「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評alpha(3) 権威主義的な詩客 中島 裕介

2019-04-22 02:23:43 | 短歌時評

2.「ミューズ」発言に関連して 2
(1)議論の前提共有 2
(2)想定される反論 3
3.「配慮」と「炎上」について(質疑応答) 4
(1)「加藤が欠いていた配慮とは、『炎上しないように気をつける』配慮だったのか?」 4
(2)「時評の文章(も、場合によってはこの文章も)は上から目線になっていないか。自分を正義の側においていないか」 6
(3)「ハラスメントではないのか」 7
4.「権力」はないのか 8
(1)権力に対する二重三重の誤り 8
(2)問いかけによる忖度への誘導 9
(3)「権力、即、悪」ではない 11
(4)補遺:配慮や想像力の欠如による分断 11
5.ではなにが必要だったか(予定) 12


(以下、敬称略)
長いので、目次をベースに関心のあるところから読んでいただければ幸いである。

1.はじめに


 本件特集を企画し、招いてくださった物部鳥奈に心からの敬意と感謝を申し上げる。
 他方、本件特集のタイトルや内容に干渉した詩歌梁山泊代表・森川雅美と、それに賛同した加藤治郎には猛省を促したい。加藤がいくら詩客の短歌部門の顧問であろうと、加藤が(それも肯定的ではない切り口で)題材となる特集への寄稿者のタイトルに、森川から「個人名や『ミューズ』という名詞を書くな」と制限をかけるとは言語道断である。森川や加藤は「他人に迷惑をかけたくない」と言っているらしいが、それなら最初から加藤が責任の負えない発言(ツイート)をすべきではない。事の発端は加藤にあり、その責任を本特集の記事の執筆者が負うのは全く奇怪だ。また、森川の忖度を受け入れた加藤も同様である。
 加藤・森川の両名は文芸を、政治的・権威主義的に扱い、詩客寄稿者の言論の自由、表現の自由を阻害している。加藤や森川の口出しが受け入れられるならば、現実社会の「政治家への忖度」も「お手盛り」も、どんな不公正でも許されそうなものだ。詩客がこんな不公正のまかりとおる場であるならば、こちらは真っ平御免である。さっさと潰していただいて、他の皆で新しい場を作ろう。せめて本稿が、加藤や森川によって手を入れられることなく掲載されることを願う(なお、両名が本稿に手を入れたならば当然、相応の指摘と闘争をさせていただく)。

「ミューズ」問題は、権威主義という氷山の、水面から出た一角に過ぎない。こういう無自覚な振る舞いが権威主義的だと指摘されたことが、加藤は現時点でもなお、本質的に理解できていないようである。

 なお、「理解できていないようである」と判断する、直近の簡単な事例がこれだ。
中島が書いた「短歌研究」2019年4月号時評に対する、3月20日付けでの加藤のコメントである。
https://twitter.com/jiro57/status/1108347599474417665
>>
こんにちは
拝読しました

フェアな論考です
私は、ここから全力、全速力で出発します
<<
 なるほど、お読みいただいたことには感謝しよう。しかし、当該時評では加藤を問題の当事者として「配慮が足りなかった」と述べている。自らが当事者である記事を指して、他人事のような「フェア」という評価をくだすとは何事か。当人にとって「参考になった」というならば対等な論者として理解できるが、本当に問題の所在を理解し、改善に向かっているならば、「フェア」という評言を用いるのが妥当な状況にないとわかるはずだ。
(なお、4月1日時点で、Twitterにおける、加藤からの中島に対するフォローは解除されている。Twitterのフォロー/アンフォローは好きになさればよいが、どうも加藤の「全力、全速力」には中島の発言は無用のようだ。相手に響かない文章をわざわざ紡ぐことに強い徒労感を感じるが、仕方がない。こちらも遠慮なく述べさせていただく。)
 本稿では、「ミューズ」発言に付随する諸問題の検討と、「ミューズ」発言の後の加藤の発言への批判を行う。

 

2.「ミューズ」発言に関連して

(1)議論の前提共有
「ミューズ」発言の初出ツイートに対する問題点は、「短歌研究」2019年4月号時評に8点挙げておいた。引用しておく。
>>
1.水原に対して「ミューズ」という語を用いたこと
2.1により、短歌におけるニューウェーブは(「女性歌人はいないのか」という文面に対し)女性を含まないと示唆していること
3.大塚を「地方都市の男」と断じていること。
4.大塚が水原紫苑に「イチコロだった」、すなわち何らかの好意を抱いていたと断じていること
5.4を、大塚自身ではなく、第三者である加藤が(真実か否かは別にして)記述したこと
6.地方出身者は(東京=中央に行って「免疫」をつけない限り)好意を抱きやすい、と考えていること
7.6を通じて、中央と地方の〈権力-従属〉的関係を再強化していること
8.加藤が著作権を持たない画像を公に送信したこと
<<

「ミューズ」発言の問題点については、私の時評のほか、川野芽生による「現代短歌」2019年4月号時評や、佐々木遥によるツイート( https://twitter.com/sucrehecacha17/status/1097061288352436224 )が優れた整理となっている。また、本件を検討する上で、北村早紀による「現代短歌」2018年8月号の時評、テクスチュアル・ハラスメント裁判(高原英理によるレポートが分かりやすい http://inherzone.org/FDI/mr_takahara_contents1.html )や昨今のバイトテロ事件などは参考になる。
 加藤の「ミューズ」発言については擁護のしようがない。明らかに配慮を欠いている。

(2)想定される反論
 加藤の「ミューズ」発言の、擁護者からありうる立論はおそらくこうだ――「昔は問題なかった言葉なのだから仕方ない」あるいは「当時を振り返っての記述なのだから、今、用いることは許されるべきだ」と。否、どっちもアウトである。控えめに言っても、現時点で必要な説明や留保が決定的に不足している。
「昔は問題なかった」のは、昔の話だ。いや、むしろ、当時は当時で、問題だと感じ取られていたかも知れないのに、声が上がらなかっただけかもしれない。加藤が「『短歌往来』の記事・ニューウェーブ歌人メモワールのために、当時を振り返っている」のは、今だ。言葉の意味も状況も変わる。
 ましてや、権力論であれ、ジェンダー論であれ、シュルレアリストたちの「ミューズ」観への批判であれ、もう何十年も前に発表された論・思想である。もちろん、なんでもかんでもキャッチアップできるほど、現代の情報量は少なくない。しかし、己の言動について「問題がある」と指摘を受けた後で、その問題について本質的に捉えず、適切に対処もしないのであれば、あるいは、思想をアップデートしないというのであれば、加藤や本件の擁護者がいかに優れた作品を残した歌人であろうと、文芸の第一線からは退かれることを心よりお勧めする。
また、「加藤自身にとっては大切な思い出なのだからそのまま書かれるのは仕方ない」というならば、大切な思い出を自らの裡に秘めておくべきだった。Twitterに書き込むリスクを理解すべきだった。

 あり得そうな反論のうち、論外のものは「加藤だから(これまでの実績があるから、年長だから、歌人だから、選者だから、そういう世代だから、ああいう人柄だから、などなど)許されるべき」という、個人名あるいはその属性をもって免罪しようとするものだ。そういう擁護を述べる者が一人でもいるのだとしたら、私は深く嘆く(2月時点ですでに見かけたので深く嘆いている)。言動と人格の区別がつかない者は、言語芸術に関わらないほうが当人にとっても幸せなのではないか。言動と人格は――個人の中では深く関わっている可能性があるが、だからこそ、社会の中で、あるいは他人が誰かの言動について考えるときには――きっぱりと分け、その上で、人格ではなく、問題ある言動を批判すべきだ。

 

3.「配慮」と「炎上」について(質疑応答)


「短歌研究」4月号時評について、いくつかご質問をいただいた。同様の疑問をもたれる方もあるだろうから、こちらでも回答を整理しておく。

(1)「加藤が欠いていた配慮とは、『炎上しないように気をつける』配慮だったのか?」
結論から述べれば、「正確に言うならば『否』。炎上するかしないかが判断基準になるべきではない。ただし、本来沿うべき倫理的規範が分からない場合には、炎上しないよう行動することも現実的には視野にいれるべき」である。

 まず、「配慮」とは何かを見ておこう。今回のケースにおいて本来的には、
①加藤が水原紫苑や大塚寅彦という個人(その個人が歌人であるか否かは関わらない)に対して配慮すること
②加藤が文芸や社会全体、その歴史に対して配慮すること
③加藤が読者=Twitterのフォロアーに対して配慮すること
の3つの配慮基準があり、第一義的には①や②について配慮すべきだったと考える。

 次に、「配慮を欠いた」とはいかなる事態なのか。2に再掲した問題8点のうち、問題点1及び2については上述の配慮基準②に、問題点3~6については①に、問題点7・8については③に関わる(正確に言えば8はただの法律問題なのだが、問題を単純化するため、ひとまずこう区分しておこう)。
 問題点1及び2について「配慮する」とは、「現今の文芸や社会全体、その歴史に一定程度の理解をし、その倫理的基準に沿って自身の言動や考え方を適宜修正し、適切に行動すること」といえるだろうか。逆に「配慮を欠く」とは「文芸や社会全体、その歴史について理解をしていない場合」「倫理的基準が分からない場合」「言動や考え方を修正していない場合」「適切でない行動をとる場合」のいずれかに当てはまる場合をいう。
 少しブレイクダウンして書いてみると、
 ・「文芸や社会全体、その歴史について理解をしていない場合」:
 元々、ヒトがヒトとして尊重されるべき諸点(私は、大きな括りとしては「先天的諸条件(condition)と、後天的意志」と理解している)が尊重されない状況になるのは、いついかなるときでも問題であることが理解できていない場合(たとえば、性差別やMeToo運動についていえば、積極的に問題を指摘できる環境が整いつつある現在はもちろんのことであるが、当時においても表面化していなかっただけで「問題でなかった」わけではない)。
 ・「倫理的基準が分からない場合」:
 ヒトがヒトとして尊重されない状況が問題であることや、その状況をどのような言動がもたらすのか、当人が認識していない場合。
 ・「言動や考え方を修正していない場合」:
(問題を認識しているとしても)ヒトがヒトとして尊重されるためにどのような言動や考え方をすべきか、自身を省みることをしていないこと。
 ・「適切でない行動をとる場合」:
(問題を認識し、自身を省みているとしても、そうでないとしても)ヒトがヒトとして尊重されないような状況を生み出す言動をしてしまうこと。
 というあたりだろうか。
 問題点3~6については究極的には、加藤と、水原や大塚との、ネットを介した直接のハラスメント(後で詳述する)であり、他人が口を出すべき段階に至る前に当事者間で謝罪等のやり取りが行われるべきものである。
 問題点7や8は、問題点3~6に加えて、配慮基準①だけでなく③にも関わるもので、Twitterという〈公の場〉で述べたことで、結果的に配慮を欠いた=③の配慮基準に反したと考えられる。つまり、件のツイートに関し、問題点3~6は究極的には加藤と水原/大塚の人間関係の問題であることは承知することができるものの、それでも読者・フォロアーは問題点3~6について「もしわたしが水原や大塚だったら、嫌な思いになる」と、問題点7について「地方出身者はみな洗練されていないというのか」と、想像したであろう。そして、加藤の書き振りが、大塚個人の内面や性格に対して断定的に(乱暴に)語るものであったため、同様の目線が加藤から(そして、加藤以外の者からも)向けられるのではないか、という恐怖を、読者・フォロアーに招いた。
 配慮基準③に反したことで、第三者である読者・フォロアーに生まれた恐怖や反発は、①や②について十分配慮できていたならばおそらく生じなかったか、生じたとしてももっと穏やかに済んだだろう。その点で、「炎上するかどうか」が判断基準なのではなく「水原や大塚に対して失礼ではないか、文芸の社会や歴史の理解が適切にアップデートされているか」が考えられていれば十分に避けられた。

 ここまでの点を、①~③の配慮基準にあわせて、単純化に努めて整理すると
①水原や大塚に対して、個人の内面を暴力的に述べたことについて
②昨今の、文芸におけるジェンダーや権威の諸問題、社会におけるMeToo運動に対して、 適切に理解を推し進めていなかったこと、あるいは理解していたとしてもその理解に基づく言動を実行できなかったことについて
③①や②が、ひいては、誰に対しても、暴力的言動や、他者に理解のない言動をする 可能性を示してしまったことについて
という点において、加藤の「ミューズ」発言は問題だったのである。

 他方、もし加藤が、有り体にいえば「何が問題か分からない」ならば、「炎上しないようにすることが配慮」するほうが「(言動として、まだ)マシ」だ。
 先ほど、参照事例として「バイトテロ」を挙げたが、今回の加藤発言にあわせて考えれば、「撮影の有無にかかわらず、バイト先でいたずらしないのは当然であるが、仮にバイト先でいたずらしたとしても、ネットに投稿してはいけないと判断するほうがマシ」なのである。問題あるツイートを投稿した時点で、ネットリテラシーに欠ける。バイトテロを起こした若者が「友達とシェアしたかっただけで、自分のツイートが他人に見られるとは思っていなかった」というのと、加藤が「短歌往来での連載『ニューウェーブ短歌メモワール』のための備忘だった」というのと何が違うというのか。結局、オープンな場に投げかけることの意味の理解と、その際の自律も足りなかったのである。
(加藤が本当に「Twitterという場のリスクを知っている」ならばこうはならなかったのではないか( https://twitter.com/jiro57/status/1097283925418827776 参照))

 ただし、これは一般論であるが、炎上を恐れることのみを配慮基準とするのは間違っている。誰であれ、悪質な魔女裁判のような、見当違いの指弾にまで屈する必要はない。配慮すべき事柄、すなわち、ヒトがヒトとして尊重されるべき諸点――尊厳を、しかるべく尊重しているか否かが肝要である。
 その上で、加藤の「ミューズ」発言、その後のツイート、そして、本特集への介入のいずれもがヒトとしての尊厳、あるいは文筆に携わる者の尊厳を損なっていると私は判断している。


(2)「時評の文章(も、場合によってはこの文章も)は上から目線になっていないか。自分を正義の側においていないか」

 加藤の「配慮を欠いていた」点は、個人的なレベルから文芸や社会全般に関わるレベルにまで、広範囲に至っているが、なるほど、確かに私が直接の被害を受けたわけではない。直接の当事者でない立場から、それでもなお声を上げることが「上から目線になる」というならば、私は別に何といわれようと仕方がない。
 また、「短歌研究」時評においても本稿においても、私は加藤の言動について「正しい」「正しくない」「良い」「悪い」「間違っている」といった表現を一度も用いていない。私自身は「加藤の言動が正しいか否か」が問題の本質だと考えておらず、正義の立場から断定・断罪する意図もない(「正義でない」と断定するならば「正義」の定義・基準が必要だ)。私の人生や言動が品行方正・公明正大だとは全く思っていないし、指摘を受けなかっただけで、「ミューズ」以上にひどい発言を私がしてきた可能性も十分にある(私がものを書くときに自戒や告白とセットじゃないと「上から目線」になってしまうなら、紙幅の決まった記事では、自戒や告白だけで終わってしまうだろう。それくらいの自覚はある。その意味では、私にものを書く資格はそもそもないのかもしれない)。それでも、今は、明らかに客観的に書かれたテクストに則って、「加藤の書いたテクストが他人の尊厳に立ち入っている」と指摘するのみである。
 他人に、己の尊厳へと踏み込まれた者はその場で直接声を上げることができないことがある。今回は、文筆に携わる者の、ましてやその中でも一定以上の知名度を有する者による発言が問題となっている。ならば、私は私自身の身を省み、かつての言動の数々を恥じながら、それでもなお、ささやかながら文芸に携わる者として問題を指摘するほうが公益に適う、と信じる。ましてや私は、(みなさん、ご存じないだろうが)第1回歌葉新人賞で加藤に推されて人に多少知られるようになり、加藤に誘われて未来短歌会に属している。そのような経緯があるからこそ、加藤の、問題ある言動に対して私は誰よりも手を抜いてはならないのだ(そして、そうするだけの憤りが私のなかにある)。
 それでもなお、自分を正義の側に置いているのではないのか、といわれるならば、不徳と文章技術不足の致すところである。己の不明を恥じつつ、私の意図が論拠にならないことを理解した上で、それでも「自らを正義の側に置くつもりはない」と繰り返して宣言しよう。


(3)「ハラスメントではないのか」
 私はこういった社会科学やその実務に関する専門家ではない。あくまで〈素人の私見〉であるが、本件の整理のために述べれば、「厳密な意味におけるハラスメントに当てはまるとは指摘できないが、本件を考える上で十分参考になる」と理解している。

 様々なハラスメント一般に対する「他者に対する発言・行動等が本人の意図には関係なく、相手を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」( https://www.osaka-med.ac.jp/deps/jinji/harassment/definition.htm )という大阪医科大学ハラスメント等防止委員会の定義は分かりやすい。また、こちらは職場におけるパワーハラスメントに対する定義だが、厚生労働省雇用環境・均等局の「職場のパワーハラスメントの概念について」( https://www.mhlw.go.jp/content/11909500/000366276.pdf )においては「1優越的関係に基づいて(優位性を背景に)行われること、2業務の適正な範囲を超えて行われること、3身体的若しくは精神的な苦痛を与えること、又は就業環境を害すること」とある。
 本件にあてはめて考えれば、前者は「水原や大塚を不快にさせたり、尊厳を傷つけたり、不利益を与えたり、脅威を与えること」を指すことになろう。私からは水原や大塚に対してインタビュー等を行っていないので、私にとっては明確ではないが、水原や大塚が「不快になった」と訴え出るならばハラスメントに該当する、と言い得えそうだ。他方、後者に基づけば、加藤と水原と大塚の間に優越的関係を認めるのは難しいため、厚生労働省の考えるパワーハラスメントを援用した考え方からするとハラスメントとは考えがたい。
(なお、余談めくが、短歌結社において、1選者に優越的関係を認め、2業務の適正な範囲が明確であるならば、業務の適正な範囲を超えて身体的若しくは精神的な苦痛を与える事態をパワーハラスメントだと認めることができるであろう。ただし、結社におけるハラスメントが実質的に存在するとしても表立っては見えないように(存在しないことに)なってしまうのは、組織の存在目的や「業務の適正な範囲」が明確でないからだ。つまり、結社という組織そのものの目的や、結社に入る個人の(結社から与えられる)メリット、そこでなすべき事柄が明確でない限り、結社でのパワハラは明らかになりにくく、その存在を客観的に指摘するのが困難になる。この点は、昨年の現代短歌評論賞の論題、及び私の落選作の課題設定にも通じるのだが……)

 ハラスメントよりやや広い視点、「人権侵害」から考えてみよう。たとえば「世界人権宣言」(外務省訳 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/udhr/1b_001.html )第二条第一項には次のように示されている。
>>
すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる。
<<
「人権」概念に即して、その侵害の有無を考えると、水原の場合には「性」、大塚の場合には「国民的若しくは社会的出身」について、加藤から差別的な言動を受けた、と見なしうるかもしれない。

「名誉毀損」という観点からも念のため検討しておこう。弁護士ドットコムの説明( https://business.bengo4.com/practices/931 )によれば名誉毀損とは「他人の名声や信用といった人格的価値について社会から受ける評価を違法に低下させること」であるという。また、名誉毀損の成立要件は「社会的評価の低下」と「違法性が否定されないこと」であるという。今回のケースに当てはめて考えれば、「違法性が否定されない」範囲で、(特に大塚について)「社会的評価を低下させた」と言い得そうだ。

 以上、ハラスメント、人権侵害及び名誉毀損の3つの観点から検討した。いずれについても、直接的に当てはめることはできない(また、私がそうするのは適切ではない)のだが、考え方を整理する上で参考になるだろう。

 

4.「権力」はないのか


(1)権力に対する二重三重の誤り
 加藤は「ミューズ」発言に対する反省の過程で、問題を〈延焼〉させている。次のツイートが典型的だ。

>>
権力なんてないよ
少なくとも権力者じゃない
つまり人を意のままに動かす力はありません
短歌研究新人賞や前川佐美雄賞の選考、毎日歌壇の選歌は業務請負です
「未来」の選歌は、無償のボランティア
もともと権力なんて欲していないよ
(https://twitter.com/jiro57/status/1097638286950977537)
<<
 いやはや、ご冗談が過ぎる。加藤のツイートは、「権力」という語に対する認識に二重三重の誤りがある。加藤が不勉強、あるいは時代遅れであるともいえる。

 権力論一般については、このツイートを加藤とやり取りした濱松哲朗が説明してくれるだろうから本稿では詳細を省く。なお、私は、権力論一般については杉田敦『権力(シリーズ 思考のフロンティア)』(岩波書店、2000)を、無償労働(を意味する和製英語としての「ボランティア」)の権力が増大される点については仁平典宏の論文「〈権力〉としてのボランティア活動」(「ソシオロゴス」第27号収録、2003)を参照した。

「権力」=(明示的に何かを命じることで)「人を意のままに動かす」もの、という認識・枠組みがまず古すぎる。また、「人を意のままに動かす」という事態は、人が他人に何かを直接指示することによってのみ行われるのではない。暗黙裡に「人を意のままに動かす」こともできる。

 業務請負だからなんだというのだ。無償だからなんだというのか。わざわざ繰り返すまでもないことだが、「ミューズ」発言も、男性という属性に付帯する(旧式の)権力を行使したものではないか。加藤が列挙した事例だけでも、有償無償を問わず、「選をする」という、権力の典型的発露ではないか。政治家や資本家として人に指示できる関係のみを〈権力〉と呼ぶのではなく、「世に出ることばやヒト」を選ぶことで「世に出ないことばやヒト」を区別できるのもまた権力である。
出版社が新人賞を開催し、特定の歌人が協力するというのは、出版社とその歌人たちが新人賞受賞歌人に対して権力を再分配することに他ならない(だからこそ、ある一部の歌人が自主的に集まって賞を行う、という権威主義的な振る舞いに対しても、私は賛成しない。せめて、責任ある主体(法人・個人)が明確に決まっていなければならない)。新人賞受賞歌人を選び、その者の歌に〈声〉を与えるということは、受賞歌人以外には〈声〉を与えないことでもある。それでもなお、出版社から付与・貸与された、〈選ぶ〉権力を行使するのが選考委員なのではないのか。選者なり選考委員には、その権力を行使する事態に注意深くあってほしい。

(2)問いかけによる忖度への誘導
 同様に、加藤の言動のうち、
https://twitter.com/jiro57/status/1097128644281954305
「文学とは何か」
と、聞くだけ聞いて、自分では答えていないあたりは、高圧的に見える。すなわち、加藤が問いかけることによって、加藤の望む回答を忖度させ、そちらへ誘導しているような感覚を受ける。加藤のそのような問いかけに対して、加藤の文学的経歴から、「自分が間違っているのではないか?」と忖度してしまった人もゼロではないだろう。

 中島に対しては加藤から「岡井隆の一連の回想録を読んでいますか」( https://twitter.com/jiro57/status/1097141761728602112 )「あなたは「短歌往来」の「ニューウェーブ歌人メモワール」を読んでいますか」 https://twitter.com/jiro57/status/1097142351917510656 )といった問いかけが行われた。中島からは「前者に対しては「岡井さんの「挫折と再生の季節」「私の戦後短歌史」は何度も読んでいますが、それがどのように影響するのでしょうか?」( https://twitter.com/yukashima/status/1097142453889421317 )と、後者に対しては「読んでいます」( https://twitter.com/yukashima/status/1097142511082983425 )と答えている。加藤はその一環で、
https://twitter.com/jiro57/status/1097151763621105664
>>
ありがとうございます
岡井隆はかなり踏み込んで書いています
それが私の規範です
<<
と返信している点から、どうも「ミューズ」発言を「文学」の一環として捉え、加藤は岡井の回想録のように許容されるべきだと考えていた節がうかがえる(ただし、これは加藤からの「回答」とは言いがたい。「コンビニとはなにか」という問いかけに「私が買い物をしているところです」と答えるようなものだ。せめて「主に長時間営業をしている、食料品や日用雑貨を扱う小規模店舗」くらい、文学についても回答してほしい)。
 私は加藤への返信で
https://twitter.com/yukashima/status/1097152119876907008
>>
はい、相応の批判はあるでしょう。他方、書籍とツイートでは問題の位相が異なって見えます。
<<
と、加藤のツイートと岡井の書籍とでは、問題が異なって見えることを指摘した。岡井が過去を回想する書籍は、女性蔑視的な過去の言動に対する言及があったとしても、書籍の文章量ゆえに、現在の視点での告解・懺悔的な側面が現われる(そういう側面が現われると期待されているからそう読める部分も多少はあろうが)。それに対して、加藤がツイートに、岡井の回想と同じだけの、告解・懺悔的な側面を入れただろうか。それこそが、まさに加藤は、回想する際に「(岡井は行った)配慮を欠いている」のである。
それは「文学」以前の、「言葉を発するとき」に求められるべき配慮である。上述のやり取りの最初に私は以下のように書いている。「ミューズ」発言の問題の枠組みとしては、私は今もこのツイートで最低限度説明したものと認識している。
https://twitter.com/yukashima/status/1097139304474632193
>>
加藤さん、「文学とはなにか」に答える、それ以前の話題です。同じ文章が、あるいは完成版が「往来」に載っていても同じく燃え上がるご発言です。回顧する以上、なんらかの時代の変化があるわけで、その変化に対応されていないものと思います。(あとは公の場で書きます)
<<

(3)「権力、即、悪」ではない
 当然のことだが、「権力、即、悪」といっているのではない。本節は単に、「自分は権力がない」と述べている加藤の、その不見識を指摘しているのみである。
 広い、現代的な意味での「権力」は厳然として現実に存在するし、必要となる場面もある。今回、「詩客で原稿を書く」という権力が私にだって付与されている。それゆえに、「自分に権力があるかないか」でも「誰が権力をもっているか」でもなく、「自分が権力をもっているとすればどのようなものであり、それをどのように行使しており、今後どう行使すべきか」に注意深くなる必要があるのだ。
 想像力についても同様だ。本件において問題となるべきは「加藤に想像力があるかないか」でも「加藤の想像力が働いているかいないか」でもない。「加藤が想像力をどのように行使したのか、今後どう行使するべきか」である。

(4)補遺:配慮や想像力の欠如による分断
 気が進まないものの、一応指摘しておく。加藤の今回の言動を批判した者の中にも、加藤と同様に、配慮や想像力を欠如したツイートが散見された。一例として、未来短歌会の岸原さやのツイートを挙げる。長年、写真家・荒木経惟のモデルをつとめたものの、荒木に尊重されなかったKaoRiによる告発記事やその紹介ツイートを引用しての発言である。
https://twitter.com/sayasaya777/status/1097129983372193792
>>
ミューズという語がなぜ今日び否定的なニュアンスで受け止められるのか、そのもっとも酷い実例を見れば理解がすすむかと思います。これは1万人以上にリツイートされた記事です。
こうした忌避感がひろく共有されてる時代なんだということを男性歌人は学んでほしい。
<<(下線中島)
「ミューズ」に関する劣悪な事例としてKaoRiの記事を挙げるのは十分理解できる(私も「短歌研究」時評で同じようにした)。しかし、「男性歌人は学んでほしい」と、男性歌人にのみ権力がある、あるいはマジョリティであるかのように述べることで結果的に別の問題を生んでいる。男性歌人が学べば事足りるとでもいうのか。女性(と自認する)歌人は己を省みる必要はないかのように読める。また、男性/女性に区分されないセクシャルマイノリティの歌人の尊厳へと(意識的であれ無意識であれ)立ち入ってしまってはいないか。岸原は加藤を批判しているかに見えて、結果的に別の分断と差別を生んでいるのである。
 岸原のように今回の問題を「ミューズ」という単語を使ったことそのものに矮小化させてはならない。権力やジェンダー、想像力について、男性が学ぶべきなのか歌人が学ぶべきなのか、マジョリティが学ぶべきかマイノリティが学ぶべきか――否、万人が学ぶべき事柄である。加藤の言動を批判したいなら、それだけを述べればよい。そこに「男性歌人」などという区別と分断をわざわざ持ち込んだ岸原のツイートも、結果的に加藤の「ミューズ」ツイートと同様に、配慮と想像力を欠いている。
 私は「短歌研究」2019年5月号時評で、若手歌人に対してある種の文学運動を期待する旨を書いたが、人間の尊厳に立ち入り、分断を生むような運動であるならば不要だ。私の期待など捨て置いていただいて構わない。

 

5.ではなにが必要だったか(予定)

 現時点で、決着に向けて加藤が今後行うべき振る舞いについて、ここまででも十分に記したと思うが、今回具体的に詳述することは避けよう。必要があれば次回以降に記す。ジェンダーも権力も、私を含めた本特集執筆者からの発言を無視するよう加藤当人が決意するのも、(その結末は、大変愚劣ではあるが)一つの決着ではある。すくなくとも、加藤が、私や他の誰かが書いたとおりの反省を行うのではなく、自らジェンダーや権力について深く考え、当人の言動が改められればよい、と私は考える。
 そして、一般論として、本稿読者が「加藤は問題の所在を十分理解し、適切に反省した」とみなしたならば、それを受け容れ、加藤が再起を図れるようお取り計らいいただきたい。各種ハラスメントを行った者についても、再起の道筋がない状態で適切な反省を促すことは難しく、却って問題の再発を招くケースがあるからだ(セクハラのケース等を参照可能と判断している。( https://www.huffingtonpost.jp/sharescafe-online/metoo-20180508_a_23425156/ など))読者や私が加藤の再起の機会を与えることは、加藤に云々されるまでもない、フェアな態度であろう。
 ただし、私自身は今回に限らず、加藤のジェンダー的不公正な言動や権威主義的な言動に対して、私が未来短歌会に入った2003年以降その都度に、上述と同様の指摘を加藤当人に直接行ってきた――ここでいちいちあげつらうことはしない。加藤はどうもほとんど覚えておらず、覚えている案件についても反省の弁を聞いたことがないが。「ミューズ」発言、その後の発言、本特集への介入だけでなく、同様の過去の言動についても反省がなされない限り、私は問題の終結とはみなさない。

(本稿了)

 

<短歌時評alpha(1) 言葉~想像力と価値観のコウシンを見据えて~>

 ※短歌時評alphaは短期集中企画です。


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