「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌評 千の種を砂と律して丘は一つの創(きず)とならん 竹岡 一郎

2016-11-02 11:55:00 | 短歌時評
 千種創一の『砂丘律』は、久し振りに読み応えのある歌集だった。作者は中東在住。「この歌集が、光の下であなたに何度も読まれて、日焼けして、表紙も折れて、背表紙も割れて、砂のようにぼろぼろになって、いつの日か無になることを願う。」と後書きにある。特異にして簡易な装丁のことを差し引いても、読みようによっては大した自信だ。何度も読み返す歌集がそれほどあるとも思われない。しかし、読み込んでみて、作者の覚悟のほどは伝わって来た。「ほとんどの連作において事実ではなく真実を詠おうと努めた。」と後書きにある。だから、詠われる真実を読み解いてみようと思う。

 瓦斯燈を流砂のほとりに植えていき、そうだね、そこを街と呼ぼうか

 砂漠の瞑想というものがある。砂漠にテントが立ち、村となり、市場が出来、大路が通り、都市へと発展し、人口が増えて、繁栄を極める。やがて衰退し、人が減り、建物は崩れ、道も絶えて、元の砂漠に戻る。世界には実体がない、という真理を文明の発展と衰退の観点から観想するものであるが、この歌はその始まりのところを、瓦斯燈という少し洒落たモノによってノスタルジックに示している。

 三日月湖の描かれている古地図(ふるちず)をちぎり肺魚の餌にしている

 これもまた先の歌に連なるものだろう。かつてあった三日月湖が、今はない。砂漠のような地勢では繰り返し起こってきたことだ。肺魚は魚の進化形とも取れようが、水から上がらざるを得ない状況に追い込まれた挙句の、仕方ない変貌ともとれる。地勢の流転の一過程をとどめた古地図を肺魚に与えることにより、万物流転の理を肺魚に含ませているようだ。

 閉じられないノートのような砂浜が読め、とばかりに差し出されている

 やはり万物の理を読めと差し出されているように読める。砂浜は海に接する砂漠であり、いわば生と接している死と取れよう。それは閉じられない。なぜなら、あらゆる生々流転は繰り返すようでいて、実は一回性のものであり、無限に広がるノートだからだ。或いは砂の一粒ずつが、無限の個々の生死の一つずつなのかもしれぬ。

 高架下にふたりで埋める雨傘は、傘はそれほど進化しないし

 この傘の骨は、恋の骨、という感じがする。綺麗な骨であるが、骨であり終わったものであることに変わりはない。「高架下」に埋めるのは、多分、相合傘に使われた傘だろう。中学生、高校生の恋の始まりを担うような傘、それがそれほど進化しないのは、恋が古来よりその初々しさをあまり進化させないゆえだろう。進化しない代わりに衰退もしない。高架が進化し重層し、時に中途のまま終わり滅びてゆくのと対照的である。だが、ここで「高架下」を出すのは、やはり置き捨てられたような寂しさが、高架下という舞台で際立つからだと思う。始祖鳥は化石になってから翼を生やしたわけでもあるまいが、傘に関しては「それほど進化しない」との言葉が却って反語となり、傘は化石化してから進化するかもしれぬと思わせる。恋は終わってから、美化されるものだからだ。

 紫陽花の こころにけもの道がありそこでいまだに君をみかける

 紫陽花は七変化と呼ばれるようにその色を変えてゆく。一字明けによって、作者の思いは一旦紫陽花から飛躍して、絶えず移り変わる色を思索する。心もまた移り変わるものであり、けもの道のごとく有るか無きかの道を抱き、そこに未だに見かける君はやはり紫陽花のように絶えず色を変える。記憶の中の恋を懸命に肉化しているかのようだ。

 すすき梅雨、あなたが車列に降る雨をそう美しい名で呼んだこと

 「すすき梅雨」は俳句では季語で、秋霖の異名だ。芒の頃の長雨だが、「車列に降る雨」と設定することにより、雨自体が芒であるような錯覚が起こり、車列は芒の中に置き捨てられつつ走りつつあるような感を起こさせる。福島の立入禁止区域における、舗道に一列に置き捨てられたまま草に覆われてゆく車たちを思わせる。それは文明の唐突な終焉で、ここに詠われる「あなた」も或る透徹した視点で以って、現在の車列に滅びを見ているのか。美しいのは「すすき梅雨」なる呼び名だが、この「美しい」は意味としては「あなた」にも掛かっている。もっと言うなら、「あなた」の眼差しに。


 壜の塩、かつては海をやっていたこともわすれてきらきらである

 別に恋の歌ではないが、何となくその匂いが漂うのは、「わすれて」と「きらきら」のゆえだろうか。深読みしようとすれば出来なくはない。しかし、これは深読みせず、ただ素直に明るい地中海的な陽光を感じていれば良いと思う。と言うのも、次のような容赦ない歌もあるからだ。

 幸せにもいくつかあって、待て、これは塩湖のように渇きの水だ


 多分、殆どの幸せが飲めば飲むほど渇く水であろう。幸せ自体が既に苦を内蔵し、地獄と隣り合わせている。これもまた恋の歌なのだろうか。或いは縄につながれた犬がぐるぐる回るように、絶えず同じ境涯で欲望に渇きゆく状態が、そもそも恋であろうか。人間のあらゆる営みは恋であり、渇きであり、苦を内蔵し、地獄と隣り合っている。ならば、裏切り給え。恋を裏切り給え。恋する事、夢見る事、抒情というもの全てを。

 抒情とは裏切りだからあれは櫓だ櫻ではない咲かせない

抒情に抗しているのか、それとも抒情に与しているのか疑問だが、「咲かせない」とあるから、やはり抒情に刃向かっているのだろう。なぜなら、抒情自体の中に既に、真実から目を背け美化しようとする志向が内蔵されているからだ。その志向を「裏切り」と呼んでも良いだろう。桜は愛でるものであり、仰ぎ見るものであり、(櫻という旧字体を選んでいることからして)古典に寄りかかるものであると取るなら、櫓は見てくれでは無く、兎も角も漕ぎ出だすための物だ。作者は咲かせるよりも進みたいのだ。

 修辞とは鎧ではない 弓ひけばそのための筋(きん)、そのための骨(こつ)

 先の歌よりもっとあからさまに、歌の本質を攻勢のものと捉えている。鎧、つまり守勢のものではない。歌という攻め射かけるための弓、そのための筋骨としての修辞。良い益荒男ぶりである。益荒男とは見てくれで成るものではなく、そう成らなければ死ぬ、という必然性により成ってしまうものだ。
 歌集中には砂漠を行く歌群があり、死の傍らを歩む中でも、特に切実なのは次のようだろう。
 
 (口内炎を誰かが花に喩えてた)花を含んで砂漠を歩く
 生きて帰る 砂塵の幕を引きながら正確なUターンをきめる
 骨だった。駱駝の、だろうか。頂で楽器のように乾いていたな


 これらの歌は単純で情景明白である。肉体が絶えず死と枯渇に晒されているからだろう。砂漠の現実である以上に生の真実である。現実の状況を詠っているようで、実はタンハーという真実を詠っている。タンハーとは、「激しい渇き」というほどの意味で、三世の毒の一つ、渇愛とも貪とも訳されるが、或る意志が(例えば人間ならその魂が)存在する構成要件の一つであり、砂漠に水を欲するがごとき、欲望の激しい渇きを指す。このタンハー(貪)、ラーガ(炎、訳して瞋)、モーハ(暗黒、訳して痴)により、人間は盲目的な存在としての意志を持ち、長夜に輪廻して、苦の本質を見ることがない。一首目、花は実は炎症であり、苦痛の原因である。二首目、渇きの地獄の只中で立ち止まり顧みる。三首目、死の調べを聞き無常を聞く。砂漠という地獄に生まれ地獄に乳呑み育つ定めの駱駝の、死後の歌を。恐らく砂漠の民は絶えずそのようなあからさまな真実を体験し、だから水豊かな島国の民のような夢をあまり抱かない。中東でそのような人々に囲まれた作者が観た風景が次に示される。

 映像がわるいおかげで虐殺の現場のそれが緋鯉にみえる

 映像が悪いとは言い訳であろう。悪くなくったって、血泥の累積は緋鯉の鮮やかさに見えよう。映像を通してなら尚のこと、なぜなら匂いがしないからだ。そして人間は何にでも慣れる。どんな地獄の風景にも。慣れなければ死ぬだけだ。ここで肝に銘じなければならぬのは、現在の日本における平和が、歴史上稀有な異常な状態である事だ。鮮やかな死の匂いとは即ち血の匂いであって、血の匂いは兵を酔わせる。言い換えるなら血に酔う者こそが兵であって、つまり兵である間は地獄の使いである。平和な状況に置かれたとき、激しく後悔し、PTSDを発する者も居ようが、しかし人間とは本来、血に酔うのだ。或る兵が特殊なのではない。人間という生き物がそもそも同種族の血を欲する特殊な性癖を持つのだ。そう観想したときの、絶望。

 民衆は感謝をしない すり切れた地図はテープの光がつなぐ

 「民衆は感謝をしない」とは真実である。「鼓腹撃壌」の故事を思えば、「帝力何ぞ我に有らんや」と民が歌う時、世は太平なのだ。この故事を皮肉に読めば、民は太平な時にさえ権力者に感謝はしない。誰が帝であろうが俺の知ったことか、と歌うものだ。一方、地図における境界線は政治的なものだ。砂漠なら、紛争地帯なら、昨日の地図はもはや明日の地図ではない。歌の後半では何とか昨日の地図を保とうとする空しい努力が「テープの光」によって象徴される。テープに反射する光は、灼熱の太陽の、むごたらしく現実を照らし出す光であろう。だから、前半の皮肉な真実と後半の現実的な苦闘が一字明けによって対比される様は痛ましい。それは次の歌のような痛ましさとなっても詠われ、しかし珍しく権力の側の孤独だ。

 万歳の声が潮(うしほ)であつたときバルコン、今も、激しくひとり
 実弾はできれば使ふなといふ指示は砂上の小川のやうに途絶へる


 権力を称える潮であった歓声が、反乱の鬨となったとき、権力の激しい孤独に応じて、かつての理想はもはや砂上の小川なのだ。常にそういうものなのだ。反乱を弾圧する側からの視線をも含む現実が示される。ここで平和な日本との比較を考える。戦後の日本はある意味、理想的な社会主義的国家であって、虐げられる側=民衆=正義に対して、搾取する側=権力者=悪という、甚だ単純明快な二元対立の図式が一般に流布され、信じられ、それで適度のガス抜きも行われ、うまく機能してきた。それはこの歌に詠われるような状況から見れば、実に微笑ましい皮肉な平和であろう。作者は弾圧される側に立つのでもなければ、弾圧する側に立つのでもない。たとえどこに立っていようと、自らの正義などは信じていない。多分、二元対立のどちらかに立つのではなく、業というものを見ている。このような冷静な視点が、日本の詩歌の抒情性において詠われることは稀である。

 この歳になつても慣れない。絨毯のやうに平たく死んでゐる犬

 前半に「この歳になつても慣れない」と言い訳が置かれているのはなぜだろう。慣れる筈だ。犬ならば。子供の頃、車に何か月も轢かれ続けている犬を見たことがある。登下校の折、通学路でいつもその犬を見ていた。正確には犬であった物体だ。犬はだんだん平たくなり、肉は啄まれ、毛皮は塵と散り、最後は二三片の骨だけとなって、その骨片はいつまでもアスファルトに食い込んでいたものだ。それは風景の一部であり、誰も気に留めなかった。見る側は人間であり、平たくなるのは犬という、人間ではない生物であったから、慣れる。だから、ここで詠われている「」は、もしかすると犬ではない。多分、戦車に轢かれたのだろう、平たくなったモノは犬のように見えるが、実は人であっても不思議ではない。紛争地帯では珍しい風景ではなかろう。

 西側に落ちて山ごと揺らした。祝砲ぢやないよなと君は嘲つた
 君の横顔が一瞬(しつかりしろ)防弾ガラスを月がよぎれば


 平たくなった犬に慣れた人の感慨なのだと思う。そのように慣れなければ生きてゆけない人の。爆弾を祝砲に喩えて皮肉り、月のように揺るぎない横顔を持つ、そう有らなければ、その人は砂と崩れてしまう。

 オリーヴの葉裏は鈍い剣のいろ 反権力を言へば文化人かよ

 オリーヴの起源はシリアともいわれ、エジプト文明やクレタ文明においては日常不可欠のものであったという。貨幣としての価値もあったということは、文明社会の流通性を担っていたとも取れる。オリーヴは平和の象徴であり、ノアの箱舟に鳩が持ち帰ったのはオリーヴの小枝であることから、息災の兆しでもある。オリーヴは単に平和の象徴というだけではなく、永続する平和な社会への切望そして手段とも読める。そのオリーヴの葉裏を鈍い剣の色と観たのなら、これは人間社会の平和なるものが、良い悪いとは別に、必ず武力に支えられざるを得ないという真実を暗示しているのだ。この歌における一字空けは、二つの異なる世界の対比を示しているのではないか。即ち、前半は中東の苛烈な現実である。後半は日本の呑気な現実である。
 
 展望のない革命(反乱)は反乱だ むかうに鶏頭、妖しく、有害

 革命に「反乱」というルビを振ったところが出色。ここで留意すべきは中東における「革命」の概念と、日本における「革命」の概念は違うということだ。中東の革命には、神は欠くことが出来ない。戦後の日本で革命といえば、まず共産主義革命が思い浮かぶ。無神論者の革命であり、現世しか信じない者の革命である。画餅としての儚さ脆さ甘さ美しさが、日本語の「革命」という語に投影される所以である。その「革命」に、ここ七十年まつわる異臭を作者が意識していない筈はないからこそ、鶏頭という何よりもまず赤いふてぶてしい花が置かれるのだろう。

 垂れてくるソフトクリーム 僕たちは国を愛することを憎んで

 この僕たちはソフトクリームを持っているのだろうから、平和な日本の僕たちだ。ソフトクリームは垂れてくる。崩壊してゆく。その対比として、「国を愛することを憎んで」なる文が置かれている。ここでもまた一字空けが用いられる。ソフトクリーム、甘い現実をゆっくりと崩壊させてゆくのは、僕たちの呑気な正義だ。
 今挙げた三つの歌はあからさまな批判であると読まざるを得ない。中東の現実との対比として、恐らく日本の文化人の現状が批判されている。これはかなり勇気の要る事である。次のような歌もその延長として読まざるを得ない。

 御屋敷の壁を曲がればその先はうつくしき行き止まりであろう

 御屋敷を古き良き、一見調和していた世界と観、曲がり角を歴史のそれと観れば、御屋敷の壁に沿っている限り、行き止まりに決まっているのだが、それを認めるには気概が要る。必要なのは、どんな夢も抱かずに容赦なく見る事だろう。如何なる理想も革命も正義も懐古も抱かずに見る事。

 たおれつつ目に焼き付いた地平線 まただ、余計な凸凹がある
 そもそもが奪って生きる僕たちは夜に笑顔で牛などを焼く
 幾重にも重なる闇を内包しキャベツ、僕らはつねに前夜だ
 指こそは悪の根源 何度でも一本の冬ばらが摘まれて


 幾度も斃れ、生き変わり死に変わってはまた斃れ、まだ地平は平らにならない。余計な凸凹、執着や復讐や怨念や正義や夢や理想がある。凸凹は随分僅かになってきたようにも見える。だが、まだ余計なモノがある。この斃れにおいても、まだ人間を超えられない。己が悪の形状を、指の腹に刻むが如く弄り回し、指の神経に記憶させ、悪を裁かず誤魔化さず、只有るとみて、笑顔で牛を焼く時にも、肉塊を血と共に彩っている牛のたましいを聞きつつ、尚も砂上の己が生を一日延ばすために、牛の末期の絶望を貪り食う。砂のごとき闇であった。前の生も、その前の生も、幾重にも闇であって、この生も未だ闇であり、だが前夜である。革命のか。正義のか。如何なる不明瞭さと不信に満ちている前夜なのか。どこまでも容赦なく明快に観るための、その暁の光を、常に阻んでいる前夜なのか。僕らは。僕ではなく、僕ら、とは何だろう。危機に際してはあっけなく霧散する、連帯感という雰囲気を差し引いて考えたとしても、例えば砂漠の上に呼吸している者が自分一人だけだとしても、確かに、僕ら、であろう。なぜなら、僕というたましいは、一人ではない。独立した個体ではない。幾重もの生霊死霊の断片から構成されている処の、或る仮の境界線を持つ領域に過ぎず、かつてミリンダ王が問うたように、丁度一個の馬車が、車輪や天蓋や柱や床や軛などから構成され、そのどれをも馬車と認識することが出来ないように、僕、とは様々な渇きや炎や暗黒から成る集合体に過ぎない。指こそが悪の根源ならば、世界に触れ、弄り、愛憎するために伸ばされる指こそが、渇きであり炎であり暗黒であるのか。それとも、よく己が悪の形状を知る者は、己が深淵を盲人の如く指もて探り、指もて這わせしめるが為に、指に、悪の上澄みが匂うのか。明快に観る手始めとして、つつましい香りとつつましい快楽の冬薔薇を、つつましく一枝折る時、何度でも己が悪を認識すること。一本の冬薔薇が、牛の屠られ喰らわれる如く、犬または人が轢き潰される如く、無限の回数を摘まれると観想して。

 朝までにボートが戻らなかったら白い喇叭はこなごなにして
 燃えながら燃やす炭火はおごそかな木の終り、そのように生きたい
 砂の柱にいつかなりたい 心臓でわかる、やや加速したのが
 見事 むしろ 花束のたえない、お出で、たえない町だ 花束


 前の二首は明確にして悲愴な意志表明である。水による、炎による贖罪、或いは特別攻撃。黙示録の喇叭は白光がそう見えるだけかもしれず、炭の暗黒は光の塊かもしれぬ。後の二首においては、手探りで自身の思考の外へ出ようとしている観がある。私としては後の二首の突出した感触に惹かれる。いつ砂と崩れても良い志、ロトの妻は文明の破滅を観察しようとして塩の柱と化したが、たとえ自ら砂の柱となっても観ようとする志か、そこへ向かって、微妙に加速してゆく一方で、町は、人の住む世界は、やはり花が絶えぬと見えるのか、その花がたとえ炎症であったとしても。後の二首の突き抜けた感じは、前二首の覚悟の上に、初めて成り立つものだろう。

※引用中の「(口内炎を誰かが花に喩えてた)花を含んで砂漠を歩く」「君の横顔が一瞬(しつかりしろ)防弾ガラスを月がよぎれば」以外の丸括弧はルビ。

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