二元論の困難
「心」という言葉を用いるとき、どのようなイメージをしているだろう。多くの場合、それは精神や意識と呼ばれるような、「身体」と対になっているものを指しているのではないだろうか?
わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体〔物体〕からまったく区別され、しかも身体〔物体〕より認識しやすく、たとえ身体〔物体〕が無かったとしても、完全に今あるままのものであることに変わりはない、と。
デカルト『方法序説』(谷川多佳子訳、岩波文庫、2012年)
精神ないし心というものと、身体ないし物体というものの2つからこの「わたし」というものを捉える。このように心と身体とを切り分けるデカルトの発想は心身二元論と呼ばれ、現在の私たちにも受け継がれている。しかし心身二元論は、次のような疑問を生じさせる:私たちが心と身体とに切り分けられるとするなら、なぜ心が身体に作用したり、反対に身体が心に作用したりするように思えることが起こるのか? 身体とはこの世の中に物質として物体的に存在するのに対し、心とは非物質のものとして考えられる。物質が物質ではないものに作用したり、反対に物質でないものが物質に作用したりすることが可能なのだろうか?
非物質が物質に作用するという発想は、いわば念力のようなものを認める発想であって、「念力説」と呼ばれることもある。これを認められるかどうかは、かなりの議論となるだろう。実際、この問いに対してどのような解決策を提示するかで、現代哲学の考え方はいくつかの流派に分かれている。
「わたし」や世界といったものを、物質と非物質の二分法でみようとすると、どうしてもこの問題に直面する。2つの領域は、分けられているがゆえに関わり合えない。2つのケージを用意して、そのそれぞれにネズミを入れたとしたら、その2匹のネズミは決して出会えないのである。
では、2匹のネズミを出会わせるにはどうしたら良いのだろうか。
もっとも単純な方法は、2匹ともを同じケージにいれることである。
一元論の提案
たとえば、私の意識や心といったものが、いまの私のものではない身体に入れ替えられたとする。それは、果たしていまの私と同じなのだろうか?
たしかに、二元論的には同じであると答えるし、私たちはある面ではこうした発想を持っている。しかしその一方で、そうした入れ替えられた私というものが、あくまでもこのいまの私の想像としてしかあり得ないものであることも、実感として了解しているのではないだろうか。
私とはこの考えている私である。二元論が困難を抱え込むとするなら、デカルト的発想のその第一歩目から、私はあることを見落としていたのである。それは、私とはこの考えている私である以上に、この存在している私であるという事実である。そしてこのような事実を捉えなおすために、私たちは一度この世界の根本から考えてみなくてはならない。
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この世界や世界にあるものは、非物質的ななにものかであるだろうか?
もちろん、それらは「私にはそう感じられているからそこにあるもの」と結論できることもできるかもしれない。ただ、すべてを私というものの知覚に還元してしまうそのような議論にどのくらいの意味があるだろうか。すべて私の知覚なのだとしたら、世界とは私の知覚であって、すなわち世界とは私とイコールである。私が感じていないものは世界にはなく、また私が感じなければ世界それ自体さえもない。すべてが私というもののもとにあるという、一種の独我論的な世界観。しかし、それは本当にこの実体を掴み取れるのだろうか。少なくとも、私はそうは思えない。
たとえばいま私の目の前には机があって、コップがあって、パソコンがあって……というふうに、ありとあらゆるものが実体としてそこに存在しているように見える。そして、それこそが世界の基本的なありようであるようにさえ思われる。そこで私は、そのような実体としての物がある世界という場所から出発したい。いまこの世界というひとつの空間があって、そこに実体としての物がある。あくまでもこのような世界観をベースにして、なおかつそこに「心」というものの安住の地を見つけたい。
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世界というひとつの空間のなかに、実体としての物が存在している。ここを出発点としたときに、どのようなことが言えるだろうか。
まず第一に、その物というものは世界においてなんらかの作用を持っていると考えることができる。たとえば、ある物がそこに在るというとき、それは物が空間にある広がりを持っているということであったり、あるいはある質量を持っていてわずかながらその空間にゆがみを生じさせているということだったり、なんらかのエネルギーを発しているということだったりする。つまり物は存在しているのであれば、なんらかの形で作用する。
ここで大切なことは、この作用するということが、その作用を受ける対象がある場合にのみ生まれるようなものではないということだろう。先に挙げた例——空間に広がるとか、空間を歪ませるとか——エネルギーを発するとか——を考えてみても、物は必ずしもなにか特定の対象を持たずに作用していることがある。しいて言えばここではその物が存在している空間に向かって作用しているが、その空間というすべての物の前提となっている領域を「特定の対象」といって何か物と等しいもののように呼ぶことは難しいだろう。そのように考えるなら、このような物による自発的な外部への放出や影響の創出を作用と呼ぶことは妥当であると考えられる。
世界というあるひとつの空間に物があり、その物が自発的に作用している。そしてこのとき、同じひとつの空間にあって作用を持ち合っているのだから、物と物は互いに作用しあうということが言えるだろう。これはたとえば、「同じテーブルでビリヤードをしたら、ある球が同じテーブル上のほかの球にぶつかることはあり得る」というようなイメージに近い。もしくは、先にケージに入れていた2匹のネズミを連れ出してきて、「1つのケージにネズミを2匹入れたら、ネズミは出会うことがあり得る」という言い方もできる。同じ領域を共有している物同士は、作用しあえるのである。
次は、このように物と物とが作用しあっているときのことを考える。このとき、単純に互いに作用しあっているという場合のほかに、作用しあうことでその物と物とが全体として1つのまとまった作用をするということも考えられるのではないだろうか。たとえば、ニューラルネットワークを思い浮かべてみる。ニューラルネットワークとは、ノードと呼ばれるもの同士が、エッジと呼ばれる関係を表す線分でつながれているネットワークである。ここでは、ノードを物、エッジを作用と置き換えて考えてみてもらいたい。このときネットワークは、全体としてある作用を外部より受けたとき、全体としてある作用を外部へ向けて出力する。これはつまり、複数の物同士が作用しあって、ある全体——いわばあるひとつのシステムを構築して、その全体として作用を創出しているということにほかならない。
物と物とが組み合わさり、全体としてまとまりを為して、ひとつのシステムとして作用する。このとき、2つの興味深い点が生まれる。ひとつは、そのシステムにゲシュタルトが生成されていること。そしてもうひとつは、そのシステムにはどこまでも細分化できる可能性が存在していることである。
ひとつめのゲシュタルトについて、これはメロディや文章などでしばしば説明されることもある。たとえば半音階で12音の音があったとしても、それを寄せ集めただけではメロディとしては成り立たない。また、五十音図があったとしても、それだけではある文章としては成り立たない。つまり、何かがあったとするとき、その全体を全体のまま捉えない限りは、認識できないというような性質がゲシュタルトである。そのような性質は、先ほどのニューラルネットワークの例で考えても起こり得る。ここでは、その全体を構成している個々の要素は単純なノード——つまり物であったが、このような個々の物に着目すると、途端に全体としての作用がどうしてそのような物から成立していたのか、理解ができなくなるのである。このようなことを考えたときに、物と物とが構成しているシステムという全体にも、同様の性質があることがみて取れる。
もうひとつの細分化可能な性質について。このような性質もまた、物と物とによるシステムに現れる。私たちはあるシステムを見て、それを構成するある物に着目できる。しかし、その物がまたある物から成立していたらどうだろう。物と物とがシステムという全体を構成するプロセスを認めるなら、このような物がまたなにかの物から成立しているシステムであることも認めることになる。この細分化可能性のなかにおいて、物と物とによるシステムというのは、際限なく拡大・縮小されうる。そして、そのある場面においては、別の場面と同様なシステムとしてあるシステムが成立していることも考えられる。
ゲシュタルトと細分化可能性。この2つの考えから、物と物によるシステムとが、実はどちらも同じく物であり、またどちらも同じくシステムであるという考えもまた浮上する。1つであるということを意識する場合には「物」と呼ばれ、複数がまとまって全体として1つになっていることを意識する場合には「システム」と呼ばれる、いわば「実体」という言葉に表される存在がこの世界にある。そして、それらが作用しあっている。そのような当初の実感に即した世界観が、いまここに用意されているのである。
*
さて、ここまでで物と物との作用、そしてそれによって生み出されているシステムという全体と、その性質ということを確認できた。このように世界のなかに実体があるという世界観のもとで、どのようにしたら心を位置付けられるだろうか。
確認すべきは、心というのは「物」であるという考えで世界を探してみても、どこにもその姿を確認し得ないということである。たとえば、私の体のどこかに「心」という部位があるのだろうか? そのように探してみても、心は見つからないだろう。このような実感に、できる限り沿うような「心」の位置付けが求められる。そしてそれは、あくまでもこの実体の世界というひとつの空間内において位置付けられなければ、結局二元論になってしまうのである。
このいまの世界観で実体ではないが、導入されているものがある。作用である。実体として見つけられないのであれば、非物質的なこの作用というものが心ではないか——そのような考えも出るだろうが、少し待っていただきたい。私には、作用というのもさらに細分化してみていけば実体と実体との作用の様子になるように思われる。たとえば、声や熱を発するという作用を考える。声も熱も、作用するには空間の大気や分子を揺らして伝達する。この様子をどこまでも細分化していくなら、果てしなく細かくなっていく実体が空間には詰まっていて、その実体と実体とがさらに作用していて、という構図ができてくる。このなかにおいて、作用は永遠になんらかの実体によって発生させられているものである。そうであれば、主なのは実体であって、作用は従ではないだろうか。また、作用を心といってしまうと、実体とは単なる力点のようなものとなり、たとえば私という実体に「心」と呼ぶものがあるというような実感が捉えきれないのではないだろうか。
では、どのようにすべきなのか。非常に奇妙に聞こえるかもしれないが、私の答えはこうである。心とは、実体である。ただし、ある実体について、ある複数の物がまとまって全体として1つになっていること——つまりシステムとしてあることを意識するときに、そこに心があるとはじめてわかるのである。
極めて変な印象を受けるかもしれない。まずこのようなイメージをしてみてはどうだろうか。ある真っ暗な大部屋のなかに、指向性の良い小さな懐中電灯がひとつ設置されている。その懐中電灯の先には、部屋よりは小さいが懐中電灯の明かりを漏らさない程度には大きい、色のついた壁が存在している。懐中電灯のあるのとは反対の側からその壁を見るなら、真っ暗闇で壁があるかどうかなんてわからない。しかし、懐中電灯の側から見れば、私にはそこに色のついた壁があることがわかる。そして、一度わかってしまえばそこに壁があるということが言えるし、懐中電灯と反対側に回ったからといって壁が無くなったり別の壁になったりするとは思わない。見える側面こそ違えど、どちらの側から見えているのも同じひとつの壁なのである。
「心とは、実体である。ただし、ある実体について、ある複数の物がまとまって全体として1つになっていること——つまりシステムとしてあることを意識するときに、そこに心があるとはじめてわかる」というのは、この壁の例と同じことである。つまり、世界のなかで「物」というそれはそれ1つであるだけである存在として実体を見て心を探したり位置付けようとしたりすると、見つからなかったり二元論に向かってしまったりして失敗する。しかし、1つのまとまりではあるが複数の要素が全体をなして作用している「システム」という見方で実体を見ることで、見え方は一変する。「システム」としてみるとき、そこでは「複数の要素から全体をなしているが、個々を抜き出してはその全体の作用はわからなくなってしまうまとまり」として実体がある。「まとまっている」というこの複数要素の関係性こそ、この実体の世界にあって実体によって規定されながら実体ではないなにものかである。そうであるならば、このような関係性をもっている「システム」としての実体こそ「心」であると位置づけることができるのではないだろうか。そしてそのとき、「システム」とは実体の一側面を表していたのだから、「心とは、実体」であり、「ただし、ある実体について、ある複数の物がまとまって全体として1つになっていること——つまりシステムとしてあることを意識するときに、そこに心があるとはじめてわかる」のである。
どのような実体も心なのか?
条件付きとはいえ「心とは、実体である」という主張をするならば、そこには暗に「すべての実体には心がある」という主張がある。しかし、これは正しいのだろうか? たとえば、私たちは「すべての実体には心がある」というアニミズムと同じかそれ以上に、「心があるものとないものがある」という二元論的な実感も持ち合わせている。人間とか犬とか猫とか、もう少し許可するならロボットとか、そういったものに心があるように見えて、そして反対に机の上のコップとかパソコンなどには心がないように見えている、という実感もある。これらアニミズムと二元論とのそれぞれの実感のどちらもすくい取ることはできないのだろうか。
ここで確認すべきは、「心がある」ということと「心があるように見える」ということの差異である。「心がある」ということは、ここまでの論で実体としての世界のなかで位置づけられるものとして定義してきた。一方で、「心があるように見える」というのは実体の世界においては、あくまでもある私という実体の状態としてあるのではないだろうか。
前者の「心がある」という言い方は、世界を実体と実体との作用の構造によってのみ捉えている場合の言い方である。ここでは、その実体の細分化可能性によって、どの実体の「システム」も細分化の過程のいずれかの場面である他の実体と構造としては同様の構造として眺めうることになる。そのとき、どのような実体と実体の作用による構造も等しい構造として記述されてしまうのだから、その「システム」の構造としては差異は認められないだろう。「心」というものを「システム」の面から見た実体であると捉えているがゆえに、どのような実体も「システム」の面から同じ構造であるとしかいえない状況があるのなら、そこには「すべての実体には心がある」という主張しか残されていない。
一方で、後者の「心があるように見える」というのは、実体の世界においてある実体の「システム」の状態と解釈される。ここでは、誰が/どのような状態にあるのかということは、その実体と実体との作用の状態においてのみ記述される。つまり「システム」の構造的な部分ではなく、その作用の程度の強弱などにおいて差異があるために、ある見え方でその実体には見えていると考える事ができるのではないだろうか。
実体と実体の作用として世界を捉えていく。しかしそのなかでも、実体には状態があるということを認める。このようにすることで、実体としての「心がある」ということと、ある実体の状態としての見え方——その実体にとってどのように見えているのかという意味で主観的な見え方——としての「心があるように見える」ということとを、区別する事ができる。このとき、最初に検討した立場の異なる2つの実感は、どちらもこの同じ世界のなかで表現されうる。世界それ自体は「すべての実体には心がある」というアニミズムにありつつ、その世界のなかにある実体としては「心があるものとないものがある」という二元論的な実感も持ちあわせることができるようになる。「すべての実体には心がある」というOSの上で、まるで個別の仮想マシンのように「心があるものとないものがある」というOSが動作し得るのである。
言葉とはなにか
このような世界観のもとで、それでは言葉とはどのようなものなのだろうか?
要するに、聞き手の側からすれば、言葉の意味の了解なるものは実は、話し手の声振りに触れられて動かされること、叙述の場合であれば、或る「もの」「こと」が或る仕方で訓練によって立ち現われること、じかに(註:「じかに」に傍点)立ち現われること、に他ならない。そこに「意味」とか「表象」とか「心的過程」とかの仲介者、中継者が介入する余地はないのである。すなわち、言葉(声振り)がじかに(註:「じかに」に傍点)「もの」や「こと」を立ち現わしめるのである。言葉の働きはこの点において、まさに「ことだま」的なのである。しかし、個々の人の身振りの一部である声振りを離れて言葉はない。したがって、「ことだま」が宿るのは声振りに、したがって身振り、したがって「人」に宿ると言うべきである。
大森荘蔵「ことだま論」(『物と心』(ちくま学芸文庫、2015年))
大森は「立ち現われ」という概念のもとに一元論を打ち立てたが、そのなかで言葉に「ことだま」という役割を見出した。ここで言葉は、ある人が別のある人にある立ち現われを与えて動かすという捉え方をされている。
大森の「ことだま」というのは非常に共感できる一方で、ここまで私が述べてきた論ではそのまま利用することはできない。というのも、私は大森のいうところの「立ち現われ」というのものを規定していない。大森の考え方は分類するならば現象主義的であり、知覚を中心としてそのものが「じかに立ち現われる」という部分を最重要視している考えのもとにある。この考えを、そのまま私の述べてきた実体としての世界の見方の上に展開することは難しい。
ただ一方で、私の考え方でも言葉というものがある実体に対してなんらかの形で作用するものだということは位置づけられる。そこで、大森の「動かす」というアイディアを借りつつ、私がここまで述べてきた論の上での言葉というものを探ってみたい。
まず最初に確認するべきなのは、この実体としての世界観の上において直接的に見出される言葉というのもなんらかの実体であるということである。たとえば声は大気の振動としてあり、空間のなかである実体をなしている。書かれている言葉もまた、インクであったり鉛筆の粉のまとまり——ある実体としてある場所に存在している。逆に、私という実体のなかで内省として使用されている言葉は、それ自体で実体ということよりも、私という実体のある状態とも見えるかもしれない。そのように考えてみると、少なくとも空間のなかにそれ自体で実体として存在し得る声や書かれた言葉というものもまた、実体であるがゆえに心でもある。
そして次に、また違った観点から大森の論への疑問を投げてみたい。たとえば、次のようなことを考えてみる:ある一人の人が、自身の非常に真剣な思いに突き動かされて、ある言葉を書いたとする。またある別の人が、全く何も考えることなしに、ある言葉を書いたとする。いまここに現れた言葉が、実は2つとも一字一句同じであるとしたら、その言葉の読者は、その言葉がどちらの人によるものかを見分けることは可能だろうか?
読者の側から答える。2つの言葉を見分けることはできない。なぜなら、それらは読者の目に映る段階ではどんな差異ももたないからである。また、作者の側からも答える。2つの言葉を見分けることはできない。いま作者が直面しているのは、自身の言葉と、それと全く同じ様子の言葉とが、ともに眼前に現れていて、どちらが自分の言葉であるかを言い当てるという状況である。これら言葉は、あくまでも差異がないのである。そうであるなら、たとえ自身がどちらかの言葉の作者であったとしても、どちらの言葉が自身の書いたものかを言い当てることはできない。もしくは、どちらも自身の書いた言葉と同じであると主張するしかできない。これは、作者にとっても作品を見分けることができないということと同義である。
これらが示すことは何か? ひとつは、作者という存在も、読解を行う際には読者と同じ状況に立たされることになるのだということである。そしてもうひとつは、そのような読解の場において、読者はその言葉を書いた時点での作者の心理的な状態を直接的に知ることはできないということである。このような例を考えてみると、書かれている言葉というものが実はその作者という実体(ないし心)やその状態とは全く無関係に実体として存在しうることがあるように思われる。このとき、「人」あるいはその「身振り」に宿るされる大森の「言葉」は、その人称性によって拒否されうるのではないだろうか。
ここまでの内容を踏まえて、言葉を聞いたり読んだりする場面を、もう一度注意深く考え直してみる。私はあなたから声をかけられる。あるいはあなたから手紙をもらう。そこで私は、あなたの言葉を聞き、言葉を読んでいる。着目すべきは、この言葉というものが実体であり、私はその実体としての言葉を聞いたり読んだりしているということではないだろうか。
つまりこのようなことである:人①が人②に直接声をかける場面を考える。そのとき起こっていることとしては、まず人①が作用aによって実体としての言葉を生成したのである。そして実体としての言葉は、作用bでもって人②と作用した。このとき、人②はあくまでも実体としての言葉から作用を受けている。そして同時に、人②は声以外の人①の作用c(たとえば視覚的な姿など)によって、先ほどの言葉という実体に人①という人称性を付加し得ている。
このように考えるのであれば、先の例のような状況も理解できるようになる。もしも作用bと作用cがなんらかの形で一致していれば、その言葉が誰のものかはわかるが、一致していなかった場合には誰のものなのかわからない状況が生まれる。また、ある人が言葉で言わんとしていたことと、それを聞いた人が捉えたこととが異なるということは、言葉というものがそれ自体で作用するがゆえにある人は言葉を使ってでは間接的にしか作用しえず、本当は行いたかったのとは違う形で作用してしまうこととなったのだと理解することも可能となるだろう。
また一方で、このような例も考えられるだろう:ある実体としての言葉があって、それが作用bを人②に行う。
ひとつ前の言葉の利用の構図から人①を消し去った形であるが、このように捉えられるとき、言葉を受けている人はそもそもその言葉を生成したであろう誰かの作用を受けることはできず、ただ言葉からの作用のみを受けるだろう。言葉のみの作用を受けるとするなら、もはやその人は言葉以上のことは何もわからないという状態になるのである。
内省としての言葉については詳細に考えられていないなど、極めて概観ではあるのだが、このように考えてみると実体としての世界観のなかでの言葉のあり方が見えてくる。言葉もまた実体であり、実体であるがゆえに心を持っている。この世界観で「言葉に心がある」というのはまさに「言葉が実体としてある」ということであり、それ以上でも以下でもない。
アニミズムへの復帰
いま、私を取り囲む根本的な世界とは実体の世界であり、そこでは何もかもが実体であるがゆえに心を持っている。
和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。
紀貫之「古今和歌集仮名序」(佐伯梅友校注『古今和歌集』(岩波文庫、2017年))
非常に乱暴な論と思われるだろうか。そのように私自身も思わないところもないのだが、しかし書き始める前に比べて、いくぶん視界は明るくなったように思う。
圧倒的なアニミズムの世界に私はいる。私は確かに実体としてここにあり、心があり、そして私とは無関係に、確かにこの世界は心にあふれている。あの花にも、あの蛙にも、コップにも、パソコンにも、かわいい我が家のぬいぐるみ達にも、歌にも、言葉にも、そしてあなたにも、私とは無関係に、世界の構造として心はあるのである。
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