わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第145回 この世界での浮遊感-富岡多恵子- 和田まさ子

2015-03-29 21:22:53 | 詩客

 実家の整理をしていたら、若い頃に読んだ本が出てきた。角の丸くなり、日に焼けた『現代詩文庫・富岡多恵子詩集』。懐かしい。当時、いつもバッグに持って歩いていた。白い厚い『富岡多恵子詩集』もあったはずだが、見当たらない。どこかに紛れ込んでいるのだろう。同じ詩人の詩集を2冊も買うなんて、当時そんなに熱心に詩を読むことのなかった私にしてはめずらしいことだ。
 その頃、周囲に立原道造や中原中也に傾倒していた友人がいた。その影響で二人の詩を読み始めたが、私がはじめて自分で見つけた好きな詩人が富岡多恵子だった。
 「身の上話」や「はじまり・はじまり」を読んで喝采をあげた。まだまだ男社会で、女子は出すぎずということが暗黙の約束事になっていて、サークルや会合などでは男が代表、女はいいところサブとなるのが落ちだった。別に代表になんかなりたいということではないが、世間のシクミがいやだった。そうしたことに鬱々とした感情を持っていたのかもしれない。富岡多恵子の詩は風穴をあけてくれた。
 
おやじもおふくろも
とりあげばあさんも
予想屋という予想屋は
みんな男の子だと賭けたので
どうしても女の子として胞衣をやぶった

(「身上話」部分)

 

 男にも女にも変わることができる、その天邪鬼さが小気味いい。爽快だった。


あれもわからへん
これもわからへん
なんにもわからへん
なんにもあらへん
そやから私は出掛けてる


はじまり はじまり


(「はじまり・はじまり」部分)

 

 ことばに特有のリズムがあって、飛んで歩きそうな詩の連が続くと読み手の私までどこか別の場所に出かけて行くことができる、そう思われた。ことばがことばを呼び起こしていくことで、詩は人を動かすことすらできるのだと思った。閉塞感を打ち破るような感じがした。
 今回、あらためて読んでみて、世間体にとらわれずに歩いていく解放感は若い頃と同様に感じたが、これらの詩のことばが眩しい反面、次のような詩の連を読むと、孤独な人間のかなしみを感じた。


「わたしたち」は
わたしとあなたに還元出来ない
だから
わたし
あなた
「わたしたち」

(「三ツの単語」部分)

 

 また、生まれるということがよく出てくると同時に死ぬことも、恐れとともに色濃く書かれていた。
 けれどというか、だからというか、この詩人を一層好きになった。
 ところで、私事だが、私は個人詩誌「地上十センチ」という冊子を出しているのだが、「ことば・モノ・空間」(『現代詩文庫・富岡多恵子詩集』所収)で、「わたしは自分が浮かんでいるのではないかと感じているので、つまり、なんだかこの地球の上をハダシで歩いているのではなくて、地面から十センチくらいのところを歩いているかんじがする」と書いている文章を見つけて、ハッとした。この世界での浮遊感を書いているこの富岡多恵子の文も若い頃読んでいるはずだ。私のなかでこの詩人の生きているかんじが自分のなかに無意識に堆積されていてどこかの層から詩誌のタイトルが浮かび上がったのかもしれないが、そうであるのかどうかはわからない。


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