SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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禁断のシューベルト

2011年11月22日 01時31分30秒 | 器楽・室内楽関連
★シューベルト:弦楽五重奏曲 ハ長調 D.956
                  (演奏:メロス弦楽四重奏団、ヴォルフガング・ベトヒャー)

ドラゴンズの完全優勝の夢が潰えて悔しい。
あの打てなさはなんなんだ?

しかし・・・
今の私自身の心身の状況も八方ふさがりで、とくにシリーズ後半に目立った、どう見ても打てる気がしないドラゴンズの選手たちのそれと重なるところがある。
井端選手のピッチャー返しの打球のように、私とて、ときとして意地で食らいつくことはあるのだが、相手にある種の痛手を与えても、結局目指す得点に結びつかないというもどかしさが何とも自分にオーバーラップしてくるのでたまらない。


そして・・・
そんなバイオリズムのときの私の心をとらえて離さない作品を書いたのが、シューベルトなのである。

シューベルトに憑かれると・・・
そのとき私はきっと心身の不調を訴えているうえ、なぜかやけに食欲が旺盛になり(簡単に言えばヤケ食いが増え)畢竟、体重が増える傾向に陥るのである。


実は・・・
先月の投稿時にも記したシューベルト(&ベートーヴェン)の弦楽四重奏のマイブームがとどまるところをしらない。

ピアノ音楽を主に聞いてきた私にとって、これまでのシューベルトのマイブームは必然的にピアノ・ソナタと即興曲集だった。
家には数えるのも億劫なほどの変ロ長調ソナタD.960のディスクがある・・・多分50種類以上あるだろう・・・のだが、ブームになるとこの曲にとどまらず、小ト長調、レリーク、幻想、そして最後の3つのソナタが恋しくて恋しくてしかたなくなる。

そしていつもなら麻疹のようにパタッと聴く機会がなくなり、それとともに周囲の環境も好転し体調も戻るのだが、今回はどうも様子が違うように思えてならない。

最大の理由は、ピアノではなく弦楽四重奏&五重奏曲とジャンルも曲も違うからであることは疑いないのだが、それにしても重篤な症状なのではないかと危惧せずにはおられない。

これまで馴染みがない型の伝染病にかかったようなものなのだろう。
そしてD.960なんていう強力なウィルスの類似種で楽器1台ではなく4丁も5丁もよってたかって波動を送ってくるのだから、根深いに違いない。。。
これで交響曲やミサ曲第6番なんて作品に惹かれるようになってしまったら、さらにやばいことになる予感がある。
ことここに至ってしまえば、きっと、死ぬまで経過観察が必要な不治の病なのだろう・・・上手に付き合っていくしかないのかもしれない。

シューベルトの弦楽四重奏曲といえば・・・やはり後期のそれ。。。
12番断章以降のロザムンデ、死と乙女もよいけれど、15番の後期弦楽四重奏曲とハ長調の弦楽五重奏曲・・・これらはきわめつけ。
この2曲はピアノの変ロ長調ソナタと同じで、もはやこの世のものではない。

作曲技法的には、ピアノにしても弦楽合奏にしてもトリルが特徴的に使われているとかいろんなことに気付いたりするけれど、えてしてそれは私の耳に合わないというか冷静に聴けてしまう演奏において知らされる・・・。
ツボにハマったシューベルト演奏の本当に恐ろしいところは、日常でぼろぼろになった心身からまさに魂を抜かれてしまうところにある。

音楽でツボにハマって感動した場合にはさまざまなパターンがある。
多くのベートーヴェン演奏や、多佳子さんのショパンなどを心地よく聴けるような麗しいコンディションのときには、音楽を聴いたことで往々にして明日の風に立ち向かうだけの気力をみなぎらせている自分がいることに気付く。

バッハ演奏がツボにハマった場合にもやはり、一見魂を抜かれたようになるものだが、聴き終わると、すがすがしくリセットされた自分がいることに気付くものだ・・・

しかし、シューベルト・・・これはいけない!
曲に魅せられて魂を抜かれて・・・正気に戻ったときに、見たこともない、誰も知らない虚空に放り出さたような気分にさせられる・・・
聴き終わった後に異次元にいては困るのである。

この類の禁断の曲の入ったディスクにわかっていて手が伸びるということは、無意識のうちに私が欲しているところであることには間違いない。
理性的なときには敬して遠ざけることもできようが、経験則上、時間に追われるように1枚でも多くのシューベルトを聴きたいとう症状がでることから、極限まで追いつめられた症候群に陥っていることを知る・・・
それが分かっていても逃れられないのである。

苦し紛れにブラームスのヴァイオリン・ソナタなんかに手を伸ばすのだが、ここには実はシューベルトのエコーがそこここに聴かれる気がして、自分でも意識の底ではわかってて選曲しているように思われてならない。

ブルックナーの交響曲が閃いてディスクをターンテーブルに乗せたのだが、神様とベートーヴェンに両脚を置いているとされるこの作曲家にもシューベルトのこだまが聴こえてくる・・・
ここまで囚われてしまっているとすると、もはや末期的である。


実は、この記事を書くにあたって何度も途中まで書きかけて断念している・・・

これこそ、未完成交響曲をはじめレリークだの弦楽四重奏曲の12番だの・・・途中で放棄された曲が完成品と同様に数多く出回っているこの作曲家の病的な影響なのかもしれない。

厄払いが必要だ。。。
なんとか早いうちに、ドラゴンズの敗戦とシューベルトの呪縛から解き放たれたいものである。



話は変わるが・・・
私は、ペナントレース中であればドラゴンズがたとえ負けたとしても、親会社の生業を同じくする某球団が敗れていれば「まぁいいか」と思える質である。
贔屓の球団が勝つことだけを考えていればいいものを、他球団の負けを願うなんて自分でもほめられたことではないとは思うのだが、人生の半ばを過ぎて物心ついたころからそうだったのだから、きっとこれも一生付き合うべき病気のようなものだと達観している。

何が言いたいかというと・・・
善きにつけ悪しきにつけ「これじゃないといけない」という思い込みを貫き、なおかつ「その余のものを否定する傾向にある」と自分で自分の性格を分析しているということ・・・である。

もちろん、いつでも・どこでも・なにごとにも、それでは生活するうえで角が立ってやっていけない。
したがって、普段は社会的に問題が起こらないよう、独りよがりになっている自分を発見したなら直ちにそういう自分のベルソナを人前に晒さないように努力している。
しかし、本質的にはどうしようもなく自分勝手なのに違いない。



そんな私が・・・
こうしてネットを検索しているとオンラインショップのレビューやブログで、ご自身の贔屓の演奏に熱烈なラブコールを贈る聴き手・・・私の先達になりうる方々・・・に出会うのである。

そこにかかれていることが私にあっているかどうかを判断するときの要素が2つある。

もちろん1つめは「どれほどその演奏に感動させられたか」という点である。
私のように鳥肌が立ったとか魂を抜かれたとかいう表現もあるだろうが、涙がとまらないといった感激の表現、解釈上の妥当性を論理的に述べられるということであっても構わない。
とにかく、感動したということが私に迫ってきさえすればよい。

しかし・・・
これだけなら、そこらじゅうにこの演奏が好きだと表明している聴き手がいるわけで、必要条件は満たしていたとしても十分条件には達していないといえる。

実は2つめの要素は・・・排他的な表現が加わっていることに注目している。
「この演奏を聴いてしまっては、他の演奏は聴けない」という趣旨のことを言明している聴き手の文章であったとき私はその対象となった演奏に興味を持つ。

要するにドラゴンズが好きというだけではなく、他球団は応援できないというストイックな告白をしている文章に従ってもいいかなと思うことが多い・・・のである。

考えてみれば、前者は自分の意見を伝えるうえで必要なことだが、後者は実は言わなくてもいいことなのである。
むしろ言わないほうがいいこと・・・というべきなのかもしれない。

しかし、どんな事情があるにせよ、あえてそこを言わずにはおられない人の言葉を信じたときに自分の感性にマッチしたディスクが紹介されていることが多いというのは経験則上間違いない気がする。

そう伝えてくださっているその方ご自身と気脈が通じやすい・・・わけでは必ずしもないかもしれない。

しかし、そうおっしゃる方の気質はえてして自分に近いものがあり、その方のフィーリングにマッチした作品は必然的に自分にも合っている・・・と考えれば、けっこう納得もできる。


私自身は、ネット上ではいろんな演奏のいいところを聴き取ろうと努力しているコメントを吐いているが、自分には合わないと思う演奏だってやはり少なからずある。

何十種類と同じ曲のディスクを持っていても、繰り返し手が伸びるのは、結局のところ多くても数種類なのが実情だから・・・
どこといって悪くない演奏でも、次に聴かないことは多いのだ。

たとえば・・・
誰にでも聴きやすい中庸をいく奏楽で云々・・・という推薦評がなされていても、私のようなタイプにはヌルい演奏、ユルい演奏と聞こえるかもしれない。
だから、レコ芸のような評では私には伝わってこなくなってしまった。
その点、たとえ中庸を行くという評がされていようと、この演奏ではストイックにど真ん中を行き他の追随を許さない、他にはない境地にあるとどなたかが聴き取られたと表明されたものであれば、きっと求道者が法を求めるに似た軋んだのっぴきならない中庸の音楽がそこにあることが期待され、がぜん聴きたくなる。


シューベルトの音楽はただでさえ禁断の果実であることを知っている。
エデンの園のようなネット空間で知恵の実のありかを訪ねた結果が、楽園追放であったとしても、罪を重ねずにはいられない・・・
どうせ、私はすでにこの点での無間地獄にいる。

これさえあれば他の同曲の演奏はうっちゃることができる・・・

私の心がとげとげしてシューベルトを求めているようなときには、私はあちこちの情報を訪ねてそんな激白を探してやまない。

そうして知りえたメロス弦楽四重奏団のハルモニア・ムンディに移って以降のシューベルト、あるいはベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲には当分外に出られそうにない引力を感じている。

就中、ハ長調弦楽五重奏曲・・・
芳しい書評がいまでも記憶に残っているABQもラルキブデッリも名演奏には違いないと今でも思っているが、ここまで澄み渡って突き抜けてはいなかった。