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王力雄:超越者連盟(3)

2008-02-21 22:53:16 | 中国異論派選訳
王力雄:超越者連盟(3)

原文出典:http://boxun.com/hero/2006/wanglx/6_3.shtml

 政権が資本を搾取する現象は普通に見られるが、資本が政権に頼って金をもうける現象も同じように多い。両者の本質は一種の権力と金銭の取引であり、互いに利益を受ける。資本が搾取される不満は政権に対するへつらいを妨げない。資本に政権と抗争する勇気はないし、政権の歓心を買えば政府からプロジェクト、税の減免、当局による労働者の反抗鎮圧など、得られるものは失うものより多いからだ。政権もまた、共産党に吸収したり、人民代表大会や政治協商会議の役職を与えたりすることで資本を慰撫する。

 地方政府と中央のゲームを民主繁殖の土壌とみなす見方がある。しかしそれはたとえ集権を弱める作用があったとしても、「民主」とは何の関連もない。かつての軍閥割拠は地方と中央のゲームの極致であったが、「連省自治」の旗印の下に民主があっただろうか? いわんや今の中共中央は当時のように弱体化してはいない。地方と中央のゲームの根源は中央の弱体化にあるのではなく、「上意下達」の専制構造――ひとつの中央が数十の地方政府を監督するので、監督しきれない状況が必ず生まれるからである。たとえ毛時代の権威をもってしても、中央と地方の関係は「統制すれば動かなくなり、緩めれば乱れる」とか「条」と「塊」紛争と形容された状況に長く悩まされたと力なく概括されていた。今日人口が倍になって、経済規模は数倍になったので、かつての統制スタイルは捨てて地方に自主的に爆発の圧力を管理させるしかない。地方の重みはこれによって強化されたが、決して統制がきかなくなったわけではない。

 いわゆる「諸侯」の中共中央に対する対抗の前提は「諸侯」の地位は中央によって決められないことである。しかし今日の各省の高官や軍隊の将軍はみな中央が厳重に統制し思いのままに移動させられるので(よしんば障害があったとしても中共中央内部の闘争によるもの)、「対抗」の前提が存在しない。地方の中央に対するゲームの手法は虚偽報告、時間遅延、対策の捏造、違反すれすれの行為などの古めかしい官僚的手段に過ぎないか、地方による中央政策の自家撞着の利用や、中央が成功と失敗をもって真理と誤謬を論ずる機会主義の中に地方が隙間を探すに過ぎない。これらのゲームはいずれも中央が容認しうる許容範囲内に収まっている。地方官僚の最大の甲斐性は許容範囲のラインを推測することにより、できるだけそれを最大限利用し、しかも半歩たりともラインを踏み出さないことである。

 しかし、エリート連盟がいかに強固であっても、変化はやはり起こる。外部の危機の爆発はしばらく置いて、エリート連盟自体も思想要素から不安定が生じる。エリート連盟の中の思想者が反逆するのではなく、エリート連盟はすべての思想者を受け入れきれないのである。思想は権力や資源のように独占できず、思想者にも権力者や資本家のように数の制限があるわけではない。思想には敷居はなく、教育の普及に伴い思想者は絶え間なく増加し、エリート連盟の受け入れ能力をはるかに超えてしまう。

 思想者の受け入れについていえば、中国古代の統治者が採用した科挙制度が最も成功したものであり、ほとんど無限であった。たしかに選抜される者は少数だったが、理論上は誰にでも可能性があったので、思想者はみなその道にひきつけられ一生努力したので、「天下の英雄はみな罠にはまった」。それに比して、現在のエリート連盟は非常に閉鎖的である。一方で、思想者に手順を踏んで権力圏に入るルートを与えておらず、抱負を抱く思想者が制度の枠の中で野心を実現することは難しい。また一方で、更新能力に欠け、連盟内の思想エリートはより多くの人を受け入れて資源を分け合うことを望まないだけでなく、自らの地位が脅かされることを恐れるので、幾つもの障壁を設けている。学術体制と発言覇権で他の思想者がエリート連盟に入らないよう阻止している。もしも、権力エリートと資本エリートの排他の効果が自らを腐敗させるに過ぎないとしても、確かに他人に権力や資本を渡さないということは達成できる。しかし、思想エリートの排他は自らを腐敗させるだけで、他人が思想を獲得することは止められない。エリート連盟の外に排除された思想者は、別の道から頭角を現すことを試みる――それはしばしば民衆との連合による既存のエリート連盟への挑戦であり、彼らを抑圧する社会の変革である。

思想と民衆の連合――急進とのダンス

 民衆は社会の主体であり、富の源であり、また権力の統治の対象であるとともに合法性の根拠である。ゆえにいかなる要素も自らが人民の側に立っていると標榜する。たとえ独裁政権であっても人民を代表していると自称する。民衆は普段は分散して無力であるが、政権を揺るがすエネルギーを潜ませている。歴史の一大転機には民衆がついた側が必ず勝利してきた。しかし、民衆がこのようなエネルギーを発揮するのは、他の要素の介入によることが多く、その中でも思想要素の作用が最も大きい。

 民衆が社会の発展を推進する道は、一つは圧力をかけて権力者に政策を調整するようせまること、もう一つは立ち上がって旧政権と闘い動揺させることである。民衆がもし思想と結合できれば、圧力と闘いを大幅に高めることができる。思想で凝集させなければ、民衆の圧力は分散した部分的な問題に対するものになり、圧力も伝わり方が遅くなり、はっきりと現れないため、権力者のフィードバックを引き出しにくい。思想の導きがあると、一面で民衆は高所からの共通認識を得られ、共通の問題に対して分散していた力を集中できる。また一面で、思想者は社会の不満について総括と提示がうまいので、民衆の圧力を潜在状態から顕在化させ、公開の意思表示として政権に知らしめ、圧力の伝達速度と刺激強度を高めることができる。また、思想者の圧力緩和の検討と提案は、権力者の政策調整を助け、権力の自己改革を促す。

 政権が思想を抑圧すれば、思想は過激な方向に進む。それは弾圧に対する反発であるとともに、過激な方法が抑圧を突き破りやすいからである。たとえば政権が思想を禁止したとき、著述、ネットワーク、社会教育など穏健な方法で打ち破ることは、社会運動に身を投じる過激な方法にはるかに及ばない。思想者がもし典型的な社会的事件を利用し(あるいは作り出し)、参加していって事件発生地の民衆と結びつき、最新の情報拡散手段を借りれば、非常にうまく禁止を打ち破り、短時間のうちに輿論の注目する焦点となり、社会の声援と国際社会の支持を集められる。このような方法による思想の伝達は、わずかの努力で大きな効果が上がり、変革の推進にもより効果的であり、思想者本人もニュースの広がりにより声望を得られる。

 事件発生地の民衆にとっては、思想者は彼らの抵抗に正当性、国民の権利、憲法上の権利などの「論法」を提供してくれ、また法律と専門知識の支援も提供してくれる。もたらされるマスコミ報道、国際社会の注目、募金などもまた大きな励ましになる。いったん思想者が介入すると、政権が本来は簡単に平定できる事件が統制しづらくなり、本来は封鎖できる情報も世界に伝わってしまう。したがって政権に対する圧力を大幅に高め、政権は政策を調整するよう迫られる。現在、思想者のこのような社会運動は「権利擁護」に集中し、勢いは拡大し発展しつつある。

 目下のところ、事件の利用は思想の伝達を助け、民衆にモデルを提供している。しかしこのような方法は急進的に展開しやすい。なぜなら、急進的なことが圧力を高めるにも注目を引くにも効果的であり、事件を借りて思想の影響を拡大する目的に有利であることから、急進化の傾向は免れがたい。思想者の事件における役回りが民衆を抑えるものであったとしても、往々にしてそれも戦術であり、事件自体は一般に思想者の介入によってより急進的になる。

 思想者が事件を借りて声望を高めることを希望し、自分のために資源を開拓して将来の下ならしをすることは非難すべきことではない。社会的利益を満足すると同時に個人の利益を満足させられるのは最良の結果である。しかし次の古典的な問についても考慮しなければならない――「人民のためかそれとも人民の獲得か?」もしも目的が人民の獲得のためであれば、思想者自信が急進の前列に出るであろう。衝突が激しい社会では、人民は必然的に急進的情緒を帯びる。人民の獲得のためには人民の情緒に迎合したりそれを先取りしたりしなければならない。いわんや思想者に名声をもたらすネット社会、メディア、国際社会などは、往々にして急進的な事件や人物にだけ注意を向けがちである。

 急進がすべて不適切というわけではないが、恐れるのはひたすら対決する急進が双方の理性を失わせ、命がけの勝負に陥ることである。そのような対立関係の中で作用を発揮するのは往々にして思想ではなく、失敗に対する恐怖と後の影響の計算であり、さらには意地さえも影響要素となる――それは急進が伴う属性であり、ばかばかしいが真実だ。最後の結果は双方にとって「予言の自己成就」となる――民衆の暴動と当局の暴虐な鎮圧である。

 「人民の獲得」という目的はまた容易に思想の投機にいたる。なぜなら民衆になじみのない新思想で民衆を説得し導くことは困難だからである。民衆の広大な大海にむかって、啓蒙が可能であったとしても長々と時間がかかり、思想者は長期にわたって孤高を守り続けるしかない。もしも寂しさに耐えられなければ、激しい運動への近道は民衆の中に根を張った既存の思想を利用することである。たとえばかつて政権が力を傾けて普及を図った毛沢東思想は、「人民の獲得」のためにははるかに便利である。それに似たようなものは他にも、儒教、道教、仏教などの「本土資源」、ポピュリズム、ナショナリズム、および民衆の利益を至上とする信条など、いずれも啓蒙の必要なく、迎合すれば民衆を取り込めるものだ。しかし、これら既成の「思想資源」の中に、中国の変革を実現し、困難から抜け出させる超越性を持つものは非常に少ないことは容易に見て取れる。「人民の獲得」は歴史を獲得することを意味せず、民衆に迎合する思想者は最後には思想を失う。

資本と民衆の連合――ブルジョア革命(第二章第三節)

 ブルジョア階級は独裁制度の下では、地位はあまり向上せずせいぜい二等までで、主人は永遠に政権を握る独裁者である。代議制民主主義が実行され、選挙のコントロール(?)、政党の資金援助、メディア支配などの方法で政権代理人の入れ替わりを決定してはじめて、ブルジョア階級は政権担当者を自らの代理人にできる。よって、中国のブルジョア階級(?国有企業を除く民間企業経営者?)は遅かれ早かれ代議制民主主義を自らの政治目標とするであろう。

 「民主」の旗の下にこそ、資本は民衆と連合することができる。双方の民主に対する理解は非常に異なるかもしれないし、達成しようとする目標も大きく違うかもしれないが、民主がまだ実現していない理想の段階では、民衆はその違いを理解しにくい。資本はまだ権力を握る前は、要求する権利は民衆の要求と一致するところがある。たとえば、法治、人権、普通選挙、立憲制の実施と一党独裁の終結などである。そのときのブルジョア階級は民衆のための請願者をしばしば演じ、民意をもって自らの政治要求の合法性を高めようとし、民衆の圧力を政権とのゲームのカードに使う。

 中国のブルジョア階級のイデオロギーは西側のシンクタンクからの直接移植(?)なので、多くの西洋化を主張する思想者は彼らと民衆の連合の天然の仲介役となる。資本が思想者を利用して民衆と結びつくおもな方法は非政府組織(NGO)である(?阿拉善SEE生態協会はその一事例か?)。中国には現在数十万の非政府組織があるが、政府がコントロールするものは除外して、本当のNGOは理念のために設立され、理念で活動を指導する。よってそれは本来的に思想者と民衆の結合である。なぜそれが資本と民衆との結合になるのか? なぜならNGOは理念だけでは進まず、その発展はかなり資金によって決まるからである。中国のNGOは現在民衆からの募金はわずかで、おもな資金源は国内外の資本の寄付である。資本は選択的にNGOに資金を提供することにより、そのニーズにあったNGOを育て、NGOの発展方向を主導することができる。この点から見て資本のNGOに対する誘導は思想よりも大きい。

 現在中国の企業家が「公益事業」のために出す金は少なくないが、大部分は政府への迎合や広告目的である。彼らが自分たちの政治的要求のためにこの金を使い、NGOの育成により民衆と連合すれば、大きなエネルギーを生み出すことができる。NGOは政権が衰退し、社会危機に陥ったときに政党に変わることができ、民衆の支持に頼って権力を接収し代議制を実行することができる。この種の「色の革命」はすでに一部の国でうまく成功している。それらには形は違っても、根源を突き止めれば資本(あるいは資本の代理人としての西側政府)の背景が探し出せる。そしてそれによって生まれる新政権は、資本の代理人となる。

 NGO運動の理論目標は――政治から独立しかつ自主性のある市民社会を構築し、市民社会の力で社会の転換を推進することである。超階級の理想ではあるが、NGO活動家の認識は「民族精神から生活形態および制度設計までの系統的な事業」であり、規模が大きすぎて、はるかに遠くてとても期待をよさられるものではない。

 資本と民衆の連合で政権に反対するとき、政権が主導するエリート連盟は解体するが、いったん代議制民主主義が実現すると、エリートは再び同盟を結ぶ。このときのエリート連盟は資本主導であり、政権主導のエリート連盟より安定している。なぜなら新しい連盟の中では、政権はすでに資本の代理人となっており、資本と政権の分裂は生じないからである。思想統制については、資本は独裁政権のように横暴ではないが、独特の能力を持っており、言論の自由の旗の下で、主流文化のコントロールを通じて、たやすく異端思想を排除することができる(?)。