SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

私の音楽殿堂(ホアキン・アチューカロ)

2007年01月31日 00時00分01秒 | ピアノ関連
★ラヴェル:夜のガスパール
                  (演奏:ホアキン・アチューカロ)
1.前奏曲
2.ソナチネ
3.なき王女のためのパヴァーヌ
4.水の戯れ
5.高雅で感傷的なワルツ
6.夜のガスパール
                  (1999年録音)

私の音楽遍歴で“えもいわれぬ感銘”を与えてくれたアーティストやトピックを、気が向いたときに“私の音楽殿堂”と銘打って紹介していきたいと思います。
「このブログに出る事柄すべてがそうじゃないか?」と言われれば確かにそのとおりなのですが、原則的に1回完結の特集だと思ってもらえると嬉しいです。

イメージとしては、これまでのさだまさしさんとかジェフ・ベックとかの特集をやったのと同じように捉えていただければよろしいかと思います。

殿堂入り第1号はホアキン・アチューカロというスペインのベテランピアニストです。

このラヴェルのディスクは本当に上品です。
先般のケヴィン・ケナーのラヴェルを鮮烈なセンスの良さとすると、ずっと昔からそんなセンスのいい体裁でそこにいるよといわんばかりのお洒落さ。
垢抜けているさまを一言で洒脱というだけでは足りない・・・という感じなのです。

そして変幻自在!!
ラヴェルの作品はもともと精巧に組み立てられている曲が多いと思うのですが、例えば擬古典主義の曲などとも評される“ソナチネ”をこんなに柔らかな音色で演奏された例を知りません。
きっちり惹かれているのだけれど、ピアニストのほんの少しの魔法で伸縮自在になっているように聴こえるのです。
特に第3曲などオイルに波紋が広がるようなノーブルな感触を聴き取ることができます。

“亡き王女のためのパヴァーヌ”もペダルを節約して訥々と始まるのですが、決して暗くならない音色(これがまたお洒落な音色!)のお陰もあって温かい感動を与えてくれます。
“高雅にして感傷的なワルツ”では、時としてリズムをわざと付点のところをあまり跳ねないようにするとか逆に“ふっ”と抜くとか、そこここに独特の隠し味を施してあります。

しんがりの“夜のガスパール”も落ち着いた素晴らしい演奏ですねぇ。
オンディーヌでは和音の漣がトリルのように繋がるピアニストが多い中、敢えてレガートながらそれぞれをハッキリ聞かせる感覚で色彩感が豊かです。ここでも音色のお洒落さに元の詩のグロテスクさはあまり感じさせませんが、一遍の起伏に富んだ音による詩を堪能することが出来ます。

またスカルボもテンポはむしろ遅い演奏だと思いますが、情景の変化を克明に描くので飽きさせることはありません。
こまのように回転するお化けを表現しているということですが、部屋の中あるいは外で着地したところで跳ねているのか滑っているのか、手わざで微妙な間を取っているためにそんなことまで弾き表せてしまっているかのようです。
もちろんピアニストが意図的にそう解釈して表現しておられるのに相違ありません。

ラヴェルのディスクとしては、もっとも安心して楽しく聴くことができると思っている一枚です。


★シューマン:幻想曲・クライスレリアーナ
                  (演奏:ホアキン・アチューカロ)

1.幻想曲 ハ長調 作品17
2.クライスレリアーナ 作品16
                  (2003年録音)

ここでもお洒落の決め手は、まずもってその音色の端正さにあります。
きめが細かいようでいて、息苦しいところがまったくない。肩の力が抜けたといったらよいのでしょうか、非常にストレスフリーな音色なのです。それでいて存在感がある・・・。
思うにスペインのというかほの温かい温度感というべきものがあるからなのでしょう。
してみるとこの音色のエキスは技術云々で取り出したという以上に、今までにアチューカロが生きてきた生き様そのものから滲み出たものという気がします。
もちろん解釈した音楽を楽器から取り出すのは、間違いなく技術(スキル)であるのに相違ないのですが、それだけでは説明できない何かを内包しているはずでもあると。。。

幻想曲の第1楽章は、文字通りファンタジー膨らむ微温的世界。したがって第2楽章の輝かしさがフツーくらいであってもそんなに際立ったコントラストは感じなかったりして・・・。
そして第3楽章。
この夢心地の音楽は、シューマンの書いた曲の中で白眉に違いありません。そこを、この微温的ほの温かさで包まれると“えもいわれぬ”幸せな気分で心を遊ばせることが出来ます。

シューマンの音楽ってくどいというか、暑苦しいというか、押し付けがましいところがあって、思わず“ざくね!?”と叫ぶこともあるのですが、アチューカロの演奏はそこを絶妙にかわしていくんですよね。
あたかも淡色のシューベルトに色を付けただけですって感じで・・・。

もちろんシューマンのそのような音楽性を、憑依されるほどに愛するあまり、もだえにもだえてよがっちゃってる人がいるのも知ってるし、そのような要素を内に秘めた曲であることは私も感じ取っていますよ。
でも、良くも悪くもアチューカロはそれを強調する方向での解釈は取っていない。。。

クライスレリアーナも落ち着いた足取りで、洒脱に歌い綴っていきます。
まぁ私がシューマンを苦手なこともあってか、ラヴェルほどに手放しで絶賛というわけには行きませんが、この演奏ならば抵抗なく聴けるかな。
あ、幻想曲は好きな曲だし、アチューカロの演奏は大絶賛ですよ~。(^^)v

★la nuit
                  (演奏:ホアキン・アチューカロ)

1.スクリャービン:左手のための前奏曲と夜想曲 作品9
2.ドビュッシー:グラナダの夕べ (版画より)
3.リリンスキー:子守唄
4.ショパン:夜想曲 変ホ長調 作品9-2
5.ボロディン:セレナード (小組曲より)
6.ボロディン:ノクターン (小組曲より)
7.ドビュッシー:花火 (前奏曲集第2巻より)
8.ショパン:夜想曲 ヘ長調 作品15-1
9.シューマン:トロイメライ (子供の情景より)
10.ドビュッシー:とだえたセレナード (前奏曲集第一巻より)
11.ショパン:夜想曲 嬰ハ短調 遺作
12.ファリャ:火祭りの踊り (恋は魔術師より)
13.ガーシュゥイン:前奏曲第2番
14.リスト:愛の夢第3番
15.プーランク:幻の舞踏会 (8つの夜想曲より)
16.グリーグ:夜想曲 作品54-4
17.ドビュッシー:月の光 (ベルガマスク組曲より)
                  (1998年録音)

これは以前にリストの“愛の夢第3番”で取り上げたディスクですが、再度ご紹介です。
愛の夢もそうですがすべての曲が自家薬籠中で、曲のうまみを巧まず表現しているように見せて、実は楽譜にない音をさりげなく足して色合いを整えたりしている・・・。
ニクい技じゃあありませんか。

ここでもご自身の特質を踏まえ、微温的な音色を最高に生かした奏楽を展開しておられます。
グリーグのノクターンなんてのもあって、例の特集に組み込んでしまおうかとも思ったのですがやめました。
それは、いずれの曲に対しても十分固有の言葉で語らせていながらも、実はアチューカロの口(指)からこぼれる音の言の葉であることの方が如実に浮き彫りにされるといった演奏だから・・・。
グリーグの特集というより、アチューカロの特集を組むべきだということを思い立って、こうして“私の音楽殿堂”が建設されるにいたりました。

この盤のレパートリーにあっては、心無い、あるいは奏者として未成熟なピアニストの手にかかるとうまく弾けてるんだけど、ディスクとしての一貫性がない・・・なんてことになりがちなんじゃあないでしょうか?
一貫した雰囲気を維持しながらそれぞれの特徴を描き出すなど、たやすく出来る芸当じゃござんせん。
粋なオジサマに脱帽であります。

おっと、最もお勧めと思われる曲はスクリャービンの左手のための前奏曲かな。
この曲もウゴルスキ、ポゴレリチ、メジューエワなどさまざまな奏者の手によるものを聴いて来ましたが、その微温的な明るさが最も特徴的な演奏です。
何度も恐縮ですが、とても優劣を云々できるシロモノではない・・・。

このアルバムの雰囲気を作るのに、最高の演出を施された曲たちです。
それが奏者の思惑とも心憎いほどにマッチしているというのは、選曲は奏者がしているにせよ、奏者にとっても聴き手にとってもまこと幸せなことと言わねばなりません。

こうして3枚のディスクの軌跡からは、こんな年の重ね方が出来たらいいなと本当に思わされます。
ここまでくるとピアニストの全存在そのものが個性となっている。
ずっと自身の信じる道を貫いてきたステキな“ひとりの人間”の生きた声を感じます。

私にとってホアキン・アチューカロは、スペインの風土を感じさせながらも普遍的な魅力に溢れたピアニストの代表です。

長岡駅

2007年01月30日 23時40分42秒 | 長岡
これがJR長岡駅であります。

文化・歴史を誇る町、そして何より北越戦争ならびに昭和20年8月1日の空襲で壊滅的打撃を蒙りながら、今の町を築き上げられたこの町のみなさんには頭が下がる思いです。
比較的早くに東京へ転勤との辞令が出た昨年、私の住んでいる地域は震災でこれまた大打撃を受けられているところなのですが、そんな惨事を経てますます温かいご近所のみなさんと町をひどく気に入った私の家族から、なんとか長岡から離れないでいられないかと訴えられたために、結局私一人で現在の赴任地である東京に住むことになったわけであります。

昨年が長岡市制100周年で、悠久山公園で花見の際に記念行事が開かれていたところに行ったりしました。
こんなに歴史がある-だからこそかもしれないが-のに、やはり駅前などもうひとつ活気があってよさそうだと思うし、信濃川を渡った方に物流関係の中心があるのですが今もって開発中というイメージがいたします。

第二次産業の中堅企業などで世界に通用する会社もあるとはいうものの、何かもうひとつブレイクするものができて町に勢いがついたらいいのにな、と思う町でもあります。
要するに活性化のポテンシャルはまだまだ眠っていて、飛躍的に発展する余地も十分にありそうだということです。

ところでヴァイオリニストの礒さんのブログなどで、新潟県のいろんなグルメ食材が紹介されておりましたが、私に言わせれば最も美味しいものはといえば「米」。
これに尽きるでしょう!!


話を戻して長岡駅西側壁面には特徴的なレリーフがあります。
いずれも部分ですが写真でご紹介します。


もうひとつ・・・。

で、これらは結局なんやねん!?

最後に駅に注文をひとこと。
駅の西口の前の地面の素材には筋が入れてあるなど工夫は見えるんですけれども、それでもなお雨や雪のときには滑りやすいです。
革靴はもとより、スニーカーで歩いていても靴底あるいは地面が濡れていると“すべります”。
これでは受験生やお笑いタレントならずとも困ります。
機会があれば、ご検討・改善をお願いします。

この記事の目的は、ひとえにこの一言が言いたいがためでありました。(^^)v

もしかしたら、この後に長岡をご紹介するときの伏線になってたりして・・・。
そんな計画的なことが、私に出来るだろうか???

あたしんちのカレンダー

2007年01月30日 00時02分32秒 | その他
きょうあたり、本当は長岡に帰ったときの話題を記事にして早くアップしたいと思っていたのですが、ケータイを留守宅に忘れてきてしまってそれが宅急便で届くまで写真を取り込めないのです・・・。
おどじな私!!

今のところ新潟市のりゅーとぴあにおける“デュオ・プリマ&鈴木大介さん”のコンサートのこととか、“たまたま長岡人さん”のコメントに紹介された「戦災資料館」に息子二人といってきた話などをアップするよう予定しています。

後者ではコメントにあった館長さんの話は聞けなかったのですが、物言わぬ資料と記述から途方もない衝撃を受けました。
これらの資料を息子に見せられたことを良かったと思っていますが、ここでご紹介するにはどう表現したら良いかまだ整理がつきません。

ただ、アップしたときにも書くと思いますが、ぜひともお近くにいかれることがあればご家族で一度ご訪問されたらどうか・・・と真剣に思っています。

という予告編で勘弁していただいて(けっこう以前の記事にコメントいただいてたものにヘヴィーめの回答をさせていただいたことだし・・・)よろしいでしょうか?
帰省していて、記事の書きおきもなくなっちゃったので・・・ホントすいません。

というわけで、我が家のカレンダーの図柄をご紹介したいと思います。
新宿の紀伊国屋で今年に入って半額セールになっていた外国製のものです。
とってもリズム・テンポがある画像で音楽が聞こえてくるようではありませんか?

金色のガッシュベルなどのアニメのもの、もちろんワンちゃん・猫ちゃんのかわいいめのもの(私は獣は実は苦手なのだが・・・あっ、他意はありませんよ!)、リゾート地の図柄などいろいろあったんですけどね。
最後、クリムトの絵とこれとで考えたうえ“リズミカルな虫”をとりました。

次の金色のカナブンの図柄は、私には“デモクラ大量生産”というイメージですね。


息子達が喜ぶだろうと携帯メールで送ってやったら、期待通り2人の息子は喜んだようですが、かみさんと娘は“いろつきゴキブリ”と言ってよこしてきました。
「ゴキブリはバッタの仲間で、私が送っておるのは甲虫の仲間である」とメールで注釈してやったのですが、いずれにしても「かわいいとは言いがたい」と娘から言われてしまってショック!
「ちなみに、かわいいとはこのようなものをゆう」と子猫がバスケットに入って満足げにしている写真を送ってよこしてきた・・・。

どうせならさる方のブログにあるような、ちょっと印象的なネコちゃんにすればイイのに。。。
(そういえば昔その方のブログで、トンビに飛びついている(確か)「行っけぇ~」と題されている写真を見て子供たちが大はしゃぎしていたなぁ~などと思い出してしまった。)

最後に一応カレンダーということがわかるように・・・と。


とにかくも予告した以上は、可及的速やかにアップする所存であります。(^^)/

“ゆうごはん”に捧げるレクイエム

2007年01月29日 00時15分21秒 | その他
この週末は留守宅に帰ってきているのですが、久しぶりに子供を集めて叱りました。
内容は些細なことかもしれません。しかし私には許せなかった・・・。

“たまごっち”のキャラが死んだのです。それも何人(匹?)連続か分かりません。
私も留守宅に帰ってきたときには、子供たちが外出する際などには“面倒見てくれ”といわれて、うんちの世話とか食事・おやつなど(子供に高いのあげすぎと怒られながら)あげるなどそれなりに手をかけているので、その報告を聞くのが耐えられないほどツライのです。
どうして自分は救ってやれなかったのか・・・と。

子供が笑顔で「まただぁ~~!」とへらへらしているのには耐え難いものがあります。
“オマエたちには情が移るということがないのか!”という思いを禁じえないのです。

はじめて手にとった際に面倒を見ることをうっかりして何匹か殺してしまったという経験を踏まえて、そういう悲しい思いをしないようちゃんと面倒を見てあげられるようになるのなら、それはとても素晴らしいことだと思います。
たとえ学校の放課にでも30秒もあればメンテできることですから、そのように楽しみながらキャラを育てることは立派な情操教育にもなると思うくらいです。

ウチもはじめそうでした。でも学習効果がない・・・。これは想定の範囲内でした。
そこで私は、新しく生まれたキャラに“子供自身の名前”をつけました。
そうしたら効果テキメンで何代か子孫まで生き残るようになったのです。子供の意識に「大事にして亡くしたくない」という思いが芽生えたものと喜びました。
しかし、このところまた、子供のゆかりの名前をつけたのだとしても“栄養不足”とか“たまごっち風邪”とか防ぎうる状況で「手を抜いたために」殺してしまうことが続くようになってきてしまいました。

長女がインターネットで弟たちに“たまごっち星”への旅行を見せてやっていたり、充分にたまごっちのキャラに遊んでもらい楽しい思いをしながら、なぜ手が抜けてしまうのか・・・。
このキャラに楽しませてもらっているという気持ち(感謝というと大袈裟かもしれないが)が欠けているのに相違ありません。

私にも気持ちは分かるのですが、子供たちは他人のせいにしたがる・・・。
みんなで面倒を見ているために、“たまごっち”が誰の手許でもないところに行ってしまったときに不作為が起きるのです。

子供たちに「誰のせいでもない。パパも含めてみんなのせいだ。もう“ゆうごはん(死んだキャラの名前)”は帰ってこない」と言っても、小3.小2の息子二人が釈然としないようなので、たまごっちをかみさんに預けて「絶対にキャラを殺さない決心をするまでしばらく育てるのをお休みにする」と宣言しました。
かみさんには、子供たちが二度とキャラを殺さないからとせがむまでは“たまごっち”を渡すなと・・・。

私の目からすれば、たとえば長女が全権責任者になって「私が育てる」と思っていればこれは回避できると思うのです。別にそれは長男でも次男でもいいのですが。
これが“誰のせいでもない時間”ができてしまうから、ドボンとなる。。。
みんなが“自分が育てる”と思って接してくれれば素晴らしい玩具だと考えられるのですけれど・・・。

考えてみれば今の子供たちはすることが多すぎて、「情が移る」ヒマなぞないのかもしれません。恐ろしいというかとんでもないことのようにも思えます。

バンダイさんにお願いがあるのですが、3回死んだらどこか電気屋にでも行かなければリセットできないようにするとか、キャラに限らず「殺してしまう」ということが取り返しのつかないことであることを子供たちに知らしめるような工夫はできないでしょうか?

ついでですが、ニンテンドーさん。
ポケモンのバトルばかりでなく、日ごろタケシ君などのブリーダーが如何に手間ヒマかけてポケモンに愛情を注いでいるのかをクローズアップできないものでしょうか?

野球・サッカーの選手が一回バットを振るために、ピッチに5分立つためにどれだけの努力・トレーニングをしているのか?
われわれサラリーマンにしても会議でうつむいているばかりだとしても、そこで起こりうることに対処するためどれだけ陰で準備しているか?
少なくとも小学校の高学年ぐらいになったら気づいてほしい、そのような環境が我が国に根付いていてほしいと思うものであります。

玩具を作り・売るという会社の理念には、エンターテイメントを提供する以外にもそのような子供の情操教育に資するというお考えがあるものと信じています。
そういった面でのメッセージを、今以上に子供たちに素晴らしいキャラを使って伝えていただきたいものだと思います。

とはいいながら、私も我が家で親として子供に自分の言葉で伝えなくてはなりません。
豆色のミドリガメ“マメール”“マメックス”の2匹と、冬越えしているクワガタ・カブトムシの幼虫の面倒についてはちゃんとみている子供に、少しは安心しているのですが・・・。なんとなく不安。。。

★モーツァルト:レクイエム (弦楽四重奏版)
                  (演奏;クイケン・クヮルテット)

1.レクイエム KV626 (PETER LICHTENTHALによる弦楽四重奏編曲版)
                  (2003年録音)

たまごっちで死んでしまった(正確には手抜きしたため殺してしまった)“ゆうごはん”“たぬごぜん”ほかのキャラに捧げる追悼曲です・・・。
この名のどこが子供にゆかりがあるのかは、ウチの家族でなければ分からないでしょうが。

演奏は物寂しげで物悲しげです。当たり前ですが・・・。

しかし弦楽四重奏になっているために曲の骨格はしっかり見えます。
しかしなぜかモーツァルトの曲のように聴こえにくい、特にハイドン・セットとかのような弦楽四重奏曲におけるそれぞれのパートの役割とその絡み合いから生み出される雰囲気が、この編曲からは聴こえにくいような気がします。
旋律はまごうかたなくモーツァルトのモツレク(その他の作曲家によるモツレクはないけど)であることは言うまでもありませんが。

しかし、以前に(図書館で借りて)ハーゲン四重奏団によるディベルティメントK.136~K.138の弦楽四重奏版を聴いたときは、モーツァルトの手によるものだとちゃんと思いましたので、やはり編曲者はモーツァルトにはなりえなかったと言わざるを得ないでしょうね。
編曲者が自分の個性を主張したのだといわれたら、恐れ入りましたですけど。
ならもう少しモーツァルトっぽくやってほしかったなぁ~なぞといってみたりして。
いや決して編曲者のせいという訳ではなく、モーツァルトの凄さとありがたみを思い直した次第。。。

でもこの落差はなんだろう!?
単に声楽がないからなのかなぁ~・・・。
オーケストラじゃないから荘重さがないのも仕方ないし・・・。
演奏者の・・・
   ・・・・・・・犯人探しはやめようっと。

さいごに、我が家でもうしばらくで天寿を全うしようというテレビ君をご紹介させていただきます。


長野オリンピックを見るためにハイビジョンをおごって、当時12型のテレビだったのを28型の
16:9に買い替えたものです。
周到な準備の後、店頭で見比べて、トリニトロン管の素晴らしさを実感して購入しました。
その後デスクトップPCのVAIOを購入した際もディスプレイがトリニトロン管であることを決め手にして買ったものです。

しかし正に電化製品10年説と言われるとおりで、もはやテレビがつくまでに5分ぐらいかかり(それまではラジオ状態)、チャンネルを変えるたびごとに画面が5分お休みになってしまうようになってはそろそろ引退をさせてあげないとかわいそうな気もします。
こころなしか、色もシアン系が切れてしまっているような感じだし。。。

私はどんな製品にしても、とことん調べて納得してからでないと買いません。
したがって現在このトリニトロンテレビ君の後継者となるものを物色中です。壊れてしまってからでは遅いからです。

でもテレビってホントに多様化しちゃったんですねぇ。考えなきゃいけない点が多すぎます。
まず録画機能、BSチューナーをどこまで入れるか?
そして、スペースファクターの問題。
薄型になったために28型のスペースがあれば40型ぐらいまで置けてしまう。
32型と40型の間にひとつの決断を要する一長一短があって、もしも40型にするのであれば
1080HD仕様にするかどうかも悩ましいところ。
メーカーによっては37型なんて魅力的な中庸の響きを準備しているところまである・・・。
滅多に買うものじゃなし、かといって毎日お世話になるものなのでいいものを揃えたい(正しくは揃えてやりたい。留守宅なので私はほとんど見られないので)という思いもあるし。

またもしも家族(主にかみさん)の望む薄型にするということが動かせないとすると(実は私は薄型化に反対!)、私にとって如何ともしがたい問題があるのです。
それは、ズバリ音質!!
何もしないと奥行きが取れないのでぺらんぺらんの音になってしまう・・・。
そのために別途スピーカーを準備していたり、共鳴管を内蔵して低音をなんとか作り出しているなど工夫も見られるのですが、結論として前者はかみさんが反対、後者の音には私が違和感を覚えるという事態で既に収拾が付きません。
結局は日ごろ見ないからという理由で押し切られることは見えておりますが・・・。

原理にしても、液晶かプラズマかでも一長一短がある・・・。
それぞれの特徴について店員さんを捕まえて質問してみました。かみさんにいわせると根掘り葉掘り聞いていたということですが、私にはごくごく基本的な質問。
逆にそんなことも確認せずによくも10万円以上のものが買えるなってな思いを抱きましたが、人のことはどうでもよろしい。
スポンサーである私さえ納得できて、家族が喜んでくれれば・・・。
特に子供にしてみれば、父親が四の五の言わずにとっととどんなのにでも買い替えてくれることが1番望ましいのかもしれませんが。。。
どっこいそんな父親でないことは子供が1番良く知っているもので、おりこうさんだこと!

さてさて販売店により同じ事柄に対する説明が若干違うし、私のニーズははっきり伝えているのに薦める機種も違うのはなぜでしょうか?
しかも同じ会社であれば店舗を横断して薦める製品が一緒であるときたら、店員が自らの気持ちで薦めてくれているのではなく、会社政策としてこの機種を売るべしという目的に沿った回答であると受け止めざるをえません。
最後は前回同様、店頭でじっくり眺めて決めるしかないんでしょうね。
この現象はどの販売会社でも一緒で、ある意味仕方ないことなのかもしれませんが・・・。
どうもねぇ。。。

でもね、販売店さん。
そんなことしてるから通販会社にシェアを食われちゃうんですよ!
基本的な業務知識が怪しい人もいっぱいいるし・・・。
これだけ多様化している今だからこそ、お客さんがどんな目的を持ってテレビを買いたいと思っているのかに合わせて、薦める機種をコーディネートしてくれるぐらいの力量がないと。
通販会社はあらかじめ“あるひとつの機能”を魅力的だと思っている“不特定多数の人”にターゲットを絞って安い商品を推してくるわけですから、豊富な在庫量による多様なニーズへの対応と価格戦略、あとは対応する店員のスキルと言うソフトこそがそれに対抗するための命だと思うのですが・・・。
専門誌を1冊読んだだけの私の知識のほうが、歴史的体系的にしっかりしているのではと思われる程度の人が多すぎる!
でも中には詳しい人もいるので、最初からその人を出してくれればいいのにね。
お客さんをなめないほうがいいですよ!

なに!? 値段交渉の力量があれば商品説明はどっちでもいいって・・・?
じゃあ、お宅の商品はいりませんよーだ。
若干値段が高かったとしても、きちんと私の要求に納得いくように応えてくれるところ、アフターやメンテがしっかりしてるところのほうがいいんですぅー。
簡単に言えば、説明を聞いて信用できると思わせてくれて、安心させてくれれば良いだけなんですから。
その水準が同じであれば、安いほうがいいけど!!
販売する商品を叩いて売るような店に、そのような志の高さは望めませんからね。
ウチはこの商品の扱いならどこにも負けませんというものを、値打ちに薦めてくれないとね。。。

などといってみたところで・・・、
誰かどれが一番いいのか決めちくれぃ!! 結局、私にはわからんわい!!!

というわけで、(もう少しだけ)がんばれ我がトリニトロン管テレビ君!!

たいへんな借り物

2007年01月28日 00時02分04秒 | オーケストラ関連
★シベリウス・ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲
                (演奏:諏訪内 晶子(vn) 
                     サカリ・オラモ指揮 バーミンガム市交響楽団)
1.シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47
2.ウォルトン:ヴァイオリン協奏曲 ロ短調 
                  (2002年録音)

やはり冒頭を飾るディスクのジャケットはこのようでなければならない!
ひどくそう思わされましたな。今日の記事はコレだけでもよさそうではありませんか?
さらに演奏も素晴らしいのだから文句はあるまい!!

さてさてヴァイオリンに詳しい会社の先輩がいらっしゃって、音楽談義・・・といっても主に私は教えていただくばっかりですが・・・をしていたときに、ギターは安いと言われました。
私などは素性の異なったギターを何台か持っているだけ(CDも持っているが・・・)で、周りから浪費家とかビョーキに違いないと言われているのに。。。

この点私は酒を飲まない(これはへっちゃら)し、食事の量もメタボなりに(しぶしぶ)制限しなくてはならないため、単身世帯の私のエンゲル係数はきわめて低いのです。
あ、これだと遊興費が多いみたいなので、実額も極めて少ないのですと言っておかないと。

さらには誰かのように月に10日もゴルフに行ったりしない・・・どころかここ3年ゴルフをしていないし、(留守宅の)車は1台を大切に長く乗っているし、電化製品は壊れるまで買い換えないし、スピーカーなんて高音担当(トゥイーターといいます)が壊れてもそれで聴いているし、自己啓発の勉強をするための書籍は買わないしと、バランスが音楽にシフトしているだけでトータルではちゃんと考えてるんですよと反論したいのですが。
あっさりと「バランスが悪い」と言われ続けて10何年・・・。

話が見えなくなった・・・。

そうそう「ギターは安い」といわれた理由を尋ねたら、「ヴァイオリンの値段を見よ」と仰る。
工房を持ってたり、志の高いヴァイオリンというか弦楽器専門店のサイトを案内いただいて一緒に見て唖然としましたね。“0”が2つ違いますもの・・・。
「だろ!!」って感じで先輩(よく考えたら上司のほうが正確か?)は私を見て微笑むのですが、お嬢様がそういう大学に行くことが決まったということで、よくご存知だったのです。

「えー、買うんですかぁ!?(ウチ買った方がいいんじゃないですか・・・は心の叫び)」と思ったのですが、なるほどこれじゃギターは安いといわれて仕方ないですな。なお驚いたことには、お目当てと思しきヴァイオリンは、別にイタリアのクレモナに太古から伝わるみたいな特別なものじゃないんだそうです。普通の作家による普通の作品。。。
なんでも何丁かセンセイと一緒に弾き比べられて吟味されているんだそうな・・・。
ホントにヴァイオリン科のみなさんって、そんなんばかりなんでしょうかねぇ。
ピアノだって最高級のコンサートグランドが買えませんか?

翻ってギターですがクラシックの名のあるものはわからないのでおいといて、アコギの最高級品の代表であるマーチンのD-45だって余程のいわくがあるものでなければ100万円台で十分だろうし、50年代のとかのヴィンテージのストラトやらレスポール(エレキギターです)だって、そうそう300万円っていうのはお目にかからないので、文字通り桁違いですな。

こんな調子では誰もが知ってるストラディヴァリウスにアマティやグァルネリなんてのを手に入れようと思ったら、家・屋敷を売ってもお話になりまへん状態ではないですか。
メジャーリーガーやら超一流のサッカー選手の愛人にでもならないと難しいし、なによりオトコだったらどうすんじゃいなどとも思ったのですが、そんな私に先輩は“日本音楽財団”なるサイトを教えてくださったのです。

この財団、すげーいっぱい持ってるんですねぇ・・・。

ここはその昔、テレビの宣伝で「戸締り用心、火の用心」というコマーシャルを打っていたあの振興会さんと近しいところらしいのですが、そういえば纏を振り回しておられた方は-故人になられましたが-我が国を代表する作曲家・指揮者でいらっしゃいました。
こうして世界中の好楽家のために、集めた銘器を第一級のアーティストに貸し出してるんですねぇ。ありがたいことです。
こう思うと、財力だって「大きいことはいいことだ!」ですね。

そしてここからが本題ですが、日本音楽財団から銘器を借りておられる3人の演奏家のディスクをご紹介したいと思います。

その前に(まだ前段!)ご紹介する以外にここから“たいへんな借り物”をしてる有名な人をご紹介すると、東京クヮルテットの4人がパガニーニ・クァルテットと呼ばれる4丁一式のストラディヴァリウスを借りてらっしゃるようです。
ピンカス・ズーカーマンがその昔あのイザイが所有していたものを持ってらっしゃり、その他シュロモ・ミンツ、ニコライ・ズナイダー、アン・アキコ・マイヤース、樫本大進、庄司紗矢香、木嶋真優、渡辺玲子、安永徹、川井郁子、吉田恭子(敬称略)・・・有名どころ(私が演奏を聴いたことがある人のみ、このほかにもいっぱい名前を存じ上げている人がいます)満載ですね。
本当にこの財団が音楽界に貢献しているということがよくわかりました。

こんどこそ本題です。
トップバッター(前段が長すぎてトップと思えないですが)は諏訪内晶子さんです。
ご存知のとおりチャイコン優勝者ですが、その後もじっくりと研鑽されて、デビューまでにはすっかり練りあがった演奏家に成長されていましたよね。
このディスクのころになると、既に一人のかけがえのない芸術家としての個性を表しておられます。

どっちかというとスレンダーな音で、この録音では敢えて低音を膨らませないように弾いておられるようにも思いますが、この人から“きゅーん”と引き伸ばされたような音色が聴こえたときには私の心も“きゅーん”と引っぱられたようになるという魅力を感じます。
音色とも共通しますが、さっぱりした解釈・弾きぶりのなかに余韻というか残り香のようなものがほんの微かにあって、それが詩情を醸し出しているのです。
だから決して薄味とは感じない。

ムター姐さんのような“こゆ~い”のがいいって言われると、確かにせいぜい“ちーまま”かもしれませんが、確かに諏訪内さんからでないと感得できないサウンドがあるので強いですよね。
こっちがいいというファンも多いと思います。

なお諏訪内さんは1914年製のドルフィンと呼ばれるストラディヴァリウスを貸与されており、ここでもその名器での演奏が堪能できます。
そしてそれがちゃんと“kindly loaned by Nippon Ongaku Foundation”とクレジットされているのがエライ!!
ピアノもそうですけど、楽器のメーカーなどによって音色も違うわけですから、何を使って弾いたかというのは貴重な情報ですよね。古楽器の演奏のときはたいてい紹介されていますが、現代楽器の場合もしっかりクレジットしていただくようにレコード会社の方にはお願いしたいものです。

最後のディスクはこれです。
★バーバー:ヴァイオリン協奏曲/チェロ協奏曲、他
              (演奏:竹澤 恭子(vn)、スティーヴン・イッサーリス(vc)
                   レナード・スラットキン指揮 セントルイス交響楽団)


1.ヴァイオリン協奏曲 作品14
2.カプリコーン協奏曲 作品21
3.チェロ協奏曲    作品22
                  (1994年・1995年録音)

おいおい「3人紹介と言ったのに2枚かよ」と思っていただいた方は、よく注意して読んでいただいているかたですね。お礼を申し上げます。

そのこころはヴァイオリン協奏曲の竹澤さん、チェロ協奏曲のイッサーリスのお二人が“日本音楽財団”から貸与されている人であります。だから〆て3人ということで・・・。

まず竹澤さんはこの財団から1710年製のカンポセリーチェと呼ばれるストラディヴァリウスを貸与されているそうです。
ここでの演奏は、諏訪内さんと比べるとずっとリラックスした音色で重くならない明るい音が聴かれます。
実は彼女の演奏はデビュー盤が私には鮮烈で、バルトークの無伴奏ソナタっていうのを初めて聴いてぶっとんだということもありますが、チャイコの有名な“なつかしい土地の思い出”やらファリャの“スペイン民謡組曲”にはいたくハマったものです。
そのころの音と比べると、なんと伸びやかで自在な音なんでしょう!
ヴァイオリンが違うのか、ウデがあがったのか、曲のせいなのか、ニューヨーク在住だからか・・・。どうなんでしょうね。

でも曲はちょっとなじみがないもので・・・。
第3楽章なんて協奏曲ってオケとソロがやりとりするもんだと思ってたんですが、竹澤さん弾きっぱなしですよ。
もちろんバーバーがそういう楽譜を書いたからなんでしょうけど。
音色と演奏の運びに余裕があるのに、曲自体に余裕がないように思われます。
ちゃんと言えば“演奏はブラヴォーだけど曲がよーわからん。”ということになるでしょうか。

一方イッサーリスは1930年製の“フォイアマン”というチェロを貸与されているようです。
この人は金属の言ではなくてナイロン弦を張ることで有名ですね。ここでもその独特の音色ではありますが、なにぶん20世紀の音楽であって彼から聴きなれている19世紀半ばのロマン派とはちょっと違うので戸惑いを禁じえません。
これも曲のせいか演奏のせいかはわかりませんが、何かせわしなくて落ち着かないのです。
音程の跳躍とかもあって確かに退屈はしない(演奏者は大変だと思う)のですが、
オケとの絡み具合がどうも不自然で現代音楽を聴いているのににた座りの悪さがあるのです。
いつも言いますが曲が悪いといっていませんよ。私にその曲のよさを感じ取るレセプターがないだけです。
知識が足らないのか、感性が足らないのかわかりませんが・・・たとえ思ったとしても「両方だ!」などとPCに向かって指差したりしないようにお願いしますね。

ディスク全体の総括は、私にとってバーバーは“弦楽のためのアダージョ”の作曲家であったということでしょうか。残念ですが、今のところは・・・。
あの曲が葬送音楽にばかり使われることには私も同情してますよ。バーバーさん。

さて、ところがここでの竹澤さんの演奏が、貸与されているヴァイオリンによるものかは記載がなかった(見つけられなかっただけかもしれない)ので不明です。
そして実は、イッサーリスは1945年製のグァダニーニをここでは使っているのですが、ナイショにしておいてください。
それともコレを録音したころはまだ貸与されていなかったのでしょうかねぇ?

ところでカプリコーンというのはどういう楽器だ?と思ったのですが、タイトルがそうなだけで、フルート・オーボエ・トランペットのトリプルコンチェルトみたいですね。

まぁ、1枚で2人の紹介が出来ちゃうなんてなかなかECOなディスクで大変結構でした・・・。
といいつつ、しかぁし、このディスクにはいま少しの配慮を求めたいこともありまする・・・。

ジャケットがベージュ地のイラストであるのは、まあ許そう・・・。
しかるに下の『ジャケ裏とこのディスクのオビ』の写真をなんと見る!


なんで、スラットキンなの!? 全曲指揮してるから?
それも風貌と芸風とはうらはらないでたちとポーズ・・・。
インテリ指揮者が人前でジーパンはいて遠山の金さんの真似してるなんて信じられません!!

美しいソリストの竹澤さんがいるのに、裏ジャケとオビに免許証の証明写真みたいに出てるだけだし。(ちなみに“裏ジャケ”と“ジャケ裏”は違いますよ!)
イッサーリスにいたってはノーコメントぢゃぁ~。
指揮者が出たいといったのかぁ~、ディスクを手に取ったものが喜ぶことを考えてくりぇ~。
と、申し上げたい!!

ところで私の《クラウディオ アラウ》のハンドルネームも考えてみれば“たいへんな借り物”であります。
「近頃、アラウさんお品がなくなったざぁます」などと言われては面目が立ちませんなぁ。

というわけで地が出た発言をする際には、ウルトラマンティガのようにモードチェンジをすることにしようと思います。

わからない方のために解説すると、ウルトラマンティガは怪獣と戦うためにダイゴ隊員(V6の長野さんね)が変身するのですが、まず“マルチタイプ”という技も力もバランスの取れたオールマイティなウルトラマンとして変身するんですね。

そして、怪獣がとんでもなく力持ちだと“マルチタイプ”→“パワータイプ(力持ち)”という赤いウルトラマンに、空を飛んだりスピードの速いヤツだと“スカイタイプ(素早い)”という青(薄紫?)のウルトラマンにモードチェンジして、相手に自分を適応させて戦うのです。
さすがウルトラマン!! 出来ないことはないなぁ~。

*Coda
決して“何でもありだな”といってるわけではありませんよ。
それにしてもレナ隊員、かわいかったですねぇ(^どさくさまぎれ^)v。

それじゃわからん! と仰る方はこのようなサイトがあったのでご覧ください。
        ↓
http://www.geocities.jp/hiasada/tiga.htm
管理人のかた、使わせていただきます。ありがとうございます。

かくいう私のモードチェンジ後の名前は、さる出先でいただいたニックネームの“「あ~」オヤジ”にしようかな。
オヤジをひらがなにすると“ダメおやじ”みたいで身につまされるからカタカナで・・・と。

“アラウ”から“「あ~」オヤジ”になるときはハニー・フラッ・・・、
おっと、これじゃキモいし怒られそうだから止めて、テクマクマヤコン・テクマクマ・・・、
いや、ここでは地に戻るんだから、『ラミパス・ラミパス・ルルルルル』にしよう!

そしてよそ行き“アラウ”になるときは、颯爽と『回転ドア』を使うことにしよう!!


ちなみに *Coda 以降は、もちろん“「あ~」オヤジ”さんが喋ってます。
コーダの記号が出なかったのでアスタリスクですんまへん。

幻想即興曲の決定稿?

2007年01月27日 00時00分01秒 | ピアノ関連
以前の記事で仲道郁代さんの演奏するときの表情を特集しました。
その後ラン・ランの記事のときにも話題にさせていただき、フォローをはかりましたが、彼女に対するさらなる(今度こそ)応援が必要と判断した私は、もうひとつの記事をこしらえることにしました。

まずは仲道さんのディスクの中ジャケの写真がいかにステキかということを申し上げるべしということで・・・。

ね、こういうのいいでしょ!?
私がおじさんであることを差し引いても・・・。

★ショパン:幻想即興曲
                  (演奏:仲道 郁代)

1.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
2.即興曲 第2番 嬰ヘ長調 作品38
3.即興曲 第3番 変ト長調 作品51
4.幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66(遺作)
5.3つの夜想曲 作品9
6.アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
(追加収録)
7.幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66(初稿)
                  (1989年録音) 

ショパンの幻想即興曲と呼ばれている作品は、CMで中村紘子さんが華麗に弾いていたりしたこともあってか最も有名でファンタスティックな作品とされているものですよね。
ひょっとしたらショパンの作品をフツーに愛好してらっしゃる皆さんの中には「1番好き!」とか、「ショパンで最も華麗な曲じゃないか!?」と思ってらっしゃる方も多いのではないかと思います。
要するに代表曲であるということに異論を挿む余地はないのではということです。

この作品は《遺作》とあるようにショパンの死後、残されていた遺稿を友人のフォンタナが作品66として発表したものであります。

まずは、この曲がこうして人気曲として私を含め多くの人を魅了しているウラには、フォンタナのこうした尽力(?)がありました。
後世にある、われわれとしてはまことにありがたいことといわねばなりません。

しかし、実はショパンは理由はハッキリしませんが、遺稿はすべて処分してくれと言い残して亡くなっているようであり、現在巷に出回っているのはショパンの知るところではない、というか意志とは違っている事態らしいのです。
私としては、これだけの人類の遺産とも言うべき楽曲だから、出してくれたフォンタナさん偉いという意見には違いないのですが・・・。

しかし、またまた“しかし”なのですが、フォンタナは出版に当たって曲を改変してしまっていることをご存知だったでしょうか?
ですから、現在巷で聴くショパンの幻想即興曲は本当はショパン作曲(フォンタナ補筆)とか、フォンタナ編とされるべきと思われるシロモノなのであります。
(注:ここでの“フォンタナ”というのは、フォンタナ本人が楽譜をいじくったのか、誰か心得のある人に監修させたのかわからないので、フォンタナ一派ということでお考えください。)

で、さらに具合が悪いことにフォンタナ編のほうが(当然)出回ってしまっているため、みんなこれこそが“幻想即興曲”だと思っているのが現状でホンモノを知っている人は殆どいない・・・。
さらにさらに、私が聴いてもフォンタナ編の方が座りがいいことが悩ましい。
贋作の方がいい曲に聴こえる私の耳がおかしいのか?
ちょっとジレンマがある曲なのです。

もちろん《初稿》にしかない和声のスリリングさ(概ね全曲を通じて少しバランス感覚を欠いたようなスリリングさがあります。この曲がそもそも右手と左手のリズムを違えた作品であることから考えて、初稿のこの要素は間違いなくショパンが狙い、フォンタナが出版に当たって意図的に取り除いた(後退させた)効果であると思います。)がありますが、聴き慣れているためなのか“座りがいい”としか言いようがないよさが出版版にはあるのです。

ところでその《初稿》を発掘したのはかの大ピアニスト:アルトゥール・ルービンシュタインで、彼はもちろん出版してくれております。
どこから見つけたかは知りませんし、真贋も私にはわからないのですが、たいへん意義深いことだと思います。

概ね右手は一緒(一聴してわかるのは、下降パッセージの前のフレーズの繰り返し部分が違うことなどのほかわずかです)なのですが、左手の和声の付け方が変わるので曲の雰囲気が少し変わりますね。
中間部もフレージングが違うし、和声も違う。
そして最後のカオスみたいになるところは、実はもっとさっぱり簡潔です。フォンタナのように引っぱったほうが、そのあとの左手の主旋律の歌がロマンチックに聞こえる効果はあがることがよくわかるので興味深いですが、ショパンらしいといえばショパンらしい終わり方だと思います。

というのは、ベートーヴェンやシューベルトなどは提示部と再現部は同じであるのが普通、むしろその世界の中に長くとどめさせるような書き方をしているのですが、ショパンは別れの曲などの例で顕著に見られるように、魅力的なフレーズではあってもエピソードを省略するなどして聴き手を冗長に感じさせないためのエコノミーな工夫をする作曲家だと思われるるからです。

で、仲道さんはエライ!!
彼女がこうして2つの版を並行して録音してくれたからこそ、このように重要な曲の版の興味深い違いが鮮明に見えてくるように思うのです。
学究的な興味というよりも、フィンガー5が歌う“学園天国”と、キョンキョンが歌う“学園天国”を聞くような違いがあって楽しいと思いませんか?

もちろん演奏もこの当時から我が国を代表する女性ピアニストでしたし、堂に入った演奏でした。即興曲の第1番は今でも屈指の演奏だと思っています。

また、このディスクのように仲道さんに続いて、より多くのピアニストから《初稿》による幻想即興曲の名演を期待したいと思いますがいかがでしょうか?

なお、幻想即興曲という命名も作品66という番号を振ったのと同様、出版に当たってフォンタナ(のプロダクション?)がつけたもの。
この曲を人気曲にするためのマーケティング上の工夫としては大ヒットのアイデアではないでしょうか?

そういえば幻想即興曲はエキエル教授の新しい版ではどのような扱いになるのでしょうか?
記事を書くにあたってサイトを調べてみたけれど専門家じゃないのでわかりませんでした。
たいへん下世話なレベルでの内容も含めて、いろんな、興味があります。(^^)/

★珠玉のショパン
                  (演奏:アルトゥール・ルービンシュタイン)

◇ショパンの名曲16曲のオムニバス盤です。

再発見者ご本家の演奏です。
ショパン全集を2回録音されているこの方のノクターンなど、まったく饒舌なところはないにもかかわらず引き込まれてしまう演奏だし、ポロネーズも世評どおりの好演。
そういえば仲道さんご本人もお小さいころ寝るときにポロネーズの1番から3番まで続けて聞くのが好きだったとライナーのどこかに書いてらしたなぁ。
それも聴き終わらないと眠れなかったというところがエライ。

レコードをかけたことも、電気を消すのも忘れて朝を迎えるのが常の誰かとはちがうなぁ・・・。
ソイツは小さいときから、今に至るまでそうなのに・・・。
ま、わたしはその人が生まれてから今日まで一心同体で、毎晩寝るときにも付き合ってきたからよく知っているんですけど・・・。

どうでもいい人の話は置いておいて、本家です。
本家だからといって気負いも何にもなく、むしろ淡々とした中に味わいがにじんでくるという演奏。
それでも16分音符の主題はほとんど変わらないながらも、特にクライマックスで最高音から降りてくるところに付けられている左手の和声が異なるだけで、かくも曲の印象が変わるのかと思わせられました。

却って素朴に弾かれたときのほうが違いが際立つのかもしれませんね。

ショパンのこれだけ人口に膾炙した作品であればこそ、より多くの奏者による聴き比べを楽しみたいものです。ぜひ皆さんチャレンジしてくださいよ!

Reflections

2007年01月26日 00時25分56秒 | J-POP
★Re-Cool Reflections
                  (演奏:寺尾 聰)
1.Re-Cool HABANA EXPRESS
2.Re-Cool 渚のカンパリソーダ
3.Re-Cool 喜望峰
4.Re-Cool 二季物語
5.Re-Cool ルビーの指輪
6.Re-Cool SHADOW CITY
7.Re-Cool 予期せぬ出来事
8.Re-Cool ダイヤルM
9.Re-Cool 北ウィング
10.Re-Cool 出航 SASURAI
11.ルビーの指輪 1981
                  (2006年録音)

♪~ くぅ~もぉ~りぃ~ がぁらーすをぉぅ ツメで“きぃーーーーっ”!!!

おっと、これは昨日の嘉門さんのネタでした・・・。

先般タワレコ新宿に行った際に専用の試聴機を従えて、こじんまりと大々的に販売展開していたこの作品。
表現に自己矛盾があることはおいておいて、私は一聴してある閃きを感じて購入してしまいました。

それは、我が家のSACDプレーヤーが、CDプレーヤーであるエソテリックのX-50wのパフォーマンスををもしかしたら凌駕するかもしれないという期待でした。
結果は・・・。
スピーカーが高速な音の立ち上がりについていけずに、わかりません!! (^^)/
100年以内には多分スピーカーも買い替えることになると思うので、そのときにわかるでしょう・・・。とほほ。

この作品については、“とくダネ”の小倉アナが語っていたのをきいていたので知っていました。
またお正月にNHKのスタジオライブの特集番組を見たので、それとはなく興味も持っていました。
番組そのものではどっちかというとkyon×2のほうにより興味がありました、というのは余談です。
でも買っちゃうとは思ってなかったねぇ~。

しかしこれがけっこう楽しい出来なのです!
前の“リフレクションズ”も図書館で借りて(!)聴いたことがある私は、寺尾さんが前のリフレクションズよりずっと若くなったし、ずっと音楽を楽しんでいると思われてなりません。
アレンジも、エンジニアリングもよりエンタメ志向で、とても還暦を迎えようという人のそれではありません。

ザ・ベストテンを欠かさずチェックしていた私は、当然レコード大賞受賞作品“ルビーの指輪”のみならず“SHADOW CITY”や“出航”といったヒット曲も知っていますが、ここまでアグレッシブに伸びやかではなかったですねぇ。

寺尾聰さんといえば、当時は宇野重吉の息子だとか、ザ・サベージのベーシストだったとか、何より石原軍団で西部警察とかに刑事役で出ていた人というイメージが強かったですねぇ。
それが、アイバニーズのキルト・メイプル・トップのARの12弦ギターをかかえて歌っていたわけです。けっこう“ウノジュウキチノムスコ”派のかたからは、驚きの目を持って迎えられていました。

今、寺尾さんといって宇野重吉の息子というイメージが浮かぶ人っているのかしら・・・。
私は先般八王子の人権集会で“博士の愛した数式”を見ていなかったら25年ぐらい前のイメージのままでいたかもしれません。
知らなかったんですが、日本の映画の主演男優賞を2回取ったらしいですね。レコード大賞を取って主演男優賞を取ったひとは他にいないとか・・・。
そりゃそうでしょう・・・ふつうなら。。。
先の映画の演技からも、とても素晴らしい俳優さんであることは私にもわかりました。

さて“Re-Cool Reflections”と題された新作ですが、小倉アナの話では同世代の団塊世代の人への応援歌の意味合いが強いらしいですね。
まさに目論見が見事に昇華した形になった会心作であります。あらゆる意味で痛快でした。

最後に昔のアレンジによる“ルビーの指輪”をスタジオライブで再録しているなど、嬉しいですねぇ。特に以前のヴァージョンを知っている世代にとっては、なんともいえない感慨がありますね。
ビジネス上のマーケティングとしても比類ない確かさだと思わされます。

ノンポリの私は“ルビーの指輪”の大ヒット後、感謝のつもりで興行したコンサートで「マスコミ席を設けたために、コンサート会場に入れなかったお客さんがいる」という話を聞いて寺尾さんが激怒し、石原プロを飛び出してしまったという話に、“男気がある”というより“青臭い”ものを感じて苦笑しておりました。

しかし、このようにパーティーみたいな作品を、昵懇の仲間内でさらりと作り上げてしまうような、年齢の重ね方を目の当たりにすると、もっと真剣に生きていかないといけないと反省されられましたねぇ。

この作品は決して“話題づくり”や“売らんかな”ではなくて、寺尾聰という音楽好きが自身が作ったおなじみの音楽を、彼を慕う仲間とともに楽しみの中で作り上げたことが判るたいへん幸せな一枚です。
今の彼の“等身大の音楽”という本当にストレスのないパフォーマンスですから、音質なんかを云々するより、カーステレオででも“シャーン”と鳴らすとゴキゲンになれるんじゃないかなぁ~。
随分と年配が若いはずの私も爽快なパワーをいただきました。

“Reflections”がタイトルなのではなくて“Re-Cool"がメインタイトルなんじゃないか・・・。
そんな風に思う私なのでした。

★セロニアス・モンクに捧ぐ
                  (オムニバス盤)

1.セロニアス
2.リトル・ルーティー・トゥーティ
3.リフレクションズ
4.ブルー・モンク
5.アスク・ミー・ナウ
6.ブリリアント・コーナーズ
7.モンクス・ムード
8.パノニカ
9.バ・ルー・ボリバー・バ・ルーズ・アー
10.フォー・イン・ワン
11.ラウンド・ミッドナイト
12.エヴィデンス
13.ワーク
14.ファンクショナル
15.ミステリオーソ
16.ベムシャ・スイング

セロニアス・モンクをご存知ですか?
ジャズのピアニストであり作曲家だった人というくらいに思っていただければよいのですが、とにかく作る曲もその演奏も一筋縄ではいかない個性的なかたでありました。
もっとも有名な曲は、車のCMなどでも使われたことのある“ラウンド・ミッドナイト”でしょうか?
「しらねーよ!」と仰る方も聞いたら、「あ、しってる!」となると思います。

このアルバムはそんなモンクの代表作が概ね出揃ったアルバムです。
ハル・ウィルナーという有名なプロデューサーによりモンクへオマージュを捧げるアルバムが企画され、気鋭のミュージシャンによって個性的な曲に、それぞれこれまた個性的な演奏が寄せられていてニヤリとしてしまいます。

入社してほどなく手に入れたアルバムですから、最初に聴いたのは1990年ぐらいでしょうか・・・。以来、折りに触れて何度となく聴いてるんですよね。

さてさて、モンクの楽曲のうちで最も好きな曲はと聞かれたら、私は即座に“Reflections"と答えます。
この記事のキモはこのディスクの紹介なんですよね~、実は!!

ここではスティーリー・ダンの片割れ、ドナルド・フェイゲン(synth)と名ギタリストのスティーヴ・カーンの二人により演奏されているのですが、文句なしの出色の名演です。

この曲の原曲は、当初モンク自身のピアノ・ソロで発表されました。
とても優しい旋律なのですが、どことなく懐かしさをも感じさせるメロディー・・・。
しかしモンクの演奏はとんでもなく素っ気なくぶっきらぼうに聴こえます。他の人がこう弾いてしまったらぶちこわしなのでしょうが、モンクが弾くとえもいわれぬ味わいというか、偏屈な人が実は心の底ではとんでもなく人恋しく思っているというように思えるからフシギ。
不器用さが愛おしいって感じなのです。
実はホントに不器用なだけなのかもしれませんが・・・。

フェイゲンとカーンによる演奏は、とても繊細なカーンのギターに始まり、モンクがピアノで弾くとぶっきらぼうになる下降フレーズを、雰囲気を壊さないでいながらとっても流麗に弾いちゃっていて、まずはお見事!
後半のフェイゲンのハーモニカを模したようにも思える音色のシンセのサウンドは、機械が発している音なのにどうしようもなく泣かされます。
これは形容不能。聴いてもらうしかありません。

私にとっては、自分の結婚式のBGMに(結局クラシックの曲ばかりになって使えなかったけれど)ノミネートしたくらいの演奏なので思い入れも深いのです。
機会があったらぜひとも聴いていただきたい演奏のひとつといえましょう。

★リトル・ムーンライト
                  (演奏:ダイアン・リーヴス)

1.ローズ・オブ・ラブ
2.アイ・コンセントレイト・オン・ユー
3.リフレクションズ
4.スカイラーク
5.ホワット・ア・リトル・ムーンライト・キャン・ドゥ
6.ダーン・ザット・ドリーム
7.アイム・オール・スマイルズ
8.ブロードウエイの子守唄
9.ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド
10.ウィル・ビー・トゥゲザー・アゲイン
11.君の愛を信じて
                  (2003年)

モンクの歌唱といったらカーメン・マクレエが有名ですが、リフレクションズの歌であれば迷うことなくこのダイアン・リーヴスのパフォーマンスを挙げます。
ジョン・ヘンドリックスが歌詞をつけたこの“リフレクションズ”をダイアンはストレートに心をこめて歌いつくしています。

このアルバム全体が最高のジャズヴォーカル作品であり、ダイアンの作品の中では最も聴きやすいものではないでしょうか?
全編親しみやすい落ち着いた楽曲であり、それに相応しい歌唱なのですが、とりわけ素晴らしいのはニコラス・ペイトンのトランペットのオブリガートを伴った“ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド”でしょうか。
今の季節、温かいミルクでも片手にこのディスクを聴きながら過ごす夜は、とてもリッチな気分になれると思います。

ブラヴォ~!!!

小市民

2007年01月25日 00時00分01秒 | J-POP
★嘉門 達夫 ザ ベリー ベスト オブ 替え唄メドレー
                  (演奏:嘉門 達夫)
 ◇替え唄メドレー いっぱい
     ・・・ホント いっぱい

♪~ ちゃらりぃ~~~・ハナから牛乳!!  (^^)v

私はブログ開設時から“小市民”を自認しておりますが、我が国を代表する“小市民”といえばこのかた、嘉門達夫先生ですね。
なぁんと言われても、紅白歌合戦に出場されたほどの大歌手であります。
まさに小市民の出世頭!!

大学のとき“つれ”(名古屋で友達のこと)とスキーに行ったときに、嘉門さんの“このなかにひとり”シリーズのカセットを持ってきたやつがいて、カーステレオで大爆笑して以来、ひそかに愛聴しておりました。

しかし“よーやるわ”ですねぇ。
こうして聞いてみるとけっこう私、今までの人生のキャリアの中で使わせてもらいました。
たいていその後冷たい視線を浴びるんですよね。
それが快感の確信犯だったりして・・・。

ちなみに妻はわたしのそんなところが、ダイキライのようですが・・・。
かみさんの女友達は、嘉門さん好きなのにね。

でも“エリマキトカゲの悲哀の歌”などには同情を禁じえませんね。
これがわかる人は相当だと思いますが・・・。

元歌もさることながら歌詞中の“住専”とか“霊感商法”とか“タイ米処分”とか話題も懐かしや、ナツカシヤ。。。
今のハヤリの歌ではこんな替え歌つくれないよねぇ。そんなことないか!?

著作権の問題があるかもしれないので書きませんが、歌詞の中に小市民がいっぱいいます。
と、言わなくてもいい言い訳してサボる私も正真正銘の小市民・・・。

★J.S.BACH:ヴァイオリン・ソナタ全集
               (演奏:アンドルー・マンゼ (vn)、リチャード・エガー (cemb))

◇鍵盤楽器伴奏付きのヴァイオリン・ソナタ全集
 +トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 (マンゼ編)
                  (1999年録音)

嘉門達夫さんの後に、なぜこのディスクなのかは曲目をご覧いただければ一目瞭然かと存じます。(^^)/
万が一わからないと仰る方は、+αの曲を嘉門さんがパクったから・・・といえば判っていただけるでしょう。
それでもわからない人は、わかる人に聞いてください!

マンゼさんにおかれては、わざわざヴァイオリン一丁(“ソロ”っていうよね、ふつう)のためにこの曲をアレンジしています。
“マンゼらしい”じゃあーりませんか?

聴いての感想はといえば、冒頭のメロディーはやはりどうしようもなくかぼそい・・・。
中間部はさすがマンゼという流麗にして込み入った演奏を展開しておりますが、やはりオルガンの元の迫力にはどうしても追いつきません。
マンゼにしては珍しく、ハッとさせるというのではなく、軽いがスピード抜群のストレート勝負という微熱をもった演奏ではありますが・・・。

でも私とはまったく違うものをこの曲の演奏に求める方、とにかく達者なヴァイオリンをというかたには、超絶技巧しているときの揺らぎなどたまらないのではないでしょうか。

バッハのソナタ演奏になると様相は一変して、ビーバーやヘンデルのソナタのときの才気煥発さは影を潜め、ここでは典雅なチェンバロに乗ってノーブルに抑えて演奏されているのがわかります。確かルベルのときもそうでした・・・。

でもこの人の場合どの盤でもどうしても出ちゃうんですね、才気煥発さって・・・。
いや、天衣無縫さと言ったほうが正しいかもしれません。

私は、マンゼのそんなヴァイオリニストとしての本能の閃きが大好きなんです。

ですから彼が指揮をしたときには、ちょっと構えて考えすぎてしまうようになるのが惜しいと思うのです。

★ニコラーエワ:珠玉のバッハ名曲集
                  (演奏:タチアナ・ニコラーエワ)

1.トッカータとフーガ ニ短調 BWV565 (ニコラーエワ編)
2.「主よ人の望みの喜びよ」カンタータ BWV147 (ヘス編)
3.「目覚めよと呼ぶ声す」BWV645 (ブゾーニ編)
4.小フーガ ト短調 BWV578 (高橋 悠治編)
5.「いざ来ませ、異邦人の救い主」BWV659 (ブゾーニ編)
6.シャコンヌ BWV1004 (ブゾーニ編)
7.「我は主の名を呼ぶ」 BWV639 (ブゾーニ編)
8.シチリアーノ ト短調 BWV1031 (ケンプ編)
                  (1982年録音)

断言します。
私にとってピアニストのバッハ弾きといえばペライアでもグールドでも、グールドが唯一影響されたといったテューレック女史でもありません。
タチアナ・ニコラーエワ女史の厳しくも包容力のある温かい演奏こそ、私の座右に置かれるべきバッハ演奏なのです。
そのうち特集させていただき、コメントしたいと思います。

さて、初めて触れたバッハのピアノ演奏はこのディスクでした。コラールの編曲の素晴らしさを最初に聴いたのもこのディスクからです。
最初はシチリアーノが好きだったんですがねぇ。
やはり今では「目覚めよと呼ぶ声す」「いざ来ませ、異邦人の救い主」というところでしょうか・・・。
これらにはあらゆる人の、あらゆる名演がありますから、これもまたこのブログでいつか触れたいと思います。

こうして聴いてみて思うのは、嘉門達夫さんのあとに聴くものではないということ。
これら小品の味わいをくっきりと、でも残り香のように心になにかを置いて行ってくれる演奏です。
アップし終えたら、お風呂へ入って聴き直そうっと!!

しかし嘉門達夫でJ-POPにカテゴライズして“トッカータとフーガ”の紹介(それもこんな内容)をしていては、グリーグに続いて大バッハまでをも敵に回してしまったかもしれませんねぇ。

しかもタイトルは“小市民”だし・・・。
でも最初に“鼻から牛乳”とパロッたのは嘉門さんですから、私が大バッハに恨まれても困ります。
不本意に思ったかたは嘉門さんにいちゃもんでもガンでもつけてやってくださいな。

私のように、権威に最初に歯向かった人に責任をなすりつけて火の粉を払うというのが真の“正しい小市民”としてのありかたである・・・。
そうお思いになりませんか? (^^)/


最後お別れの曲は嘉門さんのフレーズをパクってみましょう。

何の曲でしょう!?
 ♪~ くぅだぁ~りの、ひぃかぁぁあり。はぁかぁたぁ、ゆぅう~きぃ~・・・

♪~ ちょうど時間となりましたぁ~。それではみなさん、ごきげんよぉ~!!

ツァラトゥストラは火の中に何を見たのか?

2007年01月24日 00時00分02秒 | オーケストラ関連
★リヒャルト=シュトラウス:ツァラトゥストラはかく語りき・死と変容
                  (演奏:アンドレ・プレヴィン指揮 
                        ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)
1.交響詩 「ツァラトゥストラはかく語りき」 作品30
2.交響詩 「死と変容」 作品24
                  (1987年録音)

ツァラトゥストラはご存知のとおり、拝火教ともよばれるゾロアスター教の教祖であります。
「火の中に何を見たか」などと大上段に振りかぶってみましたが、答えはニーチェに聞いてくださいということで・・・。(^^)v
それでは始まりませんので、しばし他愛のない話にお付き合いいただければありがたいです。

ゾロアスター教の発生は紀元前6世紀から紀元前12世紀ぐらいまでいろんな説があるようですが、モーセの十戒よりはちょいと後のようではあります。
ただ一人の神を信仰する最初の宗教とも言われているようで、後のユダヤ教に影響を与えたとされています。
つまり、キリスト教やイスラム教のご先祖様みたいなモンでしょうか?

ダーウィン論じゃないですが、進化とは根っこは同じでも進化のベクトルが違うと違った生き物になるらしいですね。
例えばヒトとチンパンジーは、元となったご先祖類人猿は同じですがチンパンジーを経てヒトになったわけではないわけでして、ヒトに向けて進化したものと、チンパンジーに向けて進化したものがいて、それぞれがそれぞれの現在を迎えているということです。
(動物!奇想天外で千石先生が言ってましたね!)

ですからゾロアスター教が、キリスト教やイスラム教に変容していった訳では必ずしもないとは思いますが、重要なのはただ一人の神様を信仰するということ!

さてさてモーセがエジプトから虐げられた民を伴って脱出したのが紀元前1250年ぐらいとされていて、その際のイスラエルの唯一の神がキリスト教・イスラム教いずれもの祖先らしいですから、唯一の神も結構激しく分裂しているみたいですねぇ。元は一緒なんて信じられませんが、まぁ3500年近くも前の話ですからね。

さて、また脱線しますが、日本では八百万の神様がそれこそ何柱もおわしますけれども、先に述べたようにユダヤの神様は一人しかいないということらしいのです。だから聖書には女神という言葉は出てこない、などという話を初めて聞いてへぇ~と思うことしきり。
私はクリスチャンではありませんが、キリスト教関係大学とされているところを出ているのに・・・。いったい何を勉強してたんでしょうねぇ。
はい、何も勉強していませんでした・・・っと。

それでその唯一の神様と人間は契約を結んでいると考えられているらしくって、その際人間側を代表して神様と論争する折衝役を“預言者”と言うそうなのです。

細かいことは省いて(よく判らないからだろうなどとの詮索はご無用にお願いします)、人間は古来よりこの神様との契約に逆らった振る舞いを重ねて、結局神様の逆鱗にふれ全滅しかけておりますですね。ノアの箱舟しかり、ソドムとゴモラもしかり・・・。
コレくらいは私も知ってました。(^^)/

例えばそのうちのソドムというのは全うな人間が10人もいない淫欲におぼれた堕落した街で神様が見咎められたのですね。それも男同士の同性愛といわれていることが多いようです。

旧約聖書ではロトという人の家に、そこの客人(♂)めがけてソドムの人たちが「その人のことを知りたい」と押しかけてきて困らせたとか・・・。
“知る”というのが文字通りの意味なのか、“肉体関係”を意味するのかはいろんな考え方があるようですが、私が見た資料は後者でした。

そんなこんな(ここで“どんな?”と聞かない)で、天使はロトの家族だけを逃げられるように手配したうえ、硫黄の炎で町を焼き払ったというお話です。
恐いですねぇ、怖ろしいですねえ・・・。

その際ロトは妻と娘二人と脱出したものの、妻は天使が「街を振り向いてはいけない」と約束させたにもかかわらずそれを破って振り向いてしまったために、塩の柱にされちゃったんだそうです。ひゃ~、クワバラ!!

でもこの話、芥川の“蜘蛛の糸”を例に出すまでもなく神話とかあっちこっちに同じようなものがありますよね。(芥川が1番新しいのかも・・・。)見られた方が地獄に落ちるのではなく、見た本人が破滅するというところが違うのかもしれませんが。

さらに脱線しちゃいますが、ロトさんっていい人みたいですが、私に言わせればソドムの人が押しかけてきたときに客人をかばったくせに、代わりに自分の娘を差し出したんだって・・・?

とんでもないヤツじゃないですか?大沢親分や張さんだったら“喝”ですよ!許せます?
それともよっぽど娘のことが心配だったんでしょうか?嫁に行けないんじゃないかとか?

今はっと思ったあなた・・・。ご安心あれ。あなたのことではありませんから、断じて!!

ロトは逃げ延びた後二人の娘に酒を飲まされて酩酊した挙句、その2人に子供を産ませたようですね。
まぁ他に女性がいなかったわけで、子孫を残すためには仕方ないのかもしれませんが、もう少し何とかねぇ・・・。
よく考えると焼かれたのがソドムとゴモラの街だけであれば、他の人がいる町を探すとかなかったのかしら?
何といっても、娘の子たち(男1人ずつ)は誰か別の女性と結婚してそれぞれの子孫を残してるはずなんだから、どこか・・・。
これくらいにしましょ・・・。

ユダヤの民がエジプトから脱出するときから、確かに神様は何度も奇跡を見せて守ってくれてきたようでありますが、それにもかかわらず神との契約が守れないというのは、やっぱり押し付けられたと思ってたんでしょうか?ソドムやゴモラの人たちは・・・。どこかの国の憲法みたいに・・・。

ここまでを整理すると、まずツァラトゥストラ(久々に登場)は火を奉るゾロアスター教の教祖であります。
そして以前の記事でも紹介したように、日の出前の地平は燎原の火のごとく地平線を焼き払っている。(これがその写真)

そしてその直後に、まばゆい朝日が差し込み穏やかな一日が始まる・・・。

その炎の中にツァラトゥストラはソドムとゴモラを見たのではないかなと思ったわけです。
そしてそれは毎日朝が訪れるたびに繰り返される・・・。
そんな風景を見ていたのではないかということ。

考えたことはそれだけです。はい。

ちなみに私はゾロアスター教のことは何も知らないのであしからず。
これまでの話は事実はともかく、私の創作ですからお間違いのないように。みなさんはどう思われますかなどとお伺いするような話ですらありません。

話は変わって“ソドミー”という先のソドムの逸話から生まれた言葉があるそうです。

それは「ゆとりがありながら周囲に施しをしない困った人」というように大意で述べられることもあるようですが、一般的には単に「男色」のことをいうことが多いようですね。

そこで、何故“ツァラトゥストラはかく語りき”なのか・・・?

この曲の冒頭の超有名なフレーズは皆さんご存知のことと思います。
すなわち、
 ♪ ド~~~・ソ~~~・ド~~~・ミレ#~~~~~~~ ♪

最後のレ#のところでティンパニがドコドコドコドンとゲーセンにある太鼓のゲームみたいに鳴るんですよね。

さて、それはそうとこの中にありませんか!? “ソドミ~”が!!

ソドミーが鳴って直後にレ#に下がってティンパニが鳴るっていうのは硫黄の炎が落ちて地上が焼き払われ燃え上がっているということではなかろうか?

その次はそこを超越して音が上方に伸びていき、新しく輝かしい太陽とそれに連れられてくる次の日を迎えることを象徴させているのではないかと、R=シュトラウスに尋ねてみたいものだと。
我ながら良く気づいたものだと思ったので、この記事にしましたがいかがでしょうか?

おいおい「欧州では“ソドミ~”じゃなくって“GCE~”じゃねぇのか?」というご質問がでるかとも思いまして、調べたのですが、ドレミファソラシドはイタリア語なんですってね。
なら、ヨーロッパでもソドミ~って言うんじゃないでしょうか?

いや私も、ドレミの歌がアメリカの歌だからちょっと心配したんですけどね。私の説の妨げにはならなかったようですね。やれやれ・・・。

とにかく理論(オヤジギャグの域を出ないか?)を怪しまれないうちに、さっさと話を変えますが、押し付けられた窮屈な神との約束(契約)を反故にした報いとして焼き払われてしまったソドムとゴモラ。
押し付けられたものといって憲法を改正しようなどと企てているどこかの国も、庁だ省だと騒いでばかりいると、焼き尽くされちゃうようなことになりませんかねぇ。

あの国の核・・・ですか?
そんなことより、どこでも海沿いの原発を狙われて普通の砲撃をもらってしまったらヘタな核爆弾より恐いんじゃないかとも思ったりしちゃうんですが。。。大丈夫なんでしょうかねぇ。
最早有事があればチェルノブイリの比ではないと思われ、チェルノブイリだって全世界的に影響があったことを思うと・・・。私はちょっと心配ですね。

それより同じ神様を祖に持つはずの2大宗教が、それぞれ相対の神様から見ればいずれも契約違反をしているわけで、そっちに先に硫黄の炎が落ちちゃわないかも心配ですね。
このお話の本場はどっちかといえばあちらであるわけですし・・・。

ここはやはり八百万の神々におすがりするしかないのでしょう。(^^)/

あっ、曲・・・。

★リヒャルト=シュトラウス:交響詩全集
                 (演奏:ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮
                       ベルリン・フィルハーモニー交響楽団)

◇リヒャルト=シュトラウス交響詩の全曲

いずれも一時、猫も杓子もR=シュトラウスだったころの録音です。
聞かせ上手なプレヴィン、颯爽とかっこいいカラヤン。どっちもいいですよ!!

Takashimaaya

2007年01月23日 00時00分01秒 | 東京探訪あるいは漫歩
平日。私の1日は“めざましテレビ”で始まります。

皆藤愛子さん(愛ちゃん)の文字通り愛くるしい笑顔もたまりませんが、ズバリ私の憧れはやっぱり“アヤパン”こと高島アナでしょう!!!

ルックスはもろ私好みで、もちろんお声もステキであります。
元来朝が弱かった私ですが、最近独り暮らしになってからもちゃんと目覚められるのには高島アナの貢献度大であります。
単に年をとっただけという噂もありますが。。。
“今日のうらないカウントダウン”でもその声に聞きほれてしまい、何位だったか覚えていないことも・・・。
これも単に注意力散漫なだけという噂もありますが。。。

ところで今朝の“めざまし・どっち”は私にとり端倪すべからざる問題がテーマでした。

  Q.オヤジギャグは “楽しい” or “つらい”

視聴者の“みんな(番組ではそういっている)はどっち?”を集計した結果は、残念ながらおよそ60%が“つらい”というもの・・・。

どぉしてかなぁ~? 何で楽しくないんだろ~? を考察した結果、おじさんとしてはいささか思い当たるところがあったので自説を少々・・・。

この場合の“つらい”には2つの要素があるのです。
すなわち、
①ギャグ自体の程度がよろしくない。
 頻度・内容の問題と合わせて、TPOをわきまえないオヤジギャグは確かに
 煙たがられ、聴くものにつらい思いをさせるでしょう。

②ギャグをいう動機が涙ぐましいものである。
 主に上司が、職場の和を築く、緊張を解くといった必要に迫られて痛々しい
 努力の産物としてオヤジギャグを繰り出すのも察するだにツライ。

後者など特に、コンピュータはわからない、話題にはついていけない、当然話は合わない、昔のように社員旅行にも社内の飲み会にも若い人が参加してくれない、しかるに自分の指導力を疑われる・・・。
打開策を打とうにも、仕事実務の内容に触れることなく、会話の量を確保して職場のまとまりを生み出すためには、女子職員の顔色を見ながらオヤジギャグでも繰り出すしかないという実情が透けて見えますなぁ。
何故判るか・・・。勿論判りますよね。
私がそうだからです。(^^)v
これではギャグを言う方も聞かされるほうもつらいでしょうが、如何ともしがたい。

いずれにしても、TPOに合わせて良質なオヤジギャグを楽しく繰り出したいものだと・・・。
このブログをそんな楽園にしたいというのが、私の願いのひとつであります。

ちなみに冒頭の写真は、東京駅の八重洲北口付近にある百貨店であります。
正月に家族でポケモンセンターに行ったとき、入場するまでにえらく並ばされた記事を書きましたが、あのときにこの建物の方まで行列が続いていたのです。いかに待たされたかお分かりいただけるでしょうか・・・?
おっと、ここは恨み言をいうところではないですね。

いつこの写真を使おうかと思ったのですが、今がそのときかなと。
私のTPOの判断はどうだったでしょうかねぇ?
わたしのギャグがわからない方は・・・まさかいらっしゃいませんよねぇ~?

さて、同じく今日のめざましテレビで、フジテレビのアナウンサーが集結してルパンを題材とする舞台での朗読会があったことを初めて知りました。
知ってたら行きたかったなぁ~。

高島彩アナと軽部アナとの迫真の朗読・・・。
わからない人のために、そのお二人とはこの人たちなのですが・・・。

フジテレビに遊びに行ったときに撮って来ました。
スタジオ周りを見学できるコースもあって楽しかったですよ、という話はおいといて、その朗読会で軽部アナに役を替わってほしかったですねぇ。
高島アナを抱っこしたり・・・、ツーショットだけでもウラヤマシイ。
こうみえても(見えないか・・)私は軽部アナほどカマないと思いますけどねぇ。
でもカツゼツが悪いからやっぱだめかなぁ~。

今度こそ冒頭の写真の私の“意図”はわかりましたよねぇ~?

★シン・ドンイル:虹色の世界
                  (演奏:高橋 多佳子 (ピアノとおはなし))

◇ピアノ・ソロとお話によるやさしい24の小曲集
                  (2005年録音)

さて考えたくはありませんが、“アヤパン”もいつかはめざましテレビを卒業する日が来るのでしょう。
そのとき以降はこのCDの多佳子さんの声で起きることにしようかな・・・。
と真面目に考えたりしております。
それほどに多佳子さんの声もステキだし、滑舌も確かだし。

対抗馬としては、音源だけなら“モー娘。”のアルバムでメンバーが口々に“オハヨー”をサラウンドで連呼するものも持っているのですが、そんな起床状況はちょっと自分で考えるだにキモイので、やっぱ多佳子さんですね。

まぁ今のうちは“Takashimaaya”アナウンサーが一日でも長くめざましに登板してくれるように願うことにいたしましょう。

みなさん!! 私の意図は伝わりましたでしょうか? (^^)/

追悼:マイケル・ブレッカー

2007年01月22日 00時00分01秒 | JAZZ・FUSION
★ニアネス・オブ・ユー:ザ・バラード・ブック
                  (演奏:マイケル・ブレッカー)
[チャプター・ワン]
1.チャンズ・ソング
2.ドント・レット・ミー・ビー・ロンリー・トゥナイト
3.ナセント
4.ミッドナイト・ムード
5.ザ・ニアネス・オブ・ユー

[チャプター・トゥー]
6.インカンデセンス
7.サムタイムズ・アイ・シー
8.マイ・シップ
9.オールウエイズ
10.セヴン・デイズ

[エピローグ]
11.アイ・キャン・シー・ユア・ドリームズ
                  (2000年録音)

土曜日、タワレコ新宿9Fにレコ芸とモーストリー・クラシックを買いに行きました。

いつものようにうろついているとjazz方面に「追悼」なんて書いてある。
その横にジャコ・パストリアスの大ポスターがあって「おんやぁ、ジェームス・ブラウンでも紛れ込んだかな?」なぞとつかつか寄って行ったらマイケル・ブレッカーの訃報・・・。

闘病しているということはちらっと聞いていたけれど、まさか亡くなってしまうとは・・・。
白血病だったそうですね。

実はマイケル・ブレッカーは私よりちょうど15歳年長、誕生日がまったく同じなので非常に親近感を持っていました。別に動向を追っかけていたわけでなく、新作が“よさげ”だったら聴いてみるっていう感じなだけだったので、そうそう生き方に影響されたなどということはないのですが・・・。
それでも残念。

亡くなる2週間前に故人を励ます目的で名だたるメンバーが集って新作が完成されているようなので、期待したいと思います。
こういういわくつきのディスクを最初に聴くときって、要注意なんですよね。
こちらの思い入れも特別になってしまっているから・・・。
パフォーマーの思いを正しく受け止めるようにして聴かねばと。。。

クラシックの現代音楽も耳にしないわけではないですが、ジャズこそが私にとって人肌の現代音楽であると思っています。その割にはあまり記事にしませんが・・・。

それは、「名演はあっても名曲なし」とか表現に問題はあっても確かにジャズの一面を表している言葉に見事に言い表されているように、一度限りの芸術という側面が強いから括りにくいのですね。
きちんと楽譜があって、少なくとも発せられている音は同じであって、その中での差異を話すのは発信側も受取側も共通認識として持てる部分が大きいと思うのですが、それこそ名曲名演(さっきの言葉と矛盾しますが)であっても星の数ほどの解釈(そもそも“カイシャク”という言葉の解釈が違いますよね。ジャズでは“アレンジも解釈のうち”ですよね)の違いがあるし、同じアーティストの演奏でもその都度違ってくるものなので、砂漠のうえにバベルの塔を建てるような記事になる気がするからなのです。

話を戻して、ジャズには大きな効用として奏者にとっても聴き手にとってもカタルシス効果(厳密に言うとストレス解消とはちょっとニュアンスが違うので・・・)という可能性があると思っています。

それは例えば、とにかくホットに突き抜けたブロウで爽快に発散させてくれるような演奏であったり、またはそのサウンドから大きな温かい空間をイメージさせてくれてそのなかに固まった心の老廃物を雲散霧消させてくれる、あるいは氷解させてくれるような演奏・・・。

このアルバムのサウンドはまさにジャケットのような空間をイメージさせ(プロデューサー:パット・メセニーの功績大)、そこに確固として存在する無垢であり無骨なパフォーマンス(日本語では言いにくいですね。イノセンスといったら近いかなぁ?)を展開する手法を用いることで、マイケル・ブレッカーが間違いなく後者の療法における名医であることを、否、名医になりえたことを実証しています。

この点ケニーGなども巧みなドクターなんでしょうけど、もっと重症の患者になればこのブレッカーの根本治療でないとと思わせられるものがあります。

こうして聴いていると、2曲に参加しているジェイムズ・テイラーの歌声もいささかさびしげに聴こえます。

★トゥー・ブロックス・フロム・ジ・エッジ
                  (演奏:マイケル・ブレッカー)

1.マダム・トゥールーズ
2.トゥー・ブロックス・フロム・ジ・エッジ
3.バイ・ジョージ
4.エル・ニーニョ
5.キャッツ・クレイドル
6.ジ・インペイラー
7.ハウ・ロング・ティル・ザ・サン
8.デルタ・シティ・ブルース-イントロ
9.デルタ・シティ・ブルース
10.スカイラーク
                  (1997年録音)

よくジャズのディスクのジャケットは、有名写真家のシリーズが使われてたり、デザイン文字だけだったり、ムフフだったりするのですが、ムサイ男のアップは止めて欲しいと常々思っておりました。
しかしこういうときに困りますな。顔写真の載ったジャケットがないと・・・。

その点マイケル・ブレッカーは偉かった。
なかなかアートなデザインであるうえに、嫌味のない肩の力の抜けた写真でさりげなさがよろしいんじゃないでしょうか?

今お話しているのはこの人のことですよということを、お伝えできてよかったよかった。

ちなみにブレッカー・ブラザーズ名義でなくソロとしてデビューアルバムのジャケットには髪の毛ふさふさ(ほどじゃないか・・・)の好漢マイケルが写っています。
ちょっとそれじゃ情報の鮮度がねぇ・・・。演奏も今とは打って変わってという感じだし、いや、今があのころと打って変わっているんですよね。

このディスクの10はボーナストラックです。ありがちな話ですが、個別には名演だと思うのですが、アルバムのカラーとあっていると思えません。
CDを個別の曲の集まりと見ればお得なのですが、ディスク全体でひとつの作品と考えると蛇足ですな。
こういったもののあり方も少し考えてもらいたいと思います。

希望を言えば、ボーナストラックは普通の設定でかけたときには演奏されなくって、聴きたい人がプレーヤーのオプションで設定して聴くようにするなんてのはどうでしょうか。

最後に収録されている場合にも、余韻に浸りたいときに切る作業をするのもなんだし、曲間にボーナストラックを埋め込まれていると抜く作業がメンドイので。

★ディレクションズ・イン・ミュージック
       (演奏:ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローブ)

1.ザ・ソーサラー
2.ザ・ポウイット
3.ソー・ホワット / インプレッションズ
4.ミステリー
5.ナイーマ
6.トランジション
7.マイ・シップ
8.D・トレーン
                  (2001年:マッセイ・ホールでのライブ録音)

HMVレビューのコメントによると“マイルス・デイヴィス&ジョン・コルトレーン生誕75周年”に捧げたドリームバンドのプロジェクト・ライヴ演奏だそうです。
(何度も聴いたのに初めて知りました・・・。)
マイケル・ブレッカーその人のプロデュース作品ということで採り上げてみました。

マイケル・ブレッカーの業績については改めてご紹介することでもないですが、グラミー賞11回獲得、冒頭のディスクが2001年、このハービー・ハンコックとロイ・ハーグローブとのアルバムが2002年、今までのところの最新作“ワイルド・アングルス”が2003年と3年連続でグラミー賞を受賞するなど、本当に凄い足跡を遺したテナー奏者ありました。

上記に加え盟友ハービーが写っている代表作という観点もありジャケット写真を掲載しましたが、本当なら“タイム・オブ・ジ・エッセンス”の人影のジャケットの方が私の美的センスには適っていると思っております。
パフォーマーにはいい演奏に集中してもらって、ジャケット・アートは苦労して本人が出るのではなく美女を使うとか、風景にするとか、もうすこしやり方もあるでしょうに!
グラミー賞にジャケットデザインを選考の考慮に入れる仕組みがあったら落ちたかも・・・。
そうすると受賞作は毎回美女の作品になっちゃうかもしれませんが、私はそれでもいいと思っています。(^^)v

演奏はさすがに世評どおりのことはあり、素晴らしいものと思います。小難しいことが好きなマイケル・ブレッカーらしいところがあるのもご愛嬌。
よく言われるように、主役のハンコックやブレッカー以上にハーグローブのトランペットの方がお客さんの拍手は多いですなぁ。

そりゃぁ厳しく鮮烈で、でもどこまでも伸びやかに展開するハーグローブのペットと、ブレッカーのベテランのカンロクのサックスでは楽器の差がある以上に、聴く方が感じるスリリングさが違いますから・・・。残念ながら。
特にソロの受け渡しで二人が繋がった場合には、非常に顕著に感じます。

改めて聴いて、確実にバトンは渡されつつあるのではないかと思いました。
ブレッカー・ブラザーズが出てきたころの書評に逆の立場でものごとが書いてありました(そのころもジャズを聴いてたけど、なんのことやらわからんというのが実情でした)が、逝くまでに役割を果たし終えられてよかったというべきなんでしょうかねぇ。
いずれにせよ新世代は先人のチャレンジの財産をより短時間で身に纏うことが出来るわけですから、ブレッカーの遺産を元手に更に価値ある財産を残していってくれることでしょう。

確かに次の世代にその足跡を遺してくれたブレッカーさん。
本当にお疲れ様でした。

さてさてタワレコでのことですが、ジャズのフロアの端にノラ・ジョーンズなど並居る斯界のスターによるニュー・アルバムが並んでいて、その只中にいきなり試聴用“専用SACD”プレーヤーなどというものを従えたディスクが一枚・・・。

“寺尾 聰さん”でした。

「ジャンルここかよー!」と思いつつ、一聴して閃いて買っちゃいました。
詳しくは近日中にまた・・・。

そんなことしてるから、レコ芸を買い忘れてしまったでわないかぁ~~~!!
モーストリー・クラシックはそのとき持って歩いてたので買ったけど・・・。軽いモンね。

というわけでスーパーで買い物したうえ、家に帰ってブレッカーの訃報をネットでチェック・・・と!?
   ・・・・!?!?!?!?!?
「納豆の効果のデータ捏造だとぉぉぉ!!」
スーパーでいつ行っても売り切れてた納豆が珍しく残っていたので、ホイホイと買ってきた私でございました。
いぇ、私は放送にかかわらずずっと納豆は好物で食べてましたので、なんで今年に入って何で品薄になっていたのかを嘆いていた側ですから構わないんですけどね!!

ヒドイですね。
ここにいたるまで誰も損はしていないかもしれませんが、それで済む問題ではない。
テレビ局の誰かが責任を取って、腹を切れば済む話でもないような気がします。
もちろん切らずに済む話ではありませんけど!!

我が国ってそういうところありますもんね。
殿様は死んだけど、実は再発防止策は考えられていないという・・・。

建築確認をはじめとするお役所の検査もそう、メディアの情報合戦もそう・・・。
かといって専門の検閲機関にチェック機能を盛り込むのが困難だからといって、「消費者(当事者)であるお前の責任で全部やれ」とか言われても困るし、生活の中でそういう検閲を経るべきものって“ないと困るもの”だし、悩ましいところですなぁ。
そんな国民に何の情報もなく“情報リテラシー”などという言葉だけが問いかけられているというのも、考えてみればおっかないし無責任ぢゃああーりませんか?

なまじ自分で取りに行って信じた情報が、あの国のスジからだったとしたら・・・。
「さてどこでしょう?」  なんてね。(^^)/

みんな健康を手に入れるために、一生懸命に情報を収集する労力も(納豆を買う)経済力も惜しまずに工夫してらっしゃるのね・・・。
のんべんだらんと納豆をずっと食べてきた私が、申し訳なく思えてきてしまいました。
そういえば、わたしも“にがり”は買いました・・・。
今でもラーメンとか作ると何滴かたらしてたりして・・・。(^^)v

しかしそんな私の不断の努力をあざ笑うかのように実際にはメタボだし、あんまり健康体ではありません。
それどころか、周りを見回すと企業戦士(私は堕落した足軽ですが)って、揃いも揃って不健康自慢をしているからフシギですよねぇ。
話を聞いてたら血糖値とかいろんな指標の適正値が自然と頭に入ってしまった・・・。
最近業務上の知識が覚わらなくなったと嘆いているのに、習わぬ経を読んじゃったというか、それほどまでに話題に出ることが多いということなのでしょう。

おとといも夕方「オレは糖尿なのに酒を飲んでるんだぞ!」とか言ってる人がいる。
それはそれで良いけれど「だから飲め」と都合で酒が飲めない(昔は飲んでたのに、飲んじゃいけなくなったのです!)私に強要しないでほしいわぁ~。
断ったらヤな顔しやがって!!
それと咳き込んでる人に「マスクしろ」とか説教垂れるときに、煙草吸わないでほしいわぁ~。
急に女子職員みたいになってしまった・・・。

それにしても、あと15年か・・・。
生き方にも影響を与えられることになったかもしれません。

合掌

グリンカ没後150周年特集

2007年01月21日 00時02分02秒 | 器楽・室内楽関連
★ショスタコーヴィチ:ヴィオラ・ソナタ
               (演奏:ユーリ・バシュメト(va)、ミハイル・ムンチャン(p))
1.グリンカ(ボリゾフスキー補筆):ヴィオラ・ソナタ ニ短調 
2.ロスラヴェツ:ヴィオラ・ソナタ
3.ショスタコーヴィチ:ヴィオラ・ソナタ ハ長調 作品147(遺作)
                  (1991年録音)

グリンカという作曲家が亡くなって今年150周年を迎えます。
この作曲家がどんな人かは正直全然知りません。しかしながらロシアの方だということだけで十分ではないでしょうか。

この記事は昨年のうちに企画していて、各音楽誌が周年記念記事を組んだとしてもそうそう早く出てきやしないだろうとタカをくくっていたのですが、まさかレコ芸にこんなに早く特集されて先を越されるとは思いませんでした。
この記事は2週間前には書き上げていて、手詰まりになったら使おうと寝かしておいたものだけに悔しいです。
鮮度の落ちる懸念が高くなったために、予定を変更してとっとと投稿しちゃおうかと・・・。
内容にはそれなりに、ほんとにそれなりにですが、思い入れはあるので、価値が下がったと思わないでくださいね。
そうしたら今日寝かした記事がまた時代遅れになったりして・・・。あー、悲しい!!

さてさて、私の持っているディスクでグリンカの作品が収録されているのは、多分この3枚以外にはないと思われます。
仮にあったとしてもオムニバスのディスクの中で、私が注目することすらできないような作品でしょうからここでは看過して差し支えないものと思われます。
そもそもここに挙げた盤すべてがオムニバス的な選曲になっているわけですから・・・。

しかしながら、没後150周年ということでこの企画をでっち上げられたことは意義があります。
なんとなればこのバシュメトのディスクを、ここで取り上げる絶好の口実となるからです。
まずもってこのディスクにおけるバシュメトとムンチャンのパフォーマンスに最大級の敬意を表したいと思います。

このディスクのどこをとっても表現上いわゆる弛緩したと認められるところはありません。
正直言ってタイトルナンバー(?)であるショスタコーヴィチはワケわからんところのある曲ですが、演奏者が非常な集中を持って何かを表現しているために聴こえない音、湧き出さない感情でも問題なく受け止めることが出来ます。
ロスラヴェツの作品ともども、これも私の中で寝かしてある曲のひとつであります。
もしも何らかのこの曲の良さが感じ取れるようになれば、私の音楽を聴く地平は飛躍的に広くなる、そんなことを思わされる作品ですし、そのために欠くべからざる演奏であるように感じます。
殊にロスラヴェツはピアノ曲集をかのアムランが手がけているなど、再評価の機運のある作曲家ですし、そうなった際にさらにこのディスクの価値は高まるものと思われます。

ここでの主役であるグリンカのヴィオラ・ソナタですが、これは一聴したときからもう虜になりました。素晴らしい曲ですが私はこのディスクで聴くまで知りませんでした。他にディスクがあるかどうかもわかりませんが、有名な曲なんでしょうか?

この曲はグリンカが作曲し始めたものの第2楽章を完成せずに亡くなった部分を、ボリゾフスキーという大ヴィオラ奏者が補筆完成させた作品とのことですが、チャイコフスキーのご先祖みたいな曲です。
とりわけ私がイメージ的に似ている点が顕著だと思うのは、チャイコの瞑想曲の第1曲“懐かしい土地の思い出”と呼ばれている作品42-1です。調性がニ短調と同一であることもあってかリズムの違いとかを超えて同様の雰囲気が醸し出されているように感じます。
特に弾き出しの音の質感などは、ヴァイオリンの個性や弾き方にもよるのでしょうが、本当によく似ているように思います。双方の楽器で対応可能な音域だからなのかもしれません。

この憂愁の旋律を、バシュメトとムンチャンは切々と歌い上げてくれます。
紹介を旨とするブログですが、ぜひ聴いてみていただいたらいいのではと申し上げていい曲・演奏だと思います。特にロシアものがお好きな方には、絶対とは言いませんがかなりの確率でアタリの曲だと思っていただけると思います。ただロスラヴェツとショスタコは、そのよさがわかるまでに時間がかかるかもしれません。
何かこのような曲を楽しむのにも聴きどころというよりコツがあって、ある日突然フッとなぜか聴こえなかった味わいが感得できるようになったりするものですので、よろしければぜひどうぞ。

★ムソルグスキー:展覧会の絵
                  (演奏:エフゲニー・キーシン)

1.J.S.バッハ/ブゾーニ編:トッカータ・アダージョとフーガハ長調 BWV564
2.グリンカ/バラキレフ編:ひばり
3.ムソルグスキー:展覧会の絵
                  (2001年録音)

充実した作品をコンスタントに世に送り出してくれているキーシンの作品ですが、私はこれがこれまでの彼のディスコグラフィーの中での最高傑作だと思っています。
それをグリンカの曲の紹介のためにここでご紹介するというのも、なんか本位じゃない気もしますが、天邪鬼の血も「いーぞいーぞ」と騒いでいるので喜んでご紹介したいと思います。

バッハのオルガン曲の編曲は、ピアノのほうが音の立ち上がりがずっと早いことによってきらびやかな効果が出ています。それをキーシンが弾くと正に神の光がそこにあったというような気分で、神々しさに溢れたものになるからフシギです。
闊達に惹かれる部分も、緩徐な部分も生き生きと生命力に溢れた演奏で、キーシンが凄いピアニストになったものだとつくづく感じ入ったものです。

展覧会の絵は前にも触れましたが、高橋多佳子さんのディスクが出るまでの私のスタンダードです。誤解のないようにと思いますが、多佳子さんのディスクが出たからといってこのディスクの音が一音たりとも変わっているわけではなく、私の感性が変わったわけでもありません。今でも、冷静な運びのうちにも演奏者の高揚感も展覧会場に誘われた聴き手のトキメキも最大限に期待できる素晴らしい演奏であることに変わりはありません。

キーワードのひとつめはテンポの良さだと思います。これはキーシンが突出して自然です。
また多佳子さんと共通している(私にとっての)美点は、ペダルによる音の作り方で残響を残すやりかたでシンフォニックに演出する場面が少ないこと。
私にはこうしたストレートな演奏の方がしっくりくるようです。
冒頭のプロムナードにおいてすら和音での推移になるところに至るやペダルで音を盛大に混ぜ合わせる演奏が多い中、たとえペダルを踏んで音色を作っても、あくまでも音色を作るためのペダルであって清潔に、無用に音を混ぜ合わせた響きを作らないことがこの曲の良さを素直に引き出せるような気がするのです。あくまでも私の考えですが・・・。

そもそも余りオモシロい曲だとおもっていなかったこの曲を、最後まで手に汗握るような感覚で聞きとおさせてくれたこと自体が凄いこと。
キーシンはやはり後世に名を残すべき逸材のピアニストだと感じ入った次第です。

そしてここでもご紹介が最後になりましたが、グリンカの“ひばり”。この曲もバラキレフにより編曲されています。

繊細な弱音の走句が憂愁の旋律を形作り、聴くものの心の襞に染み渡るこの曲も、『ロシア』を強くイメージさせる曲ですね。

バッハのハ長調の壮麗なエンディングと、展覧会の絵の単音のプロムナードを仲立ちする曲としては絶妙の選曲ではないでしょうか。
ベートーヴェンの月光ソナタ第2楽章をシューマンだかが“谷間の百合”と表現したのと同様に、異質の凄いパワーを持った楽曲の緩衝材としては親方が「よくこんな素材を見つけたなぁ」と感心してくれそうな“谷間のひばり”です。

演奏に関しては次の有森さんのそれと比較して語りたいと思いますが、有森さんの演奏が素直に楽曲の響きを浮き出させることを目指していると思われるのに対して、キーシンはテンポも曲が自然に流れるようやや速めに取って、クレッシェンドやアチェレランドといった揺らしをかけることによって曲の流れをダイナミックに、或いは劇的に表情付けして聴かせてくれます。
録音も、キーシンのほうが残響を巧みにかつ多めに取り入れているために響きの透明性は失われても、ホールで自然に聴く感覚にはこちらのほうが近いものがあります。

“ひばり”というタイトルでなければキーシンの演奏は雰囲気満点で、ロシア的ロマンティシズムが横溢している素晴らしい奏楽だということにためらいう理由はありません。
でも、この演奏だと“ひばり”というにはちょっとスケール大きすぎという感じもします。
タイトルに拘らなければ素晴らしくセンシティブにしてスケールにも事欠かない名曲・大名演です。

総括すればキーシンはやはりすごいと。演奏の雰囲気が作為的でなくどこまでも自然なのです。この自然さは誰にもまねできない、そういう類のものだと思うので本当にかけがえのない芸術家に成長したものだと感じさせられるのです。

★プロコフィエフ/ピアノ・ソナタ第3・6&8番
                  (演奏:有森 博)

1.グリンカ=バラキレフ:ひばり
2.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調 作品84
3.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第3番 イ短調 作品28
4.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 作品82
5.プロコフィエフ:悪魔的暗示 作品4-4
6.グルック=ケンプ:精霊の踊り
                  (2002年録音)

何か連日出てきていただいてしまいましたが、たまたまです。

このグリンカ“ひばり”は、響きの透明さがやはり印象的です。
ピアノ線からハンマーによって放たれた美しい無垢な音が、何の障害もなく隣り合わせの音符の音と交じり合い、または並列して耳に届けられる快感が味わえます。
最後の精霊の踊りもそうですが、静謐・清潔な絶品の演奏だと思います。
こうした印象形成にはどんな音で録るかという録音プランの方向性も大きく関与しているはずです。CDのディスクを作るということはやはりいろんなセクションの人の総合芸術なのだと。

少し脱線しますが、だからこそ演奏家自身もプレイバック音をしっかりと聴いていないと自分の演奏ではないようなシロモノが巷に溢れかねない、ということになるのではないでしょうか。
マスターテープからのフィードバック音については、自分の演奏している音が正しく入っているかだけではなく、自然な雰囲気か、それとも自分の主張がより伝わりやすい雰囲気かということなどを、ちゃんと自分の耳で確かめる必要があるのだと思います。
そうでないと、自分の音を素材にしたエンジニアやトーンマイスターの作品になってしまいかねません。
もとより分業している以上、そうした要素は多かれ少なかれある訳なので、しっかり全員が最終的なフォーマットに落とし込まれたものに納得がいく状態かどうかを確かめて市販化しないといけないと思います。

話を元に戻して、このディスクも演奏と録音のベクトルが高次元で融合された本当に素晴らしいディスクだと思います。
たとえ私にとってプロコがちんぷんかんぷんで、わかる言語が最初と最後にしか出てこなかったとしても・・・。

これでグリンカの特集を終わります。当初の予定から1話完結なので立派な特集であると自負しております。(^^)v

1990年のショパコン入賞者(邦人編)

2007年01月20日 00時22分15秒 | ピアノ関連
★Etudes
                  (演奏:横山 幸雄)
1.ショパン:12の練習曲 作品10
2.ショパン:12の練習曲 作品25
3.ショパン:3つの新しい練習曲
                  (2000年)

外国人編に続き邦人編です。いゃ~凄いですね、この顔ぶれ。。。
入賞者の半数近くを邦人で占める勢い。日本人のレベルが高いのか、純粋にエントリーしている人の割合を反映しているだけなのか・・・?

この大会はご承知のように高橋多佳子さんも入賞されていますが、別記事でいっぱい出ていただいているので(ディスク紹介はサインをもらったものしかしていないので、実はまだ少ないのですが順次出てくると思います。)今回はお休みいただいています。

まずは、さるかたにお詫びを。。。

及川さ~ん、すいません。
写真が3つまでしかアップできなかったんで、あなただけあぶれてしまいましたぁ。
入賞3名の男性の中であなたが一番男前だったんで、私のやっかみがはいったんですよぉ~~。
もちろんおじさんの純情なキモチとして、女性の田部さんをはずすわけにいかないしぃ~。
だから許してつかーさい。

それにしても、多佳子さんに先のケナーやサジュマンも含めて、この面々にどうやって順位をつけろっていうんでしょうかね。審査員のかたがた、ホントよくやりましたよね。
どこのなにが決めてだったんだろう???

しかしこれらのみなさんがたは、多佳子さんを始めとして家族(かみさんや子供を含めて)に実演でもディスクでも感銘を与えてくれた人たちばかりなので、私は感謝するばかりでございます。

やはりトップはこのかたに切っていただくのがスジだと思いますので、横山幸雄さんのショパンのエチュードから。

このディスクはタイトルにショパンの名前がないモンで、曲名のところに全部ショパンと入れなくちゃいけなくなってしまったではないか!
・・・などとこちらの事情の勝手ないいがかりをつけてと・・・。

以前リストの超絶技巧練習曲集での文字通り鮮やかな超絶技巧を絶賛させていただきましたが、ここでも凄いモンです。
普通の人の技巧レベルを16ビットのCDだとすると、何倍のオーバーサンプリングという比較ではなく、DSDのSACDフォーマットにヴァージョン・アップされてますっていうぐらい凄い。

よくここまで弾けるモンですねえ。「唖然として言葉を失うばかりかわけもわからず笑っちゃう」と仰る方を知っていますが、私もそのとおりですねえ。とにかく凄いことをしているのに聴き手には全くストレスがない。演奏なさっている横山さんにストレスがあるかどうかは別問題ですけど。
この“ストレスがない”という点については、ポリーニよりもボレットよりも凄いと思います。

まだ若い学生さんにはこの演奏を聴かせてあげたら、指の運動・ペダルの効果などおよそピアノの音を出すことに関するゴールイメージが極めて鮮明に沸くんじゃないですか?
いや聴いた瞬間に、諦めて挫折しちゃう人が出るかもしれないからやめたほうがいいかな。
事実、横山さんは調律・整音にも通じていて、コンサート時の音の調整時など響板の角度などまでスタッフと一緒に意見交換してらっしゃって、その見識の確かなことにはその道のプロも一目置いているとか。
やっぱり若い人のお手本ですね。

でも私のホンネはここまで突き抜けてうまくなくていいから、なんかこんなことで苦労しましたっていう痕跡が残っていてもいいのではないかと思っちゃうんですよね。それが味わいってものになるとも思うので・・・。
でも革命や作品25-2など運動性能を求められる曲での演奏は、人類のひとつの到達点でしょうね。

さてこのディスクには横山さんのサインがあるとおり、子供も入ることが出来るコンサートに家族で行ってそのときにいただいてきました。主語は「かみさん」ですが。実際かみさんは横山さんのファンで彼の他のショパンのCDも持ってるし、矢部さんとのデュオのCDも持ってます。彼女だけでコンサートに行ってサインをもらってるくらいだし・・・。

私が多佳子さんに入れ込む以前に、彼女は着実に行動してましたね。私ほど入れ込むヒマはもちろん取れないでしょうが、純粋に彼の音楽を聴いて心地よくなっている。確かにかみさんが望む効能は、横山さんの演奏に良くも悪くもすべてあるから・・・。否、横山さんの演奏にしかないといいなおした方がいいかもしれません。

ところで子供も聴けるコンサート、両親は一生懸命聞いたんですが、子供はまだ小さかったので途中で寝ちゃったんですね。それほどまでに心地よい演奏だったのでしょう。
家で私がピアノをひくと、サイレントモードにしていても階が違うところで寝ている娘が「カタカタがうるさい」と文句を言うぐらいですから、音が出ていて安眠できるというのは凄いことです。
え、プロなら当たり前ですって!?

サインをいただく際(かみさんは子供を抱っこしてたので、私がもらって来いと言いつけられた)に素晴らしい演奏への謝辞を申し上げたところ「またお運びください」だって・・・。
凄くものごしがやわらかくて、ここでもストレスを感じさせない方でした。
小市民とは住んでる世界が違うのかもね。

後にご紹介する有森さんも子供向けのコンサートをなさっているし、同世代の世界的に名のある演奏家の方がそういう努力をしていただいていることに子供を持つ親として感謝ですねぇ。

★メンデルスゾーン:無言歌集
                  (演奏:田部 京子)

◇メンデルスゾーン:無言歌集より25曲抜粋
                  (1993年録音)

田部京子さんが多佳子さんと同じコンクールに入賞されていたことは、よくコメントでいろいろご教示下さる“アル中のトスカ兄さん”さんに、それこそコメントで引用いただいたサイトを見て初めて知りました。
“アル中のトスカ兄さん”さん、ありがとうございました。

実はこのディスクやシューベルトのD.960のディスクが発表されたころは、今高橋多佳子ファンでいるのに近いぐらいの状態で田部京子さんを聴いていました。
もちろん今でも発表される盤はちゃんとチェックしています。ただその感想のもち方がちょっと変わってきてしまってまして、前にも書きましたが、どんな曲であってもその内容よりも「田部京子とはこんなにも弾ける人なんだ」ということに注意が行ってしまいがちなのです。

「それで何の文句があるのか?」というご意見が出そうですが、ニュアンスとしてご理解いただきにくいと思うので敢えて突飛な例えをさせていただくことをお許しいただきたいと思います。
田部さんの昨今のシューベルト(シベリウスやドビュッシーよりも傾向が顕著なので)は『鉄面皮』であるような気がするのです。ガンダムのモビルスーツを着てるみたいといったほうがいいのかも知れません。
どっちもわかりにくいですか・・・?
要するに完全成型で私の感覚が入り込む余地がないというイメージなのです。
その下に田部さんご本人のようなステキな心象があるに相違ないんだけど、透明度100%の硬質アクリルケースで覆われていて手にとることができないといった風情。
伝わっていますでしょうか?

それがこのディスクのころは演奏のレベルの高さを備えながら、「この曲のよさを私なりに表現してみましたがいかがでしょうか、お気に召しますでしょうか?」といった感じで楚々として非常に好感度が高いのです。
それと比較すると現在は「この曲の“私の演奏”はいかがでしょうか?」という感じになる。それがまったく隙なく凄いもので心情としては敬していながら、ちょっと遠くに感じられてしまっているということです。
むしろ私が引いちゃっているのかも知れません。

とはいえここまでさまざまな楽曲を手の内に入れられるのは容易なことではありません。やっぱり素晴らしいピアニストだと思います。

ところでこのディスクはそんな楽曲の詩情を、全世界共通語を使いながら日本人にも判りやすい形で自然と引き出していることにかけては随一のものであるといえましょう。
メンデルスゾーンの無言歌集のうちでは最も聴きやすい盤だと思います。今聴きなおしながら書いてるんですけど、本当になんという温度感!!
田部さんはそこでも凛と立ってるんですが、思わず近寄って声をかけたくなってしまう親しさが感じられるような気がする・・・。おじさんになってからは、なおさらそれを強く感じる!!

先般でたザラフィアンツの盤などは、彼の持っている世界観とピアノの玲瓏な音色で勝負しているまったく違ったアプローチによるもの。
そういった好対照なディスクを含めてさまざまなアプローチがあるなか、曲本来の良さをフルに生かしたという点で王道を行く作品は、いつまでもこの曲の代表盤たりえると私は信じています。

★プロコフィエフ/ピアノ・ソナタ第3・6&8番
                  (演奏:有森 博)

1.グリンカ=バラキレフ:ひばり
2.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第8番 変ロ長調 作品84
3.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第3番 イ短調 作品28
4.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 作品82
5.プロコフィエフ:悪魔的暗示 作品4-4
6.グルック=ケンプ:精霊の踊り
                  (2002年録音)

この方の演奏も横山さんとは違った意味で鮮やかですね。
もちろんテクニックも凄いんだけど、出てきた音の響きにこそより意が注がれているという感じでしょうか。

ディスクに関してはすごく素晴らしい演奏だと思うのですが、肝心の私がプロコが実は苦手なもので・・・。それを覆すわけにはいきませんでしたね。でも、着実に私の中に経験値として蓄積されているので、いつか開眼する日がくるでしょう。
なにしろ私にとってプロコは多佳子さんやソコロフの聴くだに凄い演奏とわかる7番の演奏を聴いても、その中身はまだ摑みきれないというぐらい次元の違う作風の作曲家ですから・・・。相当なパラダイムの転換が必要なように思います。

ですから最初の感想は、ポゴレリチの演奏によってわずかに私にレセプターがある第6番、作品82の戦争ソナタの最初の曲から感じた印象です。一応注釈を・・・と。

それよりも最初と最後に置かれた小品における響きが繊細で・・・、なんと“感覚”に訴えてくることよ。私はこれだけで大満足です。

有森さんの子供向けコンサートにも行きましたけれど、その際覚えていることが3つ。

ブルグミュラー25練習曲から5曲弾かれて“つばめ”がもの凄かったです。当たり前ですが超スムーズで、同じ曲がこうも表情豊かになるものだと感じ入りました。
なにしろこれらの曲は家での私の主要レパートリーなもので。。。
私がこの道のプロなら店じまいだな!(比較するなと殴られそうですな)

後半最後に戦争ソナタ(7番か8番かは忘れました)を弾くと会場に告げて「ちょっと難しい曲で30分ぐらいかかる」と正直に告白され「“えーっ”とか言わないで我慢して聴いてね」と嘆願されたにもかかわらず会場は“えーっ”となったこと。
演奏は大熱演(全部の曲が大熱演だったような気もする)で素晴らしいものでした。
ディスクだと「なんだこりゃ」となる曲でも、実演だと目を見開かされてしまうことがありますがまさにこれは典型ですね。ただし私にとってですが・・・。

最後にアンコール。
“主よ人の望みの喜びよ”に始まってシューベルトの歌曲のトランスクリプション、ショパンの作品25と作品28の終曲など、何回もカーテンコールから出てくるたびに弾いてくださって、大人の私も嬉しかったし子供達もむしろ喜んでいたように思います。
5曲以上弾かれたんじゃなかったかな。「調子に乗りすぎました」と仰っていましたが、そんなところにこそ私はむしろ惹かれたりします。
堅苦しいコンサートもいいですが、子供向けということを抜きにして、アカデミーの権化みたいな因習を礼賛するような風潮はご再考願いたいと思っております。
どんなギョーカイにもそういうのってありがちですけどね。

ルロイ・アンダーソン大好き

2007年01月19日 21時00分25秒 | オーケストラ関連
★ルロイ・アンダーソン;グレイテスト・ヒッツ
                  (演奏:アーサー・フィードラー指揮/ボストン・ポップス・オーケストラ)
◇ルロイ・アンダーソンの名曲16曲
                  (録音年不明、1992年リ・プロデュース盤)

私が幼少のみぎり、幼稚園の音楽教室に通っていたのですが、そこでは通常の数え歌やらなにやらに混じって、グレン・ミラー・オーケストラだのこのルロイ・アンダーソンもあわせて教わったのです。

“グレン・ミラーとはまたなんで”という感じですが、お陰で私はビックバンド・ジャズも好きですよ。
ソリストたちがすくっと立って右向いて左向いてというのも好きです。
何故かって・・・それを音楽教室でみんなで真似てたからですよ。
でもグレン・ミラーの音源はレコードとカセットしかない、それも留守宅にしかないので今日はルロイ・アンダーソンへのオマージュです。

そうそうついでに書いておきますが、私の幼稚園音楽教室で教わったものとして記憶に残っているものに「行進曲」もあるんです。結構ハマりましたねぇ。
LPレコードの片面に10曲ずつ入っている行進曲だけのレコードを買ってもらって、結構聴いたなぁ。
実家の家の中をひっくり返したら出てくるんだろうけど、どこいっちゃったかなぁ?

最も好きだったのは、戦場にかける橋“クワイ河マーチ”と呼ばれている曲ですね。
軍艦マーチも好きですけど、頻繁にかかっている憩いの場とされているところには出入りする習慣がありません。

まぁすべてに共通しているのは、それほど長くない曲ばかりということでしょうか。
幼稚園児向けの教材としては適切かどうか判りませんが、ことこの点については当を得た選曲であると思わないわけでもありません。

この3つのカテゴリーには順位をつけるわけには行かないそれぞれ大切な財産ですが、もっとも長きにわたって私を魅了しているのは間違いなくルロイ・アンダーソンでしょう。
このジャンルは難しいですよね。
ジャズではないし、クラシックというにもちょっと違う。
かといってリチャード・クレイダーマンやらポール・モーリアとも全然違うので、これもジャンル:ルロイ・アンダーソンということで整理するのが最も合理的なのかもしれません。

とはいうもののルロイ・アンダーソンのファンはクラシック音楽ファンに多いのではないでしょうか。パフォーマンス自体はクラシックに近いような気がしますし。

そしてこのディスク、世評の高いアーサー・フィードラー指揮のボストン・ポップスです。
とにかく全開で快走した演奏が聴かれます。
特に“トランペット吹きの休日”なんか血沸き肉踊るっていう感じで疾走しますね。
恥ずかしいことに、この曲がトランペット3本でソロをとっていることに初めて気がつきました。何度聴いたかわからない曲なんですけどねぇ。

そもそも休日をペット吹きがつるんでとっているとは考えてもいなかったもので・・・。
有給はみんなでとるものではなく、ひとりでそれぞれの事情で取得するものだと小さなころから思っていたというか、事実そういうものですから。

そう言い出したらオケが全員バックアップしてるわけですから、本当は“トランペット吹きの休日”ではなくて、“オケ全員の休日:フューチャリング・ペット吹き”というのが正しいということではないのかということになってしまう・・・。
残念ながら“Bugler’s Holiday”のほうが間違いなく語呂はいいですね。

★タイプライター&トランペット吹きの休日 ルロイ・アンダーソン・ベスト・ヒット
                  (演奏:レナード・スラットキン指揮/セントルイス交響楽団)

1.舞踏会の美女
2.ファントム・レジメント
3.春が来た
4.そり滑り
5.プリンク・プレンク・プランク
6.ブルー・タンゴ
7.忘れられた夢
8.トランペット吹きの休日
9.ペニー・ウィッスル・ソング
10.クラリネット・キャンディ
11.馬と馬車
12.トランペット吹きの子守歌
13.フィドル・ファドル
14.ジャズ・ピチカート
15.ジャズ・レガート
16.シンコペイテッド・クロック
17.サンドペーパー・バレエ
18.タイプライター
19.ワルツィング・キャット
20.プロムナード
21.サラバンド
22.セレナータ
23.小さなバラード
24.アリエッタ
25.ホーム・ストレッチ
                  (1993年~1995年録音)

こちらのディスクではすべての曲目をご紹介してみました。いかがですか?ご存知の曲も少なくないのでは・・・。
“スレイ・ライド(そり滑り)”なんて、今の時期聴いた覚えがないとは言わせないぞみたいな曲ですよね。ディスクのタイトルである“タイプライター”“トランペット吹きの休日”ももちろん小さいころから大好きでしたが、最も好きな曲は“ワルツィング・キャット”です。子供のころは“踊る子猫”という邦題だったような気がするんですが、ここでは英語読みそのままとなっていますね。

ところでPC全盛の時代、タイプライターなんてこの曲を演奏する楽器としてしか残らないんじゃないかとも思ったりしますが。
コンサートで演奏するときにこれはやはり打楽器奏者が担当するんでしょうかねぇ。
でも凄いですよコレ。打楽器奏者の協奏曲って殆ど聴いたことがないのですが、カデンツァはさすがにないですが、紛れもなくタイプライター協奏曲ですよね。

どのディスクにもタイプライターをカシャカシャ・チンしている人の名前は出ていませんが、ソリストとして名前を出すべきだと思います。
後先で恐縮ですがフィードラー盤の“トランペット吹きの休日”では、3名のペット吹きがソリストとしてちゃんと記されているのですから。

さてスラットキンのディスク全体の印象ですが、音楽的に聴けるようにとの配慮が全面的に感じられます。
フィードラー盤がいけいけどんどんというイメージなのに対し、押し出し感は殆どなく音場を奥のほうに展開するように演奏もされており、録音もそのようにされています。要するにゴージャスでノーブル、とことんゆとりがある演奏です。これなら仕事の途中でBGMとしてかかっていても心地よいのではないでしょうか。

一例として“トランペット吹きの休日”では、雲ひとつない青空の下小高い岩山に登り、眼下の荒野に響けとばかりに吹いているフィードラー盤と、どこまでも抑制した表現で隣のソリストとのバランスを重視して内省的な演奏とさえ感じられるスラットキン盤。
“シンコペーテッド・クロック”の最後のフィドルにしても、勢いのあるフィードラーとお上品なスラットキン。

いずれもそれぞれの持ち味が存分に発揮された好対照の名演で、気分次第でいずれも楽しめるというのは嬉しいですね。

★DANCING DOLL (踊る人形)  
                 (ヴァイオリン演奏:礒 絵里子)


1.3つのプレリュード                  (ガーシュウィン/ハイフェッツ)
2.思い出                         (F.ドルドラ)  
3.踊る人形                       (ボルディーニ/クライスラー)
4.まるでバラのようにすばらしい            (ネヴィン/クライスラー)
5.アモローソ                       (フィシェル)
6.行進曲~3つのオレンジへの恋より         (プロコフィエフ/ハイフェッツ)
7.なつかしい土地の思い出 作品42          (チャイコフスキー)
8.金髪のジェニー                    (フォスター/ハイフェッツ)
9.そんなことどうでもいいさ~「ポギーとベス」より (ガーシュウィン/ハイフェッツ)
10.ジャズ・ピチカート~ジャズ・レガート        (L.アンダーソン/今野・阿部) 
11.イージー・ウィナーズ                  (ジョプリン/パールマン)
12.この素晴らしき世界                 (ヴァイス・タイル/今野・阿部)   
13.星に願いを                       (ハリー・レイ/今野・阿部)

以前にもご紹介しましたが、あるときはTiaraのヴァイオリニスト、またあるときはデュオ・プリマのおふたりのうちの一人、しかしてその実体は“礒絵里子さん”によるソロアルバムです。

アンダーソンの“ジャズ・ピッツィカート~ジャズ・レガート”が収録されています。
これを1曲と捉えるか、2曲と捉えるかで曲数が変わってしまいますが、フィードラー盤は礒さんと同じで1曲と数えています。

さて、オーケストラの編成とは違ってもとても魅力的に聴こえるアンダーソンの楽曲もよし、思い入れのある曲を集められただけあってとっても洒脱に弾いておられる礒さんもステキだし、夏以来聞いている結構な一枚です。

礒さんのブログでルロイ・アンダーソンの隠れファンがいっぱいいると教えていただいたことで、自信を持って記事に出来ます。
礒さんありがとう。(^^)/

しかし同じような現象がニューミュージックにもあって、いっときオフコースを聴いているということを言いづらかった時期がありましたねぇ。
隠れキリシタンみたいになってて・・・。
そのころ私はオフコースを聴いていなかったけど、アコギで弾いて歌ってました。(^^)v

グリーグ没後100周年特集(その3 モーツァルト2P編曲編)

2007年01月18日 23時58分08秒 | ピアノ関連
★モーツァルト:ピアノ・ソナタ&幻想曲~グリーグによる2台ピアノ版
            (演奏:エリーザベト・レオンスカヤ、スヴャトスラフ・リヒテル)
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト作曲~第2ピアノ伴奏譜:エドヴァルド・グリーグ
1.ピアノ・ソナタ第15番 ハ長調 K.545
2.幻想曲 ハ短調 K.475
3.ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.533/494(第18番)
                  (1993年録音)

不思議なことが2つあります。
何故グリーグはこんなことをしたのかということと、何故かのリヒテル(とレオンスカヤ)がこの曲を録音したのかということです。

はじめの疑問には、ライナーノートに書いてある、書いてある。(^^)/
グリーグ自身も「当初は教育目的であった」と、私のような疑問が当然起きるだろうと想定し予防線張りまくりだったようです。2台ピアノや4手ピアノで音楽教育がなされるのが主流であった当時の事情から、自身の野心を前面に出すのではなく偶然の産物のように説明するシナリオは準備していたようですね。

しかしながら、実演に触れてグリーグの生きていた時代における当世風な響き、グリーグがその空気を吸っていたノルウェーの環境に適合した響きを実現できているという、手応えも摑んでいたようであります。

でもグリーグさん! 私にはやっぱり余計なことと思えてしまうのですが・・・。
というわけで、ごめんなさい。
いえいえ、私にもノルウェーの訛りはしっかり聴き取れるのですよ。でもですねぇ~、敢えて方言の合いの手を入れなきゃいけないという必然性が、どうしてもわからないと言ってるだけなんです。

2つめの疑問についてはディスクのオビに、リヒテルがかねてこの譜面に注目していたということが書かれているだけで、それ以上のことは私にはわかりません。

そしてパートナーがレオンスカヤであることを考えるとき、実は25年ぐらい何やかや組んで活動をしてきたレオンスカヤと何か共同の“目に見える仕事”を残しておきたくて、このレパートリーを選んだのではないかという気もしないではありません。
確かに晩年には、フィリップスだけでなくいろんなレーベルに録音を遺しているリヒテルですが、スタジオ録音を残しているのはごく限られています。それもどちらかというとレオンスカヤのホームグラウンドであるワーナー(テルデック)のディスクであることを考え合わせると、レオンスカヤの録音プランにリヒテルが乗っかったようにも見えるのですが、考えすぎでしょうか?

コチシュもリヒテルに乞われて練習にステージに相方として長年(といってもレオンスカヤのほうが長い)活動をともにすることがあったけれど、このようにメジャーなところで形として残っているものはないと思います。
こういうときの相手はやっぱり女性だよね、ってコトじゃないんでしょうか?

さて演奏はといえばもちろん長年のパートナーだけあって、息もあってるし悪かろうはずはありません。丹精ながら生気にもことかかない、いわゆる名演奏であるとおもいます。
しかしながら見紛うことないモーツァルトの旋律ではあっても、これを俄かにモーツァルトと言っていいのかという思いをどうしても禁じえません。
2台ピアノになっているだけあって、確かにシンフォニックにはなっています。
でもくどいようですが、初心者のためのやさしいソナタをシンフォニックにする必要があるのかと・・・。

実は解説にも書いてあるのですが、リヒテル・レオンスカヤのアプローチは中途半端なモーツァルト曲ではなく、モーツァルトを下敷きにグリーグの作曲した新しい曲と割り切ったうえで演奏しているということには首肯できます。
モーツァルトの曲じゃないということであれば、違和感はそれほど。。。

やっぱりこの旋律でモーツァルトじゃないと考える方に無理があるという結論じゃだめでしょうか!?

ご承知のとおりリヒテルは既に鬼籍に入っています。
キャリアの最後になって、記念にいいものが創れてよかったですね。
ジャケットの写真を見るだけで、功成り名遂げた父娘という感じでほほえましい思いがいたします。

それでも私なら、モーツァルトの2台のピアノのためのソナタとか、シューベルトの4手のロンド、幻想曲を残してもらっていたほうが、みんながハッピーだったかななどと思ったりします。
ん~、でもリヒテルさんがこれがいいって言うのなら。。。(^^)v

この特集3回目ですが、いよいよグリーグにぶん殴られるか化けて出られるかしそうになってきましたね・・・。
読んでるみなさんの枕元にも、グリーグの姿が現れるかもしれませんがお許しくださいね~。