出典:http://boxun.com/hero/2006/wanglx/6_1.shtml
目次
一、中国には「先進要素」はない
民衆――無力と爆発
政権――自分だけを「代表」
資本――「悪い資本主義」
思想――注文生産の商品
国際――利益だけが永久不変
二、エリート連盟と民衆との連携
エリート連盟――不変によって万変に対応
思想と民衆の連合――急進とのダンス
資本と民衆の連合――ブルジョア革命
政権と民衆の連合――ファシズムにむかう
三、超越者
超越とは
思想超越者――「なしうる」から「なすべき」へ
政権超越者――歴史上の偉人になる
資本超越者――富は社会的責任をはたすため
四、超越者連盟
超越者の相互作用
超越者連盟の連結装置
五、エリート連盟を打ち破る――文革黙示録
いかに官僚集団に打ち勝つか――文革の黙示1
「新しいものを作らなければ古いものは破壊できない」――文革の黙示2
今日のリーダーの劣勢と優勢――文革の黙示3
政治転換実現の鍵
一、中国には「先進要素」はない(第一章)
中国の政治変革への影響という視点から、民衆・政権・資本・思想と国際を5つの「要素」とみなすことができる。これと経済で「階級」分類することとの違いは、政治変革に対する機能に着眼している点である。
「民衆」には工場労働者、農民から専門職が含まれる。社会的分業と生活状況の違いは大きいが、共通点はみな労働者であり、また無権力者であることである。「民衆」は社会の主体を構成するが、自らの命運は政治権力と経済権力に握られている。
「知識人」を独立の要素としないのは、この概念が混乱しているからである。技術的知識人とその他の労働者の区別は技能と専門だけであり、「民衆」に分類できる。残りの知識人は政権にサービスしているので、政権装置の構成部分であり、「政権」要素に分類できる。
「資本」要素に含まれるのは民間資本を握り民間企業を経営している人々であり、彼らは中国の新しいブルジョアジーである。「資本」要素と階級の関連性は最も高く、両者はほとんど同じである。
もしも、他の要素が多少とも階級に関連があるとすれば(たとえば「民衆」は労働者階級、「政権」は特権階級、「国際」の背後には国際ブルジョアジー)、「思想」要素は階級とはまったく関係ない。思想者はさまざまな社会階層に分散している。いかなるグループ――平民・学者・官吏・企業家……いずれからも思想者は現れうる。評価基準はその思想が社会的影響を生じうるか否かであり、その影響が政治変革にどのような影響を与えるかは問わない。「思想者」には一致した立場はなく、逆に、思想者の間には不一致や対立のほうが多い。「思想」要素の全体的作用は一種のベクトルの総和によって表しうる。
今日の中国では、「国際」要素は一般に国内要素を通じてその作用が発揮される。特殊な場合にのみ、国際パワーが直接に干渉あるいは制裁という形で介入する。
中国の政治変革の希望はどこにあるのか? 以前親しんだ歴史観によってこの問題を考慮するには、必ずまず「歴史の正確な方向を代表する」「先進要素」を探し、変革実現の希望をその「先進要素」に託さなければならない。今日、人々は相変わらず中国でこのような「先進要素」を探しているが、別々に見ると5つの要素はいずれもこうした使命を担い得ない。
民衆――無力と爆発(第一節)
「政治変革の希望は民衆の中にある」という説を聞くが、あたかも政治的に公正なスローガンのようで、現実の可能性を見ることはできない。民衆は組織もなく権力もなく、統一行動もできず、政策決定にも参加できない。民衆は自発的に現状に満足しているか否かの判断――すなわち民意を形成することができ、民心が不満であれば、服従度が低下し対抗度が増加し、政権に圧力となる。しかし、どのように変革するか、目標は何か、どう行動するかについて、民衆は自ら掌握することができない。民衆の圧力が作用を発揮する道は政権に譲歩を迫ることだけである。確かに、政権が譲歩して政治変革が実現した先例はあるが、問題は、政権が譲歩しないと決めたとき、民衆の圧力は作用を発揮しないということである。
民衆が政治改革を推進できるという見解を堅持する側からは、圧力が十分に大きければ、政権は譲歩せざるを得ず、毎回の譲歩の幅が小さくても、続けていけば積みあがって質の変化をもたらすと言われる。しかし実際は、今日の中国の政権は取締りと行政のレベルで臨機応変であり調整を続けるが、体制のレベルでは絶対に死守しており、圧力が大きいほど鎮圧も強力になる。ここに働く論理を理解するのは難しくはない。もしも譲歩の結果が政権の滅亡になるなら、滅亡を望まない政権は絶対に譲歩しない。
いわんや、民衆の圧力は政権にとって致命的な脅威になっていない。民衆は分散しており、連携は知り合いの間に限られ、大規模な組織は実現できない。政権は策略手腕と武器の独占を生かして、分散した民間の反抗をいとも簡単に撃破する。中国の現実は一方で毎年数万回も群衆が騒ぎを起こし、一方で政権はきわめて安定しているということだ。両者は矛盾しているように見えるが、原因は騒ぎが分散しており、政権にとってわずらわしい手間ではあっても、根本を揺るがすことはない。
数万件の騒ぎが同じ時間に発生すれば、いかに強力な鎮圧力も焼け石に水になるだろう。その可能性は非常に小さいが、存在しないわけではない。もしも、民衆がみな政権をうらんでいるのなら、金融崩壊・経済動揺あるいは戦争などの全社会に及ぶような危機が発生すれば、各地で同時に導火線に火がつき、一斉に立ち上がるだろう。そうなれば政権は「倒れそうな塀が押し倒される」ように倒れるかもしれない。
しかし、それは民衆の圧力が達しうる極致であるとしても、社会の福音とは限らない。分散した群衆が同じ時刻に騒ぎ出すと、社会は混乱状態に陥る。無組織の民衆には共同の目標はなく、協調行動はできず、お互い衝突し、その動乱はたちまち社会の受容能力を超えるだろう。最悪の結果は社会の崩壊である。最良の結果でも新しい「暴政」が誕生して「暴民」を鎮圧し、秩序を回復する。それは政治変革ではなく、「暴政」と「暴民」の循環に過ぎない。
ある人は、民衆の組織化の希望をインターネットに託す。インターネットは連携に手段を提供するが、民衆に共同の変革目標を樹立させ、協調行動をとらせることができるだろうか? インターネットの経験のある人ならみな知っているが、インターネット上で共通認識を得るのは非常に難しい。インターネットの作用は一方通行ではなく、民主化にだけ有利なのではない。民族主義・毛沢東主義・権威主義さらにはファシズムもみなインターネットを利用できる。インターネットは民主化運動に便宜を提供するだけでなく、同様にアジテーターの戦争扇動にも便宜を提供し、治安情報機関の監視にも便宜を提供し、資本の消費者誘導にも便宜を提供する。インターネットは社会のデジタル化にすぎず、映し出すのはやはり現実社会の力の対比であり、相変わらず政権に専断され、資本に主導され、偏見と不一致に満ちている。一種の技術としては、インターネットはたしかに人を感動させるが、それに政治的な奇跡を起こすことを期待してはならない。
政権――自分だけを「代表」(第二節)
ある人が指摘しているように、かつて「労働者階級の前衛」を自称し、現在は「三つの代表」をもって任じている政権は、じつはいかなる階級や集団も代表しておらず、自己利益のための独立した集団である。政権が代表となる前提は、推挙されて選ばれることである。権力の源が他の階級や集団と関係のない政権は、自分だけしか「代表」できない。
中国では政権に関係する人の群れは相当膨大であり、政府の官吏のほかにも、膨大な共産党システムがある。学校、銀行、マスコミ、研究機関、国有企業などはみな政権の付属機関である。財政で養われる「事業単位(公益法人)」職員、大勢の退職幹部などもまた政権と生死をともにしている。それに彼らの家族も加えると、総数は多くの国の人口を上回るだろう。現在の体制では政権集団が最も多くの資源を握り、最大の利益を得ている。政治改革でこの状況を変えようとすれば、政権集団はもちろん受け入れない。これは台湾問題に最もよく見て取れる。現政権が一党独裁を放棄し民主政体を受け入れたら、「台湾独立派」は大部分の口実を失い、両岸の統一に多くの障害が除去される。しかし、現政権はいかに「統一大事業」を高く持ち上げようとも、権力問題では少しも譲歩しない。
権力集団が政治改革をボイコットするのは、現体制が権力集団に無制約の権力と人の羨む地位を与え、経済的なうまみも多いだけではない。もうひとつの原因は保護を失う懸念である。半世紀あまり政権を握っている間に、現政権は膨大な政治的憎悪を生み、多大な経済的腐敗をもたらした。いったん専制制度の庇護を失えば、抽象的に共産党に責任を押し付けて言い逃れできるものではなく、一人ひとり具体的に清算しなければならない。そのような前途に対する恐れが権力集団メンバーの旧体制を守ろうという重要な動機になっている。それは自分と家族の生命財産の安全を守るのと同義であるから、動機付けの大きさがわかるだろう。
確かに、今日の政権は毛沢東時代のように強暴ではなく、より多くの法律と今日的要素がある。絶え間なく改善し続けてゆけば、最終的には政治を本質的に変えることになるのではないか? 毛沢東時代と比べて、中共は理想を追求する革命党から利益を追求する権力集団に変わった。これは疑いもなく一種の本質的変化である。しかしこのような変化は中共自体の変化であって、独裁体制の変化ではない。政権の独裁は依然として変わっておらず、変化は中共が階級闘争をもって労働大衆のこの世の天国を作ろうと試みるのをやめて、「改革開放」を通じて自分たちの天国を作ろうとするようになっただけである。当時の政権が使った残虐な手段は今日の政権も失っていない。ただ、得失を計算する実務性があるので、とりあえず使わないだけである。もしも使ったほうが得だと考える日が来たら、いつでも使い出すだろう。そのことは六四事件でも、十数年後の汕尾事件でも改めて証明された。毛沢東時代の政権は理想が脅かされたときに人を殺したが、今日の政権も権力が脅かされたら手加減はしない。将来の政権も危機を乗り切るためには、やはりファッショ的な手段を使うであろう。よって、中国の政権に自己変革を通じての制度転換を期待するのは、楽観的に過ぎる。
利益を追求することで政権は実務的になった。そのため絵空事は言わなくなったが、同時に政権は腐敗したので、より貪欲になった。今日の権力集団はもう主義を追及せず、思想闘争を行わず、一切の目標を自らの権力の強化と利益の満足においている。権力が自慢げに列挙する業績は、その大部分が政権の最低限の役割であり、功績を褒め称えるいわれはない。それら記念碑型の成果は、その多くが人民のニーズとはかけ離れている。90年代以降の「改革」を振り返ると、実質は「権力の乱用と責任の押し付け」と概括できる。社会に対して果たすべき責任をできるだけ回避し、自分に権力と利益をできるだけ集めている。このような「改革」は社会を困難に追い込むだけであるのに、この権力集団はなぜ独裁を放棄しないのか? 変化はせいぜい「取り締まり」のレベルである。一部の学者が称賛している「政府の学習能力」とは、実は補修能力である。この能力が強ければ強いほど、政治体制改革は難しくなる。
ついでに二つの関連する話題に触れよう。一つ目は政権要素の軍隊が、政治変革の使命を担う日が来るか? 二つ目は「党内民主」の方式で、政治体制改革ができるか?ということである。
前者の可能性が極めて小さいおもな原因は、中国軍人に一般教養が欠けているから政治家が生まれにくいのではなく(確かにその問題もあるが)、より大きな制約は「党軍」の伝統である。中国の軍隊は誕生のときから「共産党支部を連隊の上におき」「党の絶対的統制」を実行してきた。80年の歴史がすでに党文化を軍隊の遺伝子としてしまった。今日いかなる高級将校も党を超えて全軍を服従させることはできない。共産党がなければ、軍隊はイデオロギーと結集の核を失い、武力を持つ各部隊がばらばらに自立するであろう。どうやってこの問題を解決するかは、将来の中国の政治体制転換の最大の問題の一つであり、今から研究をはじめなければならない。
後者については、「党内民主」が虚構であることはともかく、たとえ「党内民主」があったとしても、結果はやはり権力集団の利己実現に向かい、政治改革に対してはいっそう保守的になる。なぜなら、中央集権体制の下で、絶対権力を握る少数の支配者は個人の意向で好きなようにでき、権力集団は召使か道具のように扱える。少数の支配者は「文化大革命」のようなクーデターもできるし、党禁(政党結成禁止)解除のようなブレークスルーもできる。しかし、「党内民主」は少数の支配者を取り除き、下から上に党のリーダーを選ぶので、リーダーはほしいままに振舞う「ご主人」ではいられなくなり、党員のためにサービスしなければならない。現在中共の自己利益を謀る傾向は、ある程度寡頭制によって弱められており、党内高官と各レベルの責任者は下級をあるていど制約している。もしも腐敗が充満している中共党内で民主化を実行したら、中共高官は腐敗を取り締まる勇気を失うであろう。そのような「党内民主」は中国に政治体制転換をもたらさないばかりか、中共をさらに自己利益に走らせ、人民との対立を深めるだろう。
二つの問題を一緒に考えると、もうひとつ関連した結果を得る。現在の「党内民主」プランは、ほとんどが「党内分派」を主張しているが、「党軍」に対しては党内分派の直接の結果は軍隊の分派である。社会にとっては、軍隊の分派ほど危険なものはない。