SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

吼えない女豹

2010年05月21日 00時00分00秒 | ピアノ関連
★フレデリック・ショパン(1810~1849);バラード&ノクターン
                  (演奏:広瀬 悦子)
1.バラード 第1番 ト短調 作品23
2.ノクターン ヘ長調 作品15-1
3.バラード 第2番 ヘ長調 作品38
4.ノクターン 嬰ヘ長調 作品15-2
5.バラード 第3番 変イ長調 作品47
6.ノクターン 変ホ長調 作品9-2
7.バラード 第4番 ヘ短調 作品52
8.ノクターン ハ短調 作品48-1
9.幻想曲 ヘ短調 作品49
                  (2009年録音)

広瀬悦子さんがフランスはMirareレーベルから、こうしてショパンのディスクをリリースしたことをまずは驚きを、そして少なからぬ喜びをもって迎えました。

このレーベル、オーディエンスが喜びそうなことを積極的にというか、えげつなくやってくれるので嬉しい限りです。。。
複雑な言い回しをしましたが、サッカーもそうだし野球にもストーブリーグがあるように、気になるアーティストとどんどん契約をして個性派スター軍団の様相を呈してきた・・・そういいたいのです。

鍵盤楽器に関してみるだけでも、ちょっと前まではケフェレック女史が看板だと思っていましたが、エンゲラー女史、アンゲリッシュがいるかと思えばあのベレゾフスキーにピエール・アンタイもそう・・・
この錚々たるメンバーの一員にアルゲリッチの秘蔵っ娘みたいに思われていた広瀬さんが加わったと聞けば、極東の好き者は一挙にこのレーベルに注目せざるを得ないという、そんな音楽以外の計算も入っていやしないかと訝る想いも芽生えてきそうです。

ただ・・・
このレーベルのえらいところは、あくまでもフランスを基盤に考えていることではないでしょうか?
演奏者がフランス人であればそれだけでフランス音楽振興に役立つのでいいかもしれませんが、カタログをそろえる際のレパートリーにせよ、まずはフランスがあってすべてはそこから実績を挙げてくだされば未来が開けます・・・というような、極めて明確で公平なシステムを持っているように思います。

この手法がすべからく芸術に当てはまるかどうか別にして、ある種、健全な考えかたの下にこれだけのアーティストを擁しているのですから、とっても素晴らしいこと・・・。

ハイペリオン、ハルモニア・ムンディ、ECMなどの個性的なレーベルが一種独特の雰囲気を持っているように、このレーベルも極めてメジャーなイメージで補強がなされてきております。
一大勢力となる日も近い・・・あるいは既に十分メジャーと伍して戦えるだけの魅力は有しているといってよいのかもしれません。
少なくとも私にあっては、決して目を離すわけにはいかないレーベルだと認識していますから。。。

まぁ・・・
それでもたまには(私にとって)ハズレのディスクも出てきちゃいますけどね・・・。
そういう場合はここでは紹介しませんから心配ありません・・・って、出ていないものが全部気に入らないわけではないのでややこしくなりますが。(^^;)


広瀬さんもかつてフランスに留学され日本でデビューし、今般再び活動拠点をフランスに移されて3年たっている・・・フランスに縁があるアーティストということで、このレーベルでのチャンスをものにされたのでしょうか!?
そんな彼女への期待は、いや高まるばかりであります。(^^;)


さて、ここで演奏されているショパンは、生誕200周年できわめて盛り上がっていますね。
余談になりますが、一方の200歳のシューマンがあんまり盛り上がっていないように思うのは、ショパンファンの私の思い込みでしょうか?

そのショパン・・・
ポーランドの作曲家としてあまりにも喧伝されていますが、実は、活躍した時期の殆どはフランスにいたんですよね。

私も訪ねたことがありますが・・・
亡くなったアパルトマン、葬式をしたマドレーヌ寺院、ペール=ラシェーズ墓地いずれもパリにあります。

そのとき感じたことには、フランス人はショパンの魂はポーランドにあったとしてもフランスの作曲家、少なくとも当時のフランスが歓待して活躍をさせてあげた作曲家として認知しているフシがあるのではないでしょうか?
ショパンの親父さんはフランス人ですし・・・。

もちろん、ショパンの経歴を振り返ればフランス人が自国の作曲家と考えてもらってまったく構わないと、私も、思います。
いずれにせよ、ポーランドとフランスの両方がなければ作曲家ショパンは存在しえなかったでしょう。

してみると・・・
仏Mirareレーベルはショパンの記念年に手をこまねいているわけにはいかない・・・
そうに決まっています。(^^;)

そんな中にあって、ケフェレック女史のショパンアルバムと相前後して同じロケーションで録音がなされた広瀬さんのアルバム・・・こころなしかジャケットデザインの雰囲気も似ていたりして・・・には、作り手・聴き手みんなの注目の的とあいなるわけであります。


前置きが長くなりましたが・・・
このディスクにいたって広瀬悦子さんの演奏は、これまでとは大きく変わった気がします。。。
実はそれで私の中で、評価がうつろい定まらないのです。

アルゲリッチが絶賛したという才能であり、ピアノをやすやすと弾いているように聴こえるのは以前と変わりません。
ですが、デビューアルバムでフランクの曲をデムスがアレンジした“前奏曲、フーガと変奏曲OP.18”でみせたような、荒削りながら大向こうを唸らすスケールの大きさといったものが消えている・・・のです。
大器・・・
といわれる演奏家が必ずしもそのようなありかたである必要はないでしょうが、彼女の場合はその器の大きさこそが余人を以って替えがたい第一の個性であると思っていましたから、この変貌振りには正直戸惑いました。

ノクターンはともかく、バラードと言えばショパンの中では大曲で、激しさや雄渾さ、気位の高さなどを謳い上げるイメージが私にはあります。
ですが、この演奏は先に述べたとおりでほかのどれとも違うのです。
所有しているディスクの中で、その個性がワン・アンド・オンリーなのですからそれだけで価値があるといえばそうなのですが、最初のバラード第1番にして一聴“なよなよ”しているようにすら聴こえてしまってはちょっと違うだろう・・・とはじめて聴いたときにはどぎまぎしたものです。

そして一回まわり聴いての感想は、すべては最後のハ短調のノクターンと幻想曲への前座ではなかったのかというもの。。。
音楽や精神の飛翔がわずかながらも感じられたのが終わりの2曲だった印象のために、それ以前の曲たちの良さがよくよく聞き取れなかったと言うほかない・・・
そんな感想でした。^^


それでは、今はそのよさが十分に感じ取れているのかといわれると未だに心許ない限りなのですが、どうしても私にはこの演奏が平凡であったり、私に合わないと言い切る判断もつかないのです。

ピアニストは目論見通りに弾ききっているように思えるし、技術的な面では私の聴く限り余裕綽々で何の不足もありません。録音もふにゃけているわけでなく、音は正しくすべてが私に降り注いでくる・・・
要するに状況証拠はすべて私に提示されているのに、その音から私が掬い取るべきものを見つけられずにいる、あるいは気づくことができていない・・・そんな状況であると思います。

でも、ここには間違いなく金脈が埋まっている・・・

そんな第六感が働いていて、そしてそれが正しいと思われてしまうために私はこうしてどぎまぎさせられているのではないでしょうか?

自分の経験に照らすと、これは何度も聞き込んでいくことでしっくりくるようになるのではないかと思うのです。
高橋多佳子さんのショパンの旅路の若い番号の演奏にはじめて接した時と、きわめて似た感触ですから。。。
その予感が当たれば、ムチャクチャ好きな演奏になる可能性を秘めています。
でも、今はなんでこんな解釈になっちゃってるんだろうという疑問が大きい・・・


解説には「繊細で儚い詩情」と記されていて、なるほどとも思うところもあるのですが、厳密に考えるとチョイと違うような気もしますね・・・。


なんにせよ、フランス在住のうちに、広瀬さんの中にショパンのフランス性がより反映されたことは疑いありません。
フランス語の発音って、あまりカツゼツがよくないように私たち日本人には聴こえますよね。
広瀬さんは日本人ピアニストとしての心のはたらきを通して、彼女独自のショパンがディスクに刻むにあたり、そのボショボショ感を採り入れた・・・そんなイメージをこの盤から感じるといったら言いすぎでしょうか?


広瀬さんの中では、これらの楽曲は十分に自分の手の内にいれたうえで昇華されています。
が・・・
この演奏、とにかく吼えないのです。
広瀬さんの楽想はしなやかで濃やかな女豹のごとき魅力をいっぱいに湛えているのに、常にジャケット内のいずれの写真もそうであるように目を伏せていたり、後ろ向きだったり、積極的に聞き手側にアプローチしてこない・・・のです。
こちらがそれを追いかけていったとしても、けっして目を合わせてこちらに向かって吼えることはない。。。
それは何のため?

勿論かつてのように演奏のうちに荒削りなところは皆無、艶やかに弾き切られていてピアノも鳴らしきられています。
ヘ長調のノクターンにせよ、あの激しい中間部を楽々と弾きこなしてしまうのに驚嘆するのですが、ほかの殆どのピアニストがそうであるように嵐のように・・・という風情はまったくない。

バラード第2番の中間部もそうだし、バラード第4番の第2主題の回帰からクライマックスにかけてなど、敢えてエクスタシーのほんの手前をずっと持続していく展開に聴こえて、かつてない印象を与えてくれるのです。
これはなかなか表現できないとんでもなく凄い境地だと思うのですが、どうにも慣れていないためにかしっくりきていません。

どこまでも飛翔できる羽を持ちながら飛び立たない鳥、しなやかな体躯を持ちながら目をあわせられない女豹・・・

煮え切らない、じれったい、末通らない、中途半端なのかも・・・
こんな印象も拭えない中、この演奏が私を感激させるポテンシャルを持っていることを信じて、折りに触れ永く聴き継いでみようじゃないか・・・そんなふうに考えるようにしたいディスクですね。(^^;)




こう書き記して・・・
何日か書きかけでこの文章を寝かせている間にも、このディスクへの印象は変わっていきました。

バラード第1番の“なよなよ”は決して海草が波に翻弄されて揺れている情景ではなく、茫洋とした積乱雲の雲海の彼方にはるかにかすむスケールの大きな龍の影が見えてきました。
細心の注意を払ったタッチで音の粒をきらめかせたうえでペダルを省略して音を減衰させた効果だとわかり、結果としてたゆたうようなイメージを現出していることからそう聴こえたものだと思います。
ですから、“なよなよ”ではなく“デリケート”だったのです。さらに、超弩級のスケールは能ある鷹が爪を隠しているようなもので、しっかり耳を澄ませばちゃんとそこにも存在しているのが聴き取れます。

また、第2番は強奏されるところさえもが「遠くから」聞こえてくるような表現になっており、これはフォーレ・ドビュッシーなどフランスの後進の先駆であったことを意識させるものではないでしょうか?
ちなみに第1番中間のあたりでの音の粒のきらきら感はラヴェルの表現を髣髴させるもの・・・これもフランスの作曲家の前触れのような効果を意識している気がします。
ボショボショ感ときらきら感、いずれからもフランスを感じるのはそのせいかもしれません。

そして第4番はびみょ~です。
第2主題の回帰はデリケートこのうえない表現・・・ピアノ演奏技術的にはルバートっていうのかもしれませんが・・・で、ある意味、このうえなく“萌え”ちゃっているので、それが素晴らしいと評することもできると思うようになりました。

が・・・
コーダの捉え方が困っちゃうんですよね。
普通、狂ったように失踪するのが一般的な弾き方に思えるのですが、どうしてもこの演奏ではしっかり弾けているのにエッジがないというか、生ぬるいような感じがする。。。
カマトトぶっているようにも聴こえるし、達観しているようにも聴こえるし・・・これも定かではない。。。

できたら、ご本人にどう思って弾いているのか尋ねたいぐらいです。
「フィニッシュ前の決断できない優柔不断な気持ちを湛えたパートだと思ってます」な~んて言われそうなほど優柔不断に聴こえてしまいます。

最後の最後では決然と「こうだ!」と上行走句を叩きつけているので、余計にその前が迷っているように聴こえてしまっているのです。
まだまだ、聴き継いでいくうちに新たな景色が見えてくることでしょう。

やはり特別なティストを持ったディスクです。(^^;)

有限のうちにある無限の飛翔

2010年05月20日 22時10分45秒 | ピアノ関連
★フレデリック・ショパン(1810~1849)・ピアノ作品集
   ~最初のポロネーズから告別のマズルカまで~
                  (演奏:アンヌ・ケフェレック)
1.ポロネーズ 変ロ長調KK.IV/1(1817)
2.ポロネーズ ト短調S1/1(1817)
3.ポロネーズ 変イ長調KK.IV/ a 2(1821)
4.マズルカ 変イ長調Op.7-4(1824)
5.ポロネーズ ヘ短調Op.71-3(1828)
6.ソステヌート 変ホ長調(1840)
7.カンタービレ 変ロ長調(1834)
8.ノクターン 嬰ハ短調 遺作(1830)
9.幻想即興曲 嬰ハ短調Op.66(1834)
10.ワルツ ヘ短調 Op.70-2(1841)
11.マズルカ 嬰ハ短調 Op.50-3(1841-1842)
12.子守歌 変ニ長調Op.57(1843)
13.舟歌 嬰ヘ長調Op.60(1845-1846)
14.スケルツォ第4番 ホ長調Op.54(1842)
15.ワルツ イ短調KK.IVb/11,P2/11
16.バラード第4番 ヘ短調Op.52(1842)
17.マズルカ イ短調Op.67-4(1848)
                  (2009年録音)

昨年、ケフェレック女史のリサイタルを聴きに行きました。
ディスクにサインをいただいて「素晴らしい演奏でした」と声をかけたら「アリガト・・・」と言われ、「旧来からのファンです」と英語でどういったらいいか詰まっているうちにサイン会の列が流れていってしまった・・・そんなことを覚えています。

このバックステージの記事としてもアップしていますが、女史の演奏のすばらしさを随処に感じながらも、正直なところ女史のお人柄のすばらしさの方が強く記憶に残っていたような気がします。

でも・・・
ラヴェル・モーツァルト・ヘンデルの演奏などで聴かせてくれた、高雅で気品ある繊細な演奏をされる女史が、ショパンの生誕200周年に満を持して発売するディスクであれば・・・演奏の感興こそ実演に及ばないかもしれないけれど・・・女史がやりたかったことをあますところなく聴けると感じて、女史がマイセンかセーブルのフランス陶磁器を思わせる一風変わったドレスに身を包んだこのディスクを手に取ることに迷いはありませんでした。


結論から言えば、よい意味で期待を大きく裏切られる出来栄え!(^^;)

このディスクは17曲から成っていますが・・・
幼年期の作品(当然プロの作曲家のものとはいいがたい、けれどショパンが作ったと作品に書いてある)から18歳ぐらいまでの一群と、幻想即興曲とカンタービレを除いて、あとは30代から晩年(ショパンは39歳で亡くなっています)までの楽曲でプログラムされています。

つまり・・・
プロとしてポーランドを旅立ってからショパン芸術が最円熟を迎える前日までの楽曲を殆ど全部オミットして、“ショパンができるまで”と“できあがりのショパン”をその曲で対比しましょうという企画であると思えるのです。

女史の思惑としては、ショパンの特徴ある思いは幼児期の作品にまで満ちていることを示したかった、言い換えると故郷を思う気持ちや楽曲のテイストは一生の間変わらなかったということを示したかったのでしょうが、それは見事に達成されていると思います。

そして・・・
期待を裏切られ全編にわたって感動できたというのも、これまで音楽史的な意味合いのみが大きいと思ってきた幼児期の楽曲にまで、やさしく共感にあふれた演奏を展開されていることによるものであります。

一例を挙げれば11歳でピアノの先生に手紙つきで贈ったとされるポロネーズ、女史の演奏はぬくもり・潤いといったものをたたえながらはるかに速いテンポで弾かれており、モーツァルトをさえイメージさせるような演奏。。。

安曇野での高橋多佳子さんのコンサートのオープニングでも演奏された曲ですが、多佳子さんは幼いショパンの曲を、あるいは思い入れたっぷりにロマン派の流儀で弾こうとされたのかもしれません。

女史の演奏はどちらかというと古典派的、旋律の歌わせ方も天真爛漫で、作曲時のショパン自身がこう聴こえて欲しいと思っていたものに近いように感じます。
それはもちろんアルバムの趣旨に照らして解釈をされているためでしょうが、まことに相応しい弾かれかただと感じました。

このように聴き手にとっても、耳に優しい分とても聴きやすいし素直に受け止められる・・・
このディスクの幼年期の曲はおしなべてそんな思いで満たされます。

幼少期の曲はポロネーズ全集などの「全集版アンソロジー」を除いて競合盤がほとんどないだけに、余計に印象深くステキな演奏に聴こえるのです。
えてして・・・
全集ものだと、私などは幼年期の曲は聞かずに飛ばしちゃったりするし・・・。(^^;)
数あるショパンの若書きの楽曲の中からも、女史はちゃんと選別して眼鏡に適ったものだけを慈しんで弾いておられるから余計に尊いのかもしれません。^^


このディスクの選曲によって、ショパン自身が円熟期を迎えた後にもマズルカにような小品にポーランドへの思慕を・・・小さい頃とまったく同じように・・・込めて、同じような心証を綴ってやまないことが明らかにされます。

作曲の技法、構成力、語り口の広さなどは永遠に不滅といってよいだろうこの作曲家なりの成長を遂げているのですが、底辺に流れているメロディーの源は祖国を思う心の叫びである。
もちろんミツキエヴィッチの詩から着想することはあっても、ポーランドの心がその源泉。
シューマンのようにアナグラムから着想を得たり、バルトークなどのようにあちこちの民謡の採譜をしたりではなく・・・自分の魂の奥底からあふれたり、沁み出したりしてくるインスピレーションにあるのだと感得させてくれる、そんな気がするのです。


ここでのケフェレック女史の演奏の特徴は、音楽がロマンにほだされて手の届かないところに飛んでいってしまわないように極めて厳格に扱われているのにもかかわらず、果てしなく憧憬が拡がっているような・・・そんな演奏であるということ。
これは、バッハやモーツァルトの対位法を駆使したバロック音楽や古典派、さらには近代音楽までをもキャリアの中で手がけてきた女史だからこその美質だと思います。

ロマン派音楽である以上もちろんロマンを飛翔させなければなりませんが、音楽が糸が切れた凧のようにコントロールされず放逸されてしまうケースも少なくありません。

その点、女史の音楽は心のはばたきが必ずあるべき楽曲の軌道のうちに還ってくるように思えるのです。
しかもそれは(還ってくるとはいっても)ブーメランのように手からはなれることはなく、必ず扱い次第で自ら手の内に戻ってくるヨーヨーのようである・・・と喩えてよいかもしれません。

その限りにおいて、確かに女史の音楽は他の数多ある違う持ち味・・・イマジネーションをはばたかせるタイプ・・・のピアニストの演奏と比較して有限であるといえるかもしれませんが、地球の上に立っていても宇宙全体を夢見ることはできるように、ショパンの宇宙全体を見通させてくれるような突き抜けた何かを感じさせられるものです。

同じような経験は、かつてレギナ・スメンジャンカ女史のポニー・キャニオンから出た“舟歌”を聴いたとき以来です。
あの演奏こそはショパンにどこまでも誠を尽くした私の理想の“舟歌”の奏楽であると今でも思っていますが、ケフェレック女史の演奏もそれと軌を一にする解釈に思われるうえ録音ははるかにこなれている点で聞きやすくなっていると重います。
それに、ショパンの辿り着いた終着地のひとつ・・・
として聴くならば女史のこの演奏のとおりのプログラムに収められている方がほうがはるかに相応しいでしょう。

とても演奏至難な曲らしいですが、弾くほうも聴くほうも幸せになれる、この曲が作曲されてほんとうによかったと思われる出来栄えです。


そして・・・
私にとってのショパンの最高傑作“バラード第4番”。
昨年の実演で女史が実現しようとしたことが何だったのか・・・果たしてそれがすべて判るような素晴らしい演奏。

普遍的にショパンとはこういう音楽だと願っているひとつの形を、女史が体現してくれたというそんな感じです。

演奏である以上演奏者の主観が入るのは仕方ないでしょうけれど、中には私のショパンを強烈に自己主張する人、自分だけのショパンの世界に強引に引きずり込もうとする人がいる中で、多くの人がすんなり共感できる、そんな麗しく濃やかでいながら厳しく女史の手の内にあって自然な流れを得ている演奏だと感じました。
奔放というのではないですが気持ちが突き抜けているところがありながら、慎み深さまで感じさせる・・・
こんな境地の演奏には、そう滅多やたらに出逢えるものじゃありません。^^
なるほど・・・
昨年のコンサートにおいて・・・私は十分に聴き取ることができなかったけれど・・・きっと女史はこのように演奏した(かった?)に違いない・・・。

実力者の真骨董、しかと楽しませていただきました。(^^)/

須川展也+デュオ・グレイス

2010年05月09日 04時18分50秒 | 高橋多佳子さん
★須川展也+デュオ・グレイス

《前半》
1.カッチーニ(arr.石毛里佳)/アヴェ・マリア
2.シュトックハウゼン/友情に
3.ラフマニノフ/ヴォカリーズ
4.ラフマニノフ/組曲 第2番 Op.17より「ワルツ」、「タランテッラ」

《後半》
5.ドビュッシー(arr.前田恵実)/喜びの島
6.ドビュッシー(arr.貝沼拓実)/牧神の午後への前奏曲
7.ルトスワフスキ/パガニーニの主題による変奏曲
8.ミヨー/スカラムーシュ Op.165b

《アンコール》
9.須川展也さんによる即興(?)
10.サン=サーンス/動物の謝肉祭より「騾馬」、「白鳥」、「終曲」
                  (2010年5月8日 ヤマハホールにて)

今年の2月に新装なった銀座のヤマハホール。

               

『須川展也+デュオ・グレイス』によるサクソフォーンと2台のピアノによるコンサートを楽しんできました。

“デュオ・グレイス”は、毎度ここで紹介している高橋多佳子さんと宮谷理香さんのユニット名ですから、コンサートの新分野を開拓したわけでもなんでもなく、相も変わらずご贔屓さんを追っかけたに過ぎません。(^^;)

個人的にはサクソフォーンのソロ(伴奏つきも含み)による演奏会ははじめてでして、冒険したつもりであります。
こんなご縁でもなければ多分知らずに過ごしてしまったでしょうが、とっても楽しいコンサートであったうえに目を見張るような演奏に接して、たいへん大きな収穫を得ることができたと感じています。

               

先にも記したとおりプログラムがバラエティに富み、照明やらパフォーマンスにも工夫の凝らされた楽しいコンサートでした。(^^)/

今回はなによりサクソフォーンの表情の多彩さ、パフォーマンスの幅広さなど、数々の新しい発見も数々ありました。
お目当ての多佳子さん、そして理香りんさんを加えたデュオ・グレイスが素晴らしかったことは当然として、サックス用のアレンジを手がけた若手の音楽家の手腕に瞠目させられたことも特筆すべき収穫でした。

実は・・・
当初は、サックスってブレスやキィ操作による演奏ノイズが大きいという先入観を持っていました。
ピアノだってペダルを踏んだり必然的にノイズがあるんだし、グールドやポリーニ(キース・ジャレットもそうでしたね)のように盛大に鼻歌を歌いながら演奏する大家もいらっしゃるわけで、そんな瑣末なことは気にせずともよいではないかという声もありましょう。しかしながら、気にするなと言われて気にならないほど自分の気持ちをコントロールできるなら、こんなに苦労はしとらんわいと開き直るほかありません。
ギターの世界ではエドゥアルド・フェルナンデスが演奏にかかるノイズを殆ど出さないで奏楽できるテクニックをもっている・・な~んて言われていましたが、サックスは息を継がないと演奏できないですもんね、ってな感じで。。。(^^;)

結果・・・
最初のカッチーニのアベ・マリアは大変に感動的な編曲であり演奏だったと思いながらも、ブレスの音が気になってしまって・・・
ちょっとアレンジャーさんは損してしまったかな・・・と。


そして・・・
シュトックハウゼンのサックス独奏曲“友情に”。

この曲の前に須川さんのコメントで、シュトックハウゼンのサイン入り楽譜を持っていることに気づいたときの衝撃の話と、高音・中音・低音のやりとりと大団円をイメージするようにアドバイスをもらったこと、そしてなにより「“見れば”わかる」と言われたことでとても興味深く聴くことができました。
(それを聞いていなかったら、全然違った印象になったと思います。)

しかしまぁ・・・
ホントに多彩な音色、表情、ニュアンスが出せる楽器ですね、サックスって。。。
ジャズの“ブロウ”みたいなイメージが強かったのですが、確かにその魅力もあるけれどむしろ演奏の機微に応じたセンスのいい音の選択にその真骨頂があるように思われました。
要するに・・・
お人柄そのものが音に反映するということで、須川さんはその演奏される仕草、もっといえば立ち姿ひとつとっても私を惹きつけて止むことがありませんでした。

演奏中のパフォーマンスももちろん興味深く、落語で熊さん・八っあんが話すとき右を向いたり左を向いたりすることで高音・中音・低音の誰の発言であるかを理解できたし、そのように角度を変えることで音色が変わりそれぞれの人格の個性も変わる・・・
裏返せば、音色に変化をもたせるために体の向き、吹く向きをかえるという工夫がなされているということになるのでしょうか?
視覚的なイメージで新鮮な印象を与える、これはロックバンドなどでは常套手段ですが、それでサウンドまで・・・不確定であるにせよ・・・個性をもたらす工夫となっているのは、なかなか昔ながらの演奏スタイルが頭から離れない人には難しいだろうなと感じました。

もう一度この曲を演奏する・・・
と言われれば確かに違う曲でお願いしますと言いたくなるとはいえ、サックスの魅力を多く気づかせてくれたという意味では貢献大の楽曲でした。
須川さんのシュトックハウゼンへの想い、それを感じられたことがそれらの発見を導いてくれたんでしょうね。(^^;)


さて・・・
次のラフマニノフのヴォカリーズ、色んな楽器に編曲されて愛好されているわけですが、ロシア音楽が得意な多佳子さんを伴奏にして、須川さんは決して重くならないけれど万感の想いをこめた音色で奏でてくれました。
私にはすっきりした佳演だと感じられたものですが、1つ飛ばして隣のご婦人が感極まって目頭を押さえておられるほどに感動されていました。
音楽の持つ力は本当に凄いものがあります。


デュオ・グレイスによるラフマニノフの組曲第2番はできれば全曲聴きたかった。^^
あの華やかなイントロ部分からきっと最高にノリのよいリズムが刻まれるだろうと信じられるから・・・
それほどまでに、デュオ・グレイスの演奏は回数を重ねることで練れてきていました。

これまで聴いてきたことから想像するに、デュオ・グレイスの場合、モーツァルトやラフマニノフの2台ピアノの曲においては、その各種リズムへのノリというかグルーヴに乗って輝かしく華やかな旋律や装飾が煌いてこそ、おふたりの演奏が他の追従を許さない境地に高まるはず・・・そんなカギとなるポイントだと思うからこそ、第1曲・第3曲も弾いて欲しかった。。。

ほんとうにすんなり聴けてしまった、というのがアンサンブルの向上を意味することは間違いがないし、おふたりの努力が結実している証なんでしょう。
でもそれだけではなく、ソリストとして抜群の個性を聴かせるおふたりが揃ってこその揺ぎ無い個性、魅力というものを見出したいと感じている聴き手としては、どこにもない世界へわしづかみにして連れて行ってもらいたい、そんな期待でいっぱいです。(^^;)

            

休憩を挟んでの後半・・・
実は、今回は後半の演奏のほうにより大きな感銘を受けました。^^

まずはドビュッシー。
理香りんさん伴奏で、“喜びの島”“牧神の午後への前奏曲”が奏されましたが、まず特筆したいのが先にも述べたアレンジの妙。。。
聴き慣れた曲のせいか、“喜びの島”は特にピアノだけで弾かれた時との違いが顕著に感じられ、サックスも旋律を担うばかりでなくあらゆる役回りを与えられるアレンジとなっており、その効果はサックスを吹き上げられるたびに沸き立つような思いが心の中に催され、何度も鳥肌が立つのを感じました。


“牧神の午後への前奏曲”もどうしたらこんなに懐かしさをイメージさせる音色が出せるのかと思われるほどの須川さんの心に沁み入る音色、ピアノはそれをさりげなく引き立たせるアレンジで素敵でした。

理香りんさんと須川さんは既にこれらを一緒に演奏会にかけていたようですから、複雑な構成にもかかわらず演奏が感動的だったのもよくわかります。

くわえて原曲とはまた違った魅力を引き出した若いアレンジャーのみなさんが、今回の演奏会が盛会となった陰の立役者達であることに異論はないでしょう。


ふたたびデュオ・グレイスによるルトスワフスキの“パガニーニの主題による変奏曲”。
ゲンダイオンガクと紹介がありましたが、これは非常にわかりやすい曲、そしてデュオ・グレイスに相性のいい曲だと思います。

華やかで弾き映えがする!

こんな曲をどんどん発掘していって、ソロのときのようなはっちゃけた演奏をしてもらえたらいいなと思いますね。(^^;)


そして最後のミヨーの“スカラムーシュ”は、四の五の言わずに楽しんで聴けるよう演奏してくださいました。

そう・・・
このメンバーの最大の強みは自らが楽しんで演奏できるからこそのポジティブでイケイケなところ・・・かもしれません。
そのうえで須川さんの素晴らしいお人柄が滲み出た、それも最高級の演奏・パフォーマンスで盛りあげてくれたから文句のない大団円!

ステージ上での須川さんのマナーというか立居振舞のひとつひとつが、演奏家としては当たり前なのかもしれませんが、すごく紳士で見ていて気持ちがいいものでした。
そんな姿を見ていることも手伝って、須川さんの演奏に素直に入っていけるのかもしれません。
もとよりデュオ・グレイスの(華美ではないけれど)華やかな安定した伴奏に支えられてのパフォーマンスであることに違いありません。
最高にハッピーな気持ちにしてもらって、プログラムは終了いたしました。

               

万来の拍手のカーテンコールの後・・・
ひとり須川さんがピアノの前に座り、ピアノの単音からの導入で即興演奏を開始・・・^^
フリーランスなアドリブだと思うのですが、サックスの音色によるパントマイムといった風情のソロ・プレイがひとしきり・・・
そして『ド・ド・ド・♭ミ』音からなる運命の動機を印象付けられたかと思うと、やにわに楽屋に走り去ってしまって・・・
その瞬間・・・
ピアノにスタンバッていたデュオ・グレイスのおふたりが、“動物の謝肉祭”から“騾馬”をこれまた鮮やかに弾きだされて「おおっ!?」て感じで目も耳も釘付け、ここはソリストふたりを擁したこのユニットの独壇場でした。

そして多佳子さんが“白鳥”のイントロを弾き出されたときに、この曲集が本来2台ピアノもバックに想定されていたことを思い出しステキな選曲だと嬉しくなったものです。
“白鳥”のカンティレーナは、情感豊かに演奏されればどの楽器でも素晴らしい。
特にこの曲には思い入れがあるので、涙が出そうなほど感動しました。

ピアノから出た音は減衰するほかないですが、弦楽器や管楽器の場合は漸増・漸減させることができる。。。
木管楽器たるサックスはとりわけ、息を吹き込むことで音を調節しているわけで“生き”ているものの“息”によって生きた音楽になり、演奏次第で“粋”にもなると実感できたことが今日のコンサートでの発見だといってよいかもしれません。

オーラスの“終曲”では、再びピアノの鮮やかなパッセージと須川さんの底抜けに楽しいイメージを思わせるサックスの音色が堪能できました。
中途で、先の運命の動機が「実はここに繋がってたんだよ」と、遊び心満点の演出で飛び出して謎解きされるなど、大いに盛り上がって2度目の大団円。
期待をはるかに超えて楽しいコンサートとなったように思います。

            

こうして須川さんの表情豊かなサックスと、結成以来いよいよ練れてきたデュオ・グレイスのコンビの演奏に満足しておりましたが、階段付近で多佳子さんのご両親にお目にかかりその後にしたがって楽屋を訪ねて写真を撮らせていただくこともできました。
残念ながら光の量が足らず、携帯付属機能で編集して明るさを調整したため、不自然な色合いになってしまっておりますがご容赦ください。

その後なんとご両親と夕食をご一緒して、お話をお伺いすることができました。
詳細は書きませんが、とても興味深いお宝情報話を多く伺えました。
ご両親の兄妹を見守る目線がとても印象的で、私も父親として自分の子供達にあのようにありたいと思わされることしきりでした。
むしろ親としてのあり方のほうに学ぶことが多かったのかもしれません。
貴重なお話をありがとうございました。(ごちそうさまでした!)


いや、それにしても収穫の多い大満足の一日でありました。^^