SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

フランスを体現できる人間として

2007年06月30日 01時14分11秒 | ピアノ関連
★ドビュッシー&フォーレ:ピアノ作品集
                  (演奏:アンリエット・ピュイグ=ロジェ)
1.ドビュッシー:月の光 ~「ベルガマスク組曲」より
2.ドビュッシー:グラナダの夕暮れ ~「版画」より
3.ドビュッシー:葉ずえを渡る風 ~「映像第2集」より
4.ドビュッシー:西風の見たもの ~「前奏曲集第1巻 第7曲」
5.ドビュッシー:ヴィーノの門 ~「前奏曲集第2巻 第3曲」
6.ドビュッシー:月の光がふりそそぐテラス ~「前奏曲集第2巻 第7曲」
7.フォーレ:バルカローレ 第1番 イ短調 作品26
8.フォーレ:夜想曲 第5番 変ロ長調 作品37
9.フォーレ:夜想曲 第6番 変二長調 作品53
10.フォーレ:バルカローレ 第6番 変ホ長調 作品70
                  (1982年録音)

高橋多佳子さんの東村山でのリサイタルでアンコールに弾かれたドビュッシーの“月の光”。。。

アンコール演奏ということで完成度云々はおいておくとしても、感興豊かである点において、むしろその日に演奏された曲のうち、最も自然体で曲と同化できた曲ではなかったでしょうか。
あまりのソノリティの美しさに感動&鳥肌を禁じえなかった私は、ムダと知りつつも我が家にある“月の光”のディスクをとっかえひっかえターン・テーブルに載せてみるという仕儀と相成りました。

で、結果なんですが、あのときに勝る感動に打ち震えさせてくれたディスクは・・・残念ながらありません。

そりゃそうですよねぇ~。(^^;)

あの種の感動はあの場限りのもの。
当の多佳子さんがもう一度キチンと弾いてくれたとしても、そしてそれをディスクにしてくれたとしても、あの気持ちを再現させるには至らないでしょうね。
もちろん、弾き手も解釈も同じであれば「あの時の記憶を呼び覚ましてくれる・・・」という意味では多佳子さんの演奏が最も確実に心に働きかけてきてくれることは間違いないんでしょうが。

ここでも先般採り上げたコチシュの“月の光”は、やはり私に他とは別次元の感覚を呼び覚まさせてくれる特別な演奏でしたが、もうひとつ、まったく違った観点でとんでもなく私の心に迫ってきたディスクがあります。


アンリエット・ピュイグ=ロジェはフランス人のピアニスト・・・というだけでなく、我が国のクラシック音楽振興になくてはならぬ貢献をしてくださった大恩人ですよね。
彼女の弟子は我が国にもいっぱいいるんじゃないでしょうか?

そんなピアニストが、ここでは若い頃から愛して止まなかったドビュッシー&フォーレの小品を10篇選び抜いてアルバムを編んでいます。
そして母国フランスを念頭に置きながら弾かれた曲がこれほどまでに素晴らしいとなれば、これが我が国で録音されているということには大きな意義があると思いますし「他にはないのか?」と探したくなる気持ちになるのもわかっていただけますよね。(^^)/

何がスゴイって「風格」と「親しみやすさ」という通常は相反する2つの要素を、どの盤よりも強く併せ持っているんです。
そこらへんのヴィルトゥオーゾでは、束になって逆立ちしても適わない芸当だと思います。
まぁ束になって逆立ちするのはシンクロナイズド・スイミングぐらいしかないでしょうから、例えが適切かどうかはわかりませんけど。
要するにスゴイのです。(^^)v
これをこそ、フランス音楽のエスプリと言うのでしょうか?

音はしっかり鳴らされているし、慎重に響きもコントロールされているんだけれど、少しもコセコセしたところがないし気取ったところも気負ったところもない・・・。
それでいて風格にあふれ、聴く者が親しみやすく曲に向かい合うことができるんです。

「音楽的な、あまりに音楽的な!」と叫んでしまいたいぐらい! (^^)/

“月の光”は心のうちを照らす月影の響が、星空のきらめきと共鳴しているかのごとくキラキラと輝いているように聴こえる・・・。
“グラナダの夕暮れ”はフランス人が感じたであろうスペインの心の火照りをちゃんと内包している。。。
“葉ずえを渡る風”は“アルカイック”という言葉を思わせる曲の運びでありながら、ちゃんと生気を内に秘めているように聴こえます。
というようにドビュッシーに関しては、曲の性格を摑んでいながらそこに心の温かさというべきものを練り込んだ奏楽を展開しています。

一方フォーレに関しても同様です。
フォーレでは温かい心のあり方がもともと曲の基本にあると思うのですが、特筆すべきはピュイグ=ロジェの曲の空気の作り方にあるのではないでしょうか?
“バルカローレ第1番”はこれが世界中でベストなこの曲のテイクであると言ってもよいと思います。また“夜想曲第6番”も同様です。

ラモーなどチョー古(いにしえ)のフランスの作曲家と、次の世代ドビュッシー、ラヴェルへの橋渡しとなったフォーレは、フランス固有の感覚にショパン(この方も実際に活躍したのはフランスにおいて・・・ですよね)などのエッセンスを混ぜて独自の作風を誇っていますよね。
ですから、やはりフランス人によって、共感を持って弾かれたときには・・・フランス人が弾かないといけないという訳ではありませんが・・・曲に相応しい空気感が得られて演奏に大きくプラスに働くのでないでしょうか?


ライナーによると録音時72歳だったピアニストが、青春時代から愛し続けていたレパートリーにつきその全てを注ぎ込んだものだというので、さりげない中に濃い中身があったとしてもなんら不思議ではないでしょう。
してみると、このディスクに収められた演奏は、フランス人として日本の後進に自らのフランス的な感覚を身をもって示してくださったものなんでしょうね。

私はフランス人ピアニストのピュイグ=ロジェではなく、フランスを体現できる人間としてのピュイグ=ロジェの志とその奏でる調べに心からの共感を覚えます。



だからこそさりげない高貴さに心を奪われ、聴き惚れるのみ・・・。

ただただウットリなのです。(^^)v

シャープネスvs.ファンタジー

2007年06月29日 00時20分24秒 | 高橋多佳子さん
★ショパンの旅路 Vol.2 「旅立ち」~ワルシャワからパリへ (エクストン盤)
                  (演奏:高橋 多佳子)
《DISC1》
1.ノクターン 第3番 ロ長調 作品9-3
2.ワルツ 第1番 変ホ長調 作品18 「華麗なる大円舞曲」
3.ボレロ ハ長調 作品19
4.スケルツォ 第1番 ロ短調 作品20
5.アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
6.バラード 第1番 ト短調 作品23
《DISC2》
7.12の練習曲 作品25
8.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
9.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
10.4つのマズルカ 作品33
11.へクサメロン変奏曲 ホ長調
                  (2000年録音)

言わずとしれた高橋多佳子さんの“ショパンの旅路”シリーズの第2集です。
もしかしたら言ってもらわないとわからないという人がいるかもしれませんが、その辺には余り干渉しないでいただきたいと思います。(^^;)

先般、あずみ野コンサートホールで多佳子さんにサインをしてもらったので嬉しいのです。
この話をしだすと進まないので、本論に移りたいと思います。


“ショパンの旅路”シリーズは、ショパンの若いときからの作品を順を追ってピアニストの成長と共に録音していくというコンセプトのシリーズでした。
第1集の作品10の“12の練習曲”から始まって、第6集の終曲、ショパンの絶筆とされるマズルカまで1曲たりとも私を満足させないものはないという、素晴らしい演奏が堪能できました。
その中でも、作曲家ショパンの初期から中期に至るまでの名曲を揃えたのがこの第2集。

先日も「初めてショパンを聴くなら」と聴かれたときに、まず私の多佳子さんとの出会いのきっかけとなった“Ⅴ”を挙げましたが、前期の曲ならといわれてこの“Ⅱ”を推しました。

もちろん演奏は、どの曲集のどれをとっても文句のつけようがありません。
最近、多佳子さんのディスクを聴く私のスタンスのほうが「高橋多佳子が弾くの正しいのだ」という姿勢であるので、文句が出ないのです。(^^;)
正義の基準が多佳子さんの演奏側にありますから、これをご覧になった人はそれを差し引いて判断していただく必要があるかもしれません。
でもこのバックステージぐらい、私の基準に照らして書きたいことを書いていいスペースだと思っているので許してくださいな!


ディスクは、多佳子さん自身思い入れを持っているという作品9-3の“ノクターン”に始まり、“華麗なる大円舞曲”、“アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ”という人気曲も収め、りかりんさんとのコンサートでソロで演奏された2曲“エオリアン・ハープ”と“即興曲第1番”があるかとおもえば、“ボレロ”“へクサメロン変奏曲”などというなかなかお目にかからない演奏まで聴けてしまうというバラエティ豊かなもの・・・。

また、ミケランジェリ信望者の私としては、彼のDGへの唯一のショパン録音である10のマズルカ集のB面に収められている“バラード第1番”“スケルツォ第2番”が両方とも入っているディスクであることも興味深いです。

まぁこれを聴いてしまえば、ミケランジェリなにするものぞ・・・ですね!
と、ちょっと大袈裟に書きましたが、いかんせんミケランジェリは私のおじいさんの世代のイタリアの演奏家。。。
私のクラシック音楽の歴史の中では今でも確かに神様ですが、すでにホントに神様になっちゃったから。。。
「今現在、最も共感できる演奏は?」と聞かれれば、是非もなく「多佳子さんの(^^;)」・・・ということになります。
もちろんミケランジェリは素晴らしいですよ! 彼の流儀で(絶好調の時の)彼を凌駕する人は、未来永劫現われないと思います。

またノクターンでは、作品9で1と2を敢えて外しているところまでが何故かニクイ選曲に思えてしまいます。
私は作品9のノクターンを多佳子さんから全曲聴いていますが、全部違った演奏会だったなぁ~。
作品9-1は先日の安曇野と東村山、作品9-2は北軽井沢と3月のガラコン、作品9-3は初めて行った新潟県の三条でのコンサートですね。
もちろん作品9-1・2いずれも絶品だったので、できれば録音してもいただきたいのですけど。。。


実は、作品9-3を三条のリサイタルで聴いた後に“エクストン盤”を聴いて、失礼極まりないことに多佳子さんのブログに「作品9-3のが素晴らしかったから、ディスクを録音しなおして欲しい」と書き込んじゃったことがあります。
それほど実演が素晴らしかったということでもあるのですが、今回お詫びして訂正しないといけないのかなと思うことがありました。

というのは、この記事でご紹介するディスクは、実はこのディスクです。(^^;)


★ショパンの旅路 Ⅱ 「旅立ち」~ワルシャワからパリへ (トライエム盤)
                  (演奏:高橋 多佳子)

《DISC1》
1.ノクターン 第3番 ロ長調 作品9-3
2.ワルツ 第1番 変ホ長調 作品18 「華麗なる大円舞曲」
3.ボレロ ハ長調 作品19
4.スケルツォ 第1番 ロ短調 作品20
5.アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
6.バラード 第1番 ト短調 作品23
《DISC2》
7.12の練習曲 作品25
8.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
9.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
10.4つのマズルカ 作品33
11.へクサメロン変奏曲
                  (2000年録音)

念願かなって、先ごろ入手することができた廃盤になっている(レコード会社がなくなってしまったため)“トライエム盤”の同じディスクです。

先に“シャープネスvs.ファンタジー”というタイトルを説明させていただくと、“エクストン盤”・“トライエム盤”、それぞれのディスクの音の傾向を一言で表現したつもりなのです。

別にジャケット写真を比較した時に“エクストン盤”が色黒でシャープに見え、“トライエム盤”からはハトが飛んでいるなど手品師のようなファンタジーを感じるというわけではありません。(^^)/
でもジャケットに関してタイトルのロゴやレイアウトが変わっているのは別にどうこう思いませんでしたが、背景の写真まで違っているとは・・・実際並べてみるまで気づきませんでしたねぇ~。
あらためて、日頃物事を如何にのんべんだらんと見ているかを痛感しました。


さて、この2枚はもちろん音源は同じはずです。
“トライエム”が持っていた原盤マスターを“エクストン”が譲り受け、DSD方式でリマスターしてもう一度世に出してくれたという経緯があるようです。
だから“エクストン盤”が出たからこそ、私は多佳子さんの“ショパンの旅路Ⅰ~Ⅳ”の演奏に触れることができたわけで、“エクストン・レーベル”のオクタヴィア・レコードには感謝感激なのです。

でも、この2枚の音の傾向は聞き比べてみたところ明らかに違います。
“エクストン”が“シャープネス”で“トライエム”が“ファンタジー”なのです。
そして、作品9-3に関して言えばこのディスクのオリジナル音源となっている元の録音には、きっと多佳子さんが実演で聴かせた音が入っている・・・ということがわかったのです。
その音が“エクストン盤”では聴こえない。。。少なくとも私の現行システムでは引き出せないのです。
その結果、私が勝手に命名した多佳子さんの“瞬殺美音”を「録音時点では彼女がものにしていなかったのではないか?」と思ったためにコメントのカキコに至ったというわけです。
実際にはスクリャービンの幻想曲の演奏などで明らかなように、彼女は前世紀からその音色を誇っていたんですけどね。

そして今般、マランツのユーティリティー・プレーヤーとプリメイン・アンプの組み合わせで“トライエム盤”を聴いたところ、もちろん実演ほどの鮮やかさではありませんが確かに瞬殺美音が聴き取れるのです・・・。

りかりんさんとのコンサートを特集した私の記事でも、作品25-1、作品29について多佳子さんのウルウルの表情付けと美音を愛でておりますが、家で聴く時は「コンサートのときの演奏を連想することで豊かに聴けるようになる」というような趣旨のことを書いたように思います。
でも、“トライエム盤”には、やっぱり実演のときと同じ音と思しき音がちゃんと聞き取れるのです。

“瞬殺美音”だけに留まらず、演奏しているロケーションの雰囲気情報、フレージングの情感、奥行き情報も“トライエム盤”のほうが私には自然に聴こえるし。。。

要するに“エクストン”と“トライエム”、もともと情感・奥行き情報とも入っている同じマスター・テープから「何をどのように聴かせるか」という方針が違うということなのではないでしょうか?
つまり“エクストン盤”ではチョッと音場が平面的になるリスクを犯しても、音を硬質に圧縮して、とにかく演奏を勢いよく聞かせようというコンセプトだと思います。したがって、“音”がすぐ耳につくわけです。

逆に“トライエム”は音を少し緩めに開放することで、自然にに広がりを感じさせる音場を優先し、雰囲気良く聴かせようというところに留意をしたマスタリングが施されていると見受けました。
作品25-9や25-10の中間部など、背景の音がフリーに広がっていくので前面の音が窮屈さを感じさせず煌めくのです。
したがって聴いているうちに一瞬で音楽に引き込まれて、自分から次の響を聴きに行きたいと知らず知らずに追いかけていってしまう仕掛けとなっています。
それこそがファンタジーのカラクリ。。。
“トライエム盤”のほうが、私にはあっているのかもしれません。


ここで毎度のことながらお断りさせていただきますが、この比較はどちらが良い・悪いという評価ではありません。
どちらの仕事も、エンジニアはトーンマイスターとしての良心に則った仕事をしているのですから、私が仕事ぶりをどうこういう筋合いのものでもありません。
事実として私の現行機器を使用した場合には、“トライエム盤”に(結果として)強調されている情報のほうがファンタジーを感じさせる音であるために、勢いやピアノのシャープさを強調した“エクストン盤”よりもゆとりを持って聴けたような気がするということです。
これがフォーカスのあったアグレッシブな音楽を聴きたい人や、比較的口径の小さいスピーカーでくっきりと聴きたい人には私と逆の判断をする人がいてもおかしくありません。

とにもかくにも演奏よし、プレーヤーをとっかえひっかえ、ディスクも傾向が違うものが2種類あるとなると同じホールでいろんなところに陣取って聴いたような体験ができて興味深いです。

でも、やっぱりピアノの音色周りの空気に開放感が感じられるために、例の抗しがたい魅力を持った美音が聴き取れる“トライエム盤”を入手できたことが、とてもラッキーだったと思っています。

なんだか、録音に関する薀蓄の記事になってしまいましたね。(^^;)



※出張のため先日付投稿します。

魔法はいらない

2007年06月28日 00時05分53秒 | ピアノ関連
★シューベルト:幻想曲 ハ長調 作品15 D.760 “さすらい人”、ソナタ 変ロ長調 D960
                  (演奏:セミョン・クルチン(Semion Kruchin))
1.幻想曲 ハ長調 作品15 D.760
2.ピアノ・ソナタ 変ロ長調 D960
                  (2001年)

1966年のリーズ国際コンクールでポストニコワと並んで同率2位(第1位はオロスコ)、1968年のエリザベート王妃国際コンクールで4位(他の入賞者を私は誰も知らない・・・)という旧ソ連のピアニスト、クルチンさん。
写真を見る限り、バラエティ番組に出る系のアナウンサーという感じ。昔なら「ズバリ!当てましょう」の泉大助さん的なイメージといったらいいでしょうか?
どことなく宮尾すすむさんに似てるような気もしますが、それは写った手の角度によるものかもしれません。


シューベルトの変ロ長調ソナタを私が大好きであることは何度もここで語ってきましたが、このテの曲になってくると我が国で発売されているディスクだけでは物足りないと思うことがしばしばあります。
ショパンは案外出回っているような気がするんです。
でもリストやシューベルトは超一流の作曲家であるにもかかわらず、ことピアノ曲になるとタワレコやHMVだけではカヴァーできてないと思わざるを得ません。

そこであまり知られていないピアニストによるディスクは、だいだい海外のCDの試聴サイトを訪ねて「聴いてみようかな?」と思ったものを、計画的に衝動買いしています。

“計画的な衝動買い”というのはよろしいですよね?
以前この言葉を家人に遣ったところ、「自己矛盾した表現である」とお叱りを受けたモンで。。。とはいえそれで間違いないんだから仕方ありません。


さてこのピアニストの演奏はとても堅実です。
メリディアン・レーベルの常としてライナーノートが貧弱なので、英語で書いてあっても読む気になります。
それによるとギレリスやリヒテルが健在だった頃のソ連でも、クルチンのヴィルトゥオジティや演奏の華やかさは評価されていたようです。
そして先のコンクール入賞歴(入賞したとだけ書いてあって、いつとは書いてなかったので調べました)を見て実績あるベテランだと知り、1990年にロシアを離れた(この時期だから亡命かどうかは不明)ということだけしか書いてない・・・。
(^^;)

演奏を虚心に聴くのに、ピアニストの属性情報はこれだけ判れば十分という気もしますが。。。

この潔さには逆の意味で、さすがと感じますね。
4ケ国語ぐらいで30頁にも及ぶブックレットが付いている例もありますけど、読めない言葉でぐちゃぐちゃ書いてあってもねぇ。
いつも言いますが、日本を大きなクラシック音楽のマーケットだという海外のレコード会社は数多いけれど、日本語訳のライナーを載せるに至っている会社がないということが「騙るに落ちている」ことを証明しているように思います。

我が国の輸入盤購入市場が決して小さくないと思われる中でのこの現状は、裏を返せば我が国のディストリビューターによる圧力があるのかもしれませんし、販売市場の閉鎖性に海外のメーカーが辟易しているのかもしれません。

でも、そのうち中国語や韓国語のライナーが併録されるようになってなお日本語のライナーが載らなかったら・・・そりゃもうショックでしょうねぇ~。(^^;)


肝心の演奏ですが、私は好きですよ。(^^)/
衝動買いは、かなりの確率で聞いた当初ハズレと感じさせるものが多いですが、これは最初からとても楽しめましたし、“さすらい人幻想曲”にせよ“変ロ長調ソナタ”にせよ「初めて聴くので一枚」と尋ねられたら「これなんかどう?」と言って差し支えないぐらい聴きやすいと思います。

ただしこの演奏の中では、魔法は起きません。
つまらない演奏でないことはこれまで述べたとおりですが、とんでもなく鮮やかで凄い演奏だという気もしないし、全てが中庸以上ではあっても過不足なく進んでいく。。。
気づいた点といえば、変ロ長調ソナタの第3楽章の冒頭が「やや急き込んだテンポ設定をしているな」と思ったことぐらいでしょうかねぇ?
後は、演奏者・聴き手ともにリラックスできる、肩の凝らない期待通りの演奏が展開されて楽しく1枚を聴き終えることができるというもの。


でも、「それってスゴクね!?」って印象を強く持ちます。


フレーズを伸ばしたり縮めたり、聞かせどころを演出しようとして自滅するような演奏やら、表現意欲が空回りして技巧が追いつかないような演奏もある中で、最初から最後までテンポ良く、聴き手を満足させる演奏運びで弾ききっちゃうってことは。。。
1時間のバラエティ番組を“独り喋り”で乗り切るということに等しいですから、それはもう名司会者の域ですよね!

自分も楽しくノッて弾きながらお客様も満足させて、それでいて徹頭徹尾自然に演出できるということは相当な技巧なんだと思いますし、それこそが「まったく正しい技巧の使われ方」であるといわねばなりますまい。
ともすれば「技巧をひけらかすことが目的ではないか?」と勘ぐりたくなるような演奏・・・それはさすらい人幻想曲に特に多いのですが・・・も無きにしも非ず。。。

「肩が凝らない=重みある演奏をしない」と考えられるかもしれませんがさにあらず、『信頼に足るアーティスト』クルチンというピアニストにはそんな印象を抱きます。

名曲を正しく過不足なく再現できるなら音楽を楽しむのに必ずしも魔法はいらないし、魔法を求めて錬金術のような奏法を探す手法は非常にリスキーだということを改めて感じました。
もちろん魔法なしで聴き手を納得させるだけの技術を手に入れることが、魔法を手に入れるのと同様に困難であるだろうこともこの演奏を聴くと実感されます。


というわけでピアニストの皆さん、頑張ってくださいね!(^^;)



※出張のため先日付投稿します。

出だしが肝心!

2007年06月27日 00時09分14秒 | ピアノ関連
★リヒテル●四季/音の絵
                  (演奏:スヴャトスラフ・リヒテル)
◇チャイコフスキー:「四季」作品37bより
1.5月 白夜
2.6月 舟歌
3.11月 トロイカ
4.1月 炉ばたにて

◇ラフマニノフ:練習曲集「音の絵」作品33より
5.第9曲 嬰ハ短調
6.第5曲 ニ短調
7.第6曲 変ホ短調

◇ラフマニノフ:練習曲集「音の絵」作品39より
8.第1曲 ハ短調
9.第2曲 イ短調
10.第3曲 嬰へ短調
11.第4曲 ロ短調
12.第9曲 二長調
13.第7曲 ハ短調
                  (1983年録音)

今日はリヒテルのディスクを2枚ご紹介します。
今回私がこの2枚に共通点を見出し、記事にしようと思い立った理由は「ディスクの出だしのこのうえない魅力をお伝えしたかったから」であります。
本日の用件はそれだけかと言われても、やはりそれだけなのですが・・・。(^^;)

まずは、チャイコフスキー「四季」とラフマニノフ「音の絵」の抜粋からです。
こちらを先にした理由は、私がリヒテルの演奏に最初に魅せられたのがこのチャイコフスキーだからです。

“白夜”の冒頭。
何のことはなく素朴に、比較的明快に弾き始められるだけのようにも思えるのですが、そのとき聴き手はチャイコフスキーの抒情の世界に既に“いる”んですねぇ~・・・これが。
リヒテルの魔法はどこでもドアよりも簡単に、どこかへ連れ去ってくれちゃうんですよね。

ピアノの音は明晰に鳴っているのに、響が丸い・・・まろやかとも違うんです・・・うえに、余韻がなんともいえません。
リヒテルの凄いところは、このような演奏効果には実際には録音技術とかが関係しているであろうけれど、あくまでもリヒテルの演奏の帰結としてこのように訴求力のある音楽が導かれているのに相違ないと思わせられるところです。

チャイコフスキーではじっくりと落ち着いた物語が聴くものに沁みてくるし、ラフマニノフでは激しい曲は大迫力を聴き手にそうと思わせないように聴かせてしまうかと思えば、思いの淵に沈潜したりもする。
共通して言えることはいずれの場面でも慌てず騒がず、ごくごく当たり前のことであるかのように平然としていること・・・。

まさに“豪腕ピアニスト”と呼ぶに相応しい弾きぶりなのではないでしょうか?
ピアノで大嵐を呼ぼうと思えば造作なくできちゃうだろうピアニストですが、この場では録音会場の雰囲気にも配慮して雰囲気良く仕立てた・・・というところなんでしょうね。

そして、禁じ得ない私の想いを一言で言うと・・・・・・リヒテルってどうしようもなく生真面目ですね。(^^)/


★シューマン:色とりどりの作品/ブラームス:6つの小品より
                  (演奏:スヴャトスラフ・リヒテル)

1.シューマン:色とりどりの作品 作品99

◇ブラームス:6つの小品 作品118より
2.間奏曲 第1番 イ短調
3.バラード 第3番 ト短調
4.間奏曲 第6番 変ホ短調
                  (1971年録音)

こちらはシューマンとブラームスのカップリングです。
この作品99というのは、きっとシューマンのピアノ曲の作曲者自身による落穂拾いなんだろうけれど、どうせならショパンの“24の前奏曲”みたいにチャンと何らかの連関付けでもすればいいのにと思わないでもない曲です。

要するに、私に言わせれば玉石混交・・・リヒテルが弾いてても・・・です。
それも結構“石”が多い・・・という話はおいておいて、この冒頭の曲の出だしだけは紛れもなく“宝玉”です。
これはリヒテルが奏しているからかもしれませんけれど・・・。(^^;)

フロレスタンやらオイセビウスという以上に振幅が激しい・・・というより、そこらじゅうにあったシューマンの他の曲のどこかで聴いたようなムードを持っているとはいえ“できそこない”の作品を気まぐれにひっくるめて、作品99に仕立てたっていわれてもしょうがないんじゃないでしょうか?
“できそこない”で悪いならエキセントリックというか極端な曲というか・・・いずれにしても群れそうもない曲がいっぱいです。

もぅシューマンったら、他人のソナタを「4人の乱暴な息子達を一括りにした」とかって評しておきながらよくもまぁシャーシャーと。。。(^^;)

というのが私の感想なのですが、実は綿密に構想を練って作り上げられたものであったとしたらゴメンなすって・・・ですね。

いずれにせよ、この曲をリヒテル以外の演奏で聴いたことがないので断言できませんが、「そうはいっても聞きとおせたのはリヒテルのダイナミックかつ几帳面といってよい繊細さの功績であります」と言い切ってしまいましょう。
ただでさえ、シューマン苦手なんで・・・これ以上のコメントは差し控えます。


逆にブラームスはよく耳にする曲ですが、これもイ短調間奏曲の出だしの壮麗さ、これを当たり前のように弾けちゃうというところに豪腕さを感じました。
3曲とも言わずもがなの名演奏であります。

リヒテルの演奏って当たりハズレがあるようにも思いますけど、どの演奏にも言えることは、
 「つかみはOK!」(^^)v
ということですね。


ここでは書き記すだけに留めますが、有名なベートーヴェンの“テンペスト”とシューマンの“幻想曲 ハ長調”のカップリングの比較的初期のディスクにおいても“テンペスト”の出だし、地獄のカオスからこの世を窺うように弾き出される上行のアルペジオ。。。

 「いつもそこを聴いただけで、恐れ入ってしまう私なのでしたぁ~。。。」

高島彩アナみたいに、“今日のわんこ”風に読んでくださいね。(^^)/

まったりとした音場

2007年06月26日 00時00分02秒 | ピアノ関連
★ラヴェルピアノ曲全集 Vol.1
                  (演奏:アルトゥール・ピサロ)
1.水の戯れ
2.夜のガスパール
3.グロテスクなセレナード
4.鏡
5.ラ・ヴァルス
                  (2006年録音)

折角ですから前記事の流れに乗って、ラヴェルのピアノ曲の新譜をもう一枚ご紹介してしまいましょう。(^^)/

ピサロは1990年のリーズ国際コンクールの勝者であります。
これまでにベートーヴェン・ショパンをそれぞれ2枚ずつ、このディスク同様LINNレーベルからSACDのハイブリッド盤で発表していますね。
他にもロドリーゴやリストのハンガリー狂詩曲全集などのディスクをものしているようです。

LINNレーベルの5枚全部に触れての感想ですが、この人はショパンではブリュートナーの高音が補強された造りのピアノを使用するなど、楽曲に応じたピアノの響き(タッチとかの技術的な側面ではなく、実際にピアノから放たれる音そのもの)に細心の注意を払って、全体的に楽曲の雰囲気に相応しい演奏をすることが信条の人と聞きました。

ですからこのラヴェルなどは、まったくこのピアニストの資質にフィットしたレパートリーであるといえましょう。
事実非常によくコントロールされたピアノの響きが美しい、完成度の高い奏楽が全編楽しめます。

残響を多めに取り込んだ芳醇な録音と相俟って、非常に雰囲気豊かな演奏が繰り広げられるのを聴けば、このピアニストがいかにバランス感覚にすぐれた奏者であるかがたちどころに理解されるところであります。(^^)/


LINNレーベルといえばステレオ製作の会社と密接な間柄であるだけあって、SACDのフォーマットに造詣が深いことはもちろん、録音にも当然に一家言ある姿勢で臨んでいるのに相違ありません。
このディスクの録音に関して、私のスピーカーが小型で古いため十全な低域を再現できないことを差し引いてみても、実際のピアノを生で聴いているのよりずっと良質な音場を感じます。
レコード再生芸術ならではのいわば“特等席”での鑑賞ができる、という趣向の音作りなのです。
まずはその点に魅力を感じました。。。

裏返せば自分の再生装置の限界、特にスピーカーの限界を思い知ったともいえます。(>_<)
ちなみにディスクマンのヘッドホンで聴くと、音がプニョプニョになってしまってミョ~な感じになってしまうんですが。。。
とにかく「“らしい”再生装置で聴くと、そのよさがはっきり判るんだろうな」ということは、強く印象付られましたね。(^^;)


さて、ラヴェルのピアノ曲全集を作るとなればこれが前編、“亡き王女のためのパヴァーヌ”や“ソナチネ”“高雅で感傷的なワルツ”“クープランの墓”を中心に後編が編まれるのでしょうが、こうして見ると前編がどっちかというと描写的な音楽、後編も標題音楽ではあるんですが絶対音楽に近い作品を集めるという意図なんでしょうか?

でもこの演奏を聴くと、あまりそれは関係ないのかもしれないと思わされましたね。
というのも、全ての演奏について作曲の対象物は意識されてはいても、結局のところその描写に力点が置かれているとは思えず、「とっても良質なピアノ音楽の演奏を聴いた」というところに帰結するように思われるからです。

“水の戯れ”にしても、悪戯好きな河の精を描写した曲だとは思えない・・・んです。
「“水の戯れ”という曲のリッパな演奏を聴いた」と思えるのです。

出だしはややゆっくりしたテンポで、たっぷりした水量がある川の上流を思わされます。
昨日のバルトの場合には、白いしぶきがぴちゃぴちゃ泡立っているような川の瀬を思わせるテンポでしたが、ピサロは陽の光を十分に受けて少し水温が高まっているようなまったりとした水中を感じさせるのです。

この後の川の流れに沿っていくにあたって、さすがにテンポは上がって流麗に流れていくイメージにはなりますが、常に河の精は川の底の方にいて、水草に肌を遊ばせながら水面の光を仰ぎ見ながらゆとりを持って滑っていくのです。
これは曲中、滝のようにグリッサンドで滑り落ちるところでも一切変わりません。
余分なスプラッシュを発生させることなく、弾力はあってもべとつかない油のような水がどこまでもしなやか~に流れ行くのです。

この流れに水深がややあることは、たゆたうような左手の中低音が少し奥まったところに定位して、それを豊かに表現していることからわかります。
最後までまったりしながら曲の終わりまで流れ着くのです。


次は“夜のガスパール”ですが、“オンディーヌ”“絞首台”“スカルボ”いずれもそういう名前のステキなレパートリーを聴いたという感じで、フランソワのようなオドロオドロしい怪奇的なファンタジーを振りまくような演奏を期待するなら、はっきり言ってハズレです。(^^;)

でもこれらの曲を雰囲気のよい響きであくまでも音楽的に楽しみたいのであれば、当たりです。
“オンディーヌ”は妖艶かもしれませんが、ちっとも怖くないし気味悪くもない。
“絞首台”は心地よい緊張感・・・?
“スカルボ”に至ってはどこにも一つ目の妖怪がくるくる回っているという雰囲気はないですね。
しいて言えばクライマックスでフォルテシモになったところなどが、残響の豊かな広大な音場となっていることも手伝ってか、スカルボ小学校の集団徒手体操という感じに聴こえるぐらいでしょうか?

とにかく曲中のどこもグロテスクではない。(^^;)
テクニックにしたってこの人以上にキレるピアニストは何人も思い当たります・・・とはいいつつもこれだけ雰囲気良く、なおかつこんなに精細に弾けちゃう人を探してみるとなかなかいるものではありません。
やはりピサロというピアニストにつき、端倪すべからざる実力派といわざるを得ないんでしょうね。

“鏡”についても概ね同様のことが言えます。
“道化師の朝の歌”などになかなか迫力ある表現が聴かれますが、とにかくまったりと雰囲気がよいのです。(^^)v


最後の“ラ・ヴァルス”だけは単に雰囲気の良さに終わらせない、迫力の演奏が聴かれて楽しい終わりかただと感じましたね。
めくるめくピアノのグリッサンドが華やかに飛び交い、このうえなくファンタスティックな演奏が展開されています。

ホントはこれが1番弾きたかったんだろうな・・・。そんな風に思えるエンディングでありました。

オンディーヌのオンディーヌ(2)

2007年06月25日 00時00分01秒 | ピアノ関連
★ラヴェル:夜のガスパール・鏡・水の戯れ
                  (演奏:ツィモン・バルト)
1.夜のガスパール
2.鏡
3.水の戯れ
                  (1995年、1996年録音)

前の記事の続きです。
ツィモン・バルトはオンディーヌ・レーベルのピアニストの中ではベテランになるんじゃないでしょうか?

EMIでの録音歴もあり、以前このバックステージでもリストの作品集を採り上げたことがあります。
“コンソレーション”の集中力のある演奏が魅力的であるうえ、バケモノみたいに弾けちゃう人だったのでそのように書いたような記憶がありますが、なにせ半年も前のことなので覚えてられませんと言うのが正直なところです。

 ♪~ あんた、バルトのなんなのさ・・・ってね。(^^;)


しかしここでのバルトの演奏を聴くと、ピアノのタッチの鮮やかさは以前同様に冴えていることが伺えますし、コンソレーションで見せた響に対する凝縮力というか集中力については、さらに目を見張らさせられる奏楽を展開するようになったといえましょう。
以前よりもさらに長所を伸ばすことに成功した、幸せな成果を聴くことができるのは善いことです。
宗教懸かったオッサンみたいですね・・・。


さて、この演奏の前にもバルト演奏のラヴェルの“オンディーヌ”が世に出ております。
前記事のエッシェンバッハのラヴェル集にオマケとして入っていた、その“オンディーヌ”の演奏は、2年経って顕れたこのディスクの録音とはまた別に収録されていたものでした。

レーベル20周年記念録音を流用しなかったのは、プロデュース側の良心の顕れであると言われればその通りでありますが、理由ははっきりしていると思います。
ピアニストによる演奏内容が、このアルバムに収められているほうがより優れているからです。(^^)/

テンポの取りかた、解釈そのものについては本当に双子の姉妹のようによく似ています。
録音の間を1年以上隔てているとは思われない、それこそテイク1、テイク2って感じです。
でも表現の幅の広さ、曲の見通しのよさの点で、記念録音よりも新録音の方がちょっと聡明な妹に思えるのです。
これは演奏者の成長もあるのかもしれませんが、ほんのわずかなマイクセッティングの差とか、収録会場の条件の差ということも考えられるのでむやみやたらにピアニストを褒めるようなことは慎みたいと思いますが・・・。(^^;)


さてさてバルトというピアニストの特徴としては、先に述べたとおり聴き手を抱き込んで曲に収斂していく集中度の高い演奏を聞かせることが挙げられますが、もうひとつ“タッチによる”表現の多彩さを特筆してもよいと感じます。

残念ながらペダルや解釈の斬新さではっと耳をそばだたせられるような瞬間は余りないのですが、タッチに関してはとにかくいろいろやっちゃってくれているのです。
それは、ピアニシモにおいて「何でそんなか細い音が音の粒を揃えて弾き表すことができるんだろう?」という驚きをもたらすこともあれば、ペダルで音色を混ぜて作っている間にバラバラっと分散のアルペジオを残響のない音でまぶしてみたりと、耳が喜ぶような効果を生んでいることも多く、このピアニストの手先の技量の確かさを強く印象付けることに貢献しています。

しかしそれは裏目にでることもある・・・。(>_<)
たとえば、完全に確信犯だと思うのですが、スカルボなでのスピーディな曲中、高音での和音を打ち鳴らす際に敢えて不用意とも聴こえる乾いた硬い響を採用していること、それも楽譜がどうなっているか知らないけれども、他の演奏家のそれとは違った音遣いではないかと思わされる局面がいくつかあることであります。
カーンと鳴らされる“その音”だけが浮いてしまって、“およっ”と思うことになるのです。

また、鏡における“蛾”のごとく冒頭のフレーズがすこし毛羽立っているというかガサツにささくれ立っているように聴こえることも、よく聞くとその音を選んで遣っていることが判るだけに、もう少し耳当たりのいい音にしてもよかったのではないかと思ったりして・・・。
私にとってはこれらはマイナス点。。。


まぁ小手先の技術の話はこの辺にして解釈全般に関して思ったところを述べますと、やはり収斂していくタイプの曲については、客観性を保ったままでではありますが耳を深く引き込まれる点が、最大の美点でありましょう。
心をわしづかみにされる・・・ということにはなかなか至らないのがいささか憾みが残るところではありますが。。。(^^;)

たとえば、“オンディーヌ”では曲中のクライマックスで盛り上がりながらクレッシェンドで上行し、フォルテの極みから深い水のたゆたいを思わるかのごとく湖底まで引きずり込まれていくところ・・・。
最初聞いたときには、「いくらなんでもこれでは、ここだけテンポを落としすぎではないか」と不自然さを感じないでもないでしたが、何度も聴いているうちに、浅瀬から淵のような深みにハマればこのような感じで水底に落ちてゆくんだろうなと妙に納得してしまいました。

アルゲリッチなんかがここを弾く時には、赤胴鈴之助の真空切りを水中で発射したような強烈な渦巻きに抱き込まれるような、超恐ろしいオンディーヌになりますから・・・ここらへんは対照的です。
しかしこのテンポのずらし方はやっぱり禁じ手の域に足を踏み入れていないでしょうかねぇ。(^^;)

次は“絞首台”。
この沈潜は尋常ではありません。バルトの力を最も発揮できる部類の曲でしょう。

鏡では何といっても終曲“鐘の谷”です。
この野を渡り、谷にこだまする鐘の響きが延々と連なっていく楽曲を、ここまでさりげなく弾き表してしまったピアニストはバルトが初めてではないでしょうか?

黙って聴くと何も起っていないように聴こえるこの演奏ですが、静謐さの中に演奏史に残るようなとんでもない何かがあるように思えます。

曲の終了後に曲間のスペースが十分に確保されているのもこの演奏を大切に思えば当然の処理であると思いますが、アンコールとして配置された“水の戯れ”にバトンを渡せるように真に適切に配慮された空白の時間を織り込んであります。


“スカルボ”“道化師の朝の歌”では、相変わらず冴えた運動性能を持ち合わせていることを聴かせ、“オンディーヌ”“水上の小舟”“水の戯れ”という水の三部作ではテンポをじっくりとって、場面の転換点では岩が流れをせき止め変えるがごとく強靭な音色を響かせている。
ちょっと聞き、無骨にも聴こえる場面がありますが、なかなか骨のあるピアニストによる演奏だと感じ入った次第です。


実は、この記事を書くのにバルトの演奏を5回まわりほど聴いたのですが、まったく飽きずに興味深く聴かせてもらえたというのは、魅力的なディスクであるからに相違ありません。
その割には、注文を多くつけたような気がしないでもありませんが。。。

いずれにせよ、ツィモン・バルト。
腕達者な、注目すべきピアニストであることに変わりはありませんね。(^^)v

オンディーヌのオンディーヌ(1)

2007年06月24日 00時00分07秒 | オーケストラ関連
★ラヴェル:夜のガスパールほか
                  (演奏:クリストフ・エッシェンバッハ指揮 パリ管弦楽団)
1.夜のガスパール (モーリス・コンスタント編による管弦楽版)
2.クープランの墓
3.古風なメヌエット
4.亡き王女のためのパヴァーヌ
5.道化師の朝の歌
6.オンディーヌ ~夜のガスパールより (ピアノ:ツィモン・バルト)
                  (2004年録音  オケ・ピアノとも)

このネタは来年の“夜のガスパール作曲100周年”まで取っておきたかったんですが、多分忘れると思ったんで・・・。
(^^;)

フィンランドのONDINE(オンディーヌ)レーベルは私にとって決して特別な意味を持ったレーベルではなく、あくまでも「たまたまスマッシュ・ヒット的な企画・演奏のディスクを発表するところだよな」・・・的な位置づけです。
ピアノ録音で言えば、やや残響も控えめでどちらかというと怜悧な音作りをするという先入観を持っています。
そりゃ、なんてったってフィンランドであり、オンディーヌ(水の精)ですからね。
そうでなくちゃ・・・とはおもいますけど。(^^;)
でも、楽器自体の響・・・特にピアノの場合、ペダルを踏んで弦を開放にしたときの響は繊細に収録されているので、デッド目の音場が好きな私には合ったレーベルともいえるでしょう。


さて、タイトルについてなんのこっちゃという方のために解説しておきますと、最初のオンディーヌはONDINEレーベルのことです。
このディスクは2005年の当該レーベル20周年を記念して、進境著しいマエストロ・エッシェンバッハを擁してライヴ録音されたもののようですね。
忘れないうちに言っときますが・・・おめでとう、ONDINE!(^^)/


そして、後のオンディーヌはラヴェルが1908年に作曲したピアノ曲“夜のガスパール”の第1曲オンディーヌ(水の精)のオンディーヌというわけです。
この曲は、3つの楽曲からなっていていずれもアロイジス・ベルトランという詩人の“夜のガスパール”なる詩集からの3篇をラヴェルが音化したものです。

そこは印象派に分類されながら、擬古典主義とも評されるラヴェルのこと・・・第1曲オンディーヌはソナタの第1楽章に則ってソナタ形式で作曲されており、第2曲“絞首台”はとんでもない緊張感を持つ緩徐楽章、第3曲“スカルボ”はバラキエフの“イスラメイ”より難しいと言われる超絶技巧曲であり、ソナタであれば第3楽章の働きを担っているといっていい曲となっています。

このブログで楽曲解説をしたことがあまりないので、極めて説明がヘタクソですね。(^^;)
これじゃわからんという人は、“夜のガスパール”で検索すればいっぱいヒットすると思うので調べてみてください。

なんでいつもしないことまでするかというと、ラヴェルのこの曲は『私が最も好きなピアノ曲3曲』と言われれば間違いなく入るだろうと思われるほど好きな曲だからです。

「こんな美しい曲がこの世にあったのか?」と最初に思わせてくれたのは野島稔さんの演奏でしたが、ピアニストというピアニストがこぞって気合を入れて録音するレパートリーでもあるので、その後はゲームの宣伝じゃないけど「魂抜かれっぱなし」状態に何度もなってしまったという曲であります。

もしまだ聴いたことがないという方は生きてるうちに、冥土の土産になるのでゼッタイに聴いておくべき曲だと思います。


いよいよ本題ですが、これを聴いて思うのはやはり“夜のガスパール”はピアノ曲であるということ。
これ以前にも別のオーケストラ編曲を聴いたことがありますが、余りにもピアノ版に慣れ親しんでいるためかどうしても違和感がありますね。

ラヴェルは若きペルルミュテールに対して、「スカルボの出だしはバスーン・・・」云々とオーケストラの響きを連想しながら演奏するようにと指示したと伝えられていますが「じゃ、何で(ここに収められているほかの曲のように)オーケストラ版に自分で編曲しなかったの?」と言ってやりたいですね。
ピアノ曲以上の、あるいはピアノ曲とは別のこの曲の魅力をピアノ曲ほどに発揮できると思えなかったから・・・であると私は思います。

さて、肝心の“オンディーヌ”ですがもう少し色彩感がほしいと思いつつもよくまとまった演奏であることを認めながら、また編曲家の努力を大いに認めながらも、やはり「曲自体があまりにピアニスティックなためにオーケストレーションに馴染まないだろうな」という印象でした。

まず、この曲の旋律線はピアノのアタックからすぐに減衰する音色・・・要するに打楽器としての音色があって、そしてペダルの加減で音色のブレンドと減衰の調節をするというピアノの機能があって初めて生きるものだと感じました。
こんな例は一杯あるんだと思いますが、ショパンの変ロ短調ソナタの第1楽章の旋律とか、スケルツォ第2番の長調部分の旋律とかは、決して管楽器や弦楽器では再現できないんじゃないでしょうか?
それと同じです。
私なら「オンディーヌをどうしてもオーケストラにせよ」と言われたら減衰の調整ができるハンドベルか何かを使ってメロディーを追うでしょう。

もう一点、この曲は水しぶきが曲中一貫してハジけているんですがオーケストラ編曲になると、これがどっかへ行っちゃうことがある。
このしぶきのリズムと言うか変奏がもう一つの大きな雰囲気作りのキーポイントとなっているだけに、これが音色も雰囲気も変わっちゃうとなるとオンディーヌのストーリー性は失われ、ただのショー・ピースになってしまうように感じられます。

何故か途中“亡き王女のためのパヴァーヌ”を思い起こさせるような響になっているところもあるし・・・王女は水死したんでしょうか?・・・どんどん旋律、伴奏を受け持つ楽器が入れ替わっていくさまには、どうしてもボレロのオーケストラの楽器紹介と言うか、“ウィ・アー・ザ・ワールド一節太郎状態”というイメージを持ってしまいます。

ただ、クライマックスというか盛り上がるところではピアノでは構造上、響が混濁しないように細心に注意を払ったうえでテンポを落としてムードを盛り上げるなど、どことなく誤魔化しているように思われる(ここを誤魔化さないのはミケランジェリのみ!)ところもイン・テンポで違和感なく進行できるというメリットはあるんですけどね。

あ、さっき誤魔化したって言ったのは楽譜を見るとそう思えるというだけで、ピアニストの皆さんの工夫次第でそれはそれはオモシロく聴かせてもらっていますよ。(^^)/


他のラヴェル当人による編曲の曲目はしなやかな演奏、熱気もある演奏、マエストロの棒が冴えているんでしょうね。
最後の“道化師の朝の歌”のクライマックスの粘りなど自然なうちに迫力満点で、終わった時の喝采も当然という出来映えだと思います。もう少しして、老境を迎えたら大手のメジャー・レーベルが触手を伸ばしそうな好演だと思いました。
(そう思って調べたらDGのキーシンのベートーヴェンのコンチェルトのバックがエッシェンバッハだったりして・・・キーシンと古いつきあいだからということのようですが、さすがメジャーは抜かりがないですね。)


最後に、ツィモン・バルトのピアノ独奏によるオンディーヌが入っているのもこのディスクのホスピタリティの行き届いたところだと思います。
さすがオンディーヌ・レーベル。。。
これについては、次記事のディスクのご紹介の中で一くくりにしてお話したいと思います。

看板が落ちてくる

2007年06月23日 00時00分00秒 | ROCK・POPS
★つづれおり
                  (演奏:キャロル・キング)
1. 空が落ちてくる
2. 去り行く恋人
3. イッツ・トゥー・レイト
4. 愛の楽園
5. ビューティフル
6. 幸福な人生
7. 君の友だち
8. 地の果てまでも
9. ウィル・ユー・スティル・ラヴ・ミー・トゥモロウ
10. スマックウォーター・ジャック
11. つづれおり
12. ナチュラル・ウーマン
《ボーナス・トラック》
13. アウト・イン・ザ・コールド 
14. スマックウォーター・ジャック (ライヴ)
                  (1971年)

今日は夏至、そして100万人のキャンドル・ナイトでもあります。
とはいえ、オジサンの単身赴任独居宅にロウソクなどあったら何に使うのかアヤシイことこのうえないので、家中の電気を消してエアコンも消し、5階の窓を全て網戸にしたうえでパソコンの画面を眺めております。(^^;)

今もっとも感じていることは、ブラインドタッチの技術が危ないということ。
昔よりミスタッチが多くなってきたなとは思っていたんですが、パ行、長音の「―」、要するに右手小指を外すことが多いこと。。。
もう一度昔のように、ブラインドタッチ練習ソフトでスキル・トレーニングをしないといけないかもしれませんね。


さて、真っ暗ナイトのBGMにはクラシックを避けて、今度来日することが決まったというキャロル・キングにしてみました。
今日は予定があってケヴィン・ケナーのリサイタルに行こうと思っていたのを諦めていたのに、予定がドタキャンとなってショックを受けているのです。
そこでクラシックを聴いたらクヤシイじゃないですか!

キャロル・キングのディスクであればライヴ盤とか新しいものもあるにはあるんですが、昔々のテイストを味わいたいなということで泣く子も黙る(かどうかはわからない)このディスクを選びました。(^^)/

でもこのラインアップは凄いですねぇ。オンパレードってこういうことを言うんでしょうね。
ノッケから木村佳乃さんを思い出す(何故か車の名前は思い出せない・・・)名曲。。。
この頃のディスクってムリクリ英語のタイトルを邦訳してあるので、“I Feel The Earth Move”が“空が落ちてくる”になっちゃうんですよね。
いつ聴いてもピアノのリズムが雰囲気出してますよね。よくポスト・キャロル・キングを嘱望される女性アーティストが出てくるんですが、よりジャジーであったりカントリー寄りであったりすることはあっても、キャロル・キングより白人が演奏している黒っぽさを感じさせる人はいないような気がします。
ソングライターとしてはこのころまでに確固たる地歩を築いていた彼女も、シンガーとしてはまだ初々しさがたっぷりであります。よい意味でゆとりがないというか・・・。

この曲をはじめ、このアルバムから何人のアーティストが何種類のカヴァーを作ったんでしょうねぇ。
ボブ・ベルデンのように一枚まるごとジャズのトップ・ミュージシャンを動員してカヴァーしちゃうようなプロデューサーもいますから、少なくともカヴァーされたことがない曲はない。。。このことだけで、凄い。

私がポップスの中で最も共感している曲のひとつに“You’ve Got A Friend”があります。
邦題は“君の友だち”ね。(^^;)
ジェイムス・テイラーとのデュエットでも有名だし、平井堅さんが“Ken’s Bar”で採り上げてもいますし・・・。
もちろん私も歌いますが・・・とてつもなく難しいんだ、これが。。。

歌詞を見ただけで、否、思い出しただけで、私は、涙があふれます・・・。

特に、こんな件(くだり)など。。。

♪~ I’ll come runnin’ to see you again.
       Winter – Spring –Summer or Fall, All you have to do is to call.
         And I’ll be there…You’ve got a friend・・・

泣けません!? 強要するのもナンですが。。。


“ウィル・ユー・スティル・ラヴ・ミー・トゥモロー”もジャズ・ヴォーカルの世界では最早定番中の定番ですもんね。
これはジャズ界かブラコン界かわかりませんけど、ロバータ・フラックなどがヒットさせてもいますよね。

確かにキャロル・キングのパフォーマンスもアジがありますが、カヴァーしたアーティストそれぞれが自分流にアレンジしても原曲以上に映えるという意味では、キャロル・キングはレコーディング・アーティストというよりはソングライターであるのかもしれませんね。
でも、後年のライヴでのパフォーマンスは、風格すら漂って居心地のよい空間を創っているので流石であります。

やはり黒さを感じさせる“ナチュラル・ウーマン”でアルバムはホントは幕を下ろすのですが、これはSACD専用盤でしてボーナス・トラックが入ってます。
入ってなくてもよかったんですが。。。(^^;)

さすがに通常盤と比べれば音はいいですね。いいというより、アラが消えている。。。
でも、SACD専用盤、要するにハイブリッド盤じゃないので、家じゃないと聴けないのが難点。。。
今日はいい機会になりました。


★ソルジャーズ・オン・ザ・ムーン
                  (演奏:デヴィッド・ラズリー)

1. イッツ・トゥー・レイト
2. ソルジャーズ・オン・ザ・ムーン
3. オウドリー
4. ユー・ブリング・ミー・ジョイ
5. ウォーム・アズ・ザ・ウインド
6. ギブ・マイ・ハート・バック・トゥ・ミー
7. ウイゥアウト・ザ・ワン・ユー・ラブ
8. ロスリン
9. シンス・アイ・フェル・フォー・ユー
10. ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド
11. アイ・シンク・イッツ・ゴーイング・トゥ・レイン・トゥディ
                  (1989年)

2時間電気を消していなければならない“100万人のキャンドル・ナイト”であるにもかかわらず、キャロル・キングのアルバムは40分程度で終わっちゃった。。。

お続きは、意図的にデヴィッド・ラズリーのこのアルバムにしました。
結論から言ってしまえば、ちょっとジャジーなアメリカン・サウンドが好きで白人男性のファルセット・ヴォイスがイヤでない人はゼッタイに聴くべきアルバムです。

演奏者はこの録音のころのAORとかの大御所のアルバムに数多くバック・コーラスなどで参加する名うてのスタジオ・ミュージシャン(シンガー?)であるとともに、アニタ・ベイカーの歌唱で有名な“ユー・ブリング・ミー・ジョイ”(ここにも収録されていますが)のような大ヒット曲の作者でもあったりします。

そんなあの頃のサウンド・シーンの裏方さんによるこのアルバムは、その時代をトキメクアーティストの脇を固めるためにはどれほどの力量がないといけないかを示すような力作です。
音楽性はどのトップ・アーティストにも引けを取りませんし、むしろ敢えて中庸という概念を外して考えればデヴィッド・ラズリーほどジャズのイディオムをこのテの音楽に取り入れている人はいないと思われるほどです。
そして、彼のトレードマークであるファルセット・ヴォイスが良くも悪くも印象的に彩る。

楽曲とサウンドは最高級だと思いますよ。
肝心のその声、オシャレでセンスいいと私が感じる点が鼻について仕方ないという人がいるのも判るので、完全ブレイクはしなかったんでしょうが、このアーティストの良心というべきものは誰にでも伝わるんじゃないかなぁ~。

前半の自作も、ほどよく半々ぐらい選曲されているカヴァー曲もいずれも素晴らしい聞かせどころに事欠かないものばかりだし、殊にラスト近く“ゴッド・セイヴ・ザ・チャイルド”からランディ・ニューマンの名曲“アイ・シンク・イッツ・ゴーイング・トゥ・レイン・トゥデイ”への流れなど最高にムーディですよ。
私にはとても左へ受け流すことが出来ないぐらい、感動的に思えます。(^^)v

終曲は、映画“ピーチズ”でベッド・ミドラーも歌っていて、これも涙なしには聴けない名唱でしたもんね。本人の弾き語りもよかったし。。。


さて、100万人のキャンドル・ナイトもあと30分足らずになりました。
ケヴィン・ケナーの演奏も終わったでしょうから、そろそろ封印を解いてクラシックの静かな曲にしましょうか。。。
アムランによるシマノフスキのマズルカなどを聴きながら最後の仕上げを書きたいと思います。

窓の下を見下ろすと、確かにいつもより灯りの数は少ないような気がします。
みんながキャンドル・ナイトを意識しているせいなのかどうかは判りません。
でも、地球や環境にやさしくしたいという気持ちを、このような機会を通して各々の家庭にありながら多くの人と一緒に共有していると考えると、人間ってやっぱり凄いなと思ったりします。

翻って本日のタイトル“看板が落ちてくる”は、お気づきの通り“空が落ちてくる”のパロディーであります。
私が通勤で毎日使っている新宿の道路で発生した事故・・・8時半ごろに落ちていたらその下は通勤者で大渋滞しているところですから大惨事になったでしょうね。

同じ日に、渋谷の爆発事故が発生していなかったらもっと大騒ぎになっていると思うのですが・・・。
その渋谷の温泉の事故にせよ、何とか防ぎようはなかったものなんでしょうか?

被害にあわれたかたの関係の方にはお見舞いを申し上げるほかありませんが、こういうことがあって初めて安全性の見直しなどがなされるのでは遅きに失するというものですよね。

空が落ちてくる心配は杞人の憂いでいいんですが、看板が落ちてくるのはねぇ・・・ありえるから気をつけろといわれても、どうしようもないような気がします。

また、ただでさえ江戸時代に干拓した土地が多い東京、関東大震災で地盤が弱いことを露呈している東京の都心で温泉をこんなにバカバカ掘っていて「地盤沈下」とか大丈夫なんでしょうか?
こっちは原詩の“I Feel The Earth Move Under My Feet”に引っかかるんじゃないですか?

ちゃんと対策を打たないと、手遅れになりますよ。
ここでデヴィッド・ラズリーがカヴァーしたキャロル・キングの名曲“イッツ・トゥー・レイト”のように。。。
そういえば昔、このディスクを試験直前の勉強中に“ながら”で聴いていて“イッツ・トゥー・レイト”と連呼されたのでビクッとした覚えがあります。(^^;)


さてと、10時になりました。
最低限の灯りを点けさせていただいて、この“ワード”の原稿から編集画面にコピペして23日付で投稿することにいたしましょう。
珍しくオンタイムで作成した記事ということになりましたね。

いつもデータが消えることのないように、ワードで原稿を作成してからネット上の画面に貼り付けています。
これも何度かの“送信したら消えちゃった事故”を経て考え出した総合対策の一環であります。

でもたまにこの手間を惜しんで・・・あぁ考えるだに口惜しい!! (^^;)

抑制のうちの好演出

2007年06月22日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ハイドン-モーツァルト:ピアノ作品集 Vol.1 『夜明けから天頂まで』
                  (演奏:クレール=マリ・ル・ゲ)
1.ハイドン:ピアノ・ソナタ第11番 変ロ長調 Hob.XⅥ:2
2.モーツァルト:ピアノ・ソナタ第4番 変ホ長調 K.282
3.モーツァルト:ピアノ・ソナタ第17番 変ロ長調 K.570
4.ハイドン:ピアノ・ソナタ第59番 変ホ長調 Hob.XⅥ:49
                  (2004年録音)

美人ピアニストの手になる企画とくれば、だいたいが感覚に訴える、それもえてして芸術的な観点からではなく話題性とか流行を追ったようなものと思い込みがちですが、このかたの場合はところがぎっちょんちょんでしたねぇ~。(^^;)

もとよりユニヴァーサルのアナウンスによれば・・・輸入盤の英文ライナーを読んだけど十分理解できない(>_<)・・・マルク・ヴィニャルなる黒幕がいて、このかたとのコラボレーション企画ということではあるようですが。

このディスクには副題が添えられています。
曰く、『夜明けから天頂まで』。。。なんて知的な演出!! 
ウンチク好きの私も思わず納得であります。(^^)/

内容はモーツァルトとハイドンのピアノ・ソナタを2曲ずつ、ハイドンがモーツァルトの2曲をサンドウィッチしている形を取っています。
のみならず前2曲がそれぞれの作曲家の比較的早い時期の作品で、後2曲は後期のものであることも計算されていれば、調性が変ロ長調と変ホ長調が交互になっているところも意図されたもの。。。

称して『ミラー・ゲーム』とは、これまた凝ってますなぁ~!(^^;)

確かにハイドンとモーツァルトには浅からぬ関連があるようですし、モーツァルトがハイドンを研究して作曲したハイドン・セットのクァルテットに呼応するように、ハイドンも弦楽四重奏曲の傑作を遺していたりしています。
ピアノ・ソナタのフィールドでこのように関連付けて演奏されることにも、確かにそれなりの意味があるのは間違いないでしょう。

メーカーのアナウンスでは、変ロ長調はブリリアントで変ホ長調がメロウとのこと・・・ライナーを訳す限りでは変ロがクリアで、変ホがパワフルで包み込むようなソフトな調性と書かれている・・・ですが、フラット系の抑制された響が心地よく、これぞ古典派という感じの演奏です。

ホントに私より10歳若い令嬢の弾いている音楽なんでしょうか・・・?
すんごく醒めた部分もあるうえ落ち着いているんです。確かに全般にわたり生気に欠けてはいないんですけどね。

演奏解釈は先ほども述べたように、これぞ古典派といった清楚なもの。
でも調性の恩恵というよりは、やはりピアニストの鍛錬の賜物であるタッチの明晰さにより、抑制された表現でありながら物足りなさは一切ありません。
ことこのディスクに関して言えば、本当に「品が良い」という言葉が最もしっくり来るんですよね。


そしてこれは、ハイドンとモーツァルトはやはり音楽上の性格が明らかに違うと知らしめてくれる一枚でもあります。
こんなところからも聴いていて、知的な嬉しさがこみ上げてくる・・・。

ハイドンにはやはり人懐っこいといいながら客観性・冷静さを感じさせるし、モーツァルトは聴き手の心の壁をあっさりとすりぬけて、スポーツ飲料のようにカラダに響としてしみわたり同化するかのような感覚の差が味わえます。

はしゃぎすぎないメジャーの古典派音楽を正統的に聴きたいとなれば、企画よし演奏よしの文句なしの一枚だと思います。(^^)v


★ハイドン-モーツァルト:ピアノ作品集 Vol.2  『ハ短調、或いはドラマの色調』
                  (演奏:クレール=マリ・ル・ゲ)

1.モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第14番 ハ短調 K.457
2.ハイドン:ピアノ・ソナタ 第33番 ハ短調 Hob.XⅥ:20
3.モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K.475
4.ハイドン:ピアノ・ソナタ 第58番 ハ長調 Hob.XⅥ:48
                  (2006年録音)

今度は『ハ短調、或いはドラマの色調』ときた・・・。

オッシャレぇ~!! p(^o^)q

でもこのアルバムには企画よりも、むしろその演奏に魅了されました。
このピアニストの清潔ながら淡白とも捉えられかねないタッチ&音色は、ハ短調のような憂いを帯びたり、企画名称どおりのドラマティックな曲調・・・古典派だからドラマティックとはいえドロドロにはならないですもんね!(^^;)・・・でこそコラーゲンのきいた潤いのある美音になるような気がします。

ちょっと聞きにはペダルを踏まない、もしくはソステヌート・ペダルを使用した時の音色などはむしろパサパサに近いぐらいのように思えます。もちろんそんな瞬間は余りないのですが。。。
それが、ダンパー・ペダルを踏んで、粒立ちの良いアルペジオのフレーズをポロポロポロンと連ねると、文字通り真珠の連なりのような光沢と輝きを帯びた妖しい音に変わるんです。
だから第2集のこちらのほうが、聴いていて引きこまれるし飽きが来ないといえるかもしれません。

タッチやペダルによる音の輝きの変化の一部始終を捉えているわけですから、録音に関しても第一級の仕事だといえるかもしれませんね。
ピアノの低音もそれなりに出ているのに、轟音にならないようマイクセッティングがなされているようですし、古典派の録音としては、ル・ゲのピアノの音色の美しさを最優先で録音するというコンセプトであったなら、この仕事は大成功ですよね。お見事です。

演奏もK457は潤いがありながらベタつかない(さらさらの髪の毛の話ではない)表現が深く、憂いも艶もありとても魅力的に感じました。
さらには、ハイドンのHob.XⅥ:48の第2楽章の長大なモノローグなど、朗読を思い起こさせる言葉の身振りの巧みさ、同じテンポのうちにさっと身を翻す音たちなど思わずずっと聴き入ってしまいましたねぇ。(^^)v

素晴らしい演奏のディスクでした。


この企画にはまだまだ凝っているところがあって、ル・ゲ嬢のお召し物の色でディスク、ジャケ裏、CD格納部の背景色が統一されているのです。
装丁にまでこの気遣い・・・共感できます。すばらしいです。

ただ、この第2集のル・ゲ嬢のジャケ写の表情だけはちょっといただけません。
あくまでも私の感覚ですが、ドラマティークを表現していると思われるとはいえ、目元をこれだけ強調してこの角度からこの照明で撮られると、確かに心の中の孤独感を表現できているように思えますが。。。

はっきり言います。
あくまでも私の感覚ながら“ハ短調”ならぬ“ハ虫類”チックな表情に見えてしまいます。
我が国のピアニストでない彼女が、ここで“ハ”に拘ったとは考えづらいのでもう少し違った構図だったらなぁ~とないものねだりをしておきます。(^^;)

ごめんなさいね!

閃きのワルツ

2007年06月21日 18時48分09秒 | ピアノ関連
★ショパン:ワルツ集、ラヴェル:高雅にして感傷的なワルツ
                  (演奏:スティーヴン・コヴァセヴィチ)
1.ショパン:14のワルツ
2・ラヴェル:高雅にして感傷的なワルツ
                  (2005年録音)

高橋多佳子さんのリサイタルで、ショパンのワルツの解釈・・・特に第7番嬰ハ短調のワルツの解釈に注意を引かれた私は、最近手に入れたコヴァセヴィチのディスクをもう一度聴いてみようと思ったのでした。

ベートーヴェン、シューベルト、ブラームスとコワセヴィチの演奏は全く素晴らしいものでした。だからこそショパン&ラヴェルの新譜、それもワルツときいた時には「?」という第一印象を持って、ちょっと手に入れるまでに時間を要したのでした。
結局、手に入れた真の理由は「誘惑に勝てなかった」・・・だけなんですが。

でも入手したのが大正解だったのは、決して想定外ではありませんでしたけどね。
特に、ラヴェルの“高雅にして感傷的なワルツ”は決定版とも思える演奏で、私の感覚にフィットしましたから。(^^)/


コヴァセヴィチはベートーヴェンを演奏したときにも霊感あふれる解釈、特に作品110、111などでは構築性を失わないのに、神秘的な自由さをまとった自在の解釈で神々しさまで演出していました。
今回のショパンやラヴェルにも、ちゃんとそれが感じ取られるのです。
むしろ、もっと感覚的な振る舞いが許される曲であるからか、自在さはさらに増してピアノの音色をキラキラさせて耳を楽しませてくれます。
タイトル“閃きのワルツ”には、そんなイメージを託してみたのですがいかがでしょうか?(^^;)
(ブーニンがショパコン優勝直後に出したワルツ集のように、ヒラメキだけが詰まっているようなディスクもありますが。。。)

さて、14のワルツというと、かのディヌ・リパッティがブザンソン音楽祭において独自の曲順で演奏したものが、永く名盤として讃えられていますよね。
私はあの演奏(スタジオ録音、1曲欠けたライヴ録音とも)にも天衣無縫の解釈のひとつの究極点を見出しているのですが、コヴァセヴィチの演奏はリパッティとは違う曲順で、別の普遍的なドラマを描き出すことに成功していると思います。

リパッティが何かしら突き抜けた精神的なステージで演奏している、逆に言えば向こうの世界に往っちゃって演奏しているかのようであるのに対して、コヴァセヴィチは、あくまでも現世に身をおいてなお、遍く降り注いでくる霊感に身を委ねて生き生きと奏楽しているという感じで「落ち着き」を失っていません。
言葉を変えれば、リパッティがマインド的にはとにかく無邪気にはしゃいでいるのに対して、コヴァセヴィチは正気のうちに心を開いて霊感の導くままに演奏しているという趣です。
霊感直下型の危うさがないと表現しておきましょうか・・・。

とはいえ冒頭の作品70-3の変二長調のワルツから、すでにイマジネーションたっぷりで脆弱さとは無縁ながらとても繊細な音響世界に遊ばせてくれます。
ワルツってヘタな聴かされ方をすると、とても陳腐な世界になってしまいますがさすがコヴァセヴィチというところですね。

続く作品69-2の旋律にせよ単音の音の粒の輝き、またそれが徐々に輝きを増すさま、重音の旋律線のニュアンス豊かな響・・・。
続く遺作のホ短調(第14番)にもいえることですが、どこをとっても雰囲気あふれる演奏ぶりであります。必要とあれば、左手のバスの音をダイナミックなものにすることも厭わない・・・でも決してうるさいと聴き手に感じさせないところが凄いですよね。

これに続いて本編開始とばかりに「華麗なる大円舞曲」作品18が奏でられます。
フレーズの歌い方もひらめきに満ち溢れているのですが、音の消え際すみずみまで神経が行き届いていて、それが非常に豊かな表情を生み出しています。
それでいて演奏のスピード、生気を失うことがないところがやっぱり凄いとしか言いようがない。。。(^^;)

全曲に渡りこのような演奏上のホスピタリティは失われることがないのですが、その他気づいたことを2・3挙げれば、“華麗なる円舞曲”作品34-2のイ短調、つぶやくような旋律、憂愁の曲調を彩る音色の妙・・・。
作品70-1の出だしの耳をひきつけずにはおかない輝かしい音色も印象的だし、“別れのワルツ”においてフレージングを自在に伸縮することで効果を挙げている他、前打音のおき方が非常に工夫されており耳をひきつけられました。
作品34-1はプレトニェフと並んで独特の解釈を堪能させてくれたし、作品42は指の運動性能の凄さにもましたファンタスティックな響きの世界を満喫させてくれました。

とりとめもなく書いてしまうので、当初目的の第7番嬰ハ短調のワルツについての感想を述べると、高橋多佳子さんとは曲の捉え方が180度違ってましたね。

多佳子さんのリサイタルのレポートで書いたように、彼女はこの曲を非常に確固とした足取りで、雄渾とまでは言わないにせよ決然と逞しく弾くべき曲と捉えているように思うのですが、コヴァセヴィチはくぐもった音色も多用してメランコリックな曲として共感を持って弾いている。
同じ楽譜から読み取ることがこのように違っていること、そしてそれぞれに大きな説得力を持って迫ってくることが、またしてもとても興味深く知的に楽しい時間を遊ばせてくれたなぁ~と悦に入っております。(^^)v

ラヴェルは先に述べたとおり、閃きに満ちた繊細な演奏で悪いはずがありません。
ときとして冗長に感じさせる演奏が少なくないこの曲で、初めて聴いた時からすんなりと楽しませてくれたコヴァセヴィチは、やはり私のお気に入りのピアニストのひとりと言わねばなりません。(^^)v

生きる力を秘めたディスク

2007年06月20日 20時35分30秒 | 高橋多佳子さん
★ロシア・ピアノ名曲集
                  (演奏:高橋 多佳子)
1.プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ 第7番 変ロ短調 作品83 「戦争ソナタ」
2.スクリャービン:幻想曲 ロ短調 作品28
3.ラフマニノフ:楽興の時 作品16
                  (1994年録音)

A)ロシア・ピアノ名曲集なら、やっぱり僕はスクリャービンなんです。。。
T)スクリャービン・・・?
  あの曲、1番録音のとき苦労したんですよ!
A)でも、プロコフィエフの第3楽章の7拍子なんて難しそうじゃないですか?
  頭の中がくちゃくちゃになりません?
T)確かに。。。
  だけど、3と4とか、4と3とか、どこをどのようにリズムを取るか(コツを)摑んでしまえば大丈夫ですよ。
A)ヒントがあるんですね?(^^;)
  でも、スクリャービンはそれよりも難しいんですか?
T)そう。手を思い切り大きく広げなければいけないうえに、入り組んだ旋律をきちんと弾き分けないといけないので、
  プロコと比べてスクリャービン・ラフマニノフは難しいですね。


先日安曇野で高橋多佳子さんと話した内容の一端です。。。
もちろん“T”が多佳子さんで、“A”がアラウさんです。(^^;)
この後にCDの録音の話になり、すいすい行くこともあるかと思えば、何度弾いてもうまくいかずゼッタイ弾けないとナーバスになることもある・・・というようなことを仰っていましたっけ。
そりゃいつまでも残るものですから、芸術家としては慎重を期してリリースしたいという気持ちがあるのは当たり前の話だし、出来上がりに関して神経を遣う気持ちはよ~くわかりますけどね。(^^)/

しかし、プロコフィエフよりスクリャービンのほうが難しいというのは私には驚きでした。
指の運動性能だけが問われる曲であるならカンタンと言われてもイメージ沸くんですが、あの変態的リズムがすんなり整理できているという頭の中とは、いったいどんなつくりになっているのか覗いてみたいものです。


サインはジャケットの裏表紙にいただいています。(^o^)/
                  

ところで、このディスクにはかけがえのない特徴が3点あります。
1.怖いもの知らず、正統的にしてアグレッシブな解釈と、それを実現した演奏
2.ピアノ自体の音色の素晴らしさとあますところなくそれを捉えた録音
3.高橋多佳子さんの弾き出すピアノの音色のパレットの多彩さ

かねてエキサイティングかつダイナミックだと感じてきた(曲自体は最近まで意味不明だったけど・・・)この演奏でのプロコフィエフ、これ以上ない繊細さと神々しいまでの雄々しさと表現の幅を誇り、瞬殺される美音の連続であるスクリャービン、技巧的な要求を完全に満たして独自の世界に行きついたラフマニノフと、非常に愛聴してきたディスクです。
全体的としてホントに若々しく生き生きしていますが、デビュー盤のショパンではそれほど感じられなかった今に繋がる多佳子さん独特の個性が強く感じられ、彼女はこのころスタイルを確立したんじゃないかと思ったりしています。


実は、このディスクに出会ったのは静岡市の図書館でした。
“ショパンの旅路Ⅴ”に感動し、それ以前のディスコグラフィーを探していた私ですが、Ⅰ~Ⅳが配給会社の事情でどうしても手に入れられずに歯がゆい思いをしていた時、まったく気なしに目に飛び込んできたんです。
もちろん、すぐに借りて聴きました。そして、スクリャービンに憑かれてしまったというわけです。(^^;)

しかしながら最初のプロコフィエフの感想は、「やはり絶望的にわからん」でした。
第3楽章はよく耳にすることがある曲ですから、馴染みはあったんですが「弾くほうはうまくいけば爽快感を得ることができるんだろうけど、聴くほうとしてはジャズにも似たノリのよさ以上の聞くべきところがあるのか?」という程度の認識しかなく、音楽的に味わいどうこうは理解の外でした。

一方、ラフマニノフも秀演とは思いましたが、余りにもスクリャービンに感激したために影がうすかったですね。


スクリャービンの幻想曲は、それまでにザラフィアンツ、ジューコフご両人の演奏を聴いていて、これらも絶対的な名演として深く私の心に刻まれています。
多佳子さんの演奏も図書館で聴いた記憶だけであれば、これらと同列に素晴らしい・・・ぐらいの感想だったのかも知れません。

でも、自分で苦労してディスクをなんとか手に入れて、自宅のシステムでちゃんと再生してみてビックリ!!!

音がいい・・・。

深~いピアノのクラルテ、ピアノ自身の素晴らしい音が豊かな雰囲気を伴って再現されています。これほどピアノの音を美しいと思えるディスクもあまりないのではないでしょうか?

さて、今でも多佳子さんの演奏でもっとも好きなものがショパンの“バラード第4番”であるのは変わりませんが、“エロス&タナトス”の表現というか、曲を通して愛と死の妄想の中で頓死するほどもだえちゃいたくなるのは、このスクリャービンの幻想曲ロ短調に他なりません。

この音楽上では明らかにショパンの末裔である作曲家の手になる音楽が、こんなに立派な流儀で弾き遂せられているのはなかなかないと思います。

さらに特筆すべきは、初めて旋律的な主題が出てくるところの音色。。。
ピアニシモでおずおず顕れるのですが、明らかに瞬殺美音の大サービス状態で悶絶しそうになりますねぇ。
それが、幾度も大事にだいじに展開されて、とうとうクライマックスに上り詰めるときの視界が大きく開けたかのような感動ときたら、そりゃもうこたえられません。

そしてこのディスク全般を通して聴いて感じるのは、3人の作曲家のそれぞれの作風を見事に捉えた曲集になっているということ。
スケールの大きな生命力・躍動感が堅実な奏楽の中から立ち上ってきます。(^^)/

要するに、やっぱり多佳子さんの弾くスクリャービンの幻想曲に最も共感できる・・・ということです。(^^;)


最後に多佳子さんから聞いたエピソードをもうひとつ。
ある高名な音楽評論家の先生が、病を得て入院された際に病床へ持ち込んだディスクがこの“ロシア・ピアノ名曲集”と故クラウディオ・アラウの何枚かのCDだったんだそうです。
その先生曰く「このディスクから“生きる力”をもらった」と多佳子さんに連絡あった由。

このエピソードからも多佳子さんの演奏のポジティブなパワーが伺えます。
また多佳子さん本人が感動を与えた人から贈られた言葉に、今度は多佳子さんが心底感激されていてなかなかない“いい話”だと思いました。
ついでながら、病床にあった先生が併せて聴こうとされたのがアラウ盤だったことを、わざわざ“私”に教えてくださるところも嬉しいじゃないですか!


ますます高橋多佳子というピアニストを応援したくなりましたね。(^~;)

ノクターンの死亡遊戯

2007年06月19日 00時10分20秒 | ピアノ関連
★ショパン ノクターン集
                    (演奏:青柳 晋)
1.ノクターン ホ短調 作品72-1
2.3つのノクターン 作品15
3.2つのノクターン 作品27
4.2つのノクターン 作品48
5.2つのノクターン 作品62
6.ノクターン 嬰ハ短調 遺作 “レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ”
                    (2006年録音)

おぉ、そういえば(総入歯ではない)・・・。

清水和音さんのノクターン集を聴いたときに、我が国のピアニストでノクターンの秀演をリリースしていた青柳さんを思い出し、留守宅にCDを持ち帰って聴いたのでアップします。

しかし、辛口の評になります。
なぜならカミさんがジャケットを見て「イケメン」だと言ったから。。。
評価にやっかみが濃密に反映するのがこの記事の重要な特徴でありますからして・・・。(^^;)


とはいえまず言えることは、最初に“秀演”と書いたとおりディスク自体はとても素晴らしいできばえだと思います。
全編、豊かな残響に包まれて一定の夜想曲集としてのムードが横溢している。。。
これはなかなか“ありそうでない”ことです。

清水和音さんのようにちょっと聴きの人間にはわからないような「孤高のわが道を往く」的な解釈ではないし、作品72-1の出だしからして厳しさはしっかり打ち出されており決してなよなよした演奏でもない。
高尚な解釈だけど、よそよそしくもない。
ライナーノートで触れられていたように、あくまでも「夜の音楽」としてのノクターンが、情感裕に終始展開して飽きさせることがない。。。
立派です。


じゃあ、それでいいか?
ノクターン集らしいノクターン集を1枚だけといわれたなら、他にない独創的な選曲ながらスジが通っていると思われる点も含めて推薦するのはやぶさかではありませんが、何かこう濃密なムード以外のここを聴いて欲しいという点を探してしまいたくなるのも事実。
だって、私はぼんやり聴いているばかりではなくて、スピーカーから出てくる音そのものを、オーディオファイル的な観点からも聴く人ですから・・・。

要するに、ライナーで対比されている故アラウや私のアイドル高橋多佳子さんにあって青柳さんにないもの。。。
それは、瞬殺される陶酔感を持った音色です。
アラウは全曲にわたりそんな艶っぽい音色を駆使してエロス&タナトスを描いている。
多佳子さんは普段は生真面目に進めていくけど、ここぞで一発カキーンと抜けた音が来てメロメロにされるんですよね。


全体としての雰囲気をまとめあげているのはそれとして、それじゃこのディスクは“エロス&タナトス”の園に登り詰めることができているのか?


まず瞠目させられたことからいえば、作品15-1には唸らされましたねぇ。
普段ないテンポの速さ、これが焦燥感をうま~く表現していていつもなら中間部でびっくりする爆発的なところとうまく折り合いをつけている・・・。
別に奇を衒ったわけではなく、それが自然に聴こえるからニクイ演出です。

逆に「?」だったことは、作品27-1にせよ作品48-1にせよ絶叫する曲がちょっとイメージ違うのです。
やっかみがクセになっている私が、かねてより苦手としている韓流スターが、スーパー戦隊のごとく傷だらけになって愛のために戦っている・・・ちょうどリストが曲をつけた“ペトラルカのソネット104番”の詩みたく・・・ようなクサさがたまりません。。。

こんな感じ方は私がこういう性格の男だから・・・という要因によるものかもしれませんが、私にはこのような性格しか持ち合わせがないのでしかたないところであります。(^^;)

ことに作品48-1のクライマックスなど、チャイコフスキーのコンチェルト第3楽章のオクターブの連打・連打のカデンツァか(?)と思わせるような激情ぶり・・・。


いくらなんでも、そりゃチョイと曲想が違うんじゃないの・・・? (^^;)


いや、これだけピアノから音を叩き出すことができる技術には心の底から敬服しますけどね、という感じですね。
悪いけど、私には・・・。

でも遠巻きにぽや~んと聴いている限り、決してキライな演奏ではない。
音楽の聴き方として、それはひとつ許された方法なのでしょうから、わたしはそのように楽しませていただくとしよう。。。

カミさんは直接音の強い録音を好む私の嗜好に慣れているので、この録音を「隣の部屋から聞こえるみたい」と評しておりましたが、かなりいいセンいっている表現だと思いました。
でも韓流好きの彼女のこと「いい演奏だ」と聴き入っておりましたので、やはりラブラブの夫婦と言えど何もかもが一致するわけではないという一例であります。(^^)v


先ほど触れた「エロス&タナトス」の園ヘ登り詰めることができたのか・・・? の判定をしなければなりませんね。

死亡遊戯のブルース・リー(韓流じゃないですが)よろしく、一曲一曲ノクターンを演奏するたびに塔を登っていくピアニスト。。。
残念、あと少しかな・・・と思ったんですが、最後のレント・コン・グラン・エスプレッシオーネの抜けた音色、音楽全体の佇まい・・・これには参りました。

てなわけでエンドロール込みで、私も登り詰めることができました。 (^^)v


残り半分も、いつ出るかは判りませんが、期待することにいたしましょう。



※出張のため先日付投稿します。

父の日の父兄参観で・・・

2007年06月18日 01時02分02秒 | 長岡
おやつの役割とは・・・(^^;)

・ 栄養を補う
・ 楽しい気分になる
・ 疲れを取る

小学校の父親参観でやっていた「学活」の授業です。
栄養士の先生と、担任の先生のコラボレーションの授業がどのようなものかを見てくださいということだったのですが・・・。

授業の内容は。。。

前段の説明として、栄養にはエネルギーの素になるものがあり、すぐエネルギーになる糖(疲れを取る働きがある)、少しでたくさんのエネルギーになる脂(ビタミンの吸収を助ける)があります・・・フムフム。。。


ここで、子供達にオレンジジュース&“透明な液体”を室温のまま「水」と称して飲ませます。

すると、子供は口々に・・・「甘めぇぇぇぇえ~!(>_<)」
実はこの“透明な液体”にはオレンジジュースに含まれるのと同じ量の砂糖が溶かしてあるのです。


次なるはポテトチップスを配り、10cm四方に切った油紙の上に乗せておきます。
すると、ジュースを飲んでいる間に紙にはじんわりとシミの跡が・・・。


先生は、エプロンのポケットからおもむろに角砂糖を14個と、油の入ったプラスチックの入れ物とを取り出して言うのです。

「オレンジジュース1本にはオレンジの味付けでわからなくなっているけれど、今飲んだ水と同じ割合のお砂糖が入っているの。それは、この角砂糖14個分。みかんの味と“カキーン”と冷やされていることでみんなは騙されているのよ!」

「ポテトチップス一袋分には、25gの脂が入っているの。それはこの入れ物に入っている分全部よ!」

1日に小学4年生が摂取するのに相当な砂糖は角砂糖6個分、脂は20gとのことです。
「先生2人は声を合わせて、ポテトチップス一袋を自分で全部食べてしまったら大変!!」と訴えます。
                  

栄養士の先生は、まとめに黒板に食物の絵を貼り、その下に含有量に相当する数の角砂糖と油の絵を貼っていきます。

こんな感じで・・・。
・ ジュース・コーラ ⇒ 角砂糖 14個
・ ポテトチップス  ⇒ 角砂糖 10個 油25g
・ ケーキ・板チョコ ⇒ 角砂糖  5個 油15g
                     などなど

先にも書きましたが、小学4年生ならば1日に必要な量は角砂糖6個、脂20g。
これを摂り過ぎると太りすぎ、イライラ、だるい・眠い、血液がドロドロ、虫歯になりますよ・・・云々。。。


たとえ絵であっても、それぞれの食べ物の横に含まれる数の角砂糖、油の量が添えてあると威力満点!!
私もカロリー数は気をつけていましたが、角砂糖に換算されると・・・"く(""0"")>


説明の後、「出された食べ物は残しちゃいけない」などど、殊勝にして大ボケな感想を述べる子もいて先生のご苦労が偲ばれましたが、私も含めて子供よりも後で参観していた恰幅のいいめの父兄のほうが凍り付いていました。。。

   カキーンと・・・( ̄□ ̄;)!!




※冒頭は長男の切り絵、中ほどは次男の絵です。
 バカ親なので以前お褒めいただいたのを思い出して、また掲載させていただきました。

我が人生に一片の悔いなし!

2007年06月17日 22時53分44秒 | 高橋多佳子さん
このところいささかハードな日程が続いていて、ちょっとバテ気味なんです。
熱が出たり・・・(言い訳、以下省略)のために、先日安曇野でお会いして高橋多佳子さんと話したときの話題のひとつをご紹介してお茶を濁させてもらいます。(^^;)


彼女はご自身のブログでも「北斗の拳」について触れておられましたが、ホントにお詳しい。
その記事が取り上げられたときには、私もつられてコメントにいろいろとカキコさせていただいてしまいましたが・・・。

殊にラオウの最期、「我が人生に一片の悔いなし」というセリフまわしのところなど、驚くほどよく覚えてらっしゃる。。。
ジャンプに掲載されたのは何年も昔のことなのに・・・。

ピアニストはあんなに長い曲を暗譜することができるぐらいだから記憶力がいいんですかねぇ~?


逆に多佳子さんからは先日の「ラオウの葬式には行ったんですか?」と真顔で聞かれてしまいましたが・・・「生憎と行っておりません」とお答えするよりありませんでした。
「葬儀委員長は谷村新司さんだったんですよね」とお返しして一矢報いるのが精一杯でした。。。


もちろん彼女がお好きな漫画は「北斗の拳」だけではなく、「ガラスの仮面」「ピアノの森」の話もありましたんで・・・・・・くれぐれも誤解のなきよう。


なお冒頭の「牛に引かれて」の写真はJRの長野駅にあるものです。
この会話が松本市(長野県)でされたことと、話題が漫画(絵)なのでトップの写真に掲載したに過ぎません。

きかん坊のその後

2007年06月16日 18時31分17秒 | ピアノ関連
★ショパン:夜想曲集
                  (演奏:清水 和音)
1.夜想曲集Ⅰ <DISC1> 夜想曲第1番~第10番
2.夜想曲集Ⅱ <DISC2> 夜想曲第11番~第21番
                  (2005年録音)

これは昨年度のレコ芸でアカデミー賞にノミネートされるほど、絶賛されていたために手に入れたものです。
そして、聴いてビックリ。。。
私のイメージする清水和音さんとは、まるで別人のような演奏だったからです。

そして最近聴いてなおビックリ。。。
どんどん自分の感覚というかイメージにフィットするというか、骨っぽいオトコという感じが心地よくなってきました。

今の文章、最初は“哀愁”という言葉を遣ったんですがちょっと違うんだなぁ~。。。
哀愁というとちょっと湿度が高い。これは、もう少し冷めています。
孤独・・・でもいいんですが、もっと厳密にイメージを言葉にすると「孤独であることを恐れない」というか「孤独であることを厭わない」といった哲学に裏付けられている演奏といったらいいのでしょうか?
具体的にいえば「鉄道員(ぽっぽや)」における高倉健さんという感じです。


彼の若いころの奏楽には「インテリやくざのツッパリ」というイメージをもっていて手が付けられないという感じがあったように思います。
技巧も冴えて解釈も正統的に聴こえて文句はないはずであるにもかかわらず、唯我独尊のきかん坊で共感できない、そんな感じです。

もとよりピアニストにしてみれば、技巧的・解釈的に文句がないのに嫌われる筋合いはないと反論したくなるのでしょうが、だいたいが芸術なんてものは感覚的、あるいは感情的に好き嫌い(良し悪しではない)を判断するものでありましょうから、聞き手が悪かったと思ってもらうしかないわけですが・・・
ことほど左様に、なぜかしら好きになれない演奏家であったという記憶があるのです。
本当にわがままな聴き手ですまんこってす。。。(^^;)

いやいや、端的にいえば出来すぎのヤローに対する凡人のやっかみってとこですな。。。
そう思っていただいて、許してもらいましょう。

だから彼がベートーヴェンのピアノ・ソナタをシリーズで録音していた際にもクリティックは概ね好意的であったにもかかわらず、私は耳にしなかったのです。
このオクタヴィアのショパンのシリーズが始まってからも、気にはなりつつもレコードアカデミー賞の選考の評に触れるまでは、やはり聴いてみようとは思いませんでした。
でも、やはりこうしてちゃんと聴いてみるときかん坊ではあっても唯我独尊ではなくなっていることが興味深いですね。

たとえば作品9-2の有名どころの旋律にせよ、清水さんは頑なに楽譜に書いてあるとおりの譜割りで弾こうとされている。
素朴とはいわないけど、一度聴いただけではぶっきらぼうにも聴こえるような節回しで歌う。。。
よくあるようにフレーズに陰影をつけるために音量・音価を変化させたりとか、音色のグラデーションとかいった気の利いたことは、少なくともこのショパン演奏では試みられていないと思われます。

ホントに頑固。。。

ときおりある音に楽譜にないアクセントが置かれているように聴こえるのですが、「決然と」と言ってもよい弾き方には聴き手に媚びるところなど全くなく、あくまでも自分がこう弾きたいからこうなんだという理由以外のものはないと思います。
もちろん、ショパンが喜ぶように弾いているのでもない。。。

もう一例を挙げれば、作品15-3。
この曲からサティのジムノペディに通じる響き、印象派の先駆けをいくようなサウンド、そしてロマン派の激しいパッションを感じさせるのは清水さんのみ。

作品37-1の冒頭の惜寂感はここまで壮絶なものを聴いたことがありません。
随所にこのような寂しさ、そしてその寂しさに立ち向かうことなく受け入れるスタンスの心持ちが感じられるのです。
それは、タイガーマスクの「みなしごのバラード」にも似た感覚、孤独感といえるのかもしれません。
清水さんも頂点に立つ天才なればこその孤独があって、その表現が年とともに成熟してきたということなのでしょうか?
言わば「みなしご健太くん」の視点が「素顔の直人さん」の視点になったというか・・・。(^^;)

とにかくなかなか食い応えのあるディスクであり、長く聴き続けることになるんだろうなという予感がしています。



ところで、清水和音さんは来週月曜に高橋多佳子さんとのピアノ・デュオで「ピアノの森コンサート」をされます。

先日多佳子さんと話しをしたときに、ラフマニノフの組曲第2番のパートの件で清水さんといろいろやりとりされているという話題が聞けました。
彼女のブログを見たところ、結果、りかりんさんと弾くときと逆の第1ピアノを多佳子さんが弾くことになったようですな。

リズミックな曲を弾くに際して多佳子さんの小またの切れ上がったグルーヴ感のあるリズム・セクションとしてのピアノは凄く魅力的なのですが・・・。
ホントにあの感覚的に突き抜け、コラーゲンたっぷりでも贅肉のまったくないという音色(どんな音色か却って想像付きにくくなっちゃったでしょうか?)による第2ピアノは絶品なんですけど。
多佳子さんのスタイリッシュな第1ピアノも聴きたいような気がする。

知らない間に主役が変わってしまったようにも思いますが、清水和音さんの第2ピアノ・・・すごく頼もしそうな気もします。

あとモーツァルトのイ短調ソナタの第3楽章、多佳子さんのカデンツァ付きで演奏が楽しめるらしいですよ。
この曲の役割分担についてどのようなやりとりがあったのかはナイショにしておきます。(^^)v


とても楽しそうなコンサートなのに、私は仕事で缶詰になっているため行けないので残念です。
どのコンサートも一度限りのもの。二度と見聞きできないことがあるものです。

お時間があるかた、聴きに行ってみられては? (^^)/


6/18(月) 19:00
「ピアノの森」コンサート
東京芸術劇場大ホール
(問)ハーモニージャパン
03-3409-3345