★フレデリック・ショパン(1810~1849);バラード&ノクターン
(演奏:広瀬 悦子)
1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.ノクターン ヘ長調 作品15-1
3.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
4.ノクターン 嬰ヘ長調 作品15-2
5.バラード 第3番 変イ長調 作品47
6.ノクターン 変ホ長調 作品9-2
7.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
8.ノクターン ハ短調 作品48-1
9.幻想曲 ヘ短調 作品49
(2009年録音)
広瀬悦子さんがフランスはMirareレーベルから、こうしてショパンのディスクをリリースしたことをまずは驚きを、そして少なからぬ喜びをもって迎えました。
このレーベル、オーディエンスが喜びそうなことを積極的にというか、えげつなくやってくれるので嬉しい限りです。。。
複雑な言い回しをしましたが、サッカーもそうだし野球にもストーブリーグがあるように、気になるアーティストとどんどん契約をして個性派スター軍団の様相を呈してきた・・・そういいたいのです。
鍵盤楽器に関してみるだけでも、ちょっと前まではケフェレック女史が看板だと思っていましたが、エンゲラー女史、アンゲリッシュがいるかと思えばあのベレゾフスキーにピエール・アンタイもそう・・・
この錚々たるメンバーの一員にアルゲリッチの秘蔵っ娘みたいに思われていた広瀬さんが加わったと聞けば、極東の好き者は一挙にこのレーベルに注目せざるを得ないという、そんな音楽以外の計算も入っていやしないかと訝る想いも芽生えてきそうです。
ただ・・・
このレーベルのえらいところは、あくまでもフランスを基盤に考えていることではないでしょうか?
演奏者がフランス人であればそれだけでフランス音楽振興に役立つのでいいかもしれませんが、カタログをそろえる際のレパートリーにせよ、まずはフランスがあってすべてはそこから実績を挙げてくだされば未来が開けます・・・というような、極めて明確で公平なシステムを持っているように思います。
この手法がすべからく芸術に当てはまるかどうか別にして、ある種、健全な考えかたの下にこれだけのアーティストを擁しているのですから、とっても素晴らしいこと・・・。
ハイペリオン、ハルモニア・ムンディ、ECMなどの個性的なレーベルが一種独特の雰囲気を持っているように、このレーベルも極めてメジャーなイメージで補強がなされてきております。
一大勢力となる日も近い・・・あるいは既に十分メジャーと伍して戦えるだけの魅力は有しているといってよいのかもしれません。
少なくとも私にあっては、決して目を離すわけにはいかないレーベルだと認識していますから。。。
まぁ・・・
それでもたまには(私にとって)ハズレのディスクも出てきちゃいますけどね・・・。
そういう場合はここでは紹介しませんから心配ありません・・・って、出ていないものが全部気に入らないわけではないのでややこしくなりますが。(^^;)
広瀬さんもかつてフランスに留学され日本でデビューし、今般再び活動拠点をフランスに移されて3年たっている・・・フランスに縁があるアーティストということで、このレーベルでのチャンスをものにされたのでしょうか!?
そんな彼女への期待は、いや高まるばかりであります。(^^;)
さて、ここで演奏されているショパンは、生誕200周年できわめて盛り上がっていますね。
余談になりますが、一方の200歳のシューマンがあんまり盛り上がっていないように思うのは、ショパンファンの私の思い込みでしょうか?
そのショパン・・・
ポーランドの作曲家としてあまりにも喧伝されていますが、実は、活躍した時期の殆どはフランスにいたんですよね。
私も訪ねたことがありますが・・・
亡くなったアパルトマン、葬式をしたマドレーヌ寺院、ペール=ラシェーズ墓地いずれもパリにあります。
そのとき感じたことには、フランス人はショパンの魂はポーランドにあったとしてもフランスの作曲家、少なくとも当時のフランスが歓待して活躍をさせてあげた作曲家として認知しているフシがあるのではないでしょうか?
ショパンの親父さんはフランス人ですし・・・。
もちろん、ショパンの経歴を振り返ればフランス人が自国の作曲家と考えてもらってまったく構わないと、私も、思います。
いずれにせよ、ポーランドとフランスの両方がなければ作曲家ショパンは存在しえなかったでしょう。
してみると・・・
仏Mirareレーベルはショパンの記念年に手をこまねいているわけにはいかない・・・
そうに決まっています。(^^;)
そんな中にあって、ケフェレック女史のショパンアルバムと相前後して同じロケーションで録音がなされた広瀬さんのアルバム・・・こころなしかジャケットデザインの雰囲気も似ていたりして・・・には、作り手・聴き手みんなの注目の的とあいなるわけであります。
前置きが長くなりましたが・・・
このディスクにいたって広瀬悦子さんの演奏は、これまでとは大きく変わった気がします。。。
実はそれで私の中で、評価がうつろい定まらないのです。
アルゲリッチが絶賛したという才能であり、ピアノをやすやすと弾いているように聴こえるのは以前と変わりません。
ですが、デビューアルバムでフランクの曲をデムスがアレンジした“前奏曲、フーガと変奏曲OP.18”でみせたような、荒削りながら大向こうを唸らすスケールの大きさといったものが消えている・・・のです。
大器・・・
といわれる演奏家が必ずしもそのようなありかたである必要はないでしょうが、彼女の場合はその器の大きさこそが余人を以って替えがたい第一の個性であると思っていましたから、この変貌振りには正直戸惑いました。
ノクターンはともかく、バラードと言えばショパンの中では大曲で、激しさや雄渾さ、気位の高さなどを謳い上げるイメージが私にはあります。
ですが、この演奏は先に述べたとおりでほかのどれとも違うのです。
所有しているディスクの中で、その個性がワン・アンド・オンリーなのですからそれだけで価値があるといえばそうなのですが、最初のバラード第1番にして一聴“なよなよ”しているようにすら聴こえてしまってはちょっと違うだろう・・・とはじめて聴いたときにはどぎまぎしたものです。
そして一回まわり聴いての感想は、すべては最後のハ短調のノクターンと幻想曲への前座ではなかったのかというもの。。。
音楽や精神の飛翔がわずかながらも感じられたのが終わりの2曲だった印象のために、それ以前の曲たちの良さがよくよく聞き取れなかったと言うほかない・・・
そんな感想でした。^^
それでは、今はそのよさが十分に感じ取れているのかといわれると未だに心許ない限りなのですが、どうしても私にはこの演奏が平凡であったり、私に合わないと言い切る判断もつかないのです。
ピアニストは目論見通りに弾ききっているように思えるし、技術的な面では私の聴く限り余裕綽々で何の不足もありません。録音もふにゃけているわけでなく、音は正しくすべてが私に降り注いでくる・・・
要するに状況証拠はすべて私に提示されているのに、その音から私が掬い取るべきものを見つけられずにいる、あるいは気づくことができていない・・・そんな状況であると思います。
でも、ここには間違いなく金脈が埋まっている・・・
そんな第六感が働いていて、そしてそれが正しいと思われてしまうために私はこうしてどぎまぎさせられているのではないでしょうか?
自分の経験に照らすと、これは何度も聞き込んでいくことでしっくりくるようになるのではないかと思うのです。
高橋多佳子さんのショパンの旅路の若い番号の演奏にはじめて接した時と、きわめて似た感触ですから。。。
その予感が当たれば、ムチャクチャ好きな演奏になる可能性を秘めています。
でも、今はなんでこんな解釈になっちゃってるんだろうという疑問が大きい・・・
解説には「繊細で儚い詩情」と記されていて、なるほどとも思うところもあるのですが、厳密に考えるとチョイと違うような気もしますね・・・。
なんにせよ、フランス在住のうちに、広瀬さんの中にショパンのフランス性がより反映されたことは疑いありません。
フランス語の発音って、あまりカツゼツがよくないように私たち日本人には聴こえますよね。
広瀬さんは日本人ピアニストとしての心のはたらきを通して、彼女独自のショパンがディスクに刻むにあたり、そのボショボショ感を採り入れた・・・そんなイメージをこの盤から感じるといったら言いすぎでしょうか?
広瀬さんの中では、これらの楽曲は十分に自分の手の内にいれたうえで昇華されています。
が・・・
この演奏、とにかく吼えないのです。
広瀬さんの楽想はしなやかで濃やかな女豹のごとき魅力をいっぱいに湛えているのに、常にジャケット内のいずれの写真もそうであるように目を伏せていたり、後ろ向きだったり、積極的に聞き手側にアプローチしてこない・・・のです。
こちらがそれを追いかけていったとしても、けっして目を合わせてこちらに向かって吼えることはない。。。
それは何のため?
勿論かつてのように演奏のうちに荒削りなところは皆無、艶やかに弾き切られていてピアノも鳴らしきられています。
ヘ長調のノクターンにせよ、あの激しい中間部を楽々と弾きこなしてしまうのに驚嘆するのですが、ほかの殆どのピアニストがそうであるように嵐のように・・・という風情はまったくない。
バラード第2番の中間部もそうだし、バラード第4番の第2主題の回帰からクライマックスにかけてなど、敢えてエクスタシーのほんの手前をずっと持続していく展開に聴こえて、かつてない印象を与えてくれるのです。
これはなかなか表現できないとんでもなく凄い境地だと思うのですが、どうにも慣れていないためにかしっくりきていません。
どこまでも飛翔できる羽を持ちながら飛び立たない鳥、しなやかな体躯を持ちながら目をあわせられない女豹・・・
煮え切らない、じれったい、末通らない、中途半端なのかも・・・
こんな印象も拭えない中、この演奏が私を感激させるポテンシャルを持っていることを信じて、折りに触れ永く聴き継いでみようじゃないか・・・そんなふうに考えるようにしたいディスクですね。(^^;)
こう書き記して・・・
何日か書きかけでこの文章を寝かせている間にも、このディスクへの印象は変わっていきました。
バラード第1番の“なよなよ”は決して海草が波に翻弄されて揺れている情景ではなく、茫洋とした積乱雲の雲海の彼方にはるかにかすむスケールの大きな龍の影が見えてきました。
細心の注意を払ったタッチで音の粒をきらめかせたうえでペダルを省略して音を減衰させた効果だとわかり、結果としてたゆたうようなイメージを現出していることからそう聴こえたものだと思います。
ですから、“なよなよ”ではなく“デリケート”だったのです。さらに、超弩級のスケールは能ある鷹が爪を隠しているようなもので、しっかり耳を澄ませばちゃんとそこにも存在しているのが聴き取れます。
また、第2番は強奏されるところさえもが「遠くから」聞こえてくるような表現になっており、これはフォーレ・ドビュッシーなどフランスの後進の先駆であったことを意識させるものではないでしょうか?
ちなみに第1番中間のあたりでの音の粒のきらきら感はラヴェルの表現を髣髴させるもの・・・これもフランスの作曲家の前触れのような効果を意識している気がします。
ボショボショ感ときらきら感、いずれからもフランスを感じるのはそのせいかもしれません。
そして第4番はびみょ~です。
第2主題の回帰はデリケートこのうえない表現・・・ピアノ演奏技術的にはルバートっていうのかもしれませんが・・・で、ある意味、このうえなく“萌え”ちゃっているので、それが素晴らしいと評することもできると思うようになりました。
が・・・
コーダの捉え方が困っちゃうんですよね。
普通、狂ったように失踪するのが一般的な弾き方に思えるのですが、どうしてもこの演奏ではしっかり弾けているのにエッジがないというか、生ぬるいような感じがする。。。
カマトトぶっているようにも聴こえるし、達観しているようにも聴こえるし・・・これも定かではない。。。
できたら、ご本人にどう思って弾いているのか尋ねたいぐらいです。
「フィニッシュ前の決断できない優柔不断な気持ちを湛えたパートだと思ってます」な~んて言われそうなほど優柔不断に聴こえてしまいます。
最後の最後では決然と「こうだ!」と上行走句を叩きつけているので、余計にその前が迷っているように聴こえてしまっているのです。
まだまだ、聴き継いでいくうちに新たな景色が見えてくることでしょう。
やはり特別なティストを持ったディスクです。(^^;)
(演奏:広瀬 悦子)
1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.ノクターン ヘ長調 作品15-1
3.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
4.ノクターン 嬰ヘ長調 作品15-2
5.バラード 第3番 変イ長調 作品47
6.ノクターン 変ホ長調 作品9-2
7.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
8.ノクターン ハ短調 作品48-1
9.幻想曲 ヘ短調 作品49
(2009年録音)
広瀬悦子さんがフランスはMirareレーベルから、こうしてショパンのディスクをリリースしたことをまずは驚きを、そして少なからぬ喜びをもって迎えました。
このレーベル、オーディエンスが喜びそうなことを積極的にというか、えげつなくやってくれるので嬉しい限りです。。。
複雑な言い回しをしましたが、サッカーもそうだし野球にもストーブリーグがあるように、気になるアーティストとどんどん契約をして個性派スター軍団の様相を呈してきた・・・そういいたいのです。
鍵盤楽器に関してみるだけでも、ちょっと前まではケフェレック女史が看板だと思っていましたが、エンゲラー女史、アンゲリッシュがいるかと思えばあのベレゾフスキーにピエール・アンタイもそう・・・
この錚々たるメンバーの一員にアルゲリッチの秘蔵っ娘みたいに思われていた広瀬さんが加わったと聞けば、極東の好き者は一挙にこのレーベルに注目せざるを得ないという、そんな音楽以外の計算も入っていやしないかと訝る想いも芽生えてきそうです。
ただ・・・
このレーベルのえらいところは、あくまでもフランスを基盤に考えていることではないでしょうか?
演奏者がフランス人であればそれだけでフランス音楽振興に役立つのでいいかもしれませんが、カタログをそろえる際のレパートリーにせよ、まずはフランスがあってすべてはそこから実績を挙げてくだされば未来が開けます・・・というような、極めて明確で公平なシステムを持っているように思います。
この手法がすべからく芸術に当てはまるかどうか別にして、ある種、健全な考えかたの下にこれだけのアーティストを擁しているのですから、とっても素晴らしいこと・・・。
ハイペリオン、ハルモニア・ムンディ、ECMなどの個性的なレーベルが一種独特の雰囲気を持っているように、このレーベルも極めてメジャーなイメージで補強がなされてきております。
一大勢力となる日も近い・・・あるいは既に十分メジャーと伍して戦えるだけの魅力は有しているといってよいのかもしれません。
少なくとも私にあっては、決して目を離すわけにはいかないレーベルだと認識していますから。。。
まぁ・・・
それでもたまには(私にとって)ハズレのディスクも出てきちゃいますけどね・・・。
そういう場合はここでは紹介しませんから心配ありません・・・って、出ていないものが全部気に入らないわけではないのでややこしくなりますが。(^^;)
広瀬さんもかつてフランスに留学され日本でデビューし、今般再び活動拠点をフランスに移されて3年たっている・・・フランスに縁があるアーティストということで、このレーベルでのチャンスをものにされたのでしょうか!?
そんな彼女への期待は、いや高まるばかりであります。(^^;)
さて、ここで演奏されているショパンは、生誕200周年できわめて盛り上がっていますね。
余談になりますが、一方の200歳のシューマンがあんまり盛り上がっていないように思うのは、ショパンファンの私の思い込みでしょうか?
そのショパン・・・
ポーランドの作曲家としてあまりにも喧伝されていますが、実は、活躍した時期の殆どはフランスにいたんですよね。
私も訪ねたことがありますが・・・
亡くなったアパルトマン、葬式をしたマドレーヌ寺院、ペール=ラシェーズ墓地いずれもパリにあります。
そのとき感じたことには、フランス人はショパンの魂はポーランドにあったとしてもフランスの作曲家、少なくとも当時のフランスが歓待して活躍をさせてあげた作曲家として認知しているフシがあるのではないでしょうか?
ショパンの親父さんはフランス人ですし・・・。
もちろん、ショパンの経歴を振り返ればフランス人が自国の作曲家と考えてもらってまったく構わないと、私も、思います。
いずれにせよ、ポーランドとフランスの両方がなければ作曲家ショパンは存在しえなかったでしょう。
してみると・・・
仏Mirareレーベルはショパンの記念年に手をこまねいているわけにはいかない・・・
そうに決まっています。(^^;)
そんな中にあって、ケフェレック女史のショパンアルバムと相前後して同じロケーションで録音がなされた広瀬さんのアルバム・・・こころなしかジャケットデザインの雰囲気も似ていたりして・・・には、作り手・聴き手みんなの注目の的とあいなるわけであります。
前置きが長くなりましたが・・・
このディスクにいたって広瀬悦子さんの演奏は、これまでとは大きく変わった気がします。。。
実はそれで私の中で、評価がうつろい定まらないのです。
アルゲリッチが絶賛したという才能であり、ピアノをやすやすと弾いているように聴こえるのは以前と変わりません。
ですが、デビューアルバムでフランクの曲をデムスがアレンジした“前奏曲、フーガと変奏曲OP.18”でみせたような、荒削りながら大向こうを唸らすスケールの大きさといったものが消えている・・・のです。
大器・・・
といわれる演奏家が必ずしもそのようなありかたである必要はないでしょうが、彼女の場合はその器の大きさこそが余人を以って替えがたい第一の個性であると思っていましたから、この変貌振りには正直戸惑いました。
ノクターンはともかく、バラードと言えばショパンの中では大曲で、激しさや雄渾さ、気位の高さなどを謳い上げるイメージが私にはあります。
ですが、この演奏は先に述べたとおりでほかのどれとも違うのです。
所有しているディスクの中で、その個性がワン・アンド・オンリーなのですからそれだけで価値があるといえばそうなのですが、最初のバラード第1番にして一聴“なよなよ”しているようにすら聴こえてしまってはちょっと違うだろう・・・とはじめて聴いたときにはどぎまぎしたものです。
そして一回まわり聴いての感想は、すべては最後のハ短調のノクターンと幻想曲への前座ではなかったのかというもの。。。
音楽や精神の飛翔がわずかながらも感じられたのが終わりの2曲だった印象のために、それ以前の曲たちの良さがよくよく聞き取れなかったと言うほかない・・・
そんな感想でした。^^
それでは、今はそのよさが十分に感じ取れているのかといわれると未だに心許ない限りなのですが、どうしても私にはこの演奏が平凡であったり、私に合わないと言い切る判断もつかないのです。
ピアニストは目論見通りに弾ききっているように思えるし、技術的な面では私の聴く限り余裕綽々で何の不足もありません。録音もふにゃけているわけでなく、音は正しくすべてが私に降り注いでくる・・・
要するに状況証拠はすべて私に提示されているのに、その音から私が掬い取るべきものを見つけられずにいる、あるいは気づくことができていない・・・そんな状況であると思います。
でも、ここには間違いなく金脈が埋まっている・・・
そんな第六感が働いていて、そしてそれが正しいと思われてしまうために私はこうしてどぎまぎさせられているのではないでしょうか?
自分の経験に照らすと、これは何度も聞き込んでいくことでしっくりくるようになるのではないかと思うのです。
高橋多佳子さんのショパンの旅路の若い番号の演奏にはじめて接した時と、きわめて似た感触ですから。。。
その予感が当たれば、ムチャクチャ好きな演奏になる可能性を秘めています。
でも、今はなんでこんな解釈になっちゃってるんだろうという疑問が大きい・・・
解説には「繊細で儚い詩情」と記されていて、なるほどとも思うところもあるのですが、厳密に考えるとチョイと違うような気もしますね・・・。
なんにせよ、フランス在住のうちに、広瀬さんの中にショパンのフランス性がより反映されたことは疑いありません。
フランス語の発音って、あまりカツゼツがよくないように私たち日本人には聴こえますよね。
広瀬さんは日本人ピアニストとしての心のはたらきを通して、彼女独自のショパンがディスクに刻むにあたり、そのボショボショ感を採り入れた・・・そんなイメージをこの盤から感じるといったら言いすぎでしょうか?
広瀬さんの中では、これらの楽曲は十分に自分の手の内にいれたうえで昇華されています。
が・・・
この演奏、とにかく吼えないのです。
広瀬さんの楽想はしなやかで濃やかな女豹のごとき魅力をいっぱいに湛えているのに、常にジャケット内のいずれの写真もそうであるように目を伏せていたり、後ろ向きだったり、積極的に聞き手側にアプローチしてこない・・・のです。
こちらがそれを追いかけていったとしても、けっして目を合わせてこちらに向かって吼えることはない。。。
それは何のため?
勿論かつてのように演奏のうちに荒削りなところは皆無、艶やかに弾き切られていてピアノも鳴らしきられています。
ヘ長調のノクターンにせよ、あの激しい中間部を楽々と弾きこなしてしまうのに驚嘆するのですが、ほかの殆どのピアニストがそうであるように嵐のように・・・という風情はまったくない。
バラード第2番の中間部もそうだし、バラード第4番の第2主題の回帰からクライマックスにかけてなど、敢えてエクスタシーのほんの手前をずっと持続していく展開に聴こえて、かつてない印象を与えてくれるのです。
これはなかなか表現できないとんでもなく凄い境地だと思うのですが、どうにも慣れていないためにかしっくりきていません。
どこまでも飛翔できる羽を持ちながら飛び立たない鳥、しなやかな体躯を持ちながら目をあわせられない女豹・・・
煮え切らない、じれったい、末通らない、中途半端なのかも・・・
こんな印象も拭えない中、この演奏が私を感激させるポテンシャルを持っていることを信じて、折りに触れ永く聴き継いでみようじゃないか・・・そんなふうに考えるようにしたいディスクですね。(^^;)
こう書き記して・・・
何日か書きかけでこの文章を寝かせている間にも、このディスクへの印象は変わっていきました。
バラード第1番の“なよなよ”は決して海草が波に翻弄されて揺れている情景ではなく、茫洋とした積乱雲の雲海の彼方にはるかにかすむスケールの大きな龍の影が見えてきました。
細心の注意を払ったタッチで音の粒をきらめかせたうえでペダルを省略して音を減衰させた効果だとわかり、結果としてたゆたうようなイメージを現出していることからそう聴こえたものだと思います。
ですから、“なよなよ”ではなく“デリケート”だったのです。さらに、超弩級のスケールは能ある鷹が爪を隠しているようなもので、しっかり耳を澄ませばちゃんとそこにも存在しているのが聴き取れます。
また、第2番は強奏されるところさえもが「遠くから」聞こえてくるような表現になっており、これはフォーレ・ドビュッシーなどフランスの後進の先駆であったことを意識させるものではないでしょうか?
ちなみに第1番中間のあたりでの音の粒のきらきら感はラヴェルの表現を髣髴させるもの・・・これもフランスの作曲家の前触れのような効果を意識している気がします。
ボショボショ感ときらきら感、いずれからもフランスを感じるのはそのせいかもしれません。
そして第4番はびみょ~です。
第2主題の回帰はデリケートこのうえない表現・・・ピアノ演奏技術的にはルバートっていうのかもしれませんが・・・で、ある意味、このうえなく“萌え”ちゃっているので、それが素晴らしいと評することもできると思うようになりました。
が・・・
コーダの捉え方が困っちゃうんですよね。
普通、狂ったように失踪するのが一般的な弾き方に思えるのですが、どうしてもこの演奏ではしっかり弾けているのにエッジがないというか、生ぬるいような感じがする。。。
カマトトぶっているようにも聴こえるし、達観しているようにも聴こえるし・・・これも定かではない。。。
できたら、ご本人にどう思って弾いているのか尋ねたいぐらいです。
「フィニッシュ前の決断できない優柔不断な気持ちを湛えたパートだと思ってます」な~んて言われそうなほど優柔不断に聴こえてしまいます。
最後の最後では決然と「こうだ!」と上行走句を叩きつけているので、余計にその前が迷っているように聴こえてしまっているのです。
まだまだ、聴き継いでいくうちに新たな景色が見えてくることでしょう。
やはり特別なティストを持ったディスクです。(^^;)