「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評第38回 上篠かけるから笹川諒「涅槃雪」へ

2019-06-01 02:19:30 | 短歌相互評

 

作品 笹川諒 涅槃雪 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-05-04-20055.html

評者 上條かける

 

子供の頃、怒った父親によって物置に閉じ込められたことがある。

このとき、ぼくは何に閉じ込められていたのだろう。言うまでもなく、物置という場所に閉じ込められていた。身体的に隔離された、と言い換えてもいい。そうして、もうひとつ、ぼくはぼくに閉じ込められていた。「なぜこんな仕打ちを受けるのか」「かなしいこの今はいつまで続くのか」、くらやみの中でぼくは時間に溶けてしまったぼくと対話した。精神的な隔離、あるいは時間からの隔離と言ってもいい。二重に隔離されたぼくはというと、憧れた。外の光、外の時間に。それはある種の絶望を含んだ懐かしさへの希求であった。

笹川さんの短歌をよむと、いつもこの感覚を思い出すのである。

 

鳥の声が一瞬あなたの声に似てカーペンターズを今日は選んだ

 

おそらく遠くへ飛び立ってしまったあなたの声を幻聴する。そうしてiPodかウォークマンか、いつも持ち歩いている音楽再生機器からカーペンターズを選曲して、イヤホンを耳に詰める。ぼくはこの行為に「あなたの声を聞きたい」「あなたの声を聞きたくない」という矛盾した感情を感じとってしまう。この矛盾律を解消、あるいは矛盾のまま受け止める唯一の手段は「あなた」を捨象することなのかもしれない。カーペンターズというスローテンポなバラードに「あなた」を押し込めること。そうすることで「あなた」は死に、同時に生きる。

 

いい感じに仲良くしたいよれよれのトートバッグに鮫を飼うひと

 

「よれよれ」なんだから材質が安いのか、あるいは気に入られてずっと使われているのか、どちらにせよある程度無頓着で、けれど愛をもった人に使われている鮫のトートバッグだ。それにしても「いい感じ」にとはどういうことだろう。「あの人いい感じ」というときには肯定的に使われるけれど、「ああ、あのバンドいい感じだよね」とあいまいな感情をとりあえず措定するときにも使われる。やわらかい距離が、そこにはある。ほんのりとしたあたたかさのある歌、ほどよい好意に身を委ねられる歌だと思う。でも、もしかしてこの人、仲良くしたいのは、親近感を抱いているのは「ひと」ではなくて、「よれよれのトートバッグ」の方なんじゃないか、という仄かなさみしさもある。

 

何周も一緒に池を回ったら好きな季節をちょうど訊かれた

 

「ちょうど」は何が「ちょうど」なのか。ちょうど季節の話をしたかったのか、あるいはちょうど何かを話そうとするタイミングだったのか。「回ったら」である。「回るうち」ではない。さなかにいるわけでない。まるで「ドアを5回叩いたら花子さんが出た」といったような、ゲームの達成条件の俯瞰みたいじゃないかと思う。きっと何周も池を回って話している間、わたしと「あなた」は時計の長針と短針のように少しずつずれていたのだ。それはある意味で幸福だろうし、ある意味で苦行だ。作業ゲーのように時間が過ぎていき、とうとつに正午が、針の重なる刹那が訪れる。ぴったりと息の合う瞬間が訪れる。その、ほんの一瞬の奇跡の素描なのだ。

 

処世術ではなくラスク二袋が似合う気がして買ってしまった

きらきらのラスク美味しいこの夜のあなたは作り物ではないね

 

なんという自己充足感、あえて悪い言葉を使うなら自己本位だろう、と思う。世渡りの方法なんかよりも、自分のお腹が、そうして目が満足するほうがずっと重要なのだ。このラスクは「あなた」と分け合ったのだろうか。何せ二袋買ったのだから、分け合いっこしてもいいはずである。もしかしたらひとりで食べたのかもしれないし、あげたのかもしれない。けれど、どちらにせよ、このラスクは自分のために消費されたのだろう。池を周りつづけたあとの一瞬のように、「あなた」をしっかりと感じられたのも「この夜」という限定的な瞬間なのだ。その一瞬はラスクによってもたらされた。このラスクはある人には「酒」であろうし、ある人には「麻薬」であろう。「作り物」ではない現実を認識するためには、何かその媒介となるものが必要なのだ。これはかなしみなのではないかと思う。

 

涅槃雪 許していたいひとがいてその名前から許しはじめる

 

「涅槃雪」、別称「名残りの雪」。あの歌謡曲は別れの歌だった。涅槃、ニルヴァーナ。そういえば以前、鈴木大拙の本を読んだときに、大意で涅槃は大乗仏教の最終目標であると書かれていた。それは全と一の合一である。これをぐっとポピュラーに、誤読的に言い換えるならば、わたしとあなたの一体化である。それは春に降る雪がすぐにとけて、大地に染み入るような、そうしてその水が蛇口から刀のように飛び出して、あなたやわたしの体の一部となるような、そうした「境界/隔離/分節の否定」である。その水のイメージから飛び出す動詞は「許す」であった。安直な直喩を使えば「雪解け」だ。きっとこの許すは宗教的な赦しに近いのだろう。ぼくはこの短歌をよんで、万葉集の「籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜採ます児 家聞かな 告らさね」を真っ先に思い出した。それは神による、合一の宣告であった。

 

 

笹川さんの歌は疎外を是としているように思える。けれど、是は、必ず非をもともなう。分節された世界から、そうでない世界を憧憬し、ひとつになろうと人間のもつ「言葉」というたよりない武具をかかえて生きるひと。あるいはそういう歌。これを詩性というんじゃないかと思う。

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