「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 短歌を見ました(1) 鈴木一平

2016-05-30 13:13:59 | 短歌時評
 このたび、俳句から短歌の方へ異動になりました。今後とも、よろしくお願いします。俳句についての評を書いていたときも、あまり準備をせずに作品を読んで、書きましたが、今回も似たような感じでいきたいとおもいます。

 ひかりほどのおもさをうけてちるはなのはなのひとつのまだちらぬとき
渡辺松男『雨る』(2016年)


 技をいくつも重ねた感じがいいですね。葉が落ちるときよりもかるさがある落花の仕草が、「ひかりほどのおもさ」と表現されているところで、花に重さを加えているものはなんなのか、という疑問を呼びます。実際のところ、花は花の重さで地面に落ちていくわけですが、それを「ひかりほどの」とぼかされると、この花を見ることをそもそも可能にさせていた(花が、見えとしての花を私たちに提示することを可能にさせる)光の存在が、花そのものに染み込んで、その重さで花が散るかのような認識を与えてくれます。ところが、この歌は散る花を受けて詠まれたものではなく、そのような花が散らずにいる時間を主題としています。すると、「ひかりほどのおもさをうけてちるはな」という言葉がそれ自体で花が散っていく際の時間を歌ったものとして、了解していた情景が巻き戻されていくような感じがします。もう散ってしまった花の、まだ散らずに咲いていた頃の時間に対する想起を巻き戻す。それは、「ちる→はな・はな→ちらぬ」という、鏡合わせの配置が下支えになっているともいえます。上から下に読んでいく過程が語の配置においても遡られることで、巻き戻しの感覚が強くなるわけです。

 蝶の髭うすきみわるく見えしときの見えてしまひしうすきみわるさ

 この歌集は、そうした鏡合わせの反転を狙った作品がいくつか見受けられますが(ほかに、「であふまへすでにであひてゐしごときさゆらぎの翠陰につつまる」など)、この作品は、読んだ時間の巻き戻しの効果を引き受けつつも、「うすきみわるさ」を懐古するなかで主題として引きずりだすような仕草があります。薄気味悪く見えたのは、蝶の髭がうすきみわるいからというより、蝶の髭とは無関係に、うすきみわるさそのものが客観的なものとして存在しているからだ、という認識が、ここにはあります。蝶の髭にうすきみわるさを見いだすのは主観かもしれない、けれど、うすきみわるさがそこにあることは客観的な様態としてあるはずだ、と。この作品は対象から受けとる感覚そのものの、理性による制御の不可能性を逆手に取っているともいえます。一方で、ここには対象と対象のもつ属性との分離があります。

 葱の香に葱そのものが負けてゐるわらつてはゐられないさみしさだ

 対象と、対象の属性との分離は、言語の存在が可能にした操作です。対象の知覚が、対象がもつ性質の総和の、あるいは対象を原因にもつ性質の総和の知覚であるなかで、それらを切り分け、別のものとするデジタルな操作は、対象とその性質との関係を揺らがす起因をつくります。この作品における「さみしさ」とは、おそらく言語が担う分節のさみしさであるのかもしれません。本来なら、葱とその匂いを分けるという認識そのものが言語を経由しなければ成り立たないからです。こう読み解いてしまうと、「さみしさ」の配置がすこしつまらなく感じてしまいますが。

 不発弾処理せしのちのごときなるあかるき穴はなぜに掘られし

 むらさきは虹のいちばんうちのいろ地上のこゑのさいしよにとどく

 狂人とひとに言はれてゐるわれはみづからの歯ならびを光らす


 その他、印象に残った作品をいくつか挙げてみますが、しばらく俳句を読んでなにかを書く習慣があったせいか、正面切って短歌を読んで、七七の存在をつよく意識しました。この間取りは、俳句に対して感じる物の配置の問題意識(季語+物、または認識をどう当てはめるか)から、短歌を詠むこの私の身体性に対する視点があらわれるような気がします。それはある語の、作品に対する占有の度合いが減り、それに伴って語そのものが仮構する対象の物質性が薄れ、語に対する明示的な身ぶり(記述)の自由度と、身ぶりへの注目度が相対的に増えることに由来するのかもしれませんが、それによって、作品が実現する「ある認識」以上に、「その認識をする私」を特権化する方向が打ち出されるところがあるとおもいます(これは私性の問題と重なる?)。これは、詩においてよくある「この私」、あるいは、「『この私』の認識」の主題化と重なるところがあって、こうした問題意識のつよい作品は、読んでいてあんまり好きじゃないのですが、むしろ、「この私」を不気味な存在としてつくり、「私」からずらす作品として、永井祐の『日本の中でたのしく暮らす(2012)』がおもしろかったです。

 歩くことで視界が揺れる なんとなく手に取ってみたニューズウィーク

 手ブレ補正の機能をもたないカメラは、歩行の振動をダイレクトに受けますが、私たちの視界は不随意的に作動し続ける眼球運動に支えられていて、歩行の際もブレることなく、安定して世界を見ることができています。この作品は、カメラのもつ私の視界の外、その隔たりを私の視界に向けて送り返すことで、私の視野を私から引き剥がす操作が特徴的です。単にカメラの映像を見ているといってもいいのかもしれませんが、そうなると、「歩くことで」のもつ継起性をカメラをもつ手、カメラをもつ対象に委ねることになり、どちらにせよこの視界とこの視界を見る私の距離、間接性が問題になります。この距離感が、「なんとなく」をどう位置付けるかを考える際に効果的です。「なんとなく」は、その原因を上手く示すことができない。「なんとなく」は、行為の原因が私にありながら、私の判断を介さずに成立する行為のもつ性質の総称です。私はニューズウィークを手に取った。けれど、なぜ取ったのかは私とは関係がない。人間の理性が最後まで統制できない地点、というより、統制できなさそのものが露出する地点としてあらわれる「なんとなく」の行為が、視界と私のズレと平行して示されているといえます。

 高いところ・低いところで歩いてるぼくの体は後者を選ぶ

 建物がある方ない方 動いてる僕の頭が前者を選ぶ

 整然と建物のある広いところ 僕全体がそっちを選ぶ


 こうした「私の外にある私の判断」のテーマは、別の作品からも見ることができます。眼下に与えられる選択に対して判断をくだす私の責任が、これらの作品では私の体の部位に割り当てられています。重要なのは、「僕の体は」→「動いてる僕の頭は」と、「この私」の判断にとって鍵になるはずの部位が、奇妙に「この私」から引き剥がされながら推移していることです。考えているのは「僕の体」や「僕の頭」であり、「僕」ではない、従ってその判断に対して責任を負うのはそれらの部位であり、「僕」ではない。そして、三つ目の作品では「僕全体」が判断し、僕全体が僕から引き剥がされています。こうしたテーマはよくあるものですが、飄々とした筆致で不気味に行為の瞬間を繰り出し、その責任を手放してみせる手つきが魅力的です。そうした不気味な私を意識しながら、

 ぼくの人生はおもしろい 18時半から1時間のお花見

 落としてもいい音するから楽器だよ 電車で楽器を落としてひろう

 〈カップルたちがバランスを取る〉のをぼくはポケットに手を入れて見ていた

 片腕のない外国人が夕暮れに2階のキンコーズを見上げてる


 これらの作品を考えてみるとおもしろいのではないか、とおもいます。

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