★Shiplaunching
(演奏:富田ラボ)
1.Shiplaunching
2.プラシーボ・セシボン
3.Like A Queen
4.アタタカイ雨
5.Launching On A Fine Day
6.ずっと読みかけの夏
7.恋は傘の中で愛に
8.しあわせのBlue
9.Is The Rest Silence?
10.Prayer On The Air
(2005年作品)
いつだったかはよく覚えていないがYou-tubeをサーフィンして思いつくまま曲を検索していたら、リコメンドされた曲の中に『冨田ラボ』なる見慣れない言葉を発見し「おや!?」と思って画面を遷移した・・・のが運の尽き。
そのときどの曲を聴いたのかはこれまたよく覚えていないが、全般的な特徴として雄弁なベースラインと流麗なストリングスが魅力的なユニットだと感じ入って、次々とおすすめ欄に表示される「富田ラボ」の曲を辿り、何曲かをお気に入りに登録して繰り返し聴いているうちにどうしてもCDで欲しくなってしまって・・・
今ここにこのディスクがある。
そもそも大半をyou-tubeで聴けるのにこんな経緯で買っていたらキリがない、とわかっていながら、いいものはいいから仕方ないで済ませてしまう自分はどうかしている。
多分、冨田恵一さんというどことなく教祖チックな男性が主宰するユニット(ヴォーカルと管楽器・弦楽器演奏を除く伴奏のリズムセクションに関して、パーソネルを見る限り基本は『楽団ひとり』のようだけど)を好む人には、顕著な共通のツボがあると思う。
それには2段階あって、まず万人に言えることとして「サヴタージの気分に対する感受性が高いこと」があげられるのではあるまいか。
ノスタルジーとはちょっと違う・・・
このサヴダージとしか言いようのない感傷的な気分を引き出すツボを、一貫して押してくる曲群。
これだけで教祖(の作品)に帰依たい・・・と“ころっ”といってしまう人さえ少なくないだろう。
しかし、2つめのツボは人を選ぶがさらに強力である。
私などはすでに中毒(それもかなり重症)の診断を下されてもおかしくあるまい。
それは、ひとことでいえば「知的好奇心を刺激される」ということ・・・
ある程度のポピュラー音楽のバックグラウンドを持っている人には共感いただけるのではないかと思うのだが、本来はそんなことを気にせず音楽を楽しみさえすればいいのに、教義に施されたあらゆるシカケが気になるのである。
教祖はさすがに修行を積んでしかるのちに悟りへの道を提示しているのだろう。
繰り出される音からはっきりと「修行のあと」が私には聴き取れる・・・知らず知らずそんな気にさせられちゃっている自分がいる。
サヴダージを引っ張り出す手練手管のひとつなのかもしれないが、曲全般に借景となる原曲を措定してアレンジしているだろうと思われるのである。
そのうえに、思わずニヤッとしてしまうような音楽版ウォーリーがそこここに顔を出す・・・見つけてしまった時の快感は何ものにも代えられず、「ウォーリーはいるはずだ!」と信じて曲に向かうようになってしまったら、あまり姿を露わにしないこの教祖に魂を握られてしまうことになる。
どんなに・・・いくつウォーリーを見つけたとしても、ジャズからソウルフルな音楽まで徹底して血肉と化した教祖はさらに多くのウォーリーを忍ばせているに違いない・・・
こう思わずにはいられないことは自縄自縛だとわかっていても、それが教祖の計算かもしれないとわかっていても逃れられない・・・これこそ中毒ではあるまいか?
さて、これらの楽曲はもちろんオリジナルで、中心は歌もの。
バックの演奏(先にも書いたが、ベースラインと独特なストリングスのアレンジが、さまざまなウォーリー的借り物のおかずがあっても作品が独自のものであると主張している)には、きっとプリンシパルな制作ルールがあるのだろう。
そこに最適なヴォーカリストを招き彼・彼女をフロントマンとして教義を説かせる、逆スティーリー・ダン型がもっぱらのスタイル。
これがまた、実にバラエティに富んでもいるし、実力者ぞろいで聴きごたえがあるのも表向きの大サービス。
その実、「冨田ラボ」名義のアルバムであるだけに、背景のしらばっくれた伴奏にこそ、あまたある生半可の音楽経験に裏付けされた知識を持つと自認する聴き手(これが教祖にとってのきっと真のカスタマー)たちを中毒症状にさせしめる媚薬を忍ばせているにちがいない。
たとえば、これらの楽曲について中毒症状の好人が語るとさしずめこうなるだろう。
■プラシーボ・セシボン
スティーリー・ダンの「ヘイ・ナインティーン」を第一主題、「グラマー・プロフェッション」を第二主題、「タイム・アウト・オブ・マインド」を第三主題にして、がちゃがちゃぽんに展開したらできたんだろう。
ギターは音色もフレーズもラリー・カールトンしているし、大貫妙子さんに至ってはガウチョのレコーディングに参加していたに違いない。
もしかしたらサンプリングしてコラージュしたのかも。
■アタタカイ雨
これって大滝詠一さんの新曲でしょ!?
え、田中拡邦さん!?
彼、自分の曲じゃこんな声じゃないよ・・・きっとミキシングのときイシキしてやってるよね。
これ聴いたら、ジャンクフジヤマさんみたいにヤマタツ路線でやりたくなる人、きっと出てくるよね。。。(関係ないか・・・)
こんな調子で私には、「Like A Queen」には「Miami Viceのテーマ」が、「ずっと読みかけの夏」にはイヴァン・リンスの「ラヴ・ダンス」が、「恋は傘の中で愛に」にはブロンディの「ハート・オヴ・グラス」が、「しあわせのBlue」にはボズ・スキャッグスの「ミス・サン」のエコーが聴こえて、終始ニヤニヤしっぱなしなのである。
傍目にはヤク中にしか見えないのかもしれないだろうが、本人はフレーズの端々に神経を行きわたらせてラリー・カールトンやステイーヴ・ガッドが隠れていないか耳を皿のようにして探している至福のときを過ごしているのである。
そんな聴き方をしているから・・・
木を見て森を見ず、借景の曲調しか頭に入っていないつまんない聴き方になっているのかもしれないという人がいるかもしれない。
言うなら言うに任せるが・・・と開き直ってしまえるところが、中毒患者たる所以でもあるのであしからず。
ちなみに、冨田ラボ一連の楽曲の中で、私がもっともサヴタージを感じるのは、畠山美由紀さんのアルバム「Wild & Gentle」に収められている「罌粟」である。
このアルバムには3曲の冨田ラボ製品があるのだが、いずれも高品質なことは折り紙つきだが、いまだにウォーリーが発見できない。
『ない(かもしれない)ものをあると思って探す』こと・・・
「乳がんを自分のチェックで見つけられる人」の資質として真っ先に挙げられることだが、私にはその素質はある・・・
そして富田ラボ中毒にどんどん浸潤されていくのであろう。
幸せなことかもしれない。
《閑話休題》
何かシカケがあるに違いないという思いは、楽曲のみならずいろんなところへ猜疑の眼を向けるに至っている。
例のイタリア豪華客船の事故・・・は、発生の何年も前なので関係ないだろうが、それとの関連さえ疑いかねない勢いなのである。
たとえば詞・・・
パーソネルを確認するうえで、プラシーボ・セシボンのヴォーカルのおふたり、高橋幸宏さんと大貫妙子さんが、それぞれ別の1曲ずつの作詞を担当しているではないか?
ヴォーカリストが豪華な布陣であることはみんな気が付いているだろうが、作詞家陣もとびきりであることは特筆されてよい。
たとえばジャケット・・・
11名の楽団員を従えているが、ここにある楽器はすべて曲中でつかわれているか?
楽団員のモデルのクレジットも確かに11名ある、が、女性の名と思しきものがないのだが・・・?
裏ジャケで、小型バスの車窓に見えるのはコントラバスとチェロの男女のみだが、それに隠されたテーマはないか?
このミニバスに楽器は積めないのではないか?
しかし・・・
いつからかくも病的になってしまったのだろう?
クラシック音楽を聴く、それも名手の解釈を聴き比べるようになって、同じ曲でも曲調の差、ディテールの彫琢の差・・・
そんなことに気付くことで、ひとつひとつ悟ったようなすっきりした気分を味わってきたなれの果てだとしたら・・・
まぁ、それこそどうでもいい話ではある。
楽しく麗しいわが人生を重ねていくうえで、大勢に影響はあるまい・・・
とは言えないかもしれないな。(^^;)
(演奏:富田ラボ)
1.Shiplaunching
2.プラシーボ・セシボン
3.Like A Queen
4.アタタカイ雨
5.Launching On A Fine Day
6.ずっと読みかけの夏
7.恋は傘の中で愛に
8.しあわせのBlue
9.Is The Rest Silence?
10.Prayer On The Air
(2005年作品)
いつだったかはよく覚えていないがYou-tubeをサーフィンして思いつくまま曲を検索していたら、リコメンドされた曲の中に『冨田ラボ』なる見慣れない言葉を発見し「おや!?」と思って画面を遷移した・・・のが運の尽き。
そのときどの曲を聴いたのかはこれまたよく覚えていないが、全般的な特徴として雄弁なベースラインと流麗なストリングスが魅力的なユニットだと感じ入って、次々とおすすめ欄に表示される「富田ラボ」の曲を辿り、何曲かをお気に入りに登録して繰り返し聴いているうちにどうしてもCDで欲しくなってしまって・・・
今ここにこのディスクがある。
そもそも大半をyou-tubeで聴けるのにこんな経緯で買っていたらキリがない、とわかっていながら、いいものはいいから仕方ないで済ませてしまう自分はどうかしている。
多分、冨田恵一さんというどことなく教祖チックな男性が主宰するユニット(ヴォーカルと管楽器・弦楽器演奏を除く伴奏のリズムセクションに関して、パーソネルを見る限り基本は『楽団ひとり』のようだけど)を好む人には、顕著な共通のツボがあると思う。
それには2段階あって、まず万人に言えることとして「サヴタージの気分に対する感受性が高いこと」があげられるのではあるまいか。
ノスタルジーとはちょっと違う・・・
このサヴダージとしか言いようのない感傷的な気分を引き出すツボを、一貫して押してくる曲群。
これだけで教祖(の作品)に帰依たい・・・と“ころっ”といってしまう人さえ少なくないだろう。
しかし、2つめのツボは人を選ぶがさらに強力である。
私などはすでに中毒(それもかなり重症)の診断を下されてもおかしくあるまい。
それは、ひとことでいえば「知的好奇心を刺激される」ということ・・・
ある程度のポピュラー音楽のバックグラウンドを持っている人には共感いただけるのではないかと思うのだが、本来はそんなことを気にせず音楽を楽しみさえすればいいのに、教義に施されたあらゆるシカケが気になるのである。
教祖はさすがに修行を積んでしかるのちに悟りへの道を提示しているのだろう。
繰り出される音からはっきりと「修行のあと」が私には聴き取れる・・・知らず知らずそんな気にさせられちゃっている自分がいる。
サヴダージを引っ張り出す手練手管のひとつなのかもしれないが、曲全般に借景となる原曲を措定してアレンジしているだろうと思われるのである。
そのうえに、思わずニヤッとしてしまうような音楽版ウォーリーがそこここに顔を出す・・・見つけてしまった時の快感は何ものにも代えられず、「ウォーリーはいるはずだ!」と信じて曲に向かうようになってしまったら、あまり姿を露わにしないこの教祖に魂を握られてしまうことになる。
どんなに・・・いくつウォーリーを見つけたとしても、ジャズからソウルフルな音楽まで徹底して血肉と化した教祖はさらに多くのウォーリーを忍ばせているに違いない・・・
こう思わずにはいられないことは自縄自縛だとわかっていても、それが教祖の計算かもしれないとわかっていても逃れられない・・・これこそ中毒ではあるまいか?
さて、これらの楽曲はもちろんオリジナルで、中心は歌もの。
バックの演奏(先にも書いたが、ベースラインと独特なストリングスのアレンジが、さまざまなウォーリー的借り物のおかずがあっても作品が独自のものであると主張している)には、きっとプリンシパルな制作ルールがあるのだろう。
そこに最適なヴォーカリストを招き彼・彼女をフロントマンとして教義を説かせる、逆スティーリー・ダン型がもっぱらのスタイル。
これがまた、実にバラエティに富んでもいるし、実力者ぞろいで聴きごたえがあるのも表向きの大サービス。
その実、「冨田ラボ」名義のアルバムであるだけに、背景のしらばっくれた伴奏にこそ、あまたある生半可の音楽経験に裏付けされた知識を持つと自認する聴き手(これが教祖にとってのきっと真のカスタマー)たちを中毒症状にさせしめる媚薬を忍ばせているにちがいない。
たとえば、これらの楽曲について中毒症状の好人が語るとさしずめこうなるだろう。
■プラシーボ・セシボン
スティーリー・ダンの「ヘイ・ナインティーン」を第一主題、「グラマー・プロフェッション」を第二主題、「タイム・アウト・オブ・マインド」を第三主題にして、がちゃがちゃぽんに展開したらできたんだろう。
ギターは音色もフレーズもラリー・カールトンしているし、大貫妙子さんに至ってはガウチョのレコーディングに参加していたに違いない。
もしかしたらサンプリングしてコラージュしたのかも。
■アタタカイ雨
これって大滝詠一さんの新曲でしょ!?
え、田中拡邦さん!?
彼、自分の曲じゃこんな声じゃないよ・・・きっとミキシングのときイシキしてやってるよね。
これ聴いたら、ジャンクフジヤマさんみたいにヤマタツ路線でやりたくなる人、きっと出てくるよね。。。(関係ないか・・・)
こんな調子で私には、「Like A Queen」には「Miami Viceのテーマ」が、「ずっと読みかけの夏」にはイヴァン・リンスの「ラヴ・ダンス」が、「恋は傘の中で愛に」にはブロンディの「ハート・オヴ・グラス」が、「しあわせのBlue」にはボズ・スキャッグスの「ミス・サン」のエコーが聴こえて、終始ニヤニヤしっぱなしなのである。
傍目にはヤク中にしか見えないのかもしれないだろうが、本人はフレーズの端々に神経を行きわたらせてラリー・カールトンやステイーヴ・ガッドが隠れていないか耳を皿のようにして探している至福のときを過ごしているのである。
そんな聴き方をしているから・・・
木を見て森を見ず、借景の曲調しか頭に入っていないつまんない聴き方になっているのかもしれないという人がいるかもしれない。
言うなら言うに任せるが・・・と開き直ってしまえるところが、中毒患者たる所以でもあるのであしからず。
ちなみに、冨田ラボ一連の楽曲の中で、私がもっともサヴタージを感じるのは、畠山美由紀さんのアルバム「Wild & Gentle」に収められている「罌粟」である。
このアルバムには3曲の冨田ラボ製品があるのだが、いずれも高品質なことは折り紙つきだが、いまだにウォーリーが発見できない。
『ない(かもしれない)ものをあると思って探す』こと・・・
「乳がんを自分のチェックで見つけられる人」の資質として真っ先に挙げられることだが、私にはその素質はある・・・
そして富田ラボ中毒にどんどん浸潤されていくのであろう。
幸せなことかもしれない。
《閑話休題》
何かシカケがあるに違いないという思いは、楽曲のみならずいろんなところへ猜疑の眼を向けるに至っている。
例のイタリア豪華客船の事故・・・は、発生の何年も前なので関係ないだろうが、それとの関連さえ疑いかねない勢いなのである。
たとえば詞・・・
パーソネルを確認するうえで、プラシーボ・セシボンのヴォーカルのおふたり、高橋幸宏さんと大貫妙子さんが、それぞれ別の1曲ずつの作詞を担当しているではないか?
ヴォーカリストが豪華な布陣であることはみんな気が付いているだろうが、作詞家陣もとびきりであることは特筆されてよい。
たとえばジャケット・・・
11名の楽団員を従えているが、ここにある楽器はすべて曲中でつかわれているか?
楽団員のモデルのクレジットも確かに11名ある、が、女性の名と思しきものがないのだが・・・?
裏ジャケで、小型バスの車窓に見えるのはコントラバスとチェロの男女のみだが、それに隠されたテーマはないか?
このミニバスに楽器は積めないのではないか?
しかし・・・
いつからかくも病的になってしまったのだろう?
クラシック音楽を聴く、それも名手の解釈を聴き比べるようになって、同じ曲でも曲調の差、ディテールの彫琢の差・・・
そんなことに気付くことで、ひとつひとつ悟ったようなすっきりした気分を味わってきたなれの果てだとしたら・・・
まぁ、それこそどうでもいい話ではある。
楽しく麗しいわが人生を重ねていくうえで、大勢に影響はあるまい・・・
とは言えないかもしれないな。(^^;)