「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 再読萩原慎一郎 『滑走路』を読む 谷村 行海

2020-05-17 12:35:46 | 短歌時評
 今年の三月、萩原慎一郎の歌集『滑走路』映画化のニュースが流れた。ニュースによると、映画自体は『滑走路』から着想を得たオリジナルストーリーになっていて、非正規雇用に端を発する自死から物語が展開されていくようだ。
 これまで各種メディアで取り上げられてきた通り、『滑走路』は歌集としては異例の3万部を超えるベストセラーで、普段短歌を読まない人々にも広く受け入れられている。しかし、私は萩原慎一郎の存在がメディアで取り上げられるたびにもやもやとした感情を抱いてきた。そこに飛び込んできたのが今回の映画化の話題。これは良い機会だと思い、二年ぶりにこの歌集を本棚から取り出し、あらためて読み直してみることにした。

  ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる

  頭を下げて頭を下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく

  夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから

 最初に明示しておくと、そのもやもやした感情は、萩原慎一郎がメディアに取り沙汰される際の「非正規歌人」という呼称に起因する。
 メディアに取り上げられる際、よく引用される歌を歌集から三首抜き出してみた。一首目と二首目は牛丼によって非正規の生活を歌にしている。牛丼と労働者との組み合わせは正直なところ安易に感じられる。だが、一首目は季節の移ろいを歌の起点になる三句目におき、秋が来たというのに年中あり続ける牛丼を短い休憩時間に食べざるを得ないという労働の悲しみをうまく表現している。また、二首目は牛丼を食べる姿と仕事の姿との類似点を発見し、それを歌に落とし込むことで、牛丼と労働の類型性を乗り越えることに成功している。朝の楽しいイメージにつながる夜明けを自身の労働と結び付け、悲しみへと視点をずらした三首目も印象的だ。
 このように、非正規労働ということに対し、萩原は巧みな表現でそれをうまく歌に落として込めているとは言える。しかし、それがメディアで「非正規歌人」という呼称を付けられるほどの彼の個性かというと、どうも違うように思えてならない。
 第一に、今年の二月十四日に総務省統計局が発表した労働力調査を参照すると、非正規雇用の数は、全体の雇用者数5660万人中2165万人に上っている。筆者自身も非正規雇用で働いていた時期があり、よく言われるように非正規自体は珍しくない。近年の短歌の新人賞を読んでいても非正規労働を詠んだ作品は多々見られ、歌の題材としてもそれほど新鮮とは言えないだろう。
 第二に、非正規労働を詠んだ彼の歌からは、彼の真にリアルな姿が見えてこない。前回ここで書かせていただいたプロレタリア短歌の場合、強い言葉遣いなどにより、労働に対しての主体の感情が浮き彫りになっていた。一方、萩原の歌では現状を受け入れているにすぎない歌のほうが多く、具体的に何を思っているのかが見えてきにくい。それを彼の作風だと言えばそれまでなのだが、いささか物足りない気がしてくる。また、労働の歌だけでは、彼の生活全般をふまえた萩原慎一郎という一人の人間像も浮かんできにくい。
 そのため、一側面だけに注目し、「非正規歌人」という呼称で彼が喧伝され続けていることに私は疑問を抱いてしまうのだ。そこで、歌集から労働以外の歌を取り上げ、あらためて萩原慎一郎という人間について考えていこうと思う。

  ぼくたちの世代の歌が居酒屋で流れているよ そういう歳だ

  <青空>と発音するのが恥ずかしくなってきた二十三歳の僕

  あのときのベストソングがベストスリーくらいになって二十四歳

  恋人が欲しとにわかに願いたるわれは二十代後半となる

  こんなにも愛されたいと思うとは 三十歳になってしまった

 そうしてあらためて歌集を読み直すと、時間経過に対する萩原の鋭い視線が見えてくる。上に挙げた五首はいずれも一首の締めに年齢が出ており、構造自体は同じ歌になる。そうすると、構造自体は同じなわけだから、これらの歌の前半部分に何が書かれるかが歌の肝となる。
 一首目と三首目は歌を出すことにより、年齢の経過をうまく引き出している。一首目は具体的な年齢が描かれているわけではないが、前半部分の叙述から、居酒屋に通い始めた二十歳の年齢が想起される。若者向けの大衆居酒屋であれば、確かに近い世代の歌が店内に流れ、それによって居酒屋の集客ターゲットに自分が組み込まれたことを実感するようになる。二十歳と限定してみたが、少し年老いてからのことととっても、通っている居酒屋の姿と同時に主体の人物像が見え、巧みな一首だ。三首目については時間経過ももちろんだが、過去のベストソングをただ単なる思い出に留めずに順位を入れ替えて更新していくことで、新しいものを次々に求めていく主体の感性が見えてくる。
 上述のそれ以外の歌については、類型感が否めない点もありはするが、年齢と同時に変化していく自己を冷静に見つめ、時代の流れ・今そこにあるものをしっかりと歌に落とし込んでいこうとする視点がうかがえる。

  梨を食むときのシャキシャキ霜柱踏みゆくときのシャキシャキに似る

  靴ひもを結び直しているときに春の匂いが横を過ぎゆく

 そこにあるものを歌に落とし込む姿勢は俳句的でもある。一首目は「シャキシャキ」のリフレインによって心地よい韻律を生み出しているが、あえてそれを削り、「霜柱踏みゆくごとき梨食む音」などとすれば俳句としても成り立つ。同様に、二首目は二句目から三句目にかけてのゆったりとした言葉遣いが特徴的だが、それをそぎ落としてしまえば俳句として十分に成立する。萩原の世界の志向の仕方が、(語弊はあるが)現実を見つめ続ける大半の俳句と近く感じられるのだ。そのため、現実として存在する非正規労働を詠んだこともその世界への志向の一つであり、やはり彼の一部分でしかないと言えるのではないか。
  文語にて書こうとぼくはしているが何故か口語になっているのだ
 その現実志向の動きは、先ほどの年齢と同様に自己の内面にも及ぶ。この歌は作歌時の姿を詠んだ歌で、「文語≒過去」で歌を書こうとし、最終的に「口語≒現在」に行きついてしまう。もはや無意識の領域のうちに、現在を鋭くとらえようとする姿勢がにじみ出ているかのようだ。

  ぼくたちのこころは揺れる 揺れるのだ だから舵取り持続するのだ

  ぼくが斬りたいのは悪だ でも悪がどこにいるのかわからないのだ

  テロ事件ときに起きるよ 平穏な暮らしを破壊してゆくのだよ

  東京の群れのなかにて叫びたい 確かにぼくがここにいること

 
  かっこよくなりたい きみに愛されるようになりたい だから歌詠む

 また、そもそもの萩原の作歌のモチベーションを考えていくと、「歌詠む理由」と名付けられたこの一連の五首に出会う。この五首から考えられる萩原の作歌の主眼をまとめると次のようになる。

①揺れ動く自己存在を捉え、現在を詠む(一首目から)
②社会を冷静に見つめ、日常に潜む違和感を詠む(二首目・三首目から)
③自己の存在を認めてもらう(四首目・五首目から)

 ①については、先述の年齢の歌のようなこれまで繰り返し述べてきたこと。②も①の延長ではあるが、重きを置くのは社会状況。③は五首目の「きみ」を四首目と関連付けて全人類と取り、自分の生きた証を残すこととなる。これら三点が萩原の歌作りの根幹に存在している。
 この三点を踏まえたうえで、あらためて「非正規歌人」として彼が呼ばれる場合に達成できるものはどれかを考えていくと、②は当然達成できる。そして、結果論にはなるが、③も達成できたと言えるだろう。しかし、やはり①は達成できていないと言ったほうが確実であり、③も五首目に「かっこよく」とあることから、「非正規歌人」として存在を認められることが彼の本意だったかを考えると疑問が残る。

  未来とは手に入れるもの 自転車と短歌とロックンロール愛して

  かっこいいところをきみにみせたくて雪道をゆく掲載誌手に

  疲れていると手紙に書いてみたけれどぼくは死なずに生きる予定だ

 大変残念なことに、彼は三十二歳で自死を選び、この世を後にしてしまった。予定では、映画はこの秋に公開され、彼の存在はより広く知られることとなるだろう。その際、「非正規歌人」としてではなく、萩原慎一郎というひたむきに生きた一人の人間の姿が人々の記憶に残り続けていくことを願いたい。


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