わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第215回-ムハンマド・マーグート- 千種 創一

2018-12-19 11:18:12 | 詩客

 詠うとはどういう行為なのか。まだ短歌にどっぷり浸かっていた頃から、そして今でも、よく考える。

 最近、中東シリア出身の散文詩人ムハンマド・マーグート(Muhammad al-Maghut)の詩集を読んでいて、詠うことを詠う篇をいくつか見つけたので、その中から「最軽雲」(Araqq al-Ghuyum)という一篇を紹介したい。

   最軽雲


ムハンマド・マーグート(千種創一訳)


   -1-
書け…
なんと素晴らしき言葉か
書けば闘ひの避けられぬ、
ピタゴラスの計算に立ち向ふアインシュタインの相対論
吹雪に立ち向ふ酩酊詩人ランボオの舟
   ***
書け…
黎明の猛者たち、打ち砕かれた偉人たちからの命令だ
しかし矛(ほこ)には矛を
帆には帆を
嵐(かぜ)には嵐を
勝利には勝利を
敗北には敗北を
そして道を進め、円き言葉の騎士たちよ
未だ酩酊ランボオの舟は苦戦してゐる
その舟をこの圧政の海原で諸君は見つけ出さねばならぬ
もしくは舟の残骸を追へ

   -2-
松の木の中に
その夜わたしは息を潜めた
寒さから、支配者から、先生から逃げやうと
そこで初めて聴いたのだ
アブドゥルワッハーブの歌ふ声を
ウンム・クルスームの声を
アスマハーンの声を
ファイルーズの声を
司会者アブラ・ホーリーの声を
はつきりと海の処刑を命じる声を…
砂漠流しを命じる声を…

   -3-
わたしは
農の民だつた 畑を持たず
工の民だつた 工場(かうば)を持たず
選手だつた チームを持たず
奏者だつた 聴衆を持たず
研究 データ 統計 協議 印象論 を散々積み上げてわかつたのは
わたしがといふこと この連鎖を断たねばならぬといふこと
五〇年の データ 統計 解説 便覧 議論 原典 討議 勧告 シュプレヒコール を経て
それらを誇るやうになつて仕舞つた

   -4-
かつてはあつた
それらの雲はわたしの国に
それらの鳥はわたしの空に
その濃霧はわたしの村に
その茉莉花はわたしのバルコンに
その鳩声はわたしの窓に
その郷愁はわたしの肋骨に
その決意はすべてわたしの面貌に
その土埃はすべてわたしの背面に
その地平はすべてわたしの眼前に
その勇猛はすべてわたしの記憶に
その噴煙はすべてわたしの陣営に
その恐怖はすべてわたしの腰掛に
その勝鬨はすべてわたしの咽喉に
その殺戮はすべてわたしの手帳に
   ***
それらすべてをわたしは見てきた
わたしは残つた指を観光客へ売りながら
奴らは遺跡と罪を扱ふ商人だ

   -5-
 犯罪者や殺人鬼とも言へる、わたしを困らせる人々は。訪問、電話、挨拶、叱責 祝辞、弔辞、噂話、結婚やら離婚のお報せ、講義、研究会、もしくは小話なんかで。いくら面白くてもいくら良く出来てゐてもだめだ。
 さうした輩は黄昏時の遠い国で芋虫やパン屑で燕の棚を賑はして仕舞ふ奴に似てゐる。
 もつと悪いのは留守の間にわたしの引出しや手帳やメモをぐちやぐちやにして行く奴だ。さうした輩は、棺桶に納まつた女の子の健気な気持ちを踏みにぢるやうな奴に似てゐる。
 なぜなら、わたしは全身全霊で山の頂上、いや、此の民族の痛みの頂上に、伝説みたいな神殿を建てやうと、忙しい、からだ。自分自身で詳細まで見てゐる。土地の調査から被告人の檻まで、証言者や裁判官の台から法廷衣装、陪審員の中立性、彼らの国籍、正義の天秤、裁判長の槌台、弁護士、検察に至るまで。
 容疑者たちは、わたしがそこら辺から警棒でも使つて連れて来るさ…
 さうなれば誰かが何かで裁かれることになるだらう。

(詩集『アデンの東、神の西』に収録)


ムハンマド・マーグート
(画像出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_al-Maghut )

 マーグートは1934年、シリアのハマ県サラミーヤ市の貧しい農家に生まれた。2006年に72歳で死去。シリアのみならずアラブ世界で散文詩人・劇作家として知られ、独裁政権を批判する作品も少なくない。

 上記の「最軽雲」にも、「この圧政の海原」や「海の処刑を命じる声」といった表現に、独裁体制の中で書きつづけることの困難が滲んでいる。

 「最軽雲」においてマーグートが信頼できるのは、そうした反権力的な色を見せて知識人を「書け」と鼓舞するだけでなく、「最軽雲」の最後では、作中主体が理想的な「裁判所を建てる」ことを通じて独裁者になってしまう姿を見せることで、人間の本質を描こうとしている点である。

 一方、日本の歌人・岡井隆も、しばしば詠うこと自体を詠う。

 歌といふ傘をかかげてはなやかに今わたりゆく橋のかずかず 『禁忌と好色』

 この岡井の歌をマーグートの苦々しい上掲作と比較すれば、第二次世界大戦後の日本がそれこそ「はなやか」に言論の自由を謳歌していることを窺い知ることができよう。日本のこの自由が続くことを切に願う。

 マーグートは、アラブ散文詩の金字塔とも言える詩人であるが、日本にはまだあまり紹介されていない。いつかまとまった翻訳・解説を書いてみたい詩人である。


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参考文献:
 <日本語>
岡井隆[1982]『禁忌と好色』不識書院。
 <アラビア語>
Muhammad al-Maghut [2005], ”Sharq Adan, Gharb Allah”, Dar al-Mada li-l-Thaqafa wa al-Nashr, Syria.

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Magout.jpg