わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第204回 ―波多野爽波― 森本 直樹

2018-01-24 13:26:48 | 詩客

 私は、ものをよく見つめるということに思いを馳せる時、真っ先に波多野爽波の句を思い出す。第一句集『鋪道の花』において彼は「写生の世界は自由闊達の世界である。」と述べている。
 写生俳句といえば、目の前にある景色を一枚の写真のように切り取るように詠んだ俳句だという考えがずっとあった。しかし、爽波の俳句からそれだけが全てではないのだということをこれでもかと実感させられた。以下、『鋪道の花』よりいくつかの句を引用する。

  鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
  繭玉のよく揺るるものを見てゐたり

 一句目。鳥の巣に鳥が入ってゆくという句意だ。しかし、ところまで書ききることで鳥の巣があり、鳥が近づいてゆき、やがて巣に鳥が入るという。一連の鳥の巣周りで起こる動きを逃さずに見つめる人の姿が浮かび上がってくる。二句目も同様に。繭玉のなかでも特に揺れているものを見ているという句意だが。繭玉のよく揺るるものだけで、見ていたことが分かるにも関わらず最後に見てゐたりという言葉を足すことによって繭玉を見る人の存在感が増す。
 作者が見ているものを表すには無意味だが、その景を見つめる作者の存在を意識させるワードが散りばめられている。

  畦火守る男しばしば見えずなる
  恋猫に投げたる石の見えて弾む

 畦火の句。この男をずっと見ていたのだろう、だからこそ畦を焼く火の具合によって時々姿が見えなくなる男も、火を見守る男の姿も目に焼き付いている。恋猫の句は、投げた石を一瞬見失ったのかもしれないが、恋猫の方へと弾む直前の石をまた見つけた。恋猫のいる方を見つめていたからこそ弾む石を見つけられたのだ。
 爽波は目の前にあるものをじっと観察する。小さな動きをも観察し句にするからこそ、彼の俳句のなかでは緩やかな時間が流れ始める。

  秋風の中や児の瞳に映れるもの

 秋風はもちろん目には見えない。ただ肌や近くの揺れ動くものを通してその存在を知るばかりである。しかしこの句から、爽波は児の眼に映りこむものを通して、本来は目に見えないはずの秋風を見つめているように思えてならない。

対象を見つめる人(本来は自身の視界には入らないはずの作者自身)も、時間も、見えないはずのものも、質感を持って描写するこの姿勢に、改めて写生という自由闊達の世界という言葉の凄みを感じてならない。

  冬空や猫塀づたひどこへもゆける

 猫がどこへもゆけると思う姿に、どこへもゆけない作者の姿を想起する。だが、写生の世界においては自分の見渡せる世界の中において、どこまでも深く自由にいられることができる。

  春雨の街に時計の正しさよ

 春雨の街のどこかぼやけた感覚の中にも正しく動き続ける時計を見つけた。正しいものを見つけるその視線もまた、正しい。


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