自作を不用意に声に出して読まれるときの索漠とした感覚を知っていることと、安川奈緒の詩に惹かれることは私の中でとても近い場所にある。
安川奈緒の詩が持つ引力について考えたい。一度紙面に目を落としたが最後、引き摺られるようにして文字を追いかけることしかできなくなる。明らかに、文字列を頭の中で声に出して読む余裕など与えられない。いわんや朗読をや、である。
安川は佐々木敦との対談(『現代詩手帳』2010年1月)で朗読について「身体性の否定みたいなものが私には強くあって、だから自分の声と自分の書いたものの親しさをそこでどうして回復しなければならないのか、それがわからないんです」と述べ、読者に対しても「視界の中だけで処理してもらいたい」と要求している。
安川の詩において「身体性の否定」がどのようにして行われているかを確認するために、次の詩行を見よう。
ところで 瞬間移動で来たのかと問われれば 瞬間移動で来たのだと答えよう あこがれの街をくぐりぬけ おまえが嫌いだと言うために 来たのだと おまえに夢中になりすぎて 身体のことを忘れてしまったのだと(「背中を見てみろ バカと書いてある」より)
「瞬間移動」の速さによって「身体のこと」が忘れられるとき、声もまた置き去りにされる。速さの推進力となるのは息が詰まるほどの他者への希求であり、その中では「おまえが嫌いだと言うために」と「おまえに夢中になりすぎて」が当然のように同居する。
泣くな 泣くようなテレビじゃない 今日は不用意に原爆と口に出してもいい 自分のせいで誰かが自殺すると思ってみてもいい 間違いの手旗信号にうっとり見とれていた敗残兵たち 窓は縛るためにある そして今からとても楽しみ インポテンツ・トルバドゥールの夜(「玄関先の攻防」より)
「泣くな」という禁止に続いて「~てもいい」とみとめられる事柄は、どちらも不吉で衝撃的である。これらの許可、あるいは「インポテンツ・トルバドゥールの夜」といった見慣れない言葉に読者はおそらく面食らうだろう。「うっとり見とれ」ることもできるだろうが、同じことだ。その間に、身体は言葉に置いていかれている。
生前唯一出版された詩集である『MELOPHOBIA』を私は持っていない。私が安川を知った三年前にはとうに絶版になっており、電車を乗り継いで定価の十倍の値段が付いた詩集を見に行ったことも思い出深いが、来年全集が出るらしい。今はそれだけを待ち焦がれている。
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