★CHOPIN
(演奏:エドナ・スターン/1842年製プレイエル)
1.3つの新しい練習曲
2.バラード第2番 ヘ長調 作品38
3.ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35
4.ワルツ第5番 変イ長調 作品42
5.前奏曲 嬰ハ短調 作品45
6.ワルツ第12番 ヘ短調 作品70-2
7.バラード第3番 編イ長調 作品47
8.ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2
9.前奏曲第20番 ハ短調 作品28-20
(2009年録音)
先月はなぜかしらショパンどころかクラシック音楽全般から遠ざかって、ずっといにしえのJ-POPを聴いていることが多かった。
こんなご時世、どうしてもへばりがちな気持ちに喝を入れようとすれば、派手にオーバードライブを効かせたギンギンの変態的な曲がいいだろう。
例えば、ジュディマリの“THE POWER SOURCE”を聴いて元気をもらおうなんてソリューションもありかなと思うわけだが・・・
一聴底抜けに元気に聞こえるあのアルバムも、実は堅固なプロデュースに卓越した演奏技術が相俟って予定調和的に聴こえてしまって驚いた。
我ながら、なんと醒めていることか・・・と。
ほかにも新旧を問わず、いろいろ試してみたが、どうにもこうスカッと爽快に抜けるものに出会うことがなかった。
もちろん、それらの曲が悪いのではない。
かつて曲に出会った頃、当方の心の状況がゆとりあるものであったがために、そのときには気分も鬱憤も抜けるべくして抜けたのだ。
「今、沈んでます」状態のときに何を聴いたところで、すでに沈んでる気持ちが浮上しないからといってほかのもののせいにすることはできまい・・・。
ということで、じたばたすることを断念していたところに、かねて注文しておいたCDが相次いで到着したのである。(^^)/
初対面のディスクたち・・・全部で8種、12枚に上るがこれがたまたまいっぺんに在庫が「整いました」そうで・・・
否応なく、虚心坦懐に聴くことができるありがたいチャンスである。
まずは、海外ネット販売店の視聴コーナーで一部を聴いて彼女のディスク4枚を“オトナガイ”してしまったイスラエルの女流ピアニスト、エドナ・スターン嬢によるショパンのリサイタル盤である。
本盤のほか・・・
後に、ショパンのチェロ・ソナタのディスクについてひとこと紹介したいと思う。
その他にもバッハ、シューマンのディスクを聴いた。
それらの紹介はこの記事ではしないけれど、これまでにこれらの楽曲から感じたことのない深い感銘を受けたことだけは記しておこう。
間違いなく今がひとつの旬である、目が離せないアーティストである。
そんなエドナ嬢のショパンのリサイタル盤であるが、アンブロワジー・レーベルからの発売ということで期待はいや増すのである。
アンブロワジーは、後ほど紹介するチェロ・ソナタの盤でチェロを弾いている(言うまでもなくチェリストが主役なのだが)オフェリー・ガイヤール嬢が在籍し、バッハの無伴奏やフォーレの曲集など今でも愛聴盤となっているディスクを録音したレーベルである。
フィリップ・カッサールのあの美しいクラルテが印象的なシューベルトの変ロ長調ソナタなどのディスクもここであった。
要するに、録音がことのほか素晴らしいという先入観をこちらが持ってしまっているから、演奏のみならず音そのものへの期待もなみなみならぬものになってしまう・・・。
かくのごとく、聴き手がプロデュース側の知らないうちに勝手な期待を募らせてしまった場合、奏者も迷惑だろうけれど、このディスクに関しては何度も聴くうちにじんわりとよさが伝わってくるようになった。
1842年ショパン存命中のプレイエル製フォルテピアノを弾いているというのも、本ディスクの売りのひとつだろうが、巧みな録音(低音の活かし方と残響の取り込み方の妙)で、多少腹がもたれたような感じはあっても雰囲気作りには役立っているのかもしれないと思えるので、プロデュース面全般に関しては、さすがアンブロワジーと言っておこう。
演奏については、昨今、ディスクを出そうと志してこうして知られたレーベルから期待を受けてその奏楽を世に問おうという(とくに若手の)演奏家のテクニック面などでは、私の気づくようなキズがあろうハズはなく、純粋にその破綻のない演奏から何を汲み取れたかが問題にされるレベルにある。
そして、このディスクの第一印象は、プレイエルの音とその残響処理による要因が多いのだろうがなんとベッタリ・モッタリした起伏のないものだろうというものだった。
その時々の演奏は上手いので文句の付けようもないが、全体の心証としてはなんかずっと沈んでいる・・・が何故か最後まで聴けてしまうのが不思議・・・みたいな感じであった。
でも、2回・3回と聴き返すにつけて、平板な印象というのは錯覚であることを知った。
勝手な想像だが・・・
このディスクのプログラム(とそのパフォーマンス)にはドラマがある。
ここで表現されているのは、女の子がごくごくプライベートに普通では誰にもオープンにしない失意⇒立ち直りまでの気持ちの推移ではあるまいか?
たとえば失恋から一晩泣きあかして、翌日それでも口もとに笑顔を取り戻すまでの精神の浄化作用を、このプログラムから読み解くこともできるのではないかと思った、のだが穿ちすぎだろうか?
3つの新しい練習曲は、演奏として受止めればプレイエルの響もあって重心の低い魅力的な演奏で、新しい魅力を多く教えられたものである。
ただ、その響は厳しくインティメートでスターン嬢の部屋で、他の誰にも見せない素顔を垣間見ているような印象、一日の終わりのクールダウンされたものかもしれない。
バラード第2番は、前の曲と別の曲と思えないほどすんなりと続き、気分も継続したままなのだが、曲が曲なだけに、クライマックスのところは個室、それも懺悔室で大騒ぎしているようなイメージに変わる。
こんなところに居合わせた司祭はタイヘンって感じなまでに、凄みがある。
楽曲演奏的に感じるところは、コーダになるとすさまじい勢いに乗ってドライブしきるというのがこの曲の常套手段だと思うが、スターン嬢は、ここでグッとスピードを控えるのである。
これが産み出す凄みたるや・・・新たな発見である。
で・・・
変ロ短調ソナタも名演なのだが、第一楽章はルバート気味に弾かれる右手がまだグチっぽいような気がするし、スケルツォもすごくしっかり弾けていていささかも許す気がないけれど、葬送行進曲ですこし日が差して、第4楽章はまだ重いけどさすがに一陣の風が拭き去ったのかと思わされるような内容ではある。。。
ワルツ以降はだんだんめいった気分も晴れてきて、前奏曲の転調に乗ってさらに気分も地すべり的に改善、バラード第3番では復調に近くなり、ワルツはあの陰鬱に弾いたらどこまでも陰鬱になりそうな曲すらも軽妙にさえ響くようになり・・・24の前奏曲のハ短調のプレリュードで、お習字の止めのように、決然と全巻の終わりを告げるという内容。
あくまで勝手な想像であるが、最近、記紀や万葉集などから古代史を解明しようという文献を通勤時に読んでいる私にとっては、1300年前のことをあれこれ想像しているのは、私のこのスターン嬢の演奏を聴いてのストーリー作りとそれほど大差がないかもしれないと思ったりする。
もとより古代史研究と違って、これらについてはスターン嬢へのインタビューもしようと思えば可能なわけで、それをしちゃったら真贋がハッキリするけれど。。。(^^;)
★フレデリック・ショパン:前奏曲作品28、2つのバラード
(演奏:シェイラ・アーノルド)
1.バラード第1番 ト短調 作品23
2.24の前奏曲 作品28
3.バラード第4番 ヘ短調 作品52
(2009年録音)
エドナ・スターン嬢特集かと思いきや、もう一枚端倪すべからざる時代楽器によるショパンのリサイタル盤が我が家に届いているので、こちらも紹介しておこうと思う。
インドの女流ピアニスト、シェイラ・アーノルド嬢が1839年エラール製フォルテピアノを弾いたこのディスクがそれである。
ライバル関係にあったピアノの違いのみならず、スターン嬢がプレイエルでバラードの第2番・第3番を弾いているのに対して、アーノルド嬢はエラールでバラード第1番・第4番を弾いているという好対照・・・
ここに感激しているのはきっと私ひとりだが、スターン嬢とはまったく違うアプローチで明晰にショパンを表現しているので興味深い。
プレイエルとエラールの違いも、両ディスクを聞き比べることで合点がいくだろうし、時代楽器によるショパンのバラードがこの2枚で補完されて全部聴けるし・・・
ただ、私は蒐集癖がある人なので、興味本位に双方ともに◎をつけるのだが、片方が気に入った人は、もう片方は気に入らないということがあるかも知れないし、ひょっとすると現代の楽器のゴージャスな響になれた人には双方ともに物足りないという恐れがあるかも知れないことだけは、ご注意として、記しておこう。
現代ピアノに食傷気味の人が彼女らのフォルテピアノのディスクに耳を傾けるというのは・・・喩えて言えば、洋食に慣れている人がインド料理やイスラエル料理を食べるみたいなもの。。。
ただし・・・
このテイストは、決して和食、ましてや精進料理のそれじゃないので、やっぱり違和感をお持ちになることは想像に難くない・・・
でも、素材はショパンなので風流の範囲内での誤差であると、私は思うのだが・・・。
アーノルド嬢の演奏には私小説的な側面はいっさいなく、見られ聴かれることを前提にした、明晰かつオープンなリサイタルである。
それは、スターン嬢がアゴーギグは駆使してもデュナーミクを曲中で極端に対比させないのに対して、アーノルド嬢は前奏曲第14番などでは現代ピアノでやったら豪放磊落になっちゃうぐらいの勢いのデュナーミク対比をしていることによるのではないか?
バラード2曲も概してじっくり構えた弾きぶり・・・
第4番のロンド部分でも、身振りは決して小さくないし曲のいたるところを味わいつくして弾き進めていくさまは、同時体験させてもらう聴き手の私にとっても非常に充実した瞬間の連続で、時代楽器で弾いている以外に特段特殊なことをされていないにもかかわらず、私には深い充足感を抱かせてもらえた点において秀逸である。
エラそうに書いたけれど、第2主題の回帰のところの盛り上がり、甘美な旋律と音色、このあたりにも鳥肌モノの瞬間が数多くあって純粋に感動できる盤だったということ、大切なディスクがまた一枚加わったということである。
ショパンの音楽は、やはりショパンの時代の楽器でなければ・・・
とは言わない。
でも、ショパンはこんなできあがりの演奏を想定して、楽曲をこしらえたに相違ないと思わせてもらえるだけでも意義があるということは、強く思った。(^^;)
★Chopin
(演奏:オフェリー・ガイヤール(ce)・エドナ・スターン(pf))
1.チェロ・ソナタ ト短調 作品65
2.前奏曲イ短調 作品28-2
3.ノクターン ト長調 作品37-2
4.前奏曲ホ短調 作品28-4
5.ノクターン ト短調 作品37-1
6.序奏と華麗なポロネーズ ハ短調 作品3
7.ノクターン ホ短調 作品72-1
8.ワルツ 第11番 イ短調
(2009年録音)
先に触れたガイヤール嬢とスターン嬢によるショパンのチェロ・ソナタを中心とした、チェロとフォルテピアノによる編曲版を交えたリサイタル盤。
チェロは1737年のゴフリラーを使用し、フォルテピアノは1843年のプレイエルだそうなので、冒頭のディスクとは同じ時期の楽器であるにせよ微妙に別の楽器なのかもしれない。
このディスクの感想は、最高のチェロ・ソナタの演奏であるということ。
これほどいい意味で聴きやすく、退屈しない演奏はないと思う。第2楽章のチェロの伸びやかな歌い方もこれらの楽器のアンサンブルの中で最高度に発揮されるような気がするし、確かに室内楽はその時代の楽器を使ったほうが、楽器同士の響合いの産物なので、作曲家の思うとおりの音色が再現されやすく、それがやはり最良であるケースも少なくないと思う。
ここでも、フランショームとショパンはこんな音楽の対話をしたのだろうと想像すると楽しい。
独奏の時には確信犯的に内気なスターン嬢も、ガイヤール嬢との掛け合いのなかでは晴れ晴れとした音も、フレーズも、繰り出してきてはるかに健康的に感じる。
そうしたプログラムの中に独奏のノクターンを夢見がちに、あるいは物憂い気分で交えるところも憎いところで、ステキなディスクであるとは思う。
ただ、アレンジ物に関しては、ガイヤール嬢とスターン嬢は確かに創意工夫を凝らして編曲したのだろうが、やはりオリジナルのものには聴きなれていないせいもあってかなわない・・・だろうな。
チェロ・ソナタがとても晴れ晴れと大団円を迎えたすぐその後に、作品28-2の非常にテンションのキツイ編曲を並べられたときには、もう少し余韻に浸っていたかったと心底思ったものである。
しかし、ガイヤール嬢がアンブロワジーを離れてAPARTEレーベルに移って、スターン嬢がzig-zag Territoriesレーベルからアンブロワジー・レーベルに移ってということでいいのかしら・・・
いずれにせよデストリビュションはハルモニア・ムンディのようだから、ちゃんと彼女たちの所産は今後もチェックできると考えていいだろうから安心だ。(^^;)
気鋭の女流奏者への目線は熱いなと、我ながら思う。
男性だと、どうしてもベテランの味わい深い人を追う傾向にあるので、魂胆が違うのは明白である。
(演奏:エドナ・スターン/1842年製プレイエル)
1.3つの新しい練習曲
2.バラード第2番 ヘ長調 作品38
3.ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35
4.ワルツ第5番 変イ長調 作品42
5.前奏曲 嬰ハ短調 作品45
6.ワルツ第12番 ヘ短調 作品70-2
7.バラード第3番 編イ長調 作品47
8.ワルツ第7番 嬰ハ短調 作品64-2
9.前奏曲第20番 ハ短調 作品28-20
(2009年録音)
先月はなぜかしらショパンどころかクラシック音楽全般から遠ざかって、ずっといにしえのJ-POPを聴いていることが多かった。
こんなご時世、どうしてもへばりがちな気持ちに喝を入れようとすれば、派手にオーバードライブを効かせたギンギンの変態的な曲がいいだろう。
例えば、ジュディマリの“THE POWER SOURCE”を聴いて元気をもらおうなんてソリューションもありかなと思うわけだが・・・
一聴底抜けに元気に聞こえるあのアルバムも、実は堅固なプロデュースに卓越した演奏技術が相俟って予定調和的に聴こえてしまって驚いた。
我ながら、なんと醒めていることか・・・と。
ほかにも新旧を問わず、いろいろ試してみたが、どうにもこうスカッと爽快に抜けるものに出会うことがなかった。
もちろん、それらの曲が悪いのではない。
かつて曲に出会った頃、当方の心の状況がゆとりあるものであったがために、そのときには気分も鬱憤も抜けるべくして抜けたのだ。
「今、沈んでます」状態のときに何を聴いたところで、すでに沈んでる気持ちが浮上しないからといってほかのもののせいにすることはできまい・・・。
ということで、じたばたすることを断念していたところに、かねて注文しておいたCDが相次いで到着したのである。(^^)/
初対面のディスクたち・・・全部で8種、12枚に上るがこれがたまたまいっぺんに在庫が「整いました」そうで・・・
否応なく、虚心坦懐に聴くことができるありがたいチャンスである。
まずは、海外ネット販売店の視聴コーナーで一部を聴いて彼女のディスク4枚を“オトナガイ”してしまったイスラエルの女流ピアニスト、エドナ・スターン嬢によるショパンのリサイタル盤である。
本盤のほか・・・
後に、ショパンのチェロ・ソナタのディスクについてひとこと紹介したいと思う。
その他にもバッハ、シューマンのディスクを聴いた。
それらの紹介はこの記事ではしないけれど、これまでにこれらの楽曲から感じたことのない深い感銘を受けたことだけは記しておこう。
間違いなく今がひとつの旬である、目が離せないアーティストである。
そんなエドナ嬢のショパンのリサイタル盤であるが、アンブロワジー・レーベルからの発売ということで期待はいや増すのである。
アンブロワジーは、後ほど紹介するチェロ・ソナタの盤でチェロを弾いている(言うまでもなくチェリストが主役なのだが)オフェリー・ガイヤール嬢が在籍し、バッハの無伴奏やフォーレの曲集など今でも愛聴盤となっているディスクを録音したレーベルである。
フィリップ・カッサールのあの美しいクラルテが印象的なシューベルトの変ロ長調ソナタなどのディスクもここであった。
要するに、録音がことのほか素晴らしいという先入観をこちらが持ってしまっているから、演奏のみならず音そのものへの期待もなみなみならぬものになってしまう・・・。
かくのごとく、聴き手がプロデュース側の知らないうちに勝手な期待を募らせてしまった場合、奏者も迷惑だろうけれど、このディスクに関しては何度も聴くうちにじんわりとよさが伝わってくるようになった。
1842年ショパン存命中のプレイエル製フォルテピアノを弾いているというのも、本ディスクの売りのひとつだろうが、巧みな録音(低音の活かし方と残響の取り込み方の妙)で、多少腹がもたれたような感じはあっても雰囲気作りには役立っているのかもしれないと思えるので、プロデュース面全般に関しては、さすがアンブロワジーと言っておこう。
演奏については、昨今、ディスクを出そうと志してこうして知られたレーベルから期待を受けてその奏楽を世に問おうという(とくに若手の)演奏家のテクニック面などでは、私の気づくようなキズがあろうハズはなく、純粋にその破綻のない演奏から何を汲み取れたかが問題にされるレベルにある。
そして、このディスクの第一印象は、プレイエルの音とその残響処理による要因が多いのだろうがなんとベッタリ・モッタリした起伏のないものだろうというものだった。
その時々の演奏は上手いので文句の付けようもないが、全体の心証としてはなんかずっと沈んでいる・・・が何故か最後まで聴けてしまうのが不思議・・・みたいな感じであった。
でも、2回・3回と聴き返すにつけて、平板な印象というのは錯覚であることを知った。
勝手な想像だが・・・
このディスクのプログラム(とそのパフォーマンス)にはドラマがある。
ここで表現されているのは、女の子がごくごくプライベートに普通では誰にもオープンにしない失意⇒立ち直りまでの気持ちの推移ではあるまいか?
たとえば失恋から一晩泣きあかして、翌日それでも口もとに笑顔を取り戻すまでの精神の浄化作用を、このプログラムから読み解くこともできるのではないかと思った、のだが穿ちすぎだろうか?
3つの新しい練習曲は、演奏として受止めればプレイエルの響もあって重心の低い魅力的な演奏で、新しい魅力を多く教えられたものである。
ただ、その響は厳しくインティメートでスターン嬢の部屋で、他の誰にも見せない素顔を垣間見ているような印象、一日の終わりのクールダウンされたものかもしれない。
バラード第2番は、前の曲と別の曲と思えないほどすんなりと続き、気分も継続したままなのだが、曲が曲なだけに、クライマックスのところは個室、それも懺悔室で大騒ぎしているようなイメージに変わる。
こんなところに居合わせた司祭はタイヘンって感じなまでに、凄みがある。
楽曲演奏的に感じるところは、コーダになるとすさまじい勢いに乗ってドライブしきるというのがこの曲の常套手段だと思うが、スターン嬢は、ここでグッとスピードを控えるのである。
これが産み出す凄みたるや・・・新たな発見である。
で・・・
変ロ短調ソナタも名演なのだが、第一楽章はルバート気味に弾かれる右手がまだグチっぽいような気がするし、スケルツォもすごくしっかり弾けていていささかも許す気がないけれど、葬送行進曲ですこし日が差して、第4楽章はまだ重いけどさすがに一陣の風が拭き去ったのかと思わされるような内容ではある。。。
ワルツ以降はだんだんめいった気分も晴れてきて、前奏曲の転調に乗ってさらに気分も地すべり的に改善、バラード第3番では復調に近くなり、ワルツはあの陰鬱に弾いたらどこまでも陰鬱になりそうな曲すらも軽妙にさえ響くようになり・・・24の前奏曲のハ短調のプレリュードで、お習字の止めのように、決然と全巻の終わりを告げるという内容。
あくまで勝手な想像であるが、最近、記紀や万葉集などから古代史を解明しようという文献を通勤時に読んでいる私にとっては、1300年前のことをあれこれ想像しているのは、私のこのスターン嬢の演奏を聴いてのストーリー作りとそれほど大差がないかもしれないと思ったりする。
もとより古代史研究と違って、これらについてはスターン嬢へのインタビューもしようと思えば可能なわけで、それをしちゃったら真贋がハッキリするけれど。。。(^^;)
★フレデリック・ショパン:前奏曲作品28、2つのバラード
(演奏:シェイラ・アーノルド)
1.バラード第1番 ト短調 作品23
2.24の前奏曲 作品28
3.バラード第4番 ヘ短調 作品52
(2009年録音)
エドナ・スターン嬢特集かと思いきや、もう一枚端倪すべからざる時代楽器によるショパンのリサイタル盤が我が家に届いているので、こちらも紹介しておこうと思う。
インドの女流ピアニスト、シェイラ・アーノルド嬢が1839年エラール製フォルテピアノを弾いたこのディスクがそれである。
ライバル関係にあったピアノの違いのみならず、スターン嬢がプレイエルでバラードの第2番・第3番を弾いているのに対して、アーノルド嬢はエラールでバラード第1番・第4番を弾いているという好対照・・・
ここに感激しているのはきっと私ひとりだが、スターン嬢とはまったく違うアプローチで明晰にショパンを表現しているので興味深い。
プレイエルとエラールの違いも、両ディスクを聞き比べることで合点がいくだろうし、時代楽器によるショパンのバラードがこの2枚で補完されて全部聴けるし・・・
ただ、私は蒐集癖がある人なので、興味本位に双方ともに◎をつけるのだが、片方が気に入った人は、もう片方は気に入らないということがあるかも知れないし、ひょっとすると現代の楽器のゴージャスな響になれた人には双方ともに物足りないという恐れがあるかも知れないことだけは、ご注意として、記しておこう。
現代ピアノに食傷気味の人が彼女らのフォルテピアノのディスクに耳を傾けるというのは・・・喩えて言えば、洋食に慣れている人がインド料理やイスラエル料理を食べるみたいなもの。。。
ただし・・・
このテイストは、決して和食、ましてや精進料理のそれじゃないので、やっぱり違和感をお持ちになることは想像に難くない・・・
でも、素材はショパンなので風流の範囲内での誤差であると、私は思うのだが・・・。
アーノルド嬢の演奏には私小説的な側面はいっさいなく、見られ聴かれることを前提にした、明晰かつオープンなリサイタルである。
それは、スターン嬢がアゴーギグは駆使してもデュナーミクを曲中で極端に対比させないのに対して、アーノルド嬢は前奏曲第14番などでは現代ピアノでやったら豪放磊落になっちゃうぐらいの勢いのデュナーミク対比をしていることによるのではないか?
バラード2曲も概してじっくり構えた弾きぶり・・・
第4番のロンド部分でも、身振りは決して小さくないし曲のいたるところを味わいつくして弾き進めていくさまは、同時体験させてもらう聴き手の私にとっても非常に充実した瞬間の連続で、時代楽器で弾いている以外に特段特殊なことをされていないにもかかわらず、私には深い充足感を抱かせてもらえた点において秀逸である。
エラそうに書いたけれど、第2主題の回帰のところの盛り上がり、甘美な旋律と音色、このあたりにも鳥肌モノの瞬間が数多くあって純粋に感動できる盤だったということ、大切なディスクがまた一枚加わったということである。
ショパンの音楽は、やはりショパンの時代の楽器でなければ・・・
とは言わない。
でも、ショパンはこんなできあがりの演奏を想定して、楽曲をこしらえたに相違ないと思わせてもらえるだけでも意義があるということは、強く思った。(^^;)
★Chopin
(演奏:オフェリー・ガイヤール(ce)・エドナ・スターン(pf))
1.チェロ・ソナタ ト短調 作品65
2.前奏曲イ短調 作品28-2
3.ノクターン ト長調 作品37-2
4.前奏曲ホ短調 作品28-4
5.ノクターン ト短調 作品37-1
6.序奏と華麗なポロネーズ ハ短調 作品3
7.ノクターン ホ短調 作品72-1
8.ワルツ 第11番 イ短調
(2009年録音)
先に触れたガイヤール嬢とスターン嬢によるショパンのチェロ・ソナタを中心とした、チェロとフォルテピアノによる編曲版を交えたリサイタル盤。
チェロは1737年のゴフリラーを使用し、フォルテピアノは1843年のプレイエルだそうなので、冒頭のディスクとは同じ時期の楽器であるにせよ微妙に別の楽器なのかもしれない。
このディスクの感想は、最高のチェロ・ソナタの演奏であるということ。
これほどいい意味で聴きやすく、退屈しない演奏はないと思う。第2楽章のチェロの伸びやかな歌い方もこれらの楽器のアンサンブルの中で最高度に発揮されるような気がするし、確かに室内楽はその時代の楽器を使ったほうが、楽器同士の響合いの産物なので、作曲家の思うとおりの音色が再現されやすく、それがやはり最良であるケースも少なくないと思う。
ここでも、フランショームとショパンはこんな音楽の対話をしたのだろうと想像すると楽しい。
独奏の時には確信犯的に内気なスターン嬢も、ガイヤール嬢との掛け合いのなかでは晴れ晴れとした音も、フレーズも、繰り出してきてはるかに健康的に感じる。
そうしたプログラムの中に独奏のノクターンを夢見がちに、あるいは物憂い気分で交えるところも憎いところで、ステキなディスクであるとは思う。
ただ、アレンジ物に関しては、ガイヤール嬢とスターン嬢は確かに創意工夫を凝らして編曲したのだろうが、やはりオリジナルのものには聴きなれていないせいもあってかなわない・・・だろうな。
チェロ・ソナタがとても晴れ晴れと大団円を迎えたすぐその後に、作品28-2の非常にテンションのキツイ編曲を並べられたときには、もう少し余韻に浸っていたかったと心底思ったものである。
しかし、ガイヤール嬢がアンブロワジーを離れてAPARTEレーベルに移って、スターン嬢がzig-zag Territoriesレーベルからアンブロワジー・レーベルに移ってということでいいのかしら・・・
いずれにせよデストリビュションはハルモニア・ムンディのようだから、ちゃんと彼女たちの所産は今後もチェックできると考えていいだろうから安心だ。(^^;)
気鋭の女流奏者への目線は熱いなと、我ながら思う。
男性だと、どうしてもベテランの味わい深い人を追う傾向にあるので、魂胆が違うのは明白である。