「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌相互評第35回 阿部圭吾から本多真弓「バスがくる」へ

2019-03-01 03:22:06 | 短歌時評

作品 本多真弓「バスがくる」http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2019-02-02-19859.html

評者 阿部圭吾

「バスがくる」は、街の風景の回想とともに、変わっていく時代を見つめている主体をロードムービー的に描いた一連だ。それぞれの歌にどこか遠くを見つめるような主体の目線が通底しており、一連が滑らかに進んでいく。全体的に抒情性を保ちつつ、主体の身体感覚がリアリティを持って伝わってくる歌が多い。一首一首に描かれた情景はシンプルながらも、比喩や形容の仕方にたしかな手触りがあり、読んでいて自然と言葉が身体に流れてくるような安心感があった。ひらがなが多用されており、漢字による意味性が薄まる分、音そのものが心地よく響いてくるような歌たちだった。次に引いた冒頭の歌もひらがなを効果的に使った一首だ。

   こぬかあめこもれびこどもひかりつつ空から落ちてくるものは詩語

 連作の中で一番好きだったのがこの歌。こどもは(イメージとして受け入れられるものではあるが)本来空から落ちてくるものではない。しかしながら、こぬかあめ、こもれびといった空から光を伴って柔らかく降り注いでくるものと共に並べられることによって、こどももまるで空から落ちてくるものであるかのように読者に感じさせる。一首を読み下す際の下へ向かう視線の動きや、「こぬかあめこもれびこども」というK音の連続・543と短くなっていく韻律も、光が落ちてくるイメージをより強く印象付ける。ひらがなで単語を羅列することにより、言葉の意味がほどけながら主体のもとに落ちてくるイメージもある。それを詩語という捉え方をすることで、その言葉が持ちうる詩情を主体が感じ取り、掬い取っているような印象があった。私は歌に詩語という抽象的かつメタ的な意味をはらむ語を使うのは少しこわいと思ってしまうのだが、この歌の中では言葉がほどけながら落ちてきて詩になるような、言葉自体に詩情を見出す主体の言葉に対する目線が感じられた。

  神殿の名をもつ映画館ありき若きわたしのはるか渋谷に
  神殿は破壊されにき星を抱く五島プラネタリウムとともに


2003年に解体された東急文化会館(現在その跡地は渋谷ヒカリエ)の映画館、渋谷パンテオンを詠んだ二首。神の住居であり厳かなイメージがある神殿と、たくさんの人が暗闇の中で静かに映像に集中・没入し、時に感情を発露する場所である映画館は、どちらも異世界とつながる場所であるという点からも親和性が高いように感じた。描かれているのが渋谷パンテオンであるということを知らなくとも、「神殿の名をもつ映画館」という表現によりそのイメージは十分伝わるだろう。またこの歌では「若き」が「はるか」遠いことから、主体が自身を若くないと思っていることが示されており、この後の歌の「青年」「年下」「肩は凝る」といった言葉へとつながる。一連の中に幾度も描かれている主体自身の年齢の変化に対する意識も、この連作の一つのテーマだろう。
 下の歌も同様に渋谷パンテオンを詠んだ歌で、こちらは建物が解体された情景が描かれている。(ちなみに五島プラネタリウムは東急文化会館の最上階にあって、ビルの上部に半球状に飛び出していた。)
プラネタリウムの丸い形状を、「星を抱く」という言葉で表しているところに惹かれた。プラネタリウムを外から見た情景であることがこの表現から分かるし、何より神殿が破壊される/された様子を外側から見つめる主体像が浮かび上がってきて、破壊に対して見ていることしかできない、立ち入ることが出来ないどうしようもなさがここから伝わってくる。また、この歌では「映画館は破壊されにき」、ではなく「神殿は破壊されにき」、と書かれている。神殿が破壊されるというのは信仰者にとっては許しがたい、受け入れがたいものだろう。神殿の名をもつ映画館もプラネタリウムも、言ってしまえば作りものだ。しかしながら「神殿」、「星を抱く」と言いきることによって、主体にとってこの破壊が単なる一映画館の消滅ではなく、かけがえのないものの消滅だったということが伝わる。下の歌で映画館を神殿と表現したのは単なる省略や言い換えではなく、主体自身の記憶の中にある、もう戻ることのない映画館に対する、なにか信仰とも呼べるような感覚が表現されているのだろうと感じた。

  つるぎたちみにそはねどもまぼろしの春とギターを青年は負ふ

つるぎたち(剣太刀)は「身に添ふ」にかかる枕詞。つるぎたちの大きく長いイメージが「みにそはねども」という言葉で一度引き離され、その大きさ、長さのイメージが青年の背負っているギターと重なっていく。「まぼろしの春」の儚さは青春のイメージにもつながり、青年が持つ若さに対する一種の憧憬のような視線を感じる。

  気がつけば渋い感じの男優も崖より覗くごとく年下
  生首をのせてわたしの肩は凝るうごく歩道に乗らずに歩く


主体の身体感覚を詠んだ二首。「崖より覗くごとく」「生首をのせてわたしの肩は凝る」という表現から、主体の年齢の変化やそれに伴う身体感覚が生々しく伝わる。「渋い感じの男優」はいつの時代にもいて、生活の中でその年齢について考えることはあまりないことだと思う。ふと気が付いた自分の年齢と男優の年齢の差異から、「渋い感じ」という自分の感覚と自分の年齢との断絶を感じたのだと思う。崖の端にいるイメージが唐突に出てくることによって、断絶に気がついた瞬間の、急に年齢が上がったような感覚を読者に追体験させる。
下の歌は、自分の頭を生首という客観的な捉え方をしている視点が面白いと思った。本来であれば自分自身の生首を見ることはできないが、意識がどこか浮遊して自分自身を客観視するような目線があるからこそ、自分の頭を意識から切り離された物体として捉え、頭の重さが肩にかかっている感覚が捉えられる。「うごく歩道に乗らずに歩く」という行動から、自身が年齢を重ねること、またそれによる疲労感に対して悲観的ではなく、受け止めようとする主体の様子が伝わる。

   自裁した人の日記を本にした本の残りがあと数ページ

「自裁した人の日記」の本を読むとき、結末を知らずに読む読書とは違い、読者はのちに自裁することを知りながら本を読み進める。そして本を読んでいる間は、その人物が主体にとってはまだ生きているような気持ちになる。そのため、残りの数ページを読み切ってしまうということは、主体の世界で生きていたその人物が死んでしまうことを意味する。この本を読むとき、読者は否応なく死を意識するだろう。そして死を意識すると同時に、その日記を書いた人物がたしかに生きていたという生への意識も生まれる。本の最後の数ページは、死が限りなく近づき、生が限りなく希薄になってしまっている状態だろう。逃れようのない死がたしかに手の中にあることに、主体はどうしようもないやるせなさを感じているのかもしれない。「本にした本」というリフレインによって印象付けられる本という言葉からは、本来個人的なものである日記、そしてその人物の死が多くの人に読まれる本として流布し、自分の手の中にあることに対する戸惑いのような感覚があるのではないかと感じた。

   いちねんに二度くらゐあふともだちがひとりだけゐてわたしをささふ

日常の中で、ささいなこと・ものの存在に支えられる、救われるということはままあることだ。多くの人々は年齢を重ねるにつれて昔の友達、知り合いに会うことが少なくなるように思う。それと同時に友達と呼べる人を獲得する機会は、学生時代などに比べると格段に少なくなるのではないだろうか。社会的な立場を得ることによって、人間関係の中で人を友達である認識することが少なくなると思うからだ。(例えば会社で出遭う人たちのことは、仲が良くなったとしても友達というより同僚、同期といった認識の方が強いだろう。)この歌に描かれているともだちが昔の友達なのかは定かではないが、この主体は年に二度だけ会う人のことをともだちだと言いきる。距離が離れてしまってもそう呼べる関係性は、たしかな強度を持っていると思う。そのような関係性が持続していくことは、たとえひとりだけでも、生活の中に占める時間がわずかなものだとしても、主体を支えるのに十分な強さを持っているのだと思う。ひらがなの中に置かれた「二度」という回数も、離れすぎず近すぎない微妙な距離感が、主体の感覚に実感を生んでいる。この直前の自裁の歌を踏まえると、「わたしをささふ」という言葉がより切実なものに感じる。

  予告編(トレーラー)あへてみないでみる映画えいぐわみたあとみるくわんらんしや

 予告編をあえて見ないのはどういうときだろう。予告編はその映画を見るかどうか決める一つの判断基準になる。しかしながら予告編には、観客の興味を引くために物語の重要なシーンやモチーフを盛り込むことが多々あり、それゆえその場で初めて体験することによる衝撃や、映画への没入を阻害することがある。おそらく主体は見ることを心に決めた映画があり、余すことなく映画を味わいたいと思うからこそ予告編を見ないのだろう。映画に没入することは意識をどこか遠い別世界に移すような感覚があると思うのだが、「えいぐわみたあとみるくわんらんしや」には、映画を見た後の、意識がまだ遠くにあるような感覚が表れていると思う。観覧車を見上げる時の空の遠さ、ゆったりした観覧車の動き、それらを見つめる主体のぼんやりとした意識が、漢字をひらいたことによる意味性の薄まりと合わさって、この下の句で表現されている。

  海はわたしを待たないけれどどうしてもポートサイドへゆくバスがくる

最初に一連をロードムービー的、と書いたが、この歌は帰路の歌だと思って読んだ。一連の中では、生活のさまざまな場面から過ぎていく時間の流れに対する主体の目線が描かれていた。この最後の歌は、そういったどうしようもなく過ぎ去っていくものに対する、主体の思いが映し出されているのだろうと感じた。
一首の情景としてはシンプルで、ポートサイドゆきのバスがくるというだけだ。しかしながら、そこに主体の「海はわたしを待たない」という海への認識と、バスがくることに対する「どうしても」という意識が描かれることによって、自分の立場や感情に関わらずに進んでいくものに対して、置いけぼりにされたような感覚が伝わってくる。たとえ「わたし」が一つのバスに乗らない選択をしたとしても、バスは決められた時間にきて、決められた時間に人々を乗せて出発し続ける。生きている限り主体の生活は続いていき、そのためには今いる場所にい続けることはわけにはいかず、進んでいくしかない。そのようなどうしようもなさを、帰るためにポートサイドゆきのバスに乗らなければならないことと重ねて合わせているのではないだろうか。

タイトルにもなっているこの「バスがくる」という言葉に象徴されるように、一連からは過ぎ去ってしまう時間、進んでいく時間への諦めや過去への憧憬、それでも今生きている自分の生活を受け入れ歩んでいくことへの思いが感じられる。何かを諦めることと受け入れる感情は、表裏一体だ。諦めと受容、その間にあるとても微妙な感情を、丁寧に掬い取って手渡してくれるような連作だった。

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