「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 一体化の悲しみ  山田露結

2015-03-29 16:32:50 | 短歌時評
 いやあ、まいりました。とうとう三回目です。どうして私のところに短歌時評の依頼が来るのでしょう。毎回言いますが、私は、短歌のことはよくわからないし、ほとんど読まないんですから、本当にもう、書くことないんですよ。ましてや、時評だなんて、今、短歌の世界で何が起こっているかなんて、何にも知らないのに。まったく、困りました。これはもう、嫌がらせか、イジメか、拷問か。などと憂鬱な気分になりつつ、「詩客」に掲載されている過去のいくつかの短歌時評に目を通してみました。

 いや、どう言ったらいいのでしょう。何か、私の知らない世界での、特殊な細菌の研究についての論考でも読んでいるかのような、いや、すみません。こうした立派な時評と並べられて私の拙い文章が掲載されるのかと思うと、非常に気が重く、何やら、朝起きたらいきなり「次はお前だ。頼むぞ。」と言われて、無理矢理メジャーリーグのバッターボックスに立たされてしまった小学生みたいな、悲しい気分にさえなってくるのです。
 とはいえ、何か書き出さなくては、と頭を抱えていたのですが、そんな私にも好きな歌人がいることを思い出しました。笹井宏之さんという人をどういう経緯で知り、歌集を手に入れたのか、今では全く思い出せませんが、歌集「ひとさらい」を読んだときの、奇妙な白い光に包まれて体が軽くなっていくような、得体のしれない気分をよく覚えています。

内臓のひとつが桃であることのかなしみ抱いて一夜を明かす 笹井宏之

 ボリス・ヴィアンの『うたかたの日々』では、ヒロインのクロエの肺の中に睡蓮の蕾ができてしまいますが、ここでは「内臓のひとつが桃」になっています。桃に形状が似ているといえば心臓でしょうか。桃という、人間の身体とは縁のない果実を自らと一体化させてしてしまうことがこんなにも途方に暮れた気分にさせるものかと。でも、考えてみれば、地球上に誕生した一番最初の生命の源から、さまざまな進化の過程を経て生命が多様化して行ったということを思えば、あらゆる生命はそもそも親類同士だと言うことも出来るはずで、ですから、ここに登場する桃も進化の途上のどこかの地点で別れてしまった、人類の遠い兄弟のようなものとして存在しているのかもしれません。遠い兄弟でありながら、明らかな異物である桃を体内に宿す悲しみを思いながら、私は胸が締め付けられるような、たまらない気持ちになるのですが、きっと、人には「たまらない気持ち欲」みないなものがあって、私が笹井さんの歌集を開くのは、大抵、自分が、そんな、たまらない気持ちになりたいと欲求しているときなんじゃないかなと思ったりしています。

 笹井さんの歌には、こんな風に人間と人間ではないものを一体化させてしまう手法がしばしば見られます。

家を描く水彩画家に囲まれて私は家になってゆきます        〃
トンネルを抜けたらわたし寺でした ひたいを拝むお坊さん、ハロー 〃


 水彩画家に囲まれながら家として完成してゆく私。寺になってお坊さんに拝まれる私。どちらも一読コミカルでありながら、自分ではどうすることも出来ない不条理な宿命を背負い込んでしまった悲しい自画像のようにも思えます。

 私が笹井さんの歌を読むとき、いつもかならず思い出す絵があります。石田徹也さんの絵です。石田さんの絵の多くは、やはり人間と人間ではないものを一体化させて描かれています。ときに飛行機だったり、建物だったり、便器だったりする作者自身と思われる人物の憂鬱な表情を見るたびに、私は、笹井さんの歌を読んだときと似たような、たまらない気持ちになるのです。笹井さんも石田さんもずいぶん若くして亡くなっているのですが、そんなところも少し似ているような気がします。

 そもそも人間には、自分と自分以外のものとを一体化させたいという願望が本能的に備わっていると思うのです。男女の営みを考えてみれば、その願望はごく自然なもののようにも思えますが、その一体化願望の対象が、異性ではなく、あるいは、人間でもないという場合には、途方もないうしろめたさ、息苦しさが付き纏ってしまうものです。

 私は普段俳句をつくります。それで、以前から、この、笹井さんや石田さんの用いる一体化の手法をなんとか俳句に持ち込むことは出来ないかということを考えていました。が、これがなかなかうまくいきません。実際に作ってみて思うのは、俳句の字数の中では、内臓が桃であったり、私が家になったり、寺になったりという人間と人間ではないものを一体化させた非現実を、非現実のまま断定的に扱うことがすごく難しい、ということです。(「ごとく」とか「ように」といった比喩的な表現であれば、それほど違和感なく扱えるようにも思いますが、まあ、これは単に私の技量不足が原因だと思います)。

 ただ、詩歌というのは、それを介して現実と非現実を行ったり来たりするための装置という側面があると思うのですね。俳句では写生という方法が昔から根強く残っていて、正直、長い間、多くの人がそれを、あるいはその延長線上にある方法論を繰り返し繰り返し追究しているだけのような気がしないでもないのです。もちろん、現実の中に非現実、あるいは超現実を見出す、ということも可能だとは思うのですが、それとは逆の、非現実から現実を見出す作句法みたいなものが定着したっていいんじゃないかなあ、などと勝手に期待をしてみたりもするのです。俳句だって、せっかく言葉で作るのですから、写生に相対して言葉の側から現実を捉え直してみる、というやり方が確立されて、一般化してもいいんじゃないかと。

 う~ん、いや、何だか、話が収拾のつかない方へ向いはじめてしまいましたが、さて、ここまで書いてきて、私のこの文章が短歌時評でも何でもないことに気がつきました。どうしましょう。困りました。

晩年のあなたに窓をとりつけて日が暮れるまでみがいていたい   〃

 歌集「ひとさらい」のあとがきで笹井さんは『短歌は道であり、扉であり、ぼくとその周辺を異化する鍵です。』として、そのあとに『風が吹く、太陽が翳る、そうした感じで作品はできあがってゆきます。ときに長い沈黙もありますが、かならず風は吹き、雲はうごきます。そこにある流れのようなものに、逆らわないように、歌をかきつづけてゆくつもりです。』と語っています。そこにある流れのようなものに、逆らわないように。ああ、そうでした。手法だの方法論だのと、私は、ずいぶん、無粋なことを言って、作品をつくるために一番大切なことを、どうして私は作品をつくるのかという一番根っこの部分を、忘れてしまっていたようです。すみません。私に窓をとりつけて、笹井さんにみがいてもらわなくてはなりません。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿