SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
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イリーナ・メジューエワさんのリサイタル

2006年12月10日 01時20分45秒 | イヴェント
12月5日に新宿の四谷区民ホールでイリーナ・メジューエワさんのリサイタルを聴きました。
財団法人新宿文化・国際交流財団の主催で、モーツァルト生誕250周年記念の「モーツァルト・ピアノソナタ全曲演奏会」の一環で7番手としてのご登場ということのようです。
ちなみに、前回はパウル・グルダで次回はジャン・フィリップ・コラールだって。。。
新宿区ってすごいのねぇ~~。
これこれ、“コラールのリサイタルは来年なのに250周年?”とかいうツッコミは入れないように!

さて、以前このブログでも“ロシアの姫君”としてメジューエワさんのロシアの小品集を取り上げました。私にとっては、それこそ高橋多佳子さんを知る前からずっと聴いていた人なわけですから、初めて実演に触れるに際してとても期待して出かけたものです。
彼女のモーツァルト演奏はデンオン時代にあったのを覚えており、それは良くも悪くも“しっかりした演奏”でした。

果たして今回の演奏会でも同じ感想を持つことになりました。
それも数段スケールアップして。。。

ステージに現れた彼女を見てまず驚いたことは、思っていたよりずっと背が高いこと!
“でけぇぇ~!”って感じ。
ジャケットの写真などから想像していたイリーナちゃんではありませんでした。
ジャケ写からは“可憐で華奢な女性が驚くべき精神力を発揮してる”と勝手に思い込んでいたのですが。。。
一瞬面食らったものの、逆に外見上からも立派な芸術家の風貌で現れたことで、より本格的な演奏が望めそうだと期待が高まった私。

これは私だけの感覚かもしれませんが、歩き方がやや猫背であることと表情(特に眼つき)が、タワレコ渋谷で見たときのポリーニにそっくり。これは徹底的に充実した演奏会が始まるぞと、さらにテンションがあがる私。。。
そして、昨今のCDジャケットがそうであるように、衣装もドレスから髪どめまで黒一色で纏め上げられていました。これだけでポリシーが貫かれている清々しさを感じました。
また演奏中が始まったのちは、ときおり左手を巻き取るような形で鍵盤から離すしぐさがみられ、それは洗練された作法に則っているようであり、女性ならではの繊細さもあり美しい弾きぶりだと見入っていたものです。

そこから弾き出される音楽そのものはとても、とても素晴らしく充実したものでした。
技術的に鍛え上げられているのはもちろんのこと、出てくる音はやはり硬質で深い。駆使される音色も多様だし音楽の適切な表情付けに貢献しています。これで楽曲のフレーズのひとつひとつが整った構成のうちに細部まできれいに彫琢されているのです。
特にモーツァルトもJ.C.バッハも奏法としてはスケールがしっかり弾けないといけないのでしょうが、本当に整った粒立ちの音できちんと弾かれているのに驚きました。更に、メジューエワさんにしかない高音域での“ロックグラスに氷が当たるような”というか、どことなくチェレスタを思わせるようなクリスタルな輝く音質が、結構多用されていて、より美しい演奏に仕立て上げられるのに貢献していたと思います。

プログラム中では、やはり後期の作品ニ長調・変ロ長調のソナタが特に私がなじんでいることもあって興味深く聴くことができました。出だしから独特な雰囲気の場を瞬時に作って、かつて聴いたことがないテンポ・特徴的な解釈で弾き進められました。
彼女は表現上思い切ってある箇所を強調することがたびたびあり、大きな効果を感じるときと“えっ”と戸惑うときがあったりします。今回の演奏中も随所にそれが見られたのですが、不自然さはまったく感じませんでした。逆にそう弾かれていることで、かけがえのない個性的な演奏として強く印象に残っています。
特に中間楽章の集中力は比類がなく、ことのほかじっくりと精神力を持続し、最後まで緊張感を失わない演奏。こっちもつられて息を詰めてじっと聴き入り、楽章終了したら思わす深呼吸しちゃったほど。。。

結果、私には彼女の希求する音楽がどんなものかが感覚的につかめたし、演奏はそれを真に体現されたものと信じられる出来映えだったと思います。
期待通りの奏楽に“スゴイ”と思いました。その意味では満足したし、最大級のブラヴォーを送りたいと思います。(^^)v

ただ一方で気になる点があったのも事実。またまたおせっかいに他なりませんが。。。

それは、彼女は何者かに縛られてしまっているようであったこと。
“何者か”とは彼女自身が作った神様のようなものにも思えます。彼女の演奏の内外を問わず、あらゆる表情、黒一色のいでたち、楽譜への固執、そして何より紡ぎ出される(というより抉り出される)音そのものがそう感じさせるのです。
彼女がピアニストになっていなかったら修道女になっていたというのにもうなずけます。ピアノを弾くということが彼女にとって身を削るような献身であるということに他ならず、その時点で彼女が主体的に弾いているというより、何者かに弾かされているように聴こえることと言い換えることができるかもしれません。
献身する相手が“作曲家”なのか“聴衆”なのか、それとも(彼女が楽譜の向こうにいると思っている)“彼女自身の中にいる神様”に対すものかもわかりませんが。。。

さて、メジューエワさんは楽譜を必ず見て弾きます。また、ご本人によるその理由を解題とする文章がプログラムにありました。要約すると、「作曲家が死んでしまっている以上、すべては楽譜の中にあるのであって自分の頭や心の中にあるのではない。作曲家の意図を確認しながら弾くのだ」というのです。
しかし、私が見たところ“楽譜を見る”などという生易しいものでなく、“凝視する”といった風情でした。もちろん彼女は間違いなく暗譜しているにもかかわらずです。アンコールにいたるまで(!)すべて楽譜を見、そのアンコールのロンドで譜めくりが誤ってめくったところを慌てて自分で戻すといった徹底ぶり。尋常ではないものを感じました。いくら人前とはいえアンコールはアフター・アワーズであり、リラックスして聴衆とともに楽しみながら演奏するものであるという感覚を私自身は持っていましたので。。。

楽譜を通した向こうにはきっと、御簾越しに作曲家の姿をした彼女が作った神様がいるのではないでしょうか。御簾越しなので凝視せざるを得ない。そしてその神様が、そこは優美にとか厳しくとかというご託宣をテレパシーで告げるとおりに彼女は演奏をしているといった感じがします。
彼女は極めて献身的かつ忠実にそれを現実に弾き表していくのだけれど、それでは彼女の解釈であって彼女の解釈ではない、喜びを表現していても彼女はただ誠実に尽くしているのであって喜んでいないというふうにどうしても思えてしまう。
しかも、彼女の楽譜の向こうにいるモーツァルト(例の神様が変身しているかもしれないが)はえてして“結構ストイックなんじゃないかなぁ~”とも思えてしまう。

ところで、同じ日に八王子で高橋多佳子さんの演奏とインタビューを含むトークを聞いてきました。その中で、「伝えたい心がまずあって、技術はその手段。心がなければ意味がない」と極めて明瞭に言い切っておられました。ファンとしては「再確認した」というくらい当然のことと受け止められるご発言ですが。。。

もちろん私は、多佳子さんも楽譜をとても大切にしていることを知っています。
例えば、いくつもの版がある場合どれを選ぶか尋ねたときに、経験に照らして動物的勘みたいなものを働かせて最良のものを選んでいると答えておられます。その作業だって膨大な時間も手間もかかるに違いありません。
また作曲家の意図をよりよい形で聴衆に提供するために、ラフマニノフの楽譜は彼の2種の出版譜から切り貼りして(ホロヴィッツ版は作曲家了解のもと手が加わっているがそれとは異なり、彼の選んだ音符を変えない形で)独自の版を作って演奏したりしておられます。
そしてその奏楽からは、自発性に富んだいきいきした表情があふれている。感情表現が自然といったら良いのでしょうか?自分の心に一度反映させて、作曲家の意図をあくまでも自分の責任で音に変換しているからなのではないでしょうか?

翻ってメジューエワさんは、神様の意図を再現しているのでどうしてもそこがちょっと客観的なのかな、と。
その代わり、彼女はどんな困難な箇所があっても神様がいるから精神的に屈強です。暗譜が真っ白になる危険がないという程度の安心ではないと思います。楽譜の中の真実(と思っている)を忠実にトレースすることこそが為すべきことと考えておられるからこそ、いつでも“しっかりした演奏”が出来るのです。
彼女は聴衆の前で弾くというのは最も大事な機会だと言っておられ、それは真実の言葉だと思います。ただ彼女はそれは聴衆がいるとかいないとかにかかわらず、常に楽譜の向こうの神様に忠実に振舞っているのであって、その儀式をするについて聴衆がいようがいまいがコンセントレーションを左右されることはない、というような強さを持っている。。。
そもそも、そんなメジューエワさんにはその神様がついているからこそ、演奏できるのかもしれません。

言いたいことは、ときにはメジューエワさんの心のままの演奏を聴きたいということ。
メジューエワさんの演奏するときの心は、神様の声に忠実にという気持ちでいっぱいだと思うのです。
心から楽しんでいると感じられる奏楽が聴かれれば、特にモーツァルトの場合にはさらにもっと感動的な演奏になるように思われます。

もっとも、それは彼女が望むスタイルではないかもしれません。家では息抜き(この人はピアノを弾いたら息抜きできないかも)で、気ままにピアノを爪弾く(orハデな曲を弾き倒す)ことも実はあるのかもしれません。
今回のリサイタルでは、かねてストイックなものを彼女に感じてきて、それを愛でるファンのひとりとしては大満足でしたが、楽譜を見る見ないにかかわらずご自身の心のままを聴かせていただくことをもまたファンとして熱望したいという思うわけです。

それが証拠に、先のロシア小品集やメトネルの楽曲はむしろ、神様が「君のロシアへの思いに忠実に弾きなさい」と指示していると思われる素直な弾きぶり。彼女の声として心に届きます。

メジューエワさんが得意とする作曲家のひとり、ベートーヴェンも「心より出でて心に届かんことを」と言ってるぐらいなのですから、作曲家の意図を重視しつつ自分の心のうちを聴かせてもらえるような奏楽をも、メジューエワさんには期待したいですねぇ。おじさんとしては。。。

さて、コンサート当日ショパンの24の前奏曲のディスクが手に入ったので、デンオンのメトネル作品集以降のメジューエワさんのディスコグラフィーはすべて揃いました。
サイン会でそのことをご本人に告げたところ、横のマネージャーさん(?)に大声でお礼を言われてしまった。。。
演奏が素晴らしかったとお伝えしたとき喜ばれたけれど、そのときははにかんだようにしていらっしゃいましたねぇ。
その中で「特にお気に入りです(にこっ)!」ということで以下の2枚にサインをお願いしたら、いずれにもとても丁寧に書いてくださって感激しました。
ホントに真面目で控えめなお人柄という印象については想像していたとおりでした。
これからも注目して、応援していきたいですねぇ。

★メトネル・アルバム
                  (演奏:イリーナ・メジューエワ)

1.ピアノ・ソナタト短調 作品22
2.忘れられた調べ 作品40
3.牧歌ソナタト長調 作品56
                  (2002年録音)
彼女のメトネルのアルバムの中では、プログラム上も一番バランスの取れたものではないかと思います。
この作曲家は最初聞くと、「なーに、たらたらやってるんだ。。。」みたいに思えてしまうのですが、ずっと聴いていくとその全体の世界の中でいろんな心象風景が表現されているのが分かって、その世界に遊ぶことを楽しむべしというようなタイプの作曲家だと思います。
たしかにいろんな形式とかに則っていますが、私にはそれは余り重要なことであるようには思えません。
その意味でイメージ的にはシューベルトに近いように感じます。彼ほど深刻ではないですが。。。
そのシューベルトには一発で聴き手を引き込む旋律と転調の妙、和声の工夫があるのでたらたらの繰り返しの世界に行っても、夢の中であったり心象風景の中に遊ぶことは比較的容易ですが(弾いてるほうは余程入れ込まないと大変でしょうけど)、メトネルにはそこまで強烈な特徴は感じられません。したがって、弾き手がそこを音価・音色の妙で補ってやる必要があるのですが、その点メジューエワさんは先ほどまでに述べたような独特の音色(高域のクリスタルの音色もここぞで聴かれます)で、この世界に慣れ親しんだ住人として案内してくれます。
それでも《夜の嵐》ソナタの盤などは、ちょっとまだとらえどころのない曲のように思われたりするのですが。。。

あと、ジャケットのドレスに彩度があるのがいい!(^^)/
ロシア小曲集の衣装も限りなく黒に近い紺だと思うけれど、ありゃ黒のうち。。。
色のない世界から、お姫様を救ってやりたい。。。
白馬だと色がないから、橙色の馬に乗って・・・  やめときます。

★ショパン:スケルツォ(全4曲)
                  (演奏:イリーナ・メジューエワ)

1.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
2.スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39
3.即興曲 第1番 変イ長調 作品29
4.スケルツォ 第1番 ロ短調 作品20
5.スケルツォ 第4番 ホ長調 作品54
6.夜想曲(第20番)嬰ハ短調(遺作)
                  (2002年録音)

これは以前にも触れた録音です。ポリーニのそれにも比肩すべき私にとってのスケルツォの名演集。
即興曲第1番の名演も忘れるわけにはいきません。
この盤ではメジューエワさんの独特な強調・アクセントが結構頻繁に現れるのですが、それが作品の激しさを音量とか騒ぎ立てるというオプションを選択しないで表すための、重要な役割を担っており結果として大成功を収めているように思います。
曲順も、プログラムもよく考えられていますね。
ともあれ、いくらピアノが弾けるといっても異国の地で一人で暮らしてということになると、やはり相当の心の強さが求められたのだろうと思いますが、彼女はそれをも強さにかえてしまったようです。

そういえば、外国に留学した演奏家って名のある方なら殆どといえるぐらいですよねぇ。
みんな悩んで大きくなったんですね。

それにしても、このうえなく崇高な“異教徒の儀式”でした。ただならぬ尊崇の念を抱きました。
ちなみに日本語にもご堪能なメジューエワさんですが、ステージ上ではついに一言も発せられませんでした。
いつも出向いている高橋多佳子さんのリサイタルとはここでも対照的ですな!
今ではどっちが主流かわかりませんが。。。