SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

リスト没後120年特集 (その7 ロ短調ソナタ編4)

2006年12月01日 00時02分03秒 | ピアノ関連
アリストテレスの「自然学」という著作の中に“ゼノンのパラドックス”という話があるのをご存知でしょうか?
私はこういう詭弁が大好きでして。。。したがって、モテないわけです。

その中のひとつに“アキレスと亀”の話があります。
簡単にご紹介すると、アキレスと亀が徒競走をすることになりアキレスのほうが足が速いことは明らかなので、亀に「いくらか前からスタートしてよい」というハンディをあげることになりました。するとアキレスが亀がスタートしたA地点に着いたときは、亀はその先B地点を行っており、アキレスがB地点に着いたときは亀は既にC地点に行っている・・・
したがって差が縮まることはあっても、アキレスは永遠に亀に追いつけないということになるというものです。
確かに「その地点に辿り着かなければ・・・」という考え方をしていくと、この無間地獄に引きずりこまれてしまいますよねぇ。

今日リストのロ短調ソナタの演奏家としてご登場いただくかたがたは、現時点でピアノ界の“最高の”頂点に立っておられると目される方であります。
巨匠中の巨匠、大家中の大家。。。ピアノ・アスリートのうちでもアキレス級であるといって誰も文句はありますまい。
さて、ロ短調ソナタという亀とどのように“対峙”されておられるか。。。
この曲相手だとヘタなピアニストでは“退治”されちゃいますもんね! (またやっちゃった!)

★リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調   
                  (演奏:アルフレッド・ブレンデル)

1.詩的で宗教的な調べ:葬送曲
2.ピアノ・ソナタ ロ短調
3.灰色の雲
4.クラヴィーア・シュテュック 嬰へ長調S.192-3
5.夢の中に(夜想曲)
6.リヒャルト・ワーグナー-ヴェネッィア
                  (1991年録音)

実はブレンデルが、私のクラシック・ピアノ音楽鑑賞の原体験のピアニストなのです。私の初めて聴いたクラシックピアノのレコードは、彼の70年代録音のベートーヴェンのソナタ全集から月光・悲愴・熱情の3曲を抜粋した廉価版のLPでした。したがって、とてもブレンデルのピアノの音を聴くと和みます。いつもコラーゲンたっぷりの潤いいっぱいっていう感じの音色。ピアノ自体も“たぁ~っぷり”豊かに鳴っています。このリストの一枚も例外ではありません。

ところでブレンデルは、若くして将来の自分の進路を考えるにあたって“独墺系の曲で身を立てる”ことを決心し、ショパンやロシアの曲(除く展覧会の絵)を封印していることはご承知のとおりです。彼自身ショパンの“24の前奏曲”などには未練を持ちながらも、“二兎を追うものは一兎をも得ず”という信念を貫いているようで、立派と思うと同時にいささか残念な気もしないではありません。
ただ、そのショパンとかがないぶんリストは彼の活動当初からの重要なレパートリーであるとともに、彼が何度も集中して取り組み、世評も高いディスクがひしめくという結果に繋がっているのも確かです。

このディスクは、彼による現時点での最新の“ロ短調ソナタ”の録音であり、彼の芸術の精華ともいうべきできばえだと思います。
私にとって昔なじんだ音による安心感に満ち溢れた演奏でありながら、聴くたびに深く感銘を受ける大切なディスクなのです。
演奏技術に関しタッチの絶妙さはいうまでもなく、ペダルを極めて有効かつ精妙に活用して無限の音色のバリエーションで艶っぽい音楽を実現しています。
どの部分に対しても余裕あるテクニックを背景に、道端の様子や踏みしめた土の感覚をかみしめながら抑制した表情で思索しているといった風情。。。
アキレスとしてのブレンデルには風格すら漂う様子ですから、競走にも格闘にもなりません。
私にとってはどこも不自然なところがなく、あるべきところにあるべきものが存在してくれるためにとても充足した時間がもたらされるというすわりのいい演奏であるわけです。

ブレンデルはリストを高く評価し、ことにロ短調ソナタへは賛辞を惜しんでいません。すべての部分に納得がいき、最後消え入るように終わることにすら共感を表しています。
そんなリストへの敬愛と稀有な楽曲をもたらしてくれた感謝の気持ちが、演奏にも満ち溢れているように思われます。

さて、ブレンデルには1981年にも評価の高いロ短調ソナタの録音があります。私がこの曲のよさをはじめて感じることができたのは、実はこの演奏によってです。
リストのロ短調ソナタとの出会いは、後日登場いただく野島稔さんのディスク中でした。そのときには“唯一よさがわからないやたら長い曲”としか思えなかったこの曲。。。NHKのブレンデルのリサイタル番組で取り上げられていたのを見たときに、しっかり聴いてみようという気になったものです。
そこでは思索の末に -痛々しいほどにテープを巻いた指で- 一音一音鍵盤を打ち据えていくような演奏風景が繰り広げられていて、非常に興味をそそられました。
早速ディスク(当時は標記の新盤は未発表)を買い求め、繰り返し聴いたのです。ですから、幼少のみぎりのベートーヴェンに続き、私にはここで改めてブレンデルが刷り込まれていることになります。
併録の伝説曲も素晴らしかったため、さらにリストのピアノ独奏曲を“まとめて楽しみたい”とごそっと買い集めて、慣れないと晦渋なところもある“巡礼の年”なども部屋を真っ暗にして集中できるよう工夫し、我慢を重ねて聴き続けたことでリスト独特の詩情を感じられるまでになりました。
芸術をただ受身に味わうだけでもやはり研鑽が必要です。今の私があるのはそのときの成果であると言ってもいいのかもしれません。なんといっても自分で弾けないものを楽しむわけですから、完成品をしこたま聴かないと、設計図である楽譜から体系的に理解して臨む演奏家の方と同じようには感じられないでしょう!
もとより敵うとは思っていませんが。。。 ここでは、私がアキレスに対する亀みたいなものですね。。。

★リスト:ピアノ・ソナタ ほか
                  (演奏:マウリツィオ・ポリーニ)

1.ピアノ・ソナタ ロ短調
2.灰色の雲
3.凶星!
4.悲しみのゴンドラ1
5.リヒャルト・ワーグナー―ヴェネツィア
                  (1989年録音)

マウリツィオ・ポリーニの演奏にしては-確かにピアノの弦にハンマーがジャストヒットした美しい音色が聞かれるというものの-武骨です。ぶっきらぼうとさえ言ってもよい部分もあります。
瑣末なことに感知せず弾き進められていくさまには、まるで円空仏を眺めるときのような感銘を受けます。
圧巻はやはりクライマックスであらゆる音が重なり合って登り詰めたときの盛大に混濁した和音!!
他のピアニストは概ねペダルを細心の精度でコントロールして濁らない響きを作るところです。それをよそに、混濁を恐れないどころか“倍音も含めた全ての音をそこに放り込むのをためらわないぞ”という覚悟が感じられ、それにより言葉にしづらい何かが確かに表現しているように思わされます。
さらにその音をすぐに減衰させることにより、洗面台にたまった水が栓を抜かれて吸い込まれて消えていくのを見るようなある種の“はかなさ”“厳しさ”をも感じさせるのです。

ポリーニはブライトな芯をはずさない美しい音をピアノから引き出すことにかけて、最高の技術を持っていると思いますし、それは異口同音に定着した評価だとも思います。しかし、音を消すことに関しては、あまり頓着していないのではないかと思えてしまうことがままある。。。
したがってこの部分について混濁を“ズサンな処理”だと言う人もいるようですが、私は決してそうではないと思います。

どの音も深いタッチを押し切り、一音たりとも揺るがせにしないで弾き切るというこれも極めて厳しい執念、感興が高まったところでは-この人では珍しくありませんが-うめき声まで聞かれる本当に入れ込んだ演奏で、ヴィルトゥオジティよりもスポンティニュアスな勢いに気圧され、結局完全にノックアウトされたという聴き応えを得ることができます。
アキレスとしてのポリーニは、とんでもなくウルトラスーパーな迫力でパラドックスの壁を正面から打ち破ってしまったというイメージですね!

★≪アルゲリッチ / リスト、シューマン、ピアノ・ソナタ≫
                  (演奏:マルタ・アルゲリッチ)

1.リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
2.シューマン:ピアノ・ソナタ 第2番 ト短調 作品22
                  (1971年録音)

アルゲリッチ。。。
なんの思い入れも屈託もなく、しなやかにすべてを包み込んでしまう。。。
弱音のところは彼女がピアノを鳴らしているのではなく自在に音楽が溢れてくるようであり、強奏するところは何の強引さもなく統べてしまう。

ここでは多分、私の聴き取ることのできるレベルをはるかに超えたステージで演奏がなされているのではないかと思います。陸上選手などが100m走で10秒を切ると“違った世界が見える”というのと同様にアルゲリッチクラスになると、我々の五感では感知できないことのほうが多いかもしれません。
演奏時間とかは物理的には認知できても、その世界に遊んだときの心象的なことは残念ながら共有することはムリです。最早、彼女は超アキレス級であり全知全能の神であるようにすら思えてしまう。。。パラドックスなんか、すべて彼女の望むとおりに解決されてしまうのです。

この“ウルトラスーパー”をすら超越した演奏は、他の誰よりも演奏時間が短いのですが聴き終わって全く速いというイメージはありません。
本能的な閃きに導かれての奏楽に唖然としながらも、確かな充足感を残してくれるディスク。アルゲリッチの演奏を聴くことは、まこと非日常的な行為を目の当たりにすることでもあります。

さて、ここまでの演奏が出来てしまったアルゲリッチ。
彼女にとっても音楽の霊感の世界を体験しに行くことは、かつては、価値あることであったに違いありません。
しかし、聴衆はもちろん他に誰もその同じ世界を共有してくれるだけの人がいないとしたら。。。そんな孤独に耐えられなくなってしまうのではないでしょうか?
だからこそ彼女はリサイタルでのソロ演奏を避けペースメーカーとしての“パートナー”がいてくれる協奏曲や室内楽を演奏し、他人と一緒に合わせることでこの世に“居る”ことを実感し安心できているんだろうなと思います。
もちろん今でもその気になれば、そんな世界に遊びに行くことは出来るのでしょうが、自分ひとりで“行っちゃった”あと戻ってくる自信がなくて恐いのかもしれません。

我々にも、多分大多数の同業者ピアニストにも理解しえない世界なんでしょうが、彼女はそんなふうに思わずにはいられないほど凄いピアニストなのです。


“アキレスと亀”の話は2500年も前から議論されていて、いまだに決着がついていないと言われているようですねぇ。
私なんかは最初に聞いたときから「この考え方によると亀もゴールに着けないじゃないか?」ということで、話の次元をすり替えただけだと取り合わなかったのですが。。。
「本当ならゴールに着けるという事実とどう折り合いをつけるのか?」ということこそが問題だと思うんですけど・・・ 「それを言っちゃおしめぇよ!」ですね。

ゼノンには他にも“飛ぶ矢は止まっている”というパラドックスなどもありますが、ばかばかしいと思いますか?
それとも、考えちゃいますか。。。?