「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 世界を軽量化する言葉 岡野絵里子

2014-06-05 19:52:27 | 短歌時評
 或る会合で、年長の女性詩人が「母や伯母たちは、手紙の末尾に必ず和歌を添えていたものだったけれど、私は和歌のたしなみがなくて・・・・」とおっしゃったことがあった。ご専門の英文学から格調高い英詩を引用したお手紙を書かれる方だったが、和歌に尊敬の念を持ち、手の届かない特別な宝のように考えておられるのがよく伝わって来た。この方の年齢から考えると、伯母様方は1910年代頃のお生まれになるだろうか。過ぎてしまった遥かな時間。伯母様方は彼方に去っていき、後ろ姿ももう見えない。私はただ、彼女たちの作歌のありようを想像するだけだった。
 それからしばらくたった頃、80年代生まれの新鋭歌人たちの歌集を読む機会があった。書肆侃侃房から新鋭短歌シリーズ第一期として刊行された12冊である。改めて私たちが遥かな時間を来てしまったことを感じた。2013年の刊行なので、詩客の短歌評でも既に取り上げられているが、ここでほんの少し、また別の感想をつけ加えることをお許し頂ければと思う。 
 
  寝言は寝てからいうつもりだが(さようなら)土のなかってうるさいだろう
 
  そろそろ庭になっていいかな(まあだだよ)わたしの台詞はもうないんだが
 
  ちょと駅までと云うにもわたしは動物で難しさっていうのがずっとある


(望月裕二郎「あそこ」)


 望月裕二郎氏の短歌は「さかみちを全速力でかけおりて」やって来た。あらゆる凡庸を追い抜き、世界を軽く明るくするために。この歌集には、連作という括りがなく、枠を設けずに作品が並べられている。生きている身体が変化するというモチーフが面白くて選んでみた三首だが、「言うこと」についての言及も共通していた。歌集中、言うこと、言葉にかかわる歌が40首近く読めて、顧みれば印象深い。作歌そのものにかかわる作品であれば、わかりやすいメタ短歌なのであるが、あくまで「言う」という発語であることで、独自のメタ短歌性が生まれていく。作者にとって、表現は「詠むもの」「書くもの」であるより先に、まずは「いうもの」であるのかもしれない。
 ( )の中、声を発しているのは誰なのだろうか。ユーモラスな合いの手のようで、どこか突き放した冷たさも漂う。声はこの最初の二首が持つ死のイメージに風の通る穴を開け、軽量化する働きをしているようだ。生前、語り残したことのある死者が、埋葬されてから、死の眠りの中で言葉を発する。死者たちがそれぞれ皆思いを呟いたら、土中は確かにうるさいに違いない。だが、視点を変えてみれば、人には言うべき台詞など何もないのである。死んで地球の一部になればよい。どこに葬られようと、地上は全て地球の庭だ。
 三首目、「わたし」は動物である。あるいは動物に変身している。従来なら「いつも難しい」と書くかもしれないところを「難しさっていうのがずっとある」。リアルな話し言葉に、現代のコミュニケーションの困難さを思うが、動物じゃ仕方ないというおかしさに落ち着く。

  この世界創造したのが神ならばテーブルにそぼろ撒いたのは母

  おまえらはさっかーしてろわたくしはさっきひろった虫をきたえる


(同上)


 手許が狂ったのか、あるいは喧嘩の果てか、母が派手にそぼろを撒き散らした。テーブルの上はさながら挽き肉の銀河である。宇宙の星々とそぼろ、絶対者である神と母が同列に並ぶ。いや、どうやら母の存在感は神を上回ったようだ。
 実は、私は甘いそぼろが嫌いで、ランチのそぼろ丼をそっくりそのまま残したことがある。周りの先輩詩人たちは誰も気づかなかった。全員夢中でしゃべっていたからで、詩人は卓上の食物にも他人にも関心がないのである。そこに歌人たちとは違う不幸の一端があるのだが、少なくとも望月氏は、誰が食べたか食べないかを鋭く観察している人ではないかと思う。ただ、チワワのおしっこの歌とレモン・ティーの歌を意図的に並べるくらいだから、食物にあまり愛情はなさそうだ。食物のある風景に、シニックが隠れているのも面白い。
 次の歌でも、人々が熱狂するサッカーと拾った虫が同列に並べられている。サッカーに限らず、スポーツを信奉しすぎて舞い上がる人間たちを地面に引き下ろしているのだが、大真面目な顔で虫を鍛えるふりをしているから、怒るに怒れない。

  繰り返し自分の名前をつぶやけばそれは自分の名前でなくなる

  真剣に湯船につかる僕たちが外から見ればビルであること


(同上)


 前者の歌は、聴覚上のゲシュタルト崩壊だろうか。自我の基盤であるはずの自身の名前が、繰り返すほどまとまりが失われ、無意味な音に分解していく。後者では、「僕たち」から人格が失われ、ビルの中の見えない内容物にすぎなくなる。ビルの中の湯船とは、ホテルの大浴場などではなく、マンションの各戸に備えられたバスルームのような気がする。入浴なのに真剣だという取り合わせがまたユーモラスなので、批評の鋭さも柔らかい泡にくるまれる。
建物の中に見えない生に思いを馳せる時、心に浮かぶ秀歌がある。

  夕闇にわずか遅れて灯りゆくひとつひとつが窓であること
(吉川宏志 「青蝉」)


 前述の作品と似ているようで、全く異なる精神と重力を持った言葉と思われる。地上にある無数の人間の住み家。それぞれを認め、愛情のあるまなざしを注いでいる。夕闇にわずか遅れるという描写が巧みで、日本の美しい夕方の光景を想像させる。人に暖かい家庭があり、そして窓がある。そこから人の感受性はひらかれている。などと言い始めると限がないので、慎むが、現代短歌の世界には、優れた歌、優れた歌人が大勢おられて、とにかく恐るべきところである。
 詩人から見ると、短歌は永遠に始まり続ける第1行であって、終わらない詩である。「詩の1行目は神が書き、2行目からは詩人が書く」と古くには言われていた通り、2行目以降の構成が重要なので詩人は苦労するのだ。1行目だけを書いている歌人がうらやましく思える時もあるのだが、わずか31文字の無限に感心するのは、こんな時である。
 望月氏の言葉は、世界の重力から自由であるらしい。そして人間という重力からも自由である。過去には鉛筆であり、現在は助詞を見張る形而上の蝙蝠であり、戸袋にはさまれる戸にもなる。ユーモアやアイロニー、何より鋭い批評力と修辞力を持って世界に風の通る穴をあけて軽くする。軽い時代になったとは言わない。奉られたものから人間自身を軽く解き放つ方法を発見したのだ。
 歌集タイトル「あそこ」とは、「遠そうで近い目的地」と解釈して読んでいて、作者のめざす場所が最後にはわかるはずだと思っていた。だがあとがきで、「言葉が『言外の意味』に縛られていることを批評的に提示するため」につけられたタイトルと知って、参ってしまった。私も特殊な隠語にこそ縛られていなかったが、自分の嗜好や思い込みには縛られていたわけである。
 現代詩では、文字通りの意味で言葉を表現していくことは少ないように思う。文脈に置かれた言葉は、詩人独自の意味とニュアンスを帯びている。比喩や文脈自体から含意を読む、コノテーションの読解が作者と作品の理解になっていく。短歌も同じであるとすれば、このタイトルは、言外の意味を読むという従来の読解法にもトラップをしかけているわけで、あると思い込んだ目的地を探して読み続けた私は、見事にずっ転んだことになる。だが、不思議な爽快感が残った。言葉が頭上を駆け抜けて行ったからだろうか。自由に鮮やかに駈ける言葉を見送る読書は快かった。時に奇想にも見える挑戦的な言葉で、彼自身の世界はこれからも開かれていくことだろう。

  さかみちを全速力でかけおりてうちについたら幕府をひらく

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