最近、というわけでもないのだろうが、男性のみならず、女性の非正規労働の歌も様々なところで話題にされるようになった。もともと非正規雇用の労働者はたくさんいたが、特に問題なのはそのままでは将来的に暮らしを維持することに不安が生じる不本意の非正規労働者であるのだという。非正規労働者には、待遇に見合わない重い業務が任されることも、正職員とは異なった種類の単純な作業のみが任されることもあり、それぞれ、やりがいや体力の消耗、生活の質といったものに複雑に深くかかわっている。いずれにしても収入や身分は不安定で、定年まで働いて退職金を得て引退する、従来の<一般的な>日本の労働者とは全く在り方が違うが、そのような働き方をする者は多いばかりでなく、より過酷な労働はさらに条件の悪い外国人等にふられている、という現実もある。
一枚のFAX抱いて駆けて行く 字幕を作る 津波が来ると 北山あさひ(『崖にて』現代短歌社、2021)
駄目じゃない、テレビは駄目じゃない 腕をいっぱい伸ばし原稿渡す
ヘルメット、時計、ペン類、掲示板 撮るだけ撮ってだれも拾わず
夏薔薇はコンクリートに咲きあふるいのちに仕事も貯金もなくて
東京のように冷たく強く速く給料上げろと告げて来たりぬ
昨年の現代短歌新人賞の受賞者。マスコミ等のメディアや文筆業の分野ではフリーランスで働く者も多いが、作者は、病院でも契約社員の仕事をしていたようだ。歌集を読むと、短期のヨーロッパ留学も経験し、自由に生きているように見えるが、貯金の残高や年金なども歌の素材にされる。震災の折のテレビ局の様子の連作は圧巻、メディアの内部の様子や、被災者の立場とは違う視点で詠まれているのが読みごたえがある。
雪道で転んだわたし・駆け寄った事務室の人 ふたりはパート 山川藍(『いらっしゃい』角川書店、2018)
仕事いま三つしてると言えば皆「何を」も「なぜ」も聞かずに黙る
一寸はそもそもでかい三ミリに届かぬ虫は音もなく死ぬ
明日また来るねと話す冬服のわたしの日曜日の同僚へ 山川藍(合同歌集『ここでのこと』)ON READING、2021より)
正職員として働いていた販売職を退職し、アルバイトなどの仕事をしながら、再度正社員を目指した。その顛末をメインに歌集は編まれているが、「あとがき」によれば歌歴は長く、かなりの歌を歌集に入れずに捨てたという。表現が諧謔に彩られているので切実さはやわらげられているが、この先どうなっていくのだろう、とはらはらする。第二歌集以降も読みたいと思う。
非正規労働者ではなくても、なかなか大変な状況を詠いながら、身をもって時代を切り開く種類の歌群がある。かなり昔であれば、女性の生きづらさや窮屈さ、居場所の無い感覚や不本意さの歌といえば「厨歌」と分類されるような、家庭あるいは家社会の中でのそれと相場が決まっていてうんざりしていたが、景色がいくらか変わっているのだろうか。窮屈ではあっても自由になる金銭も余裕も多少はあるから、出版された歌集が残りやすいというのは、ありがたい。だが、生きていくに際しての危機感はさほど変わっていないように思える。現実の側がさらに追いうちをかけてこないかと少しだけ心配しながら、いろいろと読む。
さきくさの中途入社の同期たちはひとりもゐなくなつてしまつた 本多真弓(『猫は踏まずに』六花書林、2017)
わたくしはけふも会社にまゐります一匹たりとも猫は踏まずに
すなほなるきみとその身の労働が気づかぬうちに兵器をつくる
降水と言ひかへられる雨のごとくわたしは会社員をしてゐる
飄々と歌う。中途入社の同期たち。猫。踏んではいけないものが世の中にはあってそれは踏まないのが会社で生き残るための処世術、といった雰囲気が、かなしいながら参考になってしまうところが切ない。もちろん猫だってそれなりの理由があって存在しているのだが、会社という公的な場所に行く途中に猫が(しかも一匹ではない)横たわっていて踏んではいけないなんて。私だったらしっぽくらいは踏んでしまいそうだ。いやたぶん知らずに踏んでしまったこともあって、何だか理不尽なことがあったとしたらそのせいだったのかもしれない。「ねこごめんなさい」を歌ったほうがよいのかしら、と悩んだりしながら、正義などというものがどこにも存在しない廃墟に生きているかのような終末感を覚えてしまう。4首目の降水の歌、「会社員」のところには、別の何か(受付嬢でも警備員でも兵隊でも)、をおいても当てはまりそうなのが深い。
歌集の解説を、本多を「同僚」と呼ぶ岡井隆が書いているので紹介する。<働くことを「労働」と呼んで、そこに生き甲斐をかけたわたしどもの世代とも、それに叛旗をかかげて資本制を批判した世代とも違う。ユーモアを含みつつ「けふも会社へまゐります」というが、別段それを嫌ってるわけではない。『猫は踏まずに』のアイロニーがそれを示している。>
働くといふはひとつの終はりない物語されど詩からは遠い 山木礼子(『太陽の横』短歌研究社、2021)
習ひごとなにもやりたくないきみが抱きしめてゐる裸のうさぎ
通勤が週に一日まで減つて雨がふつても空は濡れない
「シンデレラ、十二時までは働いて。電車がなければ馬車で帰つて」
保育園に二人の幼い子供を預けて働く。歌集には仕事の歌より子育ての歌の方が多いが、立場が違えばわからない実情は多い。もっと詩的なものを求める読者も現実の出来事を読んでほしいと思う。幼い子供たちはもちろん歌人自身の子なのだが、固有名詞は出てこないし、読者が街の中や自身の周囲でみかけるごく一般的な子どもたちと母親の姿であるように読める。コロナの影響で在宅勤務が増えたり、残業が深夜まで続くと終電もなくなったり。馬車代=タクシー代も交通費として支給される職員は、おとぎ話の中で踊らされるお姫様なのだろうか。
職員室ドア踏み出せば工事中ほこりのなかに進路室見ゆ 佐藤理恵(『西日が穏やかですね』いりの舎、2012)
作者は公立学校の教員で、掲出歌は職場の改修工事のひとこま。トイレの改修工事の連作中の一首に、ほこりの中にくすむ進路指導室がたちあがる。歌集の出版は東日本大震災の直後、青少年の進路にとって大きな要因となる事象を多く抱える学校という職場を、保護者などの人物に対する皮肉を交えながら詠む。もちろん大人にだって、何歳になっても進む道はいろいろとあるが、中高生の進路を決める部屋となると、その存在自体が常に工事中のような、とても不可思議なもののように思えてくる。
サッカー選手の移籍と同じと取りあえず父母には告げる来年度のこと 大田美和(『葡萄の香り、噴水の匂い』北冬舎、2010)
お母さんなのに教授と驚くな二十世紀はもう終わったよ
確かブリジットフォンテーヌが、「19世紀は終わりました」と歌っていたと思う。この調子だと、「二十一世紀は終わりましたよ」と次の次の世代あたりの誰かがうたうのだろうなと少しうきうきする。
大田美和の問題意識は明確で、素材とされる事象に対しての態度もはっきりしている。職場にはもちろん様々な矛盾があるが、仕事といっても、知的な生産活動や教育を主とするから、歌人にとって生きがいあり、ライフワークとも言ってよいのだろう。社会の中では強者と言える大学教授、社会の中での生きづらさや窮屈さも、自身の価値観をもとにテーマとしているから安心して読める。筆者も長いこと非正規職員の仕事をしているので、歌を読んでいる時にまで強者の意地悪な態度に出会って嫌な思いをしたり劣等感を刺激されたくないし、短歌の抒情のルールに従ってしんみり共感してばかりいたいわけでもないから、この種類のすっきりした歌は好きだ。知的な(特に女性の)うたは面白くないと嫌われそうだけれども、私はもっと読みたいと思う。
あかねさすきみとまどろむ節電を励行してゐるKAWASAKI工場 大西久美子(『イーハトーブの数式』書肆侃侃房、2015)
保育所に逆もどりの春 作業着が技術屋女子のボディを隠す
一日を保育所で過ごすこどもと作業着で終日仕事をする現在の自分が、ふいに重なったのだろうか。歌集のタイトルにもある「イーハトーブ」は言うまでもなく宮沢賢治、歌人の故郷に由来する。歌集には、現実の仕事の場のリアルな歌よりも、独特の感性につかまれた現実の諸相が詩的に描かれる作品の方が多く、歌に使われる言葉には、数学や理系の専門用語が交る。
歌人や詩人にとっての「仕事」は、創作と大きくかかわってはいても、それを直截的な内容とするのとはまた違うものなのだろう。それはこの作者に限ったことではなく、そもそも歌人も詩人も扱っているのは社会そのものではないのだから、直接的な仕事の歌などは、生きる中でよじれながら発せられる作者の悲鳴のようなものなのかもしれない。なんだか世代も一巡して、ここまで来ると、そんなに働きたいのかみんな、と思ってしまう。そう、本当は誰も労働などしたくはなくて、権力や富を志向する一部の人や、社会のためになることを本当に考えて働く少数の人以外は、「人間生きることと働くことは不可分」などと自分を変に納得させながら生きているんじゃないかなあ、などと思い始めてしまう。余談だが、「保育園」は、現在でも児童福祉法においては「保育所」を正式名とし、<家庭の様々な事情により日中に子どもの保育をおこなえない場合、保護者に代わって保育する児童施設>とされている。親が働いている間、お友達といろいろなことをして一日を過ごす日々は楽しいし協調性を育むのだろうけれど、この時期には親の趣味で様々な習い事や早期のお勉強を進める子ども達と、<家庭の様々な事情により子どもの保育をおこなわずに>働くようなことはせずに暮らす人々というのもまた存在するのだ。
ところで、文学作品についてよく言われることに、「テキスト」と「作品」の差、ということがあり(80年代から流行したロラン・バルトです)、「テキスト」にはその作者の死が担保されなくてはならないのだという。一度世に出た作品は、読者は自由に解釈してよいし、作者は解釈や評価は読者に委ねて語ることは避けた方がよい、という程度の意味なのかなと思うが、短歌作品は「その背後に作者の顔が見える」表現なのだから、みんな、ちゃんと長生きして後日また自歌自註なども聞かせてね、などととぼけたことを言いたくなってしまう。
手元の歌集から少しだけ急いで掲出したが、仕事をしているたくさんの作者がその時間や労力、精神活動の多くを仕事に割いているに違いないにもかかわらず、仕事そのものを詠った歌は、そんなに多くはみあたらない。たぶん、見えない所にもっとたくさん存在するのだろうし、職場には守秘義務が課されていることもあるから「詠まれなかった歌」も、たくさんあるに違いない。あるいは洒落た表現の奥に隠されながら歌になったりしているのだろう。歌が作者の個人的な体験から派生しているのだとしても、作品から作者個人の生業や日常全体の姿を遡って見ようとすること自体、本来あるべき読者の態度とは違うし、大体不可能なのだ。境涯詠はかわいそう大会でも自慢大会でもないから、つくるほうの加減もまた難しいだろうなと思う。
だがひとつだけ確実に言えるのは、現実とは別の次元に存在する詩歌が、現実の中できしみ続ける様々な音を拾い上げて奏でつづけてくれるのは、とてもありがたいことだ、ということである。
(2022年文月)
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