【ML251 (Marketing Lab 251)】文化マーケティング・トレンド分析

トレンド分析ML251の文化マーケティング関連Blogです。ML251の主業務はトレンド分析をコアにしたデスクリサーチ。

欲望=自我の統合が不可能という消費社会の病理 (『第四の消費』 三浦展 より)

2012年08月06日 | カルチュラル・キーワード備忘録
私は以前。ある生活研究シンクタンクの研究員のコメントを新聞で読んで「へえ」と驚いたことがある。同研究員が高校生の食生活を調査したとき、高校教員の意見として「食べることを楽しいと感じない、面倒と思う子が増えてきた」という声が目立ったというのである(「東京新聞」2003年1月13日付)。しかし、この話を知り合いの食品メーカーの人にすると、食べるのが面倒くさいという感覚があることは食品業界では数年ほど前から常識だと言われてしまい、また驚いたのである。

(中略)欲求の基本的な源泉は不足である。人は足りないものは欲しいと感じる。あり余っているものはあまり欲しいと感じない。ここで食べておかないといけないと今度はいつ食べられるかわからないと思えば、多少まずいものでもよろこんで食べる。
ところが現代の生活は、コンビニにもファミレスにもファストフード店にもデパ地下にも、そして駅のプラットフォームにすら、いつでもそこでも食べる物があふれている。いつでも手に入ると思えば食べる気が薄れるのは当然だ。食べ物が多様に大量に目の前に存在し、それを自由に選択できるにもかかわらず、むしろそれだからこそ、かえって食べることが面倒になっているのだ。

それはちょうどわれわれが、情報社会の中で、過剰な情報の洪水を処理することができずに、ただ流れている情報をぼんやりと眺めるしかできないでいる状況とよく似ている。欲しいとも言わないのに、つまらない情報が大げさな演出を施されて24時間垂れ流されている。いや、ものすごい圧力で放出されている。

(中略)私があるとき若者に行ったインタビューでも、一体自分が何を食べたいと思うか予測がつかないので、あらかじめ食品を買いだめできないという意見があった。スーパーに行って安いものを買いだめしても、結局食べきれないという。食べきる前に他のものが欲しくなるからだ。だから買いだめせず、何か食べたくなったら、たとえ夜中の二時でもコンビニかドン・キホーテに駆け込むほうが無駄がないらしい。若者は(若者だけではないが)、腹がへったと内発的に感じて物を食べるのではなく、偏在する食物情報による刺激に反応して物を食べるようになったのである。

しかしこうなると、食欲を満たすことは幸福感にはつながらず、むしろ食欲は、食べても食べても満たされることのないもの、むしろ、いつ何時自分に襲いかかってくるかもしれない不快なもの、不気味なものとして意識されるようになる可能性がある。それが、若者が食べることを面倒くさいと思うようになった理由ではあるまいか。そして若者は、いつ何が欲しくなるかわからない自分というものをもてあますようになった。自分がわからなくなったのだ。

(中略)自分がわからないということは、自分の欲求を自分で統合できないでいるということである。統合するには、あまりに自分の欲求には脈絡がなく、突発的に現れすぎる。それが本当に自分の欲求なのかすら不明である。自分をわかるということが困難になっているのだ。

もはや自分は統合されたひとつの「自分(アイデンティティ)」ではない。自分の内部に唯一のたしかな自分があるのではなく、自分の外部に自分でも知らないいくつもの自分があると感じられるのだ。まさに「複数の自分」である。そして、この「複数の自分」こそが、自分をわからなくさせるのである。


(同書132~135ページより)

随分、長い引用となった。
食欲は人が生きる上での生理的で基本的な欲求だ。
にもかかわらず、このような「現象」が見られるとは、重症だ。
「選択肢の多さ」がストレスを生むことは多くの論文や実験結果の発表により周知のこととなっている。
特に目新しい知見ではない。
そうなると、数多くの商品・サービスのうち最もシェアの高いものが選ばれたりね。
つまり、「ネットワーク外部性」も人々の「ストレス」軽減と連関してると思う。

三浦の知見に、私の意見を入れさせてもらうとすれば、「食べること」の目的を考えてみたらどう? ということだ。
もちろん、老いも若きも男も女も「食欲」は生命維持の基本だ。
しかし、「食事」の目的が、「インストゥルメンタル(道具的)」か「コンサマトリー(充足的)」か? という視点で考えてみることだ。
この区分は(後述するが・・・たぶん)、三浦の得意とするところでもあるし。
「食事」の目的が「インストゥルメンタル(道具的)」か「コンサマトリー(充足的)」か、生活者調査の結果から興味深い知見を導き出しているのが、辻中俊樹氏である。

拙著「コンテンツを求める私達の『欲望』」の181ページ(PDF版)で私はこう書いた。

「シニア向け」といわれる商品・サービスを開発するにしても、まず、「シニア」という言葉やニュアンスが少しでも匂えば、到底、受け入れられることはありません。
さらに、20代や30代のリサーチャーが、グループインタビューやデプスインタビューといった定性調査で「仮説」導き出し、定量調査で「検証」したつもりになっても、成功商品・サービスの開発に貢献できるわけがありません。第2章で説明させていただきました夏目漱石の「存在論的不安」のお話のように、「きわめて肉感的」なイメージ(柄谷行人)とセンスが必要となるからです。


この文章を書いていた私の脳裏にあったが、辻中俊樹氏と私の先生でもあった故 油谷遵氏である。
実際、この10年以上、大手広告代理店や有名シンクタンク、多くのマーケティング・リサーチ企業の「シニア」市場分析をみるにつけ、あまりに表層的で呆れるばかりだった。
「これじゃ“成功事例”なんて無理だよな・・・」と。

で、話を戻すと、三浦の言うところの「若者」(若者に限らない)にとっての「食事」の目的とは、「インストゥルメンタル(道具的)」ではないか? というのが私の考えだ。
Facebook を見ていると、美味しそうな食事や飲料の写真をアップされているのは、若くても30代。
ほぼ40代以上の友人たちだ。
20代の「若者」が、そんなことばかりしていたらかえって気味が悪い。
もっと、「食事」どころではない雑多なことに興味・関心を向けるのが「若者」だしね。
年齢を重ねなければ「食」についてのこだわりは高まらない。
まして、辻中氏によれば、「食」と「調理」の目的が本来の意味での「コンサマトリー」になるのは、「仕事」「子育て」から解放された「定年後」のことだという。
40代、50代の「調理」がまだ「生きること」の足かせになっている事実、「美味しいもの」を食べるのが「ストレス解消」の次元に止まっているうちは、「食」「調理」の目的は、十分、「インストゥルメンタル(道具的)」なのである。

そう考えれば、生理的な「食欲」とは別の次元の話として「食べるのが面倒くさいという感覚」は私にもよくわかる。
実感することも多いしね。

***************************************
▼記事へのご意見、Cultural Marketing Lab INOUE. (CMLI) へのお問い合わせは下記メールにてお願いいたします。
sinoue0212@goo.jp
***************************************
▼『コンテンツを求める私たちの「欲望」』
電子書籍(無料)、閲覧数8,600突破しました!

私の思想=文化マーケティングの視座が凝縮されています。
http://p.booklog.jp/book/43959
***************************************
▼パートナー企業様
*詳細につきましては担当者とご説明に参ります。

【ソーシャルリスニング】につきましては、
GMOリサーチ株式会社 「GMOグローバル・ソーシャル・リサーチ」
http://www.gmo-research.jp/service/gsr.html#tabContents01

【激変するメディアライフ! 感性と消費の新常識】
アスキー総合研究所「MCS2012」
http://research.ascii.jp/consumer/contentsconsumer/
***************************************
お読み頂き有難うございます。
(↓)クリックの程、宜しくお願い申し上げます。


音楽 ブログランキングへ

マーケティング・経営 ブログランキングへ


最新の画像もっと見る