わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

ことば、ことば、ことば。第22回 断章3 相沢正一郎

2014-12-16 22:01:41 | 詩客

 村上春樹のデビュー作 『風の歌を聴け』は、一九七九年「群像」に第二十二回群像新人賞受賞作として発表されました。いちおうストーリーはあるものの時系列を無視して四十の断章で構成されています。三十年以上もまえ、なんの予備知識もないまま本屋で本書を手にとり、ページをひらいたときの「空気感」はいまでも憶えています。
 第19回「分離」で取り上げたJ.M.クッツェーの二作目の 『石の女』 も二六五の断片。ポストモダンというのか、アンチロマンというのか、読者を物語に参加させず、現実と虚構の境界を揺蕩わせる―― 知的な戦略をかなり意識的に行っている。だけど、文章は暴力と性の強烈な身体性をもっていて、とてもリアル。《殴られた。そんなことがおきたのだ。頭をガツンと殴られる。血のにおいがする。耳鳴りがする。鐘は手からひったくられる。廊下のむこうで、けたたましい音をたてて床に落ち、右に左にゴロゴロ転がる》。
 「知的な戦略」というと、なにか「数式の美」といったようなイメージが浮かんできますが、肉体や魂が生々しく息づいていることば、という断章の傑作に、中江俊夫の『語彙集』があります。《ずんぐり肉ぼってり肉あんぐり肉/やんわり肉ふんわり肉むっちり肉//しんねり肉むっつり肉ぺったり肉/つるつる肉しとしと肉しっとり肉/むんむん肉もんもん肉すんすん肉/のらり肉くらり肉くるり肉》(「語彙集第九十章」)といったように、ことばに血が通い、脈打ち、手触りさえ感じられる。
 わたしの本棚には、思潮社版『語彙集』と、サンリオの中江俊夫詩集の三巻目の『語彙集』の二冊があります。思潮社版は「第百二十六章」まで、サンリオ版は「第百六十二章」と、ことばがウィルスのように(三十六章)増えています。サンリオ版の「後記」で《元々、『語彙集』に中断も終止も無いだろうが、名辞の上でこれを区切ってみたい。あとは僕でなくともまた誰かが始めたり続けたりするだろうし、早急なことではなく、僕自身が続けるかも知れない》とある。『枕草子』も、清少納言のもとから源経房が持ち出したあと、読み手が絶えず加筆した、そんな成立過程のことなどを思い出しました。
 また「断章」の面白いところは、適当なページをひらいて楽しめるところ。また、なんどか偶然にひらいた「断章」のページ同士が衝突し、また違ったものがたりを開いていくところ。ラテンアメリカ文学の旗手コルターサスの『石蹴り遊び』は三部一五五の断章に分断されていて、「第一の書物」は通常通りページの順に読み、「第二の書物」はページの順ではなく指定された章の順序(たとえば73-1-2-116といったように)で読む、といった具合。この小説も抽象的な「数式の美」ではなく、(手垢のついた表現ですが)いわゆる「魔術的リアリズム」。(「断章」形式の作品では、『語彙集』、『枕草子』、『石蹴り遊び』がわたしの中のベスト3です)。
 さて、『語彙集』のサンリオ版(「完本」)が一九七六年、『石の女』が一九七七年の作だから、『風の歌を聴け』の二年前。もっとも村上春樹の場合、知的な戦略というんじゃない。「自作を語る」で《毎日夜遅くまで働いて、夜中にビールを飲みながら台所のテーブルに向かって書いた。毎日少しずつ区切って、「今日はここまで」という感じで書いた。文章とチャプターが断片的なのはそのせいもあると思う》という。これは仕事のあいまをぬって詩作をつづけてきたわたしにもよくわかる。(村上春樹もクッツェーも、その後、「断章」の方向へは向かわず、長編小説で物語を紡ぎ出しています)。
 「断章」を考えるために、もういちど以前「日記」で書いたことを再び引用してみます。《音楽の理論が惑星の運行によって構成された、といったことを書きました。緻密に計算された大伽藍のような構築物――と、日記のように先のわからない偶然に左右される歩行のような作品。現在、宇宙がビックバンによって発生し、膨張する、といった常識をもつ現代人にとって見事に完結した作品に対してリアリティーをもちにくい。不動の星を目印に航海する時代ではなくなった》。
 詩以外のジャンル――演劇にも、絵画にも共通する時代の「空気」なんじゃないかと思います。でも、もちろん「断章」に対する「物語」というふうに考える必要はありません。いつの時代でも、どんな場所でも「物語」は生まれてくる。「日記」という日々のうつろいを描く形式でさえ、「私」を主人公にして知らず知らずのうちに「物語化」してしまいます。引力のように物語にひっぱられてしまいます。だからポストモダンのように「物語」に抗う必要はありません。わたし自身いまでもモーツァルトは好きでよく聴きますが、最近もうシェーンベルクは聴かなくなってきました。


私の好きな詩人 第137回 -平川綾真智- 黒崎立体

2014-12-09 18:03:33 | 詩客

 たくさんの詩人がいます。なぜ詩を書くのか、詩人の数だけ答えがあります。異なる価値観に出会って戸惑うことも多くあります。詩を書いていくのなら、ひとつでいいから信じられるものを見つけて抱きしめていた方がいいのです。

 私はそのようにして平川綾真智さんの詩を読んできました。

 好きな詩人を紹介するのなら、とにかくその詩を読んでもらうことが一番です。ゆえにこのエッセイではインターネットで読める詩について書くことにしました。PDF詩誌『骨おりダンスっ』第7号に掲載されている「葦北みっさ」という詩を紹介します。

 *

 葦北みっさ   平川綾真智

眉をしかめた溝にむらがる昨日は過熱し燃え尽きる
低くなる陽は電柱に座り帽子の余る目庇を焼いた
鼻の下が煎ってもらってから来る
お豆の、とっても中挽きな
黒いに近いへ燃されると、すぐ
二つのしこりを塊を奇妙な形のままに下げる。
道の真ん中を歩いて帰った
未遂の卵と 暮らした日々は、おしまいだ。さあ 
すっかりと 。
パッケージがレジ袋を圧する 指輪といっしょにくい込んでっくる
缶は出してみてタブは開けてみて虎縞ガードレールにめがけ
これまでの唾は吐くんだ、ぜんぶラックス
・コーヒーをすすってみれば 、
おくちににがい
にがくない


背すじが小規模に笑うんだ。かかった時間は大人の身体で
整う仕方のないことだ
電線が耳の穴を掘ってくる 、いちじくの葉っぱを貼る場所が
、ある
沸かしすぎは味が落ちるよ火を止めて
移そう適温に下げよう。
低くわだかまる茂みの茎根が触手が虎の白色を残さず隠せば
みっさなんだ、すぐ
瓶牛乳をだ巻き込み、ロゴでっだ 
まんべんっなく
皆伐の端へと転がしたのだ 

今朝から 。 毛深い夜でしかない 。
くぼむ水溜まりに街景が降ったら舗道タイルを擦過してやる
まったく春宵な豪剛毛だ。
たくしあげた部屋着の裾から
小さな膝小僧がのぞく 逃れた腿に殴打の痕が 、
紫にくすみまだ散っている。核果をひっつけた褐色の肌を
焙煎するのだ脱ぎあいみるのだ
フィルターで抽出していく血まみれの乳幼児を掬いあい
紡いだ名前が口をふさぐ。
銀指輪の漏れる砂糖へ みっさへ、私が混ざる隙間へ
熱する液状化が垂れた
両方のまぶたが目にかぶさった
厚く 、
ひろげてゆっくり間を置く淹れる淡さに照らされる
。恋
は女子のキンタマです 。



きりひらかれた柔らかい斜面が湿気になだれかかる土質をひろげつなぐ足裏に
吸いついてくる脂指の股へ舌を入れてくる 。
割れた一本道は長い
古砕アスファルトの合間に下生えが抱えた有機肥料の屑が臭くて
スチール缶は 濡れそぼる。夜は卓越する香気を、
肯定し合って、みっさと二人だ 。
絶滅するだけの個人という種が胸元をくつろげて祝福になる
黄ばむ滑らかな歯並びをたどって達して肌に育み続けて 、
去って行った 、悲しい息づかいを
いちもつ が救いあげていく 。正座した陽光は電信柱の頭から
、落ちてもつれて
臓物を吐き群生に合板に蔓に血流を塗る。内側の
吐瀉物を尾根までつないで谷あいの向こうに夕沁みをつくる。
ひどく懐かしくてたどり着けなく
みっさの旬の一瞬の
いとなみはなすすべもなく吸い飲み続け、やがて我にかえるんだろうね 。
醜悪な、えっちの片隅に人生を置く
ためらいだらけの身体にしがまれ、その時みっさは遂にっようやく、
一緒に居ちゃった その事実、が
。最大の自傷だったと気付く
樹木の感覚が広くなり、去年からの殻下生えが苔に滑り 振り回したコンビニ袋の
こよりが、ゆで卵の殻を剥く 。窓から
性器を出した、みっさは渋皮を裂き琥珀色に煮えこぼれているよ
着いたら つば帽子の身体滓から白牛乳を
噴射するんだ 。果芯のぬたくり返しに蹴り上げられて叫んで腫らすよ っ
ぶら下がる交じる溶けている渇きは出来あがりなんだ 。
混じり合うだろう、肉液カフェ・オ
・レ・コンバーナ が 、
あの部屋にせまい
せまくない

 *

 「煎られたコーヒー豆」と「身体的に傷つけられた人」を重ねている、と読みました。コーヒーを飲むためには豆を焙煎する(傷つける)必要がある、それと同様に私が「みっさ」を知るためには「みっさ」が傷つく必要があった、のかもしれない。
 ここで注目したいのは、傷ついた人の姿からコーヒー豆の焙煎を連想するというある種の「冷たさ」です。自分の目の前にいる人間をおそろしくしずかに見つめている。
 このしずかな、怖いくらいのまなざしが平川氏の特質のひとつです。

   眉をしかめた溝にむらがる昨日は過熱し燃え尽きる
   低くなる陽は電柱に座り帽子の余る目庇を焼いた

   いちもつ が救いあげていく 。正座した陽光は電信柱の頭から
   、落ちてもつれて
   臓物を吐き群生に合板に蔓に血流を塗る。内側の
   吐瀉物を尾根までつないで谷あいの向こうに夕沁みをつくる。
 
 暴力的に展開していく風景描写は不穏の反映でしょうか。この擬人的な風景描写も、平川氏の特質のひとつです。

   性器を出した、みっさは渋皮を裂き琥珀色に煮えこぼれているよ
   着いたら つば帽子の身体滓から白牛乳を
   噴射するんだ 。果芯のぬたくり返しに蹴り上げられて叫んで腫らすよ っ
   ぶら下がる交じる溶けている渇きは出来あがりなんだ 。
   混じり合うだろう、肉液カフェ・オ
   ・レ・コンバーナ が 、
   あの部屋にせまい
   せまくない

 性行為とカフェオレを重ね合わせ、さらに「肉液」という語を選択するような「過剰さ」、これも平川氏の魅力のひとつでしょう。
 また、いわゆる「パンチライン」も多いのです。「葦北みっさ」にも、一度読んだら忘れられなくなる二行が存在します。
 
   。恋
   は女子のキンタマです 。
 
 つまりこの「葦北みっさ」という詩には、平川氏の良さが多くつまっているのです。みなさまぜひ、ゆっくり読んでみてくださいね。

 今回、第一詩集から近作まで読み返してみてあらためて、平川綾真智さんはとても声の強い詩人だと思いました。おそらくは、自分をあざむかずに書いているからそのような声を持ち続けていられるのでしょう。
 その声は、私には聞こえるけれどあなたに聞こえるかどうかは分からない、
 整然と語りつくせない何かがあるから詩なのだろう、と今は考えています。

 あやまちさんの詩から聞こえる声が私は大好きです。


『骨おりダンスっ』第7号