「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評第34回 本多真弓から阿部圭吾「手のひらの海」 へ

2019-03-01 03:12:05 | 短歌相互評

作品 阿部圭吾「手のひらの海」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-02-02-19854.html

評者 本多真弓

 水族館(すいぞっかん)、と言うとき君の喉元を光りつつゆくイルカのジャンプ


「すいぞっかん」のルビに、くらくらした。これまで「水族館」という文字を見た時、わたしの脳内で再生される音はいつも「すいぞくかん」だったから。


あらためて声に出してみる。たしかに「く」の音は明瞭にはあらわれない。わたしはこの言葉を他者にむけて発話する時、そうとは意識することなく「すいぞっかん」と発音し続けてきたのだ。大袈裟に言えば、この歌と出会うことで、わたしの人生は、すいぞっかん以前/以後に分けられてしまった。


耳のいい作者である。鍵かっこなしで、目の前にいる「君」が発声した言葉だとわかる、すいぞっかん。


  車窓から本当の海を眺めつつ海に似ている場所へ向かった
  潮風は吹くけど帰る場所がないここで生まれたという子アザラシ



この一連を統べるのは、Aに限りなく近いがAではない、【A´】のトーンだと思う。


海を眺めながら、実際に向かうのはあくまでも海に似ている場所。子アザラシが生まれた場所は、これからも生きていける環境ではあるが、アザラシ本来の棲息地ではない。


そこが君とでかける、すいぞっかん、なのだ。


  退化だね、って君と笑って潜りゆく水族館は命のにおい
  マグロ回遊水槽ゆがむ群泳の痛いくらいに光、まぶしい



初句七音にも関わらず「退化だね」の歌は軽やかである。ふたつの促音が弾むリズムを作り出す。
「マグロ回遊水槽」の歌は一転、どこで切るべきかわかりにくい、すりあしで進むようなべったりとした韻律だ。それが結句の「光、まぶしい」で、意味とともにぱっと開花する。鮮やかだ。


  水槽に触れてかすかな深海がたしかに手のひらにあったこと


ひとのからだのままでは潜ることのできない深い深い海。この歌では深海魚用の水槽にぺたりと手のひらをつけることで、かすかな深海を手に入れた瞬間が描かれる。水槽に手を触れても、水そのものに触れるわけではない。ここにも【A´】のトーンがあるように思う。


それから「たしかに手のひらにあったこと」という、自分に言い聞かせるかのような歌いおさめ方。わたしはここに、淡いかなしみのようなものを感じてしまう。おそらく作者には、かなしみの意識はなく、かなしみを感じたのは、わたしの残り時間の少なさのせいだろう。


  たましいのようにクラゲは揺れていて本当は溺れているかもしれない


今回、一番好きだった歌。たましいは見たことがないけれど、この歌の「ように」にはすんなり説得される。下の句の大幅な字余りの不安定さも、計算されたものだろう。「溺れているかもしれない」ものは、クラゲでもあり、ふたりのたましいでもある。


  ペンギンのにおいをかげば思い出す記憶として君とここにあること


「君とここにあること」の現在性がパッケージ化された、面白さとかなしさがある。未来においてこの記憶を思い出す時、はたして「君」は、いまと同じようにそばにいるのだろうか。


  生まれ直すようにのぼった階段で名付けあうところから始めたい


「名付けあう」というフラットな関係が涼やかだ。名付ける/名付けられるという世界からの解放。それも「始めよう」という他者への呼びかけではなく「始めたい」という。ごくささやかな願いが美しい。


  手のひらの海であなたに触れるとき遠くで生まれ続ける波の


この歌にも、不思議な【A´】感がある。あなたに触れるのは、手のひらそのものではなく、手のひらの海。触れている、という距離にもかかわらず、波が生まれ続けるのは遠い場所なのだ。「波の」のあとに続く情景も感情も、読者にゆだねられたまま、この一連は終わる。


春になったらわたしも、すいぞっかん、へ行こうと思う。作者からゆだねられたものを壊さないよう、ゆったりと胸に抱えて。

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