「詩客」短歌時評

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短歌評 『カミーユ』と肉体 読むを読む 黒岩 徳将

2019-05-22 16:40:52 | 短歌時評

  夕闇に素手でさわってきたようなひとつの顔に出逢いたるのみ 大森静佳(『カミーユ』,書肆侃侃房,2018)

 此処は闇ではない。彼方の赤黒い気配を纏った人間に逢った、それ以上のこともそれ以下のことも書かれていない。状況を手渡すことだけで文脈は好きなように辿ることができる。物語よりも「夕闇」「素手」「」といったモチーフの質感の方が優先される。一首のなかで体のパーツが「素手」から「」に移行されているが、「さわってきたような」という緩やかな起伏のある調べと、素手から顔に視線がスライドしていく様が呼応してやや奇妙でもある。
 ここまで書いてこの歌が書かれている章のタイトルが「馬」であることに気づいた。しかし、気づいたからといって一足飛びに掲歌の「」が馬であると考えなくてもよいだろう。(考えてもよいと思う。)普段俳句を書いているので、「出逢いたる」は俳句においては頻繁には使われることのない表現であることが気になり、詩型の違いを考えるのに興味深かった。一句の中でモノが提示されれば、出逢ったということはおのずからわかるだろう、という俳句的通念があるのだと思われる。「出逢いたるのみ」は主観であり、特に「のみ」があることに注目したい。「のみ」まで言わないと作者が“顔”と対峙したことが打ち出されない。顔という他者に向き合っているのはまぎれもない自己という肉体である。荒々しい身体性の表出ではない。かといって世界の表面をなぞっているわけでもない。
 『カミーユ』がある種の肉体性を志向していることは一目瞭然であり、掲歌よりももっと肉体が前面に押し出される歌は多くある。雑誌[Sister On a Water 2019.2 Vol.2]では大森の特集が組まれているが、その中の座談会で喜多昭夫が第一歌集『てのひらを燃やす』と『カミーユ』の収録歌の身体部位の出てくる歌の割合をパーツごとに一覧にして比較している。『カミーユ』において「手」が出てくる歌は19首らしく、多い。「手」は世界と“私”をつなぐものとして書かれるのは当然だが、その「裡」「奥」という表現とともに「身体の深いところまで自分の意識がいっている感じ」「能動的な関わり方の象徴」と笠木拓が「手」がモチーフの歌を挙げて捉えているところに納得した。詩歌で肉体を描けば”私”が立ち上るかといえば、そうではない。手触りを感じさせるには読者に追体験する何らかの仕掛けが必要である。かといって無理に現実感を打ち出そうとすればいいのかというと、それも違う。身体・肉体の存在を認識させる、と書くのは容易いが、その内実は何かということを考えさせてくれる評論がいくつか収録されていた。
 『カミーユ』において、国や時空、現実を飛び越えて大森が様々な創作物に材を得ていることを考察している評者も多く見受けられる。東郷雄二がウェブサイト「橄欖追放」で第一歌集『てのひらを燃やす』で見受けられた特徴を踏まえつつ、以下のように書いている。
 
 大森の場合、『感性に基づく世界の把握』が現実世界を超えて、文学作品や映画や絵画にまで拡張したと考えれば、それほど不思議なことでもないのかもしれない。

 「感性に基づく世界の把握」は大森に限った特徴ではなさそうなので、「拡張」という解釈に注目した。クリエイティブを神格化するのではなく、日常の刺激と地続きにあるという捉え方である。確かに宦官や曾根崎心中、テルムンなどの歌には、それに真摯に向き合う主体の姿勢こそあれ、過度な力みもなく、対象に完全に一体化するのでもなく、近い距離に存在する主体が見受けられる。畏敬の念やリスペクトの対象であり続けながら、友や家族よりも近くに立つ。
 創作物をテーマにして作品を結晶化させようとする行為には、創作物を跳び箱のロイター板にして作者自身の個性を跳躍させる必要があるはずだ。安田百合絵は「みずからの性器を浮かべる瓶のこと夕星おもうようにおもえり」「皆殺しの〈皆〉に女はふくまれず生かされてまた紫陽花となる」などの歌を挙げて次のように指摘する。

 彼女は自分の痛みを語るのではなく、あくまで憑坐(よりまし)として声を甦らせようとしている。それはおのれの立場を常に問い続けるという厳しい倫理観のゆえであろう。自らを弱者と位置づけて世界を告発することが、時としてナルシシスムに近接してしまうという危うい逆接を、大森は鋭敏に捉えているようだ。([Sister On a Water 2019.2 Vol.2])

※原文は(よりまし)はルビ

 ある立場を伴って語ろうとすると、歌が箴言・教訓めいたものになってしまうかもしれない。そこに“在った”ことを示すための憑坐なのだろうか。憑坐は言うならば肉体という容れ物である。

  まず声が女になった 軋みだす 臭いだす また軋みつづける 同(「異形の秋」より)

 すべての歌に当てはまるわけではないが、大森自身が創作物の声にならない声を聞くとき、作中主体の肉体をくぐらせている歌に強度がある。
 覚悟を持ってテーマと向き合った歌集であるからこそ、冒頭で挙げた歌のような身体性が通底した静かな歌が、大森の作家性を下支えしているのではないだろうか。見過ごしてしまいそうなことにも目を向け続けるのかもしれない。


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