SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

礒 絵里子 ヴァイオリン・リサイタル “ベルギー・コレクション”

2007年11月27日 23時15分03秒 | 礒絵里子さん
★礒絵里子ヴァイオリン・リサイタル “ベルギー・コレクション”
 《デビュー10周年記念 礒 絵里子 
        ヴァイオリン・リサイタル・シリーズ 第1回》
            (演奏:礒 絵里子(vn)、岡田 将(P))

 《前半》
1.ヴュータン:失望 作品7-2
2.イザイ:遠い過去 作品11-3
3.イザイ:悲劇的な詩 作品12
4.ヴュータン:ラメント 作品48-18
5.ヴュータン:ロンディーノ 作品32-2
6.ヴュータン:アメリカの思い出 作品17
  (ヤンキー・ドゥードゥルによるおどけた変奏曲)

 《後半》
7.ルクー:ヴァイオリン・ソナタ ト長調

 《アンコール》
8.イザイ:子供の夢 作品14

    (2007年11月27日、東京文化会館小ホール)

こうみえて(見えないか・・・)私とてちゃんと仕事に就いている。
今回のリサイタル、何としても聴きたいと思っていたが、今日に至るまで行けるかどうか判らなかった。
ともあれこうして出向くことができ、念願だった礒さんの演奏によるルクーのヴァイオリン・ソナタを堪能することができて本当に満足している。(^^)/


昨晩はこの時間を作るためにほとんど完テツ状態で作業をした。
おかげで今日の昼間は眠くて仕事にならなかった・・・が、とにもかくにもリサイタルには行けてよかったということである。

東京文化会館小ホール前の案内板・・・前半はこのドレス。(^^;)
     

この圧倒的な睡眠不足は、きっとリサイタル中の私の状態にも影響を及ぼしていたであろう・・・。
オチはしなかったが、前半は礒さんの音を漏らさず「浴びた」記憶はあるものの脳があまり適切に反応していなかったようである。
否、脳への伝達系に問題があったのかもしれない。

要するに、いつもは個々の曲へのコメントをくどくど書いているが、前半は多分はじめて聴いた曲ばかりだし、次の総論的な印象以外にどうしても文章にできない・・・ここまでの字数を使ってその言い訳をしたいだけである。(^^;)


このリサイタルは多佳子さんたち、あるいはデュオ・プリマとしてのコンサートのときとは違って、最初から最後まで1言もなく純粋に音楽だけを発信する体裁(こっちが普通なのかな?)で行われた。
もちろん、礒さんは気合の入った圧倒的な演奏で聴衆を唸らせたわけであるが。。。(^^)v

前半で気づいたこととして、まず最初楽器の響きがあまり伝わってこなかったように思えたことがある。
雨が降っていなかったからか・・・と思いもしたが、イザイの半ば辺りからだんだん音に艶も張りも出てきたような気がして、ヴュータンの楽曲に戻って後は、いつもと同じ私が「この音」と思って止まない音色が現われたので安心したことが上げられようか・・・。

前半をしりあがりに盛りあげていくことによって、後半のソナタに気分を高めるという意味では、それも綿密な計算のうち・・・なのかもしれない。(^^;)


そして楽曲については、それぞれに独特なメランコリーを湛えており『知られざる名曲』というに相応しいものばかり。

ベルギーに留学をされていた礒さんならでは・・・かどうかは知らないが、間違ってもお手軽な曲ではないけれど晦渋でもない。。。
一見禁欲的にも思えるが、よく聴くと退廃的とも聴こえるしエロス&タナトスを感じるとも言えるし固有の味わい深さをもっていた。

特にイザイの曲などヴァイオリンとピアノでポリフォニックにびみょ~にずれたことを言っているようで、そのあわいにたち表れる感情の揺れみたいなものに、きっとベルギーってこんなイメージなんだろうな・・・という思いを感じた。
もちろんヴュータンの曲も聴かせるものだったし。。。

もっとベルギーの・・・というよりこの2人の・・・音楽を聴いてみたいと思わせられる楽曲であったし、そう思わせられる演奏でもあった。


ヴュータンの“アメリカの思い出”は新津美術館で多佳子さんと演ったときに、アンコールで奏されたもの。
新津ではアフターアワーズで思わず会場を気楽かつ盛大に沸かせるように楽しく弾かれていたのに対し、今回は、気分が盛大に盛り上がったのは同じだが、なぜか随分格調高く弾かれているように思ったのは思い過ごしだろうか?

やはりプログラムの本割り・・・それも前半の締めくくりに配されている曲であるから、余韻を残したかったんだろうとは察しがつくのだが・・・。


下の写真は、礒さんのサイン入りプログラムである。(^^;)
     

冒頭写真は、そのサインをいただいている時に撮らせていただいたもの。談笑中の素敵な笑顔のところでシャッターを切ったはずなのだが、携帯なんでシャッターのタイミング、解像度、手振れ補正などさまざまな点において限界があった模様・・・。
後半はこの衣装にお召しかえであった!(^^)/

さて、前半最後にヴィルトゥオジティ全開で盛り上がった気分・・・どれほど盛り上がったかは、休憩時間に入った手洗いで「アルプス一万尺」をハナウタで歌ってた人が2名もいたことから明らかである・・・を引き継いで、メインディッシュというべきルクーのヴァイオリン・ソナタに期待がいや増す状況となっていた。

そして果たしてその演奏には全編完全にノックアウトされたと言ってよい。
主催者へのアンケートに「来てよかった」とまで書いたぐらい、気に入った・・・。(^^)v

この曲だけはずいぶん前から知っていた。
それも結構しっかりと・・・グリュミオーの2度録音したうちの後の録音のほう(伴奏がヴァルシのもの)を随分昔から持っていたから。
ただ、この演奏はひたすらセンシティブで美しいグリュミオーのヴァイオリンの音色に対して、必ずしもピアニストが鋭敏に反応していない・・・他にもアルペジオが強いと思われたり、伴奏というよりも、自分勝手に思うとおりに弾いているようなところがあるのも事実。

礒さんたちはそれをどのように解釈してくれるのか、今日はそれがもっとも関心ある楽しみであった。
聴衆のいる生演奏、NHKが録画しているなどの緊張感(演奏中は感じなかったけど、礒さんが気にしていないわけはないと思う)であることが幸いしてか、グリュミオーが考え抜いて出した弱音から若々しさがやや聴き取りにくかったことに比して、礒さんはずっとストレートに曲の機微を伝えながら若々しさも感じさせて素敵であった。

冒頭の夢見がちな若者の空想をたどっているようなところ、半ばピアノとともに盛り上がって語りかけてくるところ、(会場に聴きに(応援に?)来ていた)高橋多佳子さんが「泣けそうにいい」と評した第2楽章・・・(中略(^^;))・・・最後の高らかな終結に至るまで、雄弁でありながら礒さんの伴奏であることを止めなかったピアノと有機的に反応してモニュメンタルな演奏を聴かせてもらうことができた。
もちろんグリュミオーとはちがった流儀ではあるが・・・私には礒さん流のほうが好みだな。日本人だから・・・かもしれないが。(^^;)

ちなみに、私は出だしの入りの瞬間にゾクッと来て、それで最後まで参ってしった。(^^;)


そして、アンコールはイザイの“子供の夢”であったが、これも件のグリュミオーとヴァルシのアルバムに収められていたので知っていた。

ただテンポがぜんぜん違ったために、最初はそれとわからず印象的な子守唄だな・・・と思ったが、いやどこかで聴いたような・・・という感じで思い出したのである。
タイトルからすれば“子守唄”であって何ら可笑しくないと思われるが、礒さんと岡田さんのコンビはアンコールであるにもかかわらず、入念で入れ込んだ表現を聴かせてくれて、この曲も新しい魅力を教えてもらったような気がするブラヴォーな演奏が圧巻であった。


これほどの内容のリサイタルであったから、終演後に、シャイ・・・だと思う・・・な礒さんが「終わった・・・ホッ。」という表情ではなく、あれだけの笑顔で来場者と談笑し、満足そうにしてられたのも頷ける。
10周年記念のメモリアルとして、会心の演奏ができたと感じているのに違いない。



礒さんおめでとう。(^^)/
素晴らしい演奏をありがとう。
そしてこれからも頑張って、素晴らしい音楽を届けてください。

Art Museum SKY Concert

2007年11月19日 04時23分47秒 | 礒絵里子さん
★Art Museum SKY Concert
          (演奏:礒 絵里子さん(vn)、高橋 多佳子さん(p))
 《前半》
1.エルガー:愛の挨拶
2.クライスラー:美しきロスマリン
3.クライスラー:中国の太鼓
4.篠原敬介:Forest of the Piano
5.ショパン:スケルツォ第2番 変ロ短調
6.ラヴェル:水の戯れ
7.ヴィヴァルディ:「四季」より『秋』
 《後半》
8.フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調
 《アンコール》
9.ヴュータン:アメリカの想い出
10.ハーライン:星に願いを
          (2007年11月17日、於新津美術館アトリウム)

家人と一緒に新潟の新津美術館にコンサートを聴きに行った。
この日、日中は雲ひとつない快晴であったが、夕刻の会場直前にパスタ料理を賞味し車に乗り込むとき辺りから俄かに強い雨足に見舞われ、雷鳴が轟いた。。。

もちろん礒さんの絶好調を告げる前兆にちがいないと、にんまりしたことは言うまでもない。(^^;)


会場である美術館のアトリウムとはどんなコンサートホールなのかが気になっていたが、大理石をベースに作られた空間はなんともゴージャス。
演奏時にステージを除き灯りが落とされると、宮廷ほど大仰ではないけれど夜空も覗ける独特の雰囲気がいいムード・・・である。
イスはオシャレであるとはいえチャチかったが・・・。(^^;)
しかし演奏時ののライティングは幻想的でステキであった。


いつもこうしてコンサートの感動をしたためているが、難しいことは抜きにして、私にとってはこの二人が演奏して悪かろうハズはない・・・。
家人とともに掛け替えのない時間を楽しむことができた・・・で十分である。

とはいうものの、気づいたことだけ自分の覚えとして書いておくこととする。(^^;)

     

プログラムのうち4・5・6は先日立川でも聴いた演目である。
しかし、会場のロケーションやピアノが違うとこれほどに違うのかというほどに音の粒立ちの雰囲気が変わり、透明感が上がったりロマンティックに聴こえたりと不思議なほど。。。
要因のひとつには、横に家人がいたからと・・・いうことも挙げておいた方がなにかと都合がよさそうであるので、そうしておくこととする。

多佳子さんの演奏ではスケルツォ第2番の炸裂も爽快であったが、なによりもカンタービレの歌いくちの気分が颯爽としていて新鮮だった。
もうひとつこの演奏で忘れられないのは、わずかにだが珍しくそれと判るミスタッチがあったのだが、そこでひるんだりナーヴァスになることなく演奏の集中力は更に昂まり、コーダに至るや曲想に引きずり込まれて息が詰まりそうだったこと。

水の戯れについても、この会場のロケーションでは音の肉厚は望みにくかったけれど、粒立ちはさっぱり聴こえる傾向があったので、多佳子さんの言うキラキラはより強く感じられるようになっていたと思う。

前回の立川ではこの曲は「生涯2度目のお披露目」とのことだったが、この短期間の間にもいろんなところで弾き込まれたとみえて、ずっと手についたイメージがあった。
立川で「寝起きでもすらすら弾けるようになりたい」と仰っていたの境地は、すでにかなり現実味を帯びてきているのだろう。
もちろん、指慣らしはしなければならないのだろうが・・・。


さて、この記事を投稿するにあたりカテゴリーを磯さんにするか多佳子さんにするかで迷ったのだが、このコンサートのメインはやはりフランクのヴァイオリン・ソナタであろうから「磯さん」カテゴリーにするとした経緯がある。

初手のエルガーの「愛の挨拶」での磯さんのヴァイオリンの音色に早々と鳥肌が立って以降、クライスラーの小品やヴィヴァルディにおいても多様な音色を期待通りに楽しんでいたのだが、正直に言えばフランクではこのような演奏になるだろうと私の抱いていたイメージとは必ずしも一致していなかった。
もちろん演奏内容に不満があったわけでは決してなく、曲の新しい側面を聞かせてもらった思いである・・・といって差し支えないと思ってはいる。

全体的に言って、このような感想を持った主因は「ソリスト・・・それもB型」のおふたりがコンビを組んでいることであろう。
真意を表現するのは難しいのだが、2人で共に曲(のムード・・・曲調?)を形作るところ、それぞれが曲の求めるところに応じてかあるフレーズを非常に印象的に刻むことがあった・・・と言い換えたら少しは伝わるだろうか?
将来の自分のためにもわかるように書き残しておきたいのであるが・・・。

「流れに棹差す」というと昨今「流れに乗る」という本来の意味のほかに「流れを堰き止めようとする」という意味もあるそうだが、そのそれぞれの繰り出すフレーズがどっちの意味でも『流れに棹差している』状態になるような、それもごく何気ないところで「えっ!?」と思わせられるように弾かれていることがあったので、新鮮だったというかビックリしたというか・・・「はっ」とするぐらいならまだしも。。。(^^;)

ただこのお2人が協調して「曲」に挑んでいく姿勢のときの凄みにはいい悪いは関係なく、また私のしょぼい感性が抱きうる期待などはるかに越えて鬼気迫るものがある・・・そしてこれは正に期待通りであった。
そのときに私が感じるフィーリングこそが、この2人の演奏に求めるものなので、結果としてその意味では大満足!!・・・なのであるが。(^^;)


具体的には第4楽章のコーダ、お気楽メロディーの曲だと思っていましたが、こんなアスリートな曲だとは。(^^;)
最後の前の音、弾ききったという感じの礒さんのボウイングには、以前ブラームスのトリオの最後で聴いたあの熱狂が感じられ、頭の先から煩悩がスカッと抜け出ていく気がした。
ヘンな表現だろうか?

逆に新たな気づきとも言うべき印象を持ったのは第3楽章。
展覧会の絵のプロムナードみたいに第1楽章冒頭のヴァイオリンのメロディーがピアノで表される辺りなど、このように感じられたのははじめてである。
各楽章で朗々とあるいは強奏される、例の循環形式の主題みたいな3つの下降音階に始まるフレーズにせよ、巧みに配されている曲であり、その意味では展覧会の絵の例えの他、リストのロ短調ソナタみたいに手を代え品を代えしているんだということが、しっかり認識できた。

ここからが「新たな気づき」なのだが、件のフレーズは強奏されるときは絶対に悲劇的・絶望的なニュアンスであるものだと思い込んでいたのだが、この第3楽章においての御二人の表現は楽観的とまではいわないが英雄的・あたたかさ・おおらかさ・慈しみをも感じさせるような趣があった。
多佳子さんの左手の湛える底光りのする深み、磯さんの野太い(というと語弊があるが言葉が思い浮かばないので失礼)・・・そんな感じの深みある音が今も耳の奥に残っていて、この夜の白眉だったと思っている。

ところで多佳子さんには「第2楽章を期待しています」と言っておいたところ、ベラ・ダヴィドヴィチを意識して脱力して弾かれるとの所信表明を戴いていた。
いつもながらの豊かな響きを湛えていながら、毅然としてもたつかない左手のリズム(グルーヴ?)に乗って進行していく演奏に私は満足したのであるが、ご本人はまだ課題を見出しておられるようである。

この楽章に限らず、またおふたりで楽譜から新しいことを発掘していただき、我々に届けていただくことを願って止まない。

     

さて、アンコール最後に奏してもらった「星に願いを」はピノキオのあの曲である。

昨年の今時分、静岡時代の同僚が亡くなったときに磯さんのディスクにあるこの曲の演奏に深く慰められた記憶がある。
折りしもコンサートの少し前に、その同僚の奥様から「一周忌を迎えたが、新天地で元気で頑張っている」との音信が取れたばかりであった。

私にとっては掛け替えのない曲であり、この演奏の間中そんなことどもを思い出しながらしんみりと聞き入った。
これは(後に事情を話した)家人にあっても同じ思いになったろう・・・。

礒さんに話したら「そういってもらえると・・・」と仰ったが、彼女の芸術にはそんな個人的なできごとに更に深く感銘を与えてくれる力がある。

ここでこの曲を選び、その芸術の力を十二分に魅せてくれたお2人にあらためて深く感謝したい。


多佳子さんは終演後、プログラムにサインしてくださる際に「私たちもっとうまくなるよね!」と礒さんに向かって仰ったが、「おふたりが音楽に向かって真摯に信じるところを研鑽し続けられる限り、その成果を聴くために追いかけていきますよ」と応えたい。

このデュオにあっては、その鳥肌が立つほど感激するというお互いの音をよ~く聴きあって、2人がこうだとおもう音楽を楽しんで作り上げていただければ、それで夢は叶うんじゃないかと・・・そう信じて疑わない。

もちろん夢には演奏者だけではなく聴き手である「私」のそれも含まれている。

ニュー・ソング

2007年11月08日 23時31分58秒 | ROCK・POPS
★かくれんぼ
            (演奏:ハワード・ジョーンズ)
1.コンディショニング
2.ホワット・イズ・ラヴ?
3.パールと貝がら
4.かくれんぼ
5.ハント・ザ・セルフ
6.ニュー・ソング
7.雨をみないで
8.イクォリティ
9.ナチュラル
10.ヒューマンズ・リブ
11.チャイナ・ダンス
            (1983年)

今ではラジオなぞとんと聞く機会がないけれど、高校・大学を通じて帰宅後はFMのエア・チェックに勤しんでいたのを思い出す。

大晦日にせよいくら家族が紅白歌合戦を楽しみに見ていたとしても、私にとっては自室にこもって国内外を問わないアーティストによる、ライヴだの特別番組だのほうが魅力的だった。
テレビを点けたのは、テレビに出ないはずの松山千春さんの弾き語りライブだけだった。

それらは今もって仕方ないことだと思っているのだが、家族はそんな私をちょっと特殊な感覚の持ち主だと思っていたようだ。

オタクということばは、少なくとも当時の我が家にはなかったから・・・。(^^;)
私自身は一般的なオタクよりはやや健康的でアグレッシブであったと信じている。


とりわけ、平日夕刻にFM愛知でやっていた柴田チコさんの番組を聞くことは欠くべからざる日課であった。

ビリー・ジョエルのアルバム“イノセント・マン”が発表されたときの特集“あの娘にアタック”が紹介されたときのナレーションは今でも覚えている・・・。
彼女こそが、当時オン・タイムで私に洋楽のイロハを講義を手ほどきしてくれた先生だった。


そして、いまひとり彼女やや上気した口調がひどく印象的であったのがこのハワード・ジョーンズである。
「かっこいい!」
彼女の文句のさしはさみようもない確信に満ちた一言で、私には「新世代の到来」が瞬時にすりこまれた。

それまでには既にシンセサイザーなどの電子楽器を伴奏に持ち込んでいるバンドも少なくなかったが、これほどまでに全面的にきわめて洗練された内容で使用されている例はしらない・・・大いにもったいぶった言い回しの後、紹介されたデビュー曲は『ニュー・ソング』。


実はそのとき、勿体と同じぐらいの驚愕は味わったのだが、印象はネガティブなものであった。
そりゃ、国内の音楽ではさだまさしさんをはじめとした“ニュー・ミュージック”のソングスを愛好していたわけで、彼の嗜好する音楽ということで聴きはじめたS&G,ビートルズなどにはついていけたとしても、この音楽には大ショックを受けるのは止むを得ないだろう。

今後の音楽はすべからくこうなっちゃうのだろうか・・・?


日本発信でもYMOが世界を席巻し、テクノ・ポップと呼ばれる音楽が“それなりに”巷間で聞かれ・・・「マニアに聞かれた」といったほうがよいかもしれないが・・・ていたとはいえ、ハワード・ジョーンズのような音が英国では大ブレイクしているということはいずれ世界中がこのテの音楽に染まってしまうのかと危惧したものである。

はたして彼は2作目までの大ヒット以降、新作は出したが大きな話題になっていない・・・。



この時期に柴田チコさんを介して知ったのは、カルチャー・クラブ、デュラン・デュランを始めとする一連のブリティッシュ・ニュー・ウェイブと呼ばれたグループたち。
これら3組が嚆矢だったような気がする・・・。

今やナツメロとして3組とも懐かしく聞くけれども、もっともデビュー時にセンスあふれた音楽を創造していたのは実はハワード・ジョーンズに他ならないと思われる。


そういえば、柴田チコさんの弾んだ声で紹介されたデビュー曲をもう1つ思い出した。

“クラブ・トロピカーナ”

・・・これも、衝撃的だった。
そして、これは確かにカッコよかった!(^^;)

前後するかもしれないが、この後カジャ・グー・グー、a-ha、ABC,スパンダー・バレエ、大御所ではポリス、オーストラリアからはメン・アット・ワークなど、一方アメリカではTOTO、ジャーニーなどのハード・ロックが全盛を謳歌しベスト・ヒット・USAの時代へと私は誘われていったのである。

大学時代はこれらのオン・タイムの楽曲を吸収するとともに、先のS&G、ビートルズの他、エルトン・ジョンやストーンズ、ZEPにパープル・・・と先祖がえりを名古屋の鶴舞図書館でレコード(!)を借りまくって身につけた。

遡った先にいた先祖は確かに地に根を下ろしたルーツとも言うべき音楽であるが、私自身の時代におけるルーツはというと・・・やっぱり“ニュー・ソング”の衝撃ではないかと今になって思うのである。

ハワード・ジョーンズの印象は、当初はネガティブだったかもしれないが、それはかなりキツいトーンのシンセのメロディーラインに原因が有るような気がする。
だが、年を重ねた私の耳で聴くときには、当時のシンセを用いながらよくぞこんなにセンシティブなフレーズを弾きだしているのかという点、ヴォーカルについては平板ではあっても若者らしいソウルは確かに感じられるバックに合った湿度の声である点は出色なのである。

というわけで、はじめて耳にした衝撃から、四半世紀を数えようとしている今聴いてもお非常に新鮮・・・まさにニュー・ソング!!
もちろんいまどきの若者が聴いたら、古色蒼然とした音であるかもしれないが。
(むしろ、新鮮に思うかも)


爾後、ライオネル・リッチーやスティーヴィー・ワンダーなどのブラコン(死語?)、そしてボズ・スキャッグスを筆頭にするAORも愛好したけれど、さらにケッタイなものに聴こえたラップ・ミュージックの台頭とともに私の洋楽熱は冷め、ジャズを経てクラシックに回帰していくことになった。

ただこうして時折、柴田チコ・プレゼンツの曲を耳にするたびにあの衝撃や感激がほのかに甦って面映い。

私の歴史はあと半世紀に満たないかもしれないが、この様子であれば終生この曲は私にとっての「ニュー・ソング」であり続けるに違いない。
不惑を越えて、こんな感慨でこの曲を聴くことになるとは思いもよらなかった。

80歳の私は、“ニュー・ソング”にどのような感想をもつのだろうか?

高橋多佳子 ~音楽の贈り物~ コンサート

2007年11月05日 03時17分05秒 | 高橋多佳子さん
☆高橋多佳子 ~音楽の贈り物~
 《前半》
1.篠原敬介:Forest of The Piano
2.平吉毅州:こどものためのピアノ曲集『虹のリズム』より 4曲
3.ショパン:3つのワルツ 作品64
4.ショパン:スケルツォ第2番 変ロ短調 作品31

 《後半》
5.ラヴェル:水の戯れ
6.ガーシュウィン/江口玲編:ラプソディ・イン・ブルー

 《アンコール》
※ ラヴェル:オンディーヌ ~ 夜のガスパールより
               (2007年11月4日 於ヤマハ立川)


高橋多佳子さんのコンサートに行った。
ヤマハ立川の3周年記念の企画らしい。通常はクリスマス・コンサートのようなものを企画しているらしいが、それとは別に練った企画らしい・・・営業努力としてまことに望ましいありかたである。(^^;)

プログラムに“A Present of the music”と銘打たれているとおり、店舗のファンに喜んでもらおうという心づくしが感じられて本当に好ましい・・・などと常体文に切り替えたのをいいことに偉そうに聞こえるように書く気はないのだが、本当にありがたい企画であった。
(^^;)
それに3周年記念のアトラクションなので、誕生日に数字の3が入っている人は入場料がタダ!!
かく言う私は3月生まれなので足代だけで聴けちゃった!(^^)v

今後、立川方面に足を向けて寝れないな。。。
私も楽器を扱うものの端くれとして、YAMAHA製品にはたいへんお世話になっているから、たまにはこのような施しを受けるのもよいのかもしれないが。(^^;)

さて、これくらいヤマハの立川店を持ち上げれば御礼もできたと思うことにして、ナミダものの感動を味わうことができたコンサートを振り返ることにしたい。


篠原敬介作曲の「ピアノの森」のテーマ曲は、月灯りの中で森の中に捨てられたピアノをイメージするべき曲とのこと。
そう多佳子さんの説明を聞くまでもなく、“どことなく”ドビュッシーを思わせる音遣いが聴き取られる曲であった。

先般の大感動の“月の光”でも感じたことだが、多佳子さんの演奏ではアルペジオの爪弾きとその際の絶妙なペダリングが有機的で生命力があり、雄弁な表情を表すということが再確認された。
演奏者の思い入れの深さが、曲をさらに深い聞きものにしているなという印象を受けた。


平吉毅州の『虹のリズム』は子供のための曲集からの抜粋。
一流の演奏家の手にかかると、他愛のない曲なんてものは存在しないと思われる。
自分がブルグミュラーの練習曲を弾く時と、上手な人とでは「入れ込み方」が違うんだろうと思っていたが、やはり演奏会にかけるに足る曲だと真に実力ある演奏家がみなした時にはそのような命が曲に与えられるのである、と信じられた。


ショパンのワルツ作品64の3曲は、ショパンの旅路に入っていないこともあって貴重な機会であった。
確か第2曲は何かの機会に聴いたことがあって、すごく矍鑠とした・・・というか颯爽とした演奏で「へー」と思ったものだが、今日はそのときからすると随分としっとりしたような感触であった。
第3曲がもっとも印象に残っているのだが、多佳子さんは実際に踊るワルツを随分と意識しているのではないかと思った。
以前の記事でスホーンデルヴルトのプレイエルを使ったショパンを聴いて、舞曲としてのショパン演奏を云々したが、ワルツはやはり円舞曲であり、多佳子さんも殊にマズルカとの親近性を指摘されたように踊れるものであるのが望ましいと思ってらっしゃる・・・のかもしれない。
さらに表現のスケールもショパンの旅路のころより大きくなっている・・・そんな気がしてもいる。

そうそう、ワルツの第3番を例示されたように、是非ともショパンの曲に隠れたマズルカ部分をあまさず指摘してみてもらいたいものである。
そんな曲を集めてみましたという趣向のコンサート「ショパンの曲中のマズルカ部分を訪ねて・・・」という企画はできないものだろうか?

変ロ短調ソナタの第2楽章のスケルツォの中とか、太田胃酸の宣伝のプレリュードの第7番だってマズルカといえばマズルカだよなぁ~。。。
で、全曲弾いたらプログラム全部になっちゃうかもしれないからボツかなぁ~。(^^;)

最後の、スケルツォ第2番は私にとっては前半の白眉。
第3番は何度か聴いているが、実演ではこれも初めての曲である。
今度は強音のコントロールが素晴らしい。文字通り「炸裂」していた。
彼女も以前紀尾井ホールの演奏前だったかにこのブログにコメントを寄せてくださって「炸裂したい」という表現をされていた。
その意味では、今日の演奏は会心の実感をお持ちに違いない。

冒頭の問と答えのような炸裂の後、左手のアルペジオ伴奏に乗って例の美しいメロディーが奏でられるわけだが、そこの伴奏のコントロールの素晴らしさ、右手の旋律の志の高さには震えがくるほど感激した。
ショパンの旅路で聴きかえす時など、永く忘れられない演奏だと思う。



後半はラヴェル“水の戯れ”から始まった。
はっきりいってラヴェルは多佳子さんに合っている。(^^)/
私のことだから何を弾いても合っているというだろうが、真に合っていると思う。

テンポはまずはゆっくりとって・・・と思う間もなく、音色のブレンドが絶妙なのである。
そして旋律線を浮き立たせるようにする部分と、伴奏部分の音の重層的なたゆたいの表現に傾注する部分とを、多分経験から感覚的に摑んでおられるんだと思う。
どうすると音の連なりで飛沫が飛び、流れ、波がおき、うねりが生じるのか・・・多分にペダルの技術によるところだと思うが、すべてを包含して「魔法」だったといっておけば間違いない・・・かな。(^^;)


プログラムのラストは、“ラプソディ・イン・ブルー”である。
実演では3回目であるが、聴いたのは夏以来久しぶりであった。多佳子さんはその間にも何回かは公演にかけていると思うので、どのように曲が成熟しているかを期待して聴いたが、驚くべきことに一聴した印象がまるで違う・・・。

見事に自身の音楽に昇華した、としか言いようがないと思う。

ジャズにカテゴライズされる演奏しかこれまで聞いたことのなかった私は、彼女の生涯2回目と3回目のお披露目を聴いているが、なにをおいても初々しい演奏というイメージではあったがクラシックのノリだと思っていた。
それはそれでいいのではあるが・・・。

でも、今回は違った。
他の誰でもない高橋多佳子の曲になっていた。
曲の構成上、気まぐれに場面展開していくわけだがすこぶる自然にこなれて聴こえたし、そうであるからこそ必然的な流れに思われたし・・・ピアニストがこの曲を弾くたびに興奮すると言っているとおりの感興が聴き手にもちゃんと伝わってくるような演奏になっていた。
私と一緒に穂高で聴いた人たちが聴いたら、さぞや快哉を叫ぶだろうなと思いながら・・・最初から最後まで、味わいつくせたんじゃないだろうか?

このような経験のできる自分はつくづくラッキーである。(^^)v
この曲を録音するのであれば初々しさと洗練がないまぜになっている“今”こそが旬・・・であると思うがどうだろう?
没後70年同士のラヴェルとのカップリングも良いが、ツィメルマンが来日公演で演奏しようとしたガーシュゥインの他のピアノ曲もあるし・・・。
(それは主催者のショパンを入れろという要請で、バラ4に入れ替えられちゃったらしいが。)



そしてアンコールの“オンディーヌ”にはナミダものに感動。
まずは演奏解釈も、テンポをじっくりとってこの曲のグロテスクさと洗練を本当に微妙に(多分ペダリングの妙によって)マッチングし、さらに大迫力をも実現していて最高であった。(^^)/

鳥肌立ちっぱなしの演奏終了後、ブラヴォーといえばよかったかもしれないがあまりの素晴らしい演奏に声もなかった。
拍手だけはいつもより一生懸命した・・・。(^^;)

何十種類ものこれまで聴いたすべての演奏を消去して、彼女の今日の演奏を上書きしてしまってよい!!
・・・そんな演奏だった。

曲中で盛り上がり、絶頂から水の塔が崩れ落ちてくるばかりの表現はまさに私の心の中で理想と思っている解釈であったし、最後の単音のモノローグにいたってはその雰囲気、雄弁さにおいて空前絶後といっていいと思う。
最後のアルペジオの波が消えて、余韻の中にわずかに不協和音が残り、ダンパーペダルを離すときの気配の絶妙なこと・・・和音がフッとクリアになりその響きを余韻として全曲を終了する・・・ラヴェルはこんな効果を狙ったんだということが改めて感得されたものである。

冒頭の音色の湿り具合(乾き具合?)はフランソワのそれを、途中で音の粒をアルペジオでキッパリと表現するところにはアルゲリッチを、全体の構成をスケール大きく構えるところはセルメットを思わせるような・・・と分析することもできようが、この演奏を前にすれば、私にとっては「そんなの関係ねぇ」である。

断言する。

私の中でかつてクラウディオ・アラウが高橋多佳子の“バラード第4番”の演奏にシャッポを脱いだように、“オンディーヌ”ではかつて聴いたピアニストの演奏のどれもが高橋多佳子に道を譲らねばならない・・・と。

どれだけ書いても、この感動は言葉に仕切れないので演奏についての薀蓄はこのへんにしておくことにする。(^^;)



さて実はこの曲“オンディーヌ”は、彼女が先日行った新潟(!)のコンサートで(プログラム変更して)採り上げた曲であった。
そのコンサートに私は仕事で行けなかった。
彼女のブログに「生オンディーヌを聴けなかったことは残念」と伝えていたところ、今日の演奏会でのアンコールとなったのである。

終演後、彼女の母君とお話しする機会を得て「ファンってプログラムが希望通りだと、勝手に自分のリクエストに応えてくれたと解釈するんですよ」などと話をしていたが、本当にきっとそうだと思っておりとても喜んでいる私がいる。(^^;)

なんてったって、ラヴェルの“水の戯れ”より“オンディーヌ”の方が演奏時間も長ければ、技術的にも至難だと思われる・・・そんな曲を選曲してくれるにはきっと理由があるのに相違ないのだ!!

多佳子さん、本来のプログラムより重たいアンコールをありがとう!(^^)/
感謝しています。m(_ _)m



もうひとつ母君によると「“オンディーヌ”を聴くのは久しぶり、10年以上前ではないか」とのこと・・・。
私が「先日新潟でも演奏されたようですよ・・・」と申し上げ先ほどの会話になったのであるが・・・。

そうか、そんなに長い間自分の中で暖めていたんだ・・・。
ショパンの旅路以前にいったん自分のものにしてあって、そしてまた採り上げて演奏しているのなら、あれほどの完成度であることも十分に頷けるような気がする。
そして、ショパンであれだけ私の感覚にフィットした演奏が可能ならば(彼女の演奏に私の感性が合わさってしまった部分もいっぱいあるが・・・)、ラヴェルであっても当然感じ方は共通なんだろうと思われ、なんて自分は幸せものかと思ったものである。
自分で弾けないのに、自分でこうであってほしいという解釈で曲が聴けてしまうわけだから。(^^;)



これだけの感動を与えてくれたのは、もちろん多佳子さんの技量によるものであるがそれを忠実に音に変えることのできるヤマハのピアノの優秀さによるところも大であるといえるであろう。

最後にこれぐらいは持ち上げておかないと、今日の感動のお礼にはなるまい。(^^;)
ほんとにそう思っているんだから・・・。

言葉の選択

2007年11月03日 15時37分54秒 | オーケストラ関連
★ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番
     (演奏:アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(p)、
          セルジゥ・チェリビダッケ指揮
           スウェーデン放送交響楽団)
※ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第5番 変ホ長調 作品73 『皇帝』
                      (1969年録音)

久しぶりにレコ芸を精読した。
いつも今月のような企画だとありがたい。(^^;)

たとえば、
①インタビューにブレハッチ、高橋アキ、仲道郁代と話題のピアニストが多いこと
②特集1が今年の海外盤に関してのこもごもであること
 (わけても相場ひろ氏の寄稿は秀逸、これだけで特集を組んで欲しいぐらい)
③喜多尾ゼミナールの論点がミケランジェリ・ポリーニであり、
 瞠目の言葉の選択であったこと
など会心のヒットであったと思う。

パバロッティの追悼記事、周年特集でエルガーもまあ・・・いいんじゃないって感じだし。
吉田秀和先生の文章はいつものようにこちらの考えを促す触媒として、ご馳走様状態にしてくださるし・・・。(^^;)

紹介されているディスクやオーディオ機材には特に強く魅かれたものはなかったものの、このあたりハズレがあるのはしょうがないとはいえ充実した一冊であった。



ところで自意識過剰と言われればそうかもしれないが、レコ芸にこのブログで採り上げた話題が多かったような気がする。
さらに自意識センサーを鋭敏にすると、このブログで採り上げた内容に対するアンチテーゼの提出、もしくは返歌ではないかと思われるほど内容が符合する記事が見受けられたようにさえ思う。(^^;)

これは私もそれなりに聴き込む経験を積んできたので、採り上げるべき問題点と思われるところが似てきたのだろうか?
などと勝手のいいことを想起してにやけている自分が面映い。
マジでそうであったなら、確かにうれしいのだけれど・・・。(^^;)



また、先にも触れたがプロの文筆家の選択する「言葉」の適切さには改めて舌を巻くばかりである。
人は論理的に思考する場合にはどうしても言葉を遣わざるを得ないために、誰にも普遍的なイメージをいただかせることができるような言葉を選択しないと論評になりえない。
まして、音楽とは音という抽象的なものの連なりから何を感じ取るかという点を、脳の中でもぜんぜん違うセクションが担当のまったく違う感覚である「言語」を使って真髄を伝えるわけであるから、実は容易なことではないと私には思える。

そんななか、濱田滋郎先生の月評の文章、ことにそこで選択されている「言葉」が私のディスクの選択に大きく影響を及ぼしてきたのは、その言葉の意味するところが判ったので「安心」して紹介される多くのディスクを傾聴しようと思うことができたからに他ならない。

もとより、まずは濱田先生の語り口に最初の何枚かを手に取らせるだけの魅力があったことはいうまでもないが・・・。


実は多くの月評子に同様の期待を持ってその推すところを耳にしたものの、期待はずれでがっかりした経験が数多くある。
むしろ、がっかりさせられたことが普通である。もちろん、それを覚悟してディスクを買っているのでどうこう言うつもりはない。

何にがっかりするかといって、ディスクは良かったがその評者の言わんとする主張が実感できなかった時である。
野球で言えば逆ダマで三振をとったけど要求していたコースとは外れている・・・結果オーライだが、紹介文との乖離にしっくり来ないというところであろうか?

ここで「評者の言葉の選択の適切さに驚いている」という本論に立ち返るとき、喜多尾ゼミナールの喜多尾道冬氏の言葉の選択にはいつもながら脱帽であった。
当初はただのシューベルト好きのおじさんだと思っていた。
ただシューベルトの最後の変ロ長調ソナタの魅力を言語で伝えてくれたのも喜多尾氏であることを考えるとき、昔からタイヘンお世話になっていることに気づく・・・。(^^;)

その氏がミケランジェリ、あるいはポリーニについて言及しているということで、繰り返し読んでみた。
感覚的にだが、70%の共感と30%のエクスキューズ(反対では断じてない)を持っている。
(この共感度は私にしてはきわめて高いということは申し添えておかねばならないかもしれない。)


この記事に関しては、できれば今後時間を見つけて、本バックステージでもフィードバックとなる戯言を繰り広げていきたい。
特に「アルチザン」と評されたミケランジェリなどについては、いろいろ述べてみたいこともあるようにおぼろげながら感じている。


最後になったが、ミケランジェリが私にとって最も魅力的であるのは1957年から1970年ごろだろうと思っている。
要するに40歳前から50歳にかけて・・・ということになる。

冒頭のディスクは盟友(?)チェリビダッケとの皇帝コンチェルトのライブ盤。
音質に言及するとどうしようもないが、それでもミケランジェリの音の生気やフレージングの強靭にしてしなやかな様が本当に良く記録されており、ベートーヴェンはこんな曲をこしらえたかったのだと納得させられている。

この曲のファースト・チョイスの座は揺るぎそうにない。