「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌作品評 亜久津歩から荻原裕幸「夏の龍宮」へ

2018-11-02 02:43:15 | 短歌相互評
共感しないままふれる半神の歌の手ざわり――荻原裕幸「夏の龍宮 もしくは私の短歌の中で生きてゐる私が私の俳句や私の川柳や私の詩の中でも同じ私として生きはじめるとき私は漸く私が詩の越境をした実感ができるだらうと思ひながら選んだ十首」を読んで 亜久津歩

作品 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2018-10-06-19493.html


いろいろと前置きしたい気持ちはあるが、当初の予定よりかなり長くなってしまったのでさっさと本題に入ろう。予め、この連作に通じていることを述べておく。全体に夏の季語が散りばめられていること。それから、作中の主体が現世に住まう「ひと」ばなれしていること。

十薬匂ふ湯の沸きはじめの音がするこの世の時間しづかに進む

十薬、ジュウヤクはドクダミの別名で、夏(仲夏)の季語。湿っぽい日陰から不意に漂う独特の匂いは、誰にも覚えがあるのではないだろうか。
先ず「十薬匂ふ湯」と一息に読んでみる。乾燥させた葉で淹れるどくだみ茶や、生の葉や茎を使うどくだみ湯のための湯を沸かす。「音」が聴こえるのはお茶だ、鍋か薬缶か……ひとりの台所、コトコトという音、になろうとする気配が微かに鼓膜をふるわす。他に聞こえるものはなく「時間」だけが、ただ「しづかに進」んでいく。
次に「十薬匂ふ/湯の沸きはじめの音がする」と読み、こちらだと思う。十薬は茶葉よりも実物として捉えたいし、この繊細な知覚において、室内にある十薬ではやや刺激が強い。仲夏は6月6日頃から7月6日頃――梅雨がようやく明け、夏らしさを感じ始める頃。何処かの薄暗がりから風に運ばれ、開け放たれた窓へ、鼻腔へと至る十薬。空間的な広がりを感じるとともに、時間の奥行きも深まる。
そして「この世の時間」と絞ることで、言外に横たわる「この世の」ものではない時間。78577というリズムも、異質な時と普段の流れを表しているようだ。

ひとを食べ尽くした夏の正門が閉められてこちら側の寂しさ

「ひとを食べ尽く」された後に残された存在は、「ひと」でなくて何なのだろう。夏の景色の中に立つ、おそらく学校の(2、3首目は回想か)門。同時に季節の入口――夏という怪物のくち。「ひと」びとは、賑わいながら吸い込まれてゆく。食われているとも知らぬまま、ひとり残らず。「閉められ“た”」ではなく「閉められ“て”」という接続から、急な分断が際立つ。57587、少しはみ出した「閉められてこちら側の寂しさ」を持ち主体は、“あちら側”へ行きたいのだろうか。

赤ペンのひらがなひらくはつなつの進研ゼミは恋まで諭す

「はつなつ」はそのまま初夏の季語。漢字表記をひらがなにすることを意味する「ひらく」と、紙の上に咲くあざやかな「赤ペン」の大きな花まるのイメージが重なる。この夏、恋も!部活も!勉強も!と鼓舞する漫画冊子を思い出した。通俗的なアイテム(しかも教材)を用い、音も57577ぴたりと型通り。まるで巧みな擬態だ。あるいは、学生時代を規律正しく過ごしていたということか。しかし、やはり主体は外から「恋まで諭す」もの(と諭されるもの)を見ている。「進研ゼミ」の勧誘DMが送付されてくる年頃から、きっと「こちら側」にいたのだ。

夏の空には私のこゑもしみてゐて半世紀のその青を見てゐる

どこまでも青い夏空に自分の声が染みているとは、考えたことがなかった。「空」へ放たれた人々の叫びや囁きが「青」をなしているのかもしれない。下の句の字あまりからも、その長さを感じる。
荻原裕幸は1962生まれ。ちょうど「半世紀」ほど前である。1979年に作歌を始めている*1 ので、短歌作品以外の「私のこゑ」も含めて「見てゐる」のだろう。私は普段、詩を読む際に作中の人物と作者とは区別しているが、ここではあえて重なるに任せて読み進めたい。すると「その青」からは、歌集『青年霊歌』*2『永遠青天症』*3 も思い起こされる。『青年霊歌』刊行から30年、もしも「私の短歌の中で生きてゐる私」を通底したもの(≠同じキャラクター)と捉えてよいのであれば、「私のこゑ」は作品としても事実時を超え、空に染みている。

遠い夏の朝のピアノを聴くやうに過ぎてゆくその船を見てゐた

連作中、圧倒的に好きな一首。「遠い夏の朝のピアノを聴くように」のなんと美しく切ないことか。降り注ぐ光のように、僥倖に巡りあうように「その船」は「過ぎてゆく」。私は荻原裕幸の直喩が大好きで、出合えると飛び上がってしまう。
この5首目には色を表す語も描写も入っていないが、4首目の「青」が響いており、空と水との青の階調、日差しと波のきらめき、悠然と行く白い船体がありありと浮かぶ。4、5首目は「その青を見てゐる」「その船を見てゐた」と結ばれる。4首目の余韻が行き渡るのは、このセット感ゆえとも言えるだろう。「ゐる」→「ゐた」の変化によって単調さを回避しつつ、時間の経過を示している。留まるものを、過ぎゆくものを、主体は「見」続けているのだ。

枇杷の下には何が棲むのか呼んでみる静寂よりも静かな声で

「枇杷」・枇杷の実も十薬と同じく仲夏に属する季語である。一読すると枇杷の木陰に「棲む」(この字は人間には用いない)姿の見えない虫か小動物に、優しく囁きかけているようだ。しかしここへ来て、そうは思えない。現実的な木陰や地中というよりも「この世」の外なる異界へ呼びかけているのだ。「枇杷」は「琵琶」と掛かっているようにも感じる。
「静寂よりも静かな声」は比喩とも読めるが、おそらく本当に静寂よりも静かな――ひとには発声できない、聴きとることもできない――声なのだろう。

次はリューグーつて聞こえた名鉄のドアがひらけば夏の龍宮

「名鉄」は名古屋鉄道の略称。荻原裕幸の(そして加藤治郎の)出生地でもある愛知県名古屋市は、Twitterから短歌の世界を垣間見ている私などからすればメッカ的都市である。平和園へ行ってみたい。
さて。「次はリューグーつて聞こえた」に「名鉄」と続くことから、車内アナウンスか乗客の話し声だろうとリューグー駅を検索した。だが該当するものはなく、名古屋市港区竜宮町という地名に行き着くのみであった。海に面した町ではあるが……。
もしかすると、この地名との混同を避けて「龍」の字をあてたのだろうか。あるいは宮沢賢治にとってのイーハトーブ(岩手)*4 のように、現実の地名をモチーフとした架空の場と考えてもよいかもしれない。
なるほどこれは実際の台詞ではなく、ひとならぬものの呼び声なのだ。6首目では「呼んでみ」たが、7首目では何処からか「聞こえた」のである。「ドアがひらけば」水色の世界を行き来する虹のような魚たち。いつもの名鉄に乗っていたはずが、何ものかの声をトリガーとして「龍宮」という美しき異郷へ引き込まれてゆく。(ちなみに「龍宮(竜宮)」は「水晶宮」ともいう。荻原裕幸第一歌集第一章が「水晶街路」であることに、不思議な連なりを感じる)

わりと本気で雲に乗りたい八月の午後がとてつもなく寂しくて

季語は「八月」。2首目の「寂し」さが、さらに深いものとなっている。2首目では夏の始めの、生徒が一斉に登校する朝を想像した。「八月の午後」はそのしばらく後だ。「こちら側」にあり続ける「とてつもな」い「寂しさ」。「雲に乗りたい」のはふかふかのベッドで眠りたいわけではなく、青天の、天上の世界へ行きたいのだろう。そこはきっと、寂しくないから。

無いよだけど在ることにしてコメダする夏の終りの男女の友情

恋や性愛の対象となり得る間柄における「友情」は「在る」(こともある)が、「無いよ」という相手とは成立しない。「無いよだけど」の字あまりが、一瞬見せた本音を素早く上塗りする(「よ」と「だ」は0.5拍ずつで読むのがよいだろう)。意図的にチラリと見せているに違いない。越えるのは容易いよ、と。
ところで「コメダする」は、コメダ珈琲店へ行くことを意味する。コメダ珈琲店の本店・本社は名古屋市にあり、支店は名古屋市内だけで120店舗以上。私の暮らす埼玉県南部では聞かない言葉だが(「コメダにする?」「コメダ行こう」となる)いわば「お茶する」であり、普段通りの、一般的な日常を端的に表していると言える。
果たして「無いよだけど在ることにして」いるのは、「男女の友情」だけだろうか。

何処からか音だけがして八月のこの世には降ることのない雨

どの世には降る雨なのか。私はもう、この聴力を想像力や表現力などと呼んでいいのかわからない。まるで半神半人の言葉を聞いているようだ。足は地表につけながらも、知覚は異界を捉え続けている。
私はこの連作がとても好きだが、共感しているか、というと、していない。できないのだ。私は「この世の時間」以外の時間を知らないし「湯の沸きはじめ」は目で確かめる。無抵抗に「夏の正門」に飲まれ、「進研ゼミ」に「諭」されてきた。「静寂よりも静かな声」の出る声帯も「リューグーつて聞こえ」る鼓膜も具わっていない。雲の上は雲の下よりも「寂しくて」、「この世には降ることのない雨」に気づくこともない。けれどだからこそ、共感に心奪われることなく、言葉によって立ち上がる世界の手ざわりを、言葉そのものの美しさを堪能し、世界の更新や拡張に心底驚くことができる。共感されやすいことは必ずしもよい歌の要素ではないと改めて感じた。「身に覚えのあること」の先に広がる豊かな世界を見せてくれる。
この連作中、1、4、6、8首目の計4首が初句7音だ。やわらかく優美な印象はこのためでもある。なお、2首目と7首目は句またがり、5首目と9首目は6音の字あまりなので、くっきりとした初句5音からの57577は3首目と最終10首目のみである。3首目はまるで擬態だと書いた。ならば10首目は、「夏の龍宮」から「この世」へ帰する装置と言えよう。

終わりに。「詩の越境」について考え込んでいる。この一言だけで再び4000字始まってしまいそうなので締めるが、越境とその実感をしたい・できる・すべきとは言っていない点、「詩“型”の越境」ではない点を指摘しておきたい。それはこの作品が掲載されているサイト「詩客」の性格や、加藤治郎が最新歌集『Confusion』において「詩型の融合」をテーマの一つとしていることなどに対する、荻原裕幸のあり方を示唆しているのだろう。先ほど、この主体の聴力を荻原の想像力や表現力などと呼んでいいのかわからないと書いたが、当然、荻原は人間である。それを訝しみたくなるほどに、荻原裕幸であり荻原裕幸でない「私」が「短歌の中で生きてゐる」。この「私」が「私の俳句や私の川柳や私の詩の中でも生きはじめるとき私は漸く私が詩の越境をした実感ができるだらう」がそのまま、荻原の(現在の)スタンスなのだ。目指すよりも、至るに近い印象を受ける。
「詩の越境」とは、たとえば有季十七音の短歌を詠むことでも、10000字の川柳を作ることでもない。手先で型を弄るだけでは決して到達し得ない詩の、より深い領域を始点とする旅だ。ここにあるのは自身にとって「詩の本質とは何か」という問いでもある。荻原裕幸にとっての「詩」の「越境」とはこうである、では私にとっては?

あなたは?



*1 荻原裕幸1980-2000全歌集『デジタル・ビスケット』沖積舎より2001年刊行。
*2 荻原裕幸第一歌集『青年霊歌―アドレッセンス・スピリッツ』書肆季節社より1988年刊行。
*3「永遠青天症」は『デジタル・ビスケット』に「未完歌集」として収録されている。実質的第五歌集。
*4 異説あり。
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