てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った
安西冬衛「春」(軍艦茉莉より)
全世界で数十万人が罹患し、数千人の死者を出している新型コロナ肺炎は現在も猛威を振るい、収束の目処は立っていない。ぼくらは今後長らくこの春の事を覚えているだろう。そんな暗い春に安西冬衛の詩を拾ってみた。
だれしも一度は目にし、諳んじた事があるだろう安西冬衛の傑作「春」。厳しくも美しい一行詩のひとつだ。ここにあるのは惜別だろうか、諦観だろうか、動く事ままならず置いて行かれる者の持つ野火のような嫉妬だろうか。強烈な孤独が胸を抉る傑作である。
韃靼海峡とは大陸沿海州とサハリン(樺太)を隔てる最狭7kmほどの海峡を指す。諸外国はここを「タタール(Tatar)海峡」と呼び、中国読みで「韃靼海峡」という。北の春だ。その貌は春といえど嶮しくあるだろう。安西はこの地ではなく父の赴任先大連でこの詩を書いたという。彼は大連で関節炎のため右足を切断するという難を蒙った。大連の冬もまた厳しく、その鬱とした心を一匹の蝶々に託す安西の詩情は酷烈なほどに美しい。
優れた文芸作品は大作の映画に匹敵するほど饒舌だ。短歌や俳句を書いているとその世界に没頭するあまり詩へ目が向かなくなりがちだ。優れた詩もまた目を肥やしてくれる事を忘れてはならない。
里俳句会、塵風、屍派 叶裕