SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

渡辺 玲子 : カルメン・ファンタジー

2015年06月08日 00時01分49秒 | 器楽・室内楽関連
これも本当によく聴いたSACD。



渡辺玲子さんというヴァイオリニストはこのディスクを入手するまで存じ上げなかったのですが、この作品、とりわけクララ・シューマンの「3つのロマンス(作品22)」とシマノフスキの名作「神話(作品30)」には完全に魅了されました。

ここでの「神話」は、高橋多佳子さんの「ショパン:バラ4」のように、私にとってこの楽曲演奏のリファレンスとなったと言って差し支えありません。

よく決定盤として語られるDGのダンチョフスカ/ツィメルマン盤に惹きつけられてはいたものの、録音のせいなのかどことなくなんかしらいいたい・・・と思っていたところに、デッカのイダ・ヘンデル/アシュケナージ盤を耳にしたのですが、(大御所の演奏とあってか、私自身以前ここで「地に足がついた演奏」と評しているようですが)正直言えば受け付けられず・・・
ようやく「これだ!」と思える演奏がこれだった、というわけです。

この演奏に出会った後、バイバ&ラウマのスクリデ姉妹盤、パイダッシ嬢/ピアニストの名前の読み方がわからない盤など、きわめて楽しめて聴けちゃうようになりました。
反面、諏訪内盤・神尾盤のチャイコン・ウィナー組の演奏には(ことこの曲に関しては)ちょっと私の期待するポイントと違うところに奏者の意識がフォーカスしたものかもしれないと思わされています。

I・ファウスト、イブラギモヴァ・・・といった旬のアーティストにも録音があるので、機会があったら聴きたいな・・・と書いてきて、ソリストが女性ばかりであることにちょっと驚いていたりして。(^^;)

ともあれ、「神話」という名曲にすっかりなじむことができたことがまずもっての収穫でした。



ところで、ヴァイオリニストを知らんかったのになぜにこのディスクを入手したのか・・・
それは、伴奏者に江口玲さんのクレジットがあったからであります。

いずれこの欄で書くかもしれませんが、江口玲という伴奏者の凄さを知ったのは、加藤知子さんのブラームスのヴァイオリン・ソナタ集でした。
実は、それ以前にも同じく加藤さんのエルガーの楽曲集で耳にはしていたのですが・・・

前橋汀子さんのフランク・ブラームス第三番のソナタや、加藤さんのシューマンのソナタ集を通じ、どれもハズレがない・・・
というわけで、「神話」を目当てに渡辺玲子さんのSACDを手に取ったのであります。
ただでさえ難しそうなピアノパートにヴァイオリニストと相談して音を足している・・・なんざぁ、出ている音にノックアウトされた聴衆のひとりとしては「カッコよすぎ」以外に言葉が見つかりません。

もちろん彼のソロの録音にも興味があり、ショパンとリストの曲集を聴きました。
特別の由来を持つピアノを使用する・・・といった興味もさることながら、彼自身、伴奏ではそれほど感じさせないのですが、ソロではかなり自己主張の強い解釈をしている・・・


先の「カッコよすぎ」にプラスして自分のセンスにかくも正直である潔さもウケるのか、江口氏の女性ヴァイオリニストとの共演盤の多さにはまこと驚かされますね。

チー=ユンに始まり先の錚々たる面々に加え、竹澤恭子、奥村愛、マイヤース、小林美恵、木嶋真優、南紫音・・・

まさにベテランから新進までオリエンタルな女性ヴァイオリニスト総ナメといった趣で、絶大な信頼を得ていらっしゃりご同慶の極みと言うほかありません。

と思って確認のためHPをあらためて見に行ったら・・・
今年の新譜として、ディスコグラフィーにはさらにまた川久保賜紀さんの名前が追加されてました。
ホント同じオトコとして嫉妬しちゃうぐらいにスゴイですね。



ひとつだけ、このディスクで気になっていることは・・・
どんな大きさのモニター・スピーカーで制作されたんだろうということ。

音質にも何の不満もありませんが、以前遣っていたブックシェルフ型の小型スピーカー(ヤマハ:NS1)で聴けた濃密なヴァイオリンとピアノの絡み(特に第2曲「ナルシス」のクライマックスのところなど)が不必要にさわやかになってしまった気がします。

原因としては、ごく小さなモニターで点音源に近いミックスがされたからじゃなかろうかなどと推測しています。
録音・再生いずれの機材やセッティングの綾で当然にこういったことは起こりうると分かっているとはいえ、ヘッドホン、小型スピーカーで感じられるエクスタシーが薄まっちゃったと思うとちょいと残念な気もする・・・
もとより、Electra1028Beにしたことで得られたメリットはさらにでかいわけですから、ぶつぶつ言っていても仕方ないのはわかっていますが(やっぱり言わずにいられない)。。。


そうはいってもこのディスク・・・
Electra1028Beを購入するべきか決めようと、ショップに試聴に行ったときにかけたもののうちのひとつ。

「アルトゥーザの泉」での最初のさざなみのようなピアノと、そこに高音で絡んでくるヴァイオリン冒頭にはゾクゾクさせられました。
そこを聴いただけで「買いたい」感はほぼマックスになりましたね。

じつはそれ以前に、ソナス・ファベールのクレモナⅡを候補としたときにも試聴したのですが、そのときはなぜかピンときませんでした。。
渡辺さんの使用楽器はクレモナの工房で制作されたもの・・・なのに不思議なものですよね。



ところで私は冒頭、SACDであることをことさらに強調して書きましたが、ネットショップでは、私が買った時期を境に、SACDバージョンは在庫切れになってSIM-CDになってしまっているようです。
個人的にSACDはとてもありがたい存在と崇めている私ですが、SIM-CDというフォーマットには「所詮CDなんでしょ!?」というエクスキューズを感じています。

SACDやHDCDは器だけじゃなく仕組みが違うから・・・
まぁ・・・
1960年台とかの伝説的演奏家による歴史的名盤の復刻で、以前のCDよりはずっと音がいいだけ(今の水準では物足りない)のSACDがいっぱい出てるのはもちろん、新録であってもあんまり音がいいと思えないSACDもあるし、演奏や録音のロケーションのよさと相俟ってCDとはいえ驚くべき音質と感じさせる盤いずれもがありますから、そこだけに拘泥してものごと考えるのは得策ではないのでありましょう。

ただ・・・
HYPERIONのような高品位なハイレゾ音源をネット配信のみにして、SACDの製造をしない(CDのみしかディストリビューターにおろさない)というレーベルのスタンスには失望しています。
パッケージメディアをこよなく愛する好楽家はどこの国にも決して少なくないはずですから。。。

アムランやハフ、レイトン&ポリフォニーのCDは、SACDにしてもらえれば音質にずいぶん差があるに相違ない・・・
そう思わずにはいられないだけに残念です。

ホールイン・ワンの達成感とは?

2012年08月18日 22時02分38秒 | 器楽・室内楽関連
★モーツァルト:クラリネット五重奏曲 ケーゲルシュタット・トリオ
                  (演奏:イザイ弦楽四重奏団)
1.クラリネット五重奏曲 K.581
2.ケーゲルシュタット・トリオ K.498
3.アダージョ&フーガ K.546
                  (2004年録音)

ホールイン・ワンをしてしまった。

あの日は、遅れないように5時に起きて余裕をもって車で出かけた。
家を出てからおにぎりを買うためにコンビニに寄ってゴルフ場に到着するまで、車中でかけていたのが、このイザイ弦楽四重奏団によるモーツァルトのクラリネット五重奏曲だった。
そんなこんなでいっきにゲンのいいディスクになったと思ったわけだが、禍福はあざなえる縄のごとし、スゴイを通り越して神がかり的なことをしてしまうとお祝い、励ましからタカリに至るまでさまざまに気を遣わなければならないアプローチがあってよかったのか悪かったのか・・・。

折しもオリンピックたけなわの時期のこと、自分も「ホールインワン達成者」という肩書を授与されうる立場となったことで、種目として正味38名おられるらしいメダリストと呼ばれる人たちと、もしかしたら近しい境遇になっているのかもしれないと感じている。

当日多少調子が良かったにせよ自分の実力はなんら変わっていないのに、周りの囃子(決して期待ではあるまい)が一変した・・・と思う。

真にゴルフに打ち込んでおられる先輩こそ「ホールイン・ワンは初心者と熟達者に多いと言われているがお前はどっちかわかっているな」と、まだ自分が成し遂げていないことを嘆いて見せて正しく祝ってくれるものの、明らかに私など足元にも及ばない実力をもつゴルフ好きの上司筋から「プロ・プロ」と持ち上げられるのは、必ずしも気持ちの良いものではない。それでも祝ってくれているだけありがたい、のだが。


あの日違っていたことと言えば、いつもは7番アイアンとサンドウェッジを2本ずつ持っていくところを、9番アイアンとアプローチウェッジの間がやっぱりほしいと思い立ち当日朝にサンドの1本をピッチングに替えた・・・ことぐらい。
そしたら、そのピッチングでやらかしてしまったのだから、閃きというか何かに憑依されたとしか言いようがない選択ではあった・・・ことになる。

しかし・・・
ショートホールでピンが見えるのならいつもそこをねらって打っているくせに、いざ入ると大騒ぎするのも奇妙な話かもしれない。
もちろん、これは私が体験して数日が経過しているから言えること・・・。
嫌味になる可能性があると承知の上で体験談を言わせてもらえば、そのホールでティーショットを打つ時に思ったことは、単に(距離の合う)ピッチングを持ってきてよかったということと、無風でランが出ないように高い球を打とうと思ったという2点だけ。
パーティ4人の4番目で、同伴の誰も(当たり前だが)そんな物珍しい光景がその後にあることなど期待のかけらもなかった。
はたしてイメージ通りにスィングできて、「いい感じで球が上がったな」とそこではシメシメと思って「あとは距離があっているかだな」とボールの行方を追ったところ2バウンドでカップに入った・・・のである。

高くあがったとき、間違いなくシメシメと思った・・・が、カップに入った時は「あっ!?」と思っただけであった。
同伴のみなさんもそうだった。
むしろその日に7~8mのパットを沈めてパーセーブしたときのほうが、素直にガッツポーズもでて「よし」という声も出た。
周りも「ナイスパー」と盛大に言ってくれて、達成感、満足感はホールイン・ワンの比ではない。
もしかしたら自然にドヤ顔も出ていたかもしれない。

しかし、ホールイン・ワンはちがう。
文字通り「あっ!?」であり、「ヤッター!!」でも「どうや!?」でもない。
それは私が特にゴルフに打ち込んでいるというわけでもないから、ホールイン・ワンを達成するために努力しているはずもなく、願っていもしない想定外のことをやらかしたとしても何を実感してよいかわからない。
他のみなさんがパットをしているあいだ、ピンをもって「ナイスイン」とか言っている自分の所在のないことったらないし、居心地もよろしいものではない。

いまだに達成感らしいものはなく、とんでもないこと(やっちゃったんだから「ありえないこと」ではない)が起こったという事実のみを反芻するばかり。
同伴の上司は「事故」ではなく「事件」だと言われたが、言いえて妙だと感じている。


いつもと同じようにやっていながら、とてつもないことがはからずも達成できたことが幸せかどうかはわからないが、達成してみないと実感できないことがわかったのはよかったに違いない。



イザイ弦楽四重奏団のこのディスク、彼らが自らのレーベルを興して既発の作品もリニューアルして出したものの一環である。
彼らはレコード会社の意向に囚われず、自らの望むレパートリーによる芸術作品を創造し残すことを目指したのに違いないのだろうが、どこにも余計な力が入っていない当たり前の演奏を繰り広げ、その気概にふさわしい会心の作品を残しているのだと思う。

カーステレオで心地よく聴いていながら、私を神がかりモードに誘ってくれたのかもしれない。

とすれば、本当はペヌティエの参加するケーゲルシュタット・トリオを目当てに入手したのだった・・・このあたりも因果関係があるのかないのかわからないが・・・から、世界で起こっていることのすべてが、今ここの時間に流れ込んでいるのだとしたら、少なくともペヌティエのシューベルト演奏のクリティックに出会ったあの日あの時、また中古ショップの店頭でたまたまペヌティエの新品を廉価にしたディスクに巡り会ったあの日あの時から、このホールイン・ワンは約束されていたのかもしれない、そんなこともやらかしてしまった今となって、いろいろ考えたりするのである。


ところで、私のCDプレーヤーのZZ-EIGHTとX-50wの違いが少しずつ体感できるようになってきた。
ZZ-EIGHTは心持ちタイトであり、X-50wはそれよりはやや緩く賑やかな音がする。
X-50wはこの2台のうちの比較論では華やかといってもいいのだが、ソースによってはそれが「滲み」と感じられてしまうこともなくはない。

ZZーEIGHTのトップローディングの「フタ」のセットも面白い。
鑑賞前の儀式として恭しく行うことが楽しいこともあれば、なんとはなくわずらわしいと感じることもある。

いずれも私の鑑賞能力をまだまだはるかに超えたところで鳴っている機械だから、その日その時に自分が感じるところに従って、楽しく傾聴できればそれでよい。
続けていれば聴きなれたディスクから、それこそホールイン・ワンのときのような驚きや、ロングパットを沈め溜飲を下げたような快感を感じることもあるだろうから。

もとより、ミスショットやもったいない1打が出ることも念頭に置いておく必要があるだろうけれど。

装丁のうち・・・

2012年01月09日 21時37分10秒 | 器楽・室内楽関連
★マニャール・フォーレ:弦楽四重奏曲
                  (演奏:イザイ弦楽四重奏団)
1.マニャール:弦楽四重奏曲
2.フォーレ  :弦楽四重奏曲
                  (録音:2004年)

今年はドビュッシー生誕150年の年。。。
ミケランジェリの【映像】に惹かれてクラシックの樹海に誘われたものとしてはショパンやリスト以上に慶賀の念に堪えない・・・というふうにならないのかもしれませんが、正直、いまいちどころかいまさんぐらい盛り上がりませんです。
このところほとんどドビュッシーは聴いてないから・・・。(^^;)

それというのも、「映像」はやっぱりミケランジェリの70年盤(最晩年のがオクラばせながら出てきたのはやっぱりオクラにしておくべきだったと思っています)を超えるものはないし、「ベルガマスク組曲」はドビュッシーの正統な流儀ではないかもしれないけどコチシュのすっきりながらロマンたっぷりの演奏にとどめを刺すし、その他、ツィメルマン、アラウ、アントニオーリ、ストット、青柳いづみこさん、小川典子さん、遠山慶子さんの前奏曲集や選集があればという状況が何年も変わらないですからね。
「牧神」にしてもアバドとクリヴィヌがあればいい気がするし、室内楽も弦楽四重奏曲は10種類ぐらいあるはずだけどラヴェルのそれのつけ合わせみたいな位置づけで聴いてきたから・・・今はこれはこれでいい曲だと思っていますが。。。

今年の記念年リリースの新譜に期待・・・ということにしておきましょう。
とはいえ、昨年のリスト記念年の成果をここで発表できないので、過度な期待はしないようにしなければなりますまい。
自分の耳にフィットする演奏が現れるはずだと思い込んで、「想定外」の結果に終わるとさびしいですからね。


さて、このところ弦楽四重奏曲(弦楽五重奏曲)を聴く機会が多い状況は相変わらずです。
ことにシューベルト・・・
メロス弦楽四重奏団は前回の記事に書いた通りですが、ブランディス四重奏団、ブロドスキー四重奏団、ペーターゼン四重奏団、アウリン四重奏団、カルミナ四重奏団、パノハ四重奏団、クス四重奏団などなどとっかえひっかえ聴きまくっています。
このほかにも聴いていますが私の耳にはまだピンと来ていません。
逆に、ピンと来るものだけでもこれだけある・・・ということなのですが。

弦楽四重奏曲第12番の断章以降、13番、14番、15番、そして弦楽五重奏曲D.956に至る曲は・・・あまりにすばらしい。
浦島太郎の歌のように、文字にできない美しさなので、語らずに沈黙するほかありません。

ピアノ・ソナタ第18番~第21番や即興曲集・楽興の時もそうですが、シューベルトの晩年の楽曲に心奪われてしまうと、あっち側の世界に連れて行かれて帰ってこれなくなりそうです。
こっちの精神状態がぐちゃぐちゃであっても、その意味でリセットできる気がするのは絶大な効用といえるでしょう。

この世のものとも思われない旋律があるかと思えば、地獄の入り口みたいな混沌もあり、とくに終楽章にはやけくそにも聞こえる舞曲のリズムあり・・・
演奏家の解釈と聞き手の気分次第で、どれだけの感じ方ができるか、まさに無限大、それも「天国的な長さ」で味わえるという・・・抽象的な書き方でしかシューベルトの曲を聴いたときの体験は語れないのです。

よくも悪くも聴いてるだけでこれだけ揺さぶられるのですから、弾いてる人たちは大丈夫なのかな・・・と思うこともしばしばですが、それで世をはかなんでという話も聞かないからきっと大丈夫なんでしょうね。


で・・・
今回取り上げるのはフォーレのディスクにしました。

イザイ弦楽四重奏団は今般新しいレーベルを自身で立ち上げ、新譜ばかりでなく自らの旧譜を新しい装丁で発売したようです。
レーベル立ち上げの理由はきっと、レコーディングの曲目やパートナーの選定に際して、アーティストの希望とレコード会社側で大きな開きがあることなのでしょう。
今般発売されたレパートリーを見れば、イザイ四重奏団の意欲と善意が感じられて思わず応援したくなります。

しかし、演奏の内容もさることながら、この新しい装丁というのが実に統一感があってオシャレでよろしい。
冒頭に掲げた写真は私が持っていたディスクですが、これは旧のジャケットです。
ネット上で新しくなったジャケットを見たときには、質感のある彫刻の絶妙なカットでむさいオッサンの並んでいるものよりもはるかによく見えてクヤシイ思いをしましたが、実際に店頭で見たらあんがいちゃっちかったので安堵することにしました。

これとは別にハイドンの「十字架上のキリストの7つの言葉」のディスクを新装丁のもので購入したのですが、このジャケットは素晴らしいと思いました。
演奏も安定感あふれる素晴らしいもので、牧師の説教入りのものとそうでないものの2枚ある・・・
解説書もおそろしく分厚く、研究の内容がつまびらかに記されている・・・

これです!

演奏だけではなく、収める内容、装丁、解説に至るまで自分たちの思ったままにプロデュースするという姿勢が本当に伝わってきます。
装丁のうちには、アーティストをはじめとするディスクにかかわる人の想いが詰まっている。。。
惜しむらくは解説が読めない・・・これだけマーケットがあるということで来日するアーティストが多いのに、どうして日本語の解説はつかないのか・・・ことだけです。。。


装丁の話をもう少しさせてもらうと、私はデジパックが嫌いです。
そもそも(装丁そのものを守るための)強度がない、やはりプラスチックのケースに入れてもらえると安心です。
しかし、アーティストの意向があるならばプラスチックのケースの上にもうひとつ紙で覆ってそこに好きな図絵をこしらえてくれるといいのになといつも思っています。

話がしっちゃかめっちゃかな方向に飛んでしまっています。
元に戻して、イザイ弦楽四重奏団のフォーレの弦楽四重奏曲の演奏に関して言えば、これまた安定感のある音色でフォーレ最晩年の名曲をわかりやすく聴かせてくれる、ようするに、うっとりと心をゆだねられるように聴かせてくれる横綱相撲の演奏だと感じます。

昨今、エベーヌ四重奏団という活きのいいチームが出てきてドビュッシー・ラヴェル・フォーレの弦楽四重奏曲のディスクで世界を席巻したのは記憶に新しいところですが、私としては勢いがありながら時折見せる響きのうるおいにポテンシャルの高さは十分認めるところではありますが、横綱イザイ・北の湖に関脇エベーヌ・千代の富士というほどに思われます。

シューベルトもフォーレも歌曲をめでる声が多いですが、私はまだそこまで手も耳もまわっておりませんで、フォーレのクァルテットなら志の高いイザイ弦楽四重奏団の演奏にとっぷり浸っていられれば幸せ・・・です。


≪ちなみに≫
・マニャールの弦楽四重奏曲は、シューベルトの舞曲のやけくそリズムにも似た感じがする曲です。
 イザイ四重奏団にしてみれば両A面的な扱いだと思いますが、私にはいまのところフィルアップにしか思えませんでした。
 良さがわかるまでにはまだまだ時間がかりそうです。

・フォーレの室内楽のディスクならアウリン弦楽四重奏団のピアノ五重奏曲集が絶品でした。
 これほどクールな美しさに満ちたフォーレは初めてでした。

・ドビュッシーの注目盤としては、旧譜ですが、フランソワ・シャプランのドビュッシー全集には期待しています。
 MP3ではすぐダウンロードできるようですがやっぱりWAVでほしいです。
 できれば妥当な金額でディスクで映像だけでも入手できないかな・・・と。
 今回のタイトルではないですが、装丁のないデータだけっていうのは、いかにも味気ないと思いませんか?
 レコードがCDになったときには俺たちの時代のメディアだと思いましたが、データをダウンロードするだけという時代が来るとは「想定外」でした。

禁断のシューベルト

2011年11月22日 01時31分30秒 | 器楽・室内楽関連
★シューベルト:弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956
                  (演奏:メロス弦楽四重奏団、ヴォルフガング・ベトヒャー)

ドラゴンズの完全優勝の夢が潰えて悔しい。
あの打てなさはなんなんだ?

しかし・・・
今の私自身の心身の状況も八方ふさがりで、とくにシリーズ後半に目立った、どう見ても打てる気がしないドラゴンズの選手たちのそれと重なるところがある。
井端選手のピッチャー返しの打球のように、私とて、ときとして意地で食らいつくことはあるのだが、相手にある種の痛手を与えても、結局目指す得点に結びつかないというもどかしさが何とも自分にオーバーラップしてくるのでたまらない。


そして・・・
そんなバイオリズムのときの私の心をとらえて離さない作品を書いたのが、シューベルトなのである。

シューベルトに憑かれると・・・
そのとき私はきっと心身の不調を訴えているうえ、なぜかやけに食欲が旺盛になり(簡単に言えばヤケ食いが増え)畢竟、体重が増える傾向に陥るのである。


実は・・・
先月の投稿時にも記したシューベルト(&ベートーヴェン)の弦楽四重奏のマイブームがとどまるところをしらない。

ピアノ音楽を主に聞いてきた私にとって、これまでのシューベルトのマイブームは必然的にピアノ・ソナタと即興曲集だった。
家には数えるのも億劫なほどの変ロ長調ソナタD.960のディスクがある・・・多分50種類以上あるだろう・・・のだが、ブームになるとこの曲にとどまらず、小ト長調、レリーク、幻想、そして最後の3つのソナタが恋しくて恋しくてしかたなくなる。

そしていつもなら麻疹のようにパタッと聴く機会がなくなり、それとともに周囲の環境も好転し体調も戻るのだが、今回はどうも様子が違うように思えてならない。

最大の理由は、ピアノではなく弦楽四重奏&五重奏曲とジャンルも曲も違うからであることは疑いないのだが、それにしても重篤な症状なのではないかと危惧せずにはおられない。

これまで馴染みがない型の伝染病にかかったようなものなのだろう。
そしてD.960なんていう強力なウィルスの類似種で楽器1台ではなく4丁も5丁もよってたかって波動を送ってくるのだから、根深いに違いない。。。
これで交響曲やミサ曲第6番なんて作品に惹かれるようになってしまったら、さらにやばいことになる予感がある。
ことここに至ってしまえば、きっと、死ぬまで経過観察が必要な不治の病なのだろう・・・上手に付き合っていくしかないのかもしれない。

シューベルトの弦楽四重奏曲といえば・・・やはり後期のそれ。。。
12番断章以降のロザムンデ、死と乙女もよいけれど、15番の後期弦楽四重奏曲とハ長調の弦楽五重奏曲・・・これらはきわめつけ。
この2曲はピアノの変ロ長調ソナタと同じで、もはやこの世のものではない。

作曲技法的には、ピアノにしても弦楽合奏にしてもトリルが特徴的に使われているとかいろんなことに気付いたりするけれど、えてしてそれは私の耳に合わないというか冷静に聴けてしまう演奏において知らされる・・・。
ツボにハマったシューベルト演奏の本当に恐ろしいところは、日常でぼろぼろになった心身からまさに魂を抜かれてしまうところにある。

音楽でツボにハマって感動した場合にはさまざまなパターンがある。
多くのベートーヴェン演奏や、多佳子さんのショパンなどを心地よく聴けるような麗しいコンディションのときには、音楽を聴いたことで往々にして明日の風に立ち向かうだけの気力をみなぎらせている自分がいることに気付く。

バッハ演奏がツボにハマった場合にもやはり、一見魂を抜かれたようになるものだが、聴き終わると、すがすがしくリセットされた自分がいることに気付くものだ・・・

しかし、シューベルト・・・これはいけない!
曲に魅せられて魂を抜かれて・・・正気に戻ったときに、見たこともない、誰も知らない虚空に放り出さたような気分にさせられる・・・
聴き終わった後に異次元にいては困るのである。

この類の禁断の曲の入ったディスクにわかっていて手が伸びるということは、無意識のうちに私が欲しているところであることには間違いない。
理性的なときには敬して遠ざけることもできようが、経験則上、時間に追われるように1枚でも多くのシューベルトを聴きたいとう症状がでることから、極限まで追いつめられた症候群に陥っていることを知る・・・
それが分かっていても逃れられないのである。

苦し紛れにブラームスのヴァイオリン・ソナタなんかに手を伸ばすのだが、ここには実はシューベルトのエコーがそこここに聴かれる気がして、自分でも意識の底ではわかってて選曲しているように思われてならない。

ブルックナーの交響曲が閃いてディスクをターンテーブルに乗せたのだが、神様とベートーヴェンに両脚を置いているとされるこの作曲家にもシューベルトのこだまが聴こえてくる・・・
ここまで囚われてしまっているとすると、もはや末期的である。


実は、この記事を書くにあたって何度も途中まで書きかけて断念している・・・

これこそ、未完成交響曲をはじめレリークだの弦楽四重奏曲の12番だの・・・途中で放棄された曲が完成品と同様に数多く出回っているこの作曲家の病的な影響なのかもしれない。

厄払いが必要だ。。。
なんとか早いうちに、ドラゴンズの敗戦とシューベルトの呪縛から解き放たれたいものである。



話は変わるが・・・
私は、ペナントレース中であればドラゴンズがたとえ負けたとしても、親会社の生業を同じくする某球団が敗れていれば「まぁいいか」と思える質である。
贔屓の球団が勝つことだけを考えていればいいものを、他球団の負けを願うなんて自分でもほめられたことではないとは思うのだが、人生の半ばを過ぎて物心ついたころからそうだったのだから、きっとこれも一生付き合うべき病気のようなものだと達観している。

何が言いたいかというと・・・
善きにつけ悪しきにつけ「これじゃないといけない」という思い込みを貫き、なおかつ「その余のものを否定する傾向にある」と自分で自分の性格を分析しているということ・・・である。

もちろん、いつでも・どこでも・なにごとにも、それでは生活するうえで角が立ってやっていけない。
したがって、普段は社会的に問題が起こらないよう、独りよがりになっている自分を発見したなら直ちにそういう自分のベルソナを人前に晒さないように努力している。
しかし、本質的にはどうしようもなく自分勝手なのに違いない。



そんな私が・・・
こうしてネットを検索しているとオンラインショップのレビューやブログで、ご自身の贔屓の演奏に熱烈なラブコールを贈る聴き手・・・私の先達になりうる方々・・・に出会うのである。

そこにかかれていることが私にあっているかどうかを判断するときの要素が2つある。

もちろん1つめは「どれほどその演奏に感動させられたか」という点である。
私のように鳥肌が立ったとか魂を抜かれたとかいう表現もあるだろうが、涙がとまらないといった感激の表現、解釈上の妥当性を論理的に述べられるということであっても構わない。
とにかく、感動したということが私に迫ってきさえすればよい。

しかし・・・
これだけなら、そこらじゅうにこの演奏が好きだと表明している聴き手がいるわけで、必要条件は満たしていたとしても十分条件には達していないといえる。

実は2つめの要素は・・・排他的な表現が加わっていることに注目している。
「この演奏を聴いてしまっては、他の演奏は聴けない」という趣旨のことを言明している聴き手の文章であったとき私はその対象となった演奏に興味を持つ。

要するにドラゴンズが好きというだけではなく、他球団は応援できないというストイックな告白をしている文章に従ってもいいかなと思うことが多い・・・のである。

考えてみれば、前者は自分の意見を伝えるうえで必要なことだが、後者は実は言わなくてもいいことなのである。
むしろ言わないほうがいいこと・・・というべきなのかもしれない。

しかし、どんな事情があるにせよ、あえてそこを言わずにはおられない人の言葉を信じたときに自分の感性にマッチしたディスクが紹介されていることが多いというのは経験則上間違いない気がする。

そう伝えてくださっているその方ご自身と気脈が通じやすい・・・わけでは必ずしもないかもしれない。

しかし、そうおっしゃる方の気質はえてして自分に近いものがあり、その方のフィーリングにマッチした作品は必然的に自分にも合っている・・・と考えれば、けっこう納得もできる。


私自身は、ネット上ではいろんな演奏のいいところを聴き取ろうと努力しているコメントを吐いているが、自分には合わないと思う演奏だってやはり少なからずある。

何十種類と同じ曲のディスクを持っていても、繰り返し手が伸びるのは、結局のところ多くても数種類なのが実情だから・・・
どこといって悪くない演奏でも、次に聴かないことは多いのだ。

たとえば・・・
誰にでも聴きやすい中庸をいく奏楽で云々・・・という推薦評がなされていても、私のようなタイプにはヌルい演奏、ユルい演奏と聞こえるかもしれない。
だから、レコ芸のような評では私には伝わってこなくなってしまった。
その点、たとえ中庸を行くという評がされていようと、この演奏ではストイックにど真ん中を行き他の追随を許さない、他にはない境地にあるとどなたかが聴き取られたと表明されたものであれば、きっと求道者が法を求めるに似た軋んだのっぴきならない中庸の音楽がそこにあることが期待され、がぜん聴きたくなる。


シューベルトの音楽はただでさえ禁断の果実であることを知っている。
エデンの園のようなネット空間で知恵の実のありかを訪ねた結果が、楽園追放であったとしても、罪を重ねずにはいられない・・・
どうせ、私はすでにこの点での無間地獄にいる。

これさえあれば他の同曲の演奏はうっちゃることができる・・・

私の心がとげとげしてシューベルトを求めているようなときには、私はあちこちの情報を訪ねてそんな激白を探してやまない。

そうして知りえたメロス弦楽四重奏団のハルモニア・ムンディに移って以降のシューベルト、あるいはベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲には当分外に出られそうにない引力を感じている。

就中、ハ長調弦楽五重奏曲・・・
芳しい書評がいまでも記憶に残っているABQもラルキブデッリも名演奏には違いないと今でも思っているが、ここまで澄み渡って突き抜けてはいなかった。

十六夜

2009年10月05日 00時16分16秒 | 器楽・室内楽関連
★ドホナーニ&エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ
                  (演奏:ジャン=ジャック・カントロフ(vn)、上田晴子(p))
1.エルンスト・フォン・ドホナーニ:ヴァイオリン・ソナタ 嬰ハ短調 作品21
2.ジョルジュ・エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ 第2番 ヘ短調 作品6
3.ジョルジュ・エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ 第3番 イ短調「ルーマニア民謡風」 作品25
                  (2004年録音)

昨日は世田谷に行った。
『芸術の秋』を堪能しようと宮谷理香さんのピアノ・リサイタルに向かったため・・・
なのだが、会場の成城ホールまで赴いたものの結局聴けなかった。(T_T)

お察しのとおり、タイトルも内容も当初企画していたものとまったく異なるハメになった。


この公演があることに気づいたときにはすでにネットでの申し込みが満席となっていて電話申し込みも打ち止め・・・
当日券が若干枚準備されており、15時開演の1時間前から売り出すとの情報を頼みにお出かけした。

というわけで私は・・・ちゃんと14時に着くよう計画し、確かに13時40分には成城学園前駅に着いていた。


しかし・・・
ネットで調べて成城ホールまでの地図を頭に入れていったはずだったのだが、あろうことか一歩目を反対方向に踏み出したため、いくら歩いてもそれらしい建物はみつけられなかった。(>_<)
ついに意を決して、バス停にいらした品のいいおじさまに尋ねたら「駅の反対側」と丁寧に教えていただき・・・
着いたときには14時5分になっていた。


成城ホールの前の交差点を渡るとき・・・
ツクツクボウシが素っ頓狂に鳴いていて「とても芸術の秋って感じしないな」と思った予感が的中、はたして当日券は売切れてしまっていた・・・
という顛末。

ちょっとだけ粘ってみたけど、すべからくアタシが悪いんだからそれ以上はいえなかった。。。(T_T)

ショパンのバラード、スケルツォのディスクにおけるりかりんさんの進境が著しかったので、楽しみにしていただけに残念だった。
ゲストの礒さんも聴ける・・・と思ってたのに。。。


せめてもの腹いせに新宿のタワレコを久しぶりに巡回し、気になっていたディスクを3枚ほどゲットした。
リサイタルの入場料を払っていないことを思えば、2枚分ぐらい余計に奮発しても許してもらえるだろう。


ところが・・・
新宿からの帰りが、これまたなかなか難儀なことだった。
JR中央線快速で“お茶の水”へ、総武線鈍行で“錦糸町”まではセオリーどおりである。
ここで私は京成線の千葉行きの始発が“京成津田沼”駅であることを思い、“津田沼”までのJR切符を購入し、当たり前のように“津田沼”駅で降りたのである。。。

我が家からのJRの最寄駅“稲毛”まで行ってしまうとかなり(15分ぐらい)歩かねばならない。
また、その帰り道にスーパーがなく“めんつゆ”を買わないといけなかったため、通勤で使っている最寄駅の京成線“みどり台”駅に行きたかった・・・ので乗換を望んだのだが・・・。

東京方面へのJR線への乗り継ぎは・・・
昨日、東京駅へ行ったときは“船橋”駅で京成線からJRへ乗りかえた。
今朝だって“京成幕張本郷”駅でJR“幕張本郷”駅へ乗りかえた。
昨日は3分ぐらい離れたところに駅があり、今朝はまさに隣接していたのでよく考えもせずに“津田沼”でもすぐ乗りかえられると思ったのだが・・・

結局・・・
20分以上歩くハメになった。。。(T_T)
これも駅の案内どおりに5分ほど歩いても線路さえ見えずおかしいなと思ったところで、近くをウォーキングされていた品のいいオジサマにまたも尋ねたところ、「え、歩くの!?」と訝られてしまった次第。。。

だが・・・
運賃節約とスーパーの最寄り駅にたどり着くためには歩かねばならなかった。。。
おかげさまで、万歩計は10000歩を2日続けで大きく上回り健康に資すること大である。
気温が高かったので半袖半ズボンで出かけたことも幸いし、多少汗をかいたが心地よかった。


昨日、雲に隠れて見えなかったが十六夜の月が黄昏時の空に美しく、なんとはなく心弾ませて歩いている自分がおかしかった。。。



“京成津田沼”駅から各駅停車の電車に乗っても、陽がとっぷり暮れた空にさらにくっきりと十六夜の月は鮮やかに・・・
見とれているうち・・・半分寝てたか・・・に今度は乗り越してしまった。(-"-;)

アホか・・・
と自らのことを思いつつも、折り返しの電車に乗ってまたも月をみながら帰ってきたのである。(^^;)


一昨日が今年の仲秋の名月だったが、残念ながら私が空を見たときには雲間に隠れており見そびれてしまった。

一日明けてしまった月など世間は手のひらを返したごとく相手にしないようだが、見えなかった昨日の月より、今日の十六夜のほうがどれだけありがたいかしれない。

あの月には確かに星条旗がささっているかもしれないが、阿倍仲麻呂がふりさけみちゃったり、道元禅師が正法眼蔵で『都機』として教えを垂れたり、禅宗では仏性や真実そのものに喩えられたりもしてきている月に相違ないのだから・・・
その価値が昨日と今日で変わるハズはなかろう。(^^;)


昨日を振り返って反省はいろいろある・・・
・PCから地図を打ち出せなかったのが敗因なので、プリンターを購入すべし。
・本当の敗因は脳の劣化による記憶違いなので、それに対処する準備をすべし。
・当日券をとっておいてくれと13時55分に電話できたならあるいは・・・?
・携帯の路線の案内にすべからく従うべし。
・やはりCDを2枚も余分に買っては高くつく・・・   などなど。

でも・・・
洋服の選択しかり・・・
月を愛でながらのお散歩しかり・・・
一昨日の東京インターナショナルオーディオショウのデモで耳にし心を打たれ、ネットでは手に入れられなかったCDを、タワレコの売り場で見つけて衝動的に買ったらもの凄くよかった・・・
など、ケガの功名だけど結果的にはファインプレーといえることもいっぱいあった。(^^;)


それにつけても・・・
E.v.ドホナーニのヴァイオリン・ソナタが、こんなにわかりやすく素晴らしい曲だとは思わなかった。
エネスコもすごく聞きやすいし・・・


ジャン=ジャック・カントロフと上田晴子さんによるこのディスクを聴いているが、秋の夜長に繰り返し聴くに足る素晴らしい演奏だと思う。
大仰な身振りはなくさりげないというより素っ気なくも聴こえてしまうが、その実スルメの如き味わい深い演奏ではあるまいか?

オーディオの力量の差は一昨日と比べてしまえば愕然とするものがあるが、値が違うほどに音の感動は違うはずもない・・・。


何はともあれこのように終わっちゃったもんだから、いい一日だったと思わないわけにもいくまい。
宮谷さんや礒さんの実演、昨日のそれは聴けなかったけれどきっとまたの機会もある。

それまで、また楽しみにしていよう。

今月の記事には三谷監督のマジックアワーをTVで観たばかりなので、その影響も多少あるかもしれない。

神話の世界へ・・・

2008年08月03日 22時50分24秒 | 器楽・室内楽関連
★エトワールの夜~グザヴィエ・ドゥ・メストレ・プレイズ・ドビュッシー
                  (演奏:グザヴィエ・ドゥ・メストレ(hp)、ディアナ・タムラウ(S)、
                         ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団員)
1.ベルガマスク組曲
2.夢
3.ロマンティックなワルツ
4.エトワールの夜(星の輝く夜)
5.リラ
6.麦の花
7.月の光
8.マンドリン
9.美しき夕べ
10.まぼろし
11.2つのアラベスク
12.『前奏曲集』より ~ デルフォイの舞姫、帆、亜麻色の髪の乙女
13.『ハープと弦楽のための舞曲』 ~ 神聖な踊り、世俗の踊り
                  (2008年録音)

今、ユング(について)の本を読んでいる。
そんなときにこのディスクに出会ったのも、考えてみれば不思議な巡り会わせと言えるかもしれない。

彼の夢解釈にはフロイトと異なり「予知夢」的な側面が感じられるし、彼の考えによれば無意識の中には神話や昔話に象徴されるような、集合的無意識の元型があるとのことだから・・・そんな感覚がドンズバではまりそうな、こんな演奏が現われたので面食らってしまった。

逆に言えば、そんな本を読んでいたから、この演奏の感想がそっちに引っぱられただけなのかもしれないけどね。。。


実は、このディスクに食指が動いたのはレコ芸の特選盤になっていたから・・・。
私はハープのソロのディスクは、それこそ後段に紹介するマリア・グラーフの一枚を所有しているだけである。

もちろんモーツァルトのフルートとハープのためのコンチェルトなどは、数種のディスクを持っているが、ソロといえばグラーフのディスクのほかに入手することになるとはあまり思っていなかった。

今月のレコ芸はなんと・・・ピアノ独奏のディスクが一枚も特選になっていない。
別に特選盤を狙って入手しているわけではないが、御二人の月評子には(以前ほどではないにせよ)全幅の信頼をおいているので、いきおい特選盤に目が行ってしまうことは白状しておかねばなるまい。
でも、最近買うのはほとんど輸入盤なので・・・。

要するに、外盤も含めてピアノにこれはというものがなかったので、思わず血迷ってしまった・・・というわけ。
でも、これがまた大当たりだった。
ピアノと違って、アタックがきつくないからかけ流しておくのも含めれば、もう何度聴いたかわからないほどヘヴィーにかかっているのに飽くことがない。


とにかくドビュッシーの作品に、古代・神話を連想されるものが多くあることは知っていたが、こんなにもハープとの相性がいいとは思わなかった。
そしてハープで爪弾かれることが、また清廉なソプラノの背景に回ることが、幻想的な弦楽伴奏にのって神聖な舞曲のソロをとることが、東洋の島国の私の原初的な無意識にもはっきりとその本質を感じさせられるような効果を担保しているとは思いもよらなかった。

もちろんフリーメイスンとのかかわりなど作曲者ドビュッシーの、何かと取りざたされる機会が少なくない、どことなく神秘的な心の内奥の響を模していることもあろうが、演奏者の作曲者の心の内奥にある古代・神話的世界への共感に注目せずにはおれない。
また、それをこれほどまでに鮮やかに現実のハープの音に代えることができるテクニックについても称賛されよう。

まぁ、ウィーンフィルのハーピストなんだそうだから、それぐらいできる人であって当たり前だろうが、それぐらいできることはちゃんと評価してあげないとね。。。

オルフェウスって、きっとメストレのような人(神様?)だったのだろう。
ジャケット写真を見たときに、人間とは思えないほど指が長いように思われることも含めて・・・。


★マリア・グラーフ・リサイタル
                  (演奏:マリア・グラーフ)

1.キャプレ:2つのディヴェルティスマン
2.フォーレ:塔の中の王妃
3.フォーレ:即興曲 作品86
4.ルーセル:即興曲 作品21
5.タイユフェール:ハープのためのソナタ
6.ドビュッシー:2つのアラベスク
7.ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
8.トゥルニエ:演奏会用練習曲「朝に」
                  (1990年録音)

メストレが如何にイケメンっぽいといえども、グラーフの目もとに如何にわずかにシワがよっていようとも、ジャケットの好感度はだんぜんグラーフの勝ちである・・・。

しかし、被っている2つのアラベスクの演奏はハープの音の余韻の捉え方なども総合して、メストレのほうが私の好みにあっているかもしれない。

このグラーフのディスクは永く私の手許にあり、かつては本当によく聴いた。
ハープのディスクはこれさえあれば・・・とも思っていた。

フォーレの塔の中の王妃などは、始めから私の心を捉えるだけの力を持った楽曲だったし、同じくフォーレの即興曲はさすがハープのためにかかれた曲だけあって、華やかにして慎ましさも感じさせる出来映えとなっている。

これにはキャサリン・ストットが作曲者がピアノ用に編曲した楽譜で演奏している名演奏もあるが、これを聴くといささか華やかに過ぎるのかもしれないと思ってしまう。

やっぱりハープには、それ独特の味わいがあるのだ・・・と強く感じた。

演奏に関して言えば、フォーレやタイユフェールの演奏の感動は、メストレのそれに決して遜色あるものではない。
この記事を書くに当たって聞きなおし、何年ぶりかで楽しませてもらった。

このディスクは発表当初は演奏内容もさることながら、むしろ好録音盤として好楽家の間に広まったようにも思える。
しかし、今の耳で聞くとやはり時代は流れているようだ。。。

音の表情、立体感、そこにある空気の気配といったものに差を感じる。
単に好みの問題ともいえようが、メストレのそれのほうがまろやかなのだ・・・。
そう考えると、実は演奏自体にはそれほどの差はないのかもしれない。

逆に・・・メストレのフォーレのハープ曲が聴ける日が楽しみ・・・である。

発端はリゲティへのオマージュか?

2007年10月09日 22時21分48秒 | 器楽・室内楽関連
★バッハ・リゲティ:シャコンヌ
                  (演奏:アントワーヌ・タメスティット)
1.J.S. バッハ:無伴奏パルティータ第2番ニ短調 BWV 1004(ヴィオラ編曲版)
2.リゲティ:無伴奏ヴィオラ・ソナタ
                  (2006年録音)

2004年ミュンヘン国際音楽コンクールの優勝者、アントワーヌ・タメスティットによる無伴奏ヴィオラ作品集であります。
タベア・ツィンマーマンの愛弟子で、先のコンクール以外にも数々のコンクールの輝かしい優勝歴がある由。

発売元(輸入元?)のアナウンスによると、「彼の奏でる音色は、らくらくとしていて温かい魅力に満ちています。ヴィオラ独特の深い色合いの音色から、きらきらと輝く音色まで、変幻自在の表現に、引き込まれてしまう」ということですが、まさにそのとおりであります。

虚心にその演奏を聴くと何者にもとらわれないで、いとも簡単に自分の表現したいものをその楽曲の中から取り出して見せてくれてしまうような、素直な音楽性が随所に垣間見られて誠に好感が持てるものでありました。

とにかくよくありがちな、わが意を伝えんとするばかりでやたらうるさいというか押し付けがましい解釈、これを感じなかったら罪ですといわんばかりの主張を声高に宣するような演奏とは全く無縁であります。
彼の演奏は手馴れていながらも喜びに溢れており、楽曲の精髄を別にありがたいものとも崇高なものとも思っていないようで、自分の恣意を交えることなく取り上げてみせる様にはある種脱帽せざるをえないという感が確かにあるのです。

繰り返しになるかもしれませんが、自分の雑念を介せずに作品の壁をひらりと飛び越え、軽々とお宝のありかを探り当ててみせるセンスはルパンのようでもあり、“どこでもドア”をもっているかのようでさえある・・・そんな風に思えてしまいますね。

テクニックというか、表現上の工夫をいたるところに駆使しているのでしょうが、先に言った作品の精髄と思われる部分を、深刻さとはほとんど無縁に描き出しているところに注意が行っているので気づかされることは余りないですね。
後から振り返って、そういえば多彩な表現がなされていたなと気づくような感じで・・・。(^^;)
でも、この演奏にそんな詮索は無粋だし、しても幸せなことではないでしょう。
単純にヴィオラの軽々とした響きに身を委ねているのが、このディスクの正しい聴き方であると私には思えました。

もちろん、ヴィオラを勉強している人であれば、ここにはヴィオラで表現できるしなやかな感性がこれでもかとばかりに散りばめられていますから、死ぬほど研究してくださいね。(^^;)


バッハのパルティータ第2番ですが、ニ短調である原曲をト短調に編曲したんでしょうか。。。
また、ヴァイオリン版に比して、ところどころ旋律のラインをオクターブ下げたり、楽器を変えたことに伴う変更が施されているようではあります。

その結果先にも述べたように、ヴァイオリンでは結構気負いこんだ深刻さを感じさせる音楽であったにもかかわらず、ヴィオラ・・・特にこの奏者だからかも知れませんが・・・では、ぬくもりと人間味という語り口が印象に残るものになっていました。


一方、リゲティはいいのか悪いのかは私には判然としない楽曲でありますが、タメスティットのヴィオラの音色の妙によって確かに存在意義の在る曲であることが実証されているように思います。

裏を返せば、バッハやロマン派の時代にはなかった語法・・・というより表現要素・・・を判りやすく奏者が示しているといえばよいのでしょうか?
もちろん、リゲティが楽譜あるいは解釈を示唆する場面で奏者にこのような音色というか表現の様式でするようにという指示を出していることも十分にありうるのですが・・・ここではそれを私に感じさせるまでに実現しえている奏者のパフォーマンスに対して讃辞を贈っておきたいと思います。

本当にこの奏者に関しては、しなやか、軽々という音色のキーワードがピッタリでしょう。
無伴奏にかかわらず、この特長を生かしてメランコリックな曲も世に問うてもらいたいもんだと思います。


さて、その他に引っかかってることとして、なんでこんなプログラムになったんでしょう・・・ということがあります。

昨年リゲティが亡くなったためにそのオマージュを考えた・・・ということは十分に考えられますね。

その終曲がシャコンヌであるから、作曲者本人はわざわざをバッハを意識していないと述懐しているにもかかわらず、件のシャコンヌを終曲にもつパルティータ第2番を編曲してまでカップリングにしたんでしょうか?

確かに、タメスティットの適性はあらゆる音響をきばらず軽々と生み出せるというところにあると思いますから、リゲティのヴィオラ・ソナタに求められる要素と適性はマッチするものと思われます。

何世紀もの音楽の影響をそこここに感じさせる多様な曲であり、ハンパな奏者の手にかかったら支離滅裂になりそうですもんね。
シャコンヌが同じバス音の反復の上に展開される舞曲であるということすら、気づくことができないまでにぐちゃぐちゃになりそうです。(^^;)

でも、バッハは編曲版の宿命とはいえ「バッハの意図したものが顕れていたのか?」と問うた時にどうかなと思うフシもあることは事実なんですよねぇ~。
あまり気づかせなかった語り口、多彩な音色でしなやかに、それも充足した演奏をしていたのですが、どうしてもシャコンヌなどもっと激しい情念的なものも内在しているように思われてなりません。

そこを、しなやかだけではなくて圧倒的に毅然とした一刀両断にする音色・・・言い含めるのではなく、強弁を振るうというかてこでも動かないような類の説得力をたとえ1ケ所でも聴かせてもらえたら全面降伏だったかもしれませんね。

それがなかったために、編曲までして「なにがしたいの?」という一抹の疑問が残ってしまったわけです。

演奏それ自体には、充足していますし何の不満もありません。
気鋭の新人演奏家の期待に違わぬ一枚といえましょう。
これだけの逸材による美音、ロマン派に期待したいですね。(^^)/


最後にさすがわアンブロワジー・レーベル、ここでも期待に違わぬ素晴らしい録音でヴィオラの音色をディスクに取り込んでいると思います。
再生した時に生々しさが違う、ホンモノを聞くより生々しいぐらい。。。

ホメて遣わす。(^^)v

もってこ~い、もってこい

2007年10月07日 19時05分27秒 | 器楽・室内楽関連
★バルトーク・ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ集
                  (演奏:ギドン・クレーメル(vn)、マルタ・アルゲリッチ(p))
1.バルトーク:ヴァイオリン・ソナタ第1番
2.ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ
3.メシアン:ヴァイオリンとピアノのための主題と変奏
                  (1985年・1988年録音)

今日は10月7日、長崎の諏訪神社では「長崎くんち」が始まっているはずです。今年は連休と重なって人出もさぞかし多いことでしょうね。
「おくんち」についてはご存知かと思いますが、7年に一度まわってくる踊町の当番町が諏訪神社に各町独自に伝わる出し物を奉納するというもの。
それぞれに傘鉾(かさぼこ)やら担ぎ物・曳物(ひきもの)それぞれ伝統の出し物の演技を諏訪神社に奉納するとともに、市街地を練り歩くというお祭であります。
演目としては「太鼓山(コッコデショ)」とか「龍踊(じゃおどり)」なんかがつとに有名ですよね。

私は、かねて4年間長崎市に住んでいたので、くんちに関しては準備から本番に至るまでいろんな方のケースを見てきました。
私自身は踊町に住んでいなかった(新大工町)ので体験したことはないんですけどね。(^^;)
独自の風習が残されていて興味深い限りです。

前日から「庭見せ」といって踊りを奉納をする人の自宅でそれぞれ衣装を見せる催しをしたり、単に練習して踊町の出し物を奉納するだけでなく「小屋入り」「人数揃え」「庭先廻り」など当番町を横断してのきちんとした「くんち」に出場する際のルールが決められているのです。
こんなことの端々に伝統の重みを感じます。

私が住んでいたころから既に若者だけではなく、伝統を知る年配のかたが減る傾向にあったんですが、是非ともこういった風習は末永く形として残していってほしいものだと思いますね~。
合理的に考えれば、そのときどきにあったやりかたというものはゼッタイに存在すると思うのですが、やはりその土地にある風習はそのとおりに守られねばならないのではないでしょうか?
たとえ人がいなくなったとしても、その人のみをどこかから募るというような形にして、ルールはルールできちんと伝承していく・・・そんな取り組みを期待したいと思います。

さて、諏訪神社の境内から前の道まで「長坂」と呼ばれる長い階段があって、その中間の踊場の広場に足場を組んで観客席を設け、文字通りそこを踊場として奉納します。
これは諏訪神社の諏訪・森崎・住吉の三柱の神様がくんち初日に諏訪神社の長坂を「お下り」して、大波止というところの「御旅所」に光臨され(だから神様をお参りする人はこっちに行くことになる)、最終日にまた長坂を「お上り」してお帰りになる・・・要するに神様がこっちの世界にいらっしゃる間、踊りを奉納したりいろいろ「おくんち」祭の行事をするのです。


さて、クレーメルとアルゲリッチは1980年代からさまざまな共演をしています。
その中にバルトークのヴァイオリン・ソナタ第1番の演奏もあり、先日来の福田総理バルトーク好きの記事を書いてたときにまた久しぶりに耳にしました。

アルゲリッチの伴奏者としてのピアノについては、私の周りでも賛否両論があってなんとも言い難い所ではありますが、個人的には、共演する相手が素晴らしければという条件付で、とんでもなく素晴らしい伴奏というか共演者としての奏楽であると思います。
何でかというと、誰に対しても横綱相撲だと思えちゃうからです。
彼女は、どんな意味にせよ素晴らしい人に対しては負けじと(といって彼女が負けることはない)張り合ったり、寄り添ったりでこの上なく刺激的な演奏ぶりを発揮するように思われます。
逆に相手にとって不足というより、自分がサポートして助けてやらなきゃという共演相手に対しては、ところどころ「さすがは」という片鱗をちょろっと出すものの、結局は2人分、3人分まとめて“それなりの”雰囲気作りをしちゃってイッチョマエの演奏に仕立て上げてしまうのがアルゲリッチ流・・・。

凄いことではあるのですが、やはりちょっとムリがある・・・。(^^;)


もちろんここでの共演者クレーメルは実績や名声だけでなく、その演奏内容においても一家言あるどころか余人を以って代えがたい境地を誇るヴァイオリニストであります。

まぁメシアンの曲はなんだかよくわからないので放っておきますが、バルトーク・ヤナーチェクの両ヴァイオリン・ソナタについては殆どバトルともいっていいような応酬が続く、壮絶な演奏という印象を持って聴きました。

特にバルトークでのアルゲリッチは、冒頭のただごとならぬアルペジオの響きの霧からして幻術的であり、周辺の空間を瞬時に伸縮させて見せケラケラ笑っているような感じ。
頬に当たる風は生温かいと思ったらひんやりしたり、およそ水系のアイテムは何でも自在に使いこなすことが出来るようで、音の粒は霧になったり水蒸気と化して見えなくなったり、対象物にどのような形態であっても執拗にまとわりつくかのように展開します。
もちろんそれは曲が要請しているのであって、アルゲリッチが妖怪だといっているわけではありません。
しかし、誰もがその妖怪になれるわけでもなく、彼女が毎回スポンティニュアスなものを感じさせずにはおかないとんでもないスケールのピアニストであることは事実であります。
対抗を余儀なくされる実力派の共演者には、もしかしたら妖怪よりもおっかない存在であるかもしれません。(^^;)

対するクレーメル、修験者か求道者かという出で立ちでアルゲリッチの音符攻撃の魔の手に屈することのないよう、懸命に正気を保とうとするような一途なヴァイオリンの音を繰り出しています。

この戦いの一進一退の攻防は、悪魔のキヒヒヒという声の聞こえてきそうな伴奏と、半ば我を忘れて必死に呪文を唱えるようなヴァイオリンの毅然とした荒削りでありながら作りこまれた音色・フレージングが相俟って、何層にも響きが折り重なった美しい瞬間を何度となく聴かせてくれます。
先入観を持って聞くうちは「これは何なんだ?」ということになってしまうと思いますが、もし曲の向こう側にある世界を見てしまったら麻薬的に入れ込んでしまう楽曲になるような気がします。

いろんな演奏家によるヴァージョンがありましょうが、やはり真っ先に指折られるべき名演奏だと思いましたね。(^^)/


ここでのアルゲリッチはすべてのものを細かいアルペジオの音響の霧に包んで持っていってしまいそうな勢いであります。


長崎くんちでは、素晴らしい出し物についてはプログラムを終えて長坂を下り降りようとしたときに「もってこ~い、もってこい」あるいは「しょ~もやれ~」といったアンコールの掛け声で戻って、あるいは所望に応えもう一度演目を披露する習わしです。

「持ってって」しまうアルゲリッチと、アンコールを所望したい名演奏と、おくんちの掛け声がたまたま私の頭のなかでシンクロしたので、こんな記事になりました。


余談ですが「おくんち」前日に「裏くんち」という催しがあります。
「おくんち」を見るのがもちろん王道ですが、わたしは裏くんちを見ることは貴重な長崎の見所のひとつだと思っています。

なお、くんちを見る際には必ず「白ドッポ」と呼ばれる白い法被を着た方々のいうことをよく守ってみるようにすることが大事です。(^^;)

新首相はバルトークがお好き?

2007年09月28日 00時00分02秒 | 器楽・室内楽関連
★バルトーク:弦楽四重奏曲全集
                  (演奏:アルバン・ベルク・クヮルテット)
 《DISC1》
1.弦楽四重奏曲 第1番 イ短調 作品7
2.弦楽四重奏曲 第2番 イ短調 作品17
3.弦楽四重奏曲 第4番 ハ長調 

 《DISC2》
4.弦楽四重奏曲 第3番 嬰ハ短調
5.弦楽四重奏曲 第5番 変ロ長調
6.弦楽四重奏曲 第6番 二長調
                  (1983年・1984年・1985年・1986年録音)

実は前記事で書き忘れたんですが、記事を書いた日(9月26日)ってバルトークの命日だったんですよね。

で、まどろっこしいタイトルでまたまた、バルトークのクヮルテットのディスクを採り上げた理由なんですが・・・

「新宰相は・・・」と題して前の記事を書いたんですが・・・
・・・宰相ってのは例えばビスマルクってイメージだよな。我がFさんは宰相って感じじゃないだろう・・・。

などとぬかす輩が身の回りにいるからであります。
ともあれ、しゃ~ないなぁ~。やりなおしするしかないかと思ったわけですな。(>_<)


さて、バルトークには前記事でも触れたとおりいっぱい記憶さるべき作品があります。
にもかかわらず、今度は弦楽四重奏曲を選んだわけはひとえにアルバン・ベルク・クヮルテット演奏によるディスクであったから・・・なのであります。

つまり・・・これもよく引き合いに出させていただく“レコ芸”の濱田滋郎センセイについてなんですけれども・・・センセイは器楽曲の月々の月評を書くに当たってめったやたらに“推薦”盤を乱発しているくせに、名盤の選定などの企画で10点満点で投票なんてのがあった場合に10点を投じることが極めて少ないように思うのです。
要するに、ここでも9点というのは相当数出るんですが、満点がない、あるいは点数はカライ・・・。

私の記憶するところでは、満点を投じたのは3枚しかなかったんです。
そしてそのうちの1つが、このアルバン・ベルク・クヮルテットによるバルトーク弦楽四重奏曲の全集だったんですね。
(^^)/

ちなみに、余の2作品はリヒテルによるシューベルトの変ロ長調ソナタとポリーニによるショパンのスケルツォ全集他のもの・・・確かにいずれも素晴らしいできばえの作品であり、私も大いに首肯できるところであります。
もちろん濱田先生が全曲に投票されているわけではないので、ご担当された楽曲の中での10点を投ずるに足る作品がこの3点ということではありましょうが・・・。

そしてピアノ曲ほどには他のジャンルを聴くことがない私をして、このディスクの演奏は「ただごとではない」と襟を正させるに足る凄みを湛えた演奏であります。

しかし、このディスクは輸入盤なんですが、先の濱田先生の投票結果を拝見してこれは聴かずばなるまいと入手したときの値段がなんと1000円を切っていたような気が・・・。

これは独特の美しい音色を駆使して堅固な響きの場を築きうるアルバン・ベルク・クヮルテットであればこそ、これだけ聴けるというシロモノです・・・。
緩いとか甘いとか、それこそタルい演奏家の手にかかった日には聴けたモンじゃありません。

それがなんと2枚でこの値段・・・世の中間違ってないかい!? 買うほうとすれば嬉しいけど・・・。
ホント、これに1000円の価値しかなかったらこの6曲を収めた7000円もするようなセットはどんな演奏でなくちゃならんのだろうか?

世の中にはこのように混沌としてわからないことも多いわけですから、新首相にはよくわからないことをいい加減に是正してくださるようお願いしたいものですな。(^^;)

昨日はヴァイオリン一挺の楽曲でしたが、今回は4台の楽器の緊密にして深遠な絡み合いであります。
バルトークのこの複雑なリズム・沈潜・バランス・・・きっと民謡採集などの影響もあって積み上げられていったものなのでしょうが、非常に多くのものを内包しているように思うのです。

まぁ第1番から第6番までに30年余の時間の経過があるので、当然に全曲を一律に論じるわけには行かないでしょうが、むしろ若いころの第1番などは音数を限って曲想を沈潜させた中に強いある種の感情を押し込んだというイメージがあって、第5番では多くを語るようになり、第6番はむしろ平明に聴きやすくなった・・・こんな感じもします。

しかし、なんといっても第3番と第4番が巷の評価も高いやにきかれるとおり先にも述べたリズム・沈潜・バランスといった要素が極めて象徴的に音色や楽器間の強弱の綾で説得力をもって迫ってきます。

このような曲は判ろうとするのではなく、心の中を努めて空っぽにしてそこに音を取り込むような気持ちで聴かないとその本質が聴き取れないんだろうな・・・なんて思います。
その複雑なあるいはわずかな音の素振りから3Dのようにある種の感情や気分が浮かび上がってきて、時として目を見開かせられるような思いになるし、あまりの美しさに陶然とすることもありますね。


私自身、素晴らしい曲だろうなと思いつつもまだまだ消化不足でありますが、F首相はバルトークの代表作であるこれら弦楽四重奏曲の少なくとも何曲かは愛好されていらっしゃるんでしょうから、ぜひとも派閥や既得権者、あるいは諸外国ばかりではなく、我が国の民衆の声をひろく聞いてその中から浮かび上がってくる叫びに耳を澄ましていただきたいと願うものであります。

しかし、ホントにこれがお好きな首相だったら何でも聞き分けられちゃうような気がしてきました・・・。(^^;)
期待はいや増すばかり・・・か!?

新宰相はバルトークがお好き?

2007年09月27日 00時00分01秒 | 器楽・室内楽関連
★バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ
                  (演奏:竹澤 恭子(vn)、フィリップ・モル(p))
1.バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz.117
2.チャイコフスキー:瞑想曲~なつかしい土地の思い出 作品42-1
3.ワルツ・スケルツォ 作品34
4.ファリャ:スペイン民謡組曲
5.シャミナード(クライスラー編):スペインのセレナード
6.ブラームス:ハンガリー舞曲 第1番 ト短調
                  (1990年録音)

日経新聞の記事によると新宰相はバルトークがお好きだということでしたね。ウィキペディアにも、ベルリオーズやバルトークのクラシック鑑賞が趣味だと書いてありましたから、ある程度確かな情報なんでしょう。

以前、彼が官房長官を務めたときの宰相はオペラなどのイタリアものに傾倒していたのでそれと対比されていましたが、好きな作曲家の名には人柄をしのばせるところがあるような気がして興味深いものがありましたね。

ベルリオーズっていえば不必要に稀有壮大という感じがするし、奥さんへの求婚の様もなかなかに情熱的というかストーカー的というかやはり押すところは押す、とにかく押す、やっぱり押すみたいなところがありますよね。

もしかしたら新宰相の本質って、そんなところにあるのかもしれませんね。
大仁田議員に対して「ファイヤー」って言ったらしいし・・・案外、一筋縄ではいかない情熱家だったりするのかもしれません。。。(^^;)


あとは日経で触れられていたバルトークに絞りましょう。
どうもバルトークって言うと「黄金分割」とか「民謡収集」、そしてピアノの打楽器的な使用をイメージします。
でも、思い浮かぶ曲というと何故かヴァイオリン曲が多いんですね、私の場合。

もちろんピアノがバルトークの楽器であり、ほかにも外せない名曲がいっぱいあるのは承知しているんですが、どうしてもこの無伴奏ヴァイオリン・ソナタのイメージがまっ先に頭に浮かびます。

もちろんヴァイオリン協奏曲第2番やピアノ伴奏付のヴァイオリン・ソナタも鮮烈ですよね。

いずれにしてもバルトークの音楽はリズムが切れてワイルド・・・そして絶妙な均衡のうえに成り立っているといえる音楽でありましょう。
新宰相にもぜひともそんな音楽にあやかってもらって、大鉈をふるうところはふるい、調整するべきは調整してもらえればと思いますね。

そろそろいい加減、国民のほうを見て政治をしてもらわないとね。期待してまっせ!(^^)/


というわけで、竹澤恭子さんのデビュー盤を引き合いに出すことにしました。
何といっても、新宰相も総理大臣としてはデビューですからね。

ここでの竹澤さんはスバラシイの一言であります。デビュー盤とは思えない完成度の高い、そして燃焼度も高い演奏だと思いました。

まずバルトークですが、カマしてくれますよね。
本当にムダなところはこれっぽっちもないと思います。音色も私好みの楽器だし、音は屹立しているんだけれどもその響きを聴くときにはややソフトフォーカスに思える・・・やや緩めてあるという感じの音色がたまらなく素敵です。

各楽章で共通の主題みたいなものがあるようなきがしますが、その歌い上げ方がこの演奏が私にはベストだと思えるのです。
最もしっくり来ます。先ほど少し緩めてあるように書きましたが、全体的には極めて緊密でストイックな音楽に仕上がっていると思います。

そして、このディスクの最大の魅力はプログラム・・・。

チャイコの“瞑想曲”はモルのピアノとも相俟って憂愁漂う音楽として作り上げられていますし、ファリャのナナなんかでも微熱が生々しく伝わってくるかのようです。
シャミナードのフラジオレットもいいアクセントになっているし、堂々と弾き切られているのがいいですよね。いつもは、もっと小賢しく弾かれることが多い曲であるようなイメージがありますモンね。

そしてブラームスのハンガリー舞曲第1番・・・これもジプシー色とかいうのではありませんが、憂愁という意味ではかなり憂愁を感じさせてくれる点が優秀ですね。(^^;)
タール&グロートホイゼンの連弾による演奏を聴いて、この憂愁が感じにくかったのとは大違いでした。


しかし、竹澤さんのディスクはこのほかにも持っていますが、なぜかデビュー盤のこれが最も愛聴している盤なんですね。
その後も秀演を発表されてはいるんですが、またそこでの成長ぶりも広く喧伝されているところではありますが、どうしても「インパクトとして」この盤を越えたというものにはお目にかかっていないといわざるをえません。

ところで新宰相デビューに際しての支持率は57.5%とまずまずのようです。
しかしながら、私の留守宅のある・・・私の住民票もそちらなので私の投票する選挙区の某女性議員が「いまがピークで転げ落ちる」などと批判しているようですけれどねぇ~、そんなことにはならないよね。(^^;)

国民生活がここまで切羽詰ってきている時に、親の代の確執なんかマスコミも取り沙汰しないでいただきたいですね。
ずっと鳴りをひそめていたというか封印されていた当該女性議員も、また発言できる土俵ができてさぞかし喜んでいるのでしょうが・・・。

彼女にはバルトークのバランス感覚は感じられませんね。(^^;)

日々のあいさつ

2007年09月23日 23時41分29秒 | 器楽・室内楽関連
★朝の歌 ~エルガー作品集
                  (演奏:加藤 知子(vn)、江口 玲(p))
1.夜の歌
2.朝の歌
3.6つのとてもやさしい小品
4.愛の挨拶
5.気まぐれ女
6.マズルカ
7.ため息
8.ヴァイオリン・ソナタ 作品82
9.カンド・ポポラーレ
                  (1997年録音)

ずいぶん以前に、加藤知子さんのバッハの無伴奏ソナタ&パルティータのディスクを取り上げて、そのうるおいある音色を愛でたんですが・・・。
その後しばらくして、さるCDショップを訪れたら廉価盤で出ていたので買ったのがこれ、もちろん第一義的には“愛の挨拶”をあの音色で聴きたいと思ったからであります。

そして、あのうるおいある音でエルガーの情緒をしっかり表現しながらもさわやかに、聞いたときの叙情よりもむしろ聴き終えた後の残り香が心地よいといった風情で楽しませてくれる演奏振りにはすっかり満足させていただいたものです。

今こうしてパーソネルを見直してみるとピアノには江口玲さんの名前があり、これも先日ホロヴィッツが絶賛したピアノでグランドマナーの時代の大ヴィルトゥオーゾ・ピースを弾いた彼の演奏を聴いたところだったので、このどちらかというとヴァイオリンの音色美、情緒を際立たせる影の役割に徹したような伴奏ぶりに2重の驚きを感じたような次第です。

本当にこの演奏も潤いとか、しっとり感という印象がぴったりきます。
バッハとエルガーなんて、ずいぶん遠い間柄の作曲家のように思われますが、ここまで似た質感を感じるというのはひとえに加藤さんの演奏、そしてヴァイオリンとボウ・・・要するに楽器の特性によるところが大きいのではないかと思いました。

ピアノの場合には、あるホールがあってそこのピアノと音響が気に入ってそれを採用するという場合もありましょうし、自分が気に入って自分用に調整されたピアノしか演奏しないというアーティストもいるでしょうし、逆に先般の江口さんのディスクのようにピアノの音を最大限に生かすようなプログラムをディスクに収めるという趣向もあるでしょう・・・。

でも、ヴァイオリンは楽器そのものがその演奏家のテクニックや音楽性と分かちがたく結びついている・・・いや、むしろその楽器の特性に自分の演奏を当てはめて最良の音楽を作っていく方が多いし、そのほうが実際的であるような気もします。
突っ込んで言えば、楽器が演奏家を一部拘束している・・・そんな要素もあるのではないでしょうか?

そして明らかにバッハのときと同じ音色が、エルガーの楽曲をなぞっていく・・・なぞっていくどころか、時代を超えてその気分をさりげなく表現しつくしているところこそが、私にとってこのディスクをきいた最大の関心事であり、驚きでありました。

エルガーの“気分”とは、とても平易な言葉を用いているけれど相手を思う気持ちには深くいとおしむものがある・・・ある程度その作曲年代が重なっているフランスのフォーレの濃密で深遠な気分と比べると、お国柄の違い(エルガーは英国の作曲家)もあるのでしょうがさっぱりしているところを感じます。
ただ、相手への思いやりというのは負けないどころか、もしかしたらさらに深いものをも感じるところがあったりするんですよね。


エルガーが“愛の挨拶”を9歳姉さん女房であるアリスに贈ったのが31歳のとき・・・そして30年あまりアリスはエルガーの作曲のインスピレーションであり続けたように思います。
彼女の死後には、重要な作品はとうとう生み出されなかったらしいことが、そのことを裏付けています。

いわば、ここに収められた楽曲の数々はエルガーの楽器であったヴァイオリンを通じた妻への『日々のあいさつ』という性格を持つんじゃないでしょうか?

ここに同名の曲もありますが、ショパンにとっての“マズルカ”が故郷に対する、あるいは日常のことどもに対する気分を反映した楽曲であるように・・・。

というわけで、ここで加藤さんはエルガーの平明で爽やかな旋律線を、日々のさりげないあいさつを交わすように本当に気持ちよく歌っていかれます。(^^;)
でも、そんな挨拶ができる裏側には相手への深い愛情や絆が必要であると先にも書いたように、エルガーの楽曲への深い共感も感じられるものであるところが、聴いていて心地よい要因のひとつでもあると信じられるのです。
爽やかな聴後感とともに、ほんのり心が温かくなっている・・・そんな感じでしょうか?(^^;)


ジャケットの背景も新緑を思わせる黄緑を基調としたもので、まことにエルガーの曲想にマッチした雰囲気をかもし出していると思うのですが・・・。
私の好みかもしれませんが、加藤さんのポーズにはいくぶんミスマッチを感じざるを得ませんね。

“愛の挨拶”もふくめさりげなく趣のある会話を交わしたピアノの江口さんと談笑するスナップが、この演奏には相応しいんじゃないでしょうかねぇ~。
いかがなもんでっしゃろ・・・?(^^;)

芸術ファンのための優秀装丁盤

2007年09月07日 00時08分28秒 | 器楽・室内楽関連
★J.S.バッハ:ゴールドベルク変奏曲
                  (演奏;Wladyslaw Klosiewicz(cem))
1.ゴールドベルク変奏曲 ト長調 BWV.988
                  (2000年録音)

ノッケから困りました。この方の名前が読めないんです。
「l(小文字のエル)」で表現しているものは本当はチョメがついててエルじゃないんですが、表示できません・・・。(>_<)
クラウゼヴィッツって読むんでしょうかねぇ?
あの「戦争論」の作者と同じように・・・。とにかく、英文表記でお許しを。

さて、ポーランドのアコール・レーベルから出ているこのディスクは、確かステレオ・サウンドの「オーディオファイルのための優秀録音ディスク」に紹介されていたので記憶の底にあったものだと思います。

何気なく店頭で手にとってそんなことを思い出したのですが、私は直ちに入手することにためらいはありませんでした。

ウソです・・・。
ちょっと考えましたが、その日のうちに結局買って帰りました。随分前の話ですが・・・。(^^;)

なぜかというと、寝室の品の良い木目模様のような青い生地の上にカツラがカツラ立てに置いてあるという趣向の装丁があまりにも美しかったから・・・であります。
アコール・レーベルの品質はかねてよりいろんなディスクで承知していますし、曲目も聴き応えがなかろうはずがない申し分ないもの。
私の財布の紐は、この角度から責められた場合には誠にあっさりと解けてしましますなぁ~、毎度のことながら。。。
(^^;)

手前の青い生地に一度あたって照り返したような光に浮かぶカツラのジャケットですが、ホントにきれいなんですよ!
思わず背景の品の良いクロについてしまった自分の指紋を拭き取りたくなるぐらい・・・。(^^;)

そして中ジャケの写真もまた途方もなく美しいんです。
この青い木目模様の生地は、実は部屋のカーテンと同じ素材であることが判ります。品良くベッドメークされた寝台があり、さらにディスクを取り出すべくジャケットを観音開きにすると蒼の木目の机の上にゴールドベルク変奏曲の楽譜表紙、アリアの楽譜の断片、鮮やかな白い羽ペンと綺麗に使い込まれた懐中時計がジャスト・フォーカスで撮影されています。

もちろんシチュエーションは伯爵が就寝するであろう部屋であり、楽譜はバッハその人をオーバーラップさせるためなのか、実際にゴールドベルクが演奏するために手許に持っているものという設定なのかは定かでありません。
しかし、はっきりいってこの装丁に収まったディスクが、ゆめゆめヘンな音を出すわけがないと信じることなど造作ありません。
それほど魅惑的なジャケットなのです。

私は本来デジパック仕様のジャケットはキライなんです。
かさばるし、傷つくし、使い勝手が悪いし・・・ですが、ここまで芸術性を高められてしまうと、これでしか味わえない趣が確かにあると認めざるを得ませんねぇ~。(^^;)

色という色の品がウットリするほかないまでに素晴らしい!

とくに背景の黒、くっきりしすぎてはないけど確固とした存在感を示す光の浮き上がり方、ホレボレするばかりです。


もちろん音楽の中身も素晴らしいですよ。
なんてったって優秀録音番ですから、この美しい音のチェンバロの魅力をあますところなく捉えきっているといってよいと思います。
クリアでありながら潤いがあり、明るい響きがイヤミなく収録されている・・・できそうで、できないことじゃありませんか!

また奏者の解釈もなかなか巧みに構成されています。
最初の出だし、まず美しく張りのある音色に「おっ!?」と期待感を持った刹那、テンポとアゴーギクがけっつまづきそうになるほど遅いことに驚きます。

美しい音を同時に発音することで不必要に響きを混濁させないようにという配慮なのか、もしくは単に表情付けしたらこんなふうになっちゃったのか判りませんが、ほんのわずかでもこれより強烈にしたらゲテモノになるぎりぎりの線で踏みとどまったかのような芸術的なフレージング。
聴き手はイッパツで注意を引き込まれること間違いありません。

そのイビツ直前のフレーズはリピートでも同じですが、ほんの気持ちだけテンポが普通になっているようにも感じられます。
アファナシエフが美しい音でピアノを鳴らしきりながらも、テンポを異様に遅くして思索しながら弾いているのにも、どことなく共通点があるようにも思えるはじまりであります。
できあがりはややケッタイでも、音それ自体は極めて明晰ですからね。(^^;)
ただ、それを味わい深いと聴けなくもないように仕上げているさじ加減には、端倪すべからざるものがあるのは確かです。

その後の変奏からはテンポが遅いという感覚はあまりせず、それぞれの変奏の性格をきっちり押さえて弾き進めていきますが・・・楽器の音色が美しいのと、何故か判らないのですが生理的にツボを押さえられてしまったのか、その音楽の世界へずっと連れ去られ、知らず知らず引き込まれてしまうような感覚を覚えました。

チェンバロってけっこう強い音が出ていると思うのですが、セミが鳴いているようなというか鳴っていてもそれがうるさいと感じないばかりか、癒しの揺らぎを感じられてしまうというイメージでしょうか?

これは明らかに演奏者が自身の何らかの技術でもって、聴き手を幻惑しているのに相違ないと思われます。
なにより、何とか理論とかバッハの作曲の際の論理構成を反映したといった難しいことを全く感じさせないのが素晴らしいです。

崇高な曲も、やや鄙びた田舎を思わせる曲も、すべて曲の要請のあるがままに気分を醸し出すことができるテクニック。
心からの共感があればこそ・・・なんでしょうかね。
いずれにしても見事なものです。

最後のアリアは、最初のアリアとは比較にならないぐらいテンポもアゴーギクも普通です。
それもあって、非常に爽やかな聴後感を残してくれるのです。

いや、芸術性の高いディスクだわぁ~。
カイザーリンク伯爵になったような気分で聞けますね。こんなステキな演奏であれば眠るわけにいきません。(^^)v


今回も衝動買いの勘は当たったわけですが、この装丁を見たときからこの結果は約束されていたのかもしれません。

こんなディスクが増えたら楽しいでしょうにね。(^^;)




さて、パバロッティの訃報が出ていました。
こころからご冥福をお祈りしたいと思います。

合掌

溶けちゃいたいときに

2007年08月31日 00時02分41秒 | 器楽・室内楽関連
★フォーレ:チェロとピアノのためのソナタ(全2曲)、及びその他の小品
                  (演奏:オフェリー・ガイヤール(vc)、ブリュノ・フォンテーヌ(p))
1.エレジー 作品24
2.チェロとピアノのためのソナタ第1番 ニ短調 作品109
3.ロマンス イ長調 作品77
4.蝶々 作品109
5.チェロとピアノのためのソナタ第2番 ト短調 作品117
6.シシリエンヌ 作品78
7.夢のあとで (編曲:パブロ・カザルス)
                  (2004年録音)

かねてよりご紹介したいと思いながら、なかなかアップできなかったディスクのひとつがこれであります。
とはいえ正直言って、この魅力を私の文章能力で正しくお伝えすることは難しい・・・と感じております。また、言葉を尽くせば尽くすほど、この感覚世界からは遠ざかってしまうという気もします。
ですから、聴いていただいてから、私の伝えたいことを「こんなことかな?」と文章から読み取っていただくのが1番いいのですが、私のチャレンジというか、書かなきゃという重荷を下ろすという意味で掲載する記事だと予めお断りしておきます。(^^;)

本当にこの美しい音楽の泉に漬かってしまうと、どうしようもなく気持ちよくなってフォーレの“おひたし”になれること請け合いです。

さて、オフェリー・ガイヤールとブリュノ・フォンテーヌのコンビによるこのディスクはアンブロワジー・レーベルからリリースされています。
このレーベルの器楽曲は、まず録音が私好みなんですよねぇ~。
以前ご紹介したカッサールのシューベルトもそうでしたし、ガイヤール嬢のバッハの無伴奏ソナタも鮮やかなことこのうえないという録音でありました。(^^;)

当ディスクも例外でなく、チェロ・ピアノともに素晴らしい音色で録られていると同時に、アンサンブルにおいても申し分のないバランスを誇っています。
特筆大書すべき美質ですから敢えてここに書いておきますが、そうであればこそ現在のアンブロワジー・レーベルのディストリビューションがどうなっているのかが気になります。

このディスクを購入して以来、ディストリビューターが変わるということをあるところから聞いていたのですが、販売網の店頭どころかオンラインショップでも旧譜(まだ売れてないもの?)以外は見なくなってしまったように思えて・・・心配だなぁ~。


本論に移りましょう。
私の愛するフォーレの楽曲の特長としては、どこへ行くとも知れない旋律線、何でこんな風にカウンターのメロディーが出てくるのかという意外性を感じるにもかかわらず、統一されたムードをずっと維持しえてしているというパラドックスが挙げられるのではないでしょうか?

記譜された楽曲を演奏しているのだから当たり前なのですが、チェロの歌う歌にピアノがよくぞ寄り添っていけるものだと不思議に思わせられるほど・・・またそのピアノが正に“水そのもの”をイメージさせるほど瑞々しく、これに浸ったら最後、やはりとことんまで溶けてしまいそうな気がします。

そしてフォーレの音楽を聞くコツは、常にその“今”が美しいことに溺れることだと思うのです。
さっきまでどうだったとか、この先どうなるのかなどを考えないで、その時溢れている音響にひたすら身をまかせてしまえるか?
この1点にかかっているのでは・・・。

やはりうまくお伝えできていないなぁ・・・と思いつつ、“エレジー”の印象的なところをいくつか記しておきましょうか。。。
冒頭からチェリストが曲想に合わせてそのように演奏したいと目指したとおり「ふっくらしながら明晰」な音色で絶妙な弾き出しであります。
中間部に至り、ピアノが主旋律を引き継いだときのオトたるや、なんと形容してよいのでしょうか?

私はここでフォーレの泉に溶け込むべく、一挙にふやけてしまいますねぇ~。(^^;)
時として感じきってしまったときなどは俄かに目頭が熱くなってきて、その後メロディーをチェロが受け取って慈愛の音色で弾き進む頃までには、全身鳥肌立ちまくり状態になります。
中間部のピアノとチェロの激しい部分も鮮烈でありながら、品位ある表現に感服させられますし、それら静と動を経てこのCDに聴きいるモードが万端準備されるわけであります。

ソナタでは両作品とも中間楽章が恐ろしく恍惚とした陶酔感に満ちた作品であり、演奏であります。
このように弾かれ、聴かれるべき演奏であると感じられるのです。
もちろん(録音された)音の良さがこの効果に貢献するところは大であり、ふたりの奏者だけでなく制作チーム全体の成果だと思いますけれどね。(^^;)

“シシリエンヌ”“夢のあとに”も佳演です。
音色ひとつ取ってみても、フォーレの霊感の泉の成分そのものという感じであります。
ディスク丸ごとフォーレが体験できるという意味では、私にとってはホントにたまらない一枚であり、ここまで書いてなお説明できないのも仕方ないとやはり勝手に思い直してしまう一枚ですね。
すいませんが・・・。


それじゃあんまりだと思いますので最後に一言だけ触れますと、ライナーノーツにはガイヤール嬢自らが執筆した長文の「フォーレにおける「熱」について」という解題が掲載されています。

訳の関係なのでしょうか、難解な文章と言わざるを得ませんが、まさにこの文章を虚心に味わったときにこそ“感覚的に”フォーレでありフォーレの音楽の何たるかがうまく伝わってくるのではないかと感じていることをお伝えしましょう。

豊富な先人の言葉の引用とともに、フォーレの音楽がそうであるように“感覚的に”微妙なニュアンスを多彩に含んだ形容詞が適切に多用されることで、見事に彼女の言わんとするところが表現されているのではないでしょうか?

ガイヤール嬢による秀逸なフレーズを1点引用させてもらい、この記事を締めくくります。

ネクトゥー(人名)はそれでもなお、フォーレを革新性溢れる現代の作曲家として考察し続けようとはしていない。そうした考察こそが、フォーレならではの旋律に身をまかせ、彼髄一の繊細にして雄弁な和声の魅力に酔いしれる妨げになるなど、言うまでもないことだからだ。

男の仕事はかくあるべし

2007年08月23日 23時03分25秒 | 器楽・室内楽関連
★J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとバルティータ
                  (演奏:クリスティアン・テツラフ)
《DISC1》
1.ソナタ 第1番 ト短調 BWV1001
2.パルティータ 第1番 ロ短調 BWV1002
3.ソナタ 第2番 イ短調 BWV1003
《DISC2》
4.パルティータ 第2番 ニ短調 BWV1004
5.ソナタ 第3番 ハ長調 BWV1005
6.パルティータ 第3番 ホ長調 BWV1006
                  (2005年録音)

2005年のインストゥルメンタリスト・オブ・ザ・イヤーであるテツラフの、2度目のバッハの無伴奏のディスクです。
とはいえ、前のは未聴ですから初めて聴くわけですけど・・・。

こんな賞を受賞するぐらい乗っていた歳の録音だけあって、悪かろうはずがないという先入観をもって聴き始めましたが・・・結論をいえば素晴らしい演奏といって何ら差し支えないですな。
ブラヴォ~です。


この演奏を聴いての印象は、非常に男らしいさっぱりした奏楽だ・・・というもの。
それも、マークXだかの宣伝で出ている俳優さん・・・あんなハードボイルドなホワイトカラーをイメージさせるものであります。

特にソナタ第2番の終曲などは、これぞ鮮やかな手並みの仕事人という演奏。
とはいえ、決して技巧に走るわけでも優等生的でもない、骨も食い応えもあるものです。
以前特集した加藤知子さんなどの“うるおい”からは一線を画し、それぞれに独特の緊張感を漂わせてはいるもののその質はぜんぜん違うものであります。

もちろん曲の随所に工夫のあとが見えてとれるのですが、相当弾き込んであるに違いなくそのような工夫も曲の中にキチンと納まっています。
工夫したことを隠すことはないのですが、その工夫によりこの聴き応えがえられているんだという感覚が確かにあるんです。
よく、そんなことしなきゃいいのに・・・と思われる解釈・工夫があるケースが散見される場合があるのに、これだけ工夫のあとを残しながらそう思わせないのは、やはり何かの仕事への思い入れ、気概を感じるものがあるからなのでしょうか。。。

技術的にまったく破綻がないのはもちろん、かといって余裕かましてるわけでなく、精一杯弾いているというのもまた好感を誘います。
先ほどの工夫の内訳には、意識的に見栄を切って表現していると感じられるところもあります。

実は、このディスクは先月号のレコ芸の海外盤試聴記で紹介されていたものを手に入れたのですが、確かにDISCからはそのコメントどおりの心証を得られました。
やはり、プロの文章は違うものです。
あらためて感服しました・・・。

それを読んで聴いて納得してこれを書いているので、その文章のまねになってしまわないように書こうと思うと、この盤ばかりはちょっとムリがある感じですね。
とにかく弄言しても仕方ないので「男の仕事はかくあるべし」と思ったとおりを感想としてあげるにとどめておきます。

説明しようとすればするほど、月並みな言葉の羅列になってしまいそうですからね・・・。(^^;)

幸福感の由来

2007年08月15日 00時00分01秒 | 器楽・室内楽関連
★バッハ:ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ集
                  (演奏:ヴィクトリア・ムローヴァ(vn)、オッタヴィオ・ダントーネ(cem・org)ほか)
《CD1》
1.ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第1番 ロ短調 BWV.1014
2.ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第2番 イ長調 BWV.1015
3.ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第3番 ホ長調 BWV.1016
4.トリオ・ソナタ第5番 ハ長調 BWV.529
《CD2》
5.ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第4番 ハ短調 BWV.1017
6.ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第5番 ヘ短調 BWV.1018
7.ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ第6番 ト長調 BWV.1019
8.ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ ト長調 BWV.1021
                  (2007年録音)

これは、ムローヴァの新境地といって過言ではないディスクですね。(^^)/
以前にもこのバックステージで特集したように、ムローヴァにとってバッハは身近な存在である作曲家なんでしょう。
カニーノと録音されたこのディスクのうちの3曲も、私にとっては忘れがたい名演であると信じられるものではありました。

しかしながら、この演奏を聴いてしまってからは・・・決して先の演奏の価値が減ずるものではないですが・・・親しみやすさ、完成度ともに新盤のほうに軍配を上げざるを得ないところであります。
レコ芸の海外盤の評でも、旧盤は正確だけど退屈という趣旨のコメントがありましたが、確かにそのような聴きかたができるのは事実でありましょう。

もちろん、伴奏者の使っている楽器がカニーノはピアノでありダントーネはチェンバロであるとか、そういったレベルの話ではありません。
もとよりムローヴァの使用している楽器、ボウも当時と違うばかりか嗜好まで変わっているやに評されているのはみなさんもご存知かもしれません。
でも、本当に音に劇的な変化を与えている要因はといえば、ムローヴァの楽曲解釈とアプローチに他ならないと思うのです。


そもそもムローヴァはロシアでレオニード・コーガンの薫陶を受け、チャイコンで優勝・・・そのときの微笑みをうっすら浮かべた写真に対して「彼女は笑うこともできる」と形容された音楽家。
その彼女がこのディスクではダントーネの存在感、生命力を感じさせはするもののどこにもトンガったところのない伴奏に誘われているとはいえ、肩の力の抜けたときとして愉悦的にも聴こえる奏楽を展開できるようになるとは・・・。

とにかく楽器やボウは関係ないといいましたが、紡ぎだされる音の美しく表情豊かなことといったらかつてのムローヴァと比較すればもちろんですが、当代の誰と比肩しても見劣りすることはありません。

もちろん一人でこの境地に達したわけではなく、カニーノを含めて彼女にこれまで関わった演奏上のパートナーから吸収したこと、彼女が自ら積み上げたキャリアとたゆまぬ研鑽の中での気づきと数限りないトライ&エラーの集積の結果、辿り着いた境地にほかならないものだと思いますが・・・。


私にはこのムローヴァだからこそ楽器から引き出せる響きについて、次のように考えられはしないかと思うのですがいかがなもんでしょうかねぇ?(^^;)

彼女の演奏スタイルはもともと頑ななまでに正確であり、ときとして硬かった、すなわち、当時の彼女は蕾だったのだと・・・。
誰もが大輪の花を咲かせると信じられる蕾ではあったけれど、あらゆる意味で極寒のロシアの地で果たしてどんな花になるんだろうか誰にも、おそらく本人にもわからなかった・・・とにかく、チャイコンに優勝してキャリア・パスを手に入れることにこそ目的があり、その当時あるいはその後も、何を表現したいのかというものはまだまだ見えていなかった時期が長く続いたのではないのかと・・・そう思うのです。

そして、亡命。
いろんな仲間とのコラボレーションの中で、彼女の音楽がいよいよ形作られていった結果が今に至ってとうとう花を開きはじめたように感じられます。

その花は、当初「もしかしたらこうなってくれるのでは・・・」と期待されたかもしれないほどには、神々しく透き通った大輪の花ではなかったかもしれません。
でも聴くものの耳に素朴であたたかな感動を残すことができるという意味では、「本当にあのムローヴァか!?」というほどの変容が起こっています。
そして、私はこの当初の期待とのギャップを心から歓迎したいと思っているものであるのです。(^^)v


ヴィクトリア・ムローヴァ、彼女はここへきて微笑を浮かべるだけではなく遍く感情を持ち合わせ、さらに楽器を通してそれらの感情を持ち合わせた自分を弾き表すことができるような奏者へ成長したのです。

私がそのうえで特筆大書したいことは、彼女が自分自身のそのようなありようをきわめて充足した気持ちで受け入れていると感じられることであります。
彼女の演奏から感じられる満足感、そして“幸福感”はまさにこの点に由来しているといえるのではないでしょうか?

その心境の変化こそが蕾を開花させ、われわれにムローヴァという花を幸福な気持ちのうちに楽しませてくれる・・・バッハや共演者、たぶん楽器もその彼女の変容の触媒になっているのでしょうが・・・彼女がコーガンの厳格な教えなどから得た技術、精神はそのままに、心のうちのありとあらゆる束縛を取り払って得た現在のその心のありようは、私を含めて本当に多くの人の魂を救ってくれることでありましょう。

バッハという作曲家の偉大さにも改めて目を開かされる・・・そんなディスクであります。




※なんだかんだ言って今日も投稿できちゃいました。
 明日こそわかりません。(^^;)