SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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《ショパン with フレンズ》 “ピアノと文学”~シューマンとともに

2010年09月12日 02時57分00秒 | 高橋多佳子さん
★《ショパン with フレンズ》~奇跡の年 コンサートシリーズ
デビュー20周年記念&ショパン生誕200年記念  高橋 多佳子 ピアノリサイタル    

第2回 “ピアノと文学”~シューマンとともに
《前半》
1.R.シューマン :アラベスク ハ長調 作品18
2.R.シューマン :クライスレリアーナ 作品16

《後半》
3.F.ショパン :バラード 第1番 ト短調 作品23
4.F.ショパン  :バラード 第2番 ヘ長調 作品38
5.F.ショパン  :バラード 第3番 変イ長調 作品47
6.F.ショパン  :バラード 第4番 ヘ短調 作品52

《アンコール》
1.R.シューマン :謝肉祭 作品9 ~ 第12曲 ショパン 
2.F..ショパン  :ピアノ協奏曲 第2番 ~ 第2楽章 (高橋多佳子編:ピアノ独奏版)
                  (2010年9月11日 浜離宮朝日ホールにて)

今日、はじめて開演前にコンサートのレポートを期待しているというお言葉をいただきました。
もともと書く予定でしたが、もしお声がかかったのが「オーダー」だとしたらこれほど光栄なことはありません。
もともと楽しむために会場に来ているわけですが、否応なく気合を入れて、聴くことになりました。

コンサート会場では、お名前を存じているかどうかは別にして、私以上にピアニスト高橋多佳子を気にかけておられる人がいっぱいいらしゃることを感じます。
終演後のサイン会で、いくら一人ひとりに丁寧に応対されているとはいえ、1時間余も列が絶えないアーティストはそんなに多くはいない・・・私はそう思います。

多佳子さんのことが気になる人、多佳子さんを気遣う人たちならではのいろんなお話が伺える(けっこう私も喋るけど)ので、待ってる間も気にはなりません。

わけても・・・
ひとりのリサイタルのときはいざしらず、最近さまざまな共演者を迎えてコンサートやメディアに出る機会のレパートリーが必ずしも多佳子さんに合っているものばかりではないのでないか?
特に何度かあったラジオ収録の時のプログラムは全国にアピールする機会でもあり、相手を立てる楽曲ばかりでなく、もっとご自身の良さが発揮できる選曲があるのではないか・・・
このような問題意識をお持ちの方まであり、思わず唸らされてしまうばかりです。

全国放送と言われても、これまでのものは聴いていないし、ご本人から10月9日オンエアと告知されたNHK-FMのデュオ・グレイスにせよ、何を弾かれたかはそういえばわからない。。。
しからば・・・
と思って入場時にもらったチラシでアンサンブルのものはないか、と見たらありました・・・
E.ジラールさん、神谷未穂さんと一緒にサン=サーンスのハバネラ、ドビュッシーのチェロ・ソナタ、ラヴェルのピアノ・トリオ・・・
なるほど・・・

全部聴いてみたい曲ばっかりじゃないか!?
・・・と書いてしまうと「裏切り者」と言われてしまいますな。。。

そうじゃなくって、これらが多佳子さんにあっているか・・・を論点としないといけないでしたっけ!?

それじゃ、聞いてみないとわからないというのが答・・・になってしまいます。(^^;)


でも・・・
ブラームスの1番のトリオは名演だったと思いますが、そのほか聴いていないレパートリーではメントリとかショスタコのトリオとか・・・
本当に幅広く手がけておられるし、他の楽器のソリストの意向を汲んでなおケンカしないでアンサンブルしようと思うと、どうしてもガマンしなきゃならない瞬間も出てくるのかもしれないと、気にかけておられる方の言い分に納得もできます。

私も会社の先輩とバンドを組んでいたときに、自分のやりたい曲はどんどん言えといわれ、どんどん言ったのに採用されたのは後にも先にも1曲だけだった時にはフラストレーションがたまりました。

そこを気にかけておられる大ファンがおられる。。。

自分の実力を発揮できる、いやアンサンブルが気持ちイイ以上に自分が弾いていてきもちのいい聴き映えのする曲も選んで欲しい。

アーティストにとって、選曲にまでこんな思いを抱くファンがいるとしたら最高に幸せなことなんじゃないでしょうか・・・
そして、そういった選曲になるコンサートによって、みんなが更にハッピーになれるのかもしれません。

私はといえば・・・
ご自身に合った曲・弾きたい曲だけを提供して欲しいという気持ちと、あらゆるレパートリーを聴いて見たいという気持ちがないまぜになった気持ちですね。
かなりズルイ立ち位置のようにも見えますが。。。

          

サイン会の話に戻して・・・
こちとら聴いてただけですからへっちゃらですが、ピアニスト(多佳子さん)にしてみれば本番だけでも2時間以上両手を駆使してなお大量のサイン・・・
すごいことだと思います。

この写真は、長蛇の列の最後尾に並びいちばん疲れた手でいただいたサインです。
ありがたみも、いや増します。(^^;)

                  

さて・・・
ショパンと彼の同世代のピアノ音楽に大きな影響を与えた大作曲家、メンデルスゾーン・シューマン・リストの3名にスポットを当てたコンサートシリーズ“ショパン with フレンズ”。

第2回は“ピアノと文学”と題してシューマンの著名曲と、器楽曲にショパンが初めて詩型の名を当てはめたバラードを併置した、今回は前回よりもすっきりとしたうえ魅力的なプログラムです。
この選曲は意欲的で腕に覚えがないと出来ないとは思いますが、前回のように知的好奇心を動員せずとも、ショパンとシューマンのエピソードを知ってさえいれば、「何でこの曲?」をという理由はすぐに理解されるものといえるでしょう。


それは、多佳子さんがコンサート中に解説してくれたことでもありますが・・・
1.シューマンとショパンの接点は、文筆家としてのシューマンの「諸君、脱帽したまえ!天才だ!」から始まる。
2.クライスレリアーナはクララに想い焦がれて作ったくせに、ショパンに献呈されている。
3.返礼にショパンはバラード第2番をシューマンに献呈している。
4.ショパンがシューマンを訪ねた際に、シューマンがバラード第1番が好きだと話し、ショパンはシューマンに未完のバラード第2番などを弾いた(らしい)。

これぐらい当人同士の間でイワク因縁・結びつきのある楽曲であれば、それぞれに最高傑作の呼び声も高いわけですからまさに王道のプログラム。
相当、勇気が要るでしょうが、やりがいもあるという多佳子さんらしいプログラムであるともいえましょう。

ご本人の口からはもちろん出ませんでしたが、新しいディスクの看板曲でもありますしね。(^^;)
選ばんわけにはいかんでしょう・・・。^^

          

さて、肝心の演奏についてですが・・・
多佳子さんは、凄く気合が入っていました。これは終演後にお話したときにご本人も認めておられるところです。

やはり・・・
自ら企画してクラシックの演奏家としての真価を問い、問われる機会だと、このリサイタルは期すものが・・・当然に・・・あるだろうことは想像に難くありません。

充実した気力に恃んで、プログラムの楽曲では終始“仁王立ち”というか“横綱相撲”とでもいうべき、いつも以上に安定した至芸を堪能させていただくことができました。
もちろん、横綱相撲とて相手のまわしを取り損なうことだってあったと、ご本人はいつものように反省するところはいっぱいあると思われるのでしょうが、私に限っては、コンクールの審査に行っているわけじゃないので、サッカー・ワールドカップのように白熱したガチンコの演奏を耳に出来ただけで大満足でした。

まぁ・・・
ご本人にも「贔屓耳」と言われてしまうぐらい、「高橋多佳子が正しい」と信じて聴いている私がリサイタルに満足するのは当然であります。
たとえそうであるにしても・・・
基本的に贔屓耳の人たちがリサイタルに来るんでしょうから、いつもどおりの精一杯のパフォーマンスを提供していただければたいていのひとは満足するんじゃないかと思いますが。。。

聴き手がするはずのリサイタルの評価って、演奏家本人のそれとはゼッタイ違うので、自分のサイドで聴き手の判断を惑わすような言動をしちゃうことはないのに・・・
多佳子さんにはこのことをしばしば感じるのですが、それがピアニスト以前のニンゲン高橋多佳子さんのステキなところだということもできましょうから、私がぐちゃぐちゃ言うことではありますまい。
(と、さんざん言ってから断るのはヘンか・・・?^^)

                  


今回のプログラムには、今後の自分のシューマンの聴き手としての資質を開拓するために得るべきものがあるかもしれないとの期待を抱いて会場に赴きました。
結論として、やっぱりシューマンは誰が弾いてもシューマンだと思うところが強いのですが、それでも少しながら端緒を摑んだ気がしたことは大いなる収穫・・・でした。


シューマンという作曲家・・・
アルゲリッチの子供の情景・クライスレリアーナを皮切りに、数多のディスクを耳にしました。
印象に残っているのはアラウ・ボレット・リヒテル・ブレンデル・アチューカロ・アシュケナージ・ポリーニ・ペライア・シフ・ルプーなどなど・・・
我が国のピアニストでも内田光子さん、伊藤恵さん、小山実稚恵さん、そして今日お会いした宮谷理香さんなど(女性ばっかり!?)・・・
実は、シューベルト・ラヴェル・ショパンに次いでドビュッシーやベートーヴェンと同じぐらいの枚数のディスクを持っています。

でも・・・
圧倒的に聴く機会が少ないなぁ~。

シューマンのピアノ曲に関しては、クララとの結婚前夜の作品を中心としてほとんどの曲のフシをそらで覚えています。
要するにこの曲の展開で次はどうなるかが、ほぼ頭にこびりついている程度には曲に触れているのです。
そして・・・
幻想曲ハ長調と小品の連作の一部にはまことに麗しいものがあって、ピアノ音楽の恩人にして大作曲家であるという世評を是認することにはまったくやぶさかではありません。

まどろっこしい書き方をしておりますし、以前にも何度も書いたことですが・・・
でも・・・
つまるところ私と肌合いが合わない・・・
そう思い込まずにはいられずにいる作曲家なのであります。


シューマンを熱烈に好きだといわれるアーティストや音楽通にはことかかないし、その気持ちもわかるような気がするのですが・・・
私には、どうしても彼の作品の中にえげつなさ、くどさ、暑苦しさが感じられてしまうのです。
また・・・
私に言わせれば彼の楽想はたとえばスクリャービンやメシアンよりも意味不明だし・・・
あれほどシューマンの音楽をあちこちで弾きまくって世に広めたクララは、どこが気に入っていたのか?
それにもまして、シューマンの熱意以外のどこに惚れて結婚したのか聞いてみたいとさえ思わずにはいられない・・・そんな音楽家であります。

もちろん・・・
そんなことはない、素晴らしい作曲家だと仰るかたは大勢いらして当然だと思ってもおりますが、ただ、私のようにシューマンを捉えている音楽好きも少なからずいらっしゃるのではないでしょうか?

かつては、リスト(ロ短調ソナタ・巡礼の年)やドビュッシー(前奏曲集)にせよ一部の楽曲を除き意味不明だったものを、いろんな演奏家のいろんな演奏解釈や比喩の言葉によって稀代の名曲だと信じられるようになった例など、枚挙にいとまがありません。

しかるに・・・
こんどは多佳子さんの演奏や説明からシューマンとおつきあいする“よすが”を見出せないか!?
なにか、ビビッとくるものが感じられないかという期待を持っておりました。


とはいえ・・・
思い起こせばラフマニノフのディスクが出たとき、あるいはラヴェルの演奏会での説明に、多佳子さんは楽譜から読取ったものを絵画的に頭の中で処理をして、そのイメージで演奏すると仰っていました。

ラフマニノフのソナタ2番の冒頭では、高い山から滑り落ちた風がロシアの湖の上をはるかに渡っていくイメージが浮かんだものです。

これに対してシューマンの音楽は、感覚的に音響を積み重ねているだけに見え私には意味性が伝わってこない・・・
気分の悪いドビュッシーみたいな曲想も持ち合わせている楽譜を読んでどんな絵を描くのか?
もしもそれが描けなかったら何を頼りに演奏されるのか・・・ここは気になるところです。

                  

結論を言えば、少しだけとはいいながら先々けっこう大きかったといえるかもしれないヒントが聞けました。
それは・・・
「透明な瞬間」がある・・・という表現、無垢にはじけた(突き抜けた?)瞬間という意味で捉えると思い当たる曲、そしてそれを感じさせる演奏があります。

リヒテルによる色とりどりの小品の冒頭の曲・・・あの出だしは忘れられません。
子供の情景の第1曲「見知らぬ国から」にせよ、小さい頃夕暮れにピアノの音をポロンと鳴らしてその響きに心を委ねて感傷的にナミダしたなどと言われる彼の感性が、普遍的なものとして楽譜に留められていると感じられる瞬間をもっている・・・
もちろん弾き手の解釈にもよりましょうが、確かに「透明な瞬間」はあると膝を叩く思いがしたものです。

そして・・・
クライスレリアーナの第2曲などに、その瞬間を見出すことが出来た時は、やはりこの感覚的な感傷を風流に味わうのがシューマンへ登頂するとっかかりなんだと感じました。
オイセビウス的な面で、とても魅力的だと感じたのはまずそこです。
多佳子さんが幻想曲ハ長調の第3楽章を夢見がちに演奏したらどうなるのか・・・振り返ると今後ぜひ聴けたらいいなと思う楽しみができました。

対して、フロレスタン的な面では、バスの力強い音に支えられて向かうところ敵なしで前進する音楽にそれを感じました。
テノール領域だけでなく、バスの音色・リズムともに多佳子さんにしかブレンドできないノリとでもいうものが、非常にスパイシーに曲の中にあしらわれていた・・・そう思います。

ただ・・・
やはりシューマンはシューマン。
局所的に絶美であったり、透明に抜けたりして思わず耳をそばだてることはあっても、フロレスタンとオイセビウスを対比しているとわかっていながら、どうしてもとっちらかった印象が残っているのは否めません。
そういう曲だから・・・
というのが、今のところそう思う唯一の理由です。

どのように全曲とおして、一貫した愛着を持って聴けるようになるのか?
いや、一生かけてもそれはできないのか・
それが・・・
これからのシューマンとのお付き合いのポイントになるのかもしれません。

実は・・・
コンサートの余韻を消さないよう、今日先行発売されていたシューマンの新譜はまだ聴いていません。
これからは、このディスクがシューマンの地獄・煉獄・天国を案内してくれるウェルギリウスになってくれる・・・
そうだといいなと思っています。
少なくとも、シューマンの熱にほだされただけのかたの演奏では、きっと私が満足することはなくなったでしょうからね。(^^;)


後先になりますが・・・
アラベスクは、以前聴いたときには例えばアラウの「むん」といった感じの演奏を連想させる重厚なテンポ・解釈を採っておられたように思いましたが、コクはそのままにずっとテンポも軽快になっていたように思います。
ピアノとの相性かな・・・今日の方がはるかに普遍的で聴きやすく素敵に思えました。

以上、シューマンの音楽同様、まったくとりとめのないシューマン演奏評でした。

                  

さて・・・後半のショパン、バラード全曲。
高橋多佳子のショパンが期待にそわないわけはありませんが、かつて聴いたどの演奏会よりも、安定して磐石の演奏に聴こえました。

ことに第1番はその雄渾さ、理性的な気高さにおいて感動のあまり涙が浮かびました。
ショパンは決して病的でナヨナヨした存在ではないのは当然ですが、いい意味での最高の風格をまとった演奏。

第2番も、スタインウェイの調子のせいかくぐもったところはあまり感じず、そうでありながら牧歌的な部分と激情的な部分の対比は鮮やかで、コーダもインテンポで弾ききってしまわれ、今日の状態の良さを十分に味わわせていただきました。

第3番は、音色、舞踏的なリズムが印象的。
踊りの音楽を意識させるところは、以前よりもずっと響を節約してステップを踏んでいるかのように新鮮に聴くことができました。

そして・・・バラ4。
今回の演奏全般いいえることですが、単音のメロディーを奏でる時の神経の遣いようが尋常ではない・・・
すなわち、メロディーを生き生きさせるために全神経を集中し、また、バスの音を絶妙な音色・リズムで繰り出すことによって、曲が自ずから風格をもって流れていくように感じられました。

また、シューマンの演奏を経たことで、フロレスタンとオイセビウスがショパン弾き高橋多佳子に宿ったような隈取りの深い演奏となっていたように思います。

ピアノ音楽中でもっとも美しい瞬間・・・
多佳子さんがそう仰る第2主題の回帰部分、ここの美しいことは誰もが知っていることでしょう。
しかし・・・
今日は、あえて言えば、鄙びた感じでけっして麗しくはないと思っていた第2主題の提示の部分でもかつてない内面からの輝きを聴き取りました。
これは、クライスレリアーナの第2曲の音のパレットの塗り重ねの中から現れた響に似ていた気がしました。

いろんな曲の演奏を通して、楽曲はどんどん演奏者色に染め抜かれていく・・・
それはとても楽しいことだし、ステキなことなのだと、素人としては思っています。



そしてアンコール・・・
いつも開放感から珠玉の演奏を聴かせてもらえる時間。
謝肉祭からのショパンは、やはりオイセビウスのもっとも刹那的な美しさが自然に表現されていて素敵でした。

一転・・・
ショパンの第2番のコンチェルトの第2楽章、ご自身で編曲されたものは初めて伺いましたが・・・
やはり、演奏家は自分が好きで演奏したいと願っている曲を弾く時が一番だと思わされました。
アンコールにしては異例の「ちょっと入魂」という気分の演奏で、感情のグラデーションがキラキラと万華鏡のように・・・うっとりさせられました。



このシリーズの次回、第3回も、ポロネーズ5・6・7番がある。。。
ポロネーズ第5番は、リストが褒めちぎった曲だから最終回かと思っていましたが、この3曲もショパンを語るときに欠くべからざる曲たちですから聴きに行かずば・・・
気がすまないだろうな。(^^;)