SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

追悼:ロストロポーヴィチ

2007年04月30日 00時00分00秒 | 器楽・室内楽関連
★チャイコフスキー:ピアノ協奏曲
                  (演奏:ヴラディミール・フェルツマン(p)
                        ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ指揮 ナショナル交響楽団)
1.チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調 作品23
2.リスト:ピアノ・ソナタ ロ短調
                  (1980年代録音)

先日、北斗の拳のラオウの葬儀があったばかりですが、またひとつの大きな『巨星墜つ!』ですね。
親友だったと伝えられるエリツィン元大統領に続いて、ロストロポーヴィチの訃報が出ていましたのでささやかに追悼記事を投稿して心からの『弔意』を表したいと思います。

なおこの記事全編を通してお名前の表記を“ロストロポーヴィチ”とさせていただいています。

いや実はなんだか胸騒ぎがしてたんですよ。
というのは、昨日までの出張に行く時、フェルツマンのピアノが聴きたいと思って冒頭のCDをディスクマンに入れて出かけようとしたら、ゴミ収集車の爆発事故があったでしょ。
そして、電車の中で聴いていた時に指揮者のパーソネルを見て、「そういえばロストロポーヴィチって体を壊してたみたいだけどどうしてるのかなぁ~?」なんて思いがふと頭をよぎったんですよね。

高橋多佳子さんのラフマニノフ/ムソルグスキーのディスクが出たあたりから俄然ロシアの音楽を聴く機会が増え、ブログ上でのお仲間にもロシア音楽大好きというかたが多いので、ロシアの動静に敏感になってるのかなぁ~。

といいつつ、ご紹介するディスクではこのチャイコフスキーのオケ伴奏以外にはロシア音楽はないんですけど・・・主役がもともとロシアのかたということで。

傑出したチェリストというだけでなく、指揮者としても多くのディスクを遺された“マエストロ”ロストロポーヴィチ。
「ベルリンの壁」の時のいち早い行動などを持ち出すまでもなく、たいへんな人格者としても親しまれていた方だと思います。あらゆる点でカザルスの後継者だったんじゃないかなぁ~。
そういえば、24時間テレビだったか世界平和かなんかをテーマとしての全世界中継という企画で、進行役だった小澤征爾さんの「スラ~ヴァ、スラァヴァ~!(マエストロの愛称ネ!)」という呼びかけに応じて、画面全体に“ヌオっ”と出てきた(イメージ沸きます?)ことがやたら印象に残っています。
こうやって書いてると、いろいろ思い出すなぁ~。(^^)/

で、ロストロポーヴィチのオーケストラ演奏は堅実でやや華やかなのが特徴だと私には思えます。
一時、一生懸命彼のシチェドリン演奏なんかも聴いたけど、やっぱよーわからんかったなぁ~・・・。

このチャイコフスキーのディスクは、突き抜けたライヴでの熱狂を求めない私にとって、アルゲリッチのいくつかあるこの曲の定番演奏よりもキレ・冴えの両面で満足できる演奏であります。

フェルツマン凄し!

この人は主役じゃないのでちょろっと書き留めるだけにしますが、フィルアップのリストのロ短調ソナタの演奏もテクニックのキレ・冴えをこのうえなく感じさせるものでありながらせせこましさとは無縁であり、最高級に好きな演奏のひとつです。
なお11月30日の記事に書いたものと音源は同じです。

本日の主役ロストロ翁の伴奏もサイコーで、私はこのように涼しげに弾かれたこのコンチェルトを楽しみたいことが多いですね。
とはいえ、ここで行われている演奏技術については恐ろしく精細な技術的積み上げが裏付けにあると思いますけど・・・それは、アルゲリッチも同じか。

ちなみに、熱狂の渦のアルゲリッチなら後のアバド盤より、コンドラシン盤のほうが好きです。


★ショパン:チェロ・ソナタ 他
                  (演奏:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(vc)、マルタ・アルゲリッチ(p))

1.ショパン:チェロ・ソナタ ト短調 作品65
2.ショパン:序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3
3.シューマン:アダージョとアレグロ 変イ長調 作品70
                  (1980年録音)

なぜかアルゲリッチのことを書き出しちゃったので、共演盤を出せばアルゲリッチについて書いたって「文句はあるめぇ」というわけで・・・。

しかし、彼女は知られている通り非常に繊細なかたのようなのでロストロポーヴィチが亡くなったということで、ショックを受けてないか心配ですね。
クロムランク夫妻のときも衝撃を受けてたようですし、ましてやご自身もガンの手術とかを経験して、そのときにも非常にナーヴァスになっておられたということを聞いているので余計にそんな気がします。

ここでの共演はアルゲリッチのしなやかで奔放な伴奏に乗っかって伸び伸び弾かれており「おじさん、ご機嫌。」っていう感じでしょうか。
それにつけても伴奏のアルゲリッチの弾き出す音には凄くパッションがあるうえ、振りまかれる音の芳香は雰囲気抜群です。

第1楽章なんか特に、ロストロ翁がキモチよ~くチェロを鳴らしているのに乗って、この上なく繊細にピアノ・ソロが繰り広げられているという感さえあります。ここだけだと、チェロ伴奏つきのピアノ・ソナタと言ってもいいかもしれないなんて私は思いますがいかがでしょうか?
第2楽章以下はチェロ・ソナタだと言っていいと思いながらも、伴奏ピアノの前打音の装飾処理などアルゲリッチが魔法みたいなタッチで弾くもんだから、やっぱピアノが目立つ・・・。
曲の問題か、奏者の問題かはびみょ~なところだと思います。

ただこう考えてくると、ショパンのパリでの最後の公衆の面前でのリサイタルでこの曲がフランショームとの演奏された際に、第1楽章が省かれた理由が判るような気がしないでもありません。
音楽的な内容でチェロを食っちゃうから・・・いや、やはり単に“長いから”というショパンの体力的な問題だったんだろうか?

どうしても、この曲ではピアノのパッセージの方に注意が行ってしまう私なのでありました。

続いてのポロネーズはチェロ、ピアノ両方が主役です。
どちらの楽器もそれぞれの特徴を最大限に生かして、表現上「出来ることを全て盛り込みました」という感じ。若きショパンがいろいろ試している、という要素も確かにありますが自分の才気を誇示しようとしている戦略的な楽曲と捉えられなくもありません。
この名手だからこそ、ここまで曲芸を見るような思いで楽しく聞かせてくれるのですが、数多の演奏家がこの曲をやろうとしたらどうなるか・・・。
チョイと心配ですな。(^^)/

演奏効果は華々しくてとってもいいですけど、総合的に見るとやっぱちょっと“やりすぎ”なんじゃないかなぁ~。「ほどほどにしとけ」といいたくなりました。

そしてシューマンも、まさしくこの温度感はシューマンらしい曲で名演。
ここでも、音量の出ていないところでも激しいパッションのほとばしりを感じさせるアルゲリッチのピアノと、ロストロポーヴィチならではの強靭なチェロの音色であればこそ実現できる世界が現出されています。

全体的に華々しい曲ばかりのプログラムであるにもかかわらず、食傷気味にならないなんて不思議という感じのディスクでありました。


★ブラームス:チェロ・ソナタ第1・2番
                  (演奏:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(vc)、ルドルフ・ゼルキン(p))

1.チェロ・ソナタ 第1番 ホ短調 作品38
2.チェロ・ソナタ 第2番 ヘ長調 作品99
                  (1982年録音)

この記事を書くに当たって、上のアルゲリッチとの共演盤の前に聴きなおしたのですが、比べてみるとごっついピアノですね。矍鑠とした演奏という感じがします。

ブラームスの室内楽ってヘンな演奏に当たるとグヂグヂして「何言ってんじゃい!」と思うことがあるのですが、これはそんなこととは一切無縁。
いつぞや、どこぞやの某首相のように“言語明瞭・意味●明瞭”ですね。

両者とも素のままで演奏されているようでいて、いっさいジメジメしないし見通しよく演奏されているのですが・・・第1番の第1楽章などでは間違いなく慟哭というか泣いている。今、我々がロストロポーヴィチを惜しんでいるように、心の奥底での嗚咽が聞き取れるのではなく感じ取れるような演奏です。
反対に、第2番の第1楽章はこの上なく晴朗であります。曲がそうだからといってしまえばそれまでですが、これだけ“霧が晴れた中、淡々と進んでいく演奏”の中でそれができるというのは、ピアニストも含め、凄いことだと思います。

言い方はおかしいのですが、ベテランのアナウンサーがいいニュース、悲しいニュース、怒れるニュースを同じように淡々と読んでいるのに、こちらにはそのような思いが明瞭に思い起こされるという感じに近いのでしょうか。
最近特に痛感するのですが、事実・指示・手順などは言葉だけでは伝わりにくいでしょうが、「想い」だけは隠しようもなく伝わりますからね。
ロストロポーヴィチ、ゼルキン共に言葉以上に「音楽」で想いを感覚的に伝えることが出来るのでしょう。否、音楽だからこそ伝えられるものがあるのかもしれませんね。

先ほど伏字にした訳は、某首相とロストロ翁とでは入る漢字が違うからであります。


★J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲(全曲)
                  (演奏:ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)

1.無伴奏チェロ組曲 第1番 ト長調 BWV.1007
2.無伴奏チェロ組曲 第4番 変ホ長調 BWV.1010
3.無伴奏チェロ組曲 第5番 ハ短調 BWV.1011
4.無伴奏チェロ組曲 第2番 二短調 BWV.1008
5.無伴奏チェロ組曲 第3番 ハ長調 BWV.1009
6.無伴奏チェロ組曲 第6番 二長調 BWV.1012
                  (1992年録音)

この演奏については、最早コメントすることはありません。

いろんな評価がある中で、私と同年輩でありながら既に2回もこの全集を録音しているウィスペルウェイなどが「あと5年早く録音されたものが聴きたかった」ような発言をしているようですが、まったく価値観のズレた議論だと思います。

ロストロポーヴィチは、自身のチェリストとしての全存在を賭けてこのモニュメンタルな楽曲を録音するに当たり、まずもって万難を排するために自主制作という手段を選択しています。
そして、楽曲解釈や技術的な鍛錬はもちろんのこととして、おそらく自分の命よりもはるかに永く残る記録を遺すための準備、例えばロケーションの選択にも“自分自身”があらゆる手段を講じていろんなところへ足を運び、結局小さな教会が気に入って録音する・・・といった途方もない手順を全て自分の責任でこなしているのです。
このような過程を経て作り上げられたディスクでありながら、肝心の出来ばえについても製作者本人をして「できるだけのことをした。後はどのように判断されようとも悔いはない」と言わしめています。

こんな経緯を知ってみると、演奏技術というごく一面から見ればウィスペルウェイの言質を是とすることが仮にあったとしても、全体的に見ればロストロポーヴィチがいかなるチェリストだったかということを語るうえでこれに勝るディスクはないと言っていいと信じています。

そんな、ロストロ翁に敬意と感謝を捧げながら、連休前半は静かにこのディスクを聴いてみようかな。

マエストロ、お疲れ様でした。心からご冥福をお祈りします。

合掌



※急用のため先日付投稿しています。

ここ数日のニュースを見ての雑感

2007年04月29日 00時00分01秒 | その他
出張中は巷の話題から隔絶されているのです。
私の仕事は、対象の当社社員を山奥の施設に缶詰状態にして、他の業務から隔絶された中で集中して業務知識を覚えていただく講師という役回りであります。
言い換えるとひと月に連続3~4日を2・3回、ニュースなどから開放される・・・否、知ろうとしても知れない状態があるのです。

これは私にとって、精神的に大いにリフレッシュできる機会であり、刑期を終えてシャバに帰ったらやっぱり浦島太郎になっていたと思わせられる瞬間を待ちわびる期間でもあります。(^^)v

それで昨日・今日思ったことを少々・・・。ちなみに、冒頭の写真は何にも関係ありません。


エリツィン元大統領の葬儀に参列した人の「格」の問題が取り沙汰されているようですが、やっぱりもう少し段取りよくすべきだったでしょうねぇ。
ヨハネ・パウロ二世の時もいろいろあったようだし・・・。

米国なんてクリントンさんとか送ってるわけだから・・・ハシリューが故人だからって人がいないわけじゃないでしょうに。

国会やってても、ダイエットの話をしていて野党の議案に賛成の起立しちゃうような元首相が2人もいるんだったら、まとめて参列に行ってもらっちゃってもよかったんじゃないですか?

確かにこのテの話は気持ちの問題で義務ではありません。ただ、表現の仕方によって相手に伝わるものは確かに変わる・・・。
極めて感情的に近しい友人と、経済的には恩義はあるがちょっと捉えどころのない人に対してリアクションが違うのは明白です。
拉致問題、靖国問題はじめ我が国では当然のこととして語られている諸問題が、外国でどのように受け止められているのでしょうか?

このような機会での行動の表現要領の積み重ねによって、その国と気安く付き合えるのか少し構えて付き合わなければいけないのかという評価が出来ていくのだと思います。
どこかの国のように“やんちゃ”を言っているつもりが全然ないのに、我が国の言動を見て実は精神構造は「大差ないんじゃない」なんて思われてはいないのでしょうか?
先の問題の他にも、教科書問題、歴史認識問題(ほとんど同じか?)、憲法問題、再軍備問題(これもほとんど同じか?)がどのように受け止められているか・・・我が国がどのように考えているかではなく、諸外国にどのように受け止められているか・・・については極めて心許ないように思います。
もちろん媚びる必要はさらさらないけどデリケートな部分には共感し、配慮しているという姿勢を見せるだけでも受けての感じ方が変わる可能性は高いのではないでしょうか。
それを配慮しないで「俺のやり方を通す」というのでは傲慢すぎるように思います。

他国と付き合うとき、現在の我が国のありかた・やりかたの中に先入観として気持ちをこわばらせる要素が多少なりともあるのだとしたら、いろんな面で甚大な悪影響を及ぼしかねない悲劇だと思えてしまうのです。

「いや、付き合うのに緊張する必要はないけど要領の悪い国だよね」ぐらいに思ってもらえてるならまだマシだといえるでしょうかねぇ?
ホント、カッコ悪いけど・・・。


でも、4日ニュースを見ないと、ホントにいろいろあったんだなといつもつくづく思います。世の中退屈しませんよね。


そしてこの缶詰状態が少し多くなりそうなのであります。
このバックステージでもメインステージのあおりを食って先日付が増えると思います。また、コンテンツ量・質ともに維持できないようになるかもしれません。
でも、楽しみなので努めてコツコツやっていくつもりなので、よかったらまた遊びに来てやってくださいまし。(^^)/


※てなわけで諸般の事情で先日付投稿しています。

塵芥車の火事

2007年04月28日 00時00分00秒 | トピックス
●マエリさんの記事みたいで恐縮ですが、今さっき出張からヘロヘロになって帰ってきて、書置きもネタも気力もないので緊急避難的記事を一本・・・。

火曜の朝、出張に出かけるため「正に家を出る」という時に外で癇癪玉を破裂させたような音がしたので、5階の玄関から下を見てびっくり。

塵芥車が煙を上げていて、時折格納しているゴミの中で何かが爆発しているような音がしたかと思うと、時折炎まで吹き上げているではないですか。

そこで、持ってた携帯で写したのが冒頭写真です。

何が中に入っていたため爆発したのかはわかりませんが、消防自動車まで来て泡状の消化剤で消し止めていた模様です。

分別をちゃんとしないといけないということなんでしょうね。

携帯で燃えてるところのビデオまで撮ってしまったことはナイショです。
ますます誰かさんみたいだと思われてしまうから・・・。

ちなみに、その日の朝は不燃ごみ収集の日だったのですが・・・・・・そんなこんなで慌てて家を出たため出し忘れました。
念のため申し添えます。

フランク : 前奏曲、フーガと変奏曲

2007年04月27日 00時00分08秒 | 器楽・室内楽関連
★セザール・フランク:ピアノ五重奏曲とピアノ作品集
                  (演奏:アリス・アデール(p)、アンサンブル・アデール)
1.前奏曲、フーガと変奏曲 作品18 (ピアノ編曲版)
2.前奏曲、コラールとフーガ
3.ピアノ五重奏曲 ヘ短調
                  (2002年録音)

前記事でフランクのヴァイオリン・ソナタのディスクを取り上げながら、また3本の指に入るぐらい好きと言いながら、その内容にはほとんど触れませんでしたねぇ。
てなわけで、罪滅ぼしにフランクの特集をしようと思いたちました。

要するに『前奏曲、フーガと変奏曲 作品18』という絶品の名曲をご紹介しようという趣向であります。(^^)v
お気をつけ願いたいのは、『前奏曲、コラールとフーガ』ではありませんということです。もちろん、これも泣く子も黙る名曲であると思うのですが、そこはそれ、久しぶりに天邪鬼を発揮してですねぇ・・・。

これは、フランクがまだ比較的若い頃に書かれた曲で、元来はオルガン曲であります。
プレリュードの旋律はごくごく簡素なメロディーですが、実に痛切に哀切の情を漂わせるものであります。
この部分を聴いて「おっ」と思わない方は、多分私とは音楽的感性が合わないなと思えるぐらい印象的なメロディーなのです。もちろん、オルガンとピアノではその聴こえ方もやや違うんですけどね。
そして中間部はフーガとなっていますが、むしろ和音の壮麗さを感じさせる部分であって、その後単旋律のフーガらしい経過句を経て最後のパートの変奏曲へ流れていく構成になっています。
その変奏曲のテーマには冒頭の旋律が回帰します。変奏曲となっていますが装飾が若干違うぐらいで、私の耳にはあまり派手に変奏されているという感じはしませんのですが・・・。作った人が「変奏だ!」というからには変奏曲なのでしょう。

ともあれそんなこの曲に惚れ込んだいろんな人がピアノ用に編曲したものをご紹介したい、とこういうことであります。
(あるいは ―私は知りませんが― 他の楽器用に編曲したものももしかしたらあるのかもしれませんが・・・。)

まずは、編曲者とピアノは不詳ですがアりス・アデールが弾いたディスクであります。
この演奏の最大の特徴は、音色そのものの佇まいであります。
このアデールという人は、現代音楽でも広くその菜を知られている存在のようです。私は、このフランクの他はブラームスとドビュッシーしか知りませんが、いずれもその音色そのものに注意を促されます。

書の世界でいうなら、字や書全体から受ける感覚・イメージというものよりも、一点一画の線・点の美しさが傑出しているといった風情なのです。
それも楷書のように平凡な型にはまったものではなく、とはいえ一画一画が個性の刻印を押されているようなものなので、『隷書』とでもいったらいいんでしょうか。

冒頭のメロディー・ラインやその和声の左手のニュアンスなど、木製の木目濃やかな触感といった音といった感じがします。
それは、クリアに音が放たれているのにもかかわらず、その音触に仏像のアルカイックスマイルをイメージしてしまうような響き・・・。
もちろん、そのような音の積み上げられた空間が密度の低いはずがなく、無垢でありながら濃密な感じのするアコースティックな音世界が繰り広げられていきます。

そしてフーガにおいては、そのくっきりした音色そのものを轟かせるように世界を描いていきます。ベートーヴェン的に構築的という感じではないのですが、楽曲の構成はとても堅固です。そしてそれが曲調に非常にマッチしているために、素晴らしい解釈の演奏だといってよいと思います。

もちろん、この特質は『プレリュード、コラールとフーガ』にも最適であり、同曲のもっともコクのある演奏だと私は思っております。

ピアノ五重奏曲も同様の美質は感じるのですが、もう少しその良さを理解しないとコメントのしようがありません。もうすこし、聴きこんでみたいと思っております。


★セザール・フランクと一緒のクリスマス
                  (演奏:イェルク・デームス)

1.プレリュード、フーガと変奏曲 (1899年製エラール・コンサート・グランド使用)
2.プレリュード、コラールとフーガ (1880年製エラール・コンサート・グランド使用)
3.18のスピリチュアルナ前奏曲集 (1913年製シートメイヤー・サロン・グランド使用)
4.プレリュード、アリアと終曲 (1913年製スタインウェイC使用)
                  (1993年、2004年録音)

このディスクのタイトル訳は私がしました。フランス語翻訳サイトで調べた直訳であります。
まぁ、ジャケットのデザインを見れば整合しているように見えるので勘弁してください。
ちなみに、ウムラウトとか無しで表記すると原題は“NOEL AVEC CESAR FRANCK”であります。(^^)v

さらに副題があって、これは英語表記なので訳のみ書きますが“イェルク・デームズ、3つの歴史的ピアノを弾く”となっています。
よく見るとピアノは確かに3つのメーカーのものではあるけど、曲ごとに全て弾き分けているので4台のピアノを使用しているんですよねぇ・・・。
この辺、やはり謎です・・・。
ジャケットの解説はデームス自らが筆をとっていて(フランス語と英語なのでよくわからん)、何よりピアノの写真が貴重だと思えました。もちろん、CDですから聞いただけではわかりませんが、冒頭の『プレリュード、フーガと変奏曲』で使用されているエラールは金色の装飾が施された白いピアノであります。
年季の入った白いピアノで演奏されていると思うだけでも、味わいがいや増すのは単なる思い込みだとわかっていても趣深いものがあります。

そしてその白いエラールで弾かれている『プレリュード、フーガと変奏曲』はこれも絶品なのであります。
この編曲はデームスその人の手になるもの。この版は我が国でも出版されているようで、アルゲリッチ肝煎りの我が国のピアニスト広瀬悦子さんのデビューCDにも収められていましたね。
彼女の演奏を聴いた時の印象では、稀有壮大に弾かれていたようにおもいます。あと、密度がそこについてきたら彼女も大ピアニストになれるんでしょうね。「先が楽しみじゃわい」と思ったものです。(^^)v

そして、肝心のデームス本人の演奏は時代楽器であることもあってか古色蒼然としています。
今の楽器と比べると少し音色がパサついているというか不安定なのですが、適度な響をペダルで、そして録音のマイクセッティングで加えて、旨みまろみを感じさせる音色にしています。

この演奏ですと、プレリュードはあくまでも前奏曲であるということがわかるような気がします。
何が違うというわけではないのですが、きわめて小規模・コンパクトにまとめられて中間部の和音に突入するように思えるのです。それも、きちんとプレリュードの最後で一拍おいておもむろに「ここから本編ですよ」といった風情で・・・。

広瀬さんのようなスケールの大きさは感じさせませんが、切迫した充足感とでもいうものが伝わってきます。また、緊張するわけではないのですが、どこにも弛緩するところがないという、名演によくあるパラドキシカルな背反する事柄の両立が聴き取れるように思います。

ピアノを代えて弾かれている『プレリュード、コラールとフーガ』も大変な名演だと思います。

『プレリュード、アリアと終曲』はずっと前に録音されていたものをこの中にフィルアップで付け加え、フランクのピアノの大曲を網羅する企画にしたのだと思いますが、スタインウェイで弾いているとはいえシートメイヤーのピアノとほぼ同時代の楽器ですからねぇ・・・4つの歴史的ピアノを弾くでもよかったんじゃないかと・・・。


★フランク:前奏曲、コラールとフーガ 他
                  (演奏:ポール・クロスリー)

1.前奏曲、フーガと変奏曲 作品18 (編曲:ハロルド・バウアー)
2.前奏曲、コラールとフーガ (1884)
3.ゆるやかな踊り (1885)
4.前奏曲、アリアと終曲 (1886-1887)
5.コラール第3番 (1890)(編曲:ポール・クロスリー)
                  (1993年録音)

私がこの曲に触れて感銘を受けた盤です。このバウアー版が最も有名なトランスクリプションであるようですね。

この演奏の感想は、よく言えば慎ましく思慮深い演奏。それなりに憂いと奥行きを伴っていて、当初聴いたときのイメージからは味わい深い演奏だと思っていたのですが・・・。
今あらためて聴いてみると“ネクラ”に聴こえる・・・。うーん、どうしちゃったんだろう。

何はともあれハロルド・バウアー版はこの演奏しかないので、編曲のせいなのかもしれません、とかいいながら、『前奏曲、コラールとフーガ』などの有名どころの演奏についても同じ感想を持ってしまったものだから、版のせいではないのでしょうな。

本当に心が疲れてしまったときに聴いたんだとしたら、そっと心の内に沁みてきて温かなキモチを呼び覚ましてくれるかもしれない、マッチ売りの少女的演奏ではないか・・・と言っておきましょうか。。。


★フランク:グレート・オルガン・ワークス (2枚組)
                  (演奏:マリー=クレール・アラン)

1.英雄的作品
2.カンタービレ
3.幻想曲イ長調
4.交響的大曲 嬰へ短調 作品17
5.パストラール ホ長調 作品19
6.幻想曲 ハ長調 作品16
7.前奏曲、フーガと変奏曲 作品18
8.コラール 第1番 ホ長調
9.コラール 第2番 ロ短調
10.コラール 第3番 イ短調
11.祈り 作品20
12.終曲(フィナーレ) 変ロ短調
                  (1995年録音 サン・エティエンヌ教会のカヴァイエ=コル・オルガンによる演奏)

これを聴くと、この曲がオルガンのための曲だとわかります。
しかしフーガ部分の冒頭のオルガンの持続音の効果たるや絶大ですなぁ~。スペィシーって感じまでする・・・。
マジで宇宙と交信しようとしてたんじゃないかと思わせるほど、空間感・世界観に違いがあります。
こんな技はピアノじゃゼッタイできんけんね。

要するにピアノに編曲するということは、オルガン曲としての適性を切り捨てて、旋律などを生かしてピアニスティックな曲として再構築するということなのかもしれませんね。

マリー=クレール・アランという人は、この楽器の世界での女王的存在であると認識しておりますが、化け物的機械楽器だと思えるオルガンを知り尽くした方のようですね。
ストップやレジスターの選び方なども普遍的で当を得たものだと感じました。


というわけで、あれやこれやとご紹介してきましたが、フランクのこの名曲がさらに人口に膾炙するものになったなら、世の中捨てたモンじゃないと思えるようになるかもしれません。
なんとなれば、この曲は人としての心のありようやうつろいを表現した名曲であるから・・・私はそう信じています。



※出張のため、先日付投稿しています。

神話

2007年04月26日 00時00分00秒 | 器楽・室内楽関連
★フランク:ヴァイオリン・ソナタ 他
                  (演奏:カヤ・ダンチョフスカ(vn)、クリスティアン・ツィメルマン(p))
1.フランク:ヴァイオリン・ソナタ イ長調
2.シマノフスキ:神話 作品30
3.シマノフスキ(コチャンスキ編):ロクサーナの歌 ~歌劇《ロージェ王》から 
4.シマノフスキ(コチャンスキ編):クルビエ地方の歌 ~ポーランド民謡の旋律による
                  (1980年7月録音)

先般、没後70周年の作曲家特集で採り上げたシマノフスキの“神話”が課題曲です。
何故ここで紹介しようと思ったかというと、この土日に留守宅に帰ったときに長男と次男が「クイズです。」といって寄ってきていうことには、「大神ゼウスの・・・・・」とか「冥府の番犬の名前は?」とか訊いてくるではありませんか。
てっきり、ポケモンのナントカというような出題しかないと思っていた私は、ギリシャ神話などを出典とするこれらの質問に「わからない」と答えて、説明させてみたところ、日本語はアヤシイながらも、ちゃんと内容は正しく覚えているわが子に感激してしまったのであります。
毎晩、寝る前に「星座のはなし」という本を読んでるんだそうです。エライぞ!!

先ほどの子供の質問には、実はマジで答えられない質問もあったんですけどね。(^^)v


それにしても、ペルセウスの件で、大神ゼウスが牢に閉じ込められたダナエの許に黄金の雨となって訪れペルセウスを身ごもらせた話を淡々とされた時には、ちょっとビビりましたねぇ。
まさか、クリムトの例の絵を子供に見せて説明するわけにも行かないので・・・。
子供も、「大神ゼウスってエロいんだよね!」と無邪気に言っておりますが、何をどこまで分かっているのかコワいですね。
てなわけで、とっととメデューサの首を取った話に進ませましたけどね。
子供の教育上、神話に出てくる神様にはもっと品行方正にしてもらいたいモンです・・・なぁんてね。

私もこのテの神話は小さい頃からよく本で読んでいたのですが、どんな意味かがわかったときは・・・・・・ナイショです。おおよそ親の目を盗んで11PMを見るようになってからかな。(^^)v


さてさて、この“神話”という曲はここで演奏しているツィメルマンが“仮面”“メトープ”と並んでシマノフスキの美しい3曲と言っていたうちの1曲であります。
3曲のうちでは、この曲のみヴァイオリンとピアノにより演奏される曲。
当然ながら神秘的な魅力をたたえた曲であります。なんてったって神話なんだから・・・。

この曲は、アルトゥーサの泉、ナルシス、ドリアデスとパンの3曲からなり、なんといっても第1曲アルトゥーサの泉は小品集などで採り上げられることも多いヴァイオリンの名曲として名高いものだと思います。
で、長岡で見つけたナルシス(水仙)の花です。
        

帰省時、桜は既に終わってしまっていましたが、いろんな種類のナルシスの花がそこらじゅうで美しく咲き誇っていました。

ダンチョフスカというヴァイオリニストはこのディスクでしか知りませんが、幻想的で冷ややかな音色を持った奏者ですね。この類稀な伸びやかさを雄弁なヴァイオリンというかどうかはわからないのですが、醸し出す雰囲気は抜群だと思います。

そしてツィメルマン、1975年のショパン・コンクールで優勝した5年後ですから、現在の鮮烈なタッチとはちょっと違います。
1990年ごろは凄くスタイリッシュなタッチだと思っていましたが、今や“かまいたち”が起きそうなぐらい切れてますもんねぇ。
そんな過渡期の演奏ですが、すでに雰囲気を湛えるには充分すぎるほどの表現力を身につけており、ダンチョフスカと相性バッチリではないかと思います。

併録されているというか、むしろメイン楽曲であるフランクのヴァイオリン・ソナタも、今のツィメルマンなら迸り出てくるであろうあらゆる意味に於ける“凄み”はなくとも、若々しい表情に溢れた佳演であることに間違いありません。
数あるこの曲の演奏の中でも、指折りの名演奏・・・そうでなければ、私にとっての3本の指に入るお気に入りの演奏であります。
あとの2本はいずれまたご紹介しましょう。(^^)/


★シマノフスキ/エネスコ/バルトーク:ヴァイオリン作品集
                  (演奏:イダ・ヘンデル(vn)、ヴラディーミル・アシュケナージ(p))

1.シマノフスキ:神話 作品30
2.エネスコ:ヴァイオリン・ソナタ 第3番 イ短調 作品25 《ルーマニアの民族様式で》
3.バルトーク:ラプソディ 第1番
4.バルトーク(セーケイ編):ルーマニア民族舞曲
                  (1996年録音)

去年の11月19日にアップした記事に、このディスクは既に紹介してあるので詳しくは触れませんが、ダンチョフスカ/ツィメルマン盤と比べるとずっと地に足が付いた演奏になっています。

ヘンデル女史の独特な粘りのある音色(ダンチョフスカも粘りがあるけどちょっと違う)やトリル、アシュケナージの穏健なピアノ・・・すべてがこの世で起こっている出来事であると感じられるように弾かれているのが、上記アルバムとの相違点であると思います。

この辺のニュアンスは聴いてもらわなきゃわかりません、と言ってしまっては書く価値がないのかもしれませんが、まぁ毎度のことながら、お気に入りのディスクをご紹介させていただいたということで・・・。(^^)/


ところで全然関係ありませんが、さだまさしさんに“神話”という歌があります。
アコギ一本、4capoの3フィンガー奏法で歌の伴奏は通されるのですが、何といってもさださんといえばヴァイオリンのソリストを目指していたかた・・・。
“アルトゥーサの泉”なんてのは、実はオチャノコで弾けちゃったるするんではなかろうか?

この曲が収められているアルバムのタイトルが“印象派”であるということは、さださんはきっとシマノフスキを印象派の作曲家だと捉えていたに相違ない!!

というのは、私の穿った見方でしょうかねぇ? (^^)/


※出張のため先日付で投稿しています。

ロマンスカーVSE

2007年04月25日 00時02分00秒 | ピアノ関連
先般出張の帰りに、小田急のこの電車に乗りました。
ひとくちに小田急の特急“ロマンスカー”といってもデザインには相違があるようで、いわばこのロマンスカーは“当たり車両”であるといえましょう。

小さい頃に本かなんかの写真でこの電車を見つけたんだとしたら、まずスタイルに凄く感激して目をうるうるさせながら「のりてぇなぁ~」なんて思ったかもしれませんけどねぇ。
今は、乗ってしまったら外観は見えないということに気づいてしまったモンで・・・ヒネた大人になってしまったものです。(^^)v

ただ、何よりこのロマンスカーVSEは通常のロマンスカーより客席が広いし、天井のライトがなにかホテルの貴賓席みたいなイメージでゴージャスなんです。
小市民の目線から見ると結構リッチになった気分を味わえて、いつも乗ってる通常のロマンスカーがダサく思えましたね。
同じ料金なら、やっぱりこっちに乗りたいモンです。

出張のときいつも思うことは、箱根行きだからある程度しょうがないですが、こっちが仕事でいろいろ考え事をし資料を整理しながら乗っているすぐ横で、傍若無人なご婦人方の黄色い声が散弾銃のようにばら撒かれているのには辟易してしまいますねぇ。
せっかくお品のよろしいお召し物を身にまとって行楽地にお向かいになるんでしたら、もっとお品よく車内で談笑されればもっと気分がおよろしくなると思うんですけれども・・・。
3月18日から全車禁煙にしたついでに、●●デシベル以上の会話禁止とか規制を作ればよかったのにね・・・と思う、おじさんがたもそれなりにいると思いますけど。

それに、平日の行楽ってなぜ、ああもご婦人の団体さんばっかりなんでしょうか?
ダンナは多分私と場所こそ違え、業務に勤しんでいると思うんですけどねぇ。

さてさて、先日テレビを見ていたら電車についての話題を云々していた番組(がっちりなんとか)をやっていました。
そこでは、昨今地下鉄に乗り入れて特急料金を得るビジネスモデルが好調だそうで、地下鉄にも乗り入れられる若干小さめの新型ロマンスカー開発されているという話題が展開されていました。

先にも記したとおり小さい頃、ありとあらゆる飛行機や電車、果ては戦艦大和と武蔵の違いがわかるような絵を書いて喜んでいたものとしては、新型のかっこいい車両が出来るのであれば是非とも見て、(そうはいっても)乗ってみたいですね。

昨今むしろ、1970年代よりもカッコいいと感じるデザインの車両が減っているようにも思えるので。当時の車両を今見ると時代がかって見えるのですが、あのころは本当にそのスタイル・デザインにトキメいたものです。

オーディオもこのところこぎれいなものは多くなってきましたが、デザイン重視でも重厚長大でもいいからこれはというコンセプトと持った私の嗜好をくすぐるような製品をつくってほしいですね。
なかなか買えるわけじゃないけど、ステレオ・サウンド誌で鑑賞するだけでも楽しいですから・・・。

ちなみに、私がオーディオ製品でこのデザインは卓抜であると感じたものはマーク・レヴィンソンの“LNP-2L”とB&Oのリニアトラッキング・アームのレコードプレーヤー“ベオグラムなんとか”というもの、その後は月並みですがボウ・テクノロジー社の“ZZ-ONE”と“ZZ-EIGHT”ぐらいでしょうか。
ボウ・テクノロジーの2種は生産中止のようですが、新品があるのならほしいと思いますねぇ・・・今でも。お金ないけど。
スピーカーでは、アポジーの“シンティラ・シグネチャー”なんかがカッコよかったと思うけど、静電型のスピーカーの音はやはり少し好みと違うので・・・。
声楽の場合は無敵だと思うんですけどねぇ・・・器楽を聴くことが多いのでやはり選ぶ候補には入れられないんでしょうね。これも、すでに生産中止のようですが・・・。

電車の車両にせよ趣味の嗜好品にせよ、自分の目で見極めた一流を楽しむこと。
これが男の“ロマン”・・・す。

★ロマンス
                  (演奏:田部 京子)

1.シベリウス:ロマンス
2.ドビュッシー:月の光
3.プーランク:即興曲第15番「エディット・ピアフへのオマージュ」
4.グリーグ:アリエッタ ~ 抒情小曲集より
5.メンデルスゾーン:デュエット ~ 無言歌集より
6.ボロディン:ノクターン
7.リャードフ:プレリュード
8.シューベルト:セレナード
9.アルベニス:パヴァーナ・カプリチオ
10.ラヴェル:亡き王女のためのパヴァーヌ
11.ムソルグスキー:涙
12.ラフマニノフ:ヴォカリーズ
13.ブラームス:ロマンス
14.バッハ:シチリアーノ
15.エルガー:愛の挨拶
                  (1998年録音)

ムリのあるギャグを続けるのはやめて、素直に田部京子さんの“ロマンス”と題するアルバムをご紹介します。

どこまでも私達が立っている地平からのアプローチであると感じさせられるのが、このアルバムの最も好感の持てるところであり、なかなかありそうでない企画・演奏だと思うのです。
いきおいチョーゼツとか霊感とか神がかり的なものを求めがちになるんですけど、こういう地に足をどっしりとつけた、真に生きるための糧として必要な演奏が欲しいときってありますよね・・・。

シューベルトのセレナードにしても、ラフマニノフのヴォカリーズにしても何故か「♪~ きょぉとぉ~ お~はら さんぜんいん」に通じるノリを感じてしまうのは、田部さんおよび私が紛れもなく日本人であるからに他ならないと思います。

彼女には、デビュー当初のメンデルスゾーンやシューベルトの変ロ長調ソナタD960などではかわいらしさがあったけれど、その後近くに寄れないほど強面になっちゃった・・・というようなイメージを持っていると前に書いたことがありますが、この演奏でもプロフェッショナルに徹した演奏をされています。

でもでも、ここではコンセプトと曲の性格のためか決して敬して遠ざけるようという気持ちは起きませんです、はい。
有名無名を問わず、心地よく語りかけてきてくれる演奏・・・ですね。ナルシスティックでちょっとキツめの美女から・・・「ロウラクされるのも悪くない」みたいな・・・。

一曲選べといわれたら・・・音色のグラデシーョンの美しさでグリーグのアリエッタがいいかな。(^^)v



※出張のため先日付で投稿しています。

ちょっとした疑惑

2007年04月24日 00時00分00秒 | トピックス
憶測を含んでいるのでナンですが・・・。

先日、とあるスーパーマーケットへ行ったところマーケット・リサーチの一環だと思うんですが、館内放送で「レジにてお客様の自宅の郵便番号を聞くので協力してください」という旨のアナウンスがありました。

果たして清算しようと思ってレジに並んでいると、係りの方がお客様からお金を受け取る際にその旨を尋ねて、レジに入力しておられる・・・。
外国のかたと思しき人にも尋ねてみえましたが、「覚えていない」という回答で「失礼しました」と愛想よく受け答えしていてそれはそれでよかったのですが・・・。

何人かのうちに質問を投げかけない人がいる。
よく見るとその方々はカードにて清算されているようでした。そのスーパー専用のハウスカードがあるので、それをPOSシステムで読み込めば自動的にお客様の住所がわかるということなのかもしれません。

私はハウスカードを持っていないのですが、いつも同様にマスター・カードで清算したところ我が家の郵便番号は尋ねられませんでした。

瞬間、「クレジットカードの情報を引くことができるのかな?」という思いが頭をよぎりましたが、個人情報保護法に照らすとそんなことはできないはずだと思うのですが・・・・・・。
それを参照すると新潟県の住所になっちゃいますよ~だ。

係りの方が単に忘れただけなのか、それとも・・・??? ちょっと気になるところです。



『王様の耳はロバの耳』と思し召しくださいませ。(--;)

ブームとは何か?

2007年04月23日 02時03分25秒 | オーケストラ関連
★ブラームス:交響曲第1番 ほか
                  (演奏:千秋真一指揮 R☆Sオーケストラ)
1.ブラームス:交響曲第1番 ハ短調 作品68
2.ドヴォルザーク:交響曲第8番 第1楽章(間違い探しスコア版、スプラフォン版の2種)


なんてすっきり爽やかなブラームスなの!?

・・・・・・っていう感じですね。

明らかに「若々しく生気にあふれた音楽をしよう!」というコンセプトで演奏されているように思われます。
ここでの“生身の千秋真一”なる指揮者は、“のだめ”だからこのような解釈を採り劇中の千秋真一になりきってかかる演奏内容にしたのでしょうか?
それとも、自身この解釈がブラームスに相応しいと考えてのことだったのでしょうか?

前者に違いないと勘ぐっているのですが、演奏の出来栄えとしては心地よい緊張感もあって、これもありだと思わせられました。
ただし「まあ、こんなもんでしょう」ってのがホンネではありますけどね。この曲にはもっと苦みばしった旨みがあるんですよぉ~なんて思ったりして。
まるで「秋刀魚のハラワタを食べずして・・・」云々と仰るおっさん状態ですな。
とはいうものの、わたしゃ食べれませんけどね。(^^)v


何で私がこんなもの持ってるかって?

私は持っていませんよ。かみさんのディスクです・・・。
ちなみに、かみさんは既にのだめには飽きてしまったとかで持っていた単行本やDVDをすべて手放してしまったようです。

この土日長岡の留守宅へ戻ってかみさんと話していた時に聞いたのですが、いっしょに聞いていた娘が、まだ全部読んでいなかったらしく“ひーん”という顔をしていたのがかわいそうでした。

いわゆるブームというのはこういう現象を言うのだなと、勉強になったできごとでした。


4時間バスに揺られて帰ってきて、いただいたコメントへのレスに力がはいってしまったので、今日の記事は軽めにさせていただきました。
何かこうアカデミックな感じっていいですよね。(^^)v

私の音楽殿堂(スティーヴン・コヴァセヴィッチ)

2007年04月22日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集(Ⅱ)
                  (演奏:スティーヴン・コヴァセヴィッチ)
1.ピアノ・ソナタ 第24番 嬰ヘ長調 作品78
2.ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 作品53 “ワルトシュタイン”
3.ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
                  (1992年録音)

フレイレを殿堂入りさせておいてコヴァセヴィッチをさせないことは許されないと考え、ここに正式に表明することにしました。(^^)v
繰り返しますが、特典も権威もなんにもありません。ただ、私が好きで愛好しているよということだけです。

アルゲリッチの共演者としての記事でも述べたとおり、この方は昔は相当奔放というか天衣無縫な“剛”の弾きかたをしてらっしゃったかたです。
それが人間年とともに出来てきて・・・というか、人柄を反映して深みと味わいも表現できるようになったという気がします。
最初天才的にトンガった演奏をセンスのよさでバランスをとっていたのが、自分の意思でコントロールして聴き手の誰もがすんなりとカンタンに曲の世界に入ることが出来るように仕込めるような技を手に入れたのではないかと思うのです。

具体的には、強靭なタッチ、どんなに精神が酔っ払っても(曲の世界にトランスして没入してしまっても)その心のありようを正しく伝えることが出来る透徹した演奏家魂から繰り出される無意識のフレージング・・・作品のどの世界へ行ってもヴェルギリウスのように付いていてくれるコヴァセヴィチがいれば怖くないという感じで、ダンテになった気分でベートーヴェンの世界に遊べます。

これは全集の中で最も好きな一枚。作品110が入っていることもさることながら、選曲がいいと思います。
そしてその作品110が文句なし。嘆きの歌~フーガが繰り返され、最後“楽譜どおり”に演奏されているだけなのに、圧倒的な大伽藍がこんなに壮麗に建設される演奏は他にありません。

★ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全集
                  (演奏:スティーヴン・コヴァセヴィッチ)

1.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ全32曲
2.ベートーヴェン:バガテル集 作品119・作品126

収録されているソナタすべてにコメントしてたらきりがないので、最後の作品111のみに限りましょう。
これも絶品なのです!!
コヴァセヴィッチは全集を編んでいる最初期にこの作品111を録音していたのですが、このボックス・セットによる全曲集をまとめてリリースするに当たってこの作品を再録音しているようです。

全曲録音展開時には32曲満遍なくプログラミングして1枚ずつを編んでいっていたのですが、このソナタ全集+バガテル集のボックス・セットは一部の例外を除いてソナタの番号順になっています。
そしてこの作品111だけが独立して、バガテル集と一緒にされているのですが本当に共感できる演奏なのです。

たとえブレンデルがベートーヴェンの最新のソナタ全集で弾いているピアノの音の方が潤いがあって、録音も良かったとしても、またその演奏の解釈が聴き手を飽きさせない(本人が弾いていて飽きない?)工夫が随所にあり、誰にも受け入れられるであろう思索の昇華であったとしても・・・コヴァセヴィッチのは次元が違うと言っちゃいましょう。

理由はブレンデルの演奏(これも大好きなんですよ!)は最高の作り物であるのに対して、コヴァセヴィッチの演奏は作り物ではないからです。
この意味でブレンデルの演奏のほうが作りこまれているのですが、作りこまれていればいるほどコヴァセヴィッチの良さが際立っちゃうんですねぇ~、これが。
もちろん、作りこまれているほうが完成度は高いのでしょうが、北斗の拳の“夢想転生”よろしくそのような境地で没入されて演奏されてしまったときには、そこには作り物からではどんなに立派なものでも産み出せない、魂丸ごと持ってかれちゃうような魔性が宿るように思います。

それほどまでにこの差し替えたほうの作品111の演奏はスゴイんです。
平常心でありながら完全にこの曲の世界にトランスしていて、「曲を弾くのではなくて、曲と共にある状態が手に取るようにわかる感じ」といえばさらに伝わりますでしょうかね・・・。

以前高橋多佳子さんのブログに「ピアニスト界の“ケンシロウ”は誰か?」と書き込みをしたことがありますが、ベートーヴェン弾きに関してはコヴァセヴィチで決まりという感があります。
そういえば、ラオウの葬式がマジであったらしいですね。
今のピアノ界でベートーヴェン演奏に覇を唱えているのはやはりブレンデルだと思いますが、長生きしてくださいね。(^^)v
なんと言っても、私がピアノ音楽に最初に触れたときのLPレコードはブレンデルの“悲愴・月光・熱情ソナタ”のカップリングだったわけですから・・・。あなたこそ、1番最初のお師さんなんですからね・・・とサウザー流の言い方になったりする私。


★シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番
                  (演奏:スティーヴン・コヴァセヴィッチ)

1.ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D.960
2.12のドイツ舞曲 (『レントラー集』)D.790
3.アレグレット ハ短調 D.915
                  (1994年録音)

ベートーヴェンが言葉もないほど素晴らしいと思って書き始めた記事ですが、言葉がない割にはぐだぐだ書いたもんだなぁと感じております。
で、他にはいいディスクがあるのかというときに、実はこのディスクを思い浮かべたのですが最初はあまりいい印象を持たなかったディスクなのです。

なにかしら、もやぁ~んとした雰囲気が徹頭徹尾感じられ、コヴァセヴィッチのよさに気づかなかったというのが正解なのでしょう。
いや、当時の私ではこの演奏の良さを感得することができなかっただけであるのかもしれません。果たして、10年余にわたり事実上お蔵入り状態になっておりました。

それがこうしてベートーヴェンを礼賛したついでに聴き直して紹介しようと思ったら実にいいことに気づいた・・・というわけです。
第一楽章のテンポこそやや私のイメージより速めとはいうものの、先に述べたフレージングの妙が潤沢な響きの中に、コク・うまみのすべてを伴って収められています。
本当に旋律が今そこで生まれたものが天衣無縫にあふれ出てくるという感じで進行していくさまは、それを聞き取ることの出来るようになった私の耳にはとても抗しがたい魅力をたたえています。

演奏家が奏楽にこめたものを如何に汲み取ることが出来るかの試金石となるようなディスクであるのかもしれません。
40種余のシューベルト変ロ長調ソナタのディスクを味わう経験をしたことで、私にも感じることが出来るようになった世界がここにあると思います。
“レントラー集”“アレグレット”に至るまで一貫した空気に支配され、この世への郷愁とも哀愁ともつかない独特の魅力にあふれた作品です。

そんなディスクの内容の素晴らしさが“実は”突出していたこともさることながら、かつての自分との感じ方の変化にも驚きを覚えた一枚です。


★ブラームス:ピアノ協奏曲 第1番
                  (演奏:スティーヴン・コヴァセヴィッチ(p) 
                       ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
                        アン・マレイ(アルト)・今井信子(va))

1.ピアノ協奏曲 第1番 ニ短調 作品15
2.アルトのための2つの歌 作品91
   鎮められたあこがれ  作品91-1
   聖なる子守唄     作品91-2
                  (1991年・1992年録音)    

これは確かにフレイレの演奏のほうが聴きやすいとおもいますけどね・・・。(^^)/

でもこのディスクはアメリカではグラミー賞にノミネートされ、イギリスではグラモフォン賞などに輝いているという大名盤。
コヴァセヴィッチって「勝ち得た称号はあんまり聞かないけどとても凄いピアニスト」であると位置づけてきた私にとっては、珍しく語るべき権威を纏ったディスクであります。
とはいえ、我が国では人口に膾炙しているとはとても思えないのである意味しめしめと思っていたりもするのですが・・・。

どうにもこうにもサヴァリッシュがパートナーですからねぇ。カタイわけですよね。
ピアノはどっちかというと瑞々しくも静かに燃えているという感じでしょうか。

というわけで、ここでは歌伴の素晴らしさについて一言!
何かの解説にも書いてあったのですが、ソリストが本気で共感に基づき歌伴を演奏したら、ヘタな伴奏者はひとたまりもないということが実感できる奏楽です。
今井信子さんのヴィオラの音も含めて、プロ凄し! ソリスト恐るべし!!

アルゲリッチのピアノ・デュオ・パートナー

2007年04月21日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★バルトーク:2台のピアノと打楽器のためのソナタ 他
                  (演奏:マルタ・アルゲリッチ、ネルソン・フレイレ(p)
                          ペーター・ザードロ、エドガー・ガッジーズ(打楽器))
1.バルトーク:2台のピアノと打楽器のためのソナタ Sz110
2.ラヴェル(ザードロ編):マ・メール・ロワ (2台のピアノと打楽器のための)
3.ラヴェル(ザードロ編):スペイン狂詩曲 (2台のピアノと打楽器のための)
                  (1993年録音)

アルゲリッチは、私の記憶によるとシューマンのクライスレリアーナのディスクを最後に、ソロとしての録音を残していなかったと思います。
ライヴでも基本的には殆どソロをやっていないのではなかったのではないでしょうか?

理由はいろいろ取り沙汰されていますけど、ここで紹介するようなピアノ・デュオや室内楽、コンチェルトなどは、新録の需要に対して供給が極めて少ないとはいえないわけじゃないんで、“ソロの録音がイヤ”と考えて間違いないと思います。
私も「そんなこといわずにぃ~」とすがりつきたいような思いでありますが、本人がヤダってんだからしょうがないですね。

逆にここに紹介するパートナーたるピアニストの皆さんは、彼らがいてくれたからこそアルゲリッチの音色にも触れることが出来るという意味で、ある意味感謝しなければならない存在のかたたちであるかもしれません。
フレイレはつい先日特集しましたし、それぞれが個性豊かな名ピアニストですね。
この記事は、もうお察しの通りフレイレの記事を書くにあたってベートーヴェンの“ピアノ・ソナタ第31番”をコヴァセヴィッチのそれと比較したときに思いついたものです。
そしたら、バルトークの“2台のピアノと打楽器のためのソナタ”も異父兄弟のように録音されていたので、図らずも聴き比べができてしまいちょっと楽しかったですね。

相対論になりますが、ここでの演奏はじっくりと聴かせるような演奏になっています。
まず打楽器奏者はこちらのザードロたちのほうが思慮深いメンツだと感じます。そして、フレイレとの掛け合いにあってもよい意味で大人の演奏という感じなのです。
とはいえ、バルトークの作品でありますから曲本来のエキサイティングさは感じますが、直截ではない・・・ということです。

呼び物はラヴェルの打楽器付きの編曲版ということになりましょうが、ラヴェルって生前こういった試みを嫌ってたんでしたよね。
演奏家は作曲家の奴隷だというようなことも言ってたようだし・・・。

でも、“マ・メール・ロワ”などのエンディングにおいてオーケストラにも匹敵するような広がりを感じさせる(これは絶対に人間の虚をついた錯覚であり、悪く言えばそれまでの静謐さとの対比でだまされているんだと思いますが)編曲の妙などはこの版ならではのものであると思うので、「ラヴェル先生カタイこと言わないでね!」と好意的に受け入れることにいたしましょう。(^^)v

私にとってのこのディスクの聴き所は、自然体でいながら二人でここまで沈潜した表現が出来るということでありました。ピアニシモとか静謐なパートを精妙にコントロールする方が華々しく2台のピアノを鳴らすことよりも難しいだろうし、感動を呼ぶものですね。

というわけで、“マ・メール・ロワ”に惹かれた一枚でありました。

そうそう、このディスクを冒頭に持ってきた理由は、ジャケットにムサイおっさんの写真が写っていないこと・・・それだけです。
(^^)v


★バルトーク・モーツァルト・ドビュッシー
                  (演奏:マルタ・アルゲリッチ、スティーヴン・ビショップ・コワセヴィッチ(p)
                          ウィリー・ハウドスワールト、ミカエル・デ・ルー(perc))

1.バルトーク:2台のピアノとパーカッションのためのソナタ
2.モーツァルト:アンダンテと5つの変奏曲 K.501
3.ドビュッシー:白と黒で
                  (1977年録音)

ここではディスクの表記に準じて記載していますから打楽器とパーカッションと違っていますが、もちろん同じ曲です。
もちろん同じ曲ですから、同じ曲に聞こえるのですが曲の佇まいは随分違うように思われます。

この頃はビショップ・コワセヴィッチと名乗っていたこの方、今は“コヴァセヴィッチ”と名乗り表記されているようですが、家族関係でややこしくなっていた姓を本来の苗字に戻したということのようです。

で、この演奏なんですがストレートに突き抜けた演奏・・・。
コヴァセヴィッチは昨今円熟してトンがったところはあまり見せないように思われますが、元来は剛の人であると思っていました。
こうして30年前の演奏を聴いていると、やっぱりと思わせられるものがありますね。
きわめて“剛”だけど自然に聴かせることができるというのが、この頃のコヴァセヴィッチの特徴です。もちろん、ここに収められている曲の特長にもよるんですけど。

後年、EMIに残したベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集などでも、きわめてリリカルに聴こえるところがあるかと思えば、豪放磊落とまではいかなくても全開モードではないかと疑われる箇所に出会ったりすることがある・・・。
“剛”の者が、円熟して抒情的なフレージングに磨きをかけ続けた成果だろうなと思わせられるとともに、屈指の全集だと思いました。
だから、一旦リリースしながら納得行かなかったか、もっとうまく弾けちゃうことがわかった作品などは録音しなおしていたりする。
これは、近日中に“私の音楽殿堂”のコヴァセヴィッチ編を企画しているので、そのときに触れることにしましょう。

この演奏に関して言えば、フレイレのそれよりは若さに勝ったソリッドな全開モード・・・。
アルゲリッチがこのような展開に燃えないわけがありません・・・というような感じでしょうか。(^^)v


★メシアン:アーメンの幻影
                  (演奏:マルタ・アルゲリッチ、アレクサンドル・ラビノヴィチ)

1.アーメンの幻影
 Ⅰ.創造のアーメン
 Ⅱ.星々の、環をもつ惑星の、アーメン
 Ⅲ.イエスの苦悶のアーメン
 Ⅳ.欲望のアーメン
 Ⅴ.天使たちの、聖者たちの、鳥たちの歌の、アーメン
 Ⅵ.審判のアーメン
 Ⅶ.成就のアーメン
                  (1989年録音)

さて、このディスクを初めて聞いたときは“??????????”っていう曲に思えました。それが、今ではコーコツの曲だと思えるようになってしまったので、人間慣れとは恐ろしいものです。当初そこにはなかったものが、あることがわかるようになるなんて・・・。
「あるんだから、しょうがない・・・」って“大霊界”みたいじゃないですか?

「ラビノヴィチとはまた知らない奴と組んだものだなぁ~」な~んて思っていましたが、今では屈指の名演だと思っています。
作曲者のメシアンその人が、最晩年に「ずば抜けて素晴らしい」と賛辞を贈ったそうですし、それもむべなるかなという出来栄えであることは“今なら”よくわかりますね。

クリティックでは、アルゲリッチが「ラビノヴィチのピアノ演奏技術に合わせるためにその技術を犠牲にしているところがある」というものもあるようですが、私にはもしそうだとしても、それがどこだかは分かりません。

第1曲の宇宙空間で氷の塊にぶつかりながら巡航しているような“創造のアーメン”、冷たい硬いものに触れているような質感がたまりません。モチーフの旋律も泰然として低音域で息づいているし、ゾクゾクもんですね。
その後も、どんなに音が錯綜しようとも混濁しないんです。
カオスを表現しているような箇所もたくさんあるんですが、ペダルを踏んで“響”を解き放ってかき混ぜるんじゃなくって、あくまでも放たれる“音”そのものを積み重ねることで目指す世界を、それも二人で作り上げているのだから凄いことだと思います。

そして、最後の“成就のアーメン”。
私には乱痴気騒ぎに思えます。官能性とかを感じる方もいらっしゃるようですが、そっちの方は疎いのでよくわかりません。

ともあれ、これは一大名演だと私も今は思っています。

そして、ラビノヴィチとアルゲリッチはこの後もいろんなレーベルを跨って共演ディスクを発表しています。
ラフマニノフ、モーツァルト、ブラームス、デュカス、R・シュトラウスなどを耳にしていますが、この他にも作曲家でもあるラビノヴィチのオーケストラ作品のピアノパートをアルゲリッチが受け持っていたり、ラビノヴィチ指揮でモーツァルトのコンチェルトを録音しています。
ディスクのうえでは、もっとも長続きしたデュオということではないでしょうか。

何かの雑誌に、サロンかパーティーの席でこの2人がラヴェルの“ラ・ヴァルス”を見事に弾いたという記事が出ていて、「是非ともその演奏を聴いてみたかったなぁ」と思ったものです。


ホントにそういうのは録音して、我々好楽家のためにリリースしてほしいですよね!

と書いて思い出したんですが、最近のレコ芸の記事にツィメルマンのインタヴューが載っており、さまざま示唆に富んだ話が収録されていたのですが、彼自身も含めて、ポリーニやアルゲリッチは録音技術が進みすぎてしまったのが原因で、録音を残したくないと考えるようになっている、というようなことを語っていました。
「テクノロジーそれ自体が目的となってしまっている環境下にあっては、肝心の音楽そのものが死んでしまう」ということらしいのです。

我らが濱田先生がそれを受けて、熱心な世界中のファンが待っているだの、ライヴ録音したらどうかだの、19種類だかの記録されずに永遠に消えていったプログラムの楽曲の音たちがもったいないだのと、我々の気持ちを率直に代弁されていましたが、「努力する」と言いながらも活字上を眺める限りちょっと難しそうなニュアンスを残してましたねぇ。

5年ぐらい前のツィメルマンのインタビューでは、朝起きてピアノを弾いた時に「この音ならベートーヴェンのあのソナタの、あの楽章にピッタリだから録音しよう」と思ったときにすぐ実行できるような設備を自分で整えたようなことを読んだような覚えがあるのですが・・・。そのプランは頓挫したようですね、残念ながら。

私に言わせれば、プロデューサーとパフォーマーの間で綿密な打ち合わせが持たれて同意されれば、ピアノの音色やコンディションを別とすればエンジニアが合意に基づいた音色の質感を出せるような録音をしてくれると思うんですがねぇ・・・。
ひとりでスタジオで録音するのが、確かに独り芝居をしているような感じになるのであれば、「リハーサルで出来なくても本番になるとできる」というような発言もされているツィメルマン氏であれば、ライヴ録音したらいいのになということになるのですが・・・。

“私に言わせれば”って、私が何を言ってもヘのツッパリにもならないことはわかってるんですけどね・・・。(^^)/

また、余談の方が長くなりそうなので、この話はこの辺で・・・。


そうそうこのほかにも、惜しいことに夭逝してしまったエコノムとのチャイコ譜スキーの“くるみ割り人形”組曲とかもあったはずなんですが見当たらないんです。
留守宅かなぁ~?

そのエコノムは、生前「アルゲリッチと共演するとどんどん速くなってしまい、アファナシエフと共演するとどんどん遅くなる」とこぼしてたんだか、単に感想を率直に述べてたんだかはわかりませんが、発言しています。
まさに二人の特質をずばい言いえて妙だと思いました。

それにしても、どこ行っちゃったんだろう?

まいまい姫

2007年04月20日 00時00分00秒 | 長岡
長岡駅前通りを信濃川方面に真っ直ぐ行くと・・・。(^^)/

カタツムリに腰掛け横笛を吹く少女。彼女こそ“まいまい姫”その人であります。
こうして見ると、どういうシチュエーションに彼女がいるのかわからないのでちょっとパンアウトします。
                  

いろいろ調べたのですが、“まいまい姫”が何ゆえこんなところにこんな姿でいらっしゃるのかはまったくわかりませんでした。
何故笛を構えているのかもねぇ、まさか笛吹童子というわけでもないだろうし・・・。
礒絵里子さんによると、フルーティストは美人が多いって言われてたので、それでかもしれません。
でも、昭和33年に出来た像だって言うし、そんなことはないんじゃないかと思ってみたり・・・。

この像の脚元にはこのような家来が!?
    

この像を見ると、TV版『星のカービィ』に出てきた“デデデ大王”の家来の“エスカルゴン”を思い出してしまう私の脳年齢は58歳!?
実年齢より15歳も年上! 
体年齢だって53歳からちょっと頑張って50歳に落ちたところなのに・・・。ショックですねぇ。

最近、音楽鑑賞にしても音を感じることを主眼としているため、右脳を使うばかりで左脳をつかってないからなぁ・・・。
その右脳もこんなイメージばかり浮かべていては、左脳で言葉に変換処理してもしれてるわなぁ、と呆れることしきりであります。

この像のある辺りは、道路の拡張工事等々で最近整備されて、そのときにこのようなナイトというか部下ができたようです。
で、どうしてカタツムリなのかは未だにまったくわかりませーん。


この像のある大手通のすぐ近くには、このような碑もあります。
      

これは“米百俵之碑”。
かの米百俵の故事にちなんで国漢学校跡地に設けられているものであります。まいまい姫のひとすじ東側(長岡駅方面)の信号の交差点のところなんですよね。
ロケーション的に隣り合ったものの落差感に、何とはなく奥ゆかしいものがあると思ったりしています。


★ドビュッシー:前奏曲集
                   (演奏:ホルヘ・ボレット)

1.デルフィの舞姫たち
2.ヴィーノの門
3.雪の上の足跡
4.パックの踊り
5.とだえたセレナード
6.野を渡る風
7.ヒースの茂る荒地
8.変わり者のラヴィーヌ
9.カノープ
10.西風の見たもの
11.亜麻色の髪の乙女
12.ミンストレル
13.沈める寺
14.水の精
15.月の光がふりそそぐテラス
16.花火
                  (1988年録音)

ドビュッシーの前奏曲集といえば古今東西のピアノのレパートリーの中でも重要なものであることはいうまでもなく、全集を含め何種類も持っているのですが、どれもこれもそれなりの雰囲気を持っていて興味深いものです。

反面、「これは!?」という演奏に出会うこともあまりないように思います。
ミケランジェリ盤にしても代表盤といわれている割には、硬いというかミケランジェリ自身が何かにがんじがらめにされているような気がして、“映像”の大名演で聴かせたような芳香が立ち上ることが少ないようにも思われるのです。

青柳いづみこさんが同じような感想を述べておられる記事を読んだことがあり、自分はこのような一流ピアニストとよく似た感覚を持っているのだろうかと、ちょっと自慢したくなったことを覚えています。
と、しゃーしゃーと書く私。(^^)v

というわけ(どういうわけかは訊かないこと)で、最も聴く機会が多いディスクは今回ナイショにして、最も心安らかに聴ける一枚をご紹介・・・ということでボレットです。

ところで「何故ドビュッシーの前奏曲集なのだ?」というご質問はないとは思いますが、それについては「曲名をよく見てください」とお答えしておきましょう。

かのリヒテルが「この曲集は『デルフィの舞姫』、これが弾ければ大丈夫」とまでのたまわっているようですね。
そのリヒテルは『亜麻色の髪の乙女』を「なんて蒼白く不健康・・・」と嫌悪して、録音していないとのこと。そういえば、昔NHKでYAMAHAのピアノに感激したリヒテルが製作者の方などを前にドビュッシーを演奏した際に、和室(!)で何曲か弾くたびに袖に戻って細切れに弾いていましたが、『亜麻色~』は飛ばしてましたもんね・・・。

そしてボレットの演奏を聴くと、確かに少々不健康そうな女の子像が脳裏に浮かぶように思われます。
『沈める寺』なども何が不足というわけではないのですが、どことなく神妙・・・よく言えば静謐で、先ほども述べたように心安らかに聴けるのですけど・・・。
もちろんボレットのこと、響きも精妙極まりないし文句なしの演奏なんですけどね。
この曲集全体、静謐な音の集まりといったイメージの曲(西風の見たものは別ですが)で、ドビュッシーの言によると、あまり人がいっぱいいる大ホールで演奏されることを想定されていないということなので、ここでのボレットの解釈はきっと当を得たものなんでしょう。

ドビュッシーは曲順についても熟慮を重ねて編んでいますが、この順に演奏されなければとか、全曲を通して演奏されねばならないとは考えていなかったようで、たっぷりとした解釈(必ずしもいつも響や演奏自体がたっぷりしているわけではありません)を一枚のディスクに放り込むのに、こういった選集にするというアイデアもなかなか秀逸なものだと思います。

しかし、ボレットの演奏はリスト、シューマン、フランクなどとシューベルトのタッチの違いを際立たせて素晴らしいものであることはわかっているのですが、ここでのドビュッシーも他の誰とも違いながらドビュッシーとしてまったく違和感のない世界を作り出していて見事であります。

中音から高音にかけての煌めきかた、明滅の仕方といったほうがピンと来るかもしれませんが、これは他の誰の演奏からも聴けないものであり貴重な記録であると思います。

使用されているピアノはボールドウィンのそれであり、リストで使用していたベヒシュタインと違います。
DVDではスタインウェイを使っているものもあり、当然コンサートに行けばスタインウェイもベーゼンドルファーもあったことでしょうから、録音に当たって敢えてボールドウィンを選択したのでしょう。

こんなエピソードにおいて、さりげないこだわりを感じさせるところがグランド・マナーを纏った最後の巨匠といわれているこの方に相応しい気がしてうれしい気持ちにさせられますね。


最後に、私は森鷗外のある作品の本を持っています。その本とは・・・マイ“舞姫”。。。

お後がよろしいようで・・・。(^^)v

増永 玲未さんのイベント

2007年04月19日 00時01分38秒 | イヴェント
★クロード・ドビュッシー:ピアノ曲集
                  (演奏:増永 玲未)
1.2つのアラベスク
2.夢
3.踊り
4.塔(“版画”より)
5.映像第1集
6.ゴリウォーグのケークウォーク(“子供の領分”より)
7.帆(“前奏曲集 第1巻”より)
8.音とかおりは夕暮れの大気に漂う(“前奏曲集 第1巻”より)
9.西風の見たもの(“前奏曲集 第1巻”より)
10.パックの踊り(“前奏曲集 第1巻”より)
11.5本の指のために(“12のエチュード”より)
12.3度のために(“12のエチュード”より)
13.4度のために(“12のエチュード”より)
14.半音階のために(“12のエチュード”より)
15.反復音のために(“12のエチュード”より)
16.アルペジオのために(“12のエチュード”より)
                  (2002年録音)

4月15日の日曜日、タワーレコードの渋谷店で行われた増永玲未さんのミニ・コンサート&サイン会の様子をアップさせていただきます。

実は冒頭のディスクは、随分以前にタワレコの新宿店で手に入れていたものでありました。
そのソノリティというか質感が、なんかこう・・・なんと言っていいのか、良くも悪くも私にはザッハリヒという言葉でしか表現のしようがないものであったことがひどく印象的でした。
いつも誤解など怖れちゃいませんけど、肉感的なものを余り感じさせない演奏といいましょうか・・・。

増永さんはなんでもチェルニー=ステファンスカ国際音楽賞にて最優秀現代音楽演奏者賞を受賞しているそうで、そう言われてみれば演奏の流儀もそうであるような気がします。

このイベントではサイン会もあったので忘れずに持っていって、ディスクの内ジャケットにサインはちゃんといただきました。
私の名前も書き込んでもらったので、その部分の掲載はパスです。(^^)v
ドビュッシーが海を見ているでっかい写真の脇に、マジックではなくボールペンで私の名前と、アルファベットおよび多分漢字と思しきフルネームの署名という至れり尽くせりのサインでありました。小市民の私としては、ディスクまで作るほどの演奏家が、目前で手づからしたためてくださった・・・これだけで嬉しいものであります。

もちろんこのディスクのみのプロモーションではなかったのですが、ミニ・コンサートはかる~くレクチャー含みで、楽しいものでした。
自分の演奏に関心を持っている聴衆がどんな人たちなのかを予め想定してお話も組み立てられていたと思いますが、プロの目線とアマの目線のギャップがわずかに感じられた点でも面白かったです。

                  

とりあえず、このときに取り上げられた曲を列挙すると・・・
 1.モーツァルト:きらきら星変奏曲 (変奏概要説明)
  2.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第18番 第3楽章
   3.ショパン:ワルツ 嬰ハ短調 作品64-2
    4.ブラームス:間奏曲 作品118-1
     5.ドビュッシー:音とかおりは夕暮れの大気に漂う (前奏曲集 第1巻より)
      6.ショパン:前奏曲 嬰へ短調 作品28-8
でした。

やはり、ペダルは本当に節約して使うことで清潔で独特なムードを生み出す人であることには間違いないですが、やはりドビュッシーとそれ以外では印象が変わる部分があります。当たり前ですが・・・。

モーツァルトでは装飾音の弾き表し方がニュアンス豊かで、テーマや変奏した主題のみの抜粋だけの紹介であったもののとても興味深く聞けました。
ベートーヴェンも爽快にドライブのかかった演奏でした。ちゃんと構築的な演奏にも聴こえ、ドビュッシーの演奏の印象からは想像できませんでしたね。
ショパンのワルツはチョイと私には?の演奏でしたが、私の席の前のおじさんが絶妙のタイミングでブラヴォーと声をかけてたので、素敵な瞬間を聞き逃してしまったのかもしれません。確かに、何とはなしに消え入ってしまった・・・という感じの終わり方には魅力を感じましたけど。
ブラームスでは逆にオクターブの鍵盤の押え方にパッションを感じて、あんなに思いっきり弾いているのに音が暴れないというか抑制が効いていることに感動しました。これはブラヴォーでした。

そして、ドビュッシーですが『音とかおりは夕暮れの大気に漂う』という大気の漂いは「3拍子と2拍子の組み合わせでその揺らぎが表現されているのではないか」として実演で弾いてくださいました。
なるほど・・・。そうかもしれませんね・・・と思いました。
彼女はディスクの内ジャケに自筆(もちろん日本語)でこのタイトルを記しているぐらいですから、よほどこの曲に思い入れがあるんでしょうね。

この日なにより感じたことは、ディスクにはやはり限界があるということでありました。
ミニ・コンサートですからほんの2m先ぐらいでピアニストが弾いて、実際にピアノから音が出ているのですが、やはり生々しさが違います。
我が家の年季の入った小さなシステムであることも影響していると思いますが、臨場感というより微妙な気配とでも言うべきものがどうしてもディスクに入りきっていない・・・。
増永さんの演奏は確かに即物的な印象も受けるのですが、情感が不足しているわけではない・・・なのに、CDからフィードバックされている音にはその細かく打ち震えているような感触が感じられずに、単に素朴に流れていくように思われてしまうのです。
実演を聞いたので、今後ディスクで聞くときもイマジネーションは膨らませることは出来るのでしょうけどね。

最後のショパンはその昔CMでも使われた24の前奏曲の第8曲でした。
これも演奏前にショパンは旋律のみを右手に与えたのではなく、和声も受け持たせたうえ、単に和音でならすのではなく響をずらすように分解することで、非常な効果を挙げていることを実演してくれました。
アカデミックな音楽教育を受けているわけでもなく、ピアノがまっとうに弾けるわけでもない私としては、そのような解説をしていただけるととてもワクワクしてしまいます。

仕事ではもちろん、20年余も前になりますが学校の授業でもそんなキモチはなかなか味わえなかったですねぇ。
さすが演奏家の説明は説得力がありました。

しかし、演奏家のかたってみんなしっかりされてますねぇ・・・。もちろん、そうでなきゃやっていけないんでしょうけど。
是非とも我が国でもフランスでも頑張ってもらいたいものです。


最後に、増永さんが紹介してくださった話をひとつ・・・。

ショパンはポーランドの作曲家とされているのは、もちろん皆さんご存知の通りですが、ショパンのお父さんは実はフランス人。ポーランド人の奥さんとの間にショパンは生まれています。

そのお父さんの故郷のフランス南部の村に行ったときに、その土地の人々が「ショパンがポーランド人なんてとんでもない。この村の人だと、世界中の人に伝えてくれ」と増永さんに仰ったそうです。
私などは、「いるいる、そういうご都合主義の人!」としらっと思っただけですけどね・・・。

律儀に紹介された増永さんはエラい!!(^^)/

私の音楽殿堂(ネルソン・フレイレ)

2007年04月18日 00時00分04秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 作品27-2、作品53、作品81a、作品110
                  (演奏:ネルソン・フレイレ)
1.ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 作品53 “ワルトシュタイン”
2.ピアノ・ソナタ第26番 変ホ長調 作品81a “告別”
3.ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
4.ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2 “月光”
                  (2006年録音)

とうとう来ました!!
いやぁ、見どころのあるピアニストだとは思っていましたが、堅実な実績はあるものの地味な存在に甘んじていたところ、このベートーヴェン一発で一挙に殿堂入りを果たしてしまいましたねぇ。
私の殿堂に入れたところで賞品は何も出ませんし、ありがたいものかどうかはわかりませんけど・・・。
まぁ迷惑はかけてないだろうからいいでしょう。

先日所用で渋谷に行ったときに、HMVに吸い寄せられるように(実はその前にタワレコにも寄っていたけど)入っていって、試聴コーナーを見たらこれがあって「おんやぁ?」という軽い気持ちで聴いてみて、すぐ買っちゃいました!(^^)v

このディスクの録音情報を持っていなかったし、新譜情報でも見落としていたのかもしれませんが気づいていなかった・・・。
よしんばHMVで気がついたとしても、試聴コーナーに入っていなかったら買ってなかったでしょうねぇ。

棚違いで、オピッツのベートーヴェン集もあったんですが、それはちょっと聴いて「まぁいいか・・・。」ってことで買わなかったんですけど。彼の全集も快調に進んでいるようですね。

しかし、このディスク・・・即決で買って良かった。一言で言って、素晴らしい!!
試聴したのは作品110の嘆きの歌ですが、冒頭部分の数小節を聴いただけで私のライブラリーの重要な一角を占めるべきディスクであることを確信しました。
何故この曲を聴いたかと言うと、私がベートーヴェンのピアノ・ソナタのうちで1番好きな曲であることと、作品110の最も好きな演奏がコヴァセヴィチのそれであるためです。
コヴァセヴィチは、フレイレ同様アルゲリッチがデュオ相手として以前よく一緒に演奏していた人ですね。(^^)v
アルゲリッチのお相手絡みで聴き比べちゃおうかなっていうノリもありました・・・。

それにしても見てください、このプログラム。
「コイツは絶対全集なんか作る気はさらさらないんだろうな」と言わんばかりの超名曲4タイトルをカップリングの出血大サービス盤と言って過言ではないのではありませんか?

で、虚心に聴いた結論の要点だけ言うと、作品110に関してはトータルではコヴァセヴィチの演奏のほうがいいかなと思いましたが、“告別ソナタ”は文句なくモスト・フェイヴァリット演奏と言って差し支えない出来でありました。

“ワルトシュタイン”も快速に飛ばす第1楽章、第3楽章の盛り上がりも天国的で振幅が大きい・・・ヘタに振幅を大きくすると下世話になりそうなところがまったくこの方の演奏にはそういう懸念がない。
一国だけど優しいおじさんの心根がそうさせるのに違いありません。

作品110は素晴らしいんだけど、最後のフーガから大伽藍を築いてほしいところがちょっとイメージが違いましたね。
フレイレは非常に厳格にタイム・キープしながら剛直に弾ききったという印象であるのが新鮮でありましたが、私としては、なんかこう「迸るというか噴出すような高揚感を伴った盛り上がりに持っていってほしかったなぁ」と思わずにいられませんでした。
でも、とっても魅力的な演奏であることには変わりありません。第1楽章の旋律の歌、ピアノの音色なんてお星様のまたたきのようじゃぁあーりませんか。

最後の“月光”はね・・・まぁそれなりに・・・という感じではありますが、ディスク全体を通して、人間味・温かみのある解釈にもっとも相応しい温度感を湛えた録音がこれまたいい仕事をしている。。。

デッカの録音スタッフに関しては、こうして時折とんでもなく魅力的な音色を世に出してくれるので“あっぱれ”をあげましょう。

しばらく何度も聴いて味わいたいディスクですね!


★ショパン:ピアノ・ソナタ第2番、12の練習曲 作品10 ほか
                  (演奏:ネルソン・フレイレ)

1.12の練習曲 作品10
2.舟歌 作品60
3.ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35
                  (2004年録音)

彼のショパンは一聴したときには殆どピンと来なかったのです。

ベテランらしく落ち着いた佇まいを持たせているので、テンポが走っているというわけではないとはいうものの、右手がやたら前のめりに突っ込んでいくような感じで気になったし、舟歌も“異形”なものに思えてしまって・・・これま今でもしっくり来ていない演奏なのかもしれません。

でもベートーヴェンのソナタを聴いて、何か理解ができたような気がします。
私自身は好きになれないかも知れませんが、この舟歌が存在する意味があること、なぜならば徹底的に一貫した解釈に基づいているということははっきり感じ取れる奏楽だからであります。

作品10の4などは安定感抜群のさすがの演奏に思えるし、とはいえその前の“別れの曲”は口に合わない銘菓だったりするところが、この演奏家の奥ゆかしいところなのではないでしょうか。

このディスクの白眉はなんといっても変ロ短調ソナタだと思います。
この変ロ短調ソナタには死のイメージがあるということは、いろんな方の指摘するところだと思いますが、私にはさすらいの無頼男の人生を描いたバラードのように聞こえましたねぇ。

すなわち、第1楽章では無頼の男の生きざまというか紹介、さまざまなハードネゴやコトによっては無骨な愛を感じ取ることが出来るかもしれません。ちなみに、私は無骨さのみ感じ取りました。(^^)v

第2楽章では、不気味なスケルツォに乗ってヤバイ仕事に手を染めて、ヤバイとしりつつ足抜け出来ないどころかのめりこんで行き・・・最後の中間部のリフレインでこと切れる・・・。

第3楽章は誰がなんといっても葬送行進曲なんですが、こんなこの楽章を聴いたことがないという解釈ですね。中間部なんか天の神への敬虔な祈りというか、手を近づけただけで壊れてしまいそうな世界を描いているような演奏が多いのですが、ぜんぜんそんなことがない・・・。
まったく気高くないし、野垂れ死んだか、援交狩りにあったかはわからないけれど事務的というか儀礼的に「成仏しなよ!」っていう感じ。「生前の行いの当然の報いぢゃ~」と言わんばかりの葬送行進曲なんじゃないかなぁ~。

そして何よりもすごいのが、そのトリオが終わったあと葬送行進曲の主題が左手のリズムを含めてガンガン弾かれること!!
伴奏の音型は鐘の音を模したなどとも言われるようですが、この音色で弾かれてしまうと鐘の音には聴こえないです。
弔いの鐘が、こんちくしょうとばかりに打ち鳴らされている情景なのかもしれませんが・・・。
なにはともあれ、唯一無二の解釈でしょう。私の知る限りでは・・・。

第4楽章は比較的粒立ちの良い音で聴くことができます。
この楽章はショパンの言では新しい墓の上を一陣の風が吹いて、だれかれがぺちゃくちゃとお喋りする様子なんだそうですが、私はかねて、亡くなった人の魂が人生をフラッシュバックのように逆に辿って、生まれる前に回帰するまき戻し音楽だと感じてきました。
前楽章があんなふうだったので、余計にその回顧する雰囲気があふれて聴こえましたね。不思議なもんです。

この盤全体を通していえることは、分厚い低音に支えられて一種独特なおじさん的雰囲気をたたえた一貫した解釈に貫かれているということ。
好悪は人によって分かれるかもしれませんが、説得力はベテランならではの味わいのなかから充分に感じられるものがあります。

★ブラームス:ピアノ協奏曲集
                  (演奏:ネルソン・フレイレ リッカルド・シャイー指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団)

1.ピアノ協奏曲第1番 ニ短調 作品15
2.ピアノ協奏曲第2番 変ロ長調 作品83
                  (2005年・2006年 ライヴ録音)

むしろ今のフレイレに最も相応しいレパートリーは3大Bの中でも、このブラームスではないかと思えるのですが・・・。

ショパンではちょっとクセっぽく聞こえた彼のピアノが、オケと絡むなかでまったく自然に振舞っており、かといって存在感がないわけではない。
全体としての完成度が極めて高いブラームスの協奏曲全集(とはいっても2曲)ではないかと思います。

私にとっては2番だけならアックスという競合盤がありますが、1番はむしろツィメルマンやコヴァセヴィチよりも今は好きです。N響アワーで目にした、ピーター・ゼルキンのライヴが凄かったのですが音源がないので比較してはいえません。
2曲揃えたら世評の高いギレリスよりも好みかなぁ~。実は、私はギレリス盤はしっくりきてないんですけどね。

ホントに全編通してバランスがいい。演奏のバランス(もちろんオケそのものも、ソロそのものもですが)も、録音のバランスも・・・ライヴ録音だなんて信じられないぐらい暗騒音もないし。凄く技術が進歩しているんだと感じました。

個別に言ってるとキリがないんですが、第1番では第3楽章の冒頭の前打音の指さばきなんか芸術的(芸術ですが・・・)ですよね。

第2番では第2楽章、たまにブラームスに友人が忠告したというようにこの楽章はこの協奏曲の雰囲気に馴染まないからないほうがいいというような演奏がありますが、フレイレの演奏はそれなりに厳しめだけどこの協奏曲のムードを壊さないでよい第3楽章へのブリッジになっていると思います。
その第3楽章ですが、この(2/3チェロ+1/3ピアノ)協奏曲という中で、それぞれかぶる部分は殆どないんですがお互いの楽器の美しさ、歌を堪能できる演奏になっています。
他の録音でももとはそういう演奏なんでしょうけれど、録音の加減でチェロが出すぎたり聴こえなかったりするケースが多いので、この演奏で聴くと双方のよさがブレンドされて「なるほどブラームスはこのような曲を書きたかったのか・・・」ということが感得できます。そう思っているのは、私だけかもしれませんけどね。

そして第4楽章・・・。
ポリーニの旧盤で初めて聴いた時には、この楽章のみ浮いて聴こえてしまいました。でもこの演奏の中ではまったく溶け合って、幸せな終楽章になっていると思います。
ほどよい軽さをともない、ほどよい素朴さがあり、音は輝き、フレイレのよい意味でのイモっぽいオジサン臭さが、シャイーの洗練された棒とオケによって中和されて理想的な景色になったって言う感じがします。

ここがどうだから・・・という点はあまり見当たらないのですが、何度も聴いて飽きないというか心地よくなれる、なかなかありそうでない、得がたい種類の奏楽であると思います。
まこと結構でございました。(^^)v


私にとって、ネルソン・フレイレは“遅れてきたおじさんスター”という感じでしょうか。必ずしも垢抜けていないところがグッドなのです。

知知夫神社

2007年04月17日 00時00分04秒 | 思い出
冒頭のタイトルは間違いじゃありませんよ。当然一般的には“秩父神社”が正しいのはわかっていますが、肝心のこのお社にこのように書かれているのですから・・・。

旧くの縁起をみても、そこには“知知夫神社”とあるらしいということで、敢えてそのように表記したものです。
決して字数稼ぎではありませんですよ。(^^)/

それにしても、2000年ぐらい前からという物凄く古い歴史を持ったお宮さんだなあと感じ入ってしまいました。
その後、妙見信仰と合わさって独特の文化を持った関東有数の神社となり、江戸時代には徳川家などとも近しい関係の神社となったなど、私にとってはとっても興味深いところでした。

そうとは知らずに、秩父三社(あとの2つは宝登山神社、三峯神社)のひとつがあるようだから、歩数稼ぎに足を伸ばそうぐらいの軽い気持ちで参詣した私。
立て看板に書かれている縁起を読んだり、建物の彫刻・装飾を眺めている間に優に1時間あまり経ってしまいました。

なかでも貴重と思われるのがこの彫刻・・・。
          

『つなぎの龍』と書いてある立て札を見たときには、「龍がつなぎを着ているのか? ダウンタウン・ブギウギ・バンドか?」などとまた突拍子もないことを考えたものですが、よく見ると龍が鎖でつながれているので『つなぎの龍』だということのようです。

鎖でつながれているこの竜は、もしかしたら哭いているのかもしれません。
でも「兄さん、背中が煤けてるぜ・・・」などと言ったという記録はないようです。

などとくだらないことを言って神罰を食らうといけないのでこれくらいにしますが、名工“左甚五郎”の手になるといわれるこの彫刻、その昔、近所の池だか沼だかで竜の目撃情報があった後にこの像の下に水が滴っていたため鎖で繋いだら、その後龍は現われなくなったという言い伝えがあるそうです。

やっぱり龍は哭いているのかもしれませんね。今、像の下が濡れているのだとしたらそれは龍の涙によるものなのでしょう。
誰ですか!? 龍の像に向かって「背中が煤けてるぜ」なんて言っているのは!!


今一点、左甚五郎作の名品(だと思う)があります。
     

『子宝 子育ての虎』像であります。
狩野派の流儀として複数の虎の絵を描くときは、一頭を豹にするならわしがあるということでこうなっているそうです。
ならわしというのには理由があるとは思いますが、描く対象を変えてしまうとは随分ダイタンな慣習だなぁと思った次第です。
画題のテーマはとっても神社に相応しいもので、古今東西最高の名声を誇る名工の作なので素晴らしいものを見せていただいたという気持ちにはなりましたけどね。

そうそう、この彫刻は正面に飾られており参拝するときにちょうど左上方に見えました。
随分装飾を眺めた後ではありますが、ちゃんとお参りもしましたですよ。(^^)v


この先ご紹介するのは、像が小さかったり、逆光になって携帯のカメラでは収められなかったので、わかりやすく表示されていた大きな絵馬型の説明書きを掲載します。
もちろんこの他に、詳細な解説プレートがその場にあったのはいうまでもありません。
               

実はこの神殿、東側に青龍があるのはいいとして、普通は南に朱雀、西に白虎、北に玄武がくるものですが・・・。

北側は“北辰の梟(フクロウ)”でした。まあ、他にもいっぱい動物の像はあって解説がついていたのがたまたまフクロウだっただけかもしれませんけどね。
この梟は、体は建物内のご神体のほうを向いて、首から上だけ180度反転し外敵を見張っているのだそうです。
広く物事を知ろうとしていることから、学業のお守りになっているんでしょうかねぇ・・・。
というわけで、フクロウの絵があしらわれたお守りを子供用に買っちゃいました。
「オマエが1番勉強が必要なのではないか!」という声が出ることも十分想定されますが、私は最早大学を卒業して久しいからいいのです・・・・・・。

なお、先の『子育ての虎』は南側の壁になります。そういえば日光東照宮にも『眠り猫』なる左甚五郎作の名作彫刻がありましたが、こちらは2つありますモンねぇ。世界遺産より勝ってるんじゃないですか?・・・・・・などと唐突に話題を変えて、次ぎ行きましょう。


さて、その日光東照宮の『見ざる 言わざる 聞かざる』の三猿にタメを張るようにこのようなお猿さんの像もありました。
     

西側の壁を飾るのは、よく見、聞き、話そうという『お元気三猿』であります。
神社の解説にも徳川家に所縁の東照宮と好対照を成して興味深いというような文句がありましたが、コミュニケーション不足が叫ばれる今の時代、よく見てよく聞いてよく話そうという『お元気三猿』のほうがマッチしているのではないかという見識には恐れ入りました。
そのとおりだと思いますです。

同じく西側の壁にはこのようなかたの像もありました・・・。
     

通玄仙人とは唐の時代の実在の人物だそうです。
白い馬に乗っていたそうですが、休憩のときは馬を小さな瓢箪に入れていたということらしいです。要するに瓢箪が車庫代わりということでしょうか?
瓢箪から駒の語源となる逸話ですけどねぇ・・・考えてみると随分お茶目なというか親しみやすい装飾でいっぱいですね。
実際の彫刻はさすがに年代を感じさせるものでしたが、この絵だけ見ると(彫刻にそっくりですよ)、ファンキーなリズムを感じますねぇ~、私なんか。

てなわけで、久しぶりに建物を隅々まで観察してしまいました。
いろんな部分を見るにつけ、昔の人の想像力というか発想には本当に畏れ入ります。私を含めて、かつて出来なかった身の回りのことどもがテクノロジーの進歩で出来るようになった代わりに、魂やら心、考え方の自由な飛翔というべきものがまったく失われてしまったような気がします。

コンプライアンスなどという考え方そのものが、それを端的に証明しているようにも思われます。コンプライアンスはルールを遵守することでいいことのように思われていますが、そして今の世では必要ないいことなのでしょうが、どうしても私にはピンとこないところがあるのです。
旧来からある礼節とはわきまえて自発的にするものであり、コンプライアンスにはどんなに言葉で巧みに表現しようとも強制感というか悲壮感がある・・・。
なにやら古のロシアのKGB的な発想のような気がしてならないのです。しょうがないから守ってるけど。

ちなみにテクノロジーの進歩で運動不足になって減量を余儀なくされている私が採っている手段を、テクテクノロジーといいます。(^^)/


さて、秩父神社を後にしてさらに歩いていたところ“今宮神社”というこれも旧い縁起を誇るお宮さんがあり参拝してきました。
     

もちろんこれはお社ではなくて、境内のど真ん中に鎮座している“駒つなぎのケヤキ”であります。
ここの縁起には役行者(えんのぎょうじゃ)が出てくるなど、この近辺はすこぶる霊験あらたかなところらしいですな。

このケヤキを近くで見るとこんな感じです。
             

龍神木と呼ばれる由来の説明には、なんと平成の御世になってから宮司さんが世にも珍しい神様の奇跡を目の当たりにされたということが記されていました。

 いいですねぇ~。(^^)v

世の中まだ捨てたモンじゃないですね。
テクノロジーも大事だけれど、テクテクノロジーを忘れると人間生きていけないように、1000年前にあれだけ記録に残っている神仏の奇跡が今まったくないというのは寂しい限りですもんね。

こうして13000歩余り、芝桜に続いて神様のお陰でいろいろ仕事やらなんやらはさっぱりと忘れて、自分自身のために考えを巡らしながら歩くことが出来たこと自体が、そのご利益に他ならないのではないか・・・そう思っています。
いい一日でした。


ちなみに帰り際にこのような像も発見しました。
     

まこと秩父は奥が深い!! (^^)v

秩父:羊山公園 『芝桜の丘』

2007年04月16日 00時00分08秒 | トピックス
いかがですか?
秩父のシンボル「武甲山」を背景に色とりどりに咲く羊山公園の芝桜の絶景です!

西武線に乗って“芝桜花さんぽステーション”と銘打たれた「横瀬駅」で降りて、春の日を浴びてのんびりと13000歩余りの足跡を残してまいりました。

パンフレットには“春風にピンクの丘、春のさんぽって気持ちいいですね。”とありましたが、まさにまさに満喫できて満足であります。
ただし体重には特段の変化はありませんでしたが・・・・・・おいおい効いてくるのでしょう・・・か?

角度を変えてみると・・・。
        

手前側はまだ3分咲きぐらいですが奥のほうは既に8分ぐらい咲いているので、こっちから見るととってもキレイでした。
でも、写真で撮る時には、手前側の株が咲いていないとなかなかうまくいかないんですよね。
てなわけで、何十枚と写真はあるのですがご覧いただけそうなのはこの角度のものだけでありました。

また、芝桜は色によって開花時期に若干の差があるようでまだまったく花をつけていない色もありましたねぇ。


昼食には芝桜の丘の脇の屋台で『芝桜そば』をいただきました。
  

そばに芝エビと桜海老の揚げ玉をのっけたものでしたが、おなかが空いていたせいもあっておいしかったです。


羊山公園といえば芝桜のみならず、本家本元の桜も美しいところ・・・。
       

さすがに最盛期は過ぎてたかもしれませんが、まだまだ盛りと言ってなんら差し支えない咲きっぷり。
時折巻き起こる“花散らしの風”に舞う花びらの渦の中に入ると、惜しむキモチやら風情を味わうキモチなどいろんな複雑な思いがしました。
その中の一つに、遠山の金さんが「散らせるもんなら散らして見やがれ!」と啖呵を切るシーンもあったのはナイショです。このシチュエーションに相応しくないから・・・。
でも、桜吹雪って“普通は”ほっときゃ遠からず散っちゃうんですよね。。。

こっちは枝垂桜です。
   

ともあれ芝桜の状態、花さんぽの道のりのたんぽぽやら菜花、つつじやハナモモなどの開花状況から考えるとベストのタイミングだったなぁと思います。ホントに満喫させていただきました。


西武秩父駅に向かう途中にあった『牧水の滝』であります。
           

この滝の近くにあった東屋で、真っ赤なハナモモのハナ、白く透き通るような桜そして新緑の瑞々しい緑、さらに何よりもどこまでも真っ蒼な空に出会いしばらく見惚れてしまいました。
桃源郷とはこんな風景なんでしょうかねぇ・・・。ハナモモには何故かそんなイメージを喚起する何かがあります。


西武線では、西武秩父駅に乗り入れる車両の一部にこのような塗装を施しているようです。
気合入ってますね!
   

パンフレットには“出会えたらうれしいですね”とありましたが、私は幸運にも乗ってしまいました。
しかしながら、乗っている間は折角の図柄は見えませんでした。どうせ寝てたけど・・・。(^^)v