わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第199回 ―中原中也― 表 健太郎

2017-08-19 17:00:32 | 詩客

 悪友に教えられたのは、林檎を丸ごと齧りながらラム酒をストレートで飲むことだった。流行りのスタイルだったのかは知らない。けれど、林檎の酸味とラム酒の甘さは確かによく合ったし、こうした一種の気取りが、当時のぼくの心境を満たしてくれたから、さっそく真似ることにした。以降しばらく、一人暮らしの家にはつねに、林檎二、三個とラム酒のボトルがキープされるようになった。

 一旦入学した大学を一年で中退。美術大学へ行きたいと言い出した。けれど、思い立ってすぐに入学できるほど美大受験が甘くないことくらいは分かっている。だから一年間は予備校で絵の勉強をすることにしたのだ。こう書くと、いかにも備えだけはしかっりしていると思われそうだが、とんでもない。親の苦労など何も考えていない息子に対し、両親は寛大な心で応じてくれた。

 予備校で受けたショックは凄まじいものがあった。生徒全員がプロ級の絵を描く。これからプロになるための勉強をしているのに「プロ級」という言い方はおかしいかもしれないが、そのときのぼくの目には、みな達人のごとく映ったのである。少し絵が上手いくらいでクラスメイトからチヤホヤされていたぼくの自尊心は、木端微塵に打ち砕かれた。人生にはどこかで挫折というものがある。この経験がそれに当たることは間違いない。

 実家暮らしではないから、行動は誰にも咎められない。気が乗らないときは平気で予備校をサボった。予備校に行っても、筆が乗らなければ荷物をまとめてエスケープした。どこまでも親不孝者である。そんなことばかり続けていれば、講師に目をつけられて当然だろう。ある日突然呼び出され「周囲にも悪影響になる」ということを言い渡された。己れの怠慢は棚に上げ、他者に対して憎しみを募らす。それが徐々に社会全体への呪詛に変わる。若気の至りの典型から、ぼくも逃れる者ではなかった。

 幸か不幸か、予備校から神保町の古書街は目と鼻の先だった。筆を持って真っ白なキャンバスに対峙することはなくても、リストを携えて埃を被った書棚には向き合った。欲しかったのはデカダンスを謳い上げる書物である。『地獄の季節』も『惡の華』も『マルドロールの歌』も、みんな同時期に読んだ。どこまで理解できていたのかは怪しいものだが、そんなことはどうでもよかった。ワンフレーズでも気に入れば、その部分だけを口のなかで繰り返していた。友人がぼくの家に林檎とラム酒を持ち込んだのは、ちょうどこの頃のことである。

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月は空にメダルのやうに、
街角(まちかど)に建物はオルガンのやうに、
遊び疲れた男どち唱ひながらに帰つてゆく。  
――イカムネ・カラアがまがつてゐる――

その脣(くちびる)は胠(ひら)ききつて
その心は何か悲しい。
頭が暗い土塊になつて、
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

商用のことや祖先のことや
忘れてゐるといふではないが、
都会の夏の夜(よる)の更(ふけ)――

死んだ火薬と深くして
眼に外燈の滲みいれば
ただもうラアラア唱つてゆくのだ。

中原中也「都会の夏の夜」

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 一体何度、この詩を「ラアラア唱ひながら」帰ったことだろう。大岡昇平の編による岩波文庫版『中原中也詩集』は、当時のぼくのバイブルだった。いつも鞄に持ち歩き、電車のなかや公園のベンチで読み耽った。急に雲行きが怪しくなり、天気予報にはなかった夕立が降り出すと、自分のことは後回しで、この詩集だけは濡れないようにと、鞄ごと服のなかへしまい込んだ。

 とは言え、ぼくは中也のことが好きだったのか。なぜなら、中也については、いまでもあまりよく知らないからだ。評伝なども読んだことがない。件の『詩集』の解説には目を通したはずだが、彼に関して記憶していることと言えば教科書レベルの内容であって、誰かに教えたくなるような逸話などは持っていない。「私の好きな〈詩人〉」として中也を採りあげることに、いささか躊躇いがあった所以である。

 けれど、中也の詩は、確実にぼくの血肉となった。詩人のことは知らずとも、彼の作品の数々を、ぼくは林檎とラム酒と一緒くたにして飲み食いし、この身を成長させてきた。その意味で、林檎とラム酒と中也の詩が、ぼくの言葉のふるさとであると言っても過言ではない。だからいまでも、赤みがかった月を見れば「襄荷(めうが)を食ひ過ぎてゐる」(「月」)と思う。飛んでくる飛行機を眺めては「昆虫の涙」(「逝く夏の歌」)が塗られてはいないか、遠くまで目で追ってしまう。落ち込むことがあると「地球が二つに割れゝばいい、/そして片方は洋行すればいい/すれば私はもう片方に腰掛けて/青空をばかり――」(「この小児」)と、つい呟きたくなるのだ。

 ぼくのようなアプローチが、詩の正しい受容の仕方なのかは知らない。詩をたくさん読む人からすると、雰囲気だけを掠めていると叱られそうだが、構いはしない。中也自身もこう言っていた。「『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい」(『芸術論覚え書き』)。詩は、言葉が生きてこそ詩であるだろう。ならばわざわざ愛唱の理由など説明しなくても、ぼくの血のなかで、それらの言葉が生き続けていればいい。