砂子屋書房のHPに連載の月のコラム「ハヤブサが守る家から」の1月の回に、土岐友浩は「リアリティの重心」を寄せてゐる。土岐は、小木曽都、西村曜、柴田葵、辻聡之といつた若手の作品にみられる「想像」について、それが現実世界を離脱した「メタ」なものではなく、現実と「パラレル」なものではないかと指摘してゐる。土岐自身はコラムのなかではつきり言及してはゐないが、土岐の指摘は前衛短歌の虚構の歌と比較して現在の作者の虚構のあり方の違ひを掬ひ取つてゐるやうで、興味深く読んだ。
土岐はコラムの最初と最後に吉川宏志の第一歌集『青蟬』の一首「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」に言及して、そのことが波紋を呼んだことは多くの人が知るところだらう。
土岐はコラムの最初と最後に吉川宏志の第一歌集『青蟬』の一首「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」に言及して、そのことが波紋を呼んだことは多くの人が知るところだらう。
土岐友浩「リアリティの重心」
https://sunagoya.com/jihyo/?p=1726
土岐はコラムのなかで、吉川の「花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった」について、土岐をふくめて従来は「否定を用いて、実際には告げることができた」と読まれてゐた一首が、最近の若者には「愛を告げたかつたのに、告げることができなかつた」と読まれることがある、と指摘したのである。
土岐のコラムには、SNS等で多くの歌人が反応した。なかでも、私がなるほど、と思つたのは、1月6日に行はれた寺井龍哉の「ちょっと膝を打った」ではじまるツイートである。「土台告げることはできなかつた」といふ読みについて、「歌集の文脈をさしあたり別にすれば、成り立たぬ見方でもない。悔しい歌になる。でもそれなら「愛は」と書きたい。膝は打ったが納得はしにくい」と結ばれてゐた。鋭いと思つた。「愛を」を「愛は」に変へてみよう。
花水木の道があれより長くても短くても愛は告げられなかった
「愛は」としたとしても「愛を」としたときと同様、「告げることができた」と読むことは可能だが、「愛を」としたときに比べて「告げられなかつた」方に一首の印象は傾く。その理由は「は」が(他のことはさておき)「愛は」といふやうな限定の意味を持つことと関はりがあるのかも知れないが、私自身はその理由をきちんと説明することができない。また、寺井のツイートをきつかけにいまひとつ気づいたことは、「愛は」とするより「愛を」とした方が、辛くも告げることができたといふ謂はば「できごと感」が増す気がすることだ。以上の助詞についての考察から、私は吉川の一首について「告げることができた」と読むのが妥当ではないかといふことを再確認するのだが、それではここで話が終はつてしまふので、以下、助詞については気づかなかつたことにして続けることにする。
土岐のコラムを受けて、飯田和馬がツイッター上で花水木の歌と似た構文の下記のやうな2つの文を挙げ、その文意の取り方についてアンケートを行つた。
「薬剤の投与があれより早くても遅くても彼は助からなかった」
「シナモンがあれより多くても少なくてもアップルパイは美味しくなかった」
このアンケートについてなんと、前者には2万人以上が、後者にも1万7千人以上が回答した。結果は、前者で彼が「助かった」と答へたのが37%で、「助からなかった」が61%。後者は「美味しかった」が52%、「美味しくなかった」が46%だつた。
このアンケートに私は参加しなかつたが、ツイッター上で見て思ふことがあつた。前者の一文が発話された状況について、回答者たち、ことに「助からなかった」と答へた人たちはどんなふうに想像したのだらうか、といふことだ。
「助かった」とした場合、もちろん、絶妙なタイミングの投薬によつて彼が助かつたといふ状況が実在したとしての話だが、このやうな発言が行はれる状況は想像しやすい。奇跡的なタイミングで彼が一命を取りとめたことへの喜びや感動から発せられることもあるだらうし、医療関係者や家族の適切な処置への賞賛や労ひの言葉として発せられることもあるだらう。
一方で「助からなかった」とした場合、死者やその遺族を前にしてこのやうな発言をするのは、ふつうはかなり勇気の要る行為、といふか空気を読めない行為である。仮にこのやうな発言がされるとしたらどのやうな状況が考へられるだらう。ひとつは、遺族から医療関係者に対して、投薬のタイミングの不手際が患者の死の原因になつたのではないかといふ訴へがあり、それに対する反論といふケースである。いまひとつ考へられるとすれば、受診とか投薬のタイミングについての自身の不手際に患者の死の責任があるのではないかと、自責の念にかられてゐる遺族や医療関係者への慰めの言葉といふことにならうか。
私が疑問に感じたのは、この一文の文意を「助からなかった」ととつた61%、1万2千人あまりの人は上記のやうな状況を想像した上で、そのやうに読んだのだらうか、といふことだ。もちろん1万2千人1万2千様の読み方があつたのだらうが、多くは発言が行はれた状況への想像力を遮断して、字面だけを読んでゐたのではないかといふ疑ひを拭ひえなかつた。
もちろん、上掲のアンケートは思考実験のやうなもので、発言が行はれた状況といふのはそもそも実在しない。しかし、文の意味をとる上で、その文が置かれた状況やそれを発した発話者の気持ちをくみ取ることは、文法的な妥当性を検証する以上に大切なことなのではないか。それが文学的な表現であつたり、短詩である場合は尚更である。
前述の通り、吉川宏志の花水木の歌について、私は「愛を告げられた」と読んできた。東直子は昨年末に文庫化された『愛のうた』の巻頭でこの一首を取り上げて、「「長くても短くても」には、「言いたい、でも言えない、でも言わなければ」と、その道を歩いている間中ずっと逡巡していた気持ちが込められているのである」と鑑賞してゐるが、同感である。
付け加へれば、作者、或いは主人公には、花水木の道の長さに、愛を告げたその日までの二人の淡い交際の期間を重ねる気持ちがあつたのではないかとも思ふ。勇気を出して相手に告げるまで、じぶんの想ひをそだてるのには時間がかかる。かといつて、仲のいい友達として付き合ふ期間があまり長すぎると、今更一線を越えられないといふこともある。春先の美しい並木道で愛を告げることができた、そのタイミングに主人公は、一寸大げさに言へば天恵のやうなものを感じたのではないか。
「愛を告げられなかつた」としたら、作者は、或いは主人公はどうして花水木の道の長さを引き合ひに出したのか、得心がいかなかつた。あれより長かつたら駄目だつた。あれより短くても駄目だつた。つまりどうしたって愛は告げられなかつたのだ、と言はれれば、さう読めないこともない気もしてくるが、どうしたつて愛を告げられない、さうした状況のとき短歌の作者は花水木の道の長さを云云するだらうか。
私には相応しい状況を想像するのが難しかつたが、それははじめから一首を「愛を告げられた」ものとして読んでゐて、それ以外の可能性を遮断してしまつたせゐかも知れない。「愛を告げられなかつた」とした場合、どういふ状況が考へられるか、今少し考へてみることにした。
今日も明日も会へる相手に「愛を告げられなかつた」として、花水木の道の長さを云云するとはやはり考へにくい。 「愛を告げられなかつた」としても花水木の道は、なんらかの意味で特別な一回性のかがやきを持つものだつたと考へたい。例へば主人公は引つ込み思案で、ふだんは相手と二人で会ふことなど叶はなかつた。それが、グループで会ふ予定が他の子が来られなかつたとか、バイトのシフトの急な変更でその日だけ駅まで一緒に歩くことになつたとか、さういふシュチュエーションで花水木の道を二人で歩いた。いまここで告げなければ、金輪際告げることはできない。さう思ひながら歩いてゐるうちに、駅なりなんなりに着いて二人だけの時間は終はつてしまつた。一人になつた電車のなかで、あの花水木の道がもう少し長かつたら愛を告げることができたのではないかとつかの間思ひつつ、否、道が長くても短くても、意気地のない自分には愛を告げることができなかつたんだ、といふ思ひに至つた。さういふことなら、もしかしたらあるかも知れないと思つた。
濱松哲朗が「6のつく日に書く日記(30)」で土岐のコラムを取り上げてゐる。
濱松哲朗「6のつく日に書く日記(30)」
https://note.com/symphonycogito/n/n6d7dbfae996d
濱松は吉川の一首について、「普段なら愛は告げられたものだと読む」とした上で、2通りの読みについて「「あれ」を一回性の例外と捉えるか絶対的運命の一部として捉えるかの違い」であると分析してゐる。つまり、「告げられなかつた」と読む読者は「どのパターンでも失敗するこの世界のとある事例」として花水木の道を捉へてゐると主張した。しかし、私は「告げられた」にしても「告げられなかつた」にしても花水木の道は「奇跡的な一回性」の所与であつて、むしろその奇跡を生かすことができたかどうかの違ひといふことではないかと思ふ。
そして、さう思ひながら、「奇跡的な一回性」とかそもそも「一回性」といふやうな感覚が若い作者=読者たちには希薄なのかも知れない、とも思ふ。若い作者たちの作品に相聞歌が減つてゐるやうに見えることとも関係があるのかも知れない。そんなふうに考へてゆくと、土岐や濱松が見つめてゐるものが、私には見えてゐないのかも知れない、といふ気もしてくるのだ。この点については土岐や濱松ら、若手の論客の論考を注視しながら今後も考へてゆきたい。
土岐は最初のコラムの反響を受けた「(追記)花水木のうたをめぐって」のなかで、京都造形芸術大学の学生たちによる歌会「上終(かみはて)歌会」の会誌『上終歌会01』に掲載された、井村拓哉の「こことそこ」といふエッセイの一部を引用してゐる。
土岐友浩「(追記)花水木のうたをめぐって」
https://sunagoya.com/jihyo/?p=1798
私はこのエッセイを土岐による抄録でしか読んでゐないが、井村は若者の、おそらくは自分自身の「自意識」を見つめてゆくなかで「最近思うのは、自分はここにも生きているし、そこにも生きているということだ。ここで自分は世界の中心であり、それと同時に、自分はそこらへんの目立たない人間の一人でもある。こことそこ。なぜ、これらが一緒になった言葉がないのだろうか。」といふ思ひに至る。私は井村のエッセイにこころを動かされて、むかし読んだ廣松渉の『世界の共同主観的存在構造』を四半世紀ぶりくらゐに開いてみた。
廣松渉は吉本隆明と並ぶ戦後日本の思想家で、私が当時読んだ『世界の共同主観的存在構造』などの著作では、言語の交通に着目して、主客対立を基本原理とする近代の知のパラダイムを乗り越えようとする仕事をしてゐた。著作は難解なところも多かつたが、思考実験のために挙げられる例が秀逸だつたりして引き込まれるやうに読んだところもある。やや唐突かも知れないが、目の前の牛を誤つて「ワンワン」と呼んだ幼い子供に対して「その子供が牛のことを誤つてワンワンと言つてゐるのだ」といふことを大人が理解する場面を例に挙げた考察の部分を引用する。
例えば、牛が或る子供にとって「ワンワン」としてあるという場合、牛がワンワンとしてあるのはその子供に対してであり、私にとってではない。とはいえ、もし私自身も何らかの意味で牛をワンワンとして把えるのでなければ、私は子供が牛を“誤って„犬だと把えているということを知ることすら出来ないであろう。子供の“誤り„を私が理解できるのは、私自身も或る意味では牛をワンワンとして把えることによってである。この限りでは、“ワンワンとしての牛„が二重に帰属する。(中略)
ここには自己分裂的自己統一とでもいうべき二重化が見出される。私本人にとっては、牛はあくまで牛であってワンワンではない。しかし、子供の発言を理解できる限りでの私、いうなれば子供になり代わっている限りの私にとっては、やはり、牛がワンワンとして現前している。簡略を期するため、ここで、私としての私、子供としての私、という表現を用いることにすれば、謂うところの二つの私は、或る意味で別々の私でありながら、しかも同時に、同じ私である。
このような自己分裂的自己統一とでも呼ぶべき事態が最も顕著にあらわれるのは言語的交通の場面においてであるが、これは決して例外的な特殊ケースではなく、――“他人„の喜びや悲しみが以心伝心“感情移入的„にわかるといった基底的な場面においても認められるものであり――、フェノメナルな意識が一般的にもっている可能的構造である、と云うことができよう。
廣松渉『世界の共同主観的存在構造』
井村のエッセイと廣松の引用にわたしが付け加へるのは蛇足以外のなにものでもないやうにも思はれるが、敢へて付け加へよう。短歌を読む行為とは、井村の言葉を借りれば、「ここ」から「そこ」へ歩みよつて「そこ」における「ここ」を感じること、廣松の言葉を借りれば、子供になり代はつて子供の目で牛を見るやうな自己分裂的自己統一の行ひである。
土岐のコラムを端緒にSNS上では吉川の花水木のうたについてさまざまな発言が行はれた。示唆的な発言もあつた一方で、特にツイッター上では「告げた」のか「告げなかつた」のかの二択の発言が多い印象を持つた。
「告げた」として、或いは「告げなかつた」として「そこ」から花水木は見えてゐるのか。見えるとしたらどんな花水木の道をあなたは見たのか、さういふ話をもつとしたいと思ふのだつた。