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SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

FABRIZIO CHIOBETTA : SHUBERT Piano Sonata D960 / Moments musicaux

2015年06月06日 23時59分09秒 | ピアノ関連
尾崎亜美さんのこしらえた「オリビアを聴きながら」という佳曲があります。



♪~ お気に入りの唄 ひとり聴いてみるの オリビアは寂しい心 慰めてくれるから



と始まるのはご承知かと思いますが、これがオリビア・ニュートン=ジョンのどの曲なのか・・・
私にとってずっと謎なのであります。

そよ風の誘惑、愛の告白、ジョリーン・・・ちょっと違う。
ザナドゥ、フィジカル、ムーヴ・オン・ミーなどに至っては何をかいわんや・・・でありましょう。

マジック、サドゥンリーなんてあたりは彼女の楽曲のうちでも私も大好きなものだし、それらしいといえなくもありませんが、やはり色恋沙汰の艶っぽさがやや色濃い。。。(シャレじゃありません)



本題に移りますが、私にとって「ひとりで寂しい心を癒すために聴くお気に入りの楽曲」としてもっともしっくりくるのはシューベルトの手になる一部の作品であります。

古今東西、数多の作曲家が夥しい数の曲を産み出しているのに簡単に断言していいのかと思われる向きもありましょうが、これが50年生きてきた経験に照らし確信をもって発言できる数少ない事実のひとつであることは疑いありません。

故アリシア・デ・ラローチャも、レコード芸術だかの対談で、最晩年には「自分の楽しみのためにシューベルトを弾く」と述べていたと記憶しますが、おおいに共感を覚えます。


裏を返せば、体調がすぐれないときに甘いものを食べるとホッとするように、シューベルトが身に沁みるときには心身病んでいるときにほかならず、幻想ソナタ、変ロ長調ソナタ、楽興の時、八重奏曲、弦楽四重奏曲の第15番、弦楽五重奏曲なんてところに無意識に手が伸びたりすると、今自分がかなりキツい環境にあるんだと自覚するものです。
さらに、これらにどっぷりハマってしまった事態を客観的に観察できちゃおうものなら、「こりゃかなり重症だ」と自戒することになります。

これがドビュッシーあたりであれば、まだ、束縛から逃れようと無意識にもがくだけの余力ありと思えるのですが・・・
シューベルトはいけません。





同曲違演のディスクでもっとも多く所有しているのは、たぶんこの変ロ長調ソナタ。
こう書いてくると、いかに私が長き道を重荷を負って歩き続けてきたか・・・と思わずにいられません。
しかし、ピアノ好きにとってはこの事実はそう異論をはさむ余地はないのではないでしょうか?


はじめて聴いたのはポリーニ。
その後、田部、トゥルーデリース・レオンハルト、ピリス(カスカヴィル盤)、コヴァセヴィチ、カッサール、ペドローニなどお気に入りのディスクが次々と現れ、録音技術の進化とも相まって、いろんな観点から疲れ果てた私を楽しませ、癒し、今に導いてくれました。
(正しく導いてくれたのか、歪んだ道に陥れてくれたのかは自分で判断できませんが。)

たまにリヒテル、アファナシエフ、ラジッチ、キーシンなんてところの演奏に出遭い、よくもわるくも(こう書いて私の意向に沿った演奏であったとは思われないでしょうが)いろんな表現の余地があることを知ることもありましたし、ジャケットと演奏は覚えていても奏者の名前が出てこない・・・なんてディスクもいくつもある。。。



そして今・・・
シューベルトの変ロ長調ソナタと楽興の時を収めたクラーヴェスのこのCDにとてもハマっています。
タイトルをアルファベットにしたのは、ピアニスト名の読み方がわからないから。

このディスクの宣伝には、ピアニストの師でもあるシューベルトの権威、バドゥラ・スコダの賛辞が述べられていました。
このお褒めの言葉は決して誇張ではありません。

バドゥラ・スコダの演奏は現代楽器・時代楽器を問わず何種も聴いていて、いくつかには深い感銘を受けました。
その彼が絶賛する・・・
最先端の録音技術で捉えた、まさに(旧くから連なる伝統を踏まえた)今の感覚のシューベルト。

きっと師スコダをして、このように弾きたいと思わせしめた演奏であることは想像に難くありません。


私の変ロ長調ソナタ、楽興の時の楽しみ方を踏まえたとき、Electra1028Beから最適の解として流れ出るのはChiobettaの奏楽・・・

直截の論評を加えずとも、これは(少なくとも今の私に)そう言い切らせるほどの感銘を与えたディスクです。

エフゲニー・ザラフィアンツ ピアノリサイタル

2013年05月08日 01時39分16秒 | ピアノ関連
★愛知県立芸術大学音楽学部 器楽専攻 ピアノコース特別講座 2013
  Evgeny Zarafiants Piano Recital

Program

Ludwig van Beethoven (1770-1827):
Sonate op.2-1 f-moll (1795) Allegro / Adagio / Menuetto:Allegretto / Prestissimo

Sonate op.10-3 D-dur (1796-98) Presto / Largo e mesto / Menuetto:allegro / Rondo:Allegro


Frederic Chopin (1810-1849):
8 Masurki: en la mineur op.17-4 / Si majeur op.56-1 / si♭ mineur op.24-4 /
sol mineur op.67-2 / Fa majeur op.68-3 / do# mineur op.63-3 /
Do majeur op.24-2 / do mineur op.56-3


Alexandre Scriabine (1872-1915):
Fantaisie en si mineur op.28 (1900)


*encore
Frederic Chopin (1810-1849):
Masurki:       en si mineur op.33-4               

                  (2013年5月6日(月祝) *特別開講日 18:30開演 愛知県立芸術大学奏楽堂にて)

エフゲニー・ザラフィアンツのピアノ・リサイタルを心から堪能してきました。
愛知県立芸術大学の講義の一環らしいのですが、一般の希望者にも広く門戸を開いてくださったうえ、なんと『タダ(ミもフタもない言い方ですが)』で上記充実のプログラムを聴けちゃいました。
ラッキーまるもうけと、関係者各位に感謝するほかありません。
当日は比較的大きな会場ではあるものの、空席も目立ち、もったいないと思うとともに、その内容の素晴らしさに「こういうピアニストこそもっと聴かれるべきなのに」と残念な思いもありました。いずれ余計なお世話でありましょうが・・・。


この公演が、ピアニストのアウトリーチ活動拡大版的なご厚意によるものか、録音会場候補のテストだったのか、勝負リサイタルの実戦ゲネプロだったのか、招聘元・支援者・大学側の熱烈なアプローチにほだされたものなのか・・・
リサイタルに行くまではさまざまな理由を挙げてみて、なるほどどれもありそうなことだなどと思いを巡らしていました。

まぁ、潔い音だけによる言い訳無用の圧倒的なパフォーマンスの洗礼を浴びた今はよけいなお世話はどこへやら、ただただ頭を垂れて充足感の余韻をかみしめるほかありません。


個人的には、リサイタルにおいては演奏者は音だけで勝負すべきだと今でも思います。
楽曲や演奏家の想いを手掛かりに、そのときどきの演奏を安心して聴きたい、あるいはよりわかりやすく聴きたいというオーディエンスのニーズがあることは理解できます。
また、それを聴き手の甘えだとも思っていません。

でも、言葉というものはその性質上「物事を規定・限定」してしまいます。
このように分別に強烈に働きかけ、相手を理性的に仕切る効果があるという点において決定的にオトと違うのです。
コンサート会場で鳴り響く音の価値を測る物差し、感動のものさしは分別ではありえない・・・私はそう思うのです。

作曲家や作品を知識として知りたいのであれば、事前にプログラムを読めばわかります。演奏の合間などに耳で聞く必要はありません。
ただ、音楽家が自ら演奏にあたって「そこがポイント」と考えているとの情報は自らの口で表現しないと伝わらない・・・とは言えるかもしれません。

とはいえ、私の考えでは、演奏者がうっかりそれを口にしてしまったが最後、聴き手の中でその楽曲が「そこ」と「そこ以外」のところに分かれてしまい注意のありかたが異なってしまう・・・
ひどい場合には、「そこ」はピアニストが語った通りの感想しか持ってはいけないと思いながら聴く(よく言えばピアニストを信じて頼っちゃう、悪く言えば目(耳)をくらまされちゃう)こともあるかもしれないし、「そこ以外」のところは、実は虚心に聴いていたとしたらとても魅力的に思えたかもしれないのに聞き流すことにつながってしまうかもしれないのではないでしょうか。
してみると、MCは親切かもしれないし、おせっかいかもしれないし、聴き手の芸術鑑賞にとって罪作りかもしれない・・・これらはいずれも真なりと言えると思うのです。

これが私のすべてをぶつけた演奏だ・・・
演奏家のそんな気概から放たれた音の塊を体全体を耳にして受け止めて、聴き手が感じ取ったものの総体が、コンサートでの収穫とするならば、MCは体全体を耳にすることの妨げにこそなれ、あまり助けにはならないのではないというのが私の意見。
それがお客の入りにかかわらず、一切手抜きなしという態度が体感されたザラフィアンツの演奏を聴いてますます強く感じられるようになった・・・そんな気がします。


さて、ザラフィアンツの既発CDは、1990年代のナクソスのスクリャービンのほか、ALMのものにいたってはデビュー盤以降2~3枚の例外を除いてほとんどすべてを聴きました。
就中、2枚目にリリースされたショパンのバラード全曲およびこの日も演奏されたスクリャービンの幻想曲を収めた1枚は、レコ芸で紹介され何気なく手に入れたものではありましたがたいへんな邂逅であり、はじめて耳にして以来「超」がつくお気に入り盤となりました。

ただ、その他のディスクについては、それほど感動しなかったと正直に言わねばなりません。
プログラムの工夫(バッハとラフマニノフの混在やハイドンとメンデルスゾーンという取り合わせなど)に意表を突かれたり、ディスクごとにとてつもなくストイックになにものかを徹底しつくした痕跡を認めはしながらも、それがなんだかピンと来ないため、「だからどうした・・・」と思うほかなかったのです。


しかし、実際の演奏を目の当たりにした今、ザラフィアンツというピアニストが真の芸術家であることを疑いません。
「心より出た音楽を聴き手の心に伝えうるベートーヴェンの息子」であり、自らのベートーヴェン演奏、ショパン演奏の流派を打ち立てたホロヴィッツ・アラウ・ミケランジェリなどの巨匠と並び称されるべき存在と、心底思っています。


なぜに「現物」と、「商品化されたCDのオト」から抱く印象にこれほどのギャップが発生するのか?
またも余計なお世話でいらぬ考えを巡らせてみますと・・・

ひとつには、弾き手のスタンスの問題がありましょう。
このピアニスト、とにかく肌理が細かいのです。
いかなる妥協も許さない態度で解釈され演奏されている・・・この徹底しつくされた表現が必然的に、先にも述べた他とはまったくちがう独自の流派であれば奇矯にも聴こえる瞬間があるのは仕方ないこと。
同じ空気を吸いながら、実際の演奏を聴くかぎりは全くもって異形と感じなくとも、「他との聴き比べ」という客観性をそこに求めると聴き手によっては達者な演奏と思いつつも「聴きなれない」表現が随所にみられる奏楽となっているのは事実でありましょう。

また、ひとつには再生芸術の限界という問題があると思います。
演奏会場では、絶妙な音色のグラデーション、倍音の霧、その他演奏と一体となってしまえるような蠱惑的な表現で、時がたつのも忘れてしまうような響が実際現出されているのにもかかわらず、それを高品位であるとはいえCDやSACDのパッケージに押し込む限界があるということ。
そして、それを自宅の機材で再生するときに、大切な何かが毀損されて伝わらないということがある・・・。
実際、ザラフィアンツのベートーヴェンのソナタのCDを自宅で聴いた際に、演奏会場で味わった醍醐味はやはり想像力をたくましくしても再生音からは補いきれなかった感が強くしました。
しかし・・・本物の演奏を聴いたことで、これまでピアニストがこうしたい(実際の演奏ではこのように鳴っていたんだろうな)と思い描いたことにずいぶん思いをいたせるようになりました。
ピアニストは録音マイクの前でも同じ態度で演奏していたものが、商品となって手許に来ると、弾き手にとって肝心なものはよしんば収められていても聴き取りにくくなっている、優先順位が下がってしまっているように思われることが2つめの理由です。

3つ目の理由はプロモーションの在り方・・・ではないでしょうか?
新譜発売時のプロモーションあるいは書評など直接演奏とかかわりのないメディアが、他との差別化を図らんがために演奏の真価とは別に、いくばくかの誇張やある種のイロモノ的な表現をためらわないがために、聴き手の目(耳)が曇って変な先入観を持ってしまってはいないのか?
ビジネスとしては、少なからずそれが奏功している面も否定できないかもしれません。でも、実演は生真面目で全うきわまりありません。
間違っても奇矯な演奏であったり、バランス感覚を失した演奏ではない・・・と思います。


ここからは、記録のためにそれぞれの演奏について感じたことを簡単にメモします。

ベートーヴェン・・・
ハイドンの影響下にあったことを思わせる曲ですが、濃密かつ麗しい浪漫的な演奏でした。
もとよりザラフィアンツには、このうえない美音に飾られた周到なハイドン演奏があったことを思えば、ベートーヴェンともなればこのような表現となることは十分想定されたのですが、ディスクに収められた情報、それを我が家の再生装置で再現した情報とはモノが違う完成度の高さに感じ入りました。

どこもかしこもとことん音と休符が塗り込められているのに、まったく息苦しくない。
瞬発力も余裕も十分、キメ細かさの徹底の為せる業です。


シューマンのフモレスケに代わって置かれたショパンのマズルカ8曲・・・
マズルカを並べることによって、シューマンの連作と似た雰囲気が感じられました。
リズムの共通点という以外には、曲想もさまざま、曲内でも三部形式でメロディーや雰囲気が変わるので、聴き手にとっては面白い効果だなという感じがしました。

無論ミケランジェリのDGのディスクのプログラムをヒントにしているのでしょうが、共通する曲も少なくなく、その違いに思いを致すことも楽しい営みでした。

演奏も出色。
何に対してかわかりませんが、ここでの音たちは泣いていました。それも体をうち震わせて泣いている・・・
そんな情景の中に不意に惹きこまれてしまうほどの力をもった演奏、マズルカは疑いなく叙事詩でした。
よくショパンはマズルカ(やポロネーズ)においてポーランドの舞踊音楽の芸術性を飛躍的に高めた、などと評されていますが、極限まで芸術的にするとこうなるのかな・・・とまで思わせられました。


スクリャービンの幻想曲・・・
思えばこの曲に感激したのがザラフィアンツとの出会い。
ディスクでは繰り返し聞くことを考慮して、中庸の演奏となっていたのでしょう。
それでも私を魅了するのに十分だったのですが、ここでは録音上のリミッターも何の制限もなく全開のスクリャービンを聴くことができました。
鳥肌立ちまくり・・・
いわゆる三昧に入った演奏であり、私自身も曲と同化してすごい勢いで時空間を超えていた・・・こうやって書くと大げさかもしれませんが、そのような感覚だったとしておきます。
少なくとも、掃除機に吸いこまれたごみが長い管をすごい勢いでなすすべなく引き回された感じ・・・と書くよりは、詩的でしょうからね。

比較するものがない・・・
それに同化していると、それすら感じられないという一体感。芸術体験の醍醐味はここにこそあるのだと、強く感じさせる体験でした。


アンコールのショパンのマズルカ・・・
これもミケランジェリが録音した曲ですが、時代の流れとともにオリンピックの記録は進化すると感じさせるところがありました。
ミケランジェリのDGのディスクは私にとって神のような存在なので、その上に立つ演奏はありえないと思うのです。
しかし、一部の観点からすれば、明らかにザラフィアンツの方が徹底している。。。


帰宅して以降・・・
いくつものザラフィアンツのCDをもう一度聴いています。
理解が進んだような気がします。

ラフマニノフの一部の楽曲やリストの最新CDなど、今もってピンとこない気がするものもありますが、あの日、聴衆に向かって体感させてくれた人柄を含めた音からすれば、私が気付かないだけでもっと深い思いが塗り込められているに相違ない。。。
そう思って、何度も繰り返し聞いてみたいと思います。
善意の人の声には、わかるまで耳を傾ける必要がある・・・んじゃないかな?


最後にあらためて、かくも素晴らしい企画を家族で楽しませてもらったお礼を、愛知県立芸術大学および関係各位およびザラフィアンツ氏に申し上げます。

2012年、私のレコード大賞

2013年02月08日 00時50分27秒 | ピアノ関連
★ブラームス 後期ピアノ作品集
                  (演奏:田部 京子)
1.6つのピアノ小品 作品118
2.3つの間奏曲   作品117
3.4つのピアノ小品 作品119
4.主題と変奏    作品 18
                  (2011年録音)

信じられないことですが、2013年もはや1ヶ月を過ぎ旧正月を迎えようとしています。
この際、年末に手に入れたものまで含めてじっくり味わって、昨年「入手した」ディスクを総括しようという気にようやくなりました。
あくまで、私が手に入れたのが昨年のもの・・・が対象なのであしからず。。。

というわけで、2012年に私が個人的にもっとも感銘を受けたディスクはこれ・・・
田部京子さんのブラームス作品集であります。

毎年のことですが、昨年もクラシックはもとより、ロック、ジャズ、ドメスティック(J-POPっていうのかな?)と、さまざまな分野のディスクを数十枚入手しました。
実は、ノミネート5点とかいわれると実はとっても困ってしまいます。
10点どころか25点ぐらいすぐに指を折ることができてしまう・・・んです。

でも一枚だけ、大賞だけということなら至極簡単で、このディスクを選ぶことにはいささかも逡巡することはありませんでした。

選考が難儀するあまり・・・
ロック部門はこれ、ジャズ部門はこれで・・・なんていう部門賞を作る必要もなかったし・・・
どこかのコンクールみたいに一位なしの二位3枚なんてこともなかったし・・・
圧倒的に私にフィットして「2012年の1枚」として、聴いた数、感動した数、あらゆる指標で突出していたもので、私の中では満場一致で大賞贈呈って感じです。
・・・満場一致といってももちろん私は一人しかいませんし、大賞と仰々しく持ち上げたところで副賞で何が出るわけでもないんですけどね。


さて・・・
ブラームス後期作品集といえば、私が最初に聴いたのは稀代のリリシストと謳われるルプーのそれでありました。
実は、なんだかよくわからなかった。。。

それでも、他の例にもれず「名曲であるならば制覇せずにはおかない」というかつて持ち合わせていた熱意はこの曲集でも発揮され・・・
夥しい種類のディスクを折に触れ耳にする中で、グールドの「無垢」、アファナシエフの「メランコリックな明瞭さ」、ポゴレリチの「妖艶な焦燥」、レオンスカヤの「きっとこれが正統」とでも評すべき演奏たちが、私の記憶に深くこの曲集の魅力を伝えてくれた・・・
という整理になっています。

同じ曲なんだけど、これらにはそれぞれ違ったアプローチを感じます。
良くも悪くも偏っている。
アファナシエフは極端なゆっくりなテンポで、ブラームスの音同士のかかわりあいをこれでもかというぐらい丁寧に彫琢していました。
(結果としてなにかしらぬくもりを感じさせる得難い味わいがあって、永らく私のファーストチョイスになっていました。)
グールドは昇華された無垢とはいっても個性的、堂々と聴き手を幻惑しにかかるポゴレリチは言うに及びません。
正統と書いたレオンスカヤでさえ、正統さを感じさせるという偏りを私は感じてしまうのです。

しかるに、ここでの田部京子さんの演奏はどうか?
ひとことでいえば「無」あるいは「空」とでも言えましょうか・・・。

はじめて聴いてたちどころに惹きつけられて以来、これを聴いてる間中、私自身のすべてでこの曲が響いているとでもいうような感覚に襲われ続けています。
世界すべてが同じように響いちゃうんだから偏りようはありません。
すべてを肯っちゃってるんだから、テクニックだとか解釈だとかを気にする余地も必要もない・・・。

もちろんピアニストの解釈と技量と、録音の質が幸せな邂逅をはたしての所産であることに間違いはありませんが、ただただ虚心坦懐にこのディスクの再生音と向かい合うだけでどれほど豊かな体験ができるものか・・・感服するほかありません。
すべてが突き抜けていて、好きとか嫌いとか、先のいくつかのディスクも魅力的とはいえもはや同列に論じられないほどの存在感です。
「これらの曲集のリファレンスは?」と問われれば、躊躇なくこのディスクを挙げるでしょう。

あるいは将来・・・
あれほど不動のリファレンスであったアファナシエフのディスクが、今や「聴き手に執拗に自分の感情を受け入れるよう強要するメランコリック症候群的に奇矯な演奏」に聴こえてしまうような事態が起こっていることから、田部さんのディスクが自分の感覚から遠く感じられる日が来るのかもしれません。
でも、時は流れても不易なものがある・・・自分の全存在をかけてそう信じられるだけのインパクトを(ピアニストはそこまで意識しているはずもありませんが)与えてくれたディスクとして、きっと永く記憶し聴き継いでいくことになることでしょう。

私自身が偏執的に愛している作品117や118-2など、この節度ある演奏ぶりからいかに無限の透明感・深みを感じ得ているか?
大絶賛です。


田部京子さんは、この前にメンデルスゾーンの曲集を出されていました。
デビュー直後にも無言歌集の選集を出されていて、いずれも私の愛聴盤・・・メンデルスゾーンでもファーストチョイスです。
特に新盤は選曲からみてもスケール大きく、昨今の充実ぶりがうかがわれる出来栄え。
デビュー間もないころのシューベルトの変ロ長調ソナタもよかったし、「アンコール」「ロマンス」と題された小品集もいくつもの曲で目からうろこが落ちたり、心が洗われるような思いを味わえました。

でも、驚くほどしっくりこない演奏となることがないわけではない。。。

思うに、田部さんは直感的に曲のオイシイところを嗅ぎ分け表現することに長けていて、私がその正解を導き出せていた場合には身も心も100%同化できてしまうんだろうな・・・と。
だから、メンデルスゾーンやブラームスの(演奏時間にかかわらず)比較的簡素で、一曲ごとに性格を描き分けやすい完結型の作品には共感できるんだと思うのです。

逆に1曲の中にいろんな要素がアラカルトで散りばめられ、複雑に絡み合っているような曲・・・リストのロ短調ソナタなど・・・の田部さんの演奏は、ときとして食い足りなく感じることがあったりします。
原因は、先に書いた通り、「正解」というかストライクゾーンが違うから・・・なんでしょうかね。
きっと、その曲の本質的なところは針の孔ほどの1点であって、その穴を突き抜けえた場合にはじめて「全面展開」、私の中いっぱいに演奏が鳴り響くのでありましょう。

田部さんがそんな体験をさせてくれる数少ないピアニスト・・・という確信を強く持った1枚でありました。


ちなみに、「主題と変奏」はブレンデルの演奏で聴いたことがあるだけでした。

そのブレンデル・・・
ブラームスの演奏はと言えば、協奏曲こそアバドとの録音がありますよね。
第2番(第一楽章以外)に魅力を感じない(一楽章より劣る)とするブレンデルの発言には反するようですが、第2番の演奏ではとりわけ第一楽章クライマックスのトリルにぶっ飛びました。
他では決して聴けない粒立ちが印象的で・・・私のこの曲の最初のリファレンスになったことを覚えています。

しかし・・・
独奏曲の録音はというとこれがまたほとんどない。
彼は独墺系にレパートリーを絞って、他は弾かないと言っていたわけですが・・・
だとすれば、早いうちに録音が出てきて良い作曲家だと思うのですが、結局のところ、なぜ手がけなかったのかな~?
フランソワのようにブラームスその人を嫌ってたはずはないと思うんですけどね。


ムリして「2012年の受賞作候補」を列挙すれば、大賞候補は田部さんできまりとして・・・
にわかに開眼して凝ってしまった弦楽四重奏団の一連のディスクからのリストアップが主となりますが、近くその歴史にピリオドが打たれる東京クヮルテットのシューベルト、ブラームスそれぞれの五重奏曲をあつめたディスクは、例年なら大賞を選ぶための最終選考までのこされたことでありましょう。
アウリン・クヮルテットのフォーレの弦楽五重奏曲他のディスク、ペーターゼン・クヮルテットのベートーヴェン弦楽四重奏曲のうちの教曲には驚かされ傾聴させられたなぁ~。
ピアノでは、ポール・ルイスを聴き、そのシューベルトのピアノソナタ他の作品集・・・現代最高のシューベルト弾き、の誉めそやされかたが決して誇張でないことを感じました。

ジャズ・ロックの世界では、マイケルフランクスの1990年代の作品集「ドラゴンフライサマー」「ベアフット・オン・ザ・ビーチ」「アバンダンド・ガーデン」を大人買いしたのですがやっぱりいい。
ベン・シドラン主催のゴー・ジャズ・レーベルに在籍していたことで知ったリッキー・ピーターソンが出している4枚のCD。
これらもすべて入手して聴きまくったものでありました。

でも、大賞は文句なしに田部京子さん・・・なんです。
コレクションの拡充が図られた、まことにいい1年でした。

ショパンの権化!?

2013年01月18日 00時45分36秒 | ピアノ関連
★ショパン:バラード全曲
                  (演奏:ジャン=マルク・ルイサダ)
1.バラード第1番 ト短調 作品23
2.バラード第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード第3番 変イ長調 作品47
4.バラード第4番 ヘ短調 作品52
5.アンダンテ・スピーアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
6.夜想曲第13番 ハ短調 作品48-1
7.夜想曲第2番 変ホ長調 作品9-2
                  (2010年録音)

ルイサダは曲者、鉄砲玉みたいな存在だなとずっと思ってきた。
ずっと・・・というのは、彼がDGのショパンのワルツ集を出したときから、というわけだからそうとう「ずっと」であるに違いない。
彼のコンチェルトはあまり聴いていないが、ソロ録音はたぶんシューマンを除いてほとんど耳にしているから、相当な経験値を積んでの私の「曲者」認識なのである。

それが、アマゾンにおけるこのディスクの商品説明に反応してしまった。
曰く、
「フランスのロマン派ピアニスト、ショパンの権化」

前段はいい、チュニジア出身だろうがショパンの活躍したあのフランス在住であることに相違ないのだから。
しかし、後段の『ショパンの権化』、これはいかがしたものか!?

このバラード演奏でのルイサダの演奏も、一癖も二癖もある気がしてならない。
今回も楽曲のエピソードを語るに際して、グチュグチュ・モゴモゴやっている・・・
それは私がフランス語に対するイメージとしてもっているそれのような、きわめて明快かつ丁寧で完成度の高いグチュグチュ・モゴモゴなのである。
ショパンの活躍したフランスの言葉の語り口に似ていると思えてしまうところが、これまた口惜しい・・・。
だからといって『ショパンの権化』であるとは、断じて認めがたいところである。


ともあれ・・・
最後まで耳をそばだてさせられて通して傾聴してしまったのだから、素直に「興味深く最後まで聴いた」とポジティブな評価をして終わらせてしまえばいいのだが、ルイサダ演奏と思った途端に「いやいや、相手は曲者、そんな感想を持つのはおかしい。ましてや『ショパンの権化』なんてありえない」と強く否定せずにはおれないところにジレンマを感じているのは、まさしく不毛というほかはない。

最後まで聴いたとはいえ、この演奏をたとえばウォークマンにいれていつでも手許で聴けるように持ち歩くか・・・と言われれば、そうではないとすっきりいえる。
ただ、この演奏が気にならないかと言われれば、余人をもって替えがたい演奏として、ひとかど以上の存在価値は疑いなく認められるところ。
ときとして、どんなだったか・・・手に取ってしまうかもしれない懐の深い演奏ではある。
そして、少し前のマズルカの演奏とあわせてこのバラードの演奏に、彼の旬を感じることも事実ではある。
ただ・・・
このディスクの取り扱いは、蓮如聖人が『歎異抄』を取り扱ったのと同じようにすべきと直感的に思っちゃうのだからしかたない。


逆に・・・
『ショパンの権化』が誰だったら気が済むのかを考えてみた。

若き日のアシュケナージによる、健康優良児的なショパン演奏がそうかといえば決してそうではあるまい。
じゃぁポーランドの雄、ルービンシュタインがそうなのか、はたまたフランスのコルトーがそうなのか・・・否。

ツィメルマンのバラードや、ポリーニのスケルツォ、アルゲリッチのポロネーズなどなど、一般に至高の演奏とみなされることが多いものが、『ショパンの権化』かといえばこれもまた違うし・・・

ショパン・コンクールで選抜された名盤をものしている、カツァリスやペライア、メルタネンにアモワイヤルなどなどが相応しいに違いない・・・かといえば、当たらずとも遠からずという気はしても、そうじゃなきゃならんというまで確信が持てるものではない。

ハタと思い当たったユージン・インジックならどうか?

煎じ詰めれば、(ルイサダ以外)誰でもいいのかもしれないのである。


さらに・・・
この演奏をブラインドで聴いて、『ショパンの権化』がふさわしいかどうかどう判断するかを想像してみた。
結果は、ルイサダもどきが現れたと警戒して『ショパンの権化』と思えないのではないかというものだったのだが・・・どうしても、この独特のグチュグチュ・モゴモゴが気になって仕方ない。

そもそも・・・
なぜルイサダを「曲者」と思うようになったのだろう?
最初に聴いた、ショパンのワルツはホント独特だった。

そののち、グラナドスのゴィエスカスを聴いたが、これはラローチャのにハマっているときに聴いてしまい相手が悪かった。
スペインの楽曲とは思えなかったと記憶している、これがフランスとチュニジアに挟まれた地中海が舞台とイマジネーションを膨らませることができていれば、イベリア風ではない華やかさもピタッときたかもしれなかった。

プーランクの珍しい曲を録音したかと思えば、そののちの録音オーダーがサティだと怒ってDGを飛び出してしまったのではなかったか?
フランスの一風変わったおっさんなんだから、もっともなオーダーだし、なによりチッコリーニやケフェレック女史のようにサティで一家言をなした大家に対して失礼ではないか、という思いもあった。
また、ポリーニやツィメルマンがDGと腕相撲をして、録音レパートリーを勝ち取っているというのならわかる気もするが、ルイサダとはずいぶん一本気な鉄砲玉だなとやや冷やかな目で見た覚えがある。

で・・・
RCAから出てきたCDが・・・ビゼー。
サティじゃダメで、ビゼーとフォーレなのねってところで、けっこうズッコケて・・・そんなこんなで現在に至っているのだ。

この調子で新譜が出るたびになんやかんや言いながら聴いちゃって、その多くが記憶にこびりついているのだが、なにぶん承服しがたいものとして受け付けられてきた結果、現在のルイサダ観が築き上げられてきている。


現在に伝わる、ショパン最後の演奏会における評などを参考にする限り、デュナーミクなどルイサダのそれと相容れないわけではない気もする。
現にバラード第4番の第2主題回帰以降のアゴーギグなど、たいへん魅力的に感じられる瞬間もあったことは正直に言っておかねばならないかもしれない。
でも、終結部のカオスまでグチュグチュ・ゴモゴモしてて、ここはあんまりピンと来ないのも事実。
そこがまた『ショパンの権化』らしくはないかと言われれば、反論する材料を持っていない。

プログラムは、最後、しらばっくれて大衆名曲の夜想曲第2番で幕を閉じる。

こうして最後まで耳をそばだたせてCDを聴きとおしておいて、普段は読まないライナーノーツまで目を通しておいて、さらにこれだけの駄文を書き連ねておいて、「興味深く最後まで聴きました」と書かないことには素直でないような気がして気が引けることこのうえない。

しかし・・・
やはり私は、ルイサダを『ショパンの権化』と見做すことには抵抗を禁じ得ないものである。
論旨を見れば「ルイサダ氏は常時注目のアーティストで、私との商業上の取引もきわめて活発である」としか読めないため、結論が一致を見ていない気もするが、オトを前にしたときの心は澄ませているつもりでも常時そうはいかないのが人間の性だからいたしかたあるまい。


そして・・・
これからもルイサダの演奏を、怖いもの見たさに、きっと聴き続けることだろう。

探していたことすら忘れたとき見つかることもよくある話で・・・

2012年03月04日 21時00分00秒 | ピアノ関連
★ルドルフ・フィルスクニー・プレイズ
                  (演奏:ルドルフ・フィルスクニー)
1.シューベルト:3つの即興曲(遺作)D.946
2.シューマン:ダヴィッド同盟舞曲集 作品6
3.ブラームス:4つの小品 作品119
                  (録音:1983年)

仕事の都合で今月末には千葉県を離れ、故郷愛知県へ引っ越します。
これに伴って単身赴任を解消、家族そろっての生活ができることとなりました。
なんの所縁もなかった土地も、いざ転出することが決まると、愛着がわいていることに気づかされるのはいつもと同じ。
千葉県には感謝・感謝です。

新しい土地に移ることで新たに開けること、失うこといずれもありますが、この決まってしまった点について気持ちの中で戦ってしまっては消耗するだけなので、音楽を聴くことに関しての課題をここに記すことでいろんな思いを鎮めたいと思っています。


音楽関係で愛知県に移ることで新たな展開が開けることは、率直に言ってまったく思いつきません。

これに対して、失うことは多くあります。
1.首都圏の数多いコンサートを鑑賞できなくなる。
2.ひとりで音楽をのんびり聞く時間が、家族と一緒に住むことで必然的に限定される。
3.首都圏の新譜・中古の充実した販売網を活用できなくなる。
4.東京都を含めた首都圏の図書館の膨大な廃盤・貴重盤を借りることができなくなる。
5.収納スペースによっては、今大切にしているコレクションを維持しきれなくなる・・・かも。

このほかにも懸念されることばかりたくさんあります。
最悪の事態を覚悟してしまえば、対処を間違うことは少ないなんてよく言われますが、どこが最悪かなんてその場になってみないとわからないんじゃないかなと思ったりもします。
限界と思うところまでは、ひたすら我慢するほかありますまい。


また、このブログは単身赴任になったころ、ひょんなきっかけで始めることとなったものですが、今後も無理せず、できれば今と同じペースで書くことがあるときに更新していければと思っています。


さて、上記の失うことの3番、ことに規模の大きいクラシック専門中古盤店は私にとっては楽園でした。
すでに御しきれないほどのコレクションを持ち合わせていますので、厳選に厳選を重ねたうえでしか購入することはするまい・・・と思って訪れます。
もちろん手ぶらで帰ることも少なくなかったですが、思いもよらなかった収穫ににんまりして幸せを感じることはさらに少なくありませんでした。

今度の住処はHMVなどの店舗もなくなってしまった地域ですから、きっとネット販売だけが恃みです。
あの心ときめく物色の時間、出物に当たったときの驚きといった心境とはこれでさようなら・・・かもしれません。

売り場では断腸の思いで購入を見送ったディスクを、帰ってからレビューなど見直して残念がったり・・・
もう一度、と思って翌週もう一度店を訪ねたり・・・
でも、そう思った盤は、翌週は間違いなくそこにない・・・ものです。
そうわかっていても、行かずにはいられない気持ちになるのも、病気かもしれませんが、楽しみのひとつでありました。

「当たりたかったら買うしかない」宝くじと同じで、聴きたかったら探すしかない・・・のです。


さて、冒頭のディスクは20年以上探していたものですが、とうとう先週御茶ノ水で手に入れることができたという一枚です。
いえ・・・
厳密にいうと、探していたことすら忘れてしまっていたというのが正直なところなので、20年来マルコが母を探したようにしていたわけではありません。

本ディスクと同時期に録音された、対となるもう一枚(シューベルト:ピアノ・ソナタイ短調 作品42、ヤナーチェク:霧の中で、ドビュッシー:版画)は20年前に長崎で手に入れていました。

我が国のオーディオの世界では知らぬ人とてない菅野沖彦先生が、デジタル録音黎明期、巨匠フィルクスニーの来日の機会に録音したこれらのディスクは、1990年ごろのクラシック・レコードの年間ではじめて存在を知り、演奏に対する「特選」の評価と演奏者のバイオグラフィーから聴いてみたいディスクのひとつになりました。
20年前、そのうちの1枚を耳にしたときにピアノ音楽を聴き漁っていた私の耳に、フィルクスニーの奏楽は格が違うと思われました。
親しみやすさ、高貴さ(後光が差しているように聴こえた記憶があります)、しなやかさ、素直さ・・・
どれをとっても桁外れに思われたものです。

菅野先生の録音に関しては、ホールのライブネスを生かしながらも、近接録音により微細な音の表情をとらえるのがコンセプトというライナー通りの特徴がすぐに聴き取れるもの。
さすがに当時のスペックと今では違うのかなというところはありますが、先の目的に照らせば、現在でも最優秀といえる結果が出せているといって間違いないでしょう。


そして、今回、ひょうたんから駒のごとく入手できたこのディスクもまったく同様、演奏・録音ともに期待をまったく裏切らない、本当に手に入れられてよかったと信じられるものでありました。

往年の巨匠のすごさ・・・
アラウは「むん」と力技を決め濃ゆい優しさが特徴ですが、フィルスクニーは力が入っているように思えないのに足腰が揺るがない座りの良さでどこまでもしなやかな優しさを感じさせます。

アゴーギグ、デュナーミクをいたずらに駆使することなく、渋みも味わい深さも感じさせる、すごい境地にあったことがこの録音から十二分に伝わってきます。
シューマンの解釈にも目を見開かされました。
いままで退屈でしかなかったダヴィッド同盟舞曲集が、ここでは最後まで耳をそばだてさせられるものとして存在しています。
もっと華々しく聴こえる演奏はたくさんあるのでしょうが、聴き手にもっとも寄り添う、いや、聴き手が寄り添える演奏としてフィルスクニーの奏でる響には抗しがたい魅力があるように思えるのです。


ほかにも東京の中古盤店で出会って狂喜したディスクたちがあります。

ターリッヒ弦楽四重奏団によるモーツァルトの弦楽五重奏曲第5番・第6番のディスク、何の予備知識もありませんでしたが買って聴いてびっくり。
第3・4番より、第5番の方が私にとって名曲だと知らしめてくれたもの・・・
当然、他のディスクがほしいと思いますが現在廃盤、なぜかと思えばカリオペ・レーベルが活動停止しているから!?

大慌てで店頭で見つけていたユージン・インジックのドビュッシーのピアノ作品集を取り措いてもらい、あわせてショパンのマズルカ全集も迷うことなくゲットして、その後こつこつ歩いて全曲そろえたタカーチュの五重奏曲のディスクと併せて全部大当たりだったこと。。。

イズー・シュアのチェロ、ゲルゲイ・ボガーニのピアノによるショパンとラフマニノフのチェロ・ソナタのディスクを手に入れたときも、チェロ・ソナタのディスクがピアノ独奏の棚にあったので、「なんでこんなところにあるんだ?」と思って手にとってみたら、ジャケットの彫刻が非常に美しく心奪われ、そのうえ奏者がノクターン全集で感銘を受けたボガーニがピアノだったのでラッキーと思ったら、なおかつ「未開封」と記されていて、即ゲットしたんでしたね。

ペーターゼン四重奏団のベートーヴェンのディスクも、シネ・ノミネ四重奏団のシューベルトのディスクも・・・
そうそう、このブログで第1巻がどうしても見当たらないと嘆いたジャン=フランソワ・アントニオーリのドビュッシー前奏曲集のディスクも・・・

現在廃盤で手に入らないはずのものが、「なんでこれがここにあるんだ!?」という歓喜を経て、何かのご縁でこうやって私の手元にあり、それぞれが楽しませてくれて・・・もちろん現時点で私にとってハズレだったかもというディスクもありますが・・・います。


求めよ!さらば与えられん!


これを実感させるこういったディスクとの出会いの機会が、今後、激減することは避けられません。
いささか残念に思うことも事実です。


しかし・・・
実は、今回このフィルクスニーのディスクを見つけたきっかけは、長女が千葉に遊びに来る待ち合わせ時刻までの時間つぶし。
娘を東京に呼ぶ提案をした私のファインプレーだともいえますが、こころよく応じてくれた娘が私にとってのラッキーガールなのでありましょう。

思えば、高橋多佳子さんの三条のコンサートにはじめて足を運んだときにも、大雨の中、娘と一緒にホールに行って感激したのが、ファン歴の始まりでした。

単身赴任解消で家族とともに過ごす時間をこそ、今後は宝物として過ごしていく・・・
今回長女が千葉に来たのも、そんな契機を感じさせるできごととなりました。

もちろん、素晴らしい音楽を機会が許す限り新しい土地(故郷ですけど)で聴きに行き、ディスクで楽しむことは続けるに決まっているんでしょうけどね。

好漢逝く

2012年01月11日 22時53分24秒 | ピアノ関連
ピアニスト、アレクシス・ワイセンベルクのディスクが我が家のターンテーブルに載ったのはいつ以来だろうか?

15年・・・いや20年以上も聴いていなかったかもしれない。
私が社会人となった前後にドイツ・グラモフォンにあって、気鋭のピアニストとしてならした彼。

彼のドビュッシーは何度も聴いた記憶があるが、ラフマニノフのソナタのディスクは巧いかもしれないがなんと無造作な弾き方かと思い、スカルラッティのソナタはペダルの踏みすぎではないかといぶかしんだ。
おかげで私のクラシックのキャリアの最初期に手に入れたCDのはずなのに、いまなお美麗で新品同様に見えてしまう。

それが今・・・
彼のラフマニノフを耳にするとなんと無駄なく、潔い男気を感じさせる演奏家であるかと感嘆し、スカルラッティにはピアノによる男の憩いの最良の表現であったと認識を新たにしている。



折しも東京事変解散の報があった。

椎名林檎の声明にはこうあった・・・


我々が死んだら電源を入れて
君の再生装置で蘇らせてくれ
さらばだ!



そして・・・
1月8日の訃報に接したアレクシス・ワイセンベルクは私のうちに今晩再び蘇り、不滅の硬派な好漢ピアニストとなった。

合掌

クラウディオアラウノミコト

2011年10月20日 02時06分56秒 | ピアノ関連
★ショパン:バラード集(全4曲)、舟歌、幻想曲
                  (演奏:クラウディオ・アラウ)
  バラード集
1.第1番 ト短調 作品23
2.第2番 ヘ長調 作品38
3.第3番 変イ長調 作品47
4.第4番 ヘ短調 作品52

5.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
6.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (録音:1977年・1980年)

アラウのバラ4・・・ふたたび・・・これがこの記事の当初のタイトル。。。
それは一寸おいておいて・・・


このところやたら忙しい・・・
いや、これまでもずっと忙しいと思っていたのだが、忙しさの質が変わって忙しい・・・このこと自体は、そのような時代なのだと受け入れるほかはないのだが。。。

それだからかどうか、ベートーヴェンやシューベルトの弦楽四重奏曲を聴くことが多い。
ことベートーヴェンの音楽に関しては「生きる勇気をもらった」なんて話もしばしば耳にするし、とにかくてっとり早く心の底から癒されることを期待して・・いるのだが、もとより、そうそう期待通りに気持ちは晴れてくれるものではない。
自分のキモチなのにね。。。

近況報告が続くけれど、きっかけは忘れたが、いつからか読書傾向が「古代史」一辺倒になってしまっている。
たぶん・・・
その素地は、梅原猛さんの本にかねてから親しんでいたからに違いない。

「古代史」といっても、就中、天智・天武・持統天皇のころの我が国がどんなだったのかには、関心が尽きることはない。
これを書き始めたら本題に移れないので、このころこそがわが国の今に至る文化・価値観のベクトルが「創られた」時期であったこと、長年憧憬といってもいい想いを抱いていた藤原不比等に対するイメージが全く変わってしまったことだけを記してとっとと話題を移すことにする。


さて・・・
これらの時代を知るのにまず第一に手に取られるのが「記紀」だと思うのだが、神話の時代から天武・持統天皇までのことが記されているこれらの本には、国の最高位にある神様・天皇のご先祖筋の神様が二柱あるように読めちゃったりする・・・気がする、ことはうすうす感じてはいた。

専門家ではないので以下にどれほどいいかげんなことが書いてあってもお許しいただきたいとお断りたうえで書き連ねるが、その二柱の神とは高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)と天照大御神(アマテラスオオミカミ)である。

天孫降臨において、ニニギノミコトを豊葦原瑞穂の国(ようするに日本ってことでいいんだと思うけど)に遣わした・・・そういう命令をニニギノミコトにしたのは、実は高皇産霊尊が主ではないのか?
天照大御神も確かにそういうシチュエーションにあるけれど、連名でくっついているようなファジーな伝承の書き方になっていやしないだろうかという疑問はどうしてもある。

で・・・
タカミムスヒノミコトって誰、ということになるのだが、「皇祖」とちゃんと書かれてもいる男性の神様なんだから、とんでもなく由緒正しい(だろう)ことは間違いがないだろうと思う。
神様の王様といってよい・・・んじゃないかしら。。。

しかし・・・
女性の台頭激しい世の中だからというわけではないだろうが、現代に至って巷では、唯一無二の神様のトップはアマテラスオオミカミというクィーンだと思われているのはなぜだろう?
かく云う私も・・・
伊勢神宮がやたら有名なことや、実家の床の間の掛け軸にも天照大御神の名が入った表装がかかっていたりするもので、これまで天照大御神こそが我が国の皇祖皇宗に連なる神様の中の神様だと信じていた。

それが・・・
いろんな本を読んでたら、「なんだか明治維新以降の教育の影響でそうなっちゃった・・・のかもね」という感がなきにしもあらずの今日この頃である。

ほんとうにいろんな説があって紛糾しているものだから、これらの神々がどういうものか実はよくわからなくなっちゃっているのだが・・・
要するに、今をトキメク太陽神(に仕える?)天照大御神があって、それこそ夜中の太陽のように厳然と“ある”のだが私たちの目の前から消えてしまっている高皇産霊尊がいるということだけ伝わってくれればそれでよろしい・・・。


さてさて・・・
記紀が実際にできたのが古事記712年、日本書紀720年とされており、殊に我が国の政府(?)による国史たる日本書紀は、その完成の年に没した恐るべきスーパー官僚たる藤原不比等の意向が相当に盛り込まれている・・・らしい。
どの本を読んでも、そこらへんは・・・程度の差こそあれ・・・そりゃそうだろうなという共通の認識になっているようだ。

天智天皇の懐刀だった中臣鎌足の息子であり、壬申の乱で天智の息子を破って即位した天武天皇の時代には文字通りホサれて臥薪嘗胆の日々を送っていたようだが、天武天皇の皇后(天智天皇の娘でもある)である持統天皇の御世になって俄然頭角を現した藤原不比等。
われわれのころの日本史の教科書にはちっちゃな字でしか書かれていなかったものだが、実はその息子たちである藤原四兄弟よりもしたたかで器のでかい野心家であり、日本の歴史のあり方を創ったのが彼であることは、私の中ではもう30年も前から確信されていたことだった。
彼があっての藤原氏のその後の隆盛であり、娘たちを天皇の后とする外戚関係を結ぶことでとりわけ藤原北家の家系が平安時代の道長の時代に「望月の欠けたることもなしと思へば」とまで歌わせるだけの基礎のほとんどすべてを組み上げてしまった・・・といって過言ではないと言っちゃっても怒られはしないだろう。
昨今の古代史の情報読み漁りを通じて、その思いは強まるばかりである。

彼を登用した持統天皇・・・
このお方がすごい曲者で・・・といってはなんだが、この人を天武天皇の皇后として先帝の遺志を継いだ人と見るのか、天智天皇の娘と見て天武王朝を乗っ取ってしまった人と見るのかで位置づけがまったく変わってしまういわばカメレオンのような天皇でいらっしゃる。

前者は、天武・持統夫妻がおしどり夫婦と伝えられ病気平伏を祈って薬師寺等を建立した云々の逸話、天武の遺志を継いで天皇を中心とする中央集権国家をつくるために数々の業績を挙げ、崩御されてなお(天皇ではじめて仏教的な)火葬をされたうえで天武と同じ墓に葬られたなどなどのことから、私がかねてから普通に思ってきた考えである。
まぁ・・・政治上のことがらは、不比等がレールを引いてそのうえで天皇の業績として残っているだけなのかもしれないが。

後者は我が子草壁皇子を帝位につけんとし、同じ天武の子で有力な後継候補だった高市皇子を死に至らしめ、鎌足の息子の不比等と組んで(結果として)壬申の乱で消えかかった天智色に戻したことになる・・・という類のものである。

先にカメレオンといったのは、持統天皇は食うか食われるかの政争の中でそのブレーンとともに自身ができることを一生懸命やられたにすぎないのであって、その行動の性格はそれ以外の意味合いを含むものでもあるかもしれないと思うからに他ならない。

現に、持統天皇の方向性が仮に後者であったのだとしても、現代のわれわれは天武天皇と仲睦まじい前者のイメージを持っている。
桓武天皇に至ったころには天武系は絶えて天智系の天皇に連なっており(そしてそれが現代に至っている)、持統が(きっと不比等と組んで)高市皇子を自刃に追いやったことが天智系復活の決定的なキーポイントであるだろうにもかかわらず、その当事者持統天皇は天武系の後継者と一般的には見られていること自体がカメレオンではあるまいか?
ひょっとすると・・・持統天皇ご自身は、天武系・天智系なんて考えてもおられなかったかもしれないが・・・後世の人はえてして二元論でどっちかにあてはめてみたい衝動にかられるようだ。

この(結果として)得体のしれない(ように思えるようになってしまった)持統天皇が、天照大御神に比肩されることがしばしばある。
理由としてはまず女帝であること、そして「天孫降臨」・・・おばあさんが孫に国を治めさせるようにすることを願い、自分の子供の草壁皇子の息子である文武天皇を執念で即位させたというシチュエーションがぴったり当てはまること、そして伊勢神宮が今のような在りようとなったのがちょうど持統天皇のころだと思われることなどが挙げられている。
私もこの点はそうだろうな・・・と思う。

日本書紀を編纂し、時の元明天皇に捧げたであろう不比等が、持統の息子の嫁さん(元明天皇)と孫(元正天皇)に、持統から文武という孫への皇位のバトンタッチを自国の正史の神話のハイライトになぞらえてみせたとあれば愛いヤツとなるのは必定だし、最高のヨイショであると思うから。
(本論から外れるが、「天岩戸」でアマテラスが隠れたのを神様が騒いで引っ張り出したという神話も、天武崩御後、本命の皇子を殺したために持統も実は立場を無くしていたところを、不比等をはじめとする持統の取り巻きがカムバックさせたことを現しているという説はおもしろいと思う。ほんとかどうかはこの際問題ではない。)

それでは・・・
高皇産霊尊は誰に比肩されるのか・・・・これははっきりとした定説はないようにも思われる。
なんといっても、もともとはとっても畏れ多い神様でありながら、なぜか天武・持統の時代(不比等の時代)以降忘れられる一方になっちゃったように見える神様だから。。。

比肩するには畏れ多すぎるし、アマテラス一色の中で「まぁ誰ということにしなくてもいい」のかもしれないし。

一説に不比等になぞらえる説もあるみたいだけれど、畏れ多すぎという理由で私は採りたくない。
(不比等を塩土老翁(しおつつのおじ)になぞらえる説もあり、まだこの方がありかもしれないと思う。でも、塩土老翁を蘇我氏の祖とされる武内宿禰のに比肩する説も捨てがたい気もする。)
専門家じゃないんだから、こんな気分みたいな理由でも勘弁していただきたい。

私自身は、高皇産霊尊を天武天皇に比肩すべき要素ってないのかしら・・・と思っているのだが、そういう説を掲げた本にはまだ巡り会っていない。
個人的には天智の子である持統・元明も、我が子草壁・我が子文武という下への血統意識はあっただろうけれど、尊属には「天智系」「天武系」という自負は持っていなかったというか、そういう概念はなかったのではないかと思っている。
天智・天武だけを(後世から)見れば、確かに現代の鳩山某のような兄弟でいつからか所属する党が違うみたいなケースに思われるかもしれないが、そのまた皇祖皇宗を訪ねたときには、その血はぐちゃぐちゃに混じっているに相違ないのではないだろうか?
血の濃さの割合を計っても、事実に即するとは限るまい。今だって、遠くの親戚より近くの友みたいな格言もある。

ひとえに今の世から振り返ってみているものだから、結果として天智系と天武系がちゃんちゃんばらばらをやっているように見えるだけであって、当時、実際には味方以外は(多少の血縁にかかわらず)全部敵であって、過去の血統は尊重されこそすれ、天智・天武だけのそれにとらわれる考えはなかったのではないかと思われてならない。

で、脳天気かもしれないが・・・
天孫降臨の命令をアマテラス(=持統)に先んじて一緒に発したのは、(鬼籍に入った後であったとしても)天武であってほしいという気がするから・・・。
また持統天皇も、亡き夫の天武もそう思ってくれていたらいいのにと願わずにはいられなかった・・・と思いたいから、私は高皇産霊尊=天武天皇説を主張しちゃおうと思う。

ただし、この考えだとやっぱり同時代に同じゴールを目指して声を上げたのは(それも持統を導く形で)不比等になっちゃうんと違うか・・・という論法も成り立ってしまうのだが、そりゃいくらなんでも元明・元正の手前もあって畏れ多いという理由で却下したいわけでして・・・
と、くどくど反論(反証とはおこがましくていえない)しておくことにする。


さあ、どこが音楽ブログだという展開もはなはだしくなってきたので本論に移ると・・・

私にとって数年前から、今をときめくピアニストは高橋多佳子さんである。
ショパンの旅路Ⅴのバラ4の演奏で邂逅して以来、彼女の音楽は、私にとって太陽のようにポジティブなものであり、頻繁にCDやウォークマンで耳にしていることはこのブログでも何度も記してきたことである。
そして、伊勢神宮に天照大御神を詣でに行くように演奏会へ行って居住まいを正して真摯に音楽に向かい合うこともある・・・まさに、音楽界の天照大御神のような存在なのである。

しかし・・・
その数年前以前には、私の中でショパンのバラ4といえば私が便宜上(思いつきで)ハンドルネームとして名前をお借りしているクラウディオ・アラウこそが神のような存在としてあった・・・。
リストの『巡礼の年』からの抜粋の演奏(これらを凌駕する“ペトラルカのソネット”や“オーベルマンの谷”の演奏を私はまだ知らない)で出会って以来、ずっと気になっていたアラウ。
ドビュッシーの前奏曲や映像を収めたディスクにも感銘を新たにしていた頃、訃報を耳にしたのは本当に突然だった。

仕事中にカーラジオでその報に接し、追悼としてかかったのがバラードの第1番と第4番・・・
第1番こそミケランジェリの決定的名盤を得ていた私であったが、当時、バラ4はよくわからない曲でしかなかった。
車を止めて、一音たりとも聞き逃すまいとラジオに食い入るように聴いた、そしてそのとき、アラウのバラ4こそが私のバラ4になった。

わが国固有の文化で生まれ変遷したと考えられるアマテラスに対して、高皇産霊尊は大陸の文化を礎とする(輸入された)神であるいう・・・
高皇産霊尊のごとく、今や私の記憶からほとんど消えかかっていた異国のアラウのショパンのディスクを本当に久しぶりに聴いた。
別に10月17日のショパン忌にちなんでというわけではない、忙しくて忘れちゃっていたのだから。。。

タカミムスヒ・アラウのバラ4がアマテラス・多佳子さんのそれに取って代わられてしまったのはわけがある。
気分がハイのときに聴くと、アラウの(特にショパン)演奏は鈍重にすぎるからだ。
これが気になるときはフィーリング的には絶好調だという気が、経験的に、する。

翻って今・・・
これほどまでに確信に満ち、確固とした居住まいでスケールも壮大、あらためてその威容を仰ぎ見るような音楽であったことに気づかされることになった。
エレガントでもあり、男性的でもある・・・
いっとき頭から離れることはあったにせよ、やはりネクラに陥ったときの私にはアラウの演奏はたとえそれがショパンでも、ベートーヴェンの作品110の嘆きの歌のフーガのごとくエンファシスの温かさを備えながらも盤石である大伽藍を想起させる神通力をもった音楽であった。
それは壬申の乱を制した際の天武天皇の勇猛さにも通じている気がする。

というわけで・・・
本記事は、アラウのバラ4のすごさをにわかに再発見したというだけの話なのだが、やはり、高皇産霊尊は忘れられた天武天皇へのオマージュを反映させた神・・・
であってほしいという希望的解釈も併記しておく。(^^;)

Grand Prix du Disque Frederic Chopin

2011年01月22日 23時16分42秒 | ピアノ関連
★ショパン:バラード&スケルツォ
                  (演奏:シプリアン・カツァリス)
1.4つのバラード
2.4つのスケルツォ
                  (1984年録音)
2011年を迎えてはや20日あまり・・・
正月の暴飲暴食で激増した体重と体脂肪率をどうしたら昨年水準に戻すことができるのかが喫緊の課題となっている毎日を送っています。

今年はリスト生誕200周年ということで、年初よりリストのディスクを聴きまくるかと思いきや、実は(クラシックでは)ショパンを聴きまくっているという天邪鬼。
今年も私らしく好き勝手にやっていきますので、もしよろしければお付き合いのほどを。(^^;)


昨年2010年はショパン(シューマンも)生誕200周年で少なくとも年初は盛り上がりましたが、振り返れば、後半は大失速してそれほどでもなくなっちゃったなぁ~と。。。

ショパン国際コンクールで邦人コンテスタントが早々に姿を消してしまったことが、好楽家はともかく、我が国の国民あげてショパンを礼賛する機会を奪ってしまったのかもしれません。

その前年のヴァン=クライバーン・コンクールにおける辻井さん優勝のようなセンセーショナルな出来事が今回のショパコンで起こっていれば、ショパンの申し子の誕生とともに我が国におけるショパンのCDの売上は、少なくとも2割増ぐらいにはなったのではないでしょうか・・・?

ジュネーヴで萩原麻未さんが勝っている・・・テレビでちょっと聴いただけですが彼女の演奏には大いに期待しています(ディスクにならないかな?)・・・ことからも、この結果は我が国のレヴェル云々ではなくたまたま同胞の武運が拙かっただけのだと思いますが・・・
ショパンおよびその関係者のみなさんは、ブーニン以来久しぶりに我が国を席巻するチャンスであったのにと残念に思っているのではないでしょうか?

果たして・・・
昨年の大会で覇者となったピアニスト・アヴデーエワさんは、アルゲリッチ以来の女流であります。
独特な雰囲気を感じさせはしますが、実際の演奏はディスクになって出てきてからを楽しみにしよう・・・
かなというのが今のところの感想です。
You-tubeの演奏では、私には彼女のよさがどうにもよくわかんないんです。
少なくともアルゲリッチと比較するのは、いかにアヴデーエワさんが実力者であっても、これからキャリアを始める彼女には気の毒というものではないかと思っています。


ところで・・・
このコンクールには新星を夢見るコンペティターによる戦いのほかに、開催インターバルの5年のうちに出たショパン演奏のディスクを、審査員がブラインド(誰が弾いている盤かをわからないようにして)で試聴してグランプリを決めるという「フレデリック・ショパン・グランプリ・ディスク大賞(Grand Prix du Disque Frederic Chopin)」という賞があるようです。

そして・・・
今回のそれは前大会覇者ラファウ・ブレハッチによるピアノ協奏曲の演奏に決まったとの発表がありました。

1985年に本賞が創設されてからこれまでの受賞盤がなんだったかは、このサイトで確認できます。
http://www.grandprix.chopin.pl/hist_en.html
ここで栄誉を勝ち取るディスクは確かな耳を持った複数の審査員が投票している点において、有名・無名を問わず、有無を言わせぬ個性を際立たせた味わい深いものとなるだろうことは明らかです。
要するに・・・
掘り出しもののお墨付きディスクを期待しているってことなのですが、カツァリスのバラード&スケルツォ、ペライアの即興曲集、アラウの練習曲集、メルタネンの夜想曲集などの実績を思うとき、まさしくその期待に応える銘盤にほかなりません。


しかしながら、今回の決定にはちょっと釈然としないものを感じています。
もちろんブレハッチ(コンチェルトは未聴、前奏曲集は聴いています)では物足りないということではありません。
彼は確かに素直で繊細な歌心のあるピアニスト(そりゃ前回の優勝者ですから)で、普遍的に水準の高い作品を作っているといってよいと思います。
ですが・・・
同じコンチェルトのディスクでも、ツィメルマンとはやはり相当にハクも違えばこっちの受止め方が違うのも事実であります。
ツィメルマンでさえあれだけこだわりにこだわって制作したディスクと、同等以上の評価を与えることができるほどのリッパなディスクなのか?

5年に1度のこの賞で、並みいる競合盤を抑えてまでグランプリっていう評価はどうかしらんと感じるのです。


ここで大賞以外の情報を見てみると・・・
アルゲリッチの一連の作品が「歴史的録音」として殿堂入りみたいに表彰されているのはまあいいとして、選外佳作にこれまたブレハッチの前奏曲集があります。

その他にはアルゲリッチとよくデュオを組むベテランのネルソン・フレイレ、このバックステージでも特集したことのあるニッチなプチ全集マニアの中堅ピアニスト・パスカル・アモイアルの、いずれも夜想曲集が選外佳作に名を連ねています。
アルゲリッチを除く4作品中からであれば、私ならアモイアルの夜想曲集を選ぶけどなぁ~。


さて・・・
グランプリ・ディスクに釈然としない理由にはいくつかあるのですが、実はフレイレかアモイアルが獲っていれば「なるほど」だけで済んじゃうんです。
つまり・・・
まず、候補として前回大会のポーランド出身の覇者が2枚入っているってところから、いきなり引っかかっちゃっう私。

審査にあたってはショパンに世界一造詣が深いといっていい専門家たちが聴いているわけなんですよねぇ~・・・
メジャーレーベルから出ているこの2枚は、いかにブラインドで聴いたからといって審査員全員がブレハッチのそれだと判っちゃいませんか?
ここが疑問というより、確信に近いところなんですよね。

次に気になる点は・・・
前回の2005年大会のグランプリをロンドなどのマイナー曲中心のプログラムを組んだポーランドの俊英シヴィタワが獲っていること。
ベアルトンレーベルからのこのシリーズは、私も興味深く聴いているのですが今回大会の推奨楽譜を使っていることが特徴。
その前の大会にもワルツ等で名を連ねるこのポーランドのピアニストが栄誉に輝いている・・・
確かに彼は得がたい雰囲気を持っているのですが、受賞ディスクと思うと国籍・楽譜というものがどうしてもちらついてしまうのです。

そして・・・
同年には「ディプロマ」なる賞ができて、フランスのピアニスト、ヤン・メルタネンの奏する夜想曲集が表彰されています。
私にはこちらのほうがよっぽどグランプリに相応しい、個性を聞かせるディスクであるように思われますが・・・
いえ、こういうディスクをちゃんと掘り出してくれているので「審査員のみなさんは、聴くべきところはきちんと聴いている」と良心を信じられるのですが・・・
発表された結果から遡ってなぜかを考えると、どうしてもガチンコのディスク試聴の結果だけで選出されているものではなく、高校受験における内申書みたいなものがあるんじゃないか?
そんな風に勘ぐっちゃうんですよね。。。

こう考え始めると・・・
ブレハッチのディスクが2枚も候補となっている点ひとつとっても、ポーランドのピアニスト、前回覇者という肩書き、それらを満たす得がたいアイコンに権威付けしなくてはという意図が見え隠れしないかと懐疑的になっちゃったりして。
また、今回選外佳作となったうちの2種が夜想曲集で、前回受賞しているメルタネンと被るので敬遠された結果、ブレハッチのどっちにしようかなんて思われたのではないかと・・・

いや、考えすぎですよね。(^^;)
それにも増して、ブレハッチ盤が本賞に相応しい見事な出来栄えだったに違いありますまい。

いずれにせよブレハッチの受賞盤以外は全部持ってましたし、ブレハッチのコンチェルト盤にももちろん注目していましたから今回は掘り出し物はなし・・・
5年後の知られざる注目盤の発見に期待という結論に変わりありません。


さて・・・
先にも書いたようにショパンイヤーの終盤以来しばらくショパンから遠ざかっていましたが、新顔が現れなかったために、その発表以来初回のグランプリ獲得作品であるシプリアン・カツァリスのバラード・スケルツォ全曲集と、先の前回大会でのディプロマ受賞作メルタネンの夜想曲集を聴き直したらハマってしまいました。

いや本当にカツァリスのバラード&スケルツォの解釈には驚かされました。
本賞の最初の受賞盤であるこのディスク、実はこれに捧げるためにわざわざこの賞を創設したのではないかと思えるほど凄い演奏だと改めて感じ入りましたね。
他の誰と比べても、曲の解釈も演奏のレベルも違う(好みかどうかは別)という別次元の出来栄え・・・そう思います。

同じ楽譜を使っているのに和音の中で強調する音のバランスを違えることでぜんぜん違うフレーズが現れそれが対話しているように聞こえ、それでいて不自然な感じがしない・・・。
さらに、強烈な数の音符を弾いているはずなのに恰幅はよくても贅肉のまったく感じられない演奏となっている点など、今の私の耳で聴いてみると、本当に驚異です。

これまでは個性というより灰汁・クセの強い演奏という印象のほうがが強く、いわゆるヤクザな鉄砲玉のような演奏のように思えてしまっていて、ほどんどお蔵入りになっていたんですよね。。。

今聴いても、確かに、内声の浮かせ方などは正統的かどうかはわかりません。
それでも、ショパコンの専門家が推しているぐらいだから、他と違うようにこう聞かせてやろうといういかがわしい意図が前面にあるわけではないだろうし、楽譜から遊離しているということもないでしょう・・・こう信じさせられてしまうところはショパコンの権威の凄さかもしれません・・・から、そのような解釈・演奏は独特な個性であってそこから何か芸術的な妙味を感じられるはず・・・

そんなことを感じながら気負って聴いたわけではないのですが、あそこをこう弾いたとか細かいところではなく、曲・ディスク全体の作り出す空気にこそえもいわれぬ厳しさや新鮮なショパンらしさの提示があり、もともと感じさせられていた何でも弾けちゃいそうな奏楽自体の凄さも相俟って、やっぱりこれは凄いディスクだわ・・・と嬉しい思いで唸っているところです。

似たような感覚を持っているピアニストにジャン・マルク・ルイサダがあり、これもショパンの一部やビゼーやフォーレのディスクにはえもいわれぬ瞬間を感じることがありますので、一度できてしまった先入観も、時間をおいて聴きなおすことで180度逆の魅力として捉えなおすことができるものですよね。

数は少ないのですが・・・聴き直したらアラばかり目立って逆にがっかりしちゃった例も、あるにはありますが。(^^;)

★ショパン:NOCTURNES Vol.2
                  (演奏:ヤンネ・メルタネン)

※夜想曲 作品37・48・55・62および遺作3曲
                  (2003年録音)
もうひとり・・・
本賞受賞作だからこそ巡り合えたディスク・ピアニストとして、ヤンネ・メルタネンの夜想曲集(もちろんVol.1と2の2枚あります)にもはまっております。
コイツは若い男にしか出せないと思われるエレガンスを感じさせる美しい演奏です。
心と体が落ち着いた冬の日の夜に向き合うにはこのうえないチョイスで、時を忘れて聴くことができる・・・
そんなディスクです。


さてさて・・・
これを書いているまさに今、ネットで注文していたディスクが到着しました。
今年はじめてコレクションに加わったクラシック・ディスクは3枚。
前回の日記で注文したと書いたディナースティン嬢の“A Strange Beauty”と題されたバッハの作品集、ヘレヴェッヘ指揮によるフォーレのレクイエムとフランクの交響曲のディスクと合わせて、昨年のレコードアカデミー賞器楽部門を制したメジューエワさんのショパン・ノクターン全集であります。

さあ・・・
この中からカツァリスやメルタネンを押さえてマイ・ヒットチャートのナンバーワンを勝ち取るディスクは現れるのか?
明日、この記事を書いていたら違ったディスクの紹介になったかも・・・
と思えるほどに期待している3枚なので、今週末はじっくり楽しめそうですね。


それにしても・・・
相変わらず今年の主役となるべきリストのディスクがないんだよな。。。

ル=ゲさんのディスクが出るみたいなので、しっかりチェックしてみよう・・・
いいディスクがなきゃないで、昨年入手したベルマンの「巡礼の年」でも繰り返し聴いて、涙してりゃいいだけの話ではありますが。

ショパンの饗宴 ~ プレイエル vs. エラール

2010年07月04日 22時21分42秒 | ピアノ関連
★CHOPIN
                  (演奏:エドナ・スターン/1842年製プレイエル)
1.3つの新しい練習曲
2.バラード第2番 ヘ長調 作品38
3.ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35
4.ワルツ第5番 変イ長調 作品42
5.前奏曲 嬰ハ短調 作品45
6.ワルツ第12番 ヘ短調 作品70-2
7.バラード第3番 編イ長調 作品47
8.ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2
9.前奏曲第20番 ハ短調 作品28-20
                  (2009年録音)

先月はなぜかしらショパンどころかクラシック音楽全般から遠ざかって、ずっといにしえのJ-POPを聴いていることが多かった。

こんなご時世、どうしてもへばりがちな気持ちに喝を入れようとすれば、派手にオーバードライブを効かせたギンギンの変態的な曲がいいだろう。
例えば、ジュディマリの“THE POWER SOURCE”を聴いて元気をもらおうなんてソリューションもありかなと思うわけだが・・・
一聴底抜けに元気に聞こえるあのアルバムも、実は堅固なプロデュースに卓越した演奏技術が相俟って予定調和的に聴こえてしまって驚いた。

我ながら、なんと醒めていることか・・・と。

ほかにも新旧を問わず、いろいろ試してみたが、どうにもこうスカッと爽快に抜けるものに出会うことがなかった。

もちろん、それらの曲が悪いのではない。
かつて曲に出会った頃、当方の心の状況がゆとりあるものであったがために、そのときには気分も鬱憤も抜けるべくして抜けたのだ。
「今、沈んでます」状態のときに何を聴いたところで、すでに沈んでる気持ちが浮上しないからといってほかのもののせいにすることはできまい・・・。
ということで、じたばたすることを断念していたところに、かねて注文しておいたCDが相次いで到着したのである。(^^)/

初対面のディスクたち・・・全部で8種、12枚に上るがこれがたまたまいっぺんに在庫が「整いました」そうで・・・
否応なく、虚心坦懐に聴くことができるありがたいチャンスである。


まずは、海外ネット販売店の視聴コーナーで一部を聴いて彼女のディスク4枚を“オトナガイ”してしまったイスラエルの女流ピアニスト、エドナ・スターン嬢によるショパンのリサイタル盤である。

本盤のほか・・・
後に、ショパンのチェロ・ソナタのディスクについてひとこと紹介したいと思う。
その他にもバッハ、シューマンのディスクを聴いた。
それらの紹介はこの記事ではしないけれど、これまでにこれらの楽曲から感じたことのない深い感銘を受けたことだけは記しておこう。
間違いなく今がひとつの旬である、目が離せないアーティストである。

そんなエドナ嬢のショパンのリサイタル盤であるが、アンブロワジー・レーベルからの発売ということで期待はいや増すのである。
アンブロワジーは、後ほど紹介するチェロ・ソナタの盤でチェロを弾いている(言うまでもなくチェリストが主役なのだが)オフェリー・ガイヤール嬢が在籍し、バッハの無伴奏やフォーレの曲集など今でも愛聴盤となっているディスクを録音したレーベルである。
フィリップ・カッサールのあの美しいクラルテが印象的なシューベルトの変ロ長調ソナタなどのディスクもここであった。
要するに、録音がことのほか素晴らしいという先入観をこちらが持ってしまっているから、演奏のみならず音そのものへの期待もなみなみならぬものになってしまう・・・。

かくのごとく、聴き手がプロデュース側の知らないうちに勝手な期待を募らせてしまった場合、奏者も迷惑だろうけれど、このディスクに関しては何度も聴くうちにじんわりとよさが伝わってくるようになった。

1842年ショパン存命中のプレイエル製フォルテピアノを弾いているというのも、本ディスクの売りのひとつだろうが、巧みな録音(低音の活かし方と残響の取り込み方の妙)で、多少腹がもたれたような感じはあっても雰囲気作りには役立っているのかもしれないと思えるので、プロデュース面全般に関しては、さすがアンブロワジーと言っておこう。


演奏については、昨今、ディスクを出そうと志してこうして知られたレーベルから期待を受けてその奏楽を世に問おうという(とくに若手の)演奏家のテクニック面などでは、私の気づくようなキズがあろうハズはなく、純粋にその破綻のない演奏から何を汲み取れたかが問題にされるレベルにある。

そして、このディスクの第一印象は、プレイエルの音とその残響処理による要因が多いのだろうがなんとベッタリ・モッタリした起伏のないものだろうというものだった。
その時々の演奏は上手いので文句の付けようもないが、全体の心証としてはなんかずっと沈んでいる・・・が何故か最後まで聴けてしまうのが不思議・・・みたいな感じであった。

でも、2回・3回と聴き返すにつけて、平板な印象というのは錯覚であることを知った。
勝手な想像だが・・・
このディスクのプログラム(とそのパフォーマンス)にはドラマがある。
ここで表現されているのは、女の子がごくごくプライベートに普通では誰にもオープンにしない失意⇒立ち直りまでの気持ちの推移ではあるまいか?
たとえば失恋から一晩泣きあかして、翌日それでも口もとに笑顔を取り戻すまでの精神の浄化作用を、このプログラムから読み解くこともできるのではないかと思った、のだが穿ちすぎだろうか?

3つの新しい練習曲は、演奏として受止めればプレイエルの響もあって重心の低い魅力的な演奏で、新しい魅力を多く教えられたものである。
ただ、その響は厳しくインティメートでスターン嬢の部屋で、他の誰にも見せない素顔を垣間見ているような印象、一日の終わりのクールダウンされたものかもしれない。

バラード第2番は、前の曲と別の曲と思えないほどすんなりと続き、気分も継続したままなのだが、曲が曲なだけに、クライマックスのところは個室、それも懺悔室で大騒ぎしているようなイメージに変わる。
こんなところに居合わせた司祭はタイヘンって感じなまでに、凄みがある。
楽曲演奏的に感じるところは、コーダになるとすさまじい勢いに乗ってドライブしきるというのがこの曲の常套手段だと思うが、スターン嬢は、ここでグッとスピードを控えるのである。
これが産み出す凄みたるや・・・新たな発見である。

で・・・
変ロ短調ソナタも名演なのだが、第一楽章はルバート気味に弾かれる右手がまだグチっぽいような気がするし、スケルツォもすごくしっかり弾けていていささかも許す気がないけれど、葬送行進曲ですこし日が差して、第4楽章はまだ重いけどさすがに一陣の風が拭き去ったのかと思わされるような内容ではある。。。

ワルツ以降はだんだんめいった気分も晴れてきて、前奏曲の転調に乗ってさらに気分も地すべり的に改善、バラード第3番では復調に近くなり、ワルツはあの陰鬱に弾いたらどこまでも陰鬱になりそうな曲すらも軽妙にさえ響くようになり・・・24の前奏曲のハ短調のプレリュードで、お習字の止めのように、決然と全巻の終わりを告げるという内容。

あくまで勝手な想像であるが、最近、記紀や万葉集などから古代史を解明しようという文献を通勤時に読んでいる私にとっては、1300年前のことをあれこれ想像しているのは、私のこのスターン嬢の演奏を聴いてのストーリー作りとそれほど大差がないかもしれないと思ったりする。
もとより古代史研究と違って、これらについてはスターン嬢へのインタビューもしようと思えば可能なわけで、それをしちゃったら真贋がハッキリするけれど。。。(^^;)


★フレデリック・ショパン:前奏曲作品28、2つのバラード
                  (演奏:シェイラ・アーノルド)
                  
1.バラード第1番 ト短調 作品23
2.24の前奏曲 作品28
3.バラード第4番 ヘ短調 作品52
                  (2009年録音)

エドナ・スターン嬢特集かと思いきや、もう一枚端倪すべからざる時代楽器によるショパンのリサイタル盤が我が家に届いているので、こちらも紹介しておこうと思う。

インドの女流ピアニスト、シェイラ・アーノルド嬢が1839年エラール製フォルテピアノを弾いたこのディスクがそれである。
ライバル関係にあったピアノの違いのみならず、スターン嬢がプレイエルでバラードの第2番・第3番を弾いているのに対して、アーノルド嬢はエラールでバラード第1番・第4番を弾いているという好対照・・・
ここに感激しているのはきっと私ひとりだが、スターン嬢とはまったく違うアプローチで明晰にショパンを表現しているので興味深い。

プレイエルとエラールの違いも、両ディスクを聞き比べることで合点がいくだろうし、時代楽器によるショパンのバラードがこの2枚で補完されて全部聴けるし・・・
ただ、私は蒐集癖がある人なので、興味本位に双方ともに◎をつけるのだが、片方が気に入った人は、もう片方は気に入らないということがあるかも知れないし、ひょっとすると現代の楽器のゴージャスな響になれた人には双方ともに物足りないという恐れがあるかも知れないことだけは、ご注意として、記しておこう。

現代ピアノに食傷気味の人が彼女らのフォルテピアノのディスクに耳を傾けるというのは・・・喩えて言えば、洋食に慣れている人がインド料理やイスラエル料理を食べるみたいなもの。。。
ただし・・・
このテイストは、決して和食、ましてや精進料理のそれじゃないので、やっぱり違和感をお持ちになることは想像に難くない・・・
でも、素材はショパンなので風流の範囲内での誤差であると、私は思うのだが・・・。


アーノルド嬢の演奏には私小説的な側面はいっさいなく、見られ聴かれることを前提にした、明晰かつオープンなリサイタルである。
それは、スターン嬢がアゴーギグは駆使してもデュナーミクを曲中で極端に対比させないのに対して、アーノルド嬢は前奏曲第14番などでは現代ピアノでやったら豪放磊落になっちゃうぐらいの勢いのデュナーミク対比をしていることによるのではないか?

バラード2曲も概してじっくり構えた弾きぶり・・・
第4番のロンド部分でも、身振りは決して小さくないし曲のいたるところを味わいつくして弾き進めていくさまは、同時体験させてもらう聴き手の私にとっても非常に充実した瞬間の連続で、時代楽器で弾いている以外に特段特殊なことをされていないにもかかわらず、私には深い充足感を抱かせてもらえた点において秀逸である。
エラそうに書いたけれど、第2主題の回帰のところの盛り上がり、甘美な旋律と音色、このあたりにも鳥肌モノの瞬間が数多くあって純粋に感動できる盤だったということ、大切なディスクがまた一枚加わったということである。

ショパンの音楽は、やはりショパンの時代の楽器でなければ・・・
とは言わない。
でも、ショパンはこんなできあがりの演奏を想定して、楽曲をこしらえたに相違ないと思わせてもらえるだけでも意義があるということは、強く思った。(^^;)


★Chopin
                  (演奏:オフェリー・ガイヤール(ce)・エドナ・スターン(pf))
                  
1.チェロ・ソナタ ト短調 作品65
2.前奏曲イ短調 作品28-2
3.ノクターン ト長調 作品37-2
4.前奏曲ホ短調 作品28-4
5.ノクターン ト短調 作品37-1
6.序奏と華麗なポロネーズ ハ短調 作品3
7.ノクターン ホ短調 作品72-1
8.ワルツ 第11番 イ短調
                  (2009年録音)

先に触れたガイヤール嬢とスターン嬢によるショパンのチェロ・ソナタを中心とした、チェロとフォルテピアノによる編曲版を交えたリサイタル盤。
チェロは1737年のゴフリラーを使用し、フォルテピアノは1843年のプレイエルだそうなので、冒頭のディスクとは同じ時期の楽器であるにせよ微妙に別の楽器なのかもしれない。

このディスクの感想は、最高のチェロ・ソナタの演奏であるということ。
これほどいい意味で聴きやすく、退屈しない演奏はないと思う。第2楽章のチェロの伸びやかな歌い方もこれらの楽器のアンサンブルの中で最高度に発揮されるような気がするし、確かに室内楽はその時代の楽器を使ったほうが、楽器同士の響合いの産物なので、作曲家の思うとおりの音色が再現されやすく、それがやはり最良であるケースも少なくないと思う。
ここでも、フランショームとショパンはこんな音楽の対話をしたのだろうと想像すると楽しい。
独奏の時には確信犯的に内気なスターン嬢も、ガイヤール嬢との掛け合いのなかでは晴れ晴れとした音も、フレーズも、繰り出してきてはるかに健康的に感じる。

そうしたプログラムの中に独奏のノクターンを夢見がちに、あるいは物憂い気分で交えるところも憎いところで、ステキなディスクであるとは思う。

ただ、アレンジ物に関しては、ガイヤール嬢とスターン嬢は確かに創意工夫を凝らして編曲したのだろうが、やはりオリジナルのものには聴きなれていないせいもあってかなわない・・・だろうな。

チェロ・ソナタがとても晴れ晴れと大団円を迎えたすぐその後に、作品28-2の非常にテンションのキツイ編曲を並べられたときには、もう少し余韻に浸っていたかったと心底思ったものである。

しかし、ガイヤール嬢がアンブロワジーを離れてAPARTEレーベルに移って、スターン嬢がzig-zag Territoriesレーベルからアンブロワジー・レーベルに移ってということでいいのかしら・・・
いずれにせよデストリビュションはハルモニア・ムンディのようだから、ちゃんと彼女たちの所産は今後もチェックできると考えていいだろうから安心だ。(^^;)

気鋭の女流奏者への目線は熱いなと、我ながら思う。
男性だと、どうしてもベテランの味わい深い人を追う傾向にあるので、魂胆が違うのは明白である。

精妙な重戦車

2010年06月01日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ニコライ・デミジェンコ:フレデリック・ショパン作品集
                  (演奏:ニコライ・デミジェンコ)
1.ロンド ハ短調 作品1
2.ロンド 変ホ長調 作品16
3.ロンド ハ長調 作品73
4.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
5.ポロネーズ第8番 ニ短調 作品71-1
6.アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
                  (2006年録音)

ニコライ・デミジェンコ。
マイブームのピアニストのひとりです。
  

1976年のモントリオール国際コンクール、1978年のチャイコフスキー国際コンクールと名だたる難関を制したこのピアニストには、「ロシアの重戦車」「ピアノの詩人」というホンマに両立できるのかいなという、ふたつのニックネームがあるようです。

一見(一聴?)相反する要素なのですが、確かに、必要に応じて爆発的な音響をぶっ放すこともできるピアニストでありながら、それは必ず彼の技術上のコントロール下にある点で一瞬も制動を失っているわけではない・・・。
そんな音量変化のすさまじさが「重戦車」と呼ばれる所以であり、一方常にコントロールを失わないで歌を紡ぎつづけるさまが「詩人」と呼ばれるに相応しいファクターだと考えれば、どちらのニックネームも真実を突いているといってよい・・・のでしょう。(^^;)

  
さてさて・・・
まずはこのディスク・・・ショパンの一般には聴かれない若書きのロンド3曲に、舟歌、アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズなどというプログラムであります。
他のピアニストで聴いたら、あるいはよほど気持ちにゆとりがあるときじゃなければロンドは冗長で飛ばしちゃうんだろうな、という選曲。。。

でもデミジェンコの場合には、ときには立ち止まってしまうかと思われるほど推進力を潜めることも厭わず、どこまでも内側へ向かっていくようなピアニズムを展開しています。
フォーカスが常にピッタリ合っているのに息苦しくならないなんて、多くの演奏を耳にしてきましたが奇跡と言っていいほどの驚きです。
これらのことは、自分がとことん納得し満足できる音を追及しているというスタンスを強烈にアピールした奏楽となって、あたかもブラックホールがそこにあるかのように心をわしづかみにされ引きずり込まれてしまうのです。


★ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第6番・第29番
                  (演奏:ニコライ・デミジェンコ)
          
1.ピアノ・ソナタ 第6番 ヘ長調 作品10-2
2.ピアノ・ソナタ 第29番 ロ長調 作品106 「ハンマークラヴィーア」
                  (2002年録音)

いま一枚、このベートーヴェンのディスクもヘビー・ローテーションなのですが・・・
32曲あるピアノ・ソナタのうち、愛称が付いた有名どころはおよそ4分の1ほどですが、第6番というマイナーな曲が、このディスクに限っては何故これほどまでにチャーミングに響くのか?

そして、すべてのピアニストが最も演奏至難な曲としてあげるであろう第29番の『ハンマークラヴィーア』ソナタが、これほどまでにわかりやすく華やかで雄弁に・・・
それでいてはっちゃけているところもあり、それでいてピアニストの両手のコントロール下に響のすべてが統制されている。。。

何度聞いても溜息をつくほかなく、まるで魔法をかけられたかと思わされるほどの壮絶な演奏です。

もちろん、録音に当たっては何度もテイクを重ねて、編集によっていいところを切り貼りしているには違いないでしょうが、それにしてもここまで弾けちゃうのかよ・・・と思われるほどに丁寧で精妙。

自分が納得したものしか世に出さないぞ・・・
そんなピアニストの声が聞こえてくるかのようです。(^^;)

しかし・・・
こんなに惹きこまれる秘密のひとつを私は知っています。
それは、ファツィオーリというブランドのピアノを遣っていること。

ファツィオーリ・・・
ピアノ音楽好きのイタリアの家具製造メーカーの社長がマトモに鳴っていると思えるピアノが無いことを嘆いて、自分の工場の木工技術をベースに研究を重ね、比類ないピアノを作ってしまったというシロモノ。
そして・・・
このデミジェンコをはじめチッコリーニ、ヒューイットなどなど腕が立ってバリバリ弾けちゃうけど精妙な響にうるさいピアニスト連中に熱狂的に迎えられている楽器。。。

代表的なコンサートグランドといわれている“スタインウェイ”などは、不揃いの金属音とでも形容したくなる麗しい美音・・・そのごくわずかな不揃いに起因する響のズレ・・・が恍惚感を誘うのですが、ファツィオーリの音色は完全にすっぴんで揃っている・・・

だからこのピアノを遣って録音する気になる人は、それだけで非常に腕に覚えがあり勇気もあると思われるわけですが、それを完全に弾きこなしているデミジェンコはそれだけで自らのテクニックの比類なさを証明しているわけでもあります。

意地悪な聴き手である私などは、ついついどこかアラを探してやろうと思って聴いてしまうのですがついに白旗をあげざるをえません。
そんなこんなで、いちど聴き入ってしまったら虜にせずにはおかない、そんな凄みのある演奏がデミジェンコを聴く醍醐味です。
こうして「精妙な重戦車」の歌を心して楽しむことができるのは、無類の幸せといえましょう。(^^;)


★ショパン:ピアノ作品集
                 (演奏:ニコライ・デミジェンコ)
          
1.子守歌 変ニ長調 作品57
2.夜想曲 第7番 嬰ハ短調 作品27-1
3.タランテラ 変イ長調 作品43
4.ボレロ ハ長調 作品19
5.ロンド ハ短調 作品1
6.ロンド 変ホ長調 作品16
7.演奏会用アレグロ イ長調 作品46
8.ポロネーズ 第8番 ニ短調 作品71-1
9.モーツァルトの歌劇『ドン・ジョヴァンニ』の「お手をどうぞ」の主題による変奏曲 変ロ長調 作品2
                  (2002年録音)

ショパン協会の肝煎り・・・
フォルテ・ピアノによるショパン演奏、秀演揃いのこのシリーズに、なんとデミジェンコが参戦したと聞き、そりゃもうすぐさま手に入れました。

上記のファツィオーリを弾いたデミジェンコの演奏に心酔していますから、ロンドなど多くの曲目が重複するこのディスクとの聴き較べ・・・これほどの聴きものには滅多にお耳(?)にかかれないぞとばかりに期待して、ディスクをターンテーブルにセットしました。
ピアニストはもとよりこのディスクをプロデュースする側の人間は、例外なく先のディスクとの聞き比べを想定して制作しているはず・・・
しかと味わってやろうじゃあ~りませんか状態です。(^^;)


デミジェンコがどんな困難な箇所もバリバリなぎ倒すごとく弾けちゃうピアニストであることは十分に知っていたわけで、知らなかったこと、知りたかったことは、ショパンの生前に制作された時代物の楽器との相性はいかにという点だけ・・・
果たして感想は・・・
ショッカーの戦闘員になったかキヨシローになったかというほどに“E・E・キモチE~”というディスクで、78分あるディスクを3回周り聴いて呻ってしまったものです。  


先にも仄めかしたように、私にとってこれら初期の楽曲は正直言ってショパンの曲としては冗長でつまらない部類にあります。
素材それ自体はショパン・ブランドとして認定できるのですが、その扱いが「自分の(演奏)技巧はこんなに凄い」とアピールせずにはおかないもので、聴き手目線じゃなくて演奏家目線、もっと言っちゃえば作曲家の自己満足目線の曲と感じられるからです。

しかし・・・
繊細な重戦車の「性能と戦略」は、私のそんな先入観などあっさり駆逐して迎え撃つ心を魅了して止まないリサイタルを展開してくれました。

ところで・・・
先日の安曇野でピアニストの高橋多佳子さんから、ロシアのピアニストは、若いショパンの作品を小さい頃から演奏課題として与えられ、慣れ親しんでいるのでレパートリーとして採り上げることが多い・・・という話を聞いていました。

ロシアには独特のピアノ奏法の伝統があり、数多いロシアの名手に共通した特徴としては、とにかく目覚しく弾けちゃうことが挙げられます。
思うに、若きショパンの技巧への挑戦を克服することで、ロシアのピアニスト達は自らの技巧を誇示する材料として、またそれをいかにゆとりある演奏に仕上げられるかという明確な目的意識を持っているのかもしれません。

そして・・・
その山脈のように連なるロシア・ピアニズムにあって決して低くない頂点といえるだろうニコライ・デミジェンコの“性能”は、前述のとおりファツィオーリという現代ピアノで3曲のロンドや舟歌を征服し、自在に謳い上げていました。
今回、ショパン時代の2種のフォルテピアノで作品番号がついた作品全曲の録音をもくろんでいるショパン協会が、これらの楽曲の録音にあたってこのピアニストに白羽の矢を立てたのは、“性能”が示した実績を思えばまことに妥当です。

果たせるかな、期待をはるかに超える演奏をデミジェンコはやってのけていると感じます。
“ロシアの重戦車”の異名どおり難技巧をそれとまったく感じさせず、語り口も達者に、それもムードに流さず弾ききってしまっているところが素晴らしい。

そしてフォルテピアノという“制約”を、ここでは強みに変えている・・・・
重戦車搭載の銃器をぶっ放すのに、現代のピアノだとパワーがありすぎて人間の耳には混濁した騒音にしか聞こえず、かつてのデミジェンコは火薬の量をセーブしているかのように聴こえたもの・・・それでも過剰に爆発してたように思うけど・・・でした。
それが、どんなにピアノを強く弾いてもか細いパワーしか出ない昔の楽器は、本当に音を混濁させない限りは我々の耳に聞こえうる音を提供してくれます。
それゆえに、重戦車がフルパワーで楽器に想いを込めているさまが聴き取れる・・・
これが期待を超えた収穫のゆえんです。

楽器の性能により現代性という意味では犠牲を強いられてますが、デミジェンコの意図をぶつけることに関しては、むしろ現代ピアノよりも素直に曲に対峙できたのではないか・・・
ファツィオーリを遣わずにはいられなかったピアニストも、この点では溜飲が下がったのではないか。。。
そんなことも思いました。


そして重戦車の“戦略”もはまっています。
それはプログラミングの妙・・・
冒頭、子守歌から始まり詩的に歌えるピアニストであることを告げます。
子守歌はたしかに子守歌ムードなのですが、曲の終わりの余韻を意識して残さないようにしている・・・

続く夜想曲作品27-1は、私の最も好きなノクターンなのですがショパンの書いた中で最高にパッショネートで心の焦りやわななきが伝わってくる楽曲。。。
これを現代ピアノでクライマックスで盛りあげすぎちゃうと、哀しいかな曲のキャパをはるかに越えたぷっつんな演奏になってしまいます。
それが・・・
フォルテピアノであるが故に、どしゃ降り、否、滝のような感情のあふれるパッセージにおいてどんなに鍵盤を強打しても曲の表現の範囲内で収まる・・・
ピアニストの言いたかったことはこうだったのだと思える演奏、要するに2曲目でひとつのとんでもないクライマックスを迎えるわけです。

そして、3曲目・・・タランテラ。
ドクグモに刺されて苦しさのあまりのた打ち回っているような踊りであるこの舞曲は、ピアニストにとって拷問の如き曲。
軽やかで楽しそうな曲にも思えますが、弾く側からするときっと激しいエアロビクスか無酸素運動の連続のようなへとへとになる曲だと思います。

これがかつてないほど鮮やかで・・・昔のピアノは鍵盤が軽いから余計に・・・完全に子守歌の終わりにハッとして焦燥感に盛り上がった心を、お祭り気分、三昧の状態にまで昇華させるのです。

こうなっちゃえば、続くボレロ(これは決して駄作ではないと思いますが)、ロンド×2、演奏会用アレグロにラ・チ・ダレム変奏曲がどんなに聴かれるのが珍しい曲であっても重戦車の“性能”で十分に撃ちぬける計算が立つのでしょうし、事実、聴き手の私は降参の白旗を喜んであげているわけです。

いや・・・
最初の3曲の置き方がこのミッションの成功のカギを握っておりましたな。(^^;)
・・・という軍司令官の声が聞かれそうです。
よいディスクでした。


  
★ルードヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ
                  (演奏:金子 陽子)
                    
1.ピアノ・ソナタ 第6番 ヘ長調 作品10-2
2.ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品27-2 「月光」
3.ピアノ・ソナタ 第13番 変ホ長調 作品27-1
4.ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31-2 「テンペスト」
                  (2008年録音)

ついでといってはナンですが・・・
デミジェンコのディスクで真価を知ったベートーヴェンのピアノ・ソナタ第6番。
これがピアノフォルテの演奏で収められた金子陽子さんのベートーヴェンのピアノ・ソナタ集・・・
これも祝福されるべき演奏、師匠のインマゼールが手放しの賞賛をするのもよくわかります。

どこまでも明快で誇張のない演奏でありながら、しっかり翳りの隈取りが感じられ、しかも生真面目で・・・。
日本人でなければできない欧州的な演奏とでもいえるでしょう。
また・・・
テンペストの第3楽章などに顕著ですが、間違いなく日本人女性の感性による演奏だともいえます。

第6番の屈託のない明るさ、第14番(月光ソナタ)の余計なものは何もないのに神秘的な曲想は神秘的に聴こえるというニュアンス、第13番の明るい意味での幻想性、第17番(テンペスト)のここでも明晰なタッチから生まれる響の深奥に何があるのか追いかけずにはいられない思わせぶりな解釈・・・
録音のしかたや、演奏上の響のもやもやでごまかすことなく、鍵盤を押しペダルを踏むというテクニカルな手の内をこの録音からすべて見せていながら、狙ったとおりに聴き手の心をコントロールできちゃっている・・・
そんな成果を称して師匠は「大成功、おめでとう」と讃辞を贈っているのだと知れました。

こちらもなんども聴きたいと思わせられる演奏です。
1回聴いたからいいや・・・
というディスクも少なくない中にあって、これほど素直に打たれる演奏に出会えることはありがたい。


とはいえ・・・
同じ姿勢で聴き続け腰痛になってしまったので、ツライものがあります・・・。(-“-;)

吼えない女豹

2010年05月21日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★フレデリック・ショパン(1810~1849);バラード&ノクターン
                  (演奏:広瀬 悦子)
1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.ノクターン ヘ長調 作品15-1
3.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
4.ノクターン 嬰ヘ長調 作品15-2
5.バラード 第3番 変イ長調 作品47
6.ノクターン 変ホ長調 作品9-2
7.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
8.ノクターン ハ短調 作品48-1
9.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (2009年録音)

広瀬悦子さんがフランスはMirareレーベルから、こうしてショパンのディスクをリリースしたことをまずは驚きを、そして少なからぬ喜びをもって迎えました。

このレーベル、オーディエンスが喜びそうなことを積極的にというか、えげつなくやってくれるので嬉しい限りです。。。
複雑な言い回しをしましたが、サッカーもそうだし野球にもストーブリーグがあるように、気になるアーティストとどんどん契約をして個性派スター軍団の様相を呈してきた・・・そういいたいのです。

鍵盤楽器に関してみるだけでも、ちょっと前まではケフェレック女史が看板だと思っていましたが、エンゲラー女史、アンゲリッシュがいるかと思えばあのベレゾフスキーにピエール・アンタイもそう・・・
この錚々たるメンバーの一員にアルゲリッチの秘蔵っ娘みたいに思われていた広瀬さんが加わったと聞けば、極東の好き者は一挙にこのレーベルに注目せざるを得ないという、そんな音楽以外の計算も入っていやしないかと訝る想いも芽生えてきそうです。

ただ・・・
このレーベルのえらいところは、あくまでもフランスを基盤に考えていることではないでしょうか?
演奏者がフランス人であればそれだけでフランス音楽振興に役立つのでいいかもしれませんが、カタログをそろえる際のレパートリーにせよ、まずはフランスがあってすべてはそこから実績を挙げてくだされば未来が開けます・・・というような、極めて明確で公平なシステムを持っているように思います。

この手法がすべからく芸術に当てはまるかどうか別にして、ある種、健全な考えかたの下にこれだけのアーティストを擁しているのですから、とっても素晴らしいこと・・・。

ハイペリオン、ハルモニア・ムンディ、ECMなどの個性的なレーベルが一種独特の雰囲気を持っているように、このレーベルも極めてメジャーなイメージで補強がなされてきております。
一大勢力となる日も近い・・・あるいは既に十分メジャーと伍して戦えるだけの魅力は有しているといってよいのかもしれません。
少なくとも私にあっては、決して目を離すわけにはいかないレーベルだと認識していますから。。。

まぁ・・・
それでもたまには(私にとって)ハズレのディスクも出てきちゃいますけどね・・・。
そういう場合はここでは紹介しませんから心配ありません・・・って、出ていないものが全部気に入らないわけではないのでややこしくなりますが。(^^;)


広瀬さんもかつてフランスに留学され日本でデビューし、今般再び活動拠点をフランスに移されて3年たっている・・・フランスに縁があるアーティストということで、このレーベルでのチャンスをものにされたのでしょうか!?
そんな彼女への期待は、いや高まるばかりであります。(^^;)


さて、ここで演奏されているショパンは、生誕200周年できわめて盛り上がっていますね。
余談になりますが、一方の200歳のシューマンがあんまり盛り上がっていないように思うのは、ショパンファンの私の思い込みでしょうか?

そのショパン・・・
ポーランドの作曲家としてあまりにも喧伝されていますが、実は、活躍した時期の殆どはフランスにいたんですよね。

私も訪ねたことがありますが・・・
亡くなったアパルトマン、葬式をしたマドレーヌ寺院、ペール=ラシェーズ墓地いずれもパリにあります。

そのとき感じたことには、フランス人はショパンの魂はポーランドにあったとしてもフランスの作曲家、少なくとも当時のフランスが歓待して活躍をさせてあげた作曲家として認知しているフシがあるのではないでしょうか?
ショパンの親父さんはフランス人ですし・・・。

もちろん、ショパンの経歴を振り返ればフランス人が自国の作曲家と考えてもらってまったく構わないと、私も、思います。
いずれにせよ、ポーランドとフランスの両方がなければ作曲家ショパンは存在しえなかったでしょう。

してみると・・・
仏Mirareレーベルはショパンの記念年に手をこまねいているわけにはいかない・・・
そうに決まっています。(^^;)

そんな中にあって、ケフェレック女史のショパンアルバムと相前後して同じロケーションで録音がなされた広瀬さんのアルバム・・・こころなしかジャケットデザインの雰囲気も似ていたりして・・・には、作り手・聴き手みんなの注目の的とあいなるわけであります。


前置きが長くなりましたが・・・
このディスクにいたって広瀬悦子さんの演奏は、これまでとは大きく変わった気がします。。。
実はそれで私の中で、評価がうつろい定まらないのです。

アルゲリッチが絶賛したという才能であり、ピアノをやすやすと弾いているように聴こえるのは以前と変わりません。
ですが、デビューアルバムでフランクの曲をデムスがアレンジした“前奏曲、フーガと変奏曲OP.18”でみせたような、荒削りながら大向こうを唸らすスケールの大きさといったものが消えている・・・のです。
大器・・・
といわれる演奏家が必ずしもそのようなありかたである必要はないでしょうが、彼女の場合はその器の大きさこそが余人を以って替えがたい第一の個性であると思っていましたから、この変貌振りには正直戸惑いました。

ノクターンはともかく、バラードと言えばショパンの中では大曲で、激しさや雄渾さ、気位の高さなどを謳い上げるイメージが私にはあります。
ですが、この演奏は先に述べたとおりでほかのどれとも違うのです。
所有しているディスクの中で、その個性がワン・アンド・オンリーなのですからそれだけで価値があるといえばそうなのですが、最初のバラード第1番にして一聴“なよなよ”しているようにすら聴こえてしまってはちょっと違うだろう・・・とはじめて聴いたときにはどぎまぎしたものです。

そして一回まわり聴いての感想は、すべては最後のハ短調のノクターンと幻想曲への前座ではなかったのかというもの。。。
音楽や精神の飛翔がわずかながらも感じられたのが終わりの2曲だった印象のために、それ以前の曲たちの良さがよくよく聞き取れなかったと言うほかない・・・
そんな感想でした。^^


それでは、今はそのよさが十分に感じ取れているのかといわれると未だに心許ない限りなのですが、どうしても私にはこの演奏が平凡であったり、私に合わないと言い切る判断もつかないのです。

ピアニストは目論見通りに弾ききっているように思えるし、技術的な面では私の聴く限り余裕綽々で何の不足もありません。録音もふにゃけているわけでなく、音は正しくすべてが私に降り注いでくる・・・
要するに状況証拠はすべて私に提示されているのに、その音から私が掬い取るべきものを見つけられずにいる、あるいは気づくことができていない・・・そんな状況であると思います。

でも、ここには間違いなく金脈が埋まっている・・・

そんな第六感が働いていて、そしてそれが正しいと思われてしまうために私はこうしてどぎまぎさせられているのではないでしょうか?

自分の経験に照らすと、これは何度も聞き込んでいくことでしっくりくるようになるのではないかと思うのです。
高橋多佳子さんのショパンの旅路の若い番号の演奏にはじめて接した時と、きわめて似た感触ですから。。。
その予感が当たれば、ムチャクチャ好きな演奏になる可能性を秘めています。
でも、今はなんでこんな解釈になっちゃってるんだろうという疑問が大きい・・・


解説には「繊細で儚い詩情」と記されていて、なるほどとも思うところもあるのですが、厳密に考えるとチョイと違うような気もしますね・・・。


なんにせよ、フランス在住のうちに、広瀬さんの中にショパンのフランス性がより反映されたことは疑いありません。
フランス語の発音って、あまりカツゼツがよくないように私たち日本人には聴こえますよね。
広瀬さんは日本人ピアニストとしての心のはたらきを通して、彼女独自のショパンがディスクに刻むにあたり、そのボショボショ感を採り入れた・・・そんなイメージをこの盤から感じるといったら言いすぎでしょうか?


広瀬さんの中では、これらの楽曲は十分に自分の手の内にいれたうえで昇華されています。
が・・・
この演奏、とにかく吼えないのです。
広瀬さんの楽想はしなやかで濃やかな女豹のごとき魅力をいっぱいに湛えているのに、常にジャケット内のいずれの写真もそうであるように目を伏せていたり、後ろ向きだったり、積極的に聞き手側にアプローチしてこない・・・のです。
こちらがそれを追いかけていったとしても、けっして目を合わせてこちらに向かって吼えることはない。。。
それは何のため?

勿論かつてのように演奏のうちに荒削りなところは皆無、艶やかに弾き切られていてピアノも鳴らしきられています。
ヘ長調のノクターンにせよ、あの激しい中間部を楽々と弾きこなしてしまうのに驚嘆するのですが、ほかの殆どのピアニストがそうであるように嵐のように・・・という風情はまったくない。

バラード第2番の中間部もそうだし、バラード第4番の第2主題の回帰からクライマックスにかけてなど、敢えてエクスタシーのほんの手前をずっと持続していく展開に聴こえて、かつてない印象を与えてくれるのです。
これはなかなか表現できないとんでもなく凄い境地だと思うのですが、どうにも慣れていないためにかしっくりきていません。

どこまでも飛翔できる羽を持ちながら飛び立たない鳥、しなやかな体躯を持ちながら目をあわせられない女豹・・・

煮え切らない、じれったい、末通らない、中途半端なのかも・・・
こんな印象も拭えない中、この演奏が私を感激させるポテンシャルを持っていることを信じて、折りに触れ永く聴き継いでみようじゃないか・・・そんなふうに考えるようにしたいディスクですね。(^^;)




こう書き記して・・・
何日か書きかけでこの文章を寝かせている間にも、このディスクへの印象は変わっていきました。

バラード第1番の“なよなよ”は決して海草が波に翻弄されて揺れている情景ではなく、茫洋とした積乱雲の雲海の彼方にはるかにかすむスケールの大きな龍の影が見えてきました。
細心の注意を払ったタッチで音の粒をきらめかせたうえでペダルを省略して音を減衰させた効果だとわかり、結果としてたゆたうようなイメージを現出していることからそう聴こえたものだと思います。
ですから、“なよなよ”ではなく“デリケート”だったのです。さらに、超弩級のスケールは能ある鷹が爪を隠しているようなもので、しっかり耳を澄ませばちゃんとそこにも存在しているのが聴き取れます。

また、第2番は強奏されるところさえもが「遠くから」聞こえてくるような表現になっており、これはフォーレ・ドビュッシーなどフランスの後進の先駆であったことを意識させるものではないでしょうか?
ちなみに第1番中間のあたりでの音の粒のきらきら感はラヴェルの表現を髣髴させるもの・・・これもフランスの作曲家の前触れのような効果を意識している気がします。
ボショボショ感ときらきら感、いずれからもフランスを感じるのはそのせいかもしれません。

そして第4番はびみょ~です。
第2主題の回帰はデリケートこのうえない表現・・・ピアノ演奏技術的にはルバートっていうのかもしれませんが・・・で、ある意味、このうえなく“萌え”ちゃっているので、それが素晴らしいと評することもできると思うようになりました。

が・・・
コーダの捉え方が困っちゃうんですよね。
普通、狂ったように失踪するのが一般的な弾き方に思えるのですが、どうしてもこの演奏ではしっかり弾けているのにエッジがないというか、生ぬるいような感じがする。。。
カマトトぶっているようにも聴こえるし、達観しているようにも聴こえるし・・・これも定かではない。。。

できたら、ご本人にどう思って弾いているのか尋ねたいぐらいです。
「フィニッシュ前の決断できない優柔不断な気持ちを湛えたパートだと思ってます」な~んて言われそうなほど優柔不断に聴こえてしまいます。

最後の最後では決然と「こうだ!」と上行走句を叩きつけているので、余計にその前が迷っているように聴こえてしまっているのです。
まだまだ、聴き継いでいくうちに新たな景色が見えてくることでしょう。

やはり特別なティストを持ったディスクです。(^^;)

有限のうちにある無限の飛翔

2010年05月20日 22時10分45秒 | ピアノ関連
★フレデリック・ショパン(1810~1849)・ピアノ作品集
   ~最初のポロネーズから告別のマズルカまで~
                  (演奏:アンヌ・ケフェレック)
1.ポロネーズ 変ロ長調KK.IV/1(1817)
2.ポロネーズ ト短調S1/1(1817)
3.ポロネーズ 変イ長調KK.IV/ a 2(1821)
4.マズルカ 変イ長調Op.7-4(1824)
5.ポロネーズ ヘ短調Op.71-3(1828)
6.ソステヌート 変ホ長調(1840)
7.カンタービレ 変ロ長調(1834)
8.ノクターン 嬰ハ短調 遺作(1830)
9.幻想即興曲 嬰ハ短調Op.66(1834)
10.ワルツ ヘ短調 Op.70-2(1841)
11.マズルカ 嬰ハ短調 Op.50-3(1841-1842)
12.子守歌 変ニ長調Op.57(1843)
13.舟歌 嬰ヘ長調Op.60(1845-1846)
14.スケルツォ第4番 ホ長調Op.54(1842)
15.ワルツ イ短調KK.IVb/11,P2/11
16.バラード第4番 ヘ短調Op.52(1842)
17.マズルカ イ短調Op.67-4(1848)
                  (2009年録音)

昨年、ケフェレック女史のリサイタルを聴きに行きました。
ディスクにサインをいただいて「素晴らしい演奏でした」と声をかけたら「アリガト・・・」と言われ、「旧来からのファンです」と英語でどういったらいいか詰まっているうちにサイン会の列が流れていってしまった・・・そんなことを覚えています。

このバックステージの記事としてもアップしていますが、女史の演奏のすばらしさを随処に感じながらも、正直なところ女史のお人柄のすばらしさの方が強く記憶に残っていたような気がします。

でも・・・
ラヴェル・モーツァルト・ヘンデルの演奏などで聴かせてくれた、高雅で気品ある繊細な演奏をされる女史が、ショパンの生誕200周年に満を持して発売するディスクであれば・・・演奏の感興こそ実演に及ばないかもしれないけれど・・・女史がやりたかったことをあますところなく聴けると感じて、女史がマイセンかセーブルのフランス陶磁器を思わせる一風変わったドレスに身を包んだこのディスクを手に取ることに迷いはありませんでした。


結論から言えば、よい意味で期待を大きく裏切られる出来栄え!(^^;)

このディスクは17曲から成っていますが・・・
幼年期の作品(当然プロの作曲家のものとはいいがたい、けれどショパンが作ったと作品に書いてある)から18歳ぐらいまでの一群と、幻想即興曲とカンタービレを除いて、あとは30代から晩年(ショパンは39歳で亡くなっています)までの楽曲でプログラムされています。

つまり・・・
プロとしてポーランドを旅立ってからショパン芸術が最円熟を迎える前日までの楽曲を殆ど全部オミットして、“ショパンができるまで”と“できあがりのショパン”をその曲で対比しましょうという企画であると思えるのです。

女史の思惑としては、ショパンの特徴ある思いは幼児期の作品にまで満ちていることを示したかった、言い換えると故郷を思う気持ちや楽曲のテイストは一生の間変わらなかったということを示したかったのでしょうが、それは見事に達成されていると思います。

そして・・・
期待を裏切られ全編にわたって感動できたというのも、これまで音楽史的な意味合いのみが大きいと思ってきた幼児期の楽曲にまで、やさしく共感にあふれた演奏を展開されていることによるものであります。

一例を挙げれば11歳でピアノの先生に手紙つきで贈ったとされるポロネーズ、女史の演奏はぬくもり・潤いといったものをたたえながらはるかに速いテンポで弾かれており、モーツァルトをさえイメージさせるような演奏。。。

安曇野での高橋多佳子さんのコンサートのオープニングでも演奏された曲ですが、多佳子さんは幼いショパンの曲を、あるいは思い入れたっぷりにロマン派の流儀で弾こうとされたのかもしれません。

女史の演奏はどちらかというと古典派的、旋律の歌わせ方も天真爛漫で、作曲時のショパン自身がこう聴こえて欲しいと思っていたものに近いように感じます。
それはもちろんアルバムの趣旨に照らして解釈をされているためでしょうが、まことに相応しい弾かれかただと感じました。

このように聴き手にとっても、耳に優しい分とても聴きやすいし素直に受け止められる・・・
このディスクの幼年期の曲はおしなべてそんな思いで満たされます。

幼少期の曲はポロネーズ全集などの「全集版アンソロジー」を除いて競合盤がほとんどないだけに、余計に印象深くステキな演奏に聴こえるのです。
えてして・・・
全集ものだと、私などは幼年期の曲は聞かずに飛ばしちゃったりするし・・・。(^^;)
数あるショパンの若書きの楽曲の中からも、女史はちゃんと選別して眼鏡に適ったものだけを慈しんで弾いておられるから余計に尊いのかもしれません。^^


このディスクの選曲によって、ショパン自身が円熟期を迎えた後にもマズルカにような小品にポーランドへの思慕を・・・小さい頃とまったく同じように・・・込めて、同じような心証を綴ってやまないことが明らかにされます。

作曲の技法、構成力、語り口の広さなどは永遠に不滅といってよいだろうこの作曲家なりの成長を遂げているのですが、底辺に流れているメロディーの源は祖国を思う心の叫びである。
もちろんミツキエヴィッチの詩から着想することはあっても、ポーランドの心がその源泉。
シューマンのようにアナグラムから着想を得たり、バルトークなどのようにあちこちの民謡の採譜をしたりではなく・・・自分の魂の奥底からあふれたり、沁み出したりしてくるインスピレーションにあるのだと感得させてくれる、そんな気がするのです。


ここでのケフェレック女史の演奏の特徴は、音楽がロマンにほだされて手の届かないところに飛んでいってしまわないように極めて厳格に扱われているのにもかかわらず、果てしなく憧憬が拡がっているような・・・そんな演奏であるということ。
これは、バッハやモーツァルトの対位法を駆使したバロック音楽や古典派、さらには近代音楽までをもキャリアの中で手がけてきた女史だからこその美質だと思います。

ロマン派音楽である以上もちろんロマンを飛翔させなければなりませんが、音楽が糸が切れた凧のようにコントロールされず放逸されてしまうケースも少なくありません。

その点、女史の音楽は心のはばたきが必ずあるべき楽曲の軌道のうちに還ってくるように思えるのです。
しかもそれは(還ってくるとはいっても)ブーメランのように手からはなれることはなく、必ず扱い次第で自ら手の内に戻ってくるヨーヨーのようである・・・と喩えてよいかもしれません。

その限りにおいて、確かに女史の音楽は他の数多ある違う持ち味・・・イマジネーションをはばたかせるタイプ・・・のピアニストの演奏と比較して有限であるといえるかもしれませんが、地球の上に立っていても宇宙全体を夢見ることはできるように、ショパンの宇宙全体を見通させてくれるような突き抜けた何かを感じさせられるものです。

同じような経験は、かつてレギナ・スメンジャンカ女史のポニー・キャニオンから出た“舟歌”を聴いたとき以来です。
あの演奏こそはショパンにどこまでも誠を尽くした私の理想の“舟歌”の奏楽であると今でも思っていますが、ケフェレック女史の演奏もそれと軌を一にする解釈に思われるうえ録音ははるかにこなれている点で聞きやすくなっていると重います。
それに、ショパンの辿り着いた終着地のひとつ・・・
として聴くならば女史のこの演奏のとおりのプログラムに収められている方がほうがはるかに相応しいでしょう。

とても演奏至難な曲らしいですが、弾くほうも聴くほうも幸せになれる、この曲が作曲されてほんとうによかったと思われる出来栄えです。


そして・・・
私にとってのショパンの最高傑作“バラード第4番”。
昨年の実演で女史が実現しようとしたことが何だったのか・・・果たしてそれがすべて判るような素晴らしい演奏。

普遍的にショパンとはこういう音楽だと願っているひとつの形を、女史が体現してくれたというそんな感じです。

演奏である以上演奏者の主観が入るのは仕方ないでしょうけれど、中には私のショパンを強烈に自己主張する人、自分だけのショパンの世界に強引に引きずり込もうとする人がいる中で、多くの人がすんなり共感できる、そんな麗しく濃やかでいながら厳しく女史の手の内にあって自然な流れを得ている演奏だと感じました。
奔放というのではないですが気持ちが突き抜けているところがありながら、慎み深さまで感じさせる・・・
こんな境地の演奏には、そう滅多やたらに出逢えるものじゃありません。^^
なるほど・・・
昨年のコンサートにおいて・・・私は十分に聴き取ることができなかったけれど・・・きっと女史はこのように演奏した(かった?)に違いない・・・。

実力者の真骨董、しかと楽しませていただきました。(^^)/

理香りんさん、おめでとう!

2010年04月25日 14時28分30秒 | ピアノ関連
★Rika Plays Chopin SONATA
                  (演奏:宮谷 理香)
1.ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35 「葬送」
2.ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 作品58
3.ワルツ 第4番 ヘ長調 作品34-3 「華麗なる円舞曲」
4.ワルツ 第6番 変二長調 作品64-1 「小犬のワルツ」
5.ワルツ 第7番 嬰ハ短調 作品64-2
                  (2009年12月録音)

ショパン生誕200周年の3月1日、当のショパンの誕生日その日に、宮谷理香さんはこのディスクを発表されました。
同じ日に永年続けてこられたショパンに関するリサイタルも完結されたそうであります。

深い思い入れをもって続けてこられた企画を完遂されたことに、敬意を表するとともに「おめでとう」と心からお祝いの言葉を申し述べたいと思います。

多少文章がよそよそしいのは、そのことを後日知ったから・・・であります。(^^;)
どんなご活動をされているかそれなりにウォッチしているつもりの私をして、高橋多佳子さんの浜離宮コンサートでお目にかかったときに「スケルツォ、よかったですね!」と声をおかけして初めて、この新譜が既に出ていることを伺って驚かせられたのですから。。。
不意を突かれたというか、隙があったというか・・・。

そんなこんなの想いがありながらも、とにもかくにも聴かなきゃ始まらないということで取り寄せて聴いてみたら、これまた「おめでとうございます」というべき出来ではないですか!?^^

投稿こそ、昨今コンサートのご報告のみ・・・みたいな頻度でありますが、実は、ショパン記念年にかこつけて、1970年代ぐらい以降のショパンのディスクをそれこそ浴びるように聴いています。
昔感銘を受けたディスクに違う印象を持ったり、お蔵入り状態だったディスクに新たな魅力を感じてみたり・・・
聴く側の私の心境の変化か成長か・・・自分自身がどのように感じるかを楽しむことができています。

もちろん・・・
夥しく発表される新譜・・・厳選したものしか手に入れられませんが・・・もそれなりにチェックするなかで、このソナタのように確固たる存在価値を感じさせてくれるディスクが多少なりとも見知ったアーティストの手から届けられると喜びも一入。
「いいディスクにめぐり合った」という気持ちにプラスして、「よくやってくれました」という感覚が自然と伴いトクをした気分になるので不思議なものです。

この感覚は山崎宇宙飛行士が無事ミッションを完遂して帰還されたのに対して、日本中(とりわけ一部の千葉県民)がこぞって喝采を贈っているのと同じような心のはたらきなのかもしれません。
(山崎さんの話しぶりがだんだんマラソンのQちゃんに似てきたように思うのは私だけでしょうか?)


さて・・・
このディスクを聴いた感想をひとことで表現すれば「正攻法の強さ」とでも言えばよいでしょうか。
私たちと同世代の日本人リスナーにとって、「ショパンとはこういうものだよね」と提示されたときにすべてが自然に受け容れられる・・・
全面的に余裕をもってそんな演奏を実現されているのがとても印象的です。


高橋多佳子さんと安曇野で話していたときにもこのディスクについて触れ、感想を求められたときに・・・
シューマン流にいうならば、演奏に際して多佳子さんははっきりと「高橋多佳子」と署名しているところを、理香りんさんは「ショパンの作品」と署名するような印象を持ったと話したりしました。

その他にも変ロ短調ソナタのイントロから第一主題に入る部分を多佳子さんをホロヴィッツのよう、理香りんさんをルービンシュタインのようと感じているとも言いましたが・・・。

要するに・・・
おふたりともショパンの作品に極限まで肉薄して楽譜を再現され、その枠を一歩もはみでることがないところまでは一緒なのでしょうが、多佳子さんはどうしようもなく積極的に高橋多佳子が滲み出るのに対し、理香りんさんからはショパン音楽の普遍性が滲み出るという資質をそれぞれが持ち合わせておられる・・・
そういうことなのかもしれません。

あくまでも、私の勝手な聴き取りかたによれば・・・ですけどね。(^^;)

もちろん普遍性と言っても、全部が平均点主義みたいなことではありません。
たしかに奇を衒わないで、かといって大家然とした演奏でもなく、ここが売りだと声高に主張することもない中庸の極みをいく演奏です。
必然的に目立ちにくいかもしれませんが、考えてみれば他と比べるから目立ちにくいという発想が出てくるのであって、その演奏の奥底に必要十分な万感の想いがあることが突飛な解釈をしないからこそじんわりと聴き手にも深いところで感得されるのだとも思えます。

だからこそ「正攻法の強さ」と評した訳です。^^
ご自身の信じるショパン像を徹底して追いかけて、言い方は変ですが、ショパンと同化した境地に達したからこそ、ショパンのほうから歩み寄ってきてピアニストにこのように弾かせしめた、そんな風に思える演奏です。

当然のこととはいえレコ芸でも特選盤となった(直接見てませんが)ようで、これまたおめでとうございますと付け加えなければなりますまい。(^^;)


★Rika Plays Chopin BALLADE
                  (演奏:宮谷 理香)

1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード 第3番 変イ長調 作品47
4.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
5.3つのマズルカ 作品57
6.ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品53 「英雄」
7.エチュード 変ト長調 作品10-5 「黒鍵」
8.エチュード ハ短調 作品10-12 「革命」
9.ノクターン 第20番 嬰ハ短調 WN37(遺作)「レント・コン・グラン・エスプレシオーネ」
                  (2007年10月録音)

バラード集で印象的だったのは、妙に思索的になることなく常に音楽の流れを停滞させないことと、意識して曲の表情の振幅を大きく取っているのかなということ。
もちろんそのように解釈して弾かれることに何の違和感もありません。そしてその限りにおいては、この演奏は確かに多大な実りを挙げています。

また、後にスケルツォのところでも触れますが、理香りんさんの音色の多彩さは武器です。
バラード第2番の穏やかな部分の音色なんて、ほかの誰からも聴かれない音を練り上げられている・・・
先述のように心地よく音楽が流れていくテンポを採られているのであまり気づかないけれど、確かに独特な語り口を演出する音を工夫していらっしゃることがわかります。

そんな箇所はほかにもいっぱいある・・・誰もが工夫してらっしゃるだろうし・・・のでしょうが、それとわかるように弾きだされ、こちらが気づいてしまうと凄い美点のように思われます。
逆にそれが元で聞き落とすことがあるリスクを忘れてしまいますが・・・。

ともあれ堅実な工夫から大きな感情の振幅を表現することについては、このディスクは出色の成果をものにしている、そう思えたものです。
そして理香りんさんは、その先にどのような世界観を持っているのだろうということはペンディングになっていました。

コンサートなどの実演に触れ、お話もさせていただくと率直なお人柄が素敵だという印象なのですが、HPやディスクの演奏には個性を抑え「自分のイメージはこうでなくてはならない」と思い込まれているところがあるかもしれないと、ちょっとばかし思ってしまっていたもので・・・。
後にそれは杞憂だとわかるんですけどね。(^^;)


★Rika Plays Chopin SCHERZO
                  (演奏:宮谷 理香)

1.スケルツォ 第1番 ロ短調 作品20
2.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
3.スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39
4.スケルツォ 第4番 ホ長調 作品54
5.子守歌 変二長調 作品57
6.舟歌 嬰ヘ長調 作品60
7.幻想即興曲 嬰ハ短調(遺作) 作品66
                  (2008年12月録音)

スケルツォ集はバラード集よりもずっともの想いに沈むというか、演奏途中の思索を通じて情感、情景をしなやかに描き出しているという印象がありました。

ピアノの音色のパレットの広さや輝きも印象的・・・子守歌・舟歌ってワンセットで録音されることが多いですが、音色をしっかり弾き分けられていてとても聴きやすいのです。

スケルツォのそれぞれの曲から幻想即興曲に至るまで、細心の丁寧さで仕上げられているのも特筆もの、幻想即興曲の左手がオクターブでくだってくるところ、第一主題の再現部をそれとわかるピアノで弾かれているところなども絶妙なニュアンスが織り込まれていてとても素敵です。

それが・・・
ソナタのディスクを聴いた後ではすこし華やかに彩ってあげようと意識されているところを感じます。
ディスク単体としてはステキなんだけれど、ショパンの優れた演奏であることも疑わないんだけれど、ピアニストはどんなショパンの世界を奥底に持っているのか全貌を知りたいという問いかけがどうしても残っておりました。


今・・・
ソナタのディスクまでを聴いて感じたバラードの激情の振幅、スケルツォの深奥からの華やかさ、ソナタの中庸な構成感。。。
それが真っ白なドレスに身を包んだ理香りんさんの、それぞれのジャンルへのアプローチの差ということなんじゃないかと一応の解答を出すことができた。。。
ジャケットにはごくごく淡いパステルカラーでバラードはブルー、スケルツォはグリーン、ソナタはピンクの文字が記されている、それほどの違いであるかもしれませんが、ディスクの個性の違いを・・・弾き手はどうあれ・・・私はそのように整理してスッキリさせることにします。


ところで・・・
昔、富澤一誠さんというニューミュージックの物書きとしては第一人者だったかたが、長渕剛さんの4枚目のアルバム「乾杯」が発表されたときのレビューに「これで長渕の曲はすべてよくなった」と評されていたことを思い出しました。

ソナタで突き抜けた普遍性を示してくれたことで、私にとってはバラード、スケルツォすべての演奏が抜群によくなったと感じます。

バラード・スケルツォを聴いて感じ取れなかった理香りんさんの世界の奥の奥まで・・・それは目に見えずとも・・・があると感じられるようになったから、それを追って聴くことで同じ演奏を聴いても、自然と豊穣な世界が感じられるようになったとでも言えばよいのでしょうか?


静かに「ショパンの音楽」を聴きたいとき、手に取ってみたいディスクがこのセット・・・
私にとってそんな位置づけのディスクになっていくのかもしれません。(^^;)

CHOPIN誌4月号の「ナショナル・エディション、大検証!」を読んで

2010年04月10日 02時28分11秒 | ピアノ関連
★ショパン:バラード(全曲)/ 即興曲集
                  (演奏:河合 優子)
1.バラード第1番 ト短調 作品23
2.バラード第2番 ヘ長調 作品38
3.バラード第3番 変イ長調 作品47
4.バラード第4番 ヘ短調 作品52
5.即興曲第1番 変イ長調 作品29
6.即興曲第2番 嬰ヘ長調 作品36
7.即興曲第3番 変ト長調 作品51
                  (2002年録音)

月刊CHOPIN4月号に、“ナショナル・エディション、大検証!”なる見出しを見つけて思わず手に取ってみた。

ナショナル・エディション。
この版の総元締め、ヤン・エキエル先生のとてつもない使命感あふれる言葉に私は・・・
引いてしまった。(^^;)

ポーランドの宝のショパンの音楽だから、真実ありのままを残す努力を惜しまない・・・そのためにありとあらゆる資料を比較検証する・・・
これらの態度はどれひとつとっても尊く、率直に敬服する。


この尊く敬服に値する編集作業に“エキエル師”の元にあって深く携わり、誰の目にも我が国への伝導師と目されているのが河合優子さんではなかろうか。

あづみ野コンサートホールで高橋多佳子さんのコンサートにいらしたかたにも、河合さんのファンがおられたし、続けて出ている浜離宮でのライヴ録音も高い評価を受けているようなので、私にとっても気になるピアニストであることは疑いない。
しかし・・・
私はこのバラード&即興曲集とベァルトンから出ていたディスクしか聴いていないから、心境著しいであろう最近の彼女の演奏には触れているわけではない。
そういう意味でも新エディションが血肉となっているだろう現在の彼女の演奏が気になる・・
のである。



いずれにせよナショナル・エディションがこれだけ特集されるまでに話題になっているのも、偏に彼女の努力の賜物といってよい・・・
ことこの点については、それくらい突出した活動をされているといって過言ではないだろう。

そして・・・
8年前に録音された、このバラード&即興曲集のディスクにおいての肝心の演奏解釈の輪郭は、私ごのみといっても差し支えない。(^^;)

正直言って・・・
(一部ショパコンのファイナリストも同じことを言っているので気楽に言えるが)違いが聞いているだけではそうそうわからない。^^

変ロ短調ソナタにせよ、ホロヴィッツの熊よけの缶々をじゃらじゃらにつけたような演奏と、ポゴレリチのデビュー盤のかる~いタッチの演奏とが同じ楽譜から生まれているのだったら、そっちの差の方がはるかに大きい。
かのアファナシエフは「ヘタといわれるのは構わないが、楽譜に忠実ではないというクリティックだけはたまらない」的な発言をしているが、楽譜に忠実に弾いてあれだけ異なった印象を与えるのがすごいのか、やっぱり忠実の基準が違うのか、門外漢の私には判断できない場合がある。
グールドも然り。
ボレットなど、グランドマナーといわれる大家たちは時として楽譜にも自由にも振舞ったらしいが、気分は大きく違っても実は解釈の差はそれほどでもないかもしれない。。。

話がそれてしまったが、バラード第4番の音遣いなどで決定的に(なれない耳には)ズルッと来る違いがあるぐらいで、そのほかには一聴してそれとわかる差異は今でもわからない。
河合優子さんは、とても丁寧にこれらの曲を弾きあげている。
バラード第1番などは早いパッセージでもうすこし軽快に弾かれたほうが・・・と思う場面もなくはないのだが、技術的というよりそのように弾きたいと思われてのことだと思うのでなんともいえない。
ただ、どうしても魂を持っていかれるような・・・という瞬間を求めようとすると、この演奏では難しい。
ライナーに「ナショナル・エディションを使うことで、私がまさに自由になり、演奏という行為によってファンタジーの世界にはばたいているのをすぐに聴き取っていただけることでしょう・・・」とあるピアニストの言葉は至当だと思う。

残念かな・・・
演奏家がはばたくファンタジーの世界に、聴き手の私を連れ込んでしまうだけの力がない。
いや・・・
このディスクの売りはエディションの紹介が大きなポイントで、聴き手を服従させるような演奏を目指していないかもしれないのだから、その是非は問うべきではない。

彼女の丁寧なのに見通しがよいという奏楽の特質は、バラ4の前半部や即興曲になると却って得がたい魅力となり、好感度が格段にアップする。
バラ4では件のクライマックスへ続く第2主題の再現部など、とても構成はステキなのだがここではもうひとつ“ある種の濃さ”があればぐっと真実味が増すのになと、クールに見てしまう。
即興曲はさらに魅力的だが、第3番のテノールで旋律を歌うところ・・・
音のせいか弾き方のせいか、背景作りが緻密にいい感じなのにもうひとつ歌いきっているという感じがしない、とここもクールに見えてしまう。

全般的に素晴らしい演奏なのだが、一歩引いてしまい引きずり込まれていないというか、それを傍で鑑賞してしまい、演奏者と一緒になって盛り上がるという立ち位置で聴けずにいる。

ショパニズム・・・
というシリーズを彼女がライヴで収録していることは、こう考えてくると非常に納得がいく。
彼女の資質にライヴならではの熱気・パッショネートな想いが加わったらきっと素晴らしいと感じるからである。
オーディエンスを前に燃えている(萌えている?)ディスクをかねて聴いてみたいと思っているし、できればその実演にも触れてみたいと思う。(^^;)

               

さて、その河合さんと横山幸雄さんのナショナル・エディションを巡る対談を、極めて楽しく読んだ。
素人であってもこの程度の内容ならついていけるし、非常に示唆に富んだ好企画だと思った。

ピアノ演奏に携わる人であれば、当然に楽譜の異動を注視するところだろうが、どっこいこれらの楽譜を見たことがない私が楽しむところといえば、おふたりの掛け合い漫才みたいな対話・・・にほかならない。

一言で言って、あれは議論ではない。
ピアニストの主義・主張の差が最終的にはかみ合わないことを露呈した会話である。
もとより、それでいいし、それはそれで素晴らしい成果を読者にもたらしているとも思う。

エディションの策定に関わり圧倒的な情報量と知識を持ったうえで第一級の演奏も披露する河合さんと、版への思い入れは少なくとも河合さんほど持ち合わせないワン・オヴ・ゼムの楽譜と捉えている卓越したピアニストである横山さん・・・。
楽譜を使わなければ商売が成り立たないということを除いて、プロバイダーとカスタマーほど立場が違うおふたりなので、ここはかみ合わなくて当然、それぞれの立場で貴重な示唆を投げかけておられる・・・という図になる。
ショパンをうまく弾きたい人なら、ぜひとも参考になさればよいでしょう・・・という感じだろうか?

このやりとり・・・
論理的には情報量の圧倒的な差で河合さんの説明に横山さんが押さっぱなしに見えるのだが、カスタマーヘの商品説明は達者でも先入観を持った顧客に何を説明しても無駄なようにエディションへの納得・満足を河合さんが横山さんにできたかというと決してそうではなさそうである。


10年以上前に演奏会に行ってお目にかかった横山さんは、頭脳明晰で物腰の柔らかい男性というイメージがある。
演奏ももちろん卓越しており、ショパンのエチュードのディスクなどポリーニよりしなやかでなめらかで・・・という気もする。
ずっと前に投稿した記事にも、ヴォルフ・エリクソンのプロデュースしたリスト『超絶技巧練習曲集』のすばらしさは、あの曲だからだが、横山さん以上に魅力的に弾ける人物は世界中を見渡してもいないといってよいと思うほどである。

過日、高橋多佳子さんは演奏中に映像が浮かんでそのイメージを追って音楽を作っているけれど、横山さんは弾いている間その種のイメージは一切浮かばない仰っているという話を伺った。
非常に納得のいく事実だと思う。
もちろん・・・奏楽の好みはあるにせよ・・・善し悪しを問うつもりはないし、問える筋合いのことでもない。

現に家人は横山さんのファンであり、私同様音楽に明るいわけではないが、達者なピアノを楽しんでいる。

先にも述べたとおり演奏の精度や華やかさ、どれだけ弾けるかということならば横山さんのすばらしさは群を抜いているだろう。
でも、それがどうしたという聴き手だっていないわけじゃない。

野球の投手にたとえれば・・・
160キロのストレートを投げられることを称賛しない人はいない。
だがストレートしか投げられず抑えられないのでは困るし、変化球の多彩さを愛でるファンがいてもおかしくないわけだから、そのあたりは理屈ではなく好みの問題であろう。

要するにいいたかったのは・・・
超絶技巧練習曲集での横山さんのようにマシンの如く、しかもしなやかで鮮やかに弾き上げちゃってくれることができるピアニストが、楽譜というものをどのように考えているかの一端を掬い取ることができる企画だったということ。

一方の河合さんはナショナル・エディションの申し子だから、立場的には「我が社の商品をご理解、ご納得いただけますか?」という位置にあって、彼女自身のというよりエディション側の意見を開陳していたように思われるので、記譜法、ペダル、指使い、スラーなどいろんな点にお客様が注文をつけてくるのに丁寧に解答しているさまが面白かった。

変ロ短調ソナタの第一楽章の提示部リピートが第1小節に戻るのか、第5小節に戻るのかは、内田光子さんのディスクを聴いて驚いて以来、ずっと謎だっただけにこういったわかりやすい経緯の説明があると本当に面白い。
そして、記事に書いてあることはすべてそのとおりだと思う。
このようなことは、フォンタナが加筆した幻想即興曲などでも起こる異動だともいえるかもしれないし、興味は尽きない。
研究によってそれらの知識を正しく知りうることは、本当に有用であり、それを投げかけられた使い手であるピアニストがどう感じるかが問題になるわけだが・・・。

畢竟、横山さんから出た言葉が「ショパンが聴いていいと思うような演奏をする・・・」「どう思うかはひとそれぞれ・・・」であった。
つまり、楽譜を絶対視しているわけではないという態度に私には思える。

ショパンに忠実なのか、ショパンの楽譜に忠実なのか・・・
さまざまな版を比較検証して、自分の一番しっくり来る弾き方を探し出すということなのだろうか?
原理原典主義に陥らないようにしたい旨は明確に表明されていたのは印象的だったが、こうなるとエディションを推奨しようとする伝導師と話が合わなくなるのは必然である。

                 

ところで・・・
先に、ナショナル・エディションの編集作業は尊い、敬服すべき事業だといった。

反面・・・
普及策に関しては疑念を持たざるを得ないこともないわけではない。
例えば・・・
ポーランドの威信をかけて開催されるショパコンで、仮に「これが真実」であったとしても解釈の底本としての使用を「推奨する」のはいかがなものか?
普及させることありきの展開と誤解されやしないか?
ピアノをろくすっぽ弾けもしないで言うのもなんだが・・・これが私の正直な感想である。

パデレフスキはポーランドの初代首相でもあったんだから、祖国の偉人の編んだパデレフスキ版だって「ポーランドの歴史的文化的遺産」というべきエディションなんじゃないかと思ったりもする。
すると「ポーランドの真実を汲んだ新しい労作」との棲み分けはどうなるんだろう?

ショパコンのような働きかけはナショナル・エディションは他のすべての版に優先して、いずれ他の版を駆逐してしまう呼び水となるのだろうか?

あにはからんや・・・
2005年のショパコン入賞者のコメントを見たら、優勝者ブレハッチのそれを筆頭に、ほとんどのみなさんがエ○カ様の「別に・・・」発言状態さながらで大差なく、拘泥していないのでズッコケてしまった。
じぇんじぇん心配は要らないかもしれない・・・と。

でも・・・
2010年のショパコンで審査員をされる小山実稚恵さんは、お立場もあってかナショナル・エディションの必要性を強調されていた。
そして新しいものが世に出るときは、慣れ親しんだものとの違和感から生みの苦しみの時期があり、現在これだけ流布しているパデレフスキ版の場合もそうだった・・・のだと。

これも然りだ。

いずれは時間が「淘汰」という形で結論を示すのかもしれないが、芸術の世界に政治力が介入しすぎて結論が変わってしまうようなことがあっては・・・
望ましいこととはいえないだろうな。

そして・・・
下田幸二先生がこのエディションについて、ショパン研究家のはしくれとして軽々しいことはいえないという趣旨のコメントをされている気持ちには大いに共感したし、私の読解力が人並みならば私と似た心証を抱いておられると感じた。
そして、過去からのいろいろな版を比較検証し、なおナショナル・エディションを含めた研究の成果をも検討して自分なりの版とでもいうものを作り上げて、納得して聴き手に届ける努力をすることが重要であることも、そのとおりだと感じる。


ここまで、CHOPIN誌の特集のあっちこっちから随意に文章の趣旨を抜き書きしている。
こうお断りするのは、同じ文章でも並べ順によって意味するところが変わって感じることがあるからである。
あるいは文言は同じでも「そんなつもりで言ってない」となるケースは、我がことに置き換えてもしばしばある。
そもそも編集段階で意図が損なわれた記述だってあるかもしれない・・・。
さまざまな可能性を考えると、あらためて同誌の特集を目にして私が感じたことを記したまで、とお断りしないといけないと考えるものである。


最後に・・・
レギナ・スメンジャンカ女史が書かれている本に「すべてはショパンが楽譜に書いてくれている」とあったことを申し添えてこの投稿を締めくくることにする。
女史の弾くショパンの「舟歌」は、私にこの曲のすばらしさを最初に知らせてくれた私にとってのスタンダードであり、先の言葉通り、すべてショパンに忠実に尽くしているという態度で演奏されていることが一聴して明らかな奏楽である。

ショパンが作った曲を人間が心を込めて解釈して、人間が心を込めて弾く。
問題はどうしたらそれが伝わるか・・・だ。

誰よりもシューベルトを愛す

2010年02月17日 20時56分20秒 | ピアノ関連
★フランツ・シューベルト;ピアノ作品集Vol.3
                  (演奏;トゥルーデリース・レオンハルト)
《DISC1》
1.ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
2.アレグレット ホ長調 D.566
3.スケルツォ 変イ長調 D.566
《DISC2》
※変ロ長調ソナタD.960の草稿 (第1楽章・第2楽章)
                  (2006年録音)

あきらかにアンテナが低くなっている。
どうしてこのようなディスクが発売されているのに、2年余りも気づかなかったんだろうか?

かの偉大なグスタフ・レオンハルトの妹にして、堅実なフォルテピアノ奏者であるトゥルーデリース・レオンハルトは、そのシューベルト演奏の解釈において余人をもって替えがたい境地にある唯一無二の存在であり、これはたまたま“私の”楽曲の嗜好の問題ではあるものの、私にとっては兄グスタフをしのぐ存在感をもっているアーティストである。

もちろんフローベルガーやヴェックマン、そしてバッハに至る一連の作品のうちの至上のものは兄グスタフの指先から生まれていることに何の異論もない。
それらは無駄なく画然としながら、ブランデーの琥珀色と香りに陶然とさせられるような瞬間を何度も感じさせられるものである。
しかしながら・・・
それでもなお、妹の素朴にして多彩な響により魅かれるのである。
芸術界・芸術史への貢献云々の大きさなんてものは、ひとつの曲を聴いてその世界に遊ぶときにはそんなの関係ないモンね・・・である。

しかし、この妹御・・・
レーベルに関してはあちこちさすらっている。
未だに“さすらい人幻想曲”の録音はないようだが・・・。

ディスクを発売したレーベルはジェックリンにカスカヴィル、そしてグローブ・・・他にもあるかも知れない。
しかしいくつかの例外を除いて録れているのは、殆どシューベルトではあるまいか?

ベートーヴェン、メンデルスゾーンなどの多少のディスクはあるようだが、知る限りではショパンやリストはなさそうだ。
それは彼女の弾きぶりを考えれば容易に理解できることではある。
素朴とひとことで言うと素っ気ないけれど、時としてふと立ち止まりつっかえたようにさえ聴こえることを辞さない表現は、リストはもちろんのこと、ショパンにあってもイビツに聞こえてしまうことだろう。

アファナシエフやザラフィアンツなど、現代ピアノでひとくせ・ふたくせ持っているのであれば確信犯で強烈な解釈も可能であろうが、そんなリスクをとる道はレオンハルト家の人の採る道ではない。
本当に自分の手になじみ愛おしく思える一握りの作曲家の、そのまた一握りのお気に入りをとことん愛奏する・・・それが流儀だといわんばかりの姿勢だと思う。
個人的には貴い態度であると好感を持っている。

さて、20年余の歳月を経て入れなおした変ロ長調ソナタ。
基本的な演奏設計は私が聴く限り全くと言っていいほど変わっていないのではないか?
その表現は彼女のなかでより熟成さえされたにもかかわらず、みずみずしさは増し、自由に思い切りピアノから強い音色が引き出されているようにも聴こえる。

ただレオンハルト家の演奏家である彼女は、やはりというか、決して則は越えない。
どうあっても気品を感じさせずにはおかない、卓抜した解釈・技量による成果である。

フィルアップの小曲、アレグレットとスケルツォもあまり聴かれる曲ではないが、彼女が付け合せに選んだ曲は例外なく愛おしく、彼女の曲に対する思いが透けて見えるようである。
結果として、コケティッシュな魅力を放つのである。

そして、このディスクならではの呼び物は、2枚目のディスクに収められている変ロ長調ソナタのドラフト・・・
草稿の演奏。。。

正直10分にも満たない演奏だが、私の・・・というより、数多あるピアノ曲のうちでももっとも通の愛好家に恵まれて止まないだろうこの曲が、どのような手順で作曲家の心なり頭からアウトプットされてきたのかを知ることは、タイヘンに興味をそそられるところである。

そして果たして第1楽章に関しては、和声やリズムを考慮する先にだいたいの旋律線があり、なんと、あの低音のトリルは旋律とともにすでに最初の段階で存在していた・・・この意味は解釈するうえで極めて大きなことだと思われる。

当然のことながら、完成稿と違う伴奏、そして旋律線にせよタダでさえ転調で流れるままに曲調が変わってしまう風情がシューベルトの特徴。
そうであったとしても、D.960はすごく偉大な作品に仕立てられているが、その順序を踏まえて演奏がなされているのだとすれば、低音のトリルにカッコとした存在感を感じさせるような演奏でないといけないのは当然である。

そしてやや闊達になった演奏も、当然のようにその草稿の意図を汲んで演奏されているんだなとわかる。


★フランツ・シューベルト;ハンマーフリューゲルのためのソナタVol.2
                  (演奏;トゥルーデリース・レオンハルト)

《DISC1》
1.ピアノ・ソナタ第19番 ハ短調 D.958
2.ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
《DISC2》
3.ピアノ・ソナタ第13番 イ長調 D.664
4.ピアノ・ソナタ 二長調 D.850 作品53
                  (1985年録音)

私が当初聴いたトゥルーデリース・レオンハルトのディスクがこちら。
喜多尾道冬先生が紹介されていたものだが、手に入れるまではいささか苦労をした。

初めて海外からネットで取り寄せたのがこれだったかもしれない・・・。
その後、銀座の山野楽器で見てずっこけてしまったが、何年も後だったので悔しいと思ったことはない。(^^;)

いずれも堅実な奏楽で、艶かなニュアンスについつい引き込まれ傾聴させられてしまうといったシューベルト演奏である。
シューベルトという人よりも、楽譜を尊重しているように聴こえるところもこのピアニストの血に相応しい気がする。

永く聴き継がれて欲しい・・・
そんな気にさせる演奏で、ときおり思い出しては無性に聴きたくなってしまうのだ。