちないというと変ですが、確かにぎこちないものでも平気で、否、敢えてそのまま世に問うているのではないかと思えるぐらいです。

それを確信したのは、アバドと組んで再録音したブラームスの第2番のコンチェルト。
冒頭のホルンの始まりにすぐつけるピアノの上行音階のタイミングが、どうしてもズレてる(?)ように思われてならない、これを引きずって聴いてしまうと、確かにハードボイルドに弾かれているのに、何故か引っかかりを感じてしまうというのがトラウマになってしまったような気がします。


翻ってこの演奏は、やはり冒頭のバラード第1番のイントロの最初のハ音が十分伸びきらないうちに変ホ音に焦っているようにつんのめっていく・・・私は自分がこの2音目で引いてしまうのが判ります。
きっと最初に聴いた時もそうだったんでしょう。
このように前のめりになる瞬間は、この演奏中に何度かありました。

しかし、この曲ならずともバスの音の強靭な存在感というか幅のきかせかたたるや、このポリーニの質実剛健な信条が顕れているのが判ります。
そもそも、このバラードもミツキエヴィチの「コンラッド・ヴァレンロッド」の詩に着想をえたものであるとするならば、流麗な曲であるわけがないわけですし・・・。

そして、とかく取り沙汰されるポリーニのタッチについてですが、音の出のコントロールの見事さを称揚しながらも、指の離し際(音の消え際)のぞんざいさという点についてもそう思えなくもない箇所は確かにありました。
でも、私はこれはポリーニがわざとやっていると思いましたけどね。
ペダルで音色を作ることはあっても、やはり正確なタッチでの音作りが主であるポリーニの演奏法にあってはペダルで音を繋ぐという感覚はそれほどないんじゃないでしょうか?
先の評価はそのような帰結としてあるもののような気がしました。

これはツィメルマンが全曲を通じてルバートを意識したという、バラ4にあっても同様です。
特に流麗に弾くということもなく、ルバートするところはルバートしてるんでしょうが、解釈上ルバートしている箇所は極端に少ないんじゃないでしょうか?
ですから、私が偏愛しているこの曲のコーダ前の経過部にあっても、終始意を用いて弾かれているのですが、そこにエロス&タナトスといった要素は感じにくい・・・戦車が通り過ぎていくような感じで、戦艦大和が横切っていくような感じがしないというとわかんないでしょうか(^^;)・・・のであります。
逆に5つの和音の後の音の奔流も、恐ろしく込み入った楽譜をものともせずに何事もなく、ただ重々しく質実剛健に進んでいくのです。


それでは私はポリーニのこの演奏が受容れがたかったかというと、実はそうではありません。(^^;)
私のほしいものをポリーニの演奏に求めたんだとしたら、確かに少ないし気がかりな点も多かったかもしれませんが、この演奏に何があるかと切り替えたとき厳然とあるものに気づきました。

言葉として浮かんだのは「睥睨(へいげい)」、タイトルのあたりを払う存在感というのはその言い換えであります。
考えてみれば、このディスク全体を貫くひとつの気分については、これほど統一感を持っているディスクはそんなにないんじゃないでしょうか?

この曲はこんな曲だからとか、ここの箇所はこんな気分だからという弾き方ももちろんよいんじゃないかと思います。
でも、ポリーニの場合はこの曲に限らず「作品の造形と音像を描き出す(帯の謳い文句より)」ことがライフワークですから、見事にここでもその仕事をやり遂げていると言えましょう。

ポリーニのありったけの知情意を込めた対象がその方面であるならば、そればぺらぺらな盤を通して確かに私の胸に刺さっていたのです。
やはり、流石はポリーニというべきでありましょう。(^^;)

実はこの後、さる技巧派ピアニストのディスクも試しに聴いてみたのですがムチャクチャ軟派に聴こえました。
聴くべきものがそれぞれのディスクにあって、その言わんとする心の在りかを探り当てた時にこそ、ディスクを聴く楽しみは得られるんだなと、またまた感じ入りました。

ポリーニの他の盤も聴きなおさないといけないでしょうね。ノクターン集とか・・・。


そしてもう一点、最近のディスクは往々にしてヘッドフォンで聴いた印象と、ステレオで聴いた印象に大きな隔たりがあることを感じています。
もしかして音決めするとき、ヘッドフォンの音色を以前より重きを置いているのではないかという推測をしていることも記しておきます。

この点は個人的に、ちょっと気になります。

ショパン忌

2007年10月17日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ショパン:4つのバラード/舟歌/幻想曲
                  (演奏:クリスティアン・ツィメルマン)
1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード 第3番 変イ長調 作品47
4.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
5.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
6.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (1987年録音)

今日、10月17日はショパンの命日ですね。
といっても、私が特段のイベントを考えているわけではありませんが・・・強いて言えば朝食はトーストにしようと思っているぐらいでしょうか。(^^;)

それにしてもこのディスクが新譜だったのを昨日のことのようにとはいわないまでも、はっきりと思い出す私は紛れもなくオジサン。
もう20年も前の録音になるんですね・・・。
ツィメルマンがショパンコンクールで勝ったのが75年ですから、キャリアとしてはプロとしての経験も十分に積んだ時分の録音でありまして、私はこのディスクを以ってツィメルマンの演奏が完成したと見做しております。

本当にこのディスクの解釈は考え抜かれているうえに、奏楽そのものもしなやかでみずみずしくて文句のつけようがありません。
といいつつ1つだけ注文をつけますが、舟歌のラストの前で最高音まで盛り上がった後のアチェレランドがきつすぎるように思うのです・・・何回も聴いてると気にならなくなるといわれれば確かにそうですけどね。

先だってのシューベルトでもそうでしたが、このツィメルマンの醸し出す音の気配(雰囲気ではなく)がグールドを聴くと一部の人が自制心を失い熱狂しちゃうのと同様なメカニズムで、私を虜にしちゃってくれるんですよね。

ホントにこのころのツィメルマンは、批評家に「若いくせに大家のような演奏をする」といわれていたのですが、どうしてどうしてこの若々しさは決して大家に求められるものではありますまいて。(^^;)

一時ちょっと軽くないかと訝しがった時もありましたが、いや~やっぱりスンバらしい。。。
魔法の音を自在に操って、バラード第1番のイントロのたっぷりしていながらむくみのない重みに目を見開かされて、幻想曲のこれも重過ぎずきつすぎない最後の和音に至るまで一瞬として極度に緊張したり、あるいはダレてしまうところはありません。

バラードが1枚に全部入っているディスクであれば、間違いなくこれが私のファーストチョイスでしょうね。
高橋多佳子さんの“ショパンの旅路”からバラードだけアンソロジー的に抜き出してディスクを作ったら、もちろんそっちを採りますが。(^^;)
ないもんをどうこう言ってもしょうがない。


でも繰り言になりますが、ツィメルマンがソロのレコーディングをしないのは、しないのではなくてできないのではないかという疑念を持っています。

赤ちゃんを寝かせようと思っているときに聴いても、おかあさんもうるさがらず赤ん坊もすやすや眠れるショパンのスケルツォなんてありえないんだから、できる範囲で録音をしてくれちゃったら世界中が喜ぶと思うんだけどなぁ~・・・というのが私の考えですが、ツィメルマンは多分自分の完璧を期した録音をしたら世界中のだれも理解してくれないような気がしているのではないでしょうか?

たとえばイチローなら世界最高の打撃技術(精神力もだけど)の発露は、ヒットの数という形で反映しますが、ピアニストの場合、ヒットかどうかを判断するのは他ならない私たちでありますからして・・・。

さらにさらに喩えるなら、きわどい事件を判断することを要請されたシロート裁判員みたいな私たちが、世界の第一人者の芸術を裁いちゃうことになるわけですよねぇ~。
それに関して、ツィメルマンが下々のものにはわかるまいというような不遜な物思いをする人じゃないことはわかっています。
でも、彼はライヴでこそ・・・正確にいいましょう・・・ライヴというシチュエーションにあってこそ、“そこに居る”聴衆の御心に適う演奏が出来、聴衆も納得する演奏ができると思い込んでしまっているからこそ録音ができないのではないか・・・私はそう推理するわけです。


私にとって、ツィメルマンのこのディスクひとつとっても、その端々には常に惹かれるものを見出しつつも、全貌をすごいと判断できるまでには実に20年近くかかったわけです。
詳しくいうと同じDGにミケランジェリのショパン・アルバムというものがあって、どうしてもツィメルマンのこのディスクをショパン演奏の筆頭とすることはためらわれた・・・みたいな思い込みがあったんですね、きっと。
それが「いいものはいい」と率直に聴けるようになるまでに随分時間がかかったというわけです。そしてもちろん経験の蓄積によってストライクゾーンが広まったことも素直に聞ける要因となっているのは疑いない・・・。


実は今では、「聴いたその時にいいと思える演奏がいい」という考えに至ったのであります。(^^;)
「なんだこれは?」と思ったディスクを何年も寝かしておいて、また取り出して聴いてみると案外よかったりする・・・そんな経験も度々しました。

だからツィメルマンさんにお願いしたいのは、いつか必ずきっとその芸術を理解できる日が我等衆生にも来ると信じて、ぜひとも今至っておられる演奏の境地をソロ録音で下賜してくだされ・・・ということであります。


そのときを虚心に聴く。
当方もこれがCDを聴く時の極意だと悟りました。
音楽内外の経験を経て、きっと自分のストライクゾーンはもっともっと広くなる・・・そんな気がします。(^^)v


さてと、これを書き上げたところでいろんなピアニストのショパン演奏を今日は楽しむことにしましょう。(^^)/

星メグリウタからの回想

2007年10月16日 00時27分19秒 | JAZZ・FUSION
★デュエット
                  (演奏:ロブ・ワッサーマン)
1.スターダスト/アーロン・ネヴィル
2.ムーン・イズ・メイド・オブ・ゴールド/リッキー・リー・ジョーンズ
3.ブラザーズ/ボビー・マクファーリン
4.デュエット/ロブ・ワッサーマン
5.ワン・フォー・マイ・ベイビー/ルー・リード
6.バラッド・オヴ・ザ・ランナウエイ・ホース/ジェニファー・ウォーンズ
7.風と共に去りぬ/ダン・ヒックス
8.エンジェル・アイズ/シェリル・ベンティーン
9.虹のかなたに/ステファン・グラッペリ
10.枯葉/リッキー・リー・ジョーンズ
                  (1988年)

このCDを聴いたのはいつ以来だろう?
長野の佐久に住んでいたころにオーディオ雑誌で、例によってフウ先生が推薦していたので手に取ったディスクであります。
あのころ無条件にフウ先生のおっしゃるディスクは当たりだったような気がします。

そして、佐久からアキバ(もちろんそのころアキバなんて言葉はなかったですが)に出向いて、ケンウッドのCDドライブ(DACの付いてないヤツ)とマランツのDAC内臓型のプリメインアンプとビクターのスピーカーのワンセットを購入したのが私の始めてのステレオ購入でありました。
もちろんこれもフウ先生の雑誌でのお見立て、そのまんま。(^^;)
それまではラジカセ1個でしたから、大出世であります。
でも、今考えてもあの音は良かった。

考えてみれば、その後プレーヤーはほどなく壊れて、フィリップスのLHH500になり、スピーカーはソナス・ファベールのコンチェルト・グランド・ピアノになって、アンプもマランツの上位機種になり・・・と変遷を重ねて今はこのバックステージを始めたころに書いたとおりプレーヤー3台をマランツのアンプとヤマハのスピーカー(ご老体)でそれほど不満なく聴いているというのが実情。。。

昔話を振り返ったのは、まずは最初にこのディスクを聴いた時の感覚が蘇ったことと、それぞれ新しいコンポーネントを手に入れる前、あるいは買ってすぐに、「これがどのように聴こえるか?」とチェックするのに使ってきたという思い入れあるディスクであるからに他なりません。

そして、これを聴こうと思ったのは何も佐久時代に毎日仕事で行っていた小諸市で禍々しい事件が起こっているからではなく、あるディスクを聴いて思い起こしたからであります。


まずはこのディスクの要諦から述べておきますが、ベーシスト、ロブ・ワッサーマンがゲストであるアーティストとデュエット(2人でパフォーマンスしているという意味。多重録音もちろんアリです。)をした作品を収めたという趣向。

メンツは曲名の横にあるとおりで、ご覧のとおり錚々たる面々であります。(^^;)

アーロン・ネヴィルのファルセット・ヴォイスはネヴィル・ブラザーズやソロで聴くほど黒いものではありませんが、いかに声のコントロールが効いているのかという観点から聴くとき、また歌の巧さという観点から聴くとき、どんな聴き方をしてもタメイキが出るという感じ・・・かつてはそうでしたが、今、年取って聴くとこれはチョッとキモイかな・・・と。(^^;)
普通にソロとかで歌っている通りのほうが今は好きになりましたね。

リッキー・リー・ジョーンズって最も好きな女性アーティストでしたが、最近は母親になって世界の不条理に立ち向かう音楽になり、バックのギターなんかもめっちゃトレブルが効いて攻撃的で刺激ある音楽に変遷しております。
彼女は“パイレーツ”(「だっちゅーの」ではない!)のころが1番よかったかな。またここで特集しなくっちゃ。(^^;)

ボビー・マクファーリンも懐かしい名前ですね。
この後どんな声でも出せるパフォーマーとして“ドント・ウォーリー・ビー・ハッピー”でブレイクして、クラシックの指揮活動まで報じられていましたが・・・今は何してるんでしょうね。
“ドント・ウォーリー~”の曲だけは今もそこここで耳にしますけどね・・・。(^^;)

ルー・リードなんてどうしてるんだろ・・・?
ヴェルヴェット・アンダーグラウンドなんてもう知ってる人のほうが少ないかもしれませんね。(^^;)
今や、ルーさんといえばイングリッシュがトゥギャザーしちゃった人ですもんね。

私にとって、馴染み深いのはジェニファー・ウォーンズとシェリル・ベンティーンの2人です。
前者はここでもご紹介したとおり、ステレオの視聴盤として“フェイマス・ブルー・レインコート”を死ぬほど聴いたうえ、ドイツのzoundレーベルから高音質盤(このバラッド・オブ・ザ・ランナウエイ・ホーシズ”もリマスターされて入っている。薄皮が1枚はげたような仕上がり!)も出ているので、案外頻繁に耳にする歌手ですし、シェリル・ベンティーンもマン・トラとしてではなくソロとして一連の作品を発表しているものはことごとく堪能していますから・・・。(^^;)

まぁグラッペリのヴァイオリンも彼ならではだし・・・。
彼は鬼籍に入っちゃったんですよね。何してるなんて聞くまでもなく・・・。(^^;)

今となってはあの人は今特集みたいなディスクですが、私にとっては20代後半を本当に彩ってくれた懐かしい一枚であります。
ここまでくるといい悪いじゃないですね。録音も含め・・・。


★宮沢賢治に捧ぐ  星メグリウタ スベシャル・バージョン VOL.Ⅱ
                  (演奏:YOSHI(吉川よしひろ))

1.組曲パッハルベルのカノン
2.イン・ザ・ミスト ~甘美な時~
3.星メグリウタ ~スペシャル・ヴァージョン~
4.ジムノペディ変奏曲
                  (2006年)

このディスクは会社の同僚のかたにお借りしたもの。
他人のディスクをここに紹介するのは初めてなのですが、これをきいたときに先に書いたとおり、瞬間的にワッサーマンのディスクがインスピレーションで思い起こされました。

こちらは5弦チェロと踊るように(?)弾く“スタンディング奏法”で演奏される人らしいんですが、実際に演奏姿は見たことありません。

ただ、曲をどのように表現したいかがあってそれを追求してあらゆる奏法を駆使する人であることは確かです。
パッハルベルの荒々しいと言っていいかもしれないピツィカートとか、多重録音されているバックのハーモニーのチェロの音色とか、イコライジングも相当施された自然な音ではないにもかかわらず、本当に自然の息遣いを感じるときがあります。

サティはちょっと歌いすぎという気がしないでもないですが、もちろんこんなのもアリだという解釈。(^^;)

驚いたのは、“星メグリウタ”。
これのみ出だしがちょっとだけスペイシーなピアノで、チェロによって真っ当な旋律が歌われるのですが作曲者はなんと宮沢賢治!?

えぇモン聴かせてもらいました。(^^;)
同僚に感謝です。

上善如水

2007年10月15日 00時41分10秒 | ピアノ関連
★シューベルト:4つの即興曲 D899 & D935
                  (演奏:クリスティアン・ツィメルマン)
1.4つの即興曲 D899(作品90)
2.4つの即興曲 D935(作品142 遺作)
                  (1990年録音)

ツィメルマンのソロ・レコーディングは1991年のドビュッシーの前奏曲集以来発表されていないらしい・・・。
このシューベルトが発表された前後には、ショパンのバラード集、リストのソナタ、先のドビュッシーと決して数は多くないけれど、ツィメルマン独自のソフィスティケートされたというか、スタイリッシュにして玄妙な響きを駆使して気骨あり~の、気位たかい~のととても気持ちよさげなアルバムを立て続けに世に出してくれていました。
ウェーベルンのソロの曲が、ブーレーズによる全集に“つまみ”みたいに入っているにはいましたが、独立したソロの作品集ということからするときわめて寂しい現状といわざるを得ません。
まぁ数は少ないとはいえ、コンチェルトのディスクはそれなりに出ていますが、やっぱり彼のソロによるアンソロジーがほしいところですよね。

しかしながら、この症状はなにもツィメルマンに限ったことではなく、アルゲリッチが83年にシューマン(クライスレリアーナと子供の情景)を録音して以来、こちらも基本的にソロ録音をしておらず、この2人はいずれもDGのアーティストというのはどういうことでありましょうか?

インタビュー等でツィメルマンは、ポリーニもアルゲリッチも「録音技術が進歩して音を録るのは結構だが、余り綺麗に録音できるのも音楽が死んでしまうから望ましくない」と人のせいにしようとするかのようにのたまわっています。(^^;)

デジタル・アナログの話であれば、「とっととアーティストが望む環境での録音をせんかい!」という話なんですが・・・。
古くはミケランジェリやチェリビダッケなども録音嫌いとしてならしていました(?)が彼等の主張とは少しく違うような気がするんですよね。

何よりポリーニも文句いってる人の中に加わっていながら、ちゃんとソロの録音を折々に発表しているし・・・。
ツィメルマンにせよ、ピアノ・録音についてもエキスパートたるべき知識を勉強して、折りに触れて自宅で録音をしているという話も伝わってきてはいたように思います。

それがなんで、最後に録音以来20公演ちかくのプログラムを録音してもいいレベルまで(=ディスクに残して発表してもいいレベルじゃないんでしょうか?)勉強したにもかかわらず、録音をしていないという話になっちゃうんでしょう?
濱田滋郎先生は、ツィメルマンに「人類の財産」とまで言わんばかりの勢いでライブ録音でもいいからしてちょうだいというリクエストをしたのに・・・お返事がチョイとつれなかったですね。(>_<)


このディスクはシューベルトのディスクの中ではちょっと毛色が違う・・・ツィメルマンのシューベルトの捉え方が独特なのかもしれませんが・・・でも、このうえなく魅力的なディスクです。

まず、シューベルトにありがちな孤独感や悲壮感がない。
少ないじゃなくて、「ない」んです。(^^;)
理由はどの場面も必ずはっきりくっきり弾いていて、翳ったところがないから・・・。
ツィメルマンが他の演奏をするときもそうであるように、歌心に溢れ、ロマンティックに綿々と歌われる中に優しさやぬくもりや憧れはあるんですけどね。

それにしてもこのピアノの音には参ってしまいますな~。
この方はデビューしたころはどっちかというとイモっぽかったですが、ブラームスのソナタ辺りからなんか独特な音をピアノから引き出すようになってきて、先のショパンなんかの音は完全にチョウに羽化しましたという感じですもんね。

もちろんこのシューベルトにおいても、この音色をもっていればこその解釈で演奏を展開しています。
音符を普通のピアニストが表現する際よりやや短く区切ったり、パッセージを速く弾いてみたりという独自の表現が試みられているのがそれです。
往々にして、そのように弾いて聴き手の耳を引きつけて、リピートされたところでは通常のテンポで纏綿と歌っているように聴こえるようにという複線の場合もあるような気がしますけど・・・。
普通の人がこれをやったらぶつ切れ、あるいは混濁というのが関の山という解釈なんだろうと思うんですけどね。

ツィメルマンの最大の魅力はこのように音自体が美しく、それを使ってやることなすことすべて自然に瑞々しくなされるというところでありましょう。
それはまるで水が流れるように自然で、激しいところはちゃんと水流が強いように迫ってくるし、時として氷のようにクリスタルな響きでメロディーを奏でてウットリさせるし、場合によっては内声部のアルペジオをペダルで霧みたいにして・・・。

タイトルを『上善如水』としたのは、以上のような理由によるものでして、別にツィメルマンから老子とか道教思想をイメージしたというわけではありません。
だいたいツィメルマンは気さくな人であると専らの評判ですが、特にショパンの音楽なんかを演奏するときは気位の高さが非常に目に付く(耳につく?)人ですから、ゆめゆめ道を歩く時に「水は目立たないように一段低いところを流れている」なんて考え方とは相容れないと思います。


さて、高橋多佳子さんもツィメルマンの直近の来日公演を聴いて(あたしゃ聴いてません)「素晴らしい完成度」だと仰ってましたが・・・。

私にはこの言葉がどうしても引っかかるんです。

最近のツィメルマンのコンチェルト録音のピアノの音を聴くと、限りなく美しくはあるんですが硬いような気がするんです。
要するに、生真面目で一生懸命自らの理想を追求した結果たどり着いた(彼にしてみればまだ道半ばでしょうが)現在の彼の音からすると、このシューベルトを録音したころの音は「ヌルイ」と思えるようになってしまっているのではないでしょうか?

自分の美学であり自分の到達点の音(解釈)で録音をしたい・・・けれど、現在の録音技術がもたらしたクリアな収録はその音だと何らかの不具合が在る・・・こういうことではないでしょうか?

コンチェルトであれば、ラフマニノフにせよバルトークやラヴェルにせよオケとの拮抗があったり協調があったりで、その音色を駆使することができるのでしょうが、ピアノ・ソロだとその音色を使うと音楽が死んでしまうというように固まってしまうということなんでしょうね。
もっとユルい音を使ったらいいのにというのは素人考えで、アーティストの良心に照らすと少なくともそれは自分のベストではないといわざるを得ないということかもしれません。

我等からすれば、ツィメルマンの現在の力量であれば「完成度90%」ぐらいで流してくれたほうが、普通の聴き手には与しやすい演奏になるような気がします。

彼が最高に満足した作品を録音できたとして、我々はついていけるのか・・・?

もしも実現したら、疲れそうですね。(^^;)

オール・アラウンド・ザ・ワールド(2)

2007年10月14日 00時55分23秒 | ROCK・POPS
★グレイスランド
                  (演奏:ポール・サイモン)
1.ボーイ・イン・ザ・バブル
2.グレイスランド
3.アイ・ノウ・ホワット・アイ・ノウ
4.ガムブーツ
5.シューズにダイアモンド
6.コール・ミー・アル
7.アンダー・アフリカン・スカイズ
8.ホームレス
9.クレイジー・ラヴVOL.Ⅱ
10.ザット・ウォズ・ユア・マザー
11.オール・アラウンド・ザ・ワールドあるいはフィンガープリントの伝説
                  (1986年)

まずはタイトル“オール・アラウンド・ザ・ワールド”の種明かしから・・・。(^^;)
前記事でリサ・スタンスフィールドつながりでは半分正解だといった心は、ポール・サイモンがさまざまな国の音楽を飽くことなく吸収し続けている、いわば音楽で世界を俯瞰している、どんどん自分のしらない音楽がなくなっていくんじゃないかというぐらい幅広く取り込んでいるという意味があるのと、この“グレイスランド”のアルバムのラストにそのものズバリのタイトルの曲がありますから・・・ということでありました。

しかし、このアルバムを最初に聞いたときにはおったまげましたね。(^^;)
しばらく聞きませんでした。あまりにそれまでの楽曲と違っているから、ポール・サイモンの曲だとはとても思えませんでした。

でも、ポールはそれまでにも、それからもどんどん新しい音楽に出会い、それを自分のものとしています。
60台も半ばを過ぎた最近でもブライアン・イーノとのコラボレーションでエレクトリック・ポップ・サウンドのアルバムを出して、旺盛なところは変わっていません。同世代のミュージシャンがその意味で輝きを失っていることを考えると、クリエイターとしてはポールが1番といってよいのかもしれませんね。

ついでですが、ポールは音楽上だけでなく奥さんもどんどん新しく開拓して、今の奥さんエディ・ブリケル(!)は3人目。
そういえば、彼女のアルバムも持っているけど・・・あんまりポールの奥さんといわれてもピンときませんね。

サウンドは南アフリカのリズムセクションを導入したライトなアーバン・エスニック・サウンドであり、鄙びたギターがいいムードを出しています。
あくまでも明るく明るく、歌詞は深遠で必ずしも明るくないというか重たいものもあるんだけど、前向きなイメージであります。

今聴くと、どこまでもポールの声、ポールのメロディー・・・優しさがにじんでいるので名盤という気がします。

私は思い込みが激しいほうなので、当時は先入観が邪魔をして虚心に聴けなかったんでしょうね。
惜しいことでありました。(^^;)


★リズム・オブ・ザ・セインツ
                  (演奏:ポール・サイモン)

1.オヴィアス・チャイルド
2.キャント・ラン、バット
3.コースト
4.プルーフ
5.ファーザー・トゥ・フライ
6.シー・ムーヴズ・オン
7.ボーン・アット・ザ・ライト・タイム
8.クール、クール・リヴァー
9.スピリット・ヴォイセズ
10.リズム・オヴ・ザ・セインツ
                  (1990年)

今度は西アフリカのリズムに魅せられたポール・サイモンが、そのリズムがブラジルに渡っているなどの事情から、ミルトン・ナシメントなどとの交流の中で集まった南米のミュージシャンと米国のミュージシャンをまとめ上げてこのアルバムを完成させています。

聖者のリズムというタイトルのとおり、本当に多彩なリズム・セクションがみんな間違いなくポール・サイモンの音楽を演奏しています。
この統一感はやはり彼のヴォーカルによるものなのでしょうか?
どんなパーカッションがどんなリズムを奏でても、カリンバが入っていようと、サイモンのヴォーカルが入るといきなりエスニックだけじゃなくなっちゃいますね。(^^;)
やはりこれぐらいの存在感がないと、ロックの殿堂には入れないんでしょうね。

ここでも“オヴィアス・チャイルド”の歌詞の中などに「嘘は嘘」「空は空」など哲学的というか仏教的というか、そんなフレーズを見出してしまいます。

さすがは、音楽も結婚も諸行無常、生々流転しているポール・サイモンといえましょう。
わたしにとっては、ここまでくればお釈迦様級ですね。


★時の流れに
                  (演奏:ポール・サイモン)

1.時の流れに
2.マイ・リトル・タウン (アート・ガーファンクルとデュエット)
3.君の愛のために
4.恋人と別れる50の方法
5.ナイト・ゲーム
6.哀しみにさようなら (フィーヴィ・スノウとデュエット)
7.ある人の人生
8.楽しくやろう
9.優しいあなた
10.もの言わぬ目
                  (1975年)

ちょっと遡りましたが、私がポール・サイモンにハマるきっかけになった超名盤であります。(^^;)

もはやこのアルバムについては説明の必要もないと思いますが、やはり“時の流れに”はゾクッとするほどシュールな曲ですよね。
また、“恋人と別れる50の方法”もギターの爪弾きとスティーヴ・ガッドの神業ドラムスが印象的。本当にスティーヴ・ガッドはこんな複雑なリズムは叩けるわ、スティーリー・ダンの“彩”でのソロみたいなのも叩けるわ、あの時分では私にとってはスーパー・ドラマーでしたね。
ぜんぜん違う畑ではジョン・ボーナムという人が最もお気に入りのドラマーではありましたが・・・。

最後の“もの言わぬ目”・・・サイレント・アイズと歌われるこの曲にはポールがやはり基督教徒でありエルサレムに寄せる思いが感じられます。
このことはある意味で私には衝撃的なんですよね。

私は前にも書いたように、ポール・サイモンの詩に仏陀に似たイメージをもっています。
『キリスト教の仏陀』ってやっぱヘンですもんねぇ~。

そういえば、お釈迦様が生まれたときの様子はキリストに似てるけど・・・聖徳太子にも似てる気がするけど・・・ホントはどんなだったのかなぁ~。(^^;)

オール・アラウンド・ザ・ワールド(1)

2007年10月13日 23時35分17秒 | ROCK・POPS
★ハーツ・アンド・ボーンズ
                  (演奏:ポール・サイモン)
1.アレジー
2.ハーツ・アンド・ボーンズ
3.ホエン・ナンバーズ・ゲット・シリアス
4.考えすぎかな(b)
5.ソング・アバウト・ザ・ムーン
6.考えすぎかな(a)
7.遥かなる汽笛に
8.犬を連れたルネとジョルジェット
9.カーズ・アー・カーズ
10.レイト・グレイト・ジョニー・エース
《ボーナス・トラック》
11.シェルター・オブ・ユア・アームス(未完)
12.トレイン・イン・ザ・ディスタンス(デモ:アコギ一本弾き語り)
13.犬を連れたルネとジョルジェット(デモ:アコギ一本弾き語り)
14.レイト・グレイト・ジョニー・エース(デモ:アコギ一本弾き語り)
                  (1983年)

上野の東京都美術館で開催されている“フィラデルフィア美術館展”に行ってきました。
聴きしにまさる所蔵品を誇る展覧会だったですねぇ~。
確かに作品が作家の名前に負けてるような・・・要するにこの作家の作品もあるよというだけためだけのためにはるばる米国より渡来したであろう作品もあるようには思えましたが、でも凄かった。(^^;)

個人的には、ルノアールの“大きな浴女”と、かつて現物を見ている岐阜県立美術館の“泉”、オランジュリー美術館の“長い髪の浴女”とを見比べたいという興味がいちばん大きかったですが・・・。

実際行ったら、モネの明るい光は決して作品集の画像なんかじゃ再現できないシロモノである・・・音楽的な表現をするとライブじゃないと感得できないものであることが判ったことが最も絵としては印象深かったですね。

その他、デュシャンが親父さんを描いた絵はセザンヌのセルリアンブルーの使い方にも似た独特の表現があるとはいえマトモだったのに、1年後のチェスのプレーヤーを書いた絵ではキュビズムの影響をマトモに受けてぶっ壊れてしまっている様子が衝撃的に並べられていたり・・・惜しい人を亡くしたって感じがしましたね。

また、ジョアン・ミロの“月に吠える犬”という作品には静かな衝撃を受けました。
いちばん絵の前に立ってた時間が長かったかもしれません。どんな絵かは、実際にご覧になってください・・・行けない方は、ネットを検索すればきっとあるんじゃないかなぁ~。

さて、そのミロの“月に吠える犬”は結構ユニークでクールな作品でして、画家は最初絵に「そんなことは知らないよ」と書き込んでいたそうです。
ちょっと訳を変えれば「そんなの関係ねぇ!」になるじゃないかなぁ~。
非常にトレンディな作品を展示したものだと感服。(^^;)

ポール・サイモンのこのディスクにも「ソング・アバウト・ザ・ムーン」という歌人(ソングライターのことね、敢えてこう書いてみました)に呼びかける歌がありますが、このユニークさは共通のムードをもっています。
歌からは温かさを感じる点が絵と違うかな。

このアルバムは82年のセントラルパーク・コンサートを経て、サイモンとガーファンクルが再結成されるのかという期待感があるなかで制作されたものでした。
そのことを発売直前に、愛知県はサンテラス一宮の中にある新星堂の販売店の吊り下げ広告で知ったんだよなぁ~。
新星堂は今もサンテラスの中にありますが、場所は今はパン屋さんになっていたところにありました。
20年以上前の広告一枚で、そんなことまで懐かしく思い起こされるようになってしまったとは、歳をとったものだとしみじみ思います。

そしてその広告に「夢じゃなかった!」とか、再結成を前提で作られてデュエットまであるかもしれないように書いてあった文句まで覚えています。
今では考えられない記憶力、たいしたものだ。(^^;)
セントラルパーク・コンサートにしたってどことなくよそよそしかったわけで、果たして再結成はなく、ポールひとりの名義で制作することとなった作品ですが、この前のアルバムがグラミーを受賞している“時の流れに”であり、この後の作品もグラミーを受賞している“グレイスランド”であることを考えるとき、この作品ってジミなイメージがあるかもしれませんが、私にとってはポール・サイモン名義の作品中もっとも刺激的な作品と言っていいものなのです。

まず“アレジー”におけるディ・メオラのギター・ソロにぶっ飛びます。
“ハーツ・アンド・ボーンズ”は個人的には疑いなくソロにおけるポールの最高傑作、このギターの伴奏はこれ以上瑞々しく温かくセンチメンタルなものを知りません・・・これは言いすぎですが、本当に素晴らしいものであります。
件の“ソング・アバウト・ザ・ムーン”や“遥かなる汽笛に”における曲のムードなんてポール・サイモン以外のだれにも醸し出せないもの。
クレジットに目をやると、かのシックの2人がこのアルバムでパフォーマーとして参加しているなど、本当にポールの音楽性は多彩であります。

“犬を連れたルネとジョルジェット”はマグリット夫妻をモチーフにしたこれまたポール・サイモンならではの歌。
冒頭からエレキ・ギター単音による伴奏が、このうえなくイマジナティブで初めて聞いたときから私を虜にしてくれていましたが、ベスト・ヒットUSAだったかで見たプロモーション・ビデオでシャガール夫妻をまるでマグリットそのひとの絵のようなシュールレアリスティックな画像で描いていたことが、これまた私にとっては刺激的でした。
爾来、マグリットは私にとってお気に入りの画家になりました。
ただ、今回のフィラデルフィア美術館展に出店された“6大元素”は彼の作品としてはちょいとショボイ絵だったかもしれません。
私は、彼の作品であれば“海の男”とかが好きですね。(^^;)

さて、ラストは“レイト・グレイト・ジョニー・エース”。
これのみ、かのセントラルパーク・コンサートで初披露されていて、演奏中に暴漢がステージに乱入してきて取り押さえられたというイワクつきの曲。
ポールの集中力をきらさず終わりまで続けられた歌が素晴らしかったんですが、ジョン・レノンのことも歌われていてチョッと複雑だった当時の心境を思い起こしました。

ボーナストラックのアコギ一本バージョンで、ポールがいかにセンスあるギタリストで他にまねのできない存在であるか再確認。
やはり世界レベルに見て、斯界の第一人者ですね。


★ネゴシエイションとラヴ・ソング 1971-1986
                  (演奏:ポール・サイモン)

1.母と子の絆
2.僕とフリオと校庭で
3.何かがうまく
4.セント・ジュディーのほうき星
5.母からの愛のように
6.僕のコダクローム
7.楽しくやろう
8.恋人と別れる50の方法
9.時の流れに
10.追憶の夜
11.スリップ・スライディング・アウェイ
12.ハーツ・アンド・ボーンズ
13.遥かなる汽笛に
14.犬を連れたルネとジョルジェット
15.シューズにダイヤモンド
16.コール・ミー・アル
                  (1972年~1986年)

前回記事でリサ・スタンスフィールドの“オール・アラウンド・ザ・ワールド”を採り上げたから、こんなタイトルにしたんだろうという声が上がると思います。
それも正解なんですが、それだけでは理由の半分です。(^^;)

ポール・サイモンは、上記アルバムでもわかるように“母と子の絆”でレゲエをいち早く採り入れ、“母からの愛のように”ではゴスペル(先日のDVDでも“明日に架ける橋”をゴスペル調で歌ってましたね)に傾倒し、アルバム“時の流れに”所収の曲であればジャズに大きな影響を受けています。何といってもバックバンドがほとんど“スタッフ”のメンバーですから、ジャズにならないわけがない。(^^;)
それ以外にホーボー・ソング調の歌もあったし、“追憶の夜”はサルサだし・・・。

S&Gのころだってフォーク・ソングはもちろん“スカボロー・フェア”、“コンドルは飛んでいく”、“いとしのセシリア”などの曲にあっては、すでに世界のいろんな音楽のフィーリングを取り込んでいたんですよね。

そしてそれらアメリカに伝わっていた音楽を概ね吸収したところで、この後南アフリカの音楽と自身のロック・サウンドの融合を図る道に進みます。

以下、次回。(^^;)

黒い白人たち

2007年10月12日 23時55分49秒 | ROCK・POPS
★リアル・ウーマン~ヒップ・セレクション
                  (演奏:リサ・スタンスフィールド)
1.チェンジ 《ナックルズ・ミックス》
2.エブリシング・ウィル・ゲット・ベター 《エクステンィッド・ミックス》
3.オール・アラウンド・ザ・ワールド ~ デュエット・ウィズ・バリー・ホワイト
4.オール・ウーマン
5.タイム・トゥ・メイク・ユー・マイン 《ブッシュ&スライド・ミックス》
6.チェンジ 《ドライザ・ボーン・ミックス》
                  (1992年)

いつぞやのようにムフフなジャケットだから採り上げたんだろうと思った方、残念ながらハズレです。(^^;)

先日、とある家電店に行ったときに家族がほっつき歩いている間、マッサージ・チェアに座って待っていたんですが、そのときにかかっていたのがリサ・スタンスフィールドの“オール・アラウンド・ザ・ワールド”でありました。
バリー・ホワイトとのデュエットじゃなかったから“アフェクション”に入ってるバージョンだと思うのですが・・・。

そういえばこのところ“バブルへGO”とか、トラボルタがまた映画に女形で出ているとか、当時のよすがが少し偲ばれる時代になりましたなぁ~。(^^;)

不肖私とて、ディスコ(死語?)が流行っていた頃にはちゃんと紳士の素養として名古屋の“キング&クィーン”なんぞに行って“フィ~バ~”してた時代を僅かながら過ごしておるのですよ。
そりゃ渦中の人が興したらしい「ジュリアナ東京」ほどメジャーじゃないですけど・・・。

というわけで、このようなダンス・ミュージックにも一応フィジカルに反応するわけです。
シックとかEW&Fとかも好きでしたが、英国のこのフィーリングと、リサ・スタンスフィールドのミディアム・テンポの曲に於けるヴォーカルの色香にマイッておりました。
彼女はもちろん白人ですが、私が最も黒いフィーリングをもった白人女性だと思っている人であります。

ここでも、“チェンジ”とか“オール・アラウンド・ザ・ワールド”といったファースト・アルバムからのヒット曲を、海外で12インチ盤にリミックスして発売されていたヴァージョンを日本でコンピレーションしたというある意味お手軽、またある意味ではミックスの違いでどれほどフィーリングが違うかを興味深く聞かせるという深遠な手法でこしらえられたミニ・アルバムで、その魅惑的な歌声を披露してくれています。
オジサンになった今でも、いやなった今だからこそ前にも増してゾクゾクするなぁ~。。。

しかし、このリミックス手法・・・当初は結構関心をもって楽しみに聴いていましたが、最近はどちらかというと辟易ですな。
クラシック音楽で、同じ曲のいろんな人による解釈の違いのききくらべをしたほうがおもしろい・・・。

まぁこれらに関しては“アフェクション”より、こっちのバージョンのほうがいいなぁ~と思っていますけど・・・。

いえ、ジャケットがじゃなくて・・・。(^^;)


★ファイヴ・ライヴ ―愛にすべてを―
                  (演奏:ジョージマイケル&クイーン、ウィズ・リサ・スタンスフィールド)

1.愛にすべてを
2.キラー
3.パパ・ウォズ・ア・ローリング・ストーン
4.輝ける日々
5.コーリング・ユー
6.ディア・フレンズ
                  (1991年・1992年録音)

そして、上のジャケットを見やるような眼差しを見せているこの男性は・・・やくみつるさんではありません・・・ジョージ・マイケルであります。

このアルバムは1992年のフレディ・マーキュリーの追悼コンサートでクィーンをバックに歌った1・4と、1991年の自らのコンサートでのパフォーマンス2・3・5の5曲のライヴを収めています。
6はクィーンからの返礼ということでクィーンのアルバム“華麗なるレース”に収められたヴァージョンを収録している・・・だから6曲という構成のようです。(^^;)

しかし、思えばこの人ほど惜しい才能はなかったですねぇ~。
ワム!の時代から才気がほとばしってましたから・・・。
今でも大スターに違いないでしょうが“ケアレス・ウィスパー”とかが流行った頃、そしてアンドリュー・リッジリーと別れてソロ・デビューした頃、このアーティストが順風満帆にキャリアを伸ばすことを疑った人はいないんじゃないでしょうか?
本来であれば、ポップスの世界では少なく見積もっても今の10倍ぐらいの重鎮になっていたはず・・・。

クィーンをバックにここでも聴かせる歌も、フレディを髣髴とさせるような1、リサ・スタンスフィールドとのデュエットの4なんて、クィーンの曲でありアレンジはクィーンしているのになんでこんなふうに聞こえるのだろうというくらい独特なフィーリングに仕上がって、・・・本当に惜しい人を亡くしましたというキモチになってしまいました。
いえ、フレディもそうですが、ジョージ・マイケルの輝きがはっきりいって現在ではほとんど失せてしまっていることは残念の極みですね。

モータウン、フィラデルフィア・ソウルを歌わせても本当に黒い黒い・・・。(^^;)
本家より高いパフォーマンスであると言っても過言ではありませんな。

彼の才能が、またシーンに戻ってきてくれることを祈るばかりです。
ちなみに私は彼の“キッシング・ア・フール”は一大名曲だと思っています。(^^;)

爛熟した後期ロマン派末期の音楽?

2007年10月11日 21時57分01秒 | ピアノ関連
★ラフマニノフ:2台ピアノ&4手のための作品集
                  (演奏:ジョス・ヴァン・インマゼール、クレール・シュヴァリエ)
1.組曲第1番「幻想曲」Op.5 (1893) 1.バルカロール2.夜-愛3.涙4.復活祭
2.組曲第2番 Op.17 (1901) 1.序奏2.ワルツ3.ロマンス4.タランテラ
3.6つの小曲 Op.11 (1894) 1.舟歌2.スケルツォ3.ロシアの主題4.ワルツ5.ロマンス6.栄光
                  (2005年録音)

インマゼールとその弟子のシュヴァリエによる、エラール製のピアノを使用したラフマニノフの2台ピアノと4手のための作品集であります。
輸入元(?)のアナウンスによると、「ここに収められている作品は演奏に使用されているエラール・ピアノとほぼ同時期に作曲されたものなので、ラフマニノフが本来イメージした音色が再現されているのではないでしょうか」・・・ということなんだけどホントかな!?(^^;)

ラフマニノフといえば、やっぱり現代のスタインウェイの音色で弾かれているものを想起してしまいますよね~。
現に若きホロヴィッツとも親交がありその録音からはちょっと矍鑠とした現代ピアノという響きが弾きだされていたはずで、自身のコンチェルトの録音も遺していますが、それにしたってここでのエラールで聴かれる音とは性質の違う音を導いていたように思うのですが・・・。

確かにただでさえ音符の数が多そうなラフマニノフの音楽が、2台のピアノを盛んに鳴らすわけですから、こまごましたアルペジオなどの音が否応なく溶け合って、緊密で親しげな会話を思わせるという点は同意できます。
木綿の柔らかさを思わせる優しい音楽になっていることは認めましょう。

でも、ちょっと貧相なんじゃないかなぁ~。(^^;)
組曲第1番の第1曲、第2曲なんかであれば、やっぱりもっと壮麗にこゅ~くのたうってもよさそうな気がしますよねぇ~。
でも、第3曲はミニマル・ミュージックのような反復効果が醸し出されて、現代ピアノにはないミステリアスなムードがありました。
同じことは第2組曲のワルツやタランテラなんかにも言えるかな・・・。
でも、これもやはりなのですが、第4曲はやはりどうしようもなくパワー不足に思えちゃいます。

てなわけで、ラフマニノフであるならば、もっと濃密にグチュグチュして妖しさいっぱいの方が私は好きかもですね。
私が幼少のみぎり子供音楽事典みたいなもので作曲家をつらつら眺めていた時、ラフマニノフは『爛熟した後期ロマン派末期の音楽』であると評されていたんですから。
ショパン・コンクールに入賞した某邦人女性演奏家はラフマニノフを「ロマン派の終着点」みたいなことを仰ってましたし・・・。もちろん多佳子さんじゃないですよ。(^^;)

そう思って聴いちゃうもんだから、とても親密でいい演奏かもしれませんけど、私にはちょいとこれじゃ淡白なのよね。
(^^;)


★ラフマニノフ:2台のピアノのための作品集
                  (演奏:マルタ・アルゲリッチ、アレクサンドル・ラビノヴィチ)

1.組曲第1番 作品5 《幻想的絵画》
2.組曲第2番 作品17
3.交響的舞曲 作品45
                  (1991年録音)

で、現代ピアノによるラフマニノフのデュオ・アルバムを引っ張り出してみたんですが・・・。
このディスクは8月に多佳子さんとりかりんさんのコンサートの際にも写真レスで引き合いに出しましたが、アルゲリッチとラビノヴィチによるラフマニノフの2台ピアノ曲集であります。

そのときには、
「デュオ・グレースとアルゲリッチ&ラビノヴィチとでは曲の捉え方がまったく違うようにも思われてなりません」
「ラビノヴィチはロシア人なんですが、我々日本人が思うロシア音楽的な濃密さはデュオ・グレースの演奏のほうにより多く感じました」
「アルゲリッチ&ラビノヴィチは、もっと響きをスリムに整理してスポーティというかスタイリッシュに弾き上げたという感じ」
そして、アルゲリッチの霊感の濃やかな閃きといったよさをスポイルすることなかったが、もう少しワイルド&タフというか華やかさがあってよいという感想をご紹介しましたね。(^^;)

今も同じ感想でして、必然的にこのディスクも濃密グチュグチュではなかったということになります。
でも、アルゲリッチはいつもどこででもアルゲリッチなんだなぁ~と痛感しましたです。
それは、ツィメルマンがラフマニノフを演奏するということは「自分がラフマニノフを生きるということなのだ」みたいなことを言っていましたが、アルゲリッチはツィメルマン以上にそれを体現しているように思えると言い換えることもできましょう。

まぁ乗ってるときのアルゲリッチはいつも、楽曲の精神と同一化して凄いことをやっているのに衒いも何にもないんですが、それはここでラビノヴィチと一緒に演奏しているときでも例外ではありませんでした。
ラビノヴィチの力量にあわせて本来のパワーはセーブしているんでしょうけど、トータルでもの凄く有機的な音響作品としてこちらの耳に届けてくれるということに関しては、保証書つきという感じですもんね。

アルゲリッチにとって演奏するということは呼吸をするようなものなんでしょうね。
敢えて「何かするぞ」と気負いこむこともなく、自分の血肉となった楽曲に霊感を込めて魂を吹き込むだけ・・・天才ってそんなもんなんでしょう。
きっと・・・。(^^;)

至上のマズルカ

2007年10月10日 22時15分40秒 | ピアノ関連
★ショパン・リサイタル
                  (演奏:ピョートル・アンデルシェフスキー)
1.3つのマズルカ 作品59
2.3つのマズルカ 作品63
3.バラード 第3番 変イ長調 作品47
4.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
5.ポロネーズ 第5番 嬰へ短調 作品44
6.ポロネーズ 第6番 変イ長調 「英雄」 作品53
7.マズルカ 第49番 ヘ短調 作品68-4
                  (2003年録音)

はじめてアンデルシェフスキーを聴いたのは、以前このバックステージでも特集したムローヴァによるブラームスのヴァイオリン・ソナタの伴奏者としてでした。

メジャー・レーべルに所属していたムローヴァが指名するぐらいだから、もちろんひとかどの腕は立つピアニストなんだろうなと思いつつ、そのころはムローヴァのヴァイオリンの音色ばかりに耳が行っていたように思います。
ただ、聴き返してみると音色の煌きに既にただならぬ個性を漂わせた演奏でしたね。(^^;)

その後、リーズ国際コンクールで自身の演奏に納得がいかないとして本選を棄権してしまったとか、モンサンジョンの監修によるベートーヴェンのディアベリ変奏曲のDVDを出したりとか、さまざまな武勇伝的な情報が断続的に入ってくるようになった中現われたのがこのディスクでした。

それはもう、衝撃的な印象を受けたものです。
もちろん全般的に抑制された解釈をとっていながら、生々しいまでの音色を縦横に駆使して有機的な演奏を展開していることに驚かされると同時に大満足を覚えたものですが、本当に驚いたのは冒頭の6曲、すなわち生前に出版された最後のマズルカ6曲の演奏であります。
ことこの6曲については、この演奏より私の心に働きかけてきたヴァージョンは金輪際ないと敢えて言ってしまいましょう。
それくらい、この演奏には感じ入るものがありました。(^^;)

作品59のマズルカには、DGにアルゲリッチのスタジオ録音になるインスピレーションに溢れた名演奏もあるんですけどね~・・・。
もとよりそれを聴いて、私はマズルカに関しては作品59-2が最も好きになったという歴史をもっているのですが、曲の終わりの転調間際でちょっと跳ねてみせるあそびを織り込んだりしておりますが、チョイと端正めに弾いているアンデルシェフスキーの演奏のほうにシンパシーを感じます。

順番に言うと、作品59-1は出だしからすぐこの世界に耳どころか体中を虜にされてしまうような哀愁を漂わせ、しなやかなメランコリーを立体的な音の響きの中から浮かび上がらせており、その点でこの演奏の右に出るものはないと思います。

ところで、このリサイタルを通してピアニストがここぞと思う本当に限られた部分しか音が前面に攻めてこないんです。
しかしながら、アンデルシェフスキーの手にかかると音色のみはその場に生々しく立ち上がる・・・という感じ。録音のせいかもしれませんけどね・・・。(^^;)
否応なく傾聴させられてしまいます。

作品59-3もえてして勇ましいといえるような始まりかたになる演奏も少なくない中、絶妙なニュアンスを湛えています。
作品63もしかりなのですが、特に2曲目のテンポと繊細な曲の表情付け、3曲目の詩情なんて他ではついぞ耳にしたことがないという解釈であります。
そしてそれが自身の息吹というか、完全にアンデルシェフスキーの音楽として消化されきっているので、とても洗練されたものとして響きます。

もしかしたらこれは「ポーランドの心」を体現したものなのか・・・アンデルシェフスキーがポーランド人のピアニストであるがゆえに、そこまで思わせてしまうという説得力のある演奏。。。

ただ実際には、これが正しいマズルカかどうかはわかりません。
聴き手である私にパワーがあるときには本当にしみいる音楽なのですが、ブルーというか心のエネルギーが少なくなっている時に聴くとさすがにこれだけの表現をされては追尾不能になること・・・それはピアニストのせいではありません・・・もありますから・・・。

このようにいろいろな工夫を織り込んでいることについては、眉をひそめる向きさえあるかもしれませんが、やはり私には「正統」とか「真理」とかいうことを抜きにして、純粋に向き合って讃嘆したくなるしなやかさを持った演奏である、それ以上でもそれ以下でもないとしか言いようがありませんね。(^^;)

バラードとポロネーズについても、テンポ・解釈共に他にはない独特な雰囲気を漂わせた佳演を繰り広げていますし十分に聴き応えはありますが、この盤はなんといってもマズルカ・・・です。(^^)v

絶筆のそれも、彼のマズルカ特有のメランコリーの表出があって最高に素敵!!


このアンデルシェフスキーの演奏に目を開かされた私は、他のディスクも買い求めてしまいました。
シマノフスキはまだ当方が勉強中ゆえなんともいえませんが、他のディスクからは残念ながらこのショパンで受けた啓示ともいうべき心証までは得られませんでしたね。

モーツァルトは才気が勝ちすぎているように思われましたし、ベートーヴェン(ディアベリ変奏曲”はこれも私にレセプターがないレパートリーであるし、バッハは確かに音色的にも独自の洗練というか爽やかさを感じましたが、これもこれから感覚的理解を深めていく必要がある演奏でしたね。

まぁショパンのマズルカ数曲というのであれば、私は迷わずこの盤を採る(次点はミケランジェリ)ということだけは、はっきりいえるディスクである・・・そういうことです。(^^;)

発端はリゲティへのオマージュか?

2007年10月09日 22時21分48秒 | 器楽・室内楽関連
★バッハ・リゲティ:シャコンヌ
                  (演奏:アントワーヌ・タメスティット)
1.J.S. バッハ:無伴奏パルティータ第2番ニ短調 BWV 1004(ヴィオラ編曲版)
2.リゲティ:無伴奏ヴィオラ・ソナタ
                  (2006年録音)

2004年ミュンヘン国際音楽コンクールの優勝者、アントワーヌ・タメスティットによる無伴奏ヴィオラ作品集であります。
タベア・ツィンマーマンの愛弟子で、先のコンクール以外にも数々のコンクールの輝かしい優勝歴がある由。

発売元(輸入元?)のアナウンスによると、「彼の奏でる音色は、らくらくとしていて温かい魅力に満ちています。ヴィオラ独特の深い色合いの音色から、きらきらと輝く音色まで、変幻自在の表現に、引き込まれてしまう」ということですが、まさにそのとおりであります。

虚心にその演奏を聴くと何者にもとらわれないで、いとも簡単に自分の表現したいものをその楽曲の中から取り出して見せてくれてしまうような、素直な音楽性が随所に垣間見られて誠に好感が持てるものでありました。

とにかくよくありがちな、わが意を伝えんとするばかりでやたらうるさいというか押し付けがましい解釈、これを感じなかったら罪ですといわんばかりの主張を声高に宣するような演奏とは全く無縁であります。
彼の演奏は手馴れていながらも喜びに溢れており、楽曲の精髄を別にありがたいものとも崇高なものとも思っていないようで、自分の恣意を交えることなく取り上げてみせる様にはある種脱帽せざるをえないという感が確かにあるのです。

繰り返しになるかもしれませんが、自分の雑念を介せずに作品の壁をひらりと飛び越え、軽々とお宝のありかを探り当ててみせるセンスはルパンのようでもあり、“どこでもドア”をもっているかのようでさえある・・・そんな風に思えてしまいますね。

テクニックというか、表現上の工夫をいたるところに駆使しているのでしょうが、先に言った作品の精髄と思われる部分を、深刻さとはほとんど無縁に描き出しているところに注意が行っているので気づかされることは余りないですね。
後から振り返って、そういえば多彩な表現がなされていたなと気づくような感じで・・・。(^^;)
でも、この演奏にそんな詮索は無粋だし、しても幸せなことではないでしょう。
単純にヴィオラの軽々とした響きに身を委ねているのが、このディスクの正しい聴き方であると私には思えました。

もちろん、ヴィオラを勉強している人であれば、ここにはヴィオラで表現できるしなやかな感性がこれでもかとばかりに散りばめられていますから、死ぬほど研究してくださいね。(^^;)


バッハのパルティータ第2番ですが、ニ短調である原曲をト短調に編曲したんでしょうか。。。
また、ヴァイオリン版に比して、ところどころ旋律のラインをオクターブ下げたり、楽器を変えたことに伴う変更が施されているようではあります。

その結果先にも述べたように、ヴァイオリンでは結構気負いこんだ深刻さを感じさせる音楽であったにもかかわらず、ヴィオラ・・・特にこの奏者だからかも知れませんが・・・では、ぬくもりと人間味という語り口が印象に残るものになっていました。


一方、リゲティはいいのか悪いのかは私には判然としない楽曲でありますが、タメスティットのヴィオラの音色の妙によって確かに存在意義の在る曲であることが実証されているように思います。

裏を返せば、バッハやロマン派の時代にはなかった語法・・・というより表現要素・・・を判りやすく奏者が示しているといえばよいのでしょうか?
もちろん、リゲティが楽譜あるいは解釈を示唆する場面で奏者にこのような音色というか表現の様式でするようにという指示を出していることも十分にありうるのですが・・・ここではそれを私に感じさせるまでに実現しえている奏者のパフォーマンスに対して讃辞を贈っておきたいと思います。

本当にこの奏者に関しては、しなやか、軽々という音色のキーワードがピッタリでしょう。
無伴奏にかかわらず、この特長を生かしてメランコリックな曲も世に問うてもらいたいもんだと思います。


さて、その他に引っかかってることとして、なんでこんなプログラムになったんでしょう・・・ということがあります。

昨年リゲティが亡くなったためにそのオマージュを考えた・・・ということは十分に考えられますね。

その終曲がシャコンヌであるから、作曲者本人はわざわざをバッハを意識していないと述懐しているにもかかわらず、件のシャコンヌを終曲にもつパルティータ第2番を編曲してまでカップリングにしたんでしょうか?

確かに、タメスティットの適性はあらゆる音響をきばらず軽々と生み出せるというところにあると思いますから、リゲティのヴィオラ・ソナタに求められる要素と適性はマッチするものと思われます。

何世紀もの音楽の影響をそこここに感じさせる多様な曲であり、ハンパな奏者の手にかかったら支離滅裂になりそうですもんね。
シャコンヌが同じバス音の反復の上に展開される舞曲であるということすら、気づくことができないまでにぐちゃぐちゃになりそうです。(^^;)

でも、バッハは編曲版の宿命とはいえ「バッハの意図したものが顕れていたのか?」と問うた時にどうかなと思うフシもあることは事実なんですよねぇ~。
あまり気づかせなかった語り口、多彩な音色でしなやかに、それも充足した演奏をしていたのですが、どうしてもシャコンヌなどもっと激しい情念的なものも内在しているように思われてなりません。

そこを、しなやかだけではなくて圧倒的に毅然とした一刀両断にする音色・・・言い含めるのではなく、強弁を振るうというかてこでも動かないような類の説得力をたとえ1ケ所でも聴かせてもらえたら全面降伏だったかもしれませんね。

それがなかったために、編曲までして「なにがしたいの?」という一抹の疑問が残ってしまったわけです。

演奏それ自体には、充足していますし何の不満もありません。
気鋭の新人演奏家の期待に違わぬ一枚といえましょう。
これだけの逸材による美音、ロマン派に期待したいですね。(^^)/


最後にさすがわアンブロワジー・レーベル、ここでも期待に違わぬ素晴らしい録音でヴィオラの音色をディスクに取り込んでいると思います。
再生した時に生々しさが違う、ホンモノを聞くより生々しいぐらい。。。

ホメて遣わす。(^^)v

ムキダシの内面

2007年10月08日 21時15分25秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:6つの後期ピアノ・ソナタ
                  (演奏:ピーター・ゼルキン)
 《DISC1》
1.ピアノ・ソナタ 第27番 ホ短調 作品90
2.ロンド 作品51の1
3.ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
4.ピアノ・ソナタ 第29番 変ロ長調 作品106 “ハンマークラヴィーア”
 《DISC2》
5.ピアノ・ソナタ 第28番 イ長調 作品101
6.ロンド 作品51の2
7.ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
8.ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
                  (1980年代半ば録音)

この記事の話題は今をときめくピアニストの一人であるピーター・ゼルキンが「何故コンラード・グラーフのフォルテ・ピアノを使用してこのような作品を録音したのか!?」という1点に尽きるといってよいと思います。

ご承知のようにピーター・ゼルキンは父にルドルフ・ゼルキンを持ち、祖父にはにはヴァイオリニストのアドルフ・ブッシュとかもいたりして、斯界ではどこぞの国の宰相はじめとするお歴々のような毛並みをお持ちのピアニストであるといえましょう。

そうであればこそ、逆に本人のプレッシャーも相当なものだと察することは難くありません。
現にピーター・ゼルキンも大変な苦労や努力を重ねて、現在あるべきところにあるという状況であることははっきりと見て取れます。

前にも触れましたがNHKでのブラームスの第1番のコンチェルトの熱のこもった誠実な演奏には、まさに現代の巨匠による演奏であると鳥肌が立ちましたし、バッハやベートーヴェンなど近年出されたCDでの充実振りを見るにつけ、いよいよ親の七光りではない新の自分の境地を切り開いたなという思いを強くします。

シューベルトの“幻想ソナタ”などの最初期の演奏からは、触れただけで血が滴り落ちるような繊細なこころを聞き取ることが出来ていましたが、今般のこのベートーヴェンもまたしかりであります。

一口にフォルテピアノと言っても、どうも3種類ぐらいの楽器を弾いている(もしかしたら録音の方法を変えているだけなのかもしれませんが、ハンマークラヴィーア・ソナタだけはゼッタイに楽器が違うと思います)ようにも思われるので、結構演奏のみならず楽器の選別に至るまで気を配っているんだろうと思わされますね。


さてさて、当然ルドルフ・ゼルキンの息子とあればそのベートーヴェンには特別のまなざしが注がれることになるわけでしょうし、実際注がれているわけですが、だからといってフォルテ・ピアノでの演奏で違いを際立たせたということでは断じてないでしょう。
この演奏を聴けば、必然的にそのように感じることができます。

とにかく中身について述べれば、まずこれらの中で特に印象深いのは第28番と第30番、そして第31番ですね。

第28番は一部のベートーヴェンの音楽の中には、シューベルトの音楽にこれほどまでに近いテイストのものがあるということに、はじめて気づかされました。
これはフォルテピアノで弾かれていることによる気づきであると思いました・・・。

そして、白眉ともいえる第30番・第31番(ディスクを分けて、なおシンメトリックになるような曲順にしているところも、いかにもこの頃のピーター・ゼルキンらしいですね)の演奏は、フォルテピアノであることもあって、すこぶるテンポが快速であります。

ただ、ここで聴こえてくるのは・・・たしかに本当に細部までとことん神経を張り巡らせた、そしてその尋常じゃない表現力は音楽的という意味でも最高度に完成されたものだとは思いますけれど・・・ピーター・ゼルキンのナマの声というか、それこそムキダシになった内面そのものであります。

それはテクニック的には余裕がある表現といっていいと思うのですが、とんでもなく切羽詰った印象を与えられる演奏なのです。
何か巨大なものに・・・もちろん、ご先祖様系もその一因だとは思いますが、それよりもなお大きなもの、音楽のありかたがこれでいいのかとか、自分の存在の仕方がこれでいいのかといったような哲学的なことを考えすぎて、あるいは考えあぐねているような印象すら覚える演奏。。。

言い切ってしまえば、どの演奏も確かにその曲を演奏しているのですが、本人が気づいているかどうかは別にして、聴き手に届けているのはすべて楽曲の内容ではなく「ピーター自身」の内面・・・これを判ってくれと声にならない叫びを上げているだけである、そう思えてしまうのです。
そりゃそういうのもアリでしょうけど・・・そんなの聴かされているほうはつらくなりますよね。

繊細な感覚をもつピアニストにとって、この楽曲の持つあまりにも多様な表情をたった一回限りの演奏で表現しきることはムリだったんじゃないでしょうか?
曲から感じる波動を自分のイマジネーションにより近づけて表現するためには、そのタッチが現代ピアノよりもさらに自分の意志同様に打ち震えて聴こえるフォルテピアノのほうが相応しいから、少しでも自身の目的に適うようにするための楽器選択だったのではないか・・・そんな風に推理してみましたが、どうなんでしょう?(^^;)


ところでピーターはこの後一度消息を断ち、チベットなどを放浪したりしたことで(結果的に)精神的な何かを修養したようですね。
私にはその必然性が判るような気がしました。

これだけまじめな人が、まじめに結果を求めて演奏の一回性ですべてを表現することができないということに思い悩んでしまったら、発狂するしかないでしょうからね。

とかく、欧米の考え方は真か偽かの二元論に陥ることが多いように思いますので、ピーターも楽曲をそのように捉えようとしたではないかと思います。
現実には作曲家はこれが正である(言い換えればそうじゃないのは邪である)ということを想定して作曲したケースもあるのでしょう。

しかし、楽譜と若干の指示、背景情報から判断した場合にはそこからなん通りもの考えうる解釈が発生してしまうのは当然だと思います。また、その違いをこそ我々は楽しませてもらっているのですが、ピーターは自らが責任を持って聴き手に提供する音響については「ただひとつの真実の解釈を完全に再現したい」と思いつめてしまったのではないでしょうか?

となると精神的にも参ってしまって何かの妥協をするか・・・というとそれも彼の性格ではできるはずもないでしょう。
というわけで、二元論ではなく特に仏教などにも影響を与えた考え方「真理などはない」万物は諸行無常といわれるとおり日々流転していて、完成というものなどなくその時々のスタイルでその途上を精一杯表現するというスタンスに傾倒することは十分に考えうることだと思うのです。

あるいはフォルテピアノによる奏楽も、そういった試みをはじめた中でのなんらかのトライであったのかもしれませんが、とにかくムキダシの放電状態の電線みたいなこころから「なくすべき緊張感」を排除する努力を営々とピーターは続けてきたのではないんでしょうかねぇ~。


そしてビクターのアーティストとしてゴルドベルク変奏曲でシーンに戻ってきたときには、情熱的、誠実という以前の印象は確かに理想的に残しつつも、実際にははるかにスケールを異なった対象(私個人から楽曲に内包されている表現さるべきトピック全般)に切り替えることで、リラックスも出来ながらも、さらにその真摯な芸風に一目置くことのできるような演奏の可能な巨匠に殆どなっていたといってよいと思います。

このピアノに念を送りながら演奏しているかのような名手の、これからの更なる充実への期待はいや増すばかりですね。(^^;)