SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

高橋多佳子ピアノ・リサイタル in あづみ野コンサートホール (その2)

2008年05月29日 02時00分00秒 | 高橋多佳子さん
★新緑の安曇野で奏でる 高橋多佳子ピアノ・リサイタル モーツァルト・ショパンからラヴェルまで

《前半》
1.モーツァルト:ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
2.シューベルト:即興曲 作品90より 第1番・第4番

《後半》
3.ラヴェル:「夜のガスパール」“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”
4.ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22

《アンコール》
※ シューベルト:楽興の時 第3曲 ヘ短調
※ シューベルト(リスト編):ウィーンの夜会第6番
                  (2008年5月24日 あづみ野コンサートホール)

さて、前半のシューベルトで“微温的陽炎感”とでもいうべき現世と黄泉の国のあわいに存在するともしないとも・・・という、私の先入観を気持ちよく木っ端微塵にしたうえで感激の鳥肌音響を放逸してくれた多佳子さん。
そのポジティブな響きに耳が洗われる思いであったことは述べたとおり。

毎度のこと(ここでは以前1回しか見ていないがきっとそうなのだろう)ながら舞台袖ではなく、多佳子さんが客席の間を颯爽と引き上げていくのを、普段よりいくぶん手を高めの位置で拍手して見送り休憩と相成った。
会場は石造りの教会を思わせるほどにひんやりしていたが、ここまでで私は随分と上気していたような気がする。


もともと今回の目玉はラヴェルだと私は考えていたのだが、なんのなんのこのシューベルトへの独特な入れ込みようを聴いただけで大満足であった。

・・・ところがぎっちょんちょん。
やはりこれだけで終わるはずもなく、終わってしまえば白眉はラヴェルだったと思える。
それほどのカンドーものだった・・・ということだ。(^^)/


休憩時間、私はシューベルトの余韻に浸って前の記事に書いたとおりの何にどう感動したのかをいうメモを思いつくまま走り書きしていた。
あそこはこんな風だったとか、ここは・・・と置かれた音、響きのニュアンスをしっかりと反芻することができた。


ところで、同じ時間に多佳子さんは休憩の楽屋で窓の外で鳴き騒ぐ「蛙の大合唱」に聞き入っていたんだそうな・・・。
(^^;)

周知の通り「夜のガスパール」はアロイジュス・ベルトランの幻想的・怪奇的な詩集のうちから3篇を選び、ラヴェルがその詩の内容に実に忠実に曲を付したもの。
第1曲“オンディーヌ”は水の精であり終始雨音とも水の雫がしたたり落ちる音ともつかない忙しない音型が、終始曲を彩っている・・・。

この曲は野島稔さんのディスクで初めて聴いてから、その美しさに魅了され続けてきたのだがポゴレリチ、アルゲリッチなどの技術的に完璧にしてどこかへ連れ去られそうなコワさを秘めた演奏、あるいはフセイン・セルメットの超ジックリ歌いこまれた演奏などにそこはかとない魅力を覚えてきた。
一方ではサンソン・フランソワの演奏のごときファンタジックな演奏もあり、これはこれで唯一無二のチャームを持っている・・・ただし、青柳いづみこさんの指摘を待つまでもなくなんだかアヤシい演奏なのである。

魅力的なんだからそんなことはどうでもいいのかもしれないが、テクニックが・・・というよりなんだか本能的というか確信犯的にアヤシいのである。
だからこそあの気分あるいは奏楽の風合いが醸し出されるのであれば文句を付ける所以はない・・・けど。
でも、あの気持ちよく騙されていたいという演奏も良いが、フツーの演奏でファンタジーやポエジーが表現できないものか・・・との思いはどうしてもあった。

演奏前の曲解説で多佳子さんそんな私に「夜のガスパールは夜の音楽で、『幻想的』に弾きたい」などと所信を表明されたので、正統的な奏楽によるファンタジックでポエットな演奏への期待はいや増すばかり。


具体的には、「オンディーヌは夜の深い森の中で蛙や虫が鳴いているイメージ・・・だから安曇野の田圃の蛙を聞いてイメージどおりだぞ!」って・・・なんて突拍子もないくせに、思わず膝を打ってしまいそうなコメント。。。
こんな説明をすれば会場にどっと笑いがあふれ緊張感はフッと消えることになるのは必定、こんなところも多佳子さんのかけがえのない魅力だなのだが・・・私は思わず「やられた!」と感じた。

というのは、かねて謎だったこの曲に感じる(フランソワ的)ファンタジーの秘密の核心を、これほどまでに捉えた文句はないと思われたから。

これまで長い間騙されていた、いや気付くことができずにいたオンディーヌの「右手音型の意味」・・・。
即ち、雨・水の雫・飛沫の音だけではなく、恐らくは霧や驟雨に煙った夜半の湖畔で深い木々の中で蛙や虫が鳴く・・・そんな“雰囲気全体”を右手に託したときに幻想性が現われるのだ。
そしてこの仮説は恐らく正しいのだろうと信じられる。

また、多佳子さんがそう弾くと言った以上はそのように聴こえるに違いないのだ。
ラフマニノフの第2番ソナタの冒頭が「ロシアの荒野を風がわたる情景」だと解釈され、そのとおりの風景が浮かんだように・・・。


ところで多佳子さんはこの夜のガスパールの演奏の際、ひとつのチャレンジをされた。
それは、それぞれの曲の演奏に先立って、楽譜に記載されているベルトランの詩を自ら朗読する・・・というもの。
小さい頃アナウンサー志望だった(未確認情報!?)というだけあって、なかなかのものだった。

ホールでできるだけの照明の工夫でムードを盛り上げたのも楽しかったが、スポットライトとか、朗読する詩を置く台を別途オシャレに準備するなどさらに快適な演出をされたらきっと評判を取るんじゃないか・・・?
つくづくエンターティナーだなと思う。
朗読を別人に頼む・・・という企画は見たことがあるが、そこまで自分でできちゃうところがいかにも凄いこと。
いろいろなお考えを持たれる聴衆はいると思うが、私は応援したい企画である。


さて、肝心要の「幻想的に」という目論見はどうだったのかというと・・・?
果たして宣言(?)の通り・・・蛙の歌でイメージトレーニング十分のそのオンディーヌの出だしから、あたりの空気は曲の雰囲気に一瞬で支配されることになり、私にはかのフランソワの幻想性をも凌駕する演奏とあいなった。

私の耳と心は半ばのめりこみ、半ば冷静に楽句のひとつひとつを追った。
演奏中にはそれと判るミスタッチもあったけれど、この曲全体が醸し出すアトモスフィアの中では何の懸念も起きはしない。

スタインウェイやヤマハと違う、ベーゼンドルファーの特質がよく生きた響きがオンディーヌの物語を綴っていく・・・途中の盛り上がりの迫力は「よくぞベーゼンで・・・」と思わせる迫力もの。
その際の下りが先日のヤマハのときのような響きとならないのは良くも悪くもピアノの性格の違い・・・どっちがいいとかではなく、純粋にその違いを受け容れて楽しむことができるように弾かれているように聴こえるのは、きっとピアノをよく聴きながらその表現を合わせているのに違いない。
だから、同じ曲でも何度も、それも違ったシチュエーションで経験しているとその分楽しみが増える・・・というのをまたも感じることとなった。


そして私がふと耳を留めたのは、最後のオンディーヌのモノローグになる単音のところ・・・それまでのピアノの響きがペダルで混濁しないよう精妙に残されながらオンディーヌがつぶやくのがとても新鮮な気がした。

多くの演奏で、ここはいったんすべての音を断ち切って、無音の中でオンディーヌに拗ねて憎んだ言葉を吐かせるものだという先入観ができていた・・・と思っている間に、オンディーヌはとてつもない水飛沫となって幻想感いっぱいにたゆたうように消えていった。。。


私はやはりこの曲目当てで、この曲の演奏に最も打たれた。
もちろん“絞首台”でも、執拗に打ち鳴らされる鐘の音・・・これをここまでリアルに意志的に続けられる集中力に感服したし、“スカルボ”ではご本人が初めてにしては発散して弾けたので良かったと述懐されたように、その運動性能とツッコミの激しさを満喫した。

確かにピアニスト自身が語ってくれたように、もっと曲中で制御できないといけないと思っているといわれる所以も判る演奏だったかもしれない。
そして、これも言われるようにさらに弾き込んで曲を手の内に入れれば、毎度のショパンあるいはこの日のモーツァルトやシューベルトの楽曲で、細心のコントロールで絶妙なコントラストを鮮やかに決めたごとく完成度はあがるのだろう・・・。


でも、私はこの演奏を聴いてさえ、なんともいえない満足感をいだくものである。
それはタイガー・ウッズが350ヤード飛ばすのは、力いっぱい振り切ってかっ飛ばすからであって、多少フェアウエイの端の方に飛んだとてそのショットに触れたら身震いするのと同じ感覚といえばいいのだろうか?

つまり、初演の曲であるといいながら、その演奏は力いっぱい疾走し“スカルボ”が独楽のように回転して、駆け巡っているさまが疑いなくすごいスケールで展開されていたから・・・である。
こういった態度で提供された曲を「高橋多佳子節」と言わずしてなんと表現してよいだろう・・・。(^^;)

そして、曲は最後、蒼白く燃え尽きるかのように、この上なく玄妙に消えうせた・・・。
ここのコントラストとニュアンスは、この曲史上初めて聴いたと言ってよいほどまでに鮮やかに決まっていた。


私の演奏会行脚の歴史上、これまで「ブラヴォー」と声を上げたことはなかったが、後ろですかさず声が上がったことに背中を押されて、私も(3番目に)とうとう声が出た。(^^;)
これはおぞましくも凄いことである。言おうかなと思っても、理性で抑えちゃう人だから・・・。
ちなみに、私の後にももうおひとりブラヴォーを投げた人がいたので「最後じゃなくて良かった」なんて内心思っていたりもする。^^


さて、最後のショパンだが、さすがにスカルボの後なので、一旦袖に引っ込んで出てこられたものの、まだ息も荒い様子。
それでもラヴェル初演で「細かいことはともかく発散できたのがよかった」と手応えを感じた旨のコメントと、ショパンの作品の説明のうちにはペースを取り戻されたようだった。


アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ、この曲の説明として「若きショパンの野望・憧れなどが詰まった曲である」に異論はないが、その通りに弾けちゃっている演奏はそうそうお目にかかれないのではないか?

流れるようなアンダンテスピアナート・・・アルペジオの表情と装飾音の輝き、煌きを何に喩えたらよいものか・・・そしてよくぞあの体躯で力強く弾き続けられると会場全体が驚いていた大ポロネーズ。
期待通りの素晴らしい演奏で私としてはまったく安心して聴けちゃった。
弾いてるほうは大変なんだろうが・・・。

これにもブラヴォーが飛んでいたが当然だろう。私は安心しきっちゃってたので口にでなかったが。(^^;)


アンコールだがシューベルトに因んだものが2曲。
ラ・フォルネ・ジュルネのために準備したという有名な「楽興の時第3曲」、そしてリスト編のヴァルス・カプリース「ウィーンの夜会第6番」。
ポロネーズから続いて舞曲つながりかなという気もしたけれど、それはきっと重要なことではない。

多佳子さんの魅力は伴奏(左手)の小股の切れ上がったシャープなリズムにもあるとかねがね思っているが、朴訥としたリズムの運びがとっても味わい深かった。
メロディーもロシア風といわれるけれど、とてもチャーミングに印象深く弾きあらわされていて、簡素な曲だけれど聴き応えはあった。
もっともそれまでに聞いた曲が曲なだけに、相対的に軽いといってしまえばそれまでだが。

ウィーンの夜会でもいくつものワルツが展開していくところもさることながら、最後の装飾音の表情たるや・・・期待して聴いたけれどその期待のはるか上を行くチャーミングさでウットリ。
しかしアンコールににしては・・・大曲を弾いてくれることが多いよな。(^^;)

ここでの演奏はホロヴィッツ・ヴァージョンだったんだそうな・・・実は、どこがどうだからホロヴィッツ・ヴァージョンなんだかわからないのだが、なにはともあれ大団円である。



あとはいつものようにサイン会で丁寧に日付入りサインをいただき、今年はなんと写真にも収まってしまって光栄な限り。

多佳子さんとのお話の中ではラヴェルは是非録音したいとのこと・・・心強い限りである。
実現するようにあらゆる応援(と言って祈るぐらいしかできないが)をしちゃいたい気分!


その他、シューマンのクライスレリアーナもレパートリーに加えようかという意向をお持ちだそうで、これで私のシューマンへの苦手意識もなくなるかと思うと慶賀すべき事柄である。
思えば、かのペライアが第1曲を「まるでバッハだ、バッハしてるなぁ~」とノタマわっていたことを思えば、バッハ→ショパン→ラフマニノフが一連の流れの中にあると仰る多佳子さんにとっては、やはりシューマンを弾く場合のファーストチョイスになるのだろうか?

私的感覚では幻想曲ハ長調作品17のカオスを内包して滑るように疾走して行くさまも多佳子さんにはぴったんこだと思うのだが・・・そしてその被献呈者リストが謝礼としてシューマンに贈り返したロ短調ソナタも・・・と勝手に夢は広がっていく。(^^;)

そのリストだが、巡礼の年第2年の“ダンテを読んで”にはチャレンジすると仰っていた・・・冒頭の強打のほどよい緊張感から聴きものである。
これは文句なく多佳子さんに合うだろう。
女流だとその前のペトラルカのソネットをまとめて・・・という選曲が多い中、大いに頷けるところではある。


ファンだから、何を弾いてもらっても嬉しいんだが・・・。(^^;)

多佳子さん。
声援はずっと送りつづけるから、これからもステキな音楽を紡ぎ出してくださいね。
できれば録音もなんとか。(^^;)
よろしく。

高橋多佳子ピアノ・リサイタル in あづみ野コンサートホール (その1)

2008年05月26日 01時14分37秒 | 高橋多佳子さん
★新緑の安曇野で奏でる 高橋多佳子ピアノ・リサイタル モーツァルト・ショパンからラヴェルまで

《前半》
1.モーツァルト:ソナタ 第10番 ハ長調 K.330
2.シューベルト:即興曲 作品90より 第1番・第4番

《後半》
3.ラヴェル:「夜のガスパール」“オンディーヌ”、“絞首台”、“スカルボ”
4.ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22

《アンコール》
※ シューベルト:楽興の時 第3曲 ヘ短調
※ シューベルト(リスト編):ウィーンの夜会第6番
                  (2008年5月24日 あづみ野コンサートホール)

今年も安曇野に行けてよかった。
心からそう思えるコンサートだった・・・。

安曇野に高橋多佳子さんを聴きに足を運ぶのはもう3度目になる。
前回・前々回のときもそうだったが、あづみ野コンサートホールに集われる「高橋多佳子のピアノを聴く会」のみなさまにはお世話になりっぱなしだった。

コンサートの始まる前にも後にも、ホントにあつかましくもありがたい経験をさせていただいてしまった。
冒頭にまず、衷心からの御礼を申し上げたい。

ありがとうございました。m(_ _)m



今回のコンサートでは、ピアニスト高橋多佳子さんが初めて人前で披露するレパートリーが多かった。
シューベルトの即興曲第1番、ラヴェルの夜のガスパール“絞首台”“スカルボ”がそうなんだそうだが、後述のように高橋多佳子というピアニストを聴きに集った聴衆はとても幸せで満足な気持ちで会場を後にできたのではなかろうか?

私は、今回のコンサートに最も感激したと断言する!
このことはピアニストご本人にも言明済である。(^^;)



実演に触れるのは久しぶりになってしまったが、「表現者」高橋多佳子は健在どころか、さらに進歩し飛躍を遂げていることが感じられた。

音色のパレット、アゴーギグ・デュナーミクの幅・演奏上のあらゆるコントラスト・・・どの点をとっても私にはしっくりくる。
細かいことを言ってもしょうがないが、何より常にポジティブかつアグレッシブに曲に立ち向かっていく・・・否、曲に対立的に対峙するのではなく、曲と一心同体に同化したうえで自由自在に「高橋多佳子」流にドライブすると言ったらいいのだろうか?
これが何より爽快であり、しかるに心を揺さぶられるのである。


私にとって、もはやこのピアニストのショパンを演奏する流儀が「ショパン流」なのでショパン演奏に関しては公平に判断できないかもしれないが、他の作曲家のものには明らかに「高橋多佳子がこれを演奏しました」という刻印がなされていた・・・などとちょっとシューマン風にも書いておこう。(^^;)

私の感覚に従えば、多佳子さんは・・・ショパンを除いては・・・その作曲家のありようが正しく演奏のいたるところから感じられたり、滲み出たりするところを皮膚感覚で捉えたり、ヘタをしたら探し回らなければいけないような味わい方を期待するアーティストではない。
「どこを切っても生きのいい高橋多佳子節」という演奏こそが、私を元気にしてくれるのだ。(^^;)



さて、例によってコンサートホールには早めに到着したので、ロビーでぼんやりと会場からリハーサルのピアノの音が漏れてくるのに聞き耳を立てていたのだが・・・

あれ、スカルボのパッセージだったのが知らぬ間にスカルラッティの曲に・・・
  ・・・“スカ”が一緒だからどっちでもいいってか???

あれ、モーツァルトはK.330を演奏するとプログラムにあるのにK.310が聴こえる・・・
  ・・・それもフレージングを入念にさらってる・・・???
別に「20もサバ読んでる」とは思わなかったが・・・。

コンサートの準備なんだから別に何を弾いても文句はなかろうが、プログラムが変わるのかな・・・なんて勝手に想像してたりして。
いつもながら独特なリハーサルの要領である。




果たしてコンサートは予定通りK.330から始まった・・・やっぱり。(^^;)
ハ長調の素直で明快な曲であり、以前聴いたK.333のようなコロコロ音を転がすようなモーツァルトとはちょっと違った印象。

ここで気づかされたことは、ベーゼンドルファーの澄んだ乾き気味の素の音とペダルを踏み込んだ時にジュンと潤う音の差を意識した絶妙な節回し。
キュートにアクセントをつけたり、フレージングにせよ自然な流れのうちにあらゆるコントラストつけることで愉悦感を感じさせてくれる。

モーツァルトを聴くのに長けていると自認する人の中には、グルダをやりすぎとか言うかたもいるように、多佳子さんの演奏にも作為・工夫を凝らしすぎと感じる向きもあるだろうが、モーツァルトが天衣無縫に音楽的にはやりたい放題を盛り込んだのだとしたら、果敢に表現しに行っていけないはずはない。

誰が何といっても、私にはこのうえなく楽しく聴くことができるものだったからそれでいい!
・・・と言っちゃったらおしめぇか。。。(^^;)



そして初出のシューベルト。
シューベルトを聴くに関しては、私は人後に落ちないつもりである。(^^;)
ショパンより多くのディスクを持っているし、D.960に関しては47種類、即興曲も20余種を数えるものを聴き比べているのだから、そのように言っても許されるのではないか?
ただしシロートの偏頗な耳しか持ち合わせていないことはお断りしておかねばなるまい・・・。(-"-;)

そして結論から言えば、高橋多佳子のシューベルトを余すところなく聴くことができた。
つまり、これまで誰も見たことのない「シューベルトの新しい地平」を見、誰も聴いたことがない「新しいシューベルト像」が打ち立てられたのを聴いたのである・・・って大袈裟か?(^^;)

だって「鳥肌立ちっぱなしだったんだもん」と言ったとて説明にはならないが、それぐらい感激した。

シューベルトにはD.958やD.959それぞれの第一楽章のような押し出しの強いように思える曲もあるが、ここで畳み掛けていくぞというところでいきなりショボくピアノになってしまうようなところがある。
これがD.960や殊にD.894なんかになると、「生と死のあわいに」というか、もはや体が半分透き通っちゃってこの世とあの世の境でエコーを聴いて佇むのみという感じになってしまう。

くどいようだが、あくまでも私のイメージではであるが・・・。

即興曲第1番は悲劇的であるなかに麗しい旋律も織り込まれるものの、運命に翻弄されまくって最期はそれでも安らかに悟るか、諦めるかする・・・というイメージの曲である。
だから、曲の精神というか本質を抉り出すのではなく、楽曲を美しく聞かせるという種の演奏であれば別だけれども、激しい曲調にどうも流されるまま抗えずに果てて終わりました・・・という演奏が多いように感じる。
もしくは、最初から終いまで悲劇のカタマリであるとか。。。


しかし高橋多佳子さんのそれは違う。
まず主体が確固として「存在」し、積極的にもがき前進することをやめない。
とにかくポジティブであることをやめないで、死ぬまでの時間にあって「死ぬ」ことではなく今この時間を「生きる」ことのみを考え抜いて、生き抜いた超前向きなシューベルト。
強靭な表現への志向がそんなことを感じさせる。

だれあろう私のごとく、シューベルトに対する先入観を持っているならば「これは一般的に認知されているシューベルトとは違う」ということにもなろう。
事実、多佳子さん以外がこの流儀で演奏したら「わかってないヤツ」と思ったかもしれない。
でも実際には、冒頭のオクターブのト音、そして単音で紡ぐテーマ・・・ここで最早名演奏を確信してしまっていた。

ト音が鍵盤をひっぱたかないのにあんなに強靭な音がでる訳・・・は終演後に教えてもらうことができた。
技術的な「脱力」のしかたのメソッドで、ここ1年このスキルをマスターすることが出来たと多佳子さんが自認するところであった。

コンサートホールのベーゼンドルファーはかつてなく雄弁に鳴っていた。それは容易に聞き取ることができた。
事実、楽器の鳴りもどんどんよくなっているだろう。そして調律師による調整も精緻に為されていたとは思うけれど、私にはピアニスト本人の技術的な進歩が少なからぬ要因であろうと信じられてならない。


またはじめの旋律が和音になるところ、楽譜上はスタッカートの指示があると思うのだがここが絶妙であった。
私にはツィメルマンは明快に切り過ぎだと思えるし、かといってテヌート気味に弾かれちゃってもおかしいように思われるのだが、どんな魔法を使っているかは知らないがハギレはいいけどブツ切れにならないという絶妙な重さで弾き進められていった・・・。

その後はとにかく第4番も含めて傾聴させられっぱなしであった。
先の旋律の処理のように細かいことを言い出せばキリがない。例えば第1番の甘美なメロディーを支える3連符の音の処理(いつも聴いてる版と違ったのかもしれない)が凄く素敵であったとか・・・とにかく、ベーゼンドルファーならではの響きに食い入ったというかのめり込むばかり・・・この感激は「不立文字」というほかはない。


曲間の作品解説において作品90第3番の即興曲に関して、同じく変ト長調であるショパンの即興曲第3番作品51への影響を指摘された多佳子さん。
じぇんじぇん気付かんやったぁ~・・・って、普通気づかないと思うけど。(^^;)

「弾き比べてみたい」って、それナイスアイデアじゃなくって!?
ぜひ実現させてほしいものである。。。


ともあれシューベルトはこれまで食わず嫌いだったが、安曇野のお仲間からのリクエストがあったのでチョイスした・・・とのことだった。
こうなると、私としてはリクエストしてくれたかたには感謝してもしすぎることはない。
多分あの方だと思うのだが、ご本人が何ゆえか煙にまいてらっしゃるのかまかれてらっしゃるのか定かでないのでホントの所はよくわからない。

とにかく御礼だけ言わずにはおれないでいる私。。。(^^;)


・・・などと自分の書いた文章のヨッパライ加減に煙にまかれつつ、白眉のラヴェルを含む後半へつづく。
(ちびまる子ちゃん風)

後半発表は、早くて出張明けになる。それがいつかは・・・ナイショにしておく。(^^;)

どうしても・・・

2008年05月12日 00時10分23秒 | ピアノ関連
★ショパン:4つのスケルツォ ほか
                  (演奏:ジャンルカ・カシオーリ)
1.スケルツォ第1番 ロ短調 作品20
2.スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31
3.スケルツォ第3番 嬰ハ短調 作品39
4.スケルツォ第4番 ホ長調 作品54
5.ポロネーズ第3番 イ長調 作品40-1
6.ノクターン第2番 変ホ長調 作品9-2
7.ノクターン第5番 嬰ヘ長調 作品15-2
8.ワルツ第1番 変ホ長調 作品18
9.ワルツ第3番 イ短調 作品34-2
10.ワルツ第7番 変二長調 作品64-1
11.子守唄 変二長調 作品57
12.即興曲第1番 変イ長調 作品29
13.幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66
                  (2004年録音)

どうしてもこのカシオーリという人のポートレートを見ると、ハリポタが頭に浮かんでしまうのは何故だろう・・・?
やっぱ似てるよね。(^^;)

あのルチアーノ・ベリオにエリオット・カーター、そしてかのマウリツィオ・ポリーニ肝いりのウンベルト・ミケーリ国際ピアノ・コンクールで優勝したのが1994年・・・って、私も年取るわけだ。
でも今年まだ29歳だってことは、彼は15歳で優勝しちゃったってこと!?
今だったらゼッタイに、なんとか王子って名前がついていそうですね。(^^;)


この演奏から感じること・・・。

専制君主的、理不尽、不条理、バイオレンス、スペクタキュラー、やたらバス音を鳴り響かせちゃっている、か細いくせになかなかしぶとい正義、ヒロイックな美学、軟弱(軟体動物的)な柔軟さなどなど。
そしてそれらはスケルツォの解釈にとっては決して誤っていないようにも思われます。
(その他の楽曲については甚だ疑問ですが。。。(-"-;))

これらになじめるかと言われると拒絶したくもなるが、「そんなのアリ?」かどうかを冷静な目で見てみるとどうしても「ない!」とは言い切れない。(^^;)
コセコセした登場人物や心証も現われることがあって、彼の解釈中それは同一人物なのか、別のキャラクターなのかわからないけれど、聴いている私には映画の展開を見ているような錯覚に陥るぐらい生なましい。

それにしてもこの演奏、ピアノの表現力(ありとあらゆる音色・フレージング)を駆使しそれを最大限に発揮している点については、どんな立場のオーディエンスであっても認めないといけないでしょうね。
ホントに不思議なくらい従順にピアノが音を発散している感じがします。
もちろん、それを引き出している「主語」はピアニストに他なりませんから、彼カシオーリの魔術・力量であるとはいえます。

やや破滅的で、オタク的、かつ許せないまでの優柔不断なキャラクターが続々と顕われるので、体育会系の人や、質実剛健・教条主義的な人にはどうしても“うにょ~っ”と感じられてしまうかもしれませんが、芸術家それぞれにいろんな捉え方があるわけで、最高度の技術をもって何を表現するか・・・これだけはアーティストの特権ですから黙って聴くほかないでしょう・・・。

ようするに、私はこの解釈にはやはり注文をつけたいところがある・・・そういうことです。
ここまで濃密に格調高く確信犯で与太られてしまうと、どんなにすごく可能性や説得力を感じたとしても・・・ね。

こういった自分の感覚とのズレがあったとしても、風流に受け流して聞けるようになりたいなぁ~。(^^;)

否、ここまで新鮮な感覚で自在に表現する力のあるひとに、自分の考えたとおりの解釈で曲を再現してもらえたら・・・でもそんなんじゃピアニストが乗り気にならないか。。。(^^;)

彼らへの報酬(お金だけじゃないだろうけど)も提供できそうにないしね。
ありものを楽しんで聴かせてもらえる・・・それだけでありがたいことと思わなきゃ!

聴くに耐えない・・・ものも中にはなくはないから・・・ね。(^^;)

てなわけで・・・ご立派!!