SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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不協和音に慰撫されて

2008年11月27日 00時13分41秒 | ピアノ関連
★プロコフィエフ:ピアノ・ソナタ全集 Vol.Ⅱ
                  (演奏:フレデリック・チュウ)
1.ピアノ・ソナタ第5番 ハ長調 作品38/135
2.ピアノ・ソナタ第6番 イ長調 作品82
3.ピアノ・ソナタ第7番 変ロ長調 作品83
                  (録音:1991年)

しばらくピアノ演奏を聴くことから距離があったように思う。
別に他意はない、ジャズ・ボーカルやア・カペラの宗教曲みたいなのを気持ちが欲しがっただけなのだろう。
以前にもピアノはアタックが強いので、それが気に障るときがないではなかった。
無理して聴くまでのことはない・・・
そんな感覚がしばらく続くと、またいつしか受け入れ態勢ができるらしく、以前と変わらずピアノ音楽をしゃにむに求める自分に戻る、そんなことを繰り返している。

さて、今回ピアノ音楽のシャバに戻ってくるきっかけとなったのが、他でもないお題に掲げたチュウのプロコフィエフのソナタ集・・・それもこの第2集・・・である。

このディスクは随分昔に手に入れたもの。
このピアニストの手になる、「反映」と題されたラヴェル“鏡”、そしてシェーンベルク、ドコーという同時代の作曲家の同時代の作品をプログラミングしたディスクに感銘を受けたのがきっかけだ。

それはレコ芸の海外の記者による連載記事で、フレデリック・チュウの類稀な軽やかな指捌きに敬意を表している内容だった・・・果たして購入してすぐわたしもその魅力の虜になったと記憶している。

今でもこのディスクの“鏡”は、数あるこの曲のディスクの中でも白眉たる存在だと思っている。

彼の演奏の特徴は、軽やかで鮮やかな指捌きであるものの相容れない2つの要素・・・さりげなさと濃密なロマンティックさ・・・を両立できていることにある。
この結果、ロマンの糖衣錠とでも形容するべき一風変わった個性を誇る、それでいて非常に共感できるラヴェル演奏となっている。

このロマンの表出に関しては、ドビュッシーの鬼才として随分前に記事にしたゾルターン・コチシュのドビュッシー演奏にも通じる・・・しかしロマンの表出のしかたはぜんぜん異なるが・・・濃ゆさであり、ほとばしりでる訳ではないものの、パッションが内包されていることは如実に感じ取ることができるものであった。
この糖衣錠状態のロマンに関しては、後に彼が世に問うショパン・・・これもロマン派の雄・・・でも存分に発揮されているように感じる。
当初はいささか異形の解釈と思われて、これも印象には残るが自分の中で温め続けた感もあるが・・・昨今の例えばルイサダの最新盤を耳にしたりすると・・・今ではスムースに聞こえたりするから不思議でもある。
(ルイサダの(ショパンの)演奏には、レッキとした別の存在価値があると認めていることは付記しておく。)

作品10の練習曲集と初期の高名ではないロンドなどの作品集、作品25の練習曲集と子守唄、舟歌、幻想ポロネーズなどの最後期の泣く子も黙る決定版の曲集。。。

いずれの作品においても、その唯一無二の素晴らしさを堪能することができたものだ。


さて、話をプロコフィエフの作品に戻そう。
彼のプロコフィエフのピアノ・ソナタ集はこの第2集と第3集を持っているのだが、購入当初は「やはりプロコフィエフは私にはダメだ、向いていない」という念を強くさせただけであった。

プロコフィエフの作品は、以前に何回も記したとおり私にとってはシューマンなどと並んで、否、それよりも強烈に共感を感じにくいシロモノである。
苦手意識は今でも持っている・・・といったほうが素直だろう。

しかし、少しの間、ピアノ曲を聴かなかった耳になぜか10年以上もあまり耳にしていなかったこの演奏は非常に爽やかに新鮮に響き、不協和音の塊のような箇所からも涼やかな風を受けたように癒されたりすらした・・・という体験を積むことができた。

戦争ソナタの2曲などは、冒頭の動機が全曲を貫いているということをはじめて認識できるような解釈になっていたし、ラヴェルで感じさせた相反する要素を両立させるごとき音色。。。

ピアノがヤマハとクレジットされていることも、ピアニストのこだわりというか創意を感じさせるファクターである。
スタインウェイでもベーゼンでも、この音は出なかっただろうし、この音が彼のプロコフィエフの表現にとってとても具合のいいものであることは、火を見るより明らかである。

ヤマハのピアノって私のイメージでは、残響の響が強烈だと言うものがあるが、録音の加減か、ここで鳴っているピアノの音はまことに曲調に相応しく響も整理されていて好ましい。

そして演奏ではどこまでも鮮やかでありながらさりげない、パッションは感じるのだがそれは曲中の生命力とでも言うものに変換されていて、微温的には感じられるけど決してラヴェルのようにロマンティックを前面に出さないのは作曲家の相違によるだろうからか?

この音色でこのように奏楽されたら、やっぱり不協和音にさえ優しく頬を撫でられたようなそんな爽快さを覚える。

そして、プロコフィエフの一般的な魅力とされている前衛的なダンダンダン・・・と鳴らされる和音、これも決して乱暴に輝かしく弾かれるのではなくノーブルな意味づけがなされていることが、この人ならではでうれしい。
第7番の最終楽章7拍子に関しても、決してドハデではなく、軽やかな指捌きをノリノリで演奏しているという感じ。

そこにはいっさいの権威も虚飾もなく、ピアニスト本人の普段どおりの姿がとてつもないテクニックに裏付けられて現前に表されている・・・そんな気がした。
この相容れないものを両立させる指捌き、ぜひいろんな作品で確かめて楽しみたいと思っている。