「詩客」短歌時評

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短歌評 素足で走る短歌の「私」――『大田美和の本』を読む 田中庸介

2014-07-02 23:46:10 | 短歌時評
 等身大の表現という言葉があるが、大田美和の短歌の仕事を追いかけてみると、表現はそもそも等身大以外の何者でもなく、いくら人がそれを大きく見せようと小さく見せようとしても、見えてくる個人の「真水」の部分というのは、結局同じではないかという気にさせられる。
『大田美和の本』。八十年代のコピーライターの「全仕事」みたいなぶっきらぼうなタイトルをつけられたこの「現代歌人ライブラリー」ムックシリーズ(北冬舎)の第二弾は、ついこのあいだ出たばかりだ。著者は1963年東京生まれの「未来」所属の中堅歌人。四冊の歌集と詩篇、散文が収録された堂々の一冊である。乳がんと二度の出産を経験し、ジェンダー論やフェミニズムを考え、そして大学の英文学の研究者としてアカデミズムの中に生きる著者は、パートナーの歌人、江田浩司さんとともに、短歌の道を歩みつづける。

   紡がれて光こぼれる雨の糸つかもうとして両手を濡らす
   さまよえるボートの屋根にぶつかりて岸辺の花の小枝降りくる
   東大に劣等感持つ男いて私が最後のとどめを刺せり
   ひとりではないと思いて顧みる伸子も真知子もわが先達者

 (以上、『きらい』より)


 俵万智の『サラダ記念日』のヒットに続けとばかりに、著者の顔写真をカバーに大きくあしらった売れ線の造本の「同時代の女性歌集」シリーズの一冊として、河出書房新社から九十年代初頭に刊行されたデビュー作。「万智ちゃん」は、高校教師である以前にまず一人の「女の子」として万人の共感を得たが、著者は「女の子」である以前に、まずエリートの女流文学者であった。その上で「相聞歌はまた、インテリくさい女というイメージから私を解放してくれた」と著者はいう。天から降りてくる光の糸のような、「文学」の恩寵をしっかりと両手で受けとめられる実力と感性を兼ね備えた著者は、他の栗木京子、佐伯裕子、永井陽子、米川千嘉子、今野寿美、早坂類、干場しおり、井辻朱美、松平盟子、沖ななも、李正子、道浦母都子というラインナップに伍して、堂々のスタートラインに立ったのであった。

   文学は冷たく広大なる渚ひっかいたあとを残して死にたい
   あたたかき潮満ちる夜は総身の微熱くまなく君に吸われる
   生きものの気配にはっと身構える煮えたぎる鍋踊る鶏卵
   赤らひく色妙子と呼ばれても何のことやらわかりませんな

 (以上、『水の乳房』より)


 詩篇とエッセイとにはやや影を落としているようにも見える人生的な苦労は、しかし歌業においては本質的な部分をなさない。もちろん、表現されてはいるのだけれど、歌のトーンはごく明るい。だがそれはハレーションしておらず、彩度と明度と色相をそれぞれに持った、色とりどりの明るさである。人文科学の「冷たく広大なる」明るさ、「あたたかき潮満ちる」性愛の明るさ、「煮えたぎる鍋」の台所の明るさ、そして「何のことやらわかりませんな」という諧謔の明るさ。この明るさにはそれぞれ相手の存在があり、そこにそれぞれの色がありえようという発見こそ、あるいは文学研究そのものの成果なのかもしれない。

   あてどなくベビーカー押す憂鬱な詩の産卵を君が終えるまで
   励まされ陣痛の波を越えるごとく死を乗り越える呼吸法もあれ
   あるかぎり感官の弦ひびかせて素足で走れ早春の道
   小さい神の足冷たくて抱き寄せる胸まで白く洪水になる
   吊革に論文立てて朱入れて席譲られるああすみません
   海上で兎が飛ぶと言うなかれ晴れても暗しバルトの海は
   ジェンダーのシステムは総合的に分節されてママ抱っこママ抱っこと喚く

 (以上、『飛ぶ練習』より)


 第三歌集になると、がらりとトーンがかわり、大病を乗り越え、出産を乗り越えて、家庭を築くまでが力強く歌われている。このあたりではさまざまな詩的実験を試みているが、それは実験作の域にとどまり、むしろふつうの連作のほうに秀歌が多く見られるようだ。また、句割れ句またがりはもとより、字余り字足らずの歌もごく稀であり、この直球の作り方が、明るいリズムをかもしだす一因であろう。また、くったくのない感じは、何ごとにも物申すことがありすぎる夫君の感じとは好対照で、彼女をとりまく世界を前に進める原動力になっているにちがいないと思わせるものがある。

 先生は、みんなのしあわせのために、と書いておられましたが、「しあわせ」という言葉がこんなに重いとは、今までに思ったことがありませんでした。このところ、私は忙しさにかまけて、家庭にも仕事にも恵まれているのに、しあわせであることを当たり前のように感じていたのです。C先生はお若いけれど、しあわせになることの大変さをよく知っていらっしゃるのでしょう。
(「美和ママの短歌だより」)


 そう、しあわせな人があまりにも少なくなった時代に、それでも著者はしあわせである。そしてそのしあわせを「みんな」に伝えるチャンネルとして、「美和ママ」は短歌という表現と向き合っている。だが、そのすばらしさをこれほどまでに、てらいなく、厭味なく、伝えられるのは、やはり飛び抜けた感性と、構築的な言葉遣いのなせるわざにほかならない。
しかし、第四歌集になると、著者はコラボ相手の詩人、川口晴美の影響か、また歌風を変えていく。

   詩はボール 投げて拾って受けとめて笑って息を呑んで驚く
   平べったく明るく白きキャンパスにうす暗い喫茶店が欲しくて
   この先は崩れるほかなき断崖の生命の奔流として香り立つ
   開かれた足の間に今朝産んだ真珠のような詩のひとしずく
   乗り越して隣のホームに駆け上がる思いがけない詩の訪れに
 
(以上、『薔薇の香り、噴水の匂い』より)


 など、八十年代の現代詩の「詩についての詩」のような自己言及的な歌のなかに、良いものが多くなる。これは現代的なメタ的な歌であって、ある種の「気づき」を暗示するものではあるが、もちろん、それを乗り越えたところにこそ、あらたな「詩的出発」は予感されるべきものである。

自分が何者であるかというところに立脚して社会に向かって発言する表現になったのは、個人的なことは政治的なことという第二波フェミニズムの最大の成果から学んだことだ (……)

と「あとがき」にあるが、その通り、煮えたぎる鍋のような社会にあっても、著者は安易に「私」の底を大衆に向けて抜かない。あくまでも研究者らしく、自分の持てる材料をフルに使い、プロの「個人」の位置に踏みとどまって考えること。それは、強靭な知性の力をもつものにこそ許される高度なおこないであろう。だから、やはり大田の歌業は『サラダ記念日』の二番煎じにも、茂吉の二番煎じにも、決してなりえるものではない。「私性」にも「ファクチュアル」にも埋没しない場所を求めて、彼女の真にめざそうとする道は、政治的な、あまりにも政治的な、「素足で走る」短歌の新しい「私」の発見、ということなのではないかと思った。

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