「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評 第97回 可能世界の中の「私」たち 山田消児

2013-07-05 00:00:00 | 短歌時評
詩客時評(7月5日掲載分)




 短歌同人誌「率」3号(2013年4月刊)の吉田隼人の評論「死ねなかった僕のための遺書(あるいは「亡霊」のためのノート)」は読み応えがあった。取り上げられているのは寺山修司、斎藤茂吉、浜田到。吉田は「死」を共通のキーワードとして3人の歌人の作品を鑑賞、分析し、彼らがそれぞれの方法によって死の不可逆性を無効化したという見方を導き出す。寺山は近代短歌では許されなかった嘘をつくことにより、茂吉は『初版 赤光』で時系列を遡るように作品を配列したことにより、また、到は不可視の世界を志向し、そこにいる死者たちと同じ空間を生きることによって。
 吉田は、3人の作品に触れながら、次のように書いている。


 しかし戦後、経験に対して嘘をつくことができるとわかってしまう。愛も、死も、特権化された経験ではなくなってしまう。経験していなくとも、愛や死を詠うことはできる。とりわけ死は、ここにきてその不可逆性を奪われ、そして特権性を失う。いわば短歌のなかで死ぬことができなくなるのである。

 私は私として死ぬことができない。私が死ぬとき私は消滅するのだから私は私の死を体験することができない。だから私は死にゆく者をひたすら見つめることによってフィクション的に同一化し、虚構として死を擬似的に経験するしかないと考える。死にゆく母や患者をただひたすらに見つめることで、茂吉は自分自身の死と生をも見つめる。

 死者と生者とが混在する恩寵に満たされた空間を希求する彼(浜田到のこと=引用者注)にあっては、死の不可逆性を担保し、生者と死者とを引き裂いてしまう時間性は何より忌避せらるべきものであった。(中略)ゆえに彼の歌にあっては時間がスムーズに流れてしまうことのないよう、「抵抗」としての破調が多用される。


 吉田の評論から読み取れるのは、経験至上主義から解き放たれることによって、死を、他者のそれとしてだけでなく、現実には経験することのできない自らの死としても詠うことが可能になるという、逆説的であり、かつ作者側にとってきわめて重大な成り行きである。死という究極の事態に限らず、実体験と短歌の一人称性との関係全般に関わってくる考え方として、私はこれを非常に興味深く読んだ。また、それとは別に、浜田到の歌の大きな特徴である破調を創作上のモチーフと結びつけて説明しようとした独自の視点にも心惹かれた。
 なお、吉田の評論には、欧米の哲学者、文学者らの言説や文学理論への言及が数多く含まれており、論の展開に重要な役割を果たしている。これは、短歌総合誌などで普段目にする短歌評論にはあまり見られない特徴であり、たまにそういう文章に出会うと、知識量が圧倒的に不足している私などは、それだけで引いてしまうのが今までの常であった。ところが、吉田の評論に限ってはそんなこともなく、不思議と抵抗なく読むことができた。恥を忍んで言えば、そこに出てくるライプニッツやバタイユの著作を私は読んだことがないし、リンダ・ハッチオン、ゲラシム・ルカなどに至っては、その名前すら聞いたことがなかった。にもかかわらず、彼らの言説の援用が論を読み進める邪魔にならないのはなぜなのか。
 ひとつには、先人の業績について述べるときの記述が簡明で、事前に知識を持たない者にとってもわかりやすいということが挙げられようが、それよりも、歌論本体が、既存の理論を必須の前提条件とはしておらず、まずそれ自体で自立していることが大きいように思われる。既存の理論や言説を引き合いに出して論考がなされている場合、その理論や言説がまず読者の前に立ちはだかり、それらを先に理解しなければ本筋に進めない関門として機能してしまうことが少なくない。だが、この吉田の評論では、本論の方が前面に出ており、先人の業績は背後から本論を支えるサポーターの役割を担っている。そして、それは、無知な読者の立場からすれば、本論を通してその向こう側にある新たな知識を窺い知れるということにもつながる。たとえば、ライプニッツの「順列組合せ」や「可能世界論」は、寺山短歌における模倣や引用の問題を死の不可逆性喪失をめぐる議論へとつなげていくための道案内役として生かされているが、それを前提としなければ論が成立しないというわけではなく、むしろ、寺山論と関連づけられることによって、ライプニッツを読んだことのない私のような読者にもその理論の一端を垣間見させてくれるように機能している。つまり、そこでは、歌論が既存の理論に寄りかかっておらず、両者が互いに支え合いながら、自立しつつ一体化しているのである。
 そしてまた、それと似たような関係性は、「死」をキーワードとして繰り広げられる歌論の中心部分と、死そのものをめぐる著者の個人的な思索との間にも成り立っているように見える。あとがきで吉田は次のように述べる。


 僕は自分でも生きているのか死んでいるのかわからないような状態のまま、二〇一一年から二〇一二年への年末年始、福島の実家に帰省した。自分の身に降りかかってきた大量の重荷を背負い切れず、何度も死を考えたが、偶然と臆病のなせるわざから、恐らくは生きたまま帰省することになった。


 詳しい事情は書いてないが、一生活者としての自分自身の体験とそれについての感慨を述べていることは間違いないだろう。この文章からは、自分は今生きているという現実があのとき死んでいた可能性と表裏一体のものであるという著者の思いが浮かび上がってくる。その思いは、寺山や茂吉や浜田到の短歌作品における「不可逆性」を?奪された死、「可能世界」のひとつとしての死という考え方とも直結するものなのではないだろうか。一人称の文学といわれる短歌の世界においても、評論の中にまで露骨に自分語りが入ってくるのはあまり一般的とはいえないが、本件の場合、自分語りが本来のテーマと重なり、また、そのテーマを補強して、評論全体の説得力をいっそう高める結果となっているように思われるのである。
 「はじめに」を読むと、「死ねなかった僕のための遺書(あるいは「亡霊」のためのノート)」という変わったタイトルを持つこの文章は、震災後に書かれた「ごく個人的なノートからの抜粋」であり、また、同じノートから生まれた短歌連作が別途、一足先に発表されていることがわかる。以下、その連作「砂糖と亡霊(ゴースト)」70首(「率」2号、2012年11月刊)から引く。


可能世界のわれを殺むる速度もて通過してゆく特急列車
ぎんなんといちやう降りつむこの道をわれの不在が踏みしめてゆく
薬壜洗ひ干されてゐたりけりまるでからだのないひとのやう
音もなく氷雨降りくるまよなかのバス停に来ぬバス待つ死者ら


 死者の視線を通すことで現実が夢の中の風景のように不確かなものに見えてくるこの連作の作品について、作者自身は評論の「おわりに」の中で次のように述べている。


 しかし「僕は生きて帰省した」という言表の裏側にいつもべったりと貼り付いている「僕は死んで帰省した」という可能世界を、ちょうど窓硝子にうつる自分のように二重映しにしながら紡いでいった……。


 とはいえ、上の掲出歌を見てもわかるとおり、作品は、作者がもし死んでいたとしたら起こったであろう出来事を描いているわけではなく、あくまでも、「われ」が死に、死んだあとも亡霊となってこの世をさまよい、遺された者たちに語りかける、という設定の下に創作されたファンタジーなのである。淡々としていながら、どこか切なく、切羽詰まった感じがするのは、やはり、死者という取り返しのつかない立場にいる者の思いが詠み込まれているからだろう。私の場合、評論を先に読んで作歌に至る経緯を知っていたので、よけいに感情移入しやすかったのだが、作品自体には詞書やエピグラフなど余分なものは一切ついておらず、作者の個人的事情に依存しない自前の世界観を歌だけで提示できているのが強みである。
 短歌連作「砂糖と亡霊」で描かれるのは、「生きている」という現実の裏側にある「死んだ」というもうひとつの可能世界での物語である。私たちは複数の可能世界を生きられないが、短歌の中でならそれができるし、その具体的な中身は、ファンタジーであれ何であれ、どのようにでも作り上げることができる。このことは、小説でフィクションを描くのとは全く質の異なる話だという気がする。
 短歌は一人称の文学であるからこそ、私たちは作中でいくつもの異なる「私」を生きることが可能になる。同じ起点から出発しながら形式の違う2つの作品として結実した「砂糖と亡霊」と「死ねなかった僕のための遺書(あるいは「亡霊」のためのノート)」を読んで、私はそんな考えに辿り着いたのだった。



山田消児(やまだしょうじ)
歌誌「遊子」「Es」同人
個人ホームページ:「うみねこ短歌館」

最新の画像もっと見る

コメントを投稿