思いつくまま

みどりごを殺す「正義」はありや?
パレスチナ占領に反対します--住民を犠牲にして強盗の安全を守る道理がどこにあろう

王力雄:超越者連盟(5)

2008-02-29 13:36:39 | 中国異論派選訳
王力雄:超越者連盟(5)

出典:http://boxun.com/hero/2006/wanglx/6_5.shtml

 もしも、官僚集団の政治改革に対する反対を定説とみなしたとしても、領袖はそうではない。領袖は個人であり、個人にはかならず可変要素がある。理想、高遠な志、歴史感覚、あるいは功利的追求、ひいては政治闘争の必要、いずれも領袖と官僚の間の不一致を作り出す。政治改革が領袖に歴史的栄誉をもたらすことも魅力である。官僚集団にはこのような動機はない。なぜなら歴史的栄誉感は領袖のものであり、官僚はただ現実の損失があるだけだからだ(?)。独裁権力の全体性と全能性は独裁領袖が直面する挑戦であり問題である。資源配置は往々にして体制外あるいは異なる体制間での考慮を要する。このことも超越に視野と選択肢を提供する。官僚は体制内に寄生しているので、体制の生態圏を離れたら存在できない。したがって官僚は体制の必要を超えないだけでなく、体制の可能性も越えない。政権集団に政治改革を望むとしても、官僚集団にはいかなる希望も託せず、唯一の可能性は領袖である。

 文革を経験した官僚集団は領袖の超越による苦しみを味わっているので、超越性のある領袖の出現を許さないと決心し、「党建設」を通じてワンセットのろ過メカニズムを作り上げた。その中の、「党派性」、「組織性」、「規律」は言ってしまえばみな超越性の対義語であり、目的は超越性のある者の昇進を遮断するためである。このようなメカニズムの下では、領袖の位置に達するにはさまざまなろ過を経るので、早々と徹底的に換骨奪胎されているはずであるが、まだ超越の可能性があるだろうか? たしかに、このような逆淘汰メカニズムは今後中共から超越性を有する領袖が出現することを根絶する可能性が高い。しかし、いまの中共上層部は文革中に成長した世代なので、あるいは変わったのがいるかもしれない。この世代の成長は異常で、イデオロギーの転覆を経験し、文革の溶鉱炉で鍛えられ、造反し、下放され、社会の下層に身をおき、それから高等教育を受けて西側の思想を吸収している。このように反復した「焼き入れ」を経験した人は、ダイヤモンドのように複雑な多面性を持っているので、ある条件の下では一方向からの光線しか見えなくても(そのため体制の何層ものフィルターを通過する)、他の側面がないとの証明にはならない。彼が権力ピラミッドの頂点に立ったとき、内心の奥に秘めた多様性をまだ保持していれば、条件が熟したときに他の光を反射する可能性は排除できない。

 もちろん、政権の超越者に純粋な信念あるいは道徳的動機を期待することはできない。階級あるいは集団の利益を超越することは、超越者が個人的利益を放棄することを意味しない。個人的野心、歴史的名声などの利害得失を計算して行う超越は、みたところ道徳の光はないが、現実の中ではより普通であり、またより把握しやすいので、道徳要素よりもより多面的な超越をさせることができる。利己的要素が超越の動機に含まれることは、献身的超越者の評価を下げるものではなく、むしろ他の類型の超越を包含でき、利益のてこでより多くの超越者を動員することができる。

 例を挙げれば、現政権の実施している官僚任期制は年齢と職位、任期を関連付けて、地位の定期的交換を確保している。それは昇進中の人には有利であるが、権力のトップの領袖にとっては損害である。任期はその権力を絶対のものでなくしてしまい、一旦退位すれば栄華は失われてしまう。領袖はその地位に着いたはじめに地位を失った前任者に自分の行く末を見る。まさにここに領袖が政権を超越しようとする原動力が隠されている。最後にトップから転落する前途に比べれば、政治改革が領袖に加える制約はそれほど恐ろしくはない。自分がいつまでも独裁できないのであれば、民主はもはや悪いものと決まったわけではない。権力喪失を補う最良の方法は、自らを歴史上の偉人にすることである。権力のトップに立った人はみなこのような願望があり、また偉人は中国の政治改革の中から誕生することを誰もが知っているので、在位中は独裁権力を享受し、退位前に歴史に名を残せるとすれば、非常に魅力的なことではないだろうか?

 いわんや、中国は今日の世界で屈指の独裁政権の代表として、常に国際社会の非難の的になっており、中国の領袖はメンツが立たず、たとえ主張が正しい場合でも割り引かれてしまう。中国の多くの問題、台湾、香港、チベットなどがみなそれで行き詰る。くわえて幾つもの危機が積み重なり、患部だけを治療する方式の応急手当を続けて、最後には無用なことを重ねて、一方に気を取られていたら他が疎かになる。旧体制内の解決手段が尽きたとき、たとえ情勢が他人より優位な「危機の促進」があったとしても、領袖に旧体制の改革を迫るだろう(?)。

 ほかにも、民意の利用あるいは国際的支援の確保の観点から、政治改革は権力闘争の中で相手に勝つ武器と民心獲得の資源になるであろう。たとえ軍隊が野心から政治に干渉しても、政治改革の旗を振れば理にかなった主張と評価される。このような「歴史の進歩を推進する悪」は政治改革スタートの契機となり、楽観要素の一つといえるだろう(?軍制服組トップは官僚では?)。

資本超越者――富は社会的責任を果たすため(第三章第四節)

 西側のことわざでは、富んでいる者が神の国に入るよりは、ラクダが針の穴を通る方がやさしいという。それは人々の富める者に対する根深い不信をあらわしている。富める者は決まってずるいというのは普遍的な見方であり、また確かに良く見られる現象である。しかし、昔の物語であれ、現代の報道であれ、身の回りの出来事であれ、富める者が正直な例はある。いまの大部分の金持ちは、たとえ流行を追っているのであったとしても、みな慈善事業に参加している。しかし超越は小銭で社会に賞賛や心のバランスを買うのではなく、同時に二つの根本――富と階級を超越するので、大多数の人にはできないことだ。

 超越は募金額の多寡ではなく、富が自分の創造でないこと、募金は社会の富を社会に返すに過ぎず、施しではなく義務だということを悟ることだ。企業家(?民間企業の経営者で国有企業の官僚経営者は含まない?)と資本家(?どれくらいの規模以上の株式所有者?いまの最大の資本家は国家=共産党では?)の今日の社会での役割が巨大であるのは、資本主義体制が彼らを経済運営の中心位置においているからだ。資本が個人の名義である(?中国は例外、ほとんど国?)のは、資本の凝集と資本の最大便益発揮のためであり、高い効率と実行の責任のためである。この役割を具体的に誰が担うかは、個人の見識、能力と「天の時、地の利、人の和」による。資本家の創意と資源配分は、疑いもなく富の想像への重要な貢献である。しかし同じ一人の人間なのに、資本家が普通の労働者より創造する富が何万倍も多いと信じる理由はない。富が資本家の名の下に蓄積することは、彼が創造したことを意味しない。それは資本主義経済の性質であり、その分配制度によって決定される。もしも体制が変わって――たとえば社会主義制度の下では、資本家がいなくても、富は生ずる(効率は別の問題)。それは富の最終創造者が労働者であることを物語る。よって、資本の超越者は、自己の本質は富の主人ではなく、富の代理人に過ぎず、自分のためではなく社会のために富を使うべきことを知っている。

 社会のために富を使うことは慈善事業を行ったり、環境保護や教育などの公益事業を推進したりすることだけではない。慈善と公益事業は局部状況は改善できるが、不合理な社会を改めるには役立たない。良好な政治制度は社会の根本であり、社会に幸福をもたらすためには政治改革は避けられない。とりわけ今日の中国では、資本の超越はまず富を社会進歩の推進に使うことに体現される。

 もう一つの超越は、中国の方向をどう見るかである。資本主義は「歴史の終結」を自称し、あたかも人類は資本主義の車に乗って物質主義の道路を走ってゆけばすべてうまくいくという。この奉公は人類の幸福と物欲の満足を同視するもので、人の本質に合わないばかりか、物欲に歯止めがないので、永遠に本当の幸福を得られない。さらに問題は、有限な地球は無限の物欲を満足できないことである。人口、資源、生態矛盾がもっとも際立っているのは中国であり、物欲の継続的膨張の空間はすでにあまり残されておらず、生態環境も危機に陥り、資本主義の持続不可能性を警告しており、将来の中国の選択肢にはすべきではない。

 資本主義が必要な歴史段階であるのは、社会の生産力を全人類の衣食住の満足させられるまで高めることができるからである。しかし、その生産力向上は異常に効果的であるため、衣食住の満足を人類全体に及ぼせない(?)。なぜならその生産力向上の基本手段は貧富の二極分化であり、生存の圧力と富の競い合いを人類の競争の原動力とするからである。このような制度の下では、生産力は絶え間なく発展し、金持ちはますます富むが、本当に貧困を消滅することはできず、階級衝突を消滅することもできない。今日では生産力が全人類の衣食住を満足させることができるレベルに達しているので、もうこれ以上資本主義の鞭で生産と消費を刺激する必要はない。むしろ比較的公平な分配(?資本主義と矛盾する?中国型擬似資本主義には矛盾するだろうが?)に方向転換し、人類一人ひとりが本当に衣食住を満足するよう、また成長の限界と生態危機を避けるようにしなければならない。

 いまこの話をすると現実離れしていると思われるだろうが、目の前にも資本が超越しなければ出口がない理由がある。毛沢東時代はブルジョア階級の政治的合法性を徹底的に打ち砕いた。今日でも毛沢東は中国で最も一般的なイデオロギーであり、またブルジョア階級が中国で政権を握れない重大な障害である。資本主義経済モデルが中国で重視されていることは、ブルジョア階級がすでに勝利したことを意味しない。単に当局に経済効率を上げるための道具とされただけであり、経済の枠に限定され、せいぜい「統一戦線の対象」に加えられる程度である。もしブルジョア階級が政治的な権力を獲得しようとすれば、労働者農民から左派までの全面的な反対に遭う。ブルジョア階級革命はどんなに魅力的な旗を掲げようと、政権はポピュリズムを使って民衆を自分に引き寄せ、ブルジョア階級を天下を覆そうとする「搾取者」として打倒するだろう。資本の超越者はこの苦しい立場を知り、ブルジョア階級の立場での社会変革を放棄し、新しい道を探す。

 中国ブルジョア階級は優秀な人物に事欠かない。とりわけ六四以降に商売に転向したグループは、理想はまだ忘れていない。前に述べた「焼入れ」世代は、政界にいるだけでなく、商業界にも学界にもいる。その世代は一本の根の上に育ち、同じ運命に遭遇し、同じ問題を考えて、同じ本を読み、同窓生や友人である。分岐は89以降になって本当に始まった--官界にとどまり官僚化し、学界に身をおき体制化し、公務員を退職したものは商売人になり、民間を放浪したものは反対派になり……しかし、道は違っても、内心にはまだ一種の共同の種が残っており、一定の条件の下では、一部の人はまたまとまるかもしれない。

四、超越者連盟

 超越者連盟は形があるとは限らず、エリート連盟が旗印を出していないのと同様、現実の中の関係に過ぎず、境界は明確でなく、組み合わせも随時変動する。超越者連盟は一種のエリート連盟に過ぎないとみなす人もいる。確かに、超越者はエリートであるが、両者の区別は、エリート連盟は一貫して権力を独占し、永遠に民衆の主人になろうとするので、政治変革を拒絶する。超越者連盟は政治変革のために形成され、一旦変革が完成すれば、権力を民衆に渡し超越者連盟は自ら消滅する(?)。この角度からは、超越者連盟はエリート連盟自体の超越である。
 
 超越者は永遠にごく少数なので、各要素の超越者が単独で戦っても、感動的な事跡を残すことができても、パワーバランスは変えられず、発揮できる作用も人数同様有限である。しかし思想、資本と政権の超越者が連合すれば、状況は変わってくる。効果は足し算ではなく、化学反応のように倍数で高まり、爆発のエネルギーも生み出しえる。

超越者の相互作用(第四章第一節)

 まず思想超越者と政権超越者の関係を見よう。政治変革が本当にスタートする前は、政権超越者は潜在的であり、往々にして念入りに隠れている。それが有する超越性を行動に移せるかは、願望によるのではなく、より重要なのは成功の自信があるかどうかである。社会の制御不能を招き自らの地位も名誉も失うかもしれない変革から、為政者はみな遠ざかる。しかし、はっきりと成功の自信があるときは、勝てば官軍、負ければ賊軍の信条で、もともと超越性のなかった為政者までもみな改革に投機的に参加するだろう。

 為政者が変革の成功を確信することが、政権超越の鍵の一つである。これについては目標描写の美しさだけには頼れない。もしも明確な道筋がなければ、あるいは大まかに言えば「案ずるより生むが易し」ということであれば、為政者を動かせない。成功の自信は道筋である。為政者は高い地位に登ることができたのだから、利害計算は得意である。一ヶ所にリスクがあっても立ち止まるだろう。成功の一歩手前で失敗することと完全に負けることとは結果において区別がないからだ。西側の代議制が中国で政権超越者を発奮させられないのは、リスクが多すぎるというのが重要な原因であろう。ソ連崩壊とゴルバチョフの退場は、為政者に独裁制度に明日がないことを知らしめ、できるだけ長続きさせようと思わせた。為政者は変革の全過程を予見して、しかも何度も熟考してはじめて、成功の自信を持てる。

 事前に全過程を展望したり、転換の道筋の各段階を反復熟考したりするのには、「全体的な設計」が必要である。それは当然まず思想の任務であり、思想超越者が提供しなければならない。現在の学界の流行は「全体」の否定であるが、これは「学術」問題ではなく、政権超越者発生促進の前提であり、政治変革の前提である。主流を意に介せず、流行を追わず、それ自体が思想超越者のしるしの一つである。