SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

こだわりのエンターティナー

2007年07月31日 00時10分01秒 | ピアノ関連
★ショパン:ワルツ集(全19曲)
                  (演奏:ソルタン・コチシュ)
1.第1番 変ホ長調 作品18 「華麗なる大円舞曲」
2.第2番 変イ長調 作品34-1 「華麗な円舞曲」
3.第3番 イ短調 作品34-2
4.第4番 ヘ長調 作品34-3 「華麗な円舞曲」
5.第5番 変イ長調 作品42 「大円舞曲」
6.第6番 変ニ長調 作品64-1 「小犬」
7.第7番 嬰ハ単調 作品64-2
8.第8番 変イ長調 作品64-3
9.第9番 変イ長調 作品69-1 「別れ」
10.第10番 ロ短調 作品69-2
11.第11番 変ト長調 作品70-1
12.第12番 へ短調/変イ長調 作品70-2
13.第13番 変ニ長調
14、第14番(第16番) 変イ長調 遺作
15.第15番 ホ長調 遺作
16.第16番(第14番) ホ短調 遺作
17.第17番(第19番) イ短調 遺作
18.第18番 変ホ長調 遺作
19.第19番(第17番) 変ホ長調 遺作
※ヘンレ版使用。(  )内は一般的に用いられている番号。
                  (1982年録音)

ただやるだけでは、つまらない!

何かをプロデュースする際に、思い入れが深いほど、またそれが真に有能なスタッフによって製作されるときほど、シンプルな中にも奥行きのある“こだわり”のウリが存在することが多いものであります。

また、そのウンチクを傾けることこそ、えてしてスキモノの悦楽であったりするので「お、あんさんわかるのかい?」ってなもんで、相手との距離がぐっと縮まるきっかけになったり、気づいてない人から「教えてください!(^^;)」的な質問でも来ようモンならチョッとした優越感を感じながら懇切丁寧極まりなく説明してやるやら、いい人間関係が出来たりするんですよね。
その後は、秘密をシェアしたもの同士(同じ穴のムジナとは言いたくない)としての親密感を感じることが出来るようになる・・・。(^^;)

そういうディスクも案外あるものですが、このコチシュの作品も全くそのようなこだわりぶりを示してくれている好盤であります。
ちなみに、私が最初に手に入れたショパンのワルツの全集盤であります。


さて、まず特徴の第一は曲間がほとんどなくシームレスに繋がっていることです。
これにより基本的にヘンレ版の番号順に並べただけのプログラムですが、深夜のラジオ番組を聴いているような流れが出来ているように思います。
これも、エンターテイメントの一要素・・・なんじゃないかと思います。

次に、コチシュの演奏に関して言えば、新鮮で鮮やか!
冒頭、“華麗なる大円舞曲”から“華麗なる円舞曲”への派手な曲の流れで、若々しく早めのテンポを取り、それを明るく華やかにそして何より音楽的に弾きあげられています。
この技術上なんの心配もなく、目くるめく疾走感で聴き手にカマすこともできる技巧と音楽的センスあっての企画であることは明白であります。
エンターテイメントとして大きな成功を収めていると思えるのも、エンターテイナーとしてのコチシュの力量に負うところ大でありましょう。

フレッシュで若々しい感性に彩られた演奏というのであれば、まず思い浮かぶのが閃きにあふれたリパッティの盤、そしてショパンコンクール優勝直後のブーニンの録音も霊感という霊感をディスクに詰め込んだ感のある演奏でした。
霊感やら閃きやらという観点だけではコチシュの盤は後塵を拝するかもしれませんが、コチシュとて負けてはいません。
もとより霊感やら閃きといった感覚的な切り口でこの人は勝負をしようとしているわけではないと思うのです。

先に述べた使用する楽譜へのこだわり、ワルツという楽曲が本来持っているものをこだわりぬいて音に変えたその昇華こそを「聴き手に問いたい」と考えているのに違いありません。

繰り返しますがコチシュの姿勢は「この演奏を聴いてほしい」ではなくて、自分のこだわりとそれに対するソリューションを自信たっぷりに提示して、聴き手を屈服させようと企んでいる突っ張ったにーちゃん・・・そんな感じがするのです。

素直に聞いて、素直に楽しんで、素直に「よかった」といってやれば、単純に満面の笑みになりそうなピアニスト、コチシュとはそんな人ではないかと思います。

それでは何を聴いてやれば満足してくれるのかというと、まずは当たり前ですが演奏そのものですよね。
フレッシュな感性を完全な技巧でコントロールしたそれを、ワクワクして聴いたと表明すればコチシュでなくとも喜びますよね。(^^;)
果たしてこの演奏は、弾き手も聴き手もハッピーにさせられるものであり、その意味からも最高のエンターティナーの手になるものといって過言ではないでしょう。

そして最もコチシュがこだわっているであろうことが、このディスクを企画した出発点ともいうべき“研究の成果”であります。

コチシュはヘンレ版に従い、曲順も敢えて通常のものと違えて演奏しているのですが、そんな資料的価値のみに留まらず、彼としてはこの版で演奏することが聴き手にも十全な楽しみを与えるのに有効であるとの仮説の下にこの演奏を世に問うているに相違ないはずです。

ですから“別れのワルツ”以下、作品番号のついた第13番までの遺作としてショパンの友人であるフォンタナにより出版された曲についても、出版譜ではなく原典にあたり演奏しています。
その通常の版との味わいの違いを楽しんだと言ったら、コチシュは喜んでくれるのではないかと・・・。

どう違うかといえば、“幻想即興曲”の決定稿とフォンタナ版との差ほどは歴然としていないとはいえ、私には同様に若干ソフィスティケートされた改変があるのではないかと感じられました。
もしかしたらそれは演奏者のアゴーギグの問題なのかもしれませんけど、若干ぎこちないというかイモっぽいというか、洗練されていないクセのようなものを聴き取ったつもりです。

“幻想即興曲”にせよピアニストは人口に膾炙したフォンタナ版を使うのが普通だと思います。
有名な曲であるほど、やはりたとえ正統であるとしても異った稿を使うのは勇気がいるんでしょうね。
その点、好漢コチシュは敢然と自身の信じるところにしたがってやってのけている・・・“こだわりのエンターティナー”と銘打ったのは正にこのことに起因します。

その後のコチシュが、ドビュッシー、バルトーク、ラフマニノフ等に秀演を残しているのはみなさんご承知の通りです。
でも、私にはこのディスクに続くショパン、そしてリスト、最後はシューベルトの演奏をピアニストとしての彼に望みたい・・・そんな気持ちで一杯です。(^^)v

なお、全くどうでもいいことですが、作品34-2に「華麗なる円舞曲」とのサブタイトルを付けなかったことが私にはスマッシュ・ヒットに思われます。(^^;)

狼少女 ~だって気持ちいいんだもん

2007年07月30日 01時19分46秒 | オーケストラ関連
★ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4番、ピアノ・ソナタ 第30番・第31番
              (演奏:エレーヌ・グリモー(p)、クルト・マズア指揮/ニューヨーク・フィルハーモニック)
1.ピアノ協奏曲 第4番 ト長調 作品58
2.ピアノ・ソナタ 第30番 ホ長調 作品109
3.ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
                    (1999年録音)

先だって「アイリーン・ジョイスの再来か?」みたいな感じでゴウラリ嬢によるベートーヴェンの第3番のコンチェルトの盤の記事を掲載しました。
そしてネット上の新譜予告で、このグリモーによる“皇帝”のディスクがあるのを見てムショーに聴きたくなって掘り出したのがこれ。(^^)/

今やドイツ・グラモフォンに移籍してラン・ランなどと共に看板ピアニストとなった感のあるエレーヌ・グリモー。
彼女がテルデックに残したディスクの数々にはブラームスの独奏曲集、ラフマニノフの第2番のコンチェルトなどなど、名盤としてたやすく指折れるものが少なくありませんが、私が最も愛聴したというべきものはこのベートーヴェンのト長調コンチェルトなのであります。

ベートーヴェンの5曲のピアノ協奏曲の中では、実はぶっちぎりでこれがいちばん好きなのです。
そして、数多あるこの曲の名演奏のうちでもツィメルマン/バーンスタイン盤と並んで、最も私の好みにあっているのがこのグリモー盤なのであります。

先に述べたいきさつで久しぶりに聴いたんですが・・・やっぱりいいですねぇ~。(^^)/
本格派の演奏でありながら、全然いかめしくない。
最初から最後まで、あるべき音があるべき姿でそこで鳴っているというべき、まことに据わりのいい演奏だと思います。。

マズアの指揮も本当に曲調にマッチしていて、概ね穏やかでありながらちゃんと張り出すところは張り出しているし、ある意味おおらかなサウンドのニューヨーク・フィルであること、さらには観客を前にしたライヴ録音だということも幸いしているのではないでしょうか?
もしもドイツのオケを振っていたら、こんなに幸福感にあふれたツケはできなかったように思います。


グリモーのピアノに戻りましょう。
第1楽章、ピアノ独奏から始まるこのコンチェルトですが妙に畏まることもなく、自然体でスタートすることができています。
安定した演奏でリラックスしたムードを維持して中庸を行きますが、やや明るめ、やや華やぎがあることなどにより聴き手を幸せにしてくれるのです。

さりながら、最初に本格派といったとおり全くダレたところがない・・・しっかりと弾き上げられています。
若手の女流による演奏らしいと言われればそうですが、そんなことはこの演奏を聴いたときにはいささかも問題ではありません。

だって、聴いてて気持ちいいんだもん。。。(^^)/

これがすべてですね。

第2楽章でも、もしかしたら中間の不安定な心境を表しているような楽句への踏み込みが甘いという声を上げる余地はあるかもしれませんが、そんなことはやはりたいした問題ではない・・・。
だって、聴いてて気持ちいいんだもん、なのです。

情感の表現はさっぱりしていますが、その爽やかな感受性で何を受け止めているかは感覚的によく伝わってきますし、楽章終了間際の第3楽章への含みを持たせた場面の空気がまことに相応しくコントロールされているさまには、脱帽するしかありませんね。

そして第3楽章が弱音で蠢き始めてほどなくオケの合奏との掛け合いになる場面、オケを向こうにまわしてピアノを鳴らしきって応じているのですが、これも全く余計な力が入っていない状態で緩みのない多幸感(愉悦感とまではいかないよね~)を弾き表せてしまっているのがステキです。

そして曲の終わりに至っても、なんの衒いもなく、なんの勿体をつけることもなく弾き切ってしまって爽快そのものです。
やはり、記憶に残っていたとおりの気持ちいい演奏でしたね。


併録されているピアノ・ソナタ第30番、第31番も、リラックスして楽しむべき、やや華やぎのある演奏であるとお伝えしましょう。
感想のほうが大袈裟になってしまうかもしれませんが、「これぞ、王道」であると思います。

しっかりと弾きあげられた演奏でありテンポの設定やアーティキュレーション、フレージングなどの処理に何一つ中庸でないものはありません。
そうであってもなお、亜流に堕さないばかりか、ナヨナヨしたようなところは皆無だし、音色は美しいし・・・ホメ言葉を挙げればこれも枚挙に暇がないでしょう。

純粋に現代ピアノ(スタインウェイ)の音色を生かして、生気にあふれた感興をその響きに託して歌い上げる。。。
作品109の第3楽章、変奏のクライマックスに至ってはじわじわ盛りあげていった到達点として目くるめく音世界を演出しても見せてくれるし、その後の曲の終わりに繋がる弱音のフレーズとの対比にため息をついて聴き入るうちに気持ちよくしじまに消えていく・・・というイメージです。

続く作品110番がまたその余韻を受けて、さりげないながら生気に満ちた出だしから心地よく盛り上がっていくんですよねぇ~。
何のムリもなくとにかくスムーズに曲が進行していく・・・。
ピアニストにとってはきっと熟考のうえの解釈なんでしょうが、聴き手には「素直がいちばん」と思わせる弾きぶりであります。
他の演奏が、これを聴くと「何を考えすぎてるんだろう?」と思わされるぐらい晴朗で心の中から元気が沁みだしてくるように感じられてしまいます。

潤いも輝きもある音色で、嘆きの歌からフーガを経て築かれる音響の大伽藍までとにかく爽快で気持ちいい・・・。
いつもなら最後の大伽藍は限りなく壮大に盛りあげて欲しいと願うのが常なのに、この演奏の展開からすれば絶妙な過不足ない押しの強さに、また中庸の美をみてしまって・・・。
これじゃ何の説明にもなっていないかもしれませんが・・・。(^^;)


さてさて、このディスクのジャケット内側に、グリモーは自身の狼との生活風景を写したフォトを載せています。
                  

本当に幸せそうな屈託のない笑顔に満ちたピアニストの姿がそこにあります。
自身のライフワークを実践できていることへの満足感と、ほどよい使命感みたいなものが演奏にも反映していると感じさせられる点で、非常に秀逸なジャケットのコンセプトだと思いました。

この盤は、彼女が狼との生活を通しての活動で自然との共生や保護を訴えかけていたはしりの時期に製作されたアイテムだったんですね~。
どうりで見事なまでに最初から最後まで、気持ちよく幸せな感覚を表現し、それを維持し続けて・・・果たして最後まで幸せな感覚のまま終わるこのディスク。

「いつかは、演奏中のどこかで何かが起こって緊張が走るのではないか!?」

聴き手(少なくとも私)はこんな勝手な緊張感を抱きながら聴き続けるのですが、果たしてこのうえない幸せな気持ちに満たされたまま聴き終えることになってしまいます。
すべからく、大いなる充足感を残して・・・。


幸せを阻害する何かが今に「来るぞ・・・来るぞ、来るぞぉ~」と思いつつ、終には来ない有様をお察しいただければタイトルの意味もわかっていただけるでしょう・・・。(^^;)

そう・・・。
グリモーはやっぱり“狼少女”だったんです!!(^^)/

グールドのエコー

2007年07月29日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★アンドリュー・ランゲル・プレイズ・シューベルト
                  (演奏:アンドリュー・ランゲル)
1.シューベルト:ピアノ・ソナタ 変ロ長調 D.960
2.シューベルト:楽興の時 D.780
                  (2002年録音)

アンドリュー・ランゲルはジュリアードで学んだアメリカのピアニスト。
これは例によってシューベルトの変ロ長調ソナタのディスクということで、インターネットで一部試聴して入手することにしたものです。

ところで、レコ芸最新号にに当該ディスクの“BRIDGE”レーベルが、今最もアメリカで旬なインディペンデント・レーベルと認識されている旨が海外評論家の寄稿記事に書かれていました。
その“BRIDGE”レーベルの現在の中心的ピアニストと思しき人こそ、このランゲルであります。


さてさて、当初のこの記事につけられたタイトルは“不自由さゆえの洗練”でありました。
何を隠そう、最初にこのディスクを聴いた印象は「ハズレ(>_<)」だったんです。

(ネットで試聴した)冒頭こそ、テンポをたっぷりとって情感豊かに弾き始めますが、程なく出だしが思わせぶりなのはたまたまで、実は情感なんてあまり重要視していないのでは・・・と感じられる進行振りだったので・・・。

使用ピアノは“ハンブルグ・スタインウェイ・D”であり現代ピアノの機能を十全に備えた機種であると思われます。
しかし、最初聴いた時には現代ピアノらしからぬ「何らかの不自由」を感じさせる演奏だったのです。

その理由をあれこれ考えたところ、このランゲルというピアニストにはひとつの信条があるのではないかと考えました。
それはペダルの使用法についてのポリシーともいえることです。
つまり、ランゲルは「ペダルは音色を作り出すものではあるが、断じて音を伸ばすためのものではない」と勝手に思い込んでいるのではないか?・・・これが私が思い至った仮説であります。

近日中に取り上げる予定ですが、ランゲルはもともと“ゴールドベルク変奏曲”のディスクをはじめとするバッハ演奏で名をあげた人であるようです。
そう考えれば、このような行きかたになるのもレパートリーによっては“極めて至当”といえるんでしょうけどね。
でも、これはシューベルト、それも変ロ長調ソナタなんです・・・。(^^;)

この仮説を真とすれば、徹底してペダルを節約するピアニストの動機として考えられるのは“絶対に音場を混濁させたくない”という強烈な意志なのでしょう。

これを裏打ちするもう一つの理由があります。
スタインウェイであれば脱力して、体重をうまく鍵盤に乗せるようにすれば相当な轟音がピアノからもたらされる性能を持っているはずです。
ランゲルはこのディスクの間中、この技を使用してピアノを鳴らしきるという作業をしていないと思われる・・・だからです。

翻って変ロ長調ソナタの第4楽章の和音などを演奏するには、多くのピアニストがその“轟音”を利用しているように思います。そしてそれらの演奏では、確かにそれなりに演奏効果が上がっていることが多いとも思います。

果たしてランゲルは、敢えてその豊かな響きを放棄して演奏を設計し展開しています。
その結果として、ことのほかクリアな音場を手に入れ、他にない洗練されたトーンやアーティキュレーションを実現できる余地を見出した・・・。
が、反面、音を伸ばせないので一部不自由さ、不器用さを感じさせる局面も生まれてしまった・・・こんなところではないかと思ったわけです。


でも、何ゆえかこのハズレの演奏に魅かれるというか引っかかるものを感じていました・・・。
こうなると私の性分からして、「なんでだろぉ~」を理由付けしないわけにいかなくなってしまうため、特に何度もこのディスクを聴くことになってしまって。。。(^^;)

ふとその音色から気づいてしまった印象がもう頭から離れなくなって・・・。
何が聴こえたかのか・・・それは、“グールドのエコー”です。
そう思った瞬間以降、この演奏に対する感じ方が大きく変わってしまったのです。。


変ロ長調ソナタの第一楽章・・・不意に立ち止まったり、ためらいがちなそぶりを見せる第1主題。。。
音色からして感じきったような始まり方です・・・が、それは長くは続きません。
左手のアルペジオ伴奏に乗って曲が流れ出すとテンポを一気に上げ、非常に“ハギレのよい”フレージングになる!?
シューベルトなのに、それも変ロ長調ソナタなのに・・・。(^^;)
第1主題が和音で反復されるところにまで至ると、曲調にかかわりなく聴きようによっては乱痴気騒ぎに思えてしまう・・・のです。

ただしテヌートの音にせよ、歯切れのよい音(スタッカートというにはチョッと丸っこいかな?)にせよ、これぞ磨き抜かれた音という感じで耳を引きつけられずにはおかないぐらい魅力的ではありますけどね。
グールドに酷似した、この独特な音色美がランゲルというピアニストの生命線であります。
そしてその音色を最大に生かすための場作りに欠かせないのが、混濁を何より嫌う精神とその実践というわけでありましょう。

しかしこの音色への配慮ときたら。。。
旋律のフレーズはもとより、伴奏のバスにせよ内声にせよひとつひとつの音全てに行き渡らせられた神経、決してブツ切れにしたりしない音の消え際・・・そして、それだけの注意を払っていながら決して神経質に聞かせることがないのです。
これは本当に凄いことです。(^^)/


改めてランゲルが何をどう優先順位して演奏しているんだか考えてみました。
① クリアな音声の保持 (絶対に混濁させないし、音を混ぜ合わせることで得られる効果は狙わない。)
② 磨きぬかれた音色美の実現 (ただしピアニストはあくまでも表現上の手段だと主張するんでしょうね。)
③ 曲調を感じきった表現 (トリルひとつとってもスピード、音色、アクセント・・・いろいろ)
④ 感傷的な曲としての楽曲把握でなく、ソナタとしての形式感の実現


テンポの揺れ、曲調の急変があるのが当初本当に気になりました。でも、今ではそれほどでもない・・・。
だんだん慣れてきたのか、あるいは蝕まれてきたのか!? (^^;)

第2楽章でも伴奏の1音に至るまできっちりと役割を与え、それに最適な音の表情が与えられているのがわかります。
普通であれば、ピアニストが解釈した全体の曲調ありきで、細部の表情は犠牲になることが多いというのにランゲルにはそれがない。
「細部まで全力で表現しにいっている」というのがよく判ります。
このように、一瞬ごとの表情を敏感に表現するもんだから、曲の流れの中で、都度、印象が大きくぶれるのは成り行きでしかたないとも思えますが・・・。
このピアニストの演奏にかかると、理性が残っているはずなのに麻薬的(部分麻酔的?)にそんなことが気にならなくなるところがあります。

それにしても、この楽章でハ長調に密やかに転調するところの場面転換などなんとも鮮やかではありませんか。
もっともこの演奏方針であれば、驚くにはあたりませんが・・・。

第3楽章でも、この楽章がソプラノ部とテノール部のデュエットで語り継がれていくということを、これほどはっきり思い起こさせてくれた演奏はありません。
音色に聴き手の意識がいっているからこそ、それに気づかせてもらえたんだと思います。

第4楽章もいろんな意味で提起された問題の多い演奏であります。
一言で言って、媚びている!?
シューベルトって、こんなに後ろめたそうな感情を込めてこの楽章を作曲したのでしょうか?
まずもって、舞曲としては捉えられていないように思います。

あえてこの楽章の演奏を言葉で説明すれば、神の国に憧憬を持ちつつも、現世の罪の意識に苛まれた音楽・・・という感じでしょうか。
解釈者(ピアニスト)には不本意かもしれませんが、そんなふうに受け止められてしまいました。


久しぶりに1曲の演奏に長々と紙幅を費やしてしまいました。
いずれにせよ、第一聴ではネガティブな印象を持った、このランゲルによる変ロ長調ソナタの解釈に接したおかげで、私の内側では新しいこの曲の受容の地平が開拓されたことは確かです。
それぞれの楽章の特徴はともかくも、それぞれの有機的な結びつきがイマイチ感じられない点など、ギモンもいろいろ残ってはおりますが・・・。(^^;)


カップリングの“楽興のとき”も同様に新鮮です。
第1曲の潤った音とはいえ風通しのよい音場から醸し出される雰囲気・・・。
第2曲のほの温かい詩情。
第3曲のやや引きずるようなテヌートを交えた音の綾と、絶妙なフレージング。
第4曲の中間、上声部、下声部の旋律線をフーガのように絡み合わせた発想の妙。
第5曲、鳴らしきっているのに絶対にクリアな音場のもたらすもの・・・。
第6曲、再びの温かな詩情とピアニストの呼吸・・・そしてフッと消える終わりかた。

敢えて喩えれば、グールドと同じテイストを感じさせるとはいえ、他の誰とも違うピアニスト、ランゲル。
やはり、注目せずにはいられません。(^^)/

東洋系の運動性能

2007年07月28日 01時10分14秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第21番・第23番・第26番
                  (演奏:メルヴィン・タン)
1.ピアノ・ソナタ第26番 変ホ長調 “告別”
2.ピアノ・ソナタ第21番 ハ長調 “ワルトシュタイン”
3.ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 “熱情”
                  (1987年録音)

私が初めてフォルテ・ピアノによる演奏を耳にした、そして感動したのがこのメルヴィン・タンによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ演奏でした。

今やこのように毎日のようにディスクの印象をしたためるようになったために、曲調に相応しいと思われる言葉を捜すのが日常化しているのですが、当時は単に聴いて据わりのいい演奏だったから何度も繰り返し聴き、その都度感動を新たにしていたというのが正直なところだったんでしょうね。

今回もやはり、“しっくり来るから”というのが、このディスクを聴いた心証に最もぴったりの形容詞といったらいいんでしょうか・・・。(^^;)
いまもって何度聴いても飽きません。


このメルヴィン・タンというピアニストを聴くとき、本当に流麗な運動性能抜群の指を持っている方だといつも思います。
そしてなぜだか判りませんが、指が廻りに廻っているということを妙に、それでいて強烈に感じさせるところがあります。
とはいえ技巧一辺倒というわけではなく、できあがりの音楽には先ごろから記しているとおり“感動する”“しっくり来る”という心に訴えかけてくる要素にもことかかないというところが、このディスクの美点です。

やはり西洋人のカロリーたっぷりという体型から繰り出されるのとは少し様相が違う、東洋系の瞬発力、持久力に加え、しなやかさを持ったフレージングを感得することができます。
このディスクにおいて、その点で特に特筆すべきは“熱情ソナタ”の第3楽章コーダなど。
前進意欲やまない展開の中でも、指の廻りが最後まで衰えることなく弾き切られてしまうところなどは聴いていて思わず笑っちゃうぐらいスゴイと同時に、手に汗握る展開を楽しめること請け合いです。

そのタンの独奏のディスク中、最も素晴らしいと思うのが本盤であります。
彼の伴奏盤であればこれに匹敵すると思うものもありますが、他のベートーヴェンやシューベルトのディスクからはこのディスクほどに特別な価値があるという感触はありませんから。

このディスクを聴くまではギレリスの演奏のみが私のスタンダードでしたが、いっぺんに塗り変わりましたねぇ~。
もちろんギレリスを忘れて、こちらに乗り換えるといった感じではなかったですが、もしかしたらベートーヴェンはフォルテピアノでこそ表現できるのではないか・・・ぐらいに考えたことがあったのも事実です。


さて、このディスクは当初EMIで製作されているようなのですが、なぜかヴァージンからの再発ディスクになって世に出ています。

確か1990年前後にクラシックCDの総名鑑を手に入れて、それが私のコレクションの根幹をなすディスクを手に入れるガイドとなっていたのですが、その中でのこのディスクはEMIで例のナポレオンが馬に乗って峠越えをしている絵をジャケットにあしらったものでありました。
その評論をみてぜひ聴いてみたいとディスクを探していましたが、当時はインターネット・ショップなどなく、どうしても手に入らないため残念がっていたのですが、名古屋のタワレコだかHMVでこのヴァージンの廉価盤を見つけたときにはもの凄くトキメいたものですねぇ~。
新たなジャケット・デザインがダサいのは非常に残念でしたけど。。。

タンはこの他モーツァルトのピアノ・ソナタ第8番などをEMIで録音しているはずですが、彼の演奏で注目した盤はこれだけがまだ入手することができていません。
ずっ~と探してるんですけどね・・・。(^^;)


それでは、このディスクについて若干触れておきましょう。
使用されているフォルテピアノは、1814年の“ナンネッテ・シュトライヒャー”製作モデルのレプリカです。
フォルテピアノにありがちな過剰な音色のにじみ感もなく、安定した直截な音色が特長といえる機種だと思います。
そして、正にベートーヴェンがこれらの楽曲を作曲した時代の楽器であり、ベートーヴェンが実際に聴いていた音色がこれだと思えるような音楽に仕上がっています。

当時としては、ひどくアヴァンギャルドだったのでしょうが、特にスタインウェイなどに顕著な現代ピアノの金属的な響きを知っているものからすれば、やはり箱庭の中で精一杯鳴っているレベルから出ていないという感を抱きます。
その範囲で、とても安定した晴朗な響きがするのです。

個々の曲に関して言えば、“告別”ソナタは伴奏にせよ高音域の装飾にせよ細かい音のパッセージが効いて、曲に繊細な彩を与えているのが印象的です。

“ワルトシュタイン”ソナタにおける第1楽章の快速テンポは、タンの運動性能を発揮するにはこの上ない見せ場であります。多彩な音色を駆使し、楽器を強打しても曲の流れをぶっ壊すような破壊力がでないのを逆手にとって、力一杯の打鍵を交えて気持ちよく弾ききっています。
第3楽章は細かいパッセージに託された明るい温かみが、この演奏を聴き手の心を癒すのに必要十分な音楽に仕立て上げています。
一つ一つの音が決然と鳴らされているから、聴き手にとってももどかしさを感じさせることなくスカッと決めてもらえるのです。

“熱情”ソナタは、小股の切れ上がった小気味よさが身上。
現代ピアノのような迫力は求めるべくもありませんが、現代ピアノではできない現実的な細かなコントロールを、彼の正確な運動性能を持つ指は情感豊かに、かつ鮮やかに成し遂げていきます。


書に喩えれば、明るい筆致で誠実に楷書で書き上げられた・・・そんなイメージを抱かされる演奏。
そういえば、先だって3種の“熱情”ソナタをピアノを違えて録音したランバート・オーキスの演奏をご紹介しましたが、あの盤における3番目の楽器もここで使用しているナンネッテ・シュトライヒャーのコピーモデルでしたよね。
オーキスが示していた大柄な演奏よりは奏楽のスケールがずっと締まっていて、この点からも東洋的と言ってよいかもしれません。

フォルテピアノ演奏に関心があるかたには、特にお勧めできる内容を備えたディスクであると思いますよ。(^^)v

19世紀末のパリを描く・・・

2007年07月27日 17時06分12秒 | ピアノ関連
★2台ピアノのための作品集 ~エラール・ピアノで描く芸術の都パリ
                  (演奏:ジョス・ファン・インマゼール、クレール・シュヴァリエ)
1.サン=サーンス:死の舞踏 Op.40
2.サン=サーンス:ベートーヴェンの主題による2台ピアノのための変奏曲集 Op.35
3.フランク:前奏曲/フーガと変奏曲 Op.18
4.インファンテ:3つのアンダルシア風舞曲 (1921)
5.プーランク:悲歌~互いの同意のもとに(1959)
6.プーランク:シテール島への船出(1951)
7.プーランク:「仮面舞踏会」によるカプリッチョ (1952)
                  (1999年録音)

19世紀末から20世紀初頭のエラール社製のピアノフォルテによる、往時のパリのをしのばせるレパートリーによる一枚です。
ここでは、インマゼールが1897製、シュヴァリエが1904年製の楽器を使っているそうです。
曲によってプリモとセコンドを入れ替えているものの、相変わらず息のあったアンサンブルを展開してくれています。

副題のタイトルはいかにもこの2人らしいものですが、虚心坦懐に聴くと本当にいっぱい発見がある楽しいディスクでもあります。
この形での19世紀末前後の音楽からして、こういったメンツじゃないとなかなか聴けるモンじゃないでしょう。(^^)/

サン=サーンスの“死の舞踏”は、まずこのディスクの冒頭として最適な一曲だと思いますね。
なんといっても、出だしの和音がひどく愛らしい。。。
これだけでこのディスクが只者ではないと思わされてしまう・・・まずは摑みはオッケイというところでしょうか。

続く“ベートーヴェンの主題による変奏曲”にせよ、ベートーヴェンのダイナミズムも感じさせながら変奏の曲によってはお花畑をも想起させるような賑々しい楽曲で、多少冗長だとも思えますがそれはピアニストのせいではなく・・・という曲です。

フランクの“前奏曲、フーガと変奏曲”は以前特集をしたこともある曲で、私は大好きです。
どうしても私には聴き所として受け止められてしまう楽曲なのであります。

ここでは2台ピアノのための編曲で、さすがに装飾に至るまで音数が増えた表現上の多彩さ、自由さを感じさせますね。
ただ通常聴いている現在のグランドピアノではなく、2台あるとはいえいかんせん往時のピアノフォルテですから、残響の豊かさがいかにも乏しい。。。
それを補うために・・・というわけで、必然的にテンポがグッと速くなっており、だからこそ現れる世界を2人がしっかりと彫琢しているといった風情です。
したがって、この曲の解釈としては辛口の味わいになっているといえるかもしれません。
ともあれ、貴重な音源です。(^^)/

続くインファンテの楽曲ですが、この曲がいい曲かどうかは別にして、エスパニョ~ラを感じさせる弾き映えのするもの。
こういった曲集の中においたときに、目先を変えながらもエンターテイメント性を失わないようにとの選曲でありましょう。

このディスクのもう一つの聴き所は、最後のプーランクにあると感じました。
6人組の中でも最も若く、私が生まれた頃まで生きていた彼の音楽を弾き表すのにわざわざピアノフォルテを使う必要があるのかという気もしましたが、彼の子供の頃に巷に普及していたのはやはりこのテの楽器でしょうから、そういう意味ではプーランクの“深層心理の中の音を聴いていると言えなくもないかな”と納得することにしておきます。

“悲歌”はその名の通りフランスの哀愁を、最も洗練された形で表した楽曲だと思います。
大いに気に入りましたねぇ~。(^^;)

続く“シテール島への船出”もかの有名な絵にちなんだものかどうかはわかりませんが、極めて楽しいワルツです。
例えるなら、モーツァルト:3、ショパン:2、ラヴェル:5で混ぜ合わせて、プーランクのスパイスを混ぜてシェイクしたような曲・・・といったらいいでしょうか?
こんな例えをされても、私以外に判るとは思えませんが、これ以上詳しく感じたいという方はどうかこのディスクに耳を傾けてくださいね。

最後の“仮面舞踏会によるカプリッチョ”も、プーランクの真骨頂でしょう。
気まぐれにズレにズレまくるかと思えば、ハッとする暗転も多数ある。。。本当に一筋縄ではいかない作曲家である彼の魅力全開ですね。
こういった世界は案外すきなんです。


とにかく、このようにあまり聴く機会のない楽曲を楽しい演奏で提供してくれる彼らには、ただただ感謝の思いです。(^^)v
Zig-Zag・テリトワールズ・レーベルには、今後とも要チェックですな。

戦場の熱情トライアスロン

2007年07月26日 00時00分08秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集
                  (演奏:ファジル・サイ)
1.ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 作品57 《熱情》
2.ピアノ・ソナタ 第21番 ハ長調 作品53 《ワルトシュタイン》
3.ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 作品31の2 《テンペスト》
                  (2005年録音)

さあ始まります。
とにかくピアノは格闘技!
そういえば構造上も、“戦場”ならぬピアノ“線上”のもぐらたたきのようなもの・・・いや、地雷のようなハンマーが下から雨アラレのように襲ってくるものですよね。(^^;)

グランド・ピアノの“センジョウ”最前線で爆音・轟音とどろかせ、ピアノ・ソルジャーが一旦コンセントレーションしてピアノに向ったそのときには、曲が収束するまでとにかく気合の入った唸り声とともに全速力で駆け抜ける!
それはあたかも、音楽によるランボーというべき展開・・・。(^^;)

このディスクでのあらゆるフレーズがスリリングなことこの上なく、工夫に満ちています。
だた戦場に出るには鍛え上げられた肉体が必須。それを獲得するにはそれなりの訓練も欠かせません。
手っ取り早くは、ビリーズ・ブート・キャンプで・・・という人もありましょうが、このディスクにおけるピアニストかつソルジャーであるファジル・サイは天性の才能もさることながら、研究と訓練のうえに築き上げた持てる能力の限りを尽くして完璧にこの演奏を成し遂げています。

もしも聴き手に先入観、それもベートーヴェンが厳めしい作曲家であるとか、ベートーヴェンノピアノ・ソナタは斯界の旧約聖書であるなどといったそれを持っていると、このディスクを聴くとフラストレーションが溜まりこそすれ、得られるものはないかもしれません。(^^;)


そんなこのディスクではありますが、もちろんこの記事を書くという前提もあったのでということをお断りしたうえで、私はこの好漢ピアニストによる全編通じて流れるポジティブな感性を、ロック音楽を聞くように極めて楽しく聞きおおせてしまいました。
てなわけで、“熱情ソナタ”3楽章をあたかもトライアスロンの3種目を戦い抜いているというドラマとしてご紹介させていただきたいと思います。

《熱情ソナタ:トライアスロン大会》

◆第1楽章:遠泳の章◆
冒頭のピアノの出だしからして、ピアノ線色の金属的な波間を展望しているようです。
ベートーヴェンはこの曲を作曲する際に、飛躍的に進化していくこの楽器がどこまで出来るのかの可能性をとことん追求していますが、サイの演奏からは本来過大な負荷をあえて課して、悲劇的に染め上げたはずのこの楽章のどのフレーズからもポジティブなものを感じさせます。

困難を極める道のりであっても、何故か最後にはできちゃうだろうと思わせるような長嶋茂雄的な楽観主義がベースにある雄渾さと、緻密な計算をしているくせに瑣末なことにこだわらない・・・そして最後は本能的なカンピューターの指示に従うという、これも長嶋茂雄的なおおらかさ(いいかげんさ)で勢いでとにかく押して行っちゃっているのです。

この加速度的な勢いからは、長嶋茂雄さんのみならずロック音楽の執拗なリフ、ビリーをするときビートのノリ、ムキムキのスタローンのアクションなどが連想されますね。
要するに準備を周到にして、後はフィジカルなリズムのノリとコーコツ感に任せて自分を信じてポジティブに臨む・・・こんなところでしょうか?

果たして楽章最後になるにつれても、楽想が楽想なだけに悲劇的なムードはあるけれど、スタローンの映画にあるような「ハッピーエンドを盛り上げる前振りに違いない」と思わせるだけの期待感が漂っているのです。


◆第2楽章:バイクの章◆
さて、バイクに乗り換えてこの楽章はつかの間の・・・という感じこそすれ、ここでもムキムキ感と青春映画のワンシーンみたいな演出には事欠きません。
特にこの楽章が変奏曲楽章であることにこれだけはっきり気づかせてくれた演奏はいまだかつてないですね。(^^)/

軽快で明るい変奏になると突如テンポアップしてウキウキしちゃうところには、はやる気持ちが出ていていいですね。
何故かトシちゃんと聖子ちゃんが手を繋いで自転車に乗っているような錯覚に陥ったりもしました。
そんなこと思ってここを聞くヤツは、あまりいないでしょうけど・・・。(^^;)

そして第3楽章へのつなぎとなる和音が小気味よく鳴らされます。この響きの質感がたまりません!(^^)/


◆第3楽章:マラソンの章◆
こっ、このテンポは・・・!? 
まさか前傾姿勢の全力疾走で42.195kmを走りきろうというのかっ!!!
・・・と思われるほどに、前のめりに爆走するのが痛快です。

早い早い・・・あっという間に楽章を走り切り、コーダのトラップではじめて大爆発をタップリ表現して敵を殲滅、ソルジャーとしての任務を完遂するや、その余韻に浸るまもなくダントツの首位でゴールになだれ込むのです。

この演奏を聴いてしまうとハイドシェックがいかに爆演と評されていても、そこに深さやうまみを求めないのであればサイの前に敵はない・・・ですね。(^^;)
いやぁ、楽しい演奏でした!!
感想は、野球の20対0のワンサイドゲームを見てるようでした・・・ってカンジですね。  


続く“ワルトシュタイン”“テンペスト”でも同傾向の演奏で楽しませてくれますが、“熱情”を聞いた後では“ワルトシュタイン”の第1楽章の軽快な音楽さえスローモーに聴こえます。(^^;)

“ワルトシュタイン”では第3楽章でバスの使い方、音がタップリとられ(ベーゼンドルファー・インペリアルの威力炸裂)安定感抜群であると共に、希望に満ちた響きが演出されています。

さらに驚いたのは、例のオクターブ・グリッサンドのところ・・・。
気持ちいいぐらいにブツ切れ!!(^^;)

“テンペスト”でも同様・・・出だしの地の底から湧き出るようになんて評されるアルペジオ。。。
リヒテルなんかとは違い、全然神秘的でないし、ましてや謎めいてなんかいない。。。(^^;)

「健全なる魂は健全なる肉体に宿る」というか「正体見たり枯尾花」というか、全編ピアノの弦をハンバーで叩いて出た音をお聴きいただいています、工夫次第でいろんな音になるでしょ・・・という響きが聞こえるのみ。
もはや、UFOもいなければネッシーも存在しない・・・そんなものより年金や肉まんの方がよほどミステリアスという時代のベートーヴェンです。(^^;)

とにかく想像力とか難しいことは抜き!
フィジカルに徹して、熱に浮かされたように演奏に没入しランナーズ・ハイの状態で本能のままに演奏したならば、それこそ精神直結だろうがぁ!
文句あっかぁ~!?(^^;)・・・ってなもんで。

この方式による最高の成果を“音楽芸術”と認めるかどうかは別として、これだけの演奏を成し遂げる体力・精神力・技術にはただただ脱帽です。
本当に凄い演奏を聴かせていただきました。。。

それでもやっぱり、「あざとすぎ!」というヤジや、「ベートーヴェンは断じてこんなんじゃない!!!」という声があることもお伝えせざるを得ませんね。

それではこれで中継を終わりたいと思います。


ほな、“サイ”なら! (^^)v




※出張のため先日付投稿いたします。

21世紀のアイリーン・ジョイス?

2007年07月25日 00時00分31秒 | オーケストラ関連
★ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番・ピアノ・ソナタ『悲愴』
                  (演奏:アンナ・ゴウラリ(p)、コリン・デイヴィス指揮 ドレスデン・シュターツカペレ)
1.ピアノ協奏曲 第3番 ハ短調 作品37
2.自作主題による32の変奏曲
3.ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13 『悲愴』
                  (2001年録音)

類稀なピアノの演奏技術のみならず、類稀な美貌を持ち合わせてスクリーンでも活躍したアイリーン・ジョイス。
彼女のリサイタルでは曲ごとにドレスを着替えたり、いろんな演出が試みられていたようです。
まぁ私なんかは脳天気に「おー・おー(^^)/」なんて喜んじゃうんでしょうけど、一途な音楽愛好家からすれば「ぶー・ぶー」と言いたくなるような振る舞いだったことも十分理解できるところではあります。

私はこのゴウラリというピアニストをディスクの演奏上でしか知らないのですが、ジャケットを見た瞬間にアイリーン・ジョイスのイメージが浮かびました。
このディスク自体が“インヴィンシブル”という映画のサウンドトラックのようでもあり、どうやらピアニスト自身がピアニスト役で出演しているためにこのようなジャケットになったらしいこともアイリーン・ジョイス連想の裏打ちとなりました。


さてさて、それでは演奏はどうなのか?
・・・・・・・・・・これが実に何とも味わいのある演奏なのです。

このベートーヴェンに関して言えば、決して大きく飛翔したり突き抜けたり、かといって深く内面に沈潜するような演奏ではありません。
では平凡な演奏家というと、決してそうではない。。。

サー・コリン・デイヴィスの棒は、いつもながらオーソドックスでありながら非常に端整で美しい伴奏をつけていますが、先に述べたようにピアニストがその演奏に乗って声高に叫ぶわけではありません。
むしろどちらかといったら慎ましい演奏と言ってよいでしょう。

でも、不思議とちゃんと映えてるんです。これ以上論評のしようがありません。(^^;)

“悲愴ソナタ”の演奏もコンチェルト同様に端整で慎ましくありながらも、決して退屈させないもの・・・。
では、何に魅かれるか・・・それがうまく説明できないというか、よく判ってない?

敢えて何とか理由付けするとすれば、どんなに目だなくても音楽に常に推進力があるということでしょうか・・・。
積極的に前に進んでいこうとしていることだけは、よ~くわかります・・・けどそれだけなのかなぁ~。(^^;)
まだなんかあるような気がするんだけど。。。

ゴウラリは1972年生まれのロシアのピアニストとライナーにありました。
ということはもはや駆け出しではないでしょうが、若手であることに間違いない奏者による演奏ではあり、確かに爽快感というか、演奏に新味を感じないわけでもありません。
でもどちらかというと、落ち着きと抑制の中でのトータルな完成度を感じさせるところが只者ではない・・・。
他の作曲家の場合ではどんな演奏を聴かせてくれるのかが、とても気になるピアニストであります。


★アンナ・ゴウラリ・スピールト・ショパン
                  (演奏:アンナ・ゴウラリ)

1.スケルツォ 第1番 ロ短調 作品20
2.スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
3.スケルツォ 第3番 嬰ハ短調 作品39
4.スケルツォ 第4番 ホ長調 作品54
5.幻想曲 ヘ短調 作品49
6.ポロネーズ 嬰ハ短調 作品26-1
7.華麗なる大ワルツ ヘ長調 作品34-3
                  (2001年)

ゴウラリの魅力はむしろこのショパンでのほうが顕著かもしれません。
総論的な特長はベートーヴェン同様、突き抜けるようなスケール感はないけれどこじんまりまとまるというものではなく、音価・リズムを自在に伸縮させながら曲の中でのパートごとにコントラストを明確につけることで楽しませてくれる・・・とでも言いましょうか。

であるとすれば、当然ベートーヴェンのようなかっちりした音楽よりショパンの方が効果を発揮しやすいのでしょうが、果たしてそのとおり大変魅惑的なショパンになっています。

ゴウラリ節とでも言ったらいいのでしょうか?
まず、かなりの運動性能を秘めた指の廻りを武器にしていることがスケルツォ第1番冒頭から明らかにされています。
そして、巧みなペダル操作により背景となる音に深く淡く靄をかけるテクニックとか、またそのタイミングの自在性とか、ベートーヴェン演奏でも指摘した推進性、あるいは拍節の内でのフレーズの伸縮性などこの人ならではの一貫した味付けがちゃんとある・・・。

殊にフレージングの尻尾を、ジャケットの風貌よろしく神経質なネコがささっと身を翻すように短い間に押し込めることでコケティッシュな魅力を放つなど、これも確信犯であろうとはいえ効果を挙げていることは間違いないでしょう。
おじさん、とりわけ鼻の下の筋肉が弛緩しがちなオジサマ相手には特に有効かもしれません。(^^;)

そんなこんなで私には特に晴朗なスケルツォ第4番などでは、これまでに聴いたことがないような演奏効果を挙がっているように聴こえます。
幻想曲、ワルツと尻上がりに華やかさが増し(かといってやはり天空に飛翔するようなイメージはないんですけど)、賑々しく終わるのも健康的な趣向であると思います。


とにかく聴けば聴くほど味わいがスルメのように増してくるのも、この人の演奏の得がたい特長。

ただし裏を返せば、カキーンと抜けた演奏を聴きたい時にはチョイスしにくいピアニストであるのは・・・これは仕方ないのかもしれませんな。(^^;)


蛇足にして細かい話ですが、1番印象に残っているのは実はスケルツォ第1番の最後の2和音が楽譜より1オクターブ高いのか?
それとも楽譜どおりであったとしても際立たせている音が、高音側なのか・・・要するに最後の音が通常より高く感じたということです。
これによりやや攻撃的な終わり方ではあっても、落ち着きのない終わり方に思えました。

こんなこと、気にしなきゃいいのにねぇ~・・・と思いつつ、そういった瑣末なことを往々にして気にする私には自己コントロール力が欠けているのかもしれません。(>_<)

親密にして愉悦的なワルツ

2007年07月24日 00時24分56秒 | ピアノ関連
★ショパン:ワルツ集(全14曲)
                   (演奏:大森 智子)
1.第13番 作品70-3 変ニ長調
2.第1番 作品18 変ホ長調 「華麗なる大円舞曲」
3.第8番 作品64-3 変イ長調 
4.第9番 作品69-1 変イ長調 「別れのワルツ」
5.第11番 作品70-1 変ト長調
6.第3番 作品34-2 イ短調 「華麗なる円舞曲」
7.第10番 作品69-2 ロ短調
8.第6番 作品64-1 変ニ長調 「小犬のワルツ」
9.第2番 作品34-1 変イ長調 「華麗なる円舞曲」
10.第12番 作品70-1 ヘ短調
11.第4番 作品34-3 ヘ長調 「華麗なる円舞曲」
12.第5番 作品42 変イ長調 「大円舞曲」
13.第7番 作品64-2 嬰ハ短調
14.第14番 遺作 ホ短調
15.第13番 作品70-3 変ニ長調
                  (2002年録音)

ショパンのディスクのうちで、最も音楽的な遊びに満ち満ちているものをご紹介しましょう。(^^)/

大森智子(ともこ)さんは、極めて完全であり、かつ落ち着いた技巧をお持ちのピアニストだと思います。
このディスクでは、彼女のショパンを愛するひとかたならぬ心と、これまでにショパンの楽曲と向き合ってきた経験、それらからこう弾き表してみたいと願ったすべてのことを押し込めたという程に“やりたい放題”の表現上の工夫が試されています。
もちろん、私はそれらを称して“音楽的な遊び”と礼賛するものであります。(^^;)

極めて安心感のある演奏でありながら、カレイも犬もネコも杓子もピアニストの工夫の限りを尽くして、愛するこれらの曲を弾ける喜びを隠すことなく戯れて(じゃれあって?)いるかのよう・・・なのです。

繰り返し言いますが、ピアニストは本当にショパンを・・・そしてこれらの楽曲を愛しているんでしょうね。
そうでなければ、これらの曲のこんな側面までは気づく由もないんだろうし、たとえ知っていても、世間体を気にして、こんな風に自在には弾けないと思うのです。


今日のタイトルはラヴェルのかの曲のパロディーとして付けてみましたが、このディスクの構成・・・遺作の第13番から始まって同じ曲で締める・・・からは、ゴールドベルク変奏曲に通じるようなものも感じますね。

ディスク全体を“ワルツというリズムで閉じられた世界のショパン音楽のヴァリエーション”の連作に見立てているという感じ。
これにはリパッティの先例がありますが、それともまた違う曲順であること、ピアニストにとって特に思い入れが深いという第13番を額縁のように配したということで無限の連鎖を想起させることなどで、独自のアイデアとして非常に成功したものであるように感じます。


先ほども工夫と書きましたが、解釈や表現はまさにやりたい放題ですなぁ~。
でも、ピアニストのこれらのワルツへの深い愛情というか慈しんでいる心が、それらの奏法を決してあざとい奇矯なものにしてないのです。
決して「録音時に霊感が降ってきたような気がしたから思いつきでやってみた」ものではないし、なんていうんだろう、大人のまなざしを持った遊び方だからなのかなぁ~、しょっちゅう思わずニヤリとさせられるのに音楽の本質をはずされたと感じることが一切ないのは・・・。

なによりこのことが聴き手にとってラッキーだし、嬉しいところです。(^^)v


先に工夫や仕掛け(トラップではない)が一杯詰め込まれていることを述べてしまいましたが、アプローチそのものは本当に素直です。
華麗なるモノはとにかくカレイで艶やかに、イヌやネコはコケティッシュながら大騒ぎだし、叙情的な曲ではフレージング等に思わせぶりな素振りを時折折り込みながらもちゃんとメランコリックさは生きています。

いつもオープンマインドで曲に対峙しているからこそ、ともすればあざとさだけが感じられてしまうかもしれないリスクを冒しても、聴き手には邪心や衒いがあるようには聴こえないのでしょうね。
けっこう刺激的なところもエンターテイメントの一環として受け止められましたです。


個別の例をひとつ挙げるのには「小犬のワルツ」がいいでしょうか?
テーマの繰り返しのときの表情を変える、それは2回目は小さく・・・などは数多の演奏となんら変わりないんですがフレージングの変化も麗しくウツクシイ。。。
思わずカタカナで書きたくなってしまうほどに。
トリオの部分でもそうなのですが、繰り返しのところに入るオクターブ上の前打音の処理・・・。
この味付けというか意味づけというか、まことに興味深いんです。
他の演奏よりずっと目立つし、滑らかでレガート(同じ意味か?)・・・これはこのピアニストによる発見だといっていいと思います。
そして再現部、中低音を充実させて膨らませた感じにしパトラッシュみたいに成長しつつある少し大きくなった小犬を感じさせ、最後は極めて鮮やかに下降パッセージが決まる・・・といった具合。

全体のサイクルでもそうですが、一曲一曲にこんな具合にドラマが感じられて、なおかつ、「何故そのように(ダイタンに)表現されているのか」の理由もわかるように弾ける人は何人もいないような気がします。
いや、いるかもしれないけど、そのようにディスクを作っている人は余りいないと思うのです。


ちょっとショパンのワルツに正対して聴いてみたいときにはいい演奏だと思いますね。
もちろん、高雅にして感傷的に聴きたいときにもOKです。(^^)v

唯我独尊の美意識

2007年07月23日 00時02分33秒 | ピアノ関連
★メンデルスゾーン:無言歌集
                  (演奏:エフゲニ・ザラフィアンツ)
1.ハイドン:ピアノ・ソナタハ短調 Hob.XVI;20
2.メンデルスゾーン:無言歌集より 
 ①第 4番 イ長調  「ないしょ話」
 ②第10番 ロ短調  「さすらい人」
 ③第14番 ハ短調  「失われた幸福」
 ④第20番 変ホ短調 「浮き雲」
 ⑤第21番 ト短調  「胸さわぎ」
 ⑥第25番 ト長調  「五月のそよ風」
 ⑦第33番 変ロ長調 「巡礼の歌」
 ⑧第 3番 イ長調  「狩の歌」
 ⑨第38番 イ短調  「別れ」
 ⑩第45番 ハ長調  「タランテラ」
 ⑪第46番 ト短調  「そよぐ風」
 ⑫第48番 ハ長調  「信仰」
3.メンデルスゾーン:舟歌 イ長調 WoO10
                  (2005年録音) 

所詮、どんな芸術であっても自己の感性に忠実になればなるほど“ゆるぎない想いこみ”の所産となるのではないか・・・ザラフィアンツの演奏を聴くと善しにつけ悪しきにつけそのような想いを禁じえません。

レコ芸などでの書評では、彼は“ピアノの詩人”などと呼ばれることが多いようです。
もちろんショパンがそう呼ばれるのとは異なり、演奏面が“詩的である”というお墨付きを奉されているわけですが・・・。

私も彼への“ピアノの詩人”という称号に反対を表明するものではありませんが、私の言葉で評させていただくとすれば、とにかくこの人の演奏は常人の神経を恐ろしく蝕みかねないほどの“ある種の美しさ”をたたえていると賞賛したくなるのと同時に、もしかしたらとんでもない“独りよがりな世界”の表出以外の何者でもないのではという懸念も覚える稀有な存在です・・・ということになります。(^^;)


ところで、ザラフィアンツが演奏しているその瞬間、いったい彼はどんな精神状態なんでしょうか?
彼の演奏に触れるたびにそんなことを思うのですが、どうしても「こうじゃないか?」と確信的に想像することができずにいます。
彼は、トランス状態(あるいは酩酊状態)にあるのではないかと思えるほど没入しているように思えながら、弾き飛ばしなどは皆無で、アファナシエフ等のようにテンポが遅いわけではありませんが、むしろ深くしっかり弾き切られたタッチは覚醒した理性を感じさせます。
文字にしてみれば、Gペンで“画然”と書かれた“イタリック体”のアルファベットみたい・・・?
必ずしもこれらは相反するわけでもないでしょうが、両立しがたい2つの要素を一つに統べているように思われるのです。


そのようなザラフィアンツの演奏には、麻薬的な、少なくとも耳から吸引する媚薬といった効能があります。
症状は心が内部から崩壊するというか、溶けちゃうような感覚・・・。
まずは彼の輝きも憂いもある音色がその主成分であることは間違いありません。
この音色の毒気を最大限に生かして旋律線がくっきりと描きあげられた日には、もはやいかんともしがたい中枢神経的な麻痺症状に冒されたと自覚するのです。

個別に例を挙げれば冒頭のハイドンのソナタの第1楽章では、先の特長に加えてさらに幻惑症状を増幅させるかのような伴奏の和声が慎ましく付加され、例えばソプラノ部の主旋律にテノール部の対旋律が応えるところ、あるいは思いに沈んだ旋律のブレス前の音が消え入るように置かれるところなどに差し掛かると、魂を抜かれてしまうのです。

第2楽章でも同様で、曲の途中でじっくりじっくり高みに昇り詰めていかれると、聴いているこちら側も昂みに昇りつめてしまいそうになります。

第3楽章も、深い憂いに満ちた音楽を奏でていながらタッチの明晰さを考えると決してピアニストが夢見心地になっているわけではないのは判ります。
でもなんといってよいかわかりませんが、とにかく金縛りにあったようにというか、脳みその中心がジーンとなった感じにさせられ彼の美の世界に囚われてしまうのです。


それでは彼の音世界に全面降伏して中毒症状になるかというと、実はそうではないんです。
どうしても中毒になるまいという心の中での防衛反応のメカニズムが稼動してしまうんですね・・・。

原因として思い当たるのは、とくに覚醒したタッチにより、曲の輪郭が曲本来のスケールより大きくなってしまっていることがあげられるように思います。
したがって本来もっと慎ましい佇まいのはずの楽曲が、大ソナタの短い緩徐楽章のようにリッパに聞こえたりする・・・。そんなとき、本当に「この曲はこんな曲なんだろうか?」と怪訝に思ってしまうのです。
例えば“狩の歌”なんてこんなに壮大な曲でしたっけ!?(^^;)

もう一点、これも覚醒したタッチに起因するであろう点ですが、ある傾向の感情の量が圧倒的に少ないのではないか・・・欠落した感情の名をはっきりと特定できませんが、たとえば「ためらい」などという感情。。。
そのような感情をも表現しようとしているんだろうけど、結果としてそれがいまいち聴き手に感じ取れないという結果になっているようにも思えてしまうのです。


ただメンデルスゾーンの無言歌集作品19-4“ないしょ話”と呼ばれるこの作品には、心底打たれました。
私が理解しているテンポ・ルバートといわれる奏法の最良の例がここにあるのではないかと思われます。
この世界であればいざなわれたいし、ずっと囚われていたいですね。

他にも作品53-2の“浮雲”や最終曲の“舟歌”のような曲調の楽曲の演奏には他の追随を許さない、いわゆる“詩的な演奏”のアルティメット・スタイルがあると言ってしまいましょう。
毒気に当てられただけと思う方もいるかもしれませんが・・・。


そういえばメンデルスゾーンの無言歌集についてはシューマンの評があって、美しい夕焼けの残照の中でふと頭をよぎった旋律をピアノの響きに乗せることができたら、もしそれがメンデルスゾーンのような人だったらば、それはきっと素晴らしい無言歌になるだろうという感じだったと思いますが、ピアノの響きにインスピレーションを得て“唯我独尊の美意識”でロマンティックに弾きあげるあたりのザラフィアンツの行き方は“無言歌”の成り立ちに極めて忠実であるといえるようにも思います。


この盤はザラフィアンツのディスクの中でもとくに抗しがたい麻痺感、陶酔感、逆に冒されまいとする拒絶反応と聴き手の精神が分裂しそうな演奏ですけど、ここまで徹底してくれると私も実は“気持ちいい”と感じているのかもしれませんね。
やはり、私がその動向から目を離すわけには行かないと感じているピアニスト・・・なんです。(^^)/

この方の場合には最早、曲がどう、セオリーがこうというよりも「ザラフィアンツさん、どうぞご存分になさってください」と言うしかないですね。
それは、限りなく「好き勝手にやってくれ!」とさじを投げているのに等しいかもしれませんが。。。(^^)v

ベートーヴェン激情

2007年07月22日 00時00分01秒 | ピアノ関連
★ベートーヴェン:ソナタ集
                  (演奏:フランク・ブラレイ)
1.ピアノ・ソナタ第14番 嬰ハ短調 作品27-2 “月光”
2.ピアノ・ソナタ第23番 ヘ短調 作品53 “熱情”
3.ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110
                  (2001年)

フランク・ブラレイは今売り出し中のフランス人ピアニスト・・・。
このディスクはハルモニア・ムンディ・フランスからリリースされていますが、このレーベルの注目すべき新人シリーズに登場してから、やや珍しいレパートリーを録音したりしていましたが、ここでは王道ベートーヴェンの代表的なピアノ・ソナタで勝負しています。

まず、このプログラムに惹かれますねぇ~。
何といってもここに作品110の変イ長調ソナタを選ぶというところからして、私とウマが合うことが約束されているようなものです。
私はこのディスクで彼を知りましたが、これ一枚で心底魅了されてしまいました。(^^;)

この後、これもフランスの俊秀ピアニストであるエリック・ル・サージュとデュオを組むなどして興味深いディスクを発表したりして、順調にキャリアを重ねているようです。
今後の成熟振りを期待して見守っていきたいピアニストの筆頭といえるかもしれません。


さて、ベートーヴェンという作曲家をどんな切り口で捉えるかによって、彼の手になる作品の演奏手法には数々のバリエーションが生み出されることになるのでしょうが、ここでブラレイの考えるベートーヴェン像は、とにかく“ピアノに激情をぶつける”という側面が最優先されているように思われます。
ただ、そこは“おフランス”のピアニスト、その中に洗練を忘れることはありませんが・・・。(^^;)

ひとくちに“激情をぶつける”にもいろいろやり方があるでしょう。これはあくまでも私の考えではありますが、現代のグランドピアノにはその実現に2つの大きな障壁があると思うのです。

それはまず現代ピアノにおいて強音を出そうとする時の、絶妙に脱力してカラダの重みをうまく腕や手に乗せてスコーンと抜けた音を出すテクニックではヌケがよすぎて彼の目指す“激情”にならないのではないかということ・・・。
言い換えると、彼が求めている音はピアノのハンマーが弦をしなやかにクリーンヒットした時の音ではないんじゃないかということです。

例えば梵鐘だって、脱力してうまく突いたときにはコーンとヌケたような音がしますよね。
でも、あれでは激した迫力は表現できない・・・むしろホンのわずか芯を外して、なおかつ力づくで無理やり突いたときの少しクリップして潰れたような音のほうが“激情”を感じさせるにはもってこいだと考えたのではないか、わたしにはそう思えるのです。

では鍵盤を引っぱたけばよいのかというと、それでは響きがコントロール不能になるばかりか、音の表情が、ひいては演奏そのものが硬直化してしまうからそれも不味い。。。
ならば楽曲中の強い打鍵の要請があるあらゆる箇所で、「鍵盤をやや力んだ感じで押し込むように弾くことが求められる場合にどうしたらよいのか?」という点に方法論として解決策を見出さなければならなくはないか。。。

もう1点は残響の処理についてです。
現代のコンサートグランドは交差弦であり、構造上倍音を生みやすいと思います。
そんな機構を持った楽器でのべつ強音を弾けなどという要請があったら、音場が混濁してしまって制御が困難になってしまうだろうという問題であります。


ところでこの問題は、先日の記事で特集したオーキスのようにフォルテピアノを使用することで概ね解決できると思われますが、ブラレイは何らかの事情でこの策は採りませんでした。
単に“自分はフォルテピアノ奏者じゃないから”という程の理由かもしれませんけどね。

それでもブラレイは彼ならではの発想で、解決策を見出しています。
それはズバリ1883年に製造されたスタインウェイを使って録音するということです。

そういえばオーキスも“熱情ソナタ”を現代ピアノとフォルテピアノとを使って弾き比べる中で、現代ピアノは残響が比較的少なくピアノ本来の音の美しさが売り物だと思われる“ベーゼンドルファー・インペリアル”を用いるという工夫をしていたように思います。

これに対しブラレイは、やはりスタインウェイの輝かしい打弦音が捨てがたかったのでしょうか。。。
製造年の古い、したがって交差弦の構造を採っていない楽器を発掘して使用することで、激情を込めた強音を思う存分鳴らしきることと、音場の明感を保つことを両立させることを成功させています。

いやぁ正にアイデアの勝利!!(^^)/
もとよりベートーヴェンの音楽を弾き表せるだけの力量を十二分に備えているからこそ、これらの工夫も生きてくるんでしょうが・・・。(^^;)


個々の楽曲においても、現代ピアノよりは細身の音ながら強く鳴らしこまれた強音と、やはり細身ながら現代ピアノの表現力に限りなく近い弱音により、時代楽器を使っているという印象を余り与えないで(とはいえ、音色は特徴的ですが)、クリアな音場を保ったまま自身の主張である“ベートーヴェンの激情”を彫琢していっています。

“月光ソナタ”のコーダも、アシュケナージが「戦い」と評したとおりのすさまじさで駆け抜けているし、“熱情ソナタ”もオーキスほど濃い解釈ではないですが、スマートでありながらピアノの限界、演奏家の限界を探ってやまないような迫力を表現しえています。
そして“作品110”、嘆きの歌以降の展開もじりじりと盛り上がっていき、最後の大伽藍が築き上げられるさまは細身の音と、清潔な響き、さらにはここでも駆使されている激情の音色でくまどられて目が覚める思いであります。

ここにはわが国で伝説や神話のように言われている“権威主義的なベートーヴェン”はいませんが、若きピアニストの才気が爆発した演奏とピアノの選択に端を発する工夫に満ち満ちています。
そこで顕現されるベートーヴェン演奏には、昂ぶる想いのすべてをピアノに理性的にぶつけた激情ともいえる迫力が感じられます。


フランク・ブラレイ、端倪すべからざる才能です!!(^^)/

バッハのゆりかご

2007年07月21日 00時14分34秒 | 器楽・室内楽関連
★アコーディオン・バッハ
                  (演奏:御喜 美江)
1.フランス組曲 第5番 ト長調 BWV.816
2.フランス組曲 第6番 ホ長調 BWV.817
3.フランス風序曲(パルティータ) ロ短調 BWV.831
4.アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳(1725)から
                  (1997年録音)

なんて自在な音楽、まるでゆりかごに揺られているようになんて心地よい音楽なんでしょうか!? (^^)/

今年の3月29日(私の誕生日)に紀尾井ホールでガラ・コンサートがありました。
お目当ては高橋多佳子さんだったのですが、当然他の気鋭のアーティストの演奏にも触れることができ少なからぬ感動をいただいたものです。
結婚以来家族のいない誕生日って初めてだったんですが、おかげさまでホントいい誕生日でした。

その中でもクラシカル・アコーディオン奏者の御喜美江さんのパフォーマンスには深い感銘を受けました。
演奏もさることながらその語りに真実味があること、朴訥とまではいかないけれど必要なことを落ち着いた口調でボソッと話される風情に浮ついたところのない信頼感みたいなものを感じました。

肝心の演奏も、スカルラッティのソナタ、このディスクにも収められているバッハのメヌエット(BWV.Anh.114)の他、ピアソラどころかジョン・ゾーンの現代音楽のフィールドに至るまで非常に多彩で、20分余でアコーディオン音楽の歴史をすべて紐解いたと思えるぐらいのプログラムを、ことごとく聴き手を唸らせる内容でこともなく(そのように思えた)演奏しきってくださいました。

もちろん御喜さんのことをこれまでまったく知らなかったわけではありません。
レコ芸でも賞賛されていたし、このディスクは高音質ディスクとしてステレオサウンド誌などでも特集されていましたから。
でも、こうして実演を聴いて驚くまで手に取ることはなかった・・・。

不覚でしたねぇ・・・このディスクは何とかかんとか手に入れることができましたが、スカルラッティのCDも発注すれど来ないと思ったら入手不可になっちゃうし・・・。(>_<)
なんでこれほどの人のこれほどの演奏が、すぐ手に入らなくなっちゃうんでしょうかねぇ?

これだけでも入手できてラッキーだと思うことにしようと、ターンテーブルに載せてみてさらにビックリ!!
ここで書き出しの感想にいたるわけです。(^^)v
ゆりかごでもいいんですけど、ホントはむしろ羊水に浮いている感覚と言いたいほど心地よく癒されるんですよね。


ライナーには御喜さん自身の手になる解説がありますが、それによると先のバッハのメヌエットが彼女が音楽の道で立っていこうと決意するにいたったきっかけの曲だそうです。
誰でも知っている簡素な曲ですが、このディスクの演奏が親密に、そしていかに多くを語りかけてきてくれるか言葉になりません。

ごくごく自然に加えられる装飾音のひとつひとつに、幼稚園の先生が幼児にやさしく何かを諭しているような光景が浮かぶかのようです。
もちろん子供たちは、みんなその先生が大好きで先生の話に目を輝かせ聞き入っている、そんなインティメートな空間。。。
このディスクにはそんな瞬間が一杯に詰まっています。

また、アコーディオンの音には芯がなくなかなかバッハの音楽を形作るのが困難だったため、断念まで考えた由が記されていました。
この音楽を聴くと何の気負いも衒いもないように聴こえますが、達人とはいえそこまで行くにはいろいろあったということなのでしょう。


ところで私はといえば、普段接しているピアノやハープシコードとはもちろん、ふいごで空気を送り込むといった構造が似てるようにも思えるオルガンともやはり違うこのアコーディオンという楽器を、御喜さんの演奏に触れて心の底から見直しました。

これまでにもアコーディオンのディスクを聴いたことがないわけではないのですが、ことごとく奇矯なことをしているようにしか思えなかったのです。
まぁ奇矯なことをしているディスクしか手に取らなかったのかもしれませんが・・・。(^^;)

そんなアコーディオン演奏の先入観も払拭し、今やこのバッハのディスクを精神的に明るくなりたい時、心を安らかにリラックスさせたい時、そして何より優しくなりたい時に手に取るようになりました。

みなさんはアコーディオンにピアソラの音楽や、遊園地の音楽、あと例えばマリオネットの踊りといったようなイメージを持っていらっしゃいませんか?
私は御喜さんの演奏に触れたことで、そんなイメージはそのままに、素晴らしいクラシック音楽を表現できる楽器としても認識できるようになったのです。
リード楽器で、奏者が空気を送り込むことで発音するという構造から、人の呼吸とか営みの全てが音に反映する繊細な楽器だというように・・・。

そして最良の奏者がこの楽器を扱ったとき、体中を使って心の機微を表現することができるんだということも・・・。
このディスクには音楽に対する喜び、驚き、悲しみといった基本的な感情が詰まっており、それを素直に聴き手の心にあるときはまっとうに届けてくれるし、またあるときにはそっとしのばせてくれるというような心の中での経験ができる稀有なディスクのひとつです。

そんなわけでかつてのスカルラッティのディスクも何とか探していきたいですし、近作ではグリーグの抒情小曲集を取り上げているようですから、動向をチェックしていかねばなりますまい。

彼女のブログも発見して読むようになりましたが、ホント目が離せない楽しみなアーティストですね。(^^;)

説明できない素晴らしさ

2007年07月20日 17時19分54秒 | ピアノ関連
★J.S.バッハ:イタリアン・コンチェルト
                  (演奏:スヴャストラフ・リヒテル)
1.ソナタ ハ長調 BWV966
2.ソナタ 二長調 BWV963
3.ソナタ ニ短調 BWV964
4.カプリッチョ ホ長調「ヨハン・クリストフ・バッハをたたえて」 BWV993
5.4つのデュエット BWV802~805
6.イタリアン・コンチェルト ヘ長調 BWV971
                  (1991年録音)

かのパラドックスで有名なラッセルなんかにいわせると、“説明できない素晴らしさ”と銘打っておいて対象となるディスクに言葉を加えようなんていうことは自己矛盾していると言われそうですが、気にしない私なのでありました。(^^)v

ひとりでボケてひとりで突っ込んでいないで、とっとと始めろという声が聞こえるわけでもありませんが・・・などと、この上いらんこというのはよしましょう。


リヒテルは確かに偉大なピアニストではありますが、晩年に残したディスクは殆どがライヴ録音であり、メジャーから発売された公認盤であったとしてもその演奏が必ずしも万全なものばかりではなかったように思われます。
単に私が気に入っていないだけなのかもしれませんが、でも明らかに演奏の好不調は大きく反映している・・・。

そして彼は“壊し屋”とは言いませんが、全盛期には爆発的な瞬発力も、持久力も備えた豪腕のピアニストであり、その咆哮にシビれる演奏も数知れずありました。
もちろんメロディアスな曲、静かな曲への共感を示すことにも秀でていたわけですが・・・。

でも、このバッハの演奏にそんなリヒテルの面影を探そうとしてもなかなかお目にかかれません。

確かにややロマンティックな香りもなくはないのですが、豪腕というよりむしろさっぱり系で「これがリヒテルの演奏?」という感じなのです。

ならば、彼も枯れてきたのか?
そう、枯淡の域にある演奏であるのかもしれませんが生命感はちゃんと感じられますし、まごうかたなきリヒテルの演奏である・・・と思えないだけで、素晴らしい演奏ではあるのです。

偉大なる第ピアニストであるリヒテルの演奏と聴けばありがたく、リヒテルの演奏であることを知らずに聴けば、どちらかというと小粒で端整な演奏でありながら、明るく歯切れのいいイメージを抱かせながらも仄かな味わい深さをも湛えた秀逸なバッハということができましょう。

何とも不思議な、だけどとても素晴らしい演奏が収められたディスクであります。

なお、このディスクには“スタジオ録音であるがリヒテル本人が発売を認めた”旨がわざわざ記載されています。

なんか、アヤシイなぁ~。。。(^^;)
と、却って違和感を覚えてしまう私でありました。





※中越沖地震に関してご心配・お見舞いをいただきました。
 おかげさまで家族は皆無事にしております。取り急ぎご報告と御礼を申し上げます。

ねつじょう、ねつじょー、ねつじょぉだじょー!

2007年07月19日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ランバート・オーキス・プレイズ・ベートーヴェン
                  (演奏:ランバート・オーキス)
1.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタヘ短調 作品57 「熱情」
2.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタヘ短調 作品57 「熱情」
3.ベートーヴェン:ピアノ・ソナタヘ短調 作品57 「熱情」
                  (2003年録音)

今年はベートーヴェンの熱情が出版されてから200周年であります。
当初は先ごろ手に入れたこのディスクを記念年の特集記事にと思っておりましたが、長岡純子さんのディスクで杮落としをしてしまいましたので・・・。
しかし、本命中の本命の1枚が登場するということです。

なにゆえにタイトルで“ハタ坊化”しているかはプログラムを見ていただければ判りますよね。(^^;)
これ間違いじゃないっすよ!
3種類の時代や特性が違うピアノを使って“熱情ソナタ”を弾き比べてみるので、聞き比べてミソという趣向のディスクなんです。

つまり、
1回目:トーマス&バーバラ・ヴォルフ製作のフォルテピアノ
2回目:ベーゼンドルファー・インペリアル・コンサート・グランド(現代ピアノ)
3回目:R.J.リギア製作のフォルテピアノ

もう少し解説すると、1回目はベートーヴェンの知人ナンネッテ・シュトライヒャーによる1814-1820年頃楽器のレプリカ(フォルテピアノ)、2曲目はもちろん現代ピアノ、3曲目は1830年頃のウィーン・モデルのフォルテピアノのレプリカで演奏されているのです。

私は、こういうマニアックなひとだぁ~い好きです。(^^)/
いやぁ伊達にムター姐の伴奏をしている御仁ではないですな。筋金入りじゃああ~りませんか!
こういったディスクが出てくると、あの(ムター姐のダンナの)老プレヴィンをして「彼に出来ないことはない」と言わしめていることも納得ですね。

「彼にできないことはない」なんて、ウルトラマンが(ハヤタ隊員だった)黒部進さんに言われたことがある程度で、他には聞かないですもんね。
それぐらい希少価値のあるホメ言葉じゃないでしょうか?

さて6ページにわたる英文ライナーをメンドイので辞書も引かずに、多くの判らない単語は前後の文脈から判断すると言う手法で読み解きますと(30分以上かかった・・・)、

「ベーゼンドルファーが他のピアノと違うと言うのは想定内であったが、この時代のピアノの進化は想像以上にすさまじかったようでフォルテピアノ同士の(主に)演奏時の残響による違いには驚きを禁じえなかった。
したがって演奏中に自分の心の耳(inner ear)に照らして、解釈の再確認をしながら演奏をする必要に迫られた。
聴き手の皆さんにはこれらの楽器という「レンズ」を通してみた熱情ソナタの姿を楽しんでほしい。私自身も多くを学んだ。」

というようなことが書いてあったんだろうと思います。

まあウチの小3の次男が中2の長女の国語の教科書を読んだようなものなので、違ってても文句はなしでお願いしたいのですが・・・。(^^;)


肝心の演奏ですが、そうは言ってもオーキスの解釈には一貫したものがあると思いました。
純粋に楽器の相違により、オーキスの表現したいコアなものを表現するためにはどうすべきかという点には腐心しているんだと想いますが、ピアノの特性に合わせてその根幹が揺るぐということはない。
さすが、オーキス! こういったところも男らしくてステキです。

そしてその表現したいところとは“熱情ソナタ”の毅然とした感情の推移をダイナミックかつ明確に聴き手に提示することではないかと想いました。
まぁこの曲を演奏する際には当たり前のことでしょうが。。。
そして3日に亘ってレコーディングは敢行され、1日に1台ずつピアノのダイナミズムの進化の探求はなされていっております。
そして、当時のオーキスの言葉通りフォルテピアノの進化スピードがもの凄かったこと、音色に関しては10年あまりの違いと思えないぐらいに現代ピアノに近づいていることを実感しました。

オーキスの解釈では、フォルテピアノではその特性上“抜けない”音質をうまく使って強音部分では力技でその迫力を出していくし、中低部の音域の弱音部分では音色・リズムでフレーズの輪郭をくっきり出していく、パッションある演奏ですが風貌どおりのクレバーさを随所に感じさせ必ず-自分が没入してしまった姿をで聞かせるのはなく-聴き手にどう届いているかを念頭に置いた弾きぶりが嬉しいですね。

やはりベーゼンドルファーを使った演奏が、最も聴きやすいのは当然でありましょうか・・・。(^^;)
なんてったって耳が慣れてるモンね!

フォルテピアノと比較すると、なんと音が自然に快く“抜けていく”んでしょう!
したがって迫力も自然に感じられるし、オーキス自身の演奏の目的も極めて明確に達成できているように感じられます。
ピアニストもストレスフリーに演奏できているように思えるのですが、鍵盤はずっと重いでしょうから実際には相当ストレスがあるのかもしれません。(^^;)

でも、オーキスって本当にうまいですね。さすがウルトラマンと比肩されるだけあります。
伴奏ピアニストにしておくのはもったいないぐらい・・・。
でも伴奏することで、演奏を聴きながらコントロールする技を磨いていったんでしょうかね。工夫しているなと思わせられるところはあるのですが、聴いていてそれが表現の則を越えることは決してありません。

個人的にはインペリアルではあってもベーゼンを使ったところから既に工夫があると思っています。
というのは、スタインウェイを使ったとしたらもっと響の抜け方、暴れる残響の交通整理が大変だったでしょうからね。
ベーゼンドルファーだからこそ、他のフォルテピアノと並べても違和感なく違いを楽したのではないかと・・・。
また、第3楽章におけるバスの音はやはりインペリアルならではの深みにあふれていることも、この演奏の大きな特長だと言えましょうからね。


何はともあれ、この記事でお伝えしたかったことは「ランバート・オーキス恐るべし!」ということになるんでしょうか?
おもしろい経験でありました。


最後にこのライナーにはピアノ製作者たちと一緒に写った笑顔の写真が収められていて、スーパーなどで野菜の生産者が笑顔で写っている写真を思い起こしました。
これらの方々のおかげで、私もこういった興味深い体験ができたと思うにつけ感謝・感謝であることを申し添えます。
(^^)v




※出張のため先日付投稿いたします。

日本男児の品格

2007年07月18日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★ブラームス アルバムⅢ ソナタ第3番 他
                  (演奏:園田 高弘)
1.ソナタ ヘ短調 作品5
2.幻想曲集 作品116
3.間奏曲集 作品117
                  (1997年録音)

“国家”やら“女性”やらやたら品格が問われるご時勢でございます。
私のこのバックステージでも、先般長岡純子女史のベートーヴェン演奏に“大和撫子の品格”を見つけた旨のご報告をさせていただいたところでございます。

参院選も公示されわが国のあるべき将来を展望するためには、やはりわが国の男子のあるべき品格についても述べねばならないだろうと思い至ったものでございます。

日本男児に必ず求められるべきは何か?
かの“国家の品格”をものされた藤原某氏に聞いたならば「武士道」であり「惻隠の情」であると言われるのが必定でありましょう。

私も全くその通りと首肯するものであります。

ただし、あの書物内での書きぶりは「惻隠の情」と言われながらもその惻隠の情のカケラも見えない程の他論の排し方で、判りやすいけど思わず「読んでて引いちゃわずにはいられない」という感想を持ちましたが。。。

私も文字通りの意味での「武士道」「惻隠の情」につながるものは、あるべき日本男児には必須であると考えます。
例えば、ケジメ!
辞めりゃいいってモンじゃないですが、辞めずに済むモンでもない・・・あ、話が違いますね。(^^;)
近藤真彦さんも歌っているじゃありませんか・・・って、これも関係ないか。。。

例えば、不器用であっても折れない強さ!
どんな証拠を突きつけられても自論を折らない強さではないですよ。釈明はやたら不器用だけど・・・って。
あれ!? 混線してるのかな?(^^;)


その点、今や鬼籍に入ってしまわれましたが園田高弘さんの遺された演奏のうちには、私のイメージする日本男児に通じる要素がふんだんに詰まっているように感じられてなりません。

園田さんといえばその素晴らしい演奏の数々もともかく、音楽を志す若者(中学生ぐらい?)に向けた講義の原稿の数々をネット上に見つけて興味深く読ませていただいたとき、このピアニストが何を考えており、それを若い人に如何に伝えるかに最大の意を払い“伝える内容の品質を絶対に落とさないように”言葉だけでなくその行間にどれだけ多くの示唆を詰め込んだかを感じ取り、心からの畏敬の念を覚えた記憶があります。

ここで私が1番凄いと思っているのは“伝える内容の品質を絶対に落とさないように”と括った部分。
なにぶん原稿(多分講義を録音して、後から文字を起こしたもの)ですから全ては伝わってきていないでしょうが、人に物を教えることに携わるようになった私には、園田さんがこの講義のために演奏にするのと同じようにとんでもなく勉強し、準備されたという跡が随所に見えました。
これに声のトーンや身振り手振りを加えて伝えられたのであれば、それなりの心得を持ってその場に臨んだちびさんたちは、奥義の深奥に触れるような話であってもそれが当たり前の話のように受け止めて自分の擬似体験としてしまったことでしょう。

連綿としたこのような営み、大人の事情を子供に押し付けるようにぶつけるのではなく、子供が吸い取ることができるように流し込んでやる努力を大人が惜しまないこと、これこそが「惻隠の情」だと感じ入った次第です。
昔は体罰とか言っても、このような気持ちが先生の側にあったから子供も先生を慕ったのだと思います。

今やわが国は「オトナはよその子供も指導してあげようよ」みたいなことをテレビで宣伝しないといけないような国になってしまっていますが、一般的な意味での「美しき国」「品格ある国」に戻るためには仕方ないのかもしれませんね。

そのために大切なことは、オトナが自分のことばかり考えないで他人のことも考えるようになる姿を見せることでしょうね。
給食費を払わないとか、同級生が気に食わないから転校させろとか、親の責任はどうなっちゃってるんでしょうかねぇ?

責任あるオトナの直近の課題として、まずは選挙。
行かないのは論外!
なぜ、この候補に入れるのか、この党に投票するのか?
はっきり説明できるようにして臨みたいものです。

ひとつの焦点だけに話題を集約して、一つの党に票が集約するとどうなるのか?
郵政問題だけをクローズアップした選挙の後、ここに至るまでいくつの強行採決がなされたかというのも考えねばならないと個人的には思っています。
もっと言っちゃえば、比例代表制は止めるべき・・・と思ってるんですけどね。
その人に100%期待することはあっても、その党に100%期待できるかというと実際そうではないですから。
基本的に党のマニュフェストは民間企業に勤めている人間からしたら、現状の分析がいい加減で、実現に向けての具体策があいまいかつ時間軸が見えないことでなっとらんですよね。
私が上司に出したら200%怒られて、突っ返されるでしょう。(^^;)
私が上司でもこれじゃ突っ返すからね。。。

まぁ公約を実現することが目的ではなく、集票が目的の文章であるとすれば。。。
どこか、絶対に他より優れていると信じさせてくれるようなマニュフェストを出してくれないかなぁ~!!

個人的には政治家が政治屋に成り下がり、票を集めるために甘い話ばかり選挙で公約するからおかしくなっているように思えてなりません。
簡単に言えば、企業にもへつらい、民衆にもへつらった政治をしているから、お金が足らないということを言い出せないでいるんじゃないかってことです。
もちろん年金問題をはじめとして官がちゃんとした管理をできていない(もちろん公務員のほとんどの皆さんは懸命にお仕事なさっていると思いますが、その仕組み的にという意味でです)というアキレス腱があるから強く出られないんでしょうけど。

なぜ、財源とかはっきりさせないんでしょうね。少子化とかもちゃんと数字を出せばいいのに。。。
それで国を維持するためにはこれだけ努力するから、これだけ負担増は勘弁してねとはっきり言えば少なくとも国民はその分だけすっきりするのに。
マスコミが突っ込むまでもなく、信じられないような安易な数字しか出てこない。だから余計に心配になっちゃうという悪循環を何度も繰り返しています。

人口が増えないと国力が増さないのにどうして若い夫婦が子供を作りたがらないのかというのも、専門家がちゃんと研究しているのにどうしてその対策を打たないんでしょうね。

今の若い人は自分が遊ぶ金や時間がほしいから作らないわけじゃないというのはエライ人たちも知っていると思いますが・・・このままではホントに「子供を作ったら損だ」という人たちが増えますよ。

そんな中、子供ができておめでたいはずの“できちゃった婚”でさえ、私なんかモラル違反だと思っているのに。。。
昨今のゲーノー人に至っては“できちゃった婚”以外見たことがないって感じじゃないですか。
それを見たもっと若い世代は倫理的にどのように思うんでしょうね。
子供ができたらしょうがない、責任とって結婚するか・・・じゃないですよね。

こんな風潮をここでキチッと締めてくれる代議士は誰なんでしょうね? いないか・・・。


話を戻しましょう。
園田高弘さんがYAMAHAのピアノを使って録音したこのディスクは、彼の最良の部分が詰まった傑作だと思います。
極めて日本的な意味での厳しさ・ケジメを感じさせると共に、ソナタにおける野放図にならない壮大さ・荘厳さ、間奏曲における優しさ・慈しみといった要素は、全て若者への講習で見せた「惻隠の情」に大元は繋がっていて、きっぱりと演奏上の責任は自分にあるという潔さなどもあわせて真の“日本男児らしさ”を感じさせるのです。

時として感じるぎこちなさ・不器用さも誠実さの表れでありましょう。
ショパンではこれが少し気になるときがありますが、ここはブラームス、最良の味付けになっています。


わが国には腕の立つ若い男性ピアニストには事欠きませんが、ポスト園田はだれになるんでしょうね?
最右翼は、清水和音氏ってとこでしょうか。頑固そうなところも評価の対象とすると・・・。(^^;)




※出張のため先日付投稿いたします。

ビハインド・ザ・マスク

2007年07月17日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番/即興曲遺作
                  (演奏:田部 京子)
1.ピアノ・ソナタ 第21番 変ロ長調 D960
2.3つのピアノ曲(即興曲遺作) D946
                  (1993年録音)

今もって私が田部京子さんのディスクの中で(メンデルスゾーンの無言歌集と並び)最高傑作だと信じて疑わないこのディスクをご紹介します。

この後、田部さんがシューベルトのいろんな楽曲のみならずグリーグ、シベリウス、ドビュッシーなどにも世評の高い秀演を世に問うておられるのは周知の通りです。
もちろんこの間には、アンコール集や吉松隆さんの“プレイアデス舞曲集”などの小品集も挟まっています。

私はグリーグ・シベリウスの曲集をも含めた彼女の「小品集」には、彼女自身の成熟に歩を同じくして旨みを感じられるようになってきたことを歓迎しているのですが、かねて申し上げているように、大曲、殊にシューベルトのソナタについては私の志向している方向性と彼女の目指すそれが全く軌を一にしていないことを感じてしまっているのです。

シューベルトの音楽から恐れ、戸惑い、わななき、震え、これらの要素がケシ飛んでしまったら何が残るでしょうか?

後年の田部京子さんによるシューベルトのディスクを評価できないというわけでは決してありません。
ご本人だってその演奏の完成度という側面においては、もしかしたらこのディスク以上に満足されているのかもしれません。
そしてそのように“弾けてしまう”までに精進されたことについては、賞賛の念を惜しむつもりもありません。

ただ、ベートーヴェンやブラームスなら、百歩譲ってそれがショパンであったとしたなら演奏者の確信に満ちた惑いのない音楽の構築は“よいこと”であるのでしょうが、シューベルトでこれをやられると私はちょっと引いちゃうのです。
私は“シューベルトの世界”に遊ぶのが好きだから・・・“田部京子の華麗なる奏楽の世界”であれば別のレパートリーでやってほしいなぁ~と思ってしまうのです。

もちろん彼女がシューベルトの楽譜から読み取った私が知らない世界というものがあって、それは存分に弾き表されているのに私にレセプターがないもんだから聴き取れない、楽しめないということも考えられます。
それでもなお私には、彼女の本心はシューベルトの心をとらえる感性を有しているのに自らの演奏のコンスタントな完成度を得るために、心の揺れなどの不安定・不確定な要素をシャットアウトしてしまっているのではないかと思われてしまうのです。

“ビハインド・ザ・マスク”というタイトルには、このジャケットに写っているデビュー間もない頃の田部さんは、その素のまま、感じたままを素直に音に託して出してくれているという事実を伝える意味を込めています。

そしてこのディスクでの演奏がまた全ての面で素晴らしいし、完成度という点から見ても非常に高いと思われるのです。

考えてみるとこんなスゴイのを最初に作っちゃったから、これを越えなければいけないというプレッシャーが彼女に完璧な演奏を志向させてしまったのかもしれません。
たとえば聴き手やクリティックが、このディスクと比較して新譜を聴いた時に(同じ土俵で)進化させたなと聴き取ることができる要素といえば技術であり、楽曲に向かう確信であったりという“完成度”だと思ってしまった。。。
そこで「では、まずもってそれに応えなければ・・・」と想って制作してしまった・・・果たして、レコ芸はじめ評論家はこぞって絶賛してましたモンね。


私はそれを参考にして購入して聴いた後、月評に書いてあることがそのとおりだと感じても「じゃ、感動は?」という一点において首肯できなかったんです。


それは、偏に有能なキャリア・ウーマンが男性に負けまいと弱みを化粧の下に隠して、肩で風切って歩いていくような姿を想像させます。
ツライだろうな・・・と。
ましてライバルが過去の自分の演奏だったりするとなおツライ。。。

ピアニスト側の“達成度”という点数は上がっていたとしても、リスナー側の満足度は演奏の“完成度”を求める“聞き手”にはいいのでしょうが、マニュアルにない臨機応変な「そのピアニストの心情(信条ではない)に基づく機微」を求める“聴き手”にはちと物足りないものになってしまっている・・・。

余計なお世話ですが田部さんには、ぜひシューベルトの曲を弾くんじゃなくって、シューベルトの世界を弾き表すという思いで、もう一度見直してもらったらどうかと想います。
実演でもしこの気持ちで臨まれたんだとすると、とても窮屈な演奏になったりしないでしょうか?

私がディスクのうえで彼女のこのような変化の予兆を見たのが、リストのソナタの演奏です。
楽曲の要請もあるのでしょうが、少しだけ硬直化の兆しが見えてきました。
気位高く弾ききらないとという解釈上の心構えかなと思ったのですが、今考えると今日の田部京子さんの考え方の岐路だったのかもしれません。
その後は、ディスクのリリースに伴ってどんどん単によく弾けるピアニストになっていってしまったように思います。

こうしてこのディスクを取り出して聴くたびに同じことを思うのは、こちらとしても申し訳ないのですが・・・。


最後にこのディスクについて述べますと、第1・第2楽章が光沢のある音色ではあってもとても静々、おずおずと言っていいかもしれない曲調です。
温度感あり、曲が求めるテンポ(スロー)で弾かれていますが音色と、なんともシューベルトのやるせないというかアンニュイというか優柔不断ともいえるその世界の雰囲気が充溢しているために、画然と崩さないで弾いているのにほのかなロマンティシズム漂う風情が醸し出され、変ロ長調ソナタの解釈はこれしかないと思わせられるような強い説得力を持っています。

さらに特筆すべきは第4楽章です。
シューベルトは最終楽章に聴きようによってはヤケクソ気味の舞曲を持ってきています。
ピアニストにとっては、第3楽章の舞曲はともかくこの最終楽章の冒頭からトーンと鳴らされる音などをどう処理するかが大きな問題なんではないでしょうか?
我らが田部京子さんは、ここも音色とフレージングのニュアンスでものの見事に全ての楽章の色彩を統一しています。
これができているのは40種以上のディスクを所有していますが、ごくひと握りの演奏だけなのです。(^^)/

このディスクはさらにフィルアップとして即興曲遺作の3曲を収めています。
変ロ長調ソナタと共通していることは、最終曲(3曲目)がやや支離滅裂なリズムの舞曲風の曲だということです。
ここでも田部さんは感じたままを弾きあらわすことで、3曲をまとまりあるものとして感じさせることに成功しています。
ただ、曲のせいでやはり支離滅裂さは残っていますが。。。(^^;)

ディスクのジャケットの写真のように、現在の田部さんと比較するとややソフトフォーカスされた演奏。。。
とはいえ、マスクの奥に隠された楽曲の機微を表現せずにはいられない繊細な感性が全開である点でこれに勝るディスクは・・・ご本人のものも含めて・・・なかなかありません。
素晴らしいディスクです。(^^)v




※出張のため先日付投稿いたします。