わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第108回 -ウラジーミル・マヤコフスキー-一色真理

2013-09-18 00:55:15 | 詩客

恋と革命に引き裂かれたウラジーミル・マヤコフスキー
                            

 私の詩集『純粋病』巻頭の作品は「ぼく」である。
 どうしてもこの作品で始めたい理由があった。当時私がアイドルのように夢中になった詩人が19歳で書いた、実質的に処女作といっていい詩のタイトルが「ぼく」だったからだ。
詩人の名前はウラジーミル・マヤコフスキー。ソ連崩壊と共に今では殆ど忘れ去られてしまったけれど、それまでは〈ソ連邦随一の詩人〉と喧伝されていたロシア・アヴァンギャルドを代表する詩人である。朗読会を開けば何千人もの聴衆を陶酔させ、長編詩、抒情詩、戯曲、映画シナリオ、ルポルタージュ、広告コピーと何でもこなし、革命と国営企業を宣伝するポスターでは自らイラストやデザインも手がけた。舞台や映画俳優としても活躍したらしい。日本ではタイプは違うが、寺山修司のような存在と思えばいい。私は早稲田の露文在学中(といっても実際には殆ど授業に出ず、デモに行くか詩人会の部室にとぐろを巻いていただけなのだが) 、マヤコフスキーを専攻していた。その卒論で、「ぼく」を小笠原豊樹(詩人としてのペンネームは岩田宏)さんの訳を参考にしながら引用しているので、拙劣で恥ずかしいが引き写してみる。

 

 ぼく

ぼくの心の踏み荒らされた
舗装道路に
こだまする足音が
硬い詩句のかかとを編みあげる
街々が
絞罪になり
雲の輪になったところには
塔の
歪んだ首が
動かなくなった。
そこをぼくは歩いてゆく
ひとりで大声をあげて泣くために、
十字路が
巡査を
十字架にかけたよーって

 

 10代の私は自分が極めて非社会的で、周囲とは異質な人間であることを感じとっていた。幼時に私を緘黙状態に追い詰めた父親からも、急いで独立する必要に迫られていた。父親が追いかけてこられない場所に逃げ込みたい。そこで、当時学生運動の巣窟とみなされていた早稲田の露文に、あえて入学したのだった。ここにいれば、私を社会の歯車になれと強要する人たちから、自由になれるはずだと信じて。
 私が早稲田に入学した60年代、マヤコフスキーはソ連公認の〈偉大な革命詩人〉として知られていた。しかし実際に読んでみると、彼はむしろその対極を行く詩人のように思われた。代表作『これについて』の主題は革命どころか、恋人とのめめしい仲違いなのである。彼は失恋と革命という分裂するテーマを最後まで抱え続け、親友オシップ・ブリークとその妻リーリャ・ブリークとの三角関係に苦しんだ(今ではブリーク夫妻は実は革命政府の工作員で、彼の監視役だった事実が判明している。まるでディックの『トータル・リコール』みたいだ)。失恋のたびに「別れるなら死んでやる」と恋人(これがまたリーリャとは違う別人だからややこしい)の前でロシアン・ルーレットの引鉄をひいてみせ、ついに三度目にピストルから銃弾が飛び出して、37歳で死んでしまった血まみれのマヤコフスキー。そんな詩人こそ私のアイドルにふさわしい。私は彼のように生きたい、と思った。だからこそ、30代最初の詩集を私はどうしても「ぼく」という詩で始めたかったのだ。
 十数年前、私はモスクワへ出かけ、もはや誰も見上げることのないマヤコフスキーの銅像を撮影しようとした。けれど、フィルムの最後の一枚が尽きてしまい、現像してみるとネガには虚無だけが写っていた。


私の好きな詩人 第107回 -山田兼士-江夏名枝

2013-09-15 12:00:46 | 詩客

9ポ明朝の乳を買いに

 

 教室の窓から 養老山脈を眺めている
 一九六七年の中学生は はや愁いを知る

 

 耳奥に ピーター・ポール&マリー Lemon tree のラジオ
 目前には カムパネルラ&ジョバンニ milky way の板書

 

 放課後のグランドを 女の子たちが駆けまわる
 その中のひとりを見続ける少年の 遠い春

 

 つきあいで通う 塾の教室を脱け出し
 病室に通う 母の笑顔が安心の証し

 

 夕暮の農道を伊吹颪に押され 自転車で疾走し
 町外れの活版所の 主任さんに挨拶し

 

 父の仕事用9ポ明朝の 「乳」をもらう
 帰り道は伊吹颪を顏に受け 闇空に雪が舞う

 

 右半身が不随の父は いつも寡黙だった
 電気屋に勤める兄の帰宅は いつも深夜だった

 

 いま 三人が眠る仏壇の その後ろ
 窓の外に 二上山は 今日も乳色。


 ほころびではなく粒子が。季節の底に眠る葉の翳りのなかへ、一滴一滴と同じリズムでひそみ招かれるものがある。霧が気分を落ち着かせるのは、なぜなのだろう。
 山あいの濃い霧の道をあるいていると、やわらかくさえぎられて満ち足りてくるのはなぜなのだろう。もうわかりきっている、いまさらに語らなくともわかりきっている記憶のさざめきが私自身に(どうして、遠まわりをしてやって来るのか?)つぶやかれる手前で、体内の刻々とした生あたたかい腑から滑落してしまおうとする、その手前でいなされる。つぼみの群れが見える。私はまだ踏みとどまろうとしているのだ(踏みとどまろうとしてきたらしいのだ)崖のはるか、雲たちはすでに足下より低くたなびき、木々の匂いが霧にまじりあって冷える。 
 ページから、霧のようにたちのぼってきた詩。
 Lemon tree と milky way、神妙に、隠されたものが次第に呼応して(私ではないと思われていたものが私として、いつしか飽和する)、ねじれた微熱の風が、いまは頬にふれてゆくだけでも。とても若かった頃。断念されたかに思われている、折りたたまれてしまった薄い紙片が内密な護符となるまで。
 目をひらいたまま更けてゆく瑞々しい檸檬の重さだとすれば。いつでも、不意の速度で棘に似たものが触れてくるけれど――その場所におじけづくこともない、今はもう、その痛みを了知しているから。幾度も触れてきて、変わらない硬質な螺旋形、軽くなることのない痛みにすら、つつまれる網の目からそれが覗いている(私たちはどこにいるのか?)、藻の奥から呼吸するように求め続けた記憶自身がドアから漏れる細い光のように、そのときからずっと、懐かしいこころの形式へと立ちかえる。その時ひらかれようとしていた、そのときに前方を目指された船体から泡立ってゆく一本の線が祈りとなり、もう私の背後となっている。こそぎ落とされるような捻じれが、到達されたかのように拭い去りゆく日々を、もう知っているから(私たちは何をなそうとするのか?)、幾度も再生される詩でなければならないし、あるときには、思いのままを同時にいくつかの層から滲ませる、形式でなければならない。

 

「9ポ明朝の乳を買いに」は山田兼士『微光と煙』(2009年・思潮社)より


ことば、ことば、ことば。第7回 天才 相沢正一郎

2013-09-13 10:29:29 | 詩客

 以前、「ゴッホ展」を観に行ったとき、実際の絵画に近寄ってまじまじ見ておもったのが、炎のように渦巻く糸杉や星空の線のひとつひとつがゆっくりと丁寧に描かれている、ということ。たとえばポロックのようにパッションを直接画面に叩きつけるといった描き方ではなくて対象をきちっと見つめ確かなデッサン力のあとで崩している。
 ゴッホといえばゴーギャンとの黄色い部屋での共同生活での対立の末の耳を切り落とした事件など作品以外でも物語が豊かで、私たちは知らず知らずのうちに「炎のひと」や「悲劇の天才」といったイメージを通して絵画を見てしまう。でも、ゴッホは実際、レンブラント、ドラクロワ、ミレー、浮世絵版画など、ものすごい数の模写をくりかえし、当時最先端の点描画などを吸収、毛糸などを使っての色彩の効果を研究したりした勉強家。
 そんなことを考えたのは、陶原葵の『中原中也のながれに 小石ばかりの、河原があって、』を読んだから。近ごろ「天才」の大安売りだが、本書で「天才」ということばが使われているのは一カ所だけ。七五ページの《天才と俗人という対立項は、中原の批評の底にある構図だが、俗人と大衆とは必ずしも一致しない》というところだけ。ここで言われている「天才」は、中也が自分を天才と信じていた、という事実であって、陶原のものではない。むしろ、前のページに《たとえダダのような破壊的なものですら、その壊し方が、出会った見本(中原の場合は高橋新吉)のあまりにも生真面目ななぞりであること、古今の書を幅広くよく読み、それからうけた強い霊感が多くの作の源であること、そして優等生型とも言えるその〈学び〉は、中原の仕事を貶めることにはまったくならず、むしろ不思議なあり方で時代を超えた命、幅広い人気をつないでいる》とある。そんなことに私がこだわるのは、ゴッホ同様、中原中也もよく「天才」といったことばで語られ、わかったような気持ちになってしまいがちだが、じつは本当はなにもわからない。
 中也もまた作品の外でもドラマチックな生涯。詩人らしい風貌とともにロック・ミュージシャンに憧れる気持ちでファンになるひとも多い(私自身がそうだった。中也だってランボオの生き方に憧れていたし……)。『中原中也のながれに』のなかで、中也とは作風が正反対の西條八十がともに底のほうで共通するのは、ランボオの生涯に惹きつけられた、とある。中也、八十以外でも、小林秀雄、金子光晴、堀口大学の訳が載っているが、みなランボーの詩に訳者自身が投影されている。もちろん、好きな作者に思い入れをするのはあたりまえ、ともいえるが、ともすると「私のゴッホ」や「私のランボオ」、「私の中原中也」が死角になって、本当の作品から見えない部分が出てくるんじゃないか。
  『中原中也のながれに』を読んで、感嘆したのは作者と中也との鮮明な距離の取り方。陶原さんも石垣りんの文章にふれて《女性の愛読者は少ない》と書かれているが、(たしかに私のまわりでも立原道造ファンの女性はたくさん知っているが、中也が好きだという話は聞かない)。「私の中原中也」と男性が知らず知らずのうちに自分自身を投影していない分、客観的にみることができるのかもしれない。もっとも、正直なところ私のすぐ近くに中原中也がいたとしたら……、すごく苦手なタイプなのかも。そこで思い出したのが、本書で紹介されている、酒の席で立原が中原にからまれる微笑ましいエピソード。立原道造は中也の詩を熟読してイメージをすくいとっていたが、結局は、中也の「対話」を拒む資質に立原は疑問をもつ。「天壌玆に、声のあれ!」の章で、著者は「春日狂想」にふれ、《対話というより多分に一方通行的なこの語りかけは、もうこの世にはいない人々、彼岸との、切なる交信のようにも聞こえてはこないだろうか》とある。もしかしたら立原道造もじつはモノローグの詩人で、もっぱら死者との対話なのでは。すると、正反対なタイプだったふたりが重なってきた。また反対に、中也と道造が本歌取りやほかの作家から吸収し独特な表現に変える、といった共通の姿勢であっても、たとえば同じ点描画でもゴッホとピサロの作風の違い、また版画でも(ゴッホを尊敬する)棟方志功と(ゴッホが憧れた)浮世絵ほどの違いがふたりに出てきてしまうのはおもしろい。
 と、『中原中也のながれに』を読んだあと、中也についていろいろ考えた。三富朽葉と中也が、少女のような芸妓――高木しろ子と、長谷川泰子との愛の関係でひびきあっているところなど、はたと膝を叩き、そのほかに何度も叩きすぎて膝が痛くなったほどだが、もしかしたら膝を叩いたことよりも、大切なのはこの本を読んだ刺激によって私の中で中也が活発に動き出したこと。すばらしい詩人論とは、こうしたものなのかもしれない。


スカシカシパン草子 第13回 ファッションについて 暁方ミセイ

2013-09-11 11:22:54 | 詩客

 祖父は律儀な人で、デジカメで撮影した写真を、必ず数日の内にはプリントし、日付別にアルバムに綴じている。故に、祖父の家に行くと、時々思わぬ形で過去の自分と対面することになる。
 先日のこと、数カ月ぶりに訪れた祖父宅で、長椅子にもたれてぐだぐだと携帯をいじっていると、ふと視線の先に小奇麗な冊子の束を見つけた。手にとって開いてみると、それはアルバムだった。およそ三十冊程のアルバムが、棚のなかをぎっしり埋めていた。何気なく手にとったのは2008年のアルバムで、ぱらぱらめくると、祖父母の旅行や、趣味の絵画教室での写真の他に、家族での食事の写真なども出てくる。「ユキちゃんあどけないなー」「うわ、弟がまだ痩せてる・・・」などとひとりごちながら、ページをめくった瞬間、固まった。
 20歳のわたしが、ソファに足を組み、笑顔になりきっていない妙なしたり顔でこちらを見ている。それはそれで残念なのだが、一番の問題は服だ。
 ペンキのような真っ赤な水玉模様のセーターから、もぞもぞと襟に特徴のある灰色のハイネックが覗いている。この服には覚えがある。確かこの年の11月に、クリスマスを意識して購入した物だ。結構お気に入りで大学に着て行っていた。わたしはこんな格好で、行き交うひとの目を道々刺激しながら千代田区を闊歩していたのか。別に人から見られていたことは、ただのダサい大学生だと思われたというだけで済むからいいが、恥ずかしいのはこれを意気揚々と着ていた自分自身だ。正直、わすれたい。

 ファッションを好になったのは、中学3年生で、それまでおっかなびっくり渋谷や町田に買い物に行っていたのが、どういう訳か、ある日髪を切った帰りに急に何をしてもいいんだという気持ちが湧き上がり、以来紫や緑といった好きな色の服を素直に着たり、母に似合わないからと禁止されていたパステルカラーの服をじゃんじゃん買ったりした。いつもコーディネートには命名をし、それなりに詩的な名前をつけた。往々にしてやり過ぎるので、サンタセーターのように失敗に終わることも多かったが、服を選び、着るということは、やっと何者かになろうと思い始めたあの頃の中で、案外切実な行為だった気がする。現在の自分自身を追い越すように、他人のような服を着て、それに見合うように、後付で服の中身のわたしは成長しようとしていた。大人っぽいドルマン袖のカーディガンや、明るく快活な花柄のシャツを着ながら、妙な虚無感と、希望が入り交じる、未来しか無い感覚でいっぱいになっていた。
 高校生の時、友人のとてもおしゃれな女の子が、洋服について「守りに入ったら負けだよ」と言っていたのに深く共感した。その言葉は不思議に、いま物を書くときにも時々よぎる。やるかやらないか迷ったら、やってしまった方がいいんだろう。と同時に最近は、「少しでもおかしいと思うことはそのままにしない」という言葉も、よく原稿を見直しながら思い出す。こちらはある日、ラジオから聞こえてきた言葉だ。話していたのは売れっ子スタイリストの女性だった。この意識の高さを応用したいと素直に憧れる。
 止まらない時間の流れの中、たった一度のある一季節を駆け抜けるために、意識をピンと張り詰めるファッションは、やっぱり凛々しくて美しいものだなあと思う。たとえ刹那的で、消費的であっても、何か確かに、人生の手触りがする。

 ちなみに、祖父のアルバムを更にさかのぼり、15歳頃の写真も見てみた。
 絶句。どうしてこんな継ぎ接ぎだらけのジーンズを履いているのか、緑色のキャップをかぶっているのか、心が暗澹としてくる。
 「過去の自分がひどすぎると、過去を振り返らないで済むよね。」と自分を励ました。