オンライン会議を使うことが増えた。
歌会や短歌講座や同人誌の準備会議は半分以上オンラインでやっている。ZoomかGoogle Meetというソフトウエアを使うことが多いけれど、ほかにもいくつかソフトがあってそれぞれ設定の仕方がすこしずつ違う。
そういうソフトでマイクがきちんとつながっているか、ひとりで事前にテストをすることがある。Zoomだと「マイクのテスト」をクリックして、何か話す。この時、なにを話そうとすこし悩む。
だいたい「こんにちは」とか「テストテスト」とか言ってみるけれど、音声テストとしてはすこし短くてもうすこし長いフレーズを話したいと思うし、数秒後にテストのためにソフトウエアがわたしの声を再生するときに、「こんにちは」とか「テストテスト」とかの自分の声を聞くとなぜかとても恥ずかしくなる。
そんなとき、机の横にあった『赤光』の岩波文庫を手に取って、偶然開いたページにある歌を2首くらい朗読した。
真夏の日てりかがよへり渚にはくれなゐの玉ぬれてゐるかな
海の香は山ふかき国に生まれたる我のこころに染まんとすらん
センテンスの長さもちょうどよいし、再生テストで流れてくる自分の声も歌がよいせいかなんだか立派に聞こえる。しかし、それだけでなく、音読してみると、『赤光』の歌のよさ(いまさらだけれど)が身体的に感じられた。
自分で歌をつくっているとは「ごにょごにょ」と声に出して推敲するし、歌会に出て参加者の詠草を朗読して評をいうこともよくあるけれど、古典的な短歌を朗読する機会は実はあまりなかったことに気づく。
テキストを黙読することとそれを音読することが大きく違うのはよく言われることだけれど古典を音読してそれが強く感じられた。
それから、『赤光』の歌を音読してみる。そこでもうひとつ気づいたのだけど、自分の声がソフトウエアによって再生される過程というのも効果を発揮していると思う。だから、マイクのテストとは関係ないのだけれど、『赤光』を音読しながらマイクのテストを続けている。
深夜ラジオをファンの人が書き起こしているサイトがあって、内容を知るにはそれでも十分だけれど、実際の音声を聞くのとはきっと大きな違いがあると思う。戯曲や台本を黙読するのと上演が違うのときっと同類なのだろう。
短歌は黙読を前提としているのか音読を前提としているのか、ということを改めて思う。黙読して心打つ短歌はたくさんあるけれど、音読してみてわかる短歌もあるのだろうと思った。
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