SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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ディスクに記録されているもの

2009年06月15日 00時59分00秒 | 声楽・宗教曲関連
★ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉
               (演奏:ジョルディ・サヴァール指揮 ル・コンセール・デ・ナシオン)
※ハイドン:『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』管弦楽版(1785)
1.導入
2.福音書朗読 『父よ、彼らをお赦し下さい』
           (ルカ福音書第23章第34節)
3.ソナタ第1番
4.福音書朗読 『あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』
           (ルカ福音書第23章第43節) 
5.ソナタ第2番
6.福音書朗読 『婦人よ御覧なさい。あなたの子です』
           (ヨハネ福音書第19章第26節)
7.ソナタ第3番
8.福音書朗読 『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』
           (マタイ福音書第27章第46節)
9.ソナタ第4番
10.福音書朗読 『渇く』
           (ヨハネ福音書第19章第28節)
11.ソナタ第5番
12.福音書朗読 『成し遂げられた』
           (ヨハネ福音書第19章第30節)
13.ソナタ第6番
14.福音書朗読 『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』
           (ルカ福音書第23章第46節)
15.ソナタ第7番
16.『地震』プレスト・コン・トゥッタ・ラ・フォルツァ
                    (2006年録音)

このところ聴きまくっているディスクがある。
聴きまくるには理由がいくつかあって、まずは当然に演奏が素晴らしいことがあげられるわけだが。。。


折からのこのご時世、新譜を以前のように買いまくるということができない懐事情によるところも大きかろう。
したがって厳選された新譜しか手を出せなくなったわけだが、それがアタリでしっかり聞き込む時間をもつことができるのであれば、決して悪いことばかりではあるまい・・・。

と、口惜しさを封じるために書いているが、確かに次のを、そのまた次のを・・・と求めてしまうと本来ディスクに封じ込められていることの多くを聞き逃してしまうことに繋がりかねないとはうすうす思ってはいる。

もちろん聴きまくっているディスクの最右翼がここに挙げたサヴァールによる、ハイドンの『十字架上のキリストの最後の7つの言葉』というタイトルに“の”がいっぱい入る楽曲の再録音盤である。
以前の録音も持っているのだが・・・比較にならないぐらいディスクの中につまっているものが多く深い。
このことにいたく感じ入って今月の盤として採り上げたわけである。



周知のとおりこの楽曲はハイドンがスペインはカディスのセント・クェバ教会からの委嘱によって作曲されたもの。
解説を読んだところでは朗読途中の瞑想時のBGMみたいなイメージの使われ方をしたらしい。

キリスト教にはこのような祈りの機会に演奏される多くの宗教曲があり、その文化に関しては非常に羨ましいと思える。
なによりもその響きの美しさ(声楽が入っていてもなくても)、共通の事情をバックボーンに持っているためにたとえゲンダイオンガクになったとしても、その神なるものを希求する思いだけはしっかりと感じ取ることができるからだ。

我が国にも祝詞に添って流れる神楽みたいなものもあるが、なぜか(実は当然にして)外国のそれよりも馴染みが薄い。
是非を問う気はないが、もったいないことである。

我が国では概ね仏教にせよ外国から取り入れることは上手だし、本地垂迹なんて日本の旧来のものとがちゃがちゃぽんにするなど合理的に吸収することはお得意の巻なのだろうが・・・じゃあ、日本中にその教えが行き届いているかというと実は日常生活にはほとんど何も関係していない。
遣っているイディオムの中には宗教用語が山のようにあるくせに、そうとは知らず遣っているわけだし、そんな言葉のオンパレードの人たちが無宗教だと仰るお国柄である。。。

西欧(含む米国)のように、キリストを信じていないとカルチャーショックを受けるぐらいの共通基盤を持っていることは、同じ文化の受容にとってはとても有利なことだといえよう。
いや、宗教が同じだから文化が同じななんだというニワトリとタマゴのような論法も成り立つだろう・・・でも、どっちが先かということはここでは問題ではない。

そんなことを、このサヴァールのディスクからは感じるのである。
演奏に込められた情熱、その非常に素直な発露、人懐っこいとでもいいたくなる純粋無垢な魂を感じさせるもの。
作曲経緯の所縁の地であること、最新の録音技術・・・丹念に準備された演奏であることは一聴にして明らかであり、それらが詰まったディスクから溢れ出てくるのだから居住まいを正して聴かされてしまう。

朗読が入っているのもよく理解できる。
声楽がない曲だが、朗読が入り、それに寄り添うように温かい演奏が続いていくさまは、まさにこの曲がそのようなシチュエーションで演奏されるべく作曲されているのだと知らせてくれる。

没後200周年にあわせてこの曲にもいろんなディスクが登場しているようだ。
ブリュッヘンやブルーノ・ヴァイルといった斯界の雄たちも力作を発表しているようだが、私にはこの一枚があれば十分である。
(ネットの視聴で一部を確認したけれど、そこで既にディスクに格納されているものの質が私に合っているかどうかはわかってしまった。)


この曲を最初に知ったのは、レコードアカデミー賞も獲ったと思うけれどリッカルド・ムーティ指揮ベルリン・フィルによる管弦楽版だった。
ムーティはそれ以前にもこの曲をウィーン・フィルで録音していたようだが、ベルリン・フィルのそれは批評家によるとそれを凌駕しているとのことで、あのときにはこんな壮絶な宗教曲があるんだという思いで聴き込んだ覚えがある。

今、聴きなおすとシンフォニックに素晴らしい演奏が展開されていると思うが、ショウピースみたい・・・少なからぬ敬虔な祈りが感じられるとしても・・・に思えてしまう。
大仰でなくても、大パノラマでなくてもこの曲のあるべき姿は伝えられると思ってしまうのだ。

また、ハイドンみずから手がけた編曲としては弦楽四重奏版とオラトリオ版があり、弦楽四重奏は著名なクァルテットがこぞって採り上げてもいる。
クイケン四重奏団による演奏が好きだったし、いまでも好きではあるのだがこの管弦楽版を耳にして以降はどうしてもサヴァール盤を取ってしまう。


SACDであること、読めない言語で解説が異様に詳細に書かれているだろうこととは異質のものだが、それらの事情も決して悪い印象は与えない。
たしかにCD層の再生とSACDの再生は雰囲気が異なるから。
私が欲しい情報は、確かにSACDのほうからより多く感じ取ることができたわけだし。。。

全般にSACDのメリットを感じる箇所はあるが、最後の『地震』でのティンパニがかもし出す雰囲気は圧巻だった。
古楽器の演奏では、音楽的というより圧倒的な存在を表す『イカヅチ』みたいなイメージを表現する効果をティンパニは担っていたんだと再確認させられる。
現代のオーケストラのティンパニがヘタするとメロディー楽器のように聞こえるときがあるのとは対照的に。。。

ともあれ、今しばらくの間、このディスクはしょっちゅう私の耳を楽しませてくれることだろう。(^^;)



★ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1・2番
              (演奏:クリスティアン・ツィメルマン(p・指揮)ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

1.ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
2.ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19
                   (1991年録音)

新譜をなかなか手に入れられないということで、旧譜を引っ張り出して聞くことが増えてきた。
これらのディスクは国内盤3000円で購入しているから、出てすぐに買っているものだと思う。
当時、ビッグネームが新譜を発表したら勉強のつもりでしこたま買い込んでいたから・・・先に述べたとおり他により共感できるものがあったりするとそのままCD棚の肥やしになってしまっているのだ。

これらもその被害盤なんだろう。
まず曲がいけない。
そのころベートーヴェンのピアノ協奏曲といえば、まず『皇帝』というのが私の思い込みであった。
今でも5曲中最高傑作は第4番だと思っているのだが。。。

要するに当時これら初期の2曲は私の感覚の中では足切りに遭ってしまったわけだ。
ツィメルマンの指揮は、バーンスタイン急逝を受けてのものにしては堂に入っている、『皇帝』などよりは弾き振りがしやすい曲調であることも幸いした・・・云々の解説を見ていたのもしっかり覚えているのだが、そんなことはどうでもよくって、演奏自体がバーンスタインが指揮していた後半の3曲よりもウィーン・フィルの素直な響が楽しめて、文字どおり楽しい演奏だと思った。

ツィメルマンの美しさを自認しながら弾いているかのようなタッチも若々しい曲調によくマッチしているし、実は彼のラヴェルやラフマニノフ、バルトークと言った協奏曲のディスクにイマイチ違和感を感じている私としては、彼の協奏曲のディスク中さっぱり系ではこれ、こってり系ではショパンがベスト(いずれも弾き振り)じゃないかと、個人的には思ってしまった。


★ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1・2番
             (演奏:マルタ・アルゲリッチ(p),ジュゼッペ・シノーポリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団)

1.ピアノ協奏曲 第1番 ハ長調 作品15
2.ピアノ協奏曲 第2番 変ロ長調 作品19
                   (1985年録音)

そして同じプログラムのもう一枚。
レーベルも同じDGのこれらを聴いて思うこと・・・やっぱりDGは信用でき実力のあるレーベルなんだということ。
少なくともこの時代はそうだろう。
ラップなんて音楽(?)が出てくるまでの80年代ぐらいまでのよきアメリカのポップスが持っていた底抜けの楽しさが、失われてしまったのと同様に、あるいはDGなどメジャーレーベルの慧眼もかすんでしまっているのかもしれないが・・・。

ツィメルマンがすっきりと見通しのいい音楽作りをしているのに対し、アルゲリッチ&シノーポリも確かに重くならない響を作っているが随分骨太であるように思われた。

アルゲリッチが暴れ馬なんていうのはここでは感じられない。
でも、音楽的ということに関しては本当に頼もしい限りの演奏で、これもこれの楽しみを十二分に満喫させてくれる演奏である。

シノーポリも早世が惜しまれるが、素晴らしい演奏は悪いけど活動初期に多かったような気がするな。
ウィーン・フィルとのシューマンの第2番の交響曲なんか素晴らしかった、今でもあの曲はあの演奏だと思うぐらいに。。。

新譜も魅力的なものが次々出てきて見逃せないとの思いも強いが・・・
我が家のCD棚にも実はまだまだその魅力を存分に発揮してくれる機会を待っているディスクたちがあるんだな。

ディスクに記録されているもの、受け手にその素養やTPOが揃わないとすべてを開陳してくれることは難しいのかもしれない。
精進せねば。(^^;)