「詩客」短歌時評

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短歌時評第138回 良い短歌という実践——短歌甲子園に関するいくつかの断片 浅野大輝

2018-11-02 02:44:13 | 短歌時評

 良い短歌ってなんですかね、と彼女は言った。
 その答えを、私はいまだ見つけられずにいる。



 岩手県盛岡市にて「第13回全国高校生短歌大会(短歌甲子園2018)が開催されたのは8月17日〜19日。一方、宮崎県日向市にて「第8回牧水・短歌甲子園2018」が開催されたのは8月18日〜19日。あの夏の戦いから2ヶ月が経過したのかと、少し驚く。
 「歌壇」2018年11月号では、その2つの短歌甲子園について田中拓也・笹公人の両氏による報告が掲載されている。


 団体戦は柔道・剣道の団体戦のように先鋒・中堅・大将の順番で三名がそれぞれ自作を披露し、五名の審査員の判定を仰ぐというスタイルである。
田中拓也「短歌甲子園二〇一八報告」[1] 



 ルールは、野球の打順に見立て、各校1〜3番の生徒(バッター)が順番に短歌を披露し、批評し合う形式で攻防を繰り広げる。ディベートが終わったあとで、3人の審査員が紅白の旗を上げて勝敗を決める。続けて審査員が総評を述べて試合終了という流れである。
笹公人「第8回『牧水・短歌甲子園2018』観戦記」[1]


 「短歌甲子園」は岩手県出身の歌人・石川啄木を顕彰した大会。そしてもう一方の「牧水・短歌甲子園」は、宮崎県出身の歌人・若山牧水を顕彰した大会。前者は啄木に倣った三行分かち書き形式の短歌作品をその場で与えられた題に沿って即詠し、その作品に対して審査員による質疑応答を行ったのちに勝敗が決定する形式を採用している。一方後者では与えられた題に沿って制作した短歌を事前に提出し、作品についてのディベートを実施したうえで最終的な勝敗を決する。同じ短歌甲子園という呼称が用いられてはいるが、その採用しているルールは上記のように異なり、それぞれの大会の個性ともなっている。私自身は盛岡・短歌甲子園(便宜上このように表記させていただく)の出場経験者で、かつ近年は盛岡・短歌甲子園の審査員を担当しているため、前者の形式の方が馴染み深く、牧水・短歌甲子園で採用されている形式は新鮮に思える。
 2つの短歌甲子園のルール上の大きな違いはディベートの有無や三行分かち書きの有無がよく挙げられるが、個人的には勝敗が決したのちの審査員の総評の有無という部分も影響が大きいように感じている。盛岡・短歌甲子園では、選手である生徒と審査員との間での質疑応答という形で、選手が自身の作品、あるいは短歌という表現形式や自分自身について理解を深めることを促す。ただし、勝敗が決したのちに審査員からの総評は行わない。これは時間の制約という大会進行上の観点によるものでもあるだろうし、審査員から何か答えを与えるのではなくその後選手自身が深く思考を巡らす余地を残すという観点によるものでもあるだろうが、表現上の細かい部分や勝敗の理由については触れられないままになってしまうという問題もある。
 ここ数年審査員を務めて実感していることだが、盛岡・短歌甲子園の大会進行スケジュールは非常にタイトである。スムーズな大会運営は多くのスタッフ・ボランティアの働きによるところが大きく、どの人も時間的制約のなかで最大限の仕事を行うように努めている。そして、それは審査員も同様である。盛岡・短歌甲子園では10名前後の審査員が毎年いるが、どの審査員も必然的にタイトな進行のなかで歌の評価のプロセスを繰り返さざるをえず、なかなか控え室から頻繁に出て会場の選手達とコミュニケーションを取るということが難しい(そう、実は審査員は会場に姿を見せていないときも、多くの場合控え室で選手達の作品と格闘している)。この状況下では、空き時間に審査員と選手とが直接やりとりするということがしづらく、上記の問題が宙吊りのまま放置されてしまうことになる。
 時間の制約面では厳しい部分が多いが、予め評の時間を念頭に入れた上でスケジュールを設定するというのも、問題解決の一つの方法となるだろう。その意味で、牧水・短歌甲子園の方法を参考に、盛岡・短歌甲子園の運用手順を見直すというのも有効な手立てとなるかもしれない。2つの短歌甲子園が、大会運営という面でも互いに高めあっていけるような状況を生み出していくことが、今後より重要になってくるのではないだろうか。
 田中・笹両氏の報告では、参加した選手たちの姿や作品など大会中の会場の様子がわかりやすく記載されている。選手として参加していた高校生の方で、こうした短歌の総合誌を読んだことがなかったという方も、この機会にぜひ手にとって読んでみてもらいたいなと思う。



 大会期間中の様子というのは前述の両氏の報告を読んでいただくとして、ここでは盛岡市で行われた「短歌甲子園2018」で個人的に気になった作品をいくつかピックアップして紹介したい。
 特に大会期間中に受賞等がなかった作品は外部的に取り上げられることが少ない傾向があるため、ここではそのような作品を優先的に取り上げる。ただし、非常に数が限られた選歌となることは予めご了承いただきたい。また、引用は基本的に大会資料に基づく。大会資料自体に誤記が含まれている場合も稀にあるため、もしも自身の作品や情報などが誤って引用されているなど何か問題がある場合には、一度筆者(https://twitter.com/ashnoa)までご連絡いただきたい。ここに書かれた評は審査員一同としての評ではなく筆者個人の評であることも断っておく。他の審査員が、ここに書かれていることとは全く別の観点で歌を読んでいるということは当然ありえる事だと思って欲しい。


日常に死は紛れこむ
窓枠に音もないまま
崩れたる蠅
/中村朗子


 個人戦の題詠「音」に提出された1首。「音」という題に対して静寂を持ってくるという感覚の鋭敏さ、それを蠅という小さな昆虫の崩壊につなげて日常のなかの「死」を炙り出すという巧みさが光る。「日常に死は紛れこむ」というフレーズはぐっと引き寄せられるものがある一方で少し観念的すぎるものでもあるが、そこを「崩れたる蠅」という細やかな具体的描写で回収するというところに、この歌のバランスの良さがあるだろう。その意味で、非常に短歌的な短歌でもある。既存の短歌から、そのエッセンスを抽出して自分のものにできているのではないかと感じられる。個人戦では受賞を逃したが、学ぶところの多い名歌だと思う。


内蔵の飛び出たミミズ乾きゆく
新地の轍
ゆっくりと夏
/野城知里[2]


 団体戦1次リーグ題詠「新」で、後に優勝した茨城県立下館第一高等学校から1ポイントを奪い取った1首。「新地」には「さらち」とルビが振られる。「内蔵の飛び出たミミズ」が「乾きゆく」という死の細やかな描写から、夏の時間もしくは夏に至るまでの時間の表現へとつながる。夏の滞留するような時間感覚を、うまく言葉のうえに乗せることができているように思う。死と夏の親和性の高さを掬い上げているのも良いが、「さらち」という言葉の表記に「新地」という字を当てたことで、崩壊だけではなく再生の雰囲気も感じられて、味わい深さが増しているように感じられる。
 三行分かち書きという形式の特徴は、その三行に分けるという表記から必然的に歌のなかに2回以上の(軽い)切れが発生するという部分にある。現在一般的な1行で記載される短歌では切れが2回以上必然的に埋め込まれるということは基本的にはないため、この形式上発生する切れをどのように処理するかが三行分かち書きの表現に影響を及ぼしてくる。そういった意味で、ただ漠然と形式上の切れに甘んじるのではなく、時間などの流れの緩やかさを切れで表現していくというこの歌の手法は、非常に参考になるものであるだろう。


「久しぶり」
埃はらった自転車で
兄から借りた景色に向かう

/佐久間このみ


 題詠の題は「転」。題から「自転車」という単語が出るのは考えられることだが、そこを自分のではなく「兄」のものとしたこと、そしてそれによって出会える景色を「兄から借りた景色」と言い述べたところに力がある。「兄」や「景色」が主体にとってどのようなものかは完全に読者の読解に委ねられているが、「久しぶり」という言葉も相まって、どこか距離や切なさを感じさせる。歌が歌の外に広がるドラマにつながっているような魅力があると言える。
 通常、鉤括弧を利用した発話の表現は少しクセが強い印象で、なんとなく避けたくもなりがちであるが、この歌では行分けによる効果もあってあまり苦にならない。表記から受ける印象というところまで考慮した上で表現を選択するのは重要なことで、うまくバランスを探っていきたいものだと思う。


新緑の中
風になる少年の
虫取り網が今振りかぶる

/西山綾乃


 題詠の題は「新」。「新緑」と「風になる少年」という2つの要素は少し言葉の距離が近くイメージの広がりには欠けるかもしれないが、逆に言えば隣接するイメージを探し出して1首の中に構成してみせるという能力があるとも言えるかもしれない。
 着目したいのは3行目の「虫取り網が今振りかぶる」。一首としては少年が虫取り網で昆虫採集をしている情景を表すものと思うが、それならば通常は「少年が/虫取り網を」という助詞の斡旋になるところを、この歌では「少年の/虫取り網が」と多少屈折した言い方で表現してくる。この屈折が、非常に魅力的だと私には思える。この歌が採用している助詞の配置は「虫取り網」に一瞬主語が来るように見えることから、主体の視点が少年の動きから虫取り網の動きに移っていく感覚を、より強く読者に与えてくる。視点の動きと、「風になる少年」が振るう虫取り網のスピード感が、とてもよくマッチしているのではないだろうか。助詞の配置だけでも歌が大きく変わってくるということは、常に忘れずにいたい。


何もかも愛してほしい
空襲の跡地に
花のあふれるように

/大幡浅黄

ただ歩くだけでは
すぐに消えるから
命の重さで刻む足跡

/鈴木そよか


 団体戦1次リーグAブロック第1試合大将戦。題は「跡」。私自身はこの試合の審査を行っていたが、大会開幕後最初の大将戦がこのように力作対力作の勝負となり、良い意味で頭を抱えさせられた。
 大幡作品では、1行目の「何もかも愛してほしい」というフレーズのストレートさにやられた後、紡がれる崩壊と再生のイメージにぐっと心を掴まれる。イメージの広がりとメッセージの強さがともに味わえる作品だと思う。対する鈴木作品では、静かで繊細な1行目・2行目ののちに「命の重さで刻む足跡」という力強いフレーズが打ち出される開放感がある。繊細さのなかに意志の強さが垣間見える一首である。「愛してほしい」という受動的なフレーズを核に置く大幡作品と、「命の重さで刻む」という能動的なフレーズを核に置く鈴木作品という、非常に対照的な2首が競い合う名勝負であった。勝負の結果は3対2で鈴木作品の勝利となったが、どちらが勝ってもおかしくない勝負であったと感じる。
 両作品とも多少観念的ではあるが、それでいて単なる心情や思考の吐露に終わらない魅力があるのは、ひとえに両者のフレージングの妙にあるだろう。大幡作品であれば1行目、鈴木作品であれば3行目のような、それだけで人を惹きつけうるフレーズを1首の核として、そこから歌を立ち上げていくというのも、非常に効果的な手法の一つである。



 良い短歌とはなんだろうか。
 古今東西、さまざまな人がさまざまな形でこの問いに答えてきたが、結局のところその答えは各人に委ねられる。そして付け加えるなら、たとえ良い短歌の定義が明確にあったとしても、その定義をわかっている人が良い短歌をつくれるという保証はない。
 翻っていうなら、良い短歌というのは歌を詠む/読むという実践のなかでのみ見出されるものであるのかもしれない。私たちは良い短歌というものの定義を言葉の上に展開することは未だ出来ていないかもしれないが、しかし短歌と出会った時にそれが(少なくとも自分自身にとっての)良い短歌であるということに気がつくことができる。そうであるなら、いま私たちにできることは、私たちの出会った短歌の様相をできる限りつぶさに観察して、その良さというものをさまざまな方向からさまざまな形で描き出すことのみであるようにも思う。それによって生まれる膨大な数の良さのスケッチは、いくら描いても良さそのものには到達できないかもしれないが、だからといってそのスケッチの価値が失われることはない。ある短歌に出会ったとき、それが少なくとも自分にとって良い短歌であると感じられるなら、たとえ良さそのものの定義に到達できないのだとしても、その良さをあらゆる方法で語っていく。そのような実践のみが、私たちに良い短歌をもたらしてくれるのではないだろうか。
 良い短歌と出会う。そのために必要なのは、自身のなかで短歌や創作というものに対する思考や感覚を研ぎ澄まして実践を重ねていくこと、そして自分自身のそれを他者のそれとぶつけ合いながらあらゆる可能性を探っていくことであるだろう。そうした活動の一つの場として、短歌甲子園とは非常に貴重な機会であると思う。自分だけでは到達できない場所にも、他者の声があれば到達できることがあるかもしれない。創作はきっと、ひとりきりでするものではないのである。


■註
[1]「歌壇」2018年11月号(本阿弥書店)掲載。
[2]1行目「内蔵」は原文ママ。提出時もしくは資料作成時に混入した「内臓」の誤記の可能性あり。

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